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「 正 保 国 絵 図 」 に 見 る 近 世 初 期 の 引 田 ・ 高 松 ・ 丸 亀

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(1)

三三

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀    はじめに   国立公文書館に、正保年間、江戸幕府の命により大名が提出した国絵 図、 い わ ゆ る 正 保 国 絵 図 の 讃 岐 国 分 の 写 本 が 所 蔵 さ れ て い る こ と に は、 以前から気が付いていたが、なにぶん巨大な絵図であり、その全貌を掴 むことは困難であった

。今回、その写真版

を利用することができるよ うになったので、開発と治水の観点から検討を行うこととした。正保国 絵 図 の 調 進 が 全 国 の 大 名 に 命 じ ら れ た の は、 正 保 元 年 (一 六 四 四 ) の こ と で、 同 末 年 か ら 慶 安 初 年 (一 六 四 八 ) に か け て 国 絵 図 の 収 納 は 完 了 し た と さ れ て い る。 ち な み に 讃 岐 国 の 担 当 大 名 は、 松 平 讃 岐 守 頼 重 で あ る

  こ の 時 期 の 讃 岐 国 は、 寛 永 一 七 年 (一 六 四 〇 ) に 生 駒 高 俊 が 封 地 の 讃 岐 国 一 国 を 収 公 さ れ、 翌 一 八 年 に 西 讃 岐 五 万 石 の 領 主 と し て 山 崎 家 治 が、翌一九年に松平頼重が讃岐高松一二万石の領主として移封を命じら れてから、 ほ どないころである。入部の翌年、家治は、丸亀城を居城と 認 め ら れ 廃 城 と な っ て い た 丸 亀 城 の 修 築 を 始 め る。 一 方、 別 稿

で 明 ら かにしたとおり、頼重による領内の開発がさかんとなるのは、さらに遅 れ て 万 治・ 寛 文 年 間 (一 六 五 八 ― 七 三 ) の こ と で あ る。 正 保 国 絵 図 か ら 読み取れる情報は、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国にお いての開発の最終的な姿を示しているはずである。   こ れ ま で、 筆 者 は、 別 稿 な ど で、 慶 長 年 間 (一 五 九 六 ― 一 六 一 五 ) の 末 年 こ ろ に 原 図 が 作 成 さ れ た と み ら れ る 高 松 市 歴 史 資 料 館 所 蔵 の 「讃 岐 国 絵 図 」(以 下、 「高 松 国 絵 図 」 と 呼 ぶ ) と 寛 永 一 〇 年 に 原 図 が 作 成 さ れ たとみられる丸亀京極家伝来の丸亀市立資料館所蔵の 「讃岐国絵図」 (以 下、 「丸亀国絵図」 と呼ぶ) を用いて、生駒期においての開発と治水の展 開を考察してきた。今回、その最終的な姿を正保国絵図を検討すること により明らかにしたい。そのため、讃岐国内でも、もっとも開発が進め られたと想定される生駒家が築いた三城の地、引田・高松・丸亀を検討 の対象とする。

    (注) ( 1 )国絵図研究会編 『国絵図の世界』 平成一七年   柏書房刊巻末の 「国絵図所在一 覧 」 に よ る と、 京 都 府 立 総 合 資 料 館 に 所 蔵 さ れ て い る 写 本 の 寸 法 は、

415.5cm

×

284.0cm

と巨大なものである。 ( 2 )近世絵図地図資料研究会編 『近世絵図地図資料集成・第 Ⅰ 期(第一六巻) 正保 国 絵 図 集 成・ 西 日 本 篇 』 平 成 二 四 年   科 学 書 院。 解 説 は 科 学 書 院 の ホ ー ム ペ ー ジで閲覧できる。 ( 3 ) 川 村 博 忠 著 『江 戸 幕 府 撰 国 絵 図 の 研 究 』 昭 和 五 九 年   古 今 書 院   第 二 編   江 「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀

田   中   健   二   

(2)

三四

戸幕府撰国絵図の系統的研究   第三章   正保国絵図 ( 4 ) 田 中 「生 駒 時 代・ 高 松 城 下 周 辺 の 地 形 に つ い て 」『香 川 県 立 文 書 館 紀 要 』 第 一二号   平成二〇年。以下、別稿とは本論文を指す。

一、本稿で用いる写図について

  本 稿 で 使 用 す る 正 保 国 絵 図 は、 国 立 公 文 書 館 が 所 蔵 す る 写 本 の 一 つ、 松平乗

のり

とし

旧蔵の 「讃岐国図」 (以下、 「正保国絵図」 と呼ぶ) である。松平 乗命は美濃岩村藩主で維新後は岩村藩知事となった人物である。乗命の 旧蔵図は明治初年、明治政府の要請に応えて、彼が同藩主代々に伝わっ た 絵 図 集 を 政 府 に 献 じ た も の だ と い う

。 正 保 国 絵 図 で は 規 格 の 統 一 と と も に 図 式 の 統 一 化 が 顕 著 で あ る こ と が 川 村 博 忠

に よ り 指 摘 さ れ て い る。具体的には、①村形 (小判型) 、②郡区分 (村形の色分けと黒筋郡界 線) 、③郡付 (枠なし) 、④一里山 (黒丸点対置) 、⑤道筋 (朱線) 、⑥舟路 (朱 線 )、 ⑦ 隣 国 色 別 (色 塗 り 分 け ) で あ る。 幕 府 に よ る 詳 細 な 絵 図 基 準 の 示 達 と 下 絵 図 内 見 の 結 果 で あ る。 「正 保 国 絵 図 」 の 場 合、 写 本 で あ り、 また道や海路をのぞき着色されていないため、描線と文字だけの情報が 記されている。その状況を次に掲げる 【図 1 】で示す。

  下 に 掲 げ た 写 図 は、 山 田 郡 の 一 部 で あ る。 前 出 の 「正 保 国 絵 図 」 の 写 真版から作成している。右に掲げた図式について本図の描写を確認する と、①は村・郷の名が小判型の中に記入されている。左横が空いている のは、書写に際し原図にあったはずの村高が省略されているためであろ う。 ② の 郡 界 は 図 の 右 側 に 見 え る 太 い 線 で 示 さ れ て い る。 村 形 の 色 分 け は な さ れ て い な い。 ③ 郡 付 は 図 の 上 方 に 見 え る 枠 線 の 中 に 郡 名 と 郡 高 が 記 さ れ て い る。 本 図 で は 切 れ て い る が、 こ の 上 方 に 「山 田 郡   高 壱 万 八 千 弐 百 三 十 九 石 八 升 」 と 記 さ れ て い る。 ④ の 一 里 山 は、 図 中 に 二 か 所見えている。道を挟んで対置していることがわかる。⑤道筋は朱線で ある。⑥の舟路は本図には見えないが、同じく朱線で引かれている。⑦ については色分けされていない。   幕府からの指示

の中に、 「川之名」 、「船渡、歩

かち

渡、わたりのひろさ」 、 「名有山坂」 を絵図の中に記入するようにとある。 【図 1 】 に見るように、 河川名については、 「田井川   横七間   深六寸   洪水の時はば四 ・ 五間   渡 な し 」、 「三 谷 川   川 幅 四 間   深 四 寸 」 と の よ う に、 川 幅 (河 川 敷 の 幅 か ) と 深 さ が 示 さ れ、 洪 水 時 の 状 況 が 記 さ れ る こ と も あ る。 「名 有 山 坂 」 に つ い て は、 図 に 見 え る よ う に、 「古 城 山 」 の 記 載 が 多 い。 名 所 の 屋 島 附 近 の 場 合、 「内 裏 」 や 「次 信 石 塔 」 な ど の 旧 跡 も 記 さ れ て い る。 幕 府 か ら の 指 示 に は な い が、 た め 池 の 記 載 が 注 目 さ れ る。 図 に は、 た と え ば、 「陣 内 池   水 深 六 間   水 よ り 上 弐 間   竪 六 百 六 十 間   横 三 百 間 」 と 見 え て い る。 な お、 別 途、 海 辺 に 関 わ り 詳 細 な 指 示

が な さ れ て お り、 そ ち らには、湊についての注記、例えば、船懸かりの状況や、他所・他国へ

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図

【図1】 「正保国絵図」の描写

(3)

三五

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図

付図1 引田と周辺地域

(4)

三六

(5)

三七

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 国立公文書館所蔵 「讃岐国図」 (部分) 写図 付図2 高松城の周辺地域

(6)

三八

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図

付図3 丸亀城の周辺地域

(7)

三九

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 の 航 路、 ま た、 航 路 の 浅 瀬 な ど を 記 す よ う に 命 じ て い る。 【図 1 】 で は 示すことができないので、付図で確認されたい。   写 図 は、 「正 保 国 絵 図 」 の 写 真 版 を 用 い て 作 成 し た が、 一 部 の 図 は、 以前に撮影した写真そのものをもとにしている。描線は、折り目の関係 でゆがんだり切れたりしている場合も、そのまま写している。文字につ いては、挿図においては、そのまま写し、付図においては解読してワー プロ打ちにした。

    (注) ( 1 )福井保 「内閣文庫所蔵の国絵図について (続) 」『国立公文書館報』 一〇号   昭 和二三年。同著 『内閣文庫書誌の研究』 (日本書誌学大系十二) 青裳堂書店   昭 和五五年に収録。 ( 2 )川村前掲書 ( 3 )川村前掲書   一二一頁~一二三頁 ( 4 )川村前掲書   一二四頁

二、引田・小海川の付け替え

  「正

保 国 絵 図 」 の 引 田 城 跡 の 周 辺 部 を 【図 2 】 で 示 し た。 図 の 中 央 左 手 に「古城山」 と記入されている山が引田城跡である。

  【図

3 】 は、 「天保国絵図   讃岐国」

より、 【図 2 】 と ほ ぼ同じ範囲を示 したものである。

  天保国絵図は、幕府の命により製作された最後の国絵図であり、完成 は 天 保 九 年 (一 八 三 八 ) の こ と で あ る。 両 者 に 見 ら れ る 描 写 を 比 較 し た とき、大きく異なっているのは、右上から流下している小

川の川筋で あ る。 【図 2 】 で は、 小 海 川 は、 引 田 濱 の 西 部 を 経 て、 古 城 山 の 西 麓 を 通 り、 安

あど

戸 池 の 西 側 で 海 へ 注 い で い る。 一 方、 【図 3 】 で は、 小 海 川 は、 引田村の西部を経て、古城山に当たる山の東麓を流れていて、安戸池側 に は 流 れ て い な い。 こ の 流 路 は 現 在 の 河 道 の と お り で あ る。 ま た、 【図 2 】の河道に当たる箇所には 「塩濱」 (塩田) と記されている。 「正保国絵 図 」 の 作 成 後 に 小 海 川 の 河 道 は 変 更 さ れ て い る こ と が わ か る。 つ ま り、 江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたわけである。   【図

4 】 は、 「丸亀国絵図」 と 「高松国絵図」 とから、 【図 2 】 と ほ ぼ同じ 範囲を示したものである。

  両者の描写に共通するのは、引田城に当たる城山と誉田八幡が鎮座す る 宮 山 と の 間 が 海 と し て 描 か れ て い る 点 で あ る。 「丸 亀 国 絵 図 」 で は 明 瞭でないが、 「高松国絵図」 では、小海川の河道は宮山の西側を通り 「安 穏 池 」(安 戸 池 ) は そ の 一 部 と し て 描 か れ て い る。 つ ま り、 小 海 川 の 河 口は安戸池側にあったことを示している。

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図

【図2】小海川の流路Ⅰ

(8)

四〇

  【図

5 】は、木下晴一が作成した 「引田の 『地理的環境説明図』 」

である。

  【図

2 】 か ら 知 ら れ る 小 海 川 の 河 道 を 本 図 で 確 認 す れ ば、 内 陸 部 の 条 里型地割と山地との間を北へ流れる小海川は潟湖跡地で蛇行し、海岸部 の砂嘴・浜堤に沿って西方へ流れを変え、誉田八幡の南部を経て、城山 西 麓 で 海 へ 注 い で い た こ と が わ か る。 ま た、 【図 3 】 に 見 え て い た 塩 浜 は、城山西麓のかつての干潟に当たることも知られる。

  【図

4 】 の 両 図 で は、 城 山 と 宮 山 と の 間 は 海 で 隔 た れ て い た。 【図 5 】 に見るように、城山と誉田八幡との間も潟であって、満潮時には海水が 流 入 し て い た の で あ ろ う。 こ の 場 所 は、 【図 2 】 で は 陸 続 き と し て 描 か れており、 「正保国絵図」 の作成当時までに埋積されたとみてよい。

  それでは、小海川の付け替えの目的はどこに求められようか。それに

国立公文書館所蔵「天保国絵図 讃岐国」(部分)

【図3】小海川の流路Ⅱ

丸亀市立資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分) 高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分)

注 丸山を補入

【図4】小海川の流路Ⅲ

(9)

四一

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀

木下晴一「引田城下町の歴史地理学的検討」付図 注 城山を補入

【図5】引田の「地理的環境説明図」

(10)

四二

ついては、木下の研究に明らかである。要点をまとめれば、次のようで ある。

  小海川の現在の河道は、古川に向かって相対的に低くなる方向には流 れず、最も高いところを流れている。これは河道を人為的に固定してい ることを示す。北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から 延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭隘になる地点を抜け、砂嘴を開削 して瀬戸内海に注いでいる。狭隘部より下流の河道左岸側には高さは低 いが幅広の堤防が築かれている。このような小海川の人工流路は、洪水 流を最も効率的に海に排水することを目指したものと解釈される。

  小海川の瀬替えをすることによって、砂嘴上に立地する引田村に対す る 水 害 が 防 止 さ れ た の で あ る。 た だ し、 そ の 時 期 は 「正 保 国 絵 図 」 作 成 後から、天保国絵図の作成までの間としかいえない。さらに研究を深め る必要がある。

    (注)

(1)国立公文書館デジタルアーカイブ(2)木下「引田城下町の歴史地理学的検討」『財団法人香川県埋蔵文化財調査センター研究紀要』Ⅶ  平成一一年

三、木太・春日新開と香東川

(一) 木太・春日新開

  「正保国絵図」

の古・高松湾の沿岸部を 【図 6 】で示した。

  同じく 【図 6 】 に示した 「丸亀国絵図」 の同じ部分と比較すれば、木太 村の海側に夷村、春日村の同じく海側に富岡村があらたに成立している こ と が わ か る。 こ れ は 「高 松 国 絵 図 」 を 見 て も 同 じ こ と が い え る。 夷・ 富岡両村については、生駒期の史料に以下のとおり見えている。

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図 丸亀市立資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分)

【図6】木太・春日新開

(11)

四三

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀   寛永一六年 (一六三九) 二月讃州御国中村切高惣帳

       (生駒道敬所蔵)

     新田    一、高三六拾七石壱斗         富岡蔵入惣所      同    一、高三百五拾九石弐斗弐升七合    夷村蔵入惣所     寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳

       (山本武雄所蔵)

   一、高三百六拾七石壱斗        富岡新田    一、高三百五拾九石弐斗弐升七合    夷村新田     生 駒 高 俊 が い わ ゆ る 生 駒 騒 動 の 処 分 と し て 讃 岐 一 国 を 没 収 さ れ た の は、寛永一七年七月のことであるから、右の記事は、その前年から半年 前にかけてのものである。同一六年以前に、夷・富岡の地において、ま ず 新 田 開 発 が な さ れ、 そ の 後 「正 保 国 絵 図 」 に お い て 村 と し て 記 載 さ れ たのである。

  こ の 地 の 新 田 開 発 に つ い て は、 延 享 二 年 (一 七 四 五 ) に 完 成 し た 高 松 藩 校 講 道 館 教 授 の 菊 池 武 賢 が 著 し た 地 誌 『翁 媼 夜 話 』

の 西 島 八 兵 衛 の 評 伝に次のとおり見えている。

   寛永五年脩シ満濃陂

イケ

ヲ、築三谷陂ヲ、十二年為陣内陂ヲ。十四年築 テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田ト。福岡・木太ノ滑

スベリ

濱、富岡春日村小地 名、是レ也。今並ニ為ル熟田ト。民大ニ頼

カフムル

其利ヲ。到マテ于今ニ称 ス之。

  なお、同書の松浦正一所蔵本

には続けて次のとおり見える。

   謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。

   半

(頭注)

以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。

  生駒家の重臣西嶋八兵衛は、寛永五年の満濃池の修築、山田郡三谷池 の 築 造、 同 一 二 年 の 同 郡 陣 内 池 の 築 造 に 続 い て、 同 一 四 年 に は、 の ち に 「木 太・ 春 日 新 開 」 と 呼 ば れ た 福 岡 村 か ら 木 太 村 を 経 て 春 日 村 富 岡 に いたる間の新田開発を行った。その範囲については、明治一五年完成の 「英公外記」

の寛文七年 (一六六七) 条に次のとおり見えている。

   此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春 日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築 し所なり。

  松平頼重の高松入部後の寛文七年、木太・春日新開のさらに海寄りの 潟 に つ い て 新 田 開 発 が な さ れ た。 そ の こ と に 関 わ っ て、 「下 往 還 」 よ り 南 手 の 新 開 は、 「先 代 」 生 駒 家 の と き、 西 嶋 八 兵 衛 が 開 発 し た と こ ろ で あ る と の 記 事 が 付 さ れ て い る。 こ の 「下 往 還 」 よ り 南 手 の 新 開 と は ど こ を指すのであろうか。

  右 に 見 え る 「下 往 還 」 と は、 下 大 道・ 東 下 道 と も 呼 ば れ た 高 松 藩 五 街 道 の 一 つ 志 度 街 道 の こ と で あ る。 【図 6 】 の 両 図 で 右 下 の 高 松 城 か ら 左 上に伸びている街道は、東上道とも呼ばれた長尾街道と、途中で分岐し て古高松村へ通じる枝道であって、志度街道は描かれていない。下大道 については、慶応三年 (一八六七) 成立の石田忠恒著 「政要録」

に 「讃岐 大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」 という記事が見える。この 「讃 岐 大 日 記 」 の 記 事 に つ い て 松 浦 正 一 が 指 摘 し た よ う に

、 こ の 道 は も と もと干拓に伴って築造された汐止堤防であって、それを改修して慶安元 年 (一 六 四 八 ) に 街 道 と し て 整 備 さ れ た も の で あ る。 従 っ て、 【図 6 】 の 両図に下往還が記されることはありえなかった。

  下 往 還 に 当 た る 東 下 道 の ル ー ト に つ い て、 「天 保 国 絵 図   讃 岐 国 」 よ り一部を掲出した 【図 7 】で確認する。

  図で、高松城近くの東濱村から古高松村にかけて一部屈折するが ほ ぼ 直 線 の 道 が 見 え て い る。 【図 6 】 の 両 方 の 絵 図 に 見 え る 東 上 道 と そ の 枝 道のルートよりさらに海沿いを通る道である。この二ルートの間に西か ら、福岡村、夷村、富岡村が位置している。西嶋八兵衛が寛永一四年に 新田を開発したのはこの地域である。

  【図

6 】 の 「正保国絵図」 と 【図 7 】 を比較すれば、河川の流路が大きく

(12)

四四

異 な っ て い る こ と が わ か る。 こ の 範 囲 に 描 か れ た 河 川 は、 西 か ら 順 に、 香 東 川 の 東 側 の 流 れ (の ち に 御 坊 川 と な る )、 詰 田 川、 春 日 川、 新 川 で ある。とくに 【図 6 】 の 「正保国絵図」 において、春日川と新川が夷・富 岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていることが注目 さ れ る。 こ の 両 河 川 は、 【図 7 】 で は、 別 の 河 川 と し て 離 れ て 描 か れ て い る。 「正 保 国 絵 図 」 が 製 作 さ れ た の ち に、 こ の 地 域 で 大 規 模 な 河 川 改 修が行われたことを想定できる。

  【図

8 】は、高橋

学が作成した

「高松平野地形分類図」

に【図 6 】の 「正 保 国 絵 図 」 に 見 え る 諸 村 を 現 在 の 地 名 を も と に し て 書 き 込 ん だ も の で あ る。   旧河道 Ⅱ の分布に注目すれば、現在の新川・春日川は三角州帯におい て分岐し蛇行していたことがわかる。これらの旧河道の中には現在もそ の 痕 跡 を 明 瞭 に 残 し て い る も の が あ る。 そ の こ と に 関 わ っ て、 『讃 岐 の

国立公文書館所蔵「天保国絵図 讃岐国」(部分)

【図7】高松城下東部の街道

『讃岐国弘福寺領の調査 弘福寺領讃岐国山田郡田図調査報告書』

付図「高松平野地形分類図」より作成       

【図8】木太・春日新開付近の地形

(13)

四五

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 ため池誌』

に次に掲げる重要な指摘がある。

   新 川 は 現 在 で は 高 松 市 春 日 町 の 河 口 で、 春 日 川 か ら 分 岐 し て い る が、新川の ほ ぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免 には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕 跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流さ せたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難 しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替える ことによって洪水を二分し安全に海に導くことができると考え、新 たに新川を開さくしたものと思われる。

  右では、新川と春日川が合流していたこと、洪水防止のために河道を 分離したことが指摘されている。ただし、その時期については言及され ていない。

  前 掲 の 「英 公 外 記 」 寛 文 七 年 (一 六 六 七 ) 条 に 「此 年 松 嶋 す べ り 之 沖 よ り 潟 元 村 之 沖 迄 東 西 之 堤 を 築 き 沖 松 嶋 木 太 春 日 の 潟 新 開 成 る 」 と 見 え る ように、西嶋八兵衛による木太・春日新開ののち、松平頼重期に松嶋か ら滑 (洲端) の沖を経て屋島の潟元にいたる潟の新開が行われた。 【図 7 】 の 下 往 還 よ り 海 側 の 地 域 で あ る。 こ の 新 田 開 発 は 木 太・ 春 日 新 開 か ら、 さらに沖へ向かって突き出すかたちでなされている。別稿で用いた三土 幸太郎著の 『近譬要録』

の西嶋八兵衛の項に次の記事が見える。

   高松盛衰記ニ云フ英

(松平頼重)

公ノ初年ニ矢野部平六ト謂フ人アリ是亦経済家 ニテ開拓鑿溝ノ事ヲ掌ル頻ニ海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ西島氏津 ニ 在 テ 此 事 ヲ 聞 テ 曰 吾 新 田 ノ コ ト ヲ 気 付 カ サ ル ニ 非 サ ル モ 海 面 ニ 向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々淤塞シテ水患ヲ引起 スコト多カラン永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言 ナリ 生駒騒動の前に本来の主家である伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八 兵衛が、頼重期に行われた矢野部 (矢延) 平六

による新田開発の手法に ついて危惧したことを述べた箇所である。それは、海面に向かって広く 新 地 を 築 き 出 す と き は、 川 の 下 流 は 次 第 に 「淤 塞 」(お そ く、 泥 で ふ さ がること) して、水害を引き起こすことが多いという点であった。

  右の弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改 修であったとみられる。 【図 8 】 から見てとれるように、新川・春日川・ 詰 田 川 の 河 道 は、 三 角 州 帯 に お い て 異 様 に 真 直 ぐ で あ る。 こ の 改 修 は、 蛇行していた河道の直線化を図ることで流速を早め、下流においての砂 や泥の堆積を防ぐことを目的としたものであろう。

  別稿で詳しく述べたように、頼重期において新田開発の画期となった 万 治・ 寛 文 年 間 (一 六 五 八 ― 七 三 ) に、 高 松 城 下 西 部 に お い て は 香 東 川 と本津川の分離がなされ、両河川は別の河口を持つことになった。高松 の東西において同じころ同様の手法による新田開発が行われていたので ある。

(二) 香東川の改修

  【図

9 】 は、 「正 保 国 絵 図 」 の 高 松 城 下 南 部 の 写 図 で、 香 東 川 が 分 岐 し ている状況を描いている。

  図では、寺井村と川部郷間で香東川が東西に分岐し、東側の流れにつ いて、 「一ノ宮川   広八間   深六寸   洪水時一町三十間   渡リナシ」 、西 側の流れについて、 「圓座川」 「川幅六間   深五寸   洪水ノ時広廿間   渡 なし」 と注記されている。なお、東側の河道には 「香東川」 との注記も見 えている。

  【図

いる状況を描いた箇所を示したものである。 10 】 は、 「高松国絵図」 と 「丸亀国絵図」 とから、香東川が分岐して

  い ず れ も、 圓 座 (円 座 ) と 一 宮 の 間 で 香 東 川 は 二 股 に 分 か れ て 流 れ て いたことを示している。

  【図

9 】 と 【図

川 は 高 松 城 下 南 部 で 分 岐 し て い た こ と に な る。 こ れ ま で の 研 究 で は、

10 】 を見るかぎり、 「正保国絵図」 の作成当時まで、香東

(14)

四六

香 東 川 は 寛 永 年 間 (一 六 二 四 ― 四 四 )、 生 駒 家 が 讃 岐 一 国 の 領 主 で あ っ たとき、西嶋八兵衛により東側の流れがせき止められ、高松城下西部を 流れるよう川筋は一本化されたとみるのが定説となっている。そのおも な根拠は二点である。

  一つは、寛政三年 (一七九一) 成立の地誌 「大野録」

に見える次の記事 である。

   香渡川は、寛永の頃まて大野の郷の西より二タ沱にわかれて、一筋 は 一 ノ 宮・ 坂 田 郷 を へ て 室 山 の 東 を め ぐ り、 石 清 尾 山 の 下 を 流 て、 い と が は ま の 西 に 入 け り。 又 一 筋 は 弦 打 山 の 西 に そ ふ て 今 の ご と し。 当 (大 野 ) 村 の 中 州 と い へ る は、 則 両 河 の 間 な り。 寛 永 中、 自 然の河瀬深くなりて、東は浅くなりけれは、国主生駒公より堤を築 て、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河筋新開と号す。

  香東川は、寛永年間まで大野郷の西より二股に分かれていたが、浅く

高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分) 丸亀市立資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分)

【図10】香東川の分岐Ⅱ

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図

【図9】香東川の分岐Ⅰ

(15)

四七

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 なっていた東側の川筋を生駒家が堤防を築いて畑に開き、 「古河筋新開」 と称したというものである。   い ま 一 つ は、 右 に 見 え る 大 野 村 の 中 州 附 近 か ら 出 土 し た 「大

たいうぼ

禹 謨 」 と 刻まれた石碑である。これは自然石に刻まれたもので、現在、栗林公園 の商工奨励館の内庭に保存されている。中国古代の王である禹を祭るの は、川を治めることに成功した故事にちなんで洪水の危険を防ぐためで ある。その出土と再発見の時期や場所、経緯については、藤田勝重著の 『西 嶋 八 兵 衛 と 栗 林 公 園 』

に 詳 し い。 藤 田 は、 昭 和 三 七 年、 八 兵 衛 の 墓 所のある三重県上野市を訪ね、同市立図書館に寄託された八兵衛の自筆 文書を多数閲覧するとともに、当時、三重県文化財専門委員を勤めてい た村治円次郎と面会し、大禹謨の刻文は八兵衛の真筆であるとの教示を 得ている。   高松城下町南方で東西に分岐していた香東川は、寛永年間に西嶋八兵 衛により川筋の一本化が行われ、現在の河道に固定されたのである。   【図

東川がかつて分岐していた箇所を示したものである。 11 】 は、 大 禹 謨 の 写 真 と、 前 出 の 「高 松 平 野 地 形 分 類 図 」 よ り、 香

  図から知られるように、香東川の旧河道のうち、時期の新しい旧河道 Ⅱ は東側に集中している。 【図 9 】 の東側の河道の川幅について 「洪水時 一 町 三 十 間 」 と 記 し て い る の は、 洪 水 時 に 旧 河 道 に 水 が あ ふ れ る こ と を 示 し て い よ う。 大 禹 謨 の 最 初 の 出 土 地 は、 大 野・ 川 部 間 の 中 州 で あ り、 この附近に自然堤防を利用して南北方向の堤防を築き、東側の流れをせ き止めたと推定できる。なお、せき止め後、東側の分流は御坊川として 独立した。

  前項で指摘したように、木太・春日新開の完成は寛永一四年とされて いる。香東川の東側の分流は 【図 6 】 の 「正保国絵図」 に見るように、干 拓 地 の 東 側 で 瀬 戸 内 海 に 注 い で い る。 下 流 に は 「川 幅 十 三 間   深 一 尺   洪 水 之 時 広 四 十 八 間   深 一 尺 五 寸   渡 な し 」 と 注 記 さ れ て い る。 お そ ら く、 旧 河 道 の 農 地 化 だ け で は な く、 洪 水 時 に 河 口 部 分 の 水 量 を 押 さ え て、干拓地の保全を図るためにも、香東川の流路を西側の一本に固定す る必要があったのであろう。八兵衛が、讃岐を去るのは同一六年のこと で あ り、 そ れ ま で の 間 に 香 東 川 の 改 修 が お こ な わ れ た と 推 定 す る

。 こ の 点 に つ い て は、 さ ら に 研 究 を 深 め る 必 要 が あ る が、 「正 保 国 絵 図 」 が、 香東川の一本化以前の情報を記していることは否定できない。

『讃岐国弘福寺領の調査 弘福寺領讃岐国山田郡田図調査報告書』

付図「高松平野地形分類図」より作成        注 川部・大野間の◎は、大禹謨の出土地

【図11】香東川の分岐Ⅲ

(16)

四八

    (注)

(1)香川県立文書館所蔵写真帳(2)『香川叢書』第二  香川県  昭和一六年(3)高松松平家歴史資料。香川県立文書館所蔵写真帳(4)香川県立文書館所蔵写真帳(5)高松松平家歴史資料。香川県立文書館所蔵写真帳(6)香川県立文書館所蔵写真帳(7)『高松藩祖松平頼重伝』松平公益会  昭和三九年  平成一四年改訂(8)『讃岐国弘福寺領の調査  弘福寺領讃岐国山田郡田図調査報告書』高松市教育委員会  平成四年(9)第二章第一節  古代讃岐の開拓と治水利用  香川県農林水産部土地改良課 平成一二年(

( 10   )聴泉窟蔵版明治二七年香川県立図書館デジタルライブラリー

( 平成二八年、に詳しい。    著『消暑漫筆』について」『香川大学教育学部研究報告』第Ⅰ部第一四五号 11)矢延平六については、田中・御厨義道「小神野与兵衛著『盛衰記』と中村十竹

(   二六号平成一八年、に詳しい。 木下晴一「江戸時代初めの香東川治水工事(一)―『大禹謨』碑を中心に―」同   (分流)に関する二、三の考察」『香川地理学会会報』二四平成一六年、および 12)城下南方においての香東川の分岐については、出石一雄「香東川の旧分岐

( 13   )『香川叢書』第三香川県昭和一八年

( 14   )昭和三七年刊平成二七年九月美巧社より復刻版が刊行されている。

ない。 とくに香東川の流路を付け替えたとの記事が見えるが、その根拠は示されてい 15  )『高松市史』高松市昭和八年には、寛永一四年に木太・春日新開を開き、

       一、高四百六石八斗九升壱合 圓亀浦 とおり見えている。 御 領 分 讃 州 郡 村 村 並 惣 高 帳 (山 本 武 雄 所 蔵 ) に は 那 珂 郡 の 内 と し て 次 の   廃城後の丸亀の地について、前出の寛永一七年二月一五日生駒高俊公 として描かれており、城割がなされたとみられる。 は 城 地 に 「圓 亀 古 城 」 と 注 記 さ れ、 「丸 亀 国 絵 図 」 に は、 樹 木 の 茂 る 小 山 伴 い、 廃 城 と な っ た。 そ の 後 に 作 成 さ れ た と み ら れ る 「高 松 国 絵 図 」 に 正の没後、嫡子正俊が家督を継ぎ高松城を領国支配の拠点としたことに   生 駒 家 に よ り 築 城 さ れ た 丸 亀 城 は、 慶 長 一 五 年 (一 六 一 〇 )、 初 代 一 四、丸亀・金倉川の付け替え

      内拾八石古作         見性寺領

       四拾七石三斗五升七合    新田悪所 また、翌一八年一〇月二〇日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物 成 帳 (香 川 県 立 瀬 戸 内 海 歴 史 民 俗 資 料 館 所 蔵   岩 田 家 文 書 )

に は、 仲 郡 の内として次のとおり見えている。

   一、銀子弐百拾五匁         円亀村

       但横町此銀ニ而諸役免許

   一、米三石         円亀村

       但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許

  右 二 点 の 史 料 か ら 知 ら れ る よ う に、 廃 城 後 の 旧 丸 亀 城 下 町 は 「浦 」 や 「村 」 と し て 位 置 づ け ら れ た が、 そ こ に は 築 城 後 に 成 立 し た 横 町 や 南 条 町、上ノ町などの町場が残っていた。

  生駒家の改易後、寛永一八年九月、西讃岐五万石の領主となった山崎 家治は、翌一九年七月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府 に 認 め ら れ、 丸 亀 城 の 再 築 と 城 下 町 作 り に 着 手 し た。 山 崎 家 は 三 代 で 絶えたが、初代家治のとき、正保二年 (一六四五) に幕府の命を受けて、 丸 亀 城 の 紙 図・ 木 図 と 領 分 の 絵 図 を 提 出 し て い る

。 こ の 紙 図 は、 幕 府

(17)

四九

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 の紅葉山文庫に収蔵されていたが、現在は国立公文書館に正保城絵図の 一つ 「讃岐国丸亀絵図」 として所蔵されている

。本図については、国立 公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できる。   「正

保 国 絵 図 」 と 同 じ 時 期 に 製 作 さ れ た 「讃 岐 国 丸 亀 絵 図 」 を 用 い る こ とで、再建された丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかに したい。

  【図

たものである。 12 】 は、 「正保国絵図」 と 「高松国絵図」 とから ほ ぼ同じ地域を示し

  「高松国絵図」

に 「圓亀古城」 と見えるのにも関わらず、海側に 「町」 と 記されている。これが、廃城後も存続した、かつての城下町の一部であ ろ う。 両 図 を 比 較 し た と き、 最 初 に 注 目 さ れ る の は、 丸 亀 城 の 北 側 (海 側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれていることである。さらに注目すべき こ と は、 丸 亀 城 西 部 を 流 れ る 金 倉 川 の 流 路 で あ る。 「高 松 国 絵 図 」 で は、 金 倉 川 は 二 本 の 砂 堆 の 間 に 河 口 を 持 っ て い る が、 「正 保 国 絵 図 」 で は、 砂堆から西へ遠ざかって、直線的に瀬戸内海へ注いでいる。この両図が 作成される間に金倉川の河道は付け替えられたと推定される。

  【図

を示したものである。 13 】 は、 土 地 条 件 図 を 用 い て 丸 亀 城 周 辺 地 域 の 砂 堆 と 河 道 の 状 況

  丸亀城の北部、かつての海岸線に沿って東西方向に延びる二本の砂堆 が発達している。さらに西北部にも二本の砂堆が存在する。これらの砂 堆 の う ち、 【図

るのは 【図 12 】 に 見 え る も の は ど れ で あ ろ う か。 そ の と き 参 考 と な

部分を抜き出したものである。 14 】である。これは前出の 「讃岐国丸亀絵図」 から海辺に近い

  こ の 絵 図 と 「正 保 国 絵 図 」 と は、 ほ ぼ 同 時 期 に 製 作 さ れ た も の で あ る から、その内容は一致しているはずである。図には、東側に土器川が描 かれ、そこから東側の外堀につながる東汐入川、遠浅の浜辺、西側の外 堀につながる西汐入川からの水路が描かれている。東西の汐入川の河口 に は 「舟 入 」 と 記 さ れ、 船 が 遡 行 し て い た こ と が わ か る。 西 汐 入 川 の 河

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)写図 高松市歴史資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分)

【図12】金倉川の流路Ⅰ

(18)

五〇

「2万5千分1土地条件図 丸亀」より作成

【図13】丸亀城周辺地域の砂堆と河道

国立公文書館所蔵「讃岐国図」(部分)

注 ■は古町を示す。( )は補注。

【図14】丸亀城下町の海辺部

(19)

五一

「正保国絵図」 に見る近世初期の引田・高松・丸亀 口の海側には砂堆があり、先端に船番所が置かれている。船番所は東汐 入川の河口近くにも描かれている。このような描写を 【図 いていることがわかる。船番所の位置は同じである。 絵 図 」 と 比 較 す れ ば、 両 図 と も、 丸 亀 城 の 北 側 に 位 置 す る 砂 堆 二 本 を 描 12 】の 「正保国   【図 る。 入 川 の そ れ ぞ れ の 河 口 部 分 に 港 が あ り、 船 番 所 が 置 か れ て い た の で あ の製作当時、丸亀城下は土器川と河口を共有する東汐入川と西側の西汐 下である。この絵図が 「丸亀絵図」 とされるゆえんである。 「正保国絵図」 口に挟まれた地域を描いていることがわかる。おおよそこの間が丸亀城 14 】 は、 東 西 方 向 に お い て、 東 汐 入 川 と 西 汐 入 川 の そ れ ぞ れ の 河

  同 じ 図 で、 黒 く 塗 り つ ぶ し て い る 街 区 に は、 「古 町 」 と 記 さ れ て い る。 古町に当たる町名

を掲げると次のとおりである。

   上南条町   下南条町   塩飽町   横町 (現在の本町)   船頭町 (現在の 西本町)   西平山町   北平山町   御供所町   これらの古町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町である。とく に、西平山・北平山・御供所の三町は、丸亀城築城の際に聖通寺山麓の 三浦から漁夫を呼び寄せ、丸亀城の海辺に移住させて成立したものであ る。 「高 松 国 絵 図 」 に 見 え て い た 「町 」 は こ の 古 町 で あ ろ う。 廃 城 後 も 存 続していた町である。

  東西の汐入川は、いずれも港として用いられていること、外堀につな がっていることから、丸亀城ないし城下町の整備に伴い、建設された水 路 で あ る と み ら れ る。 と く に 西 汐 入 川 に つ い て は、 【図

の砂堆の間から海へ注いでいる。つまり、その流路は砂堆によって規制 へ流れるが、それもまた北方の砂堆に妨げられて東へ方向を変え、二本 の砂堆に沿って東へ流れた西汐入川は、砂堆の切れ目を抜けて海岸近く 流路を記している。図の左下の中津・今津間の三角州帯で丸亀城西北方 の 付 け 替 え が 行 わ れ て お り、 現 在 と 流 路 が 異 な る の で、 図 に は 以 前 の

特徴を見出すことができる。西汐入川は、明治四三年に河口に近い部分 13 】 か ら、 あ る   右に述べた西汐入川の流路を 【図 されているのである。

の 川 は 【図 つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。こ は 金 倉 川 と は つ な が っ て い な い。 こ こ に は 西 汐 入 川 が 流 れ 込 ん で い た。 金倉間から真直ぐに海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江 た。 と こ ろ が 「正 保 国 絵 図 」 で は、 金 倉 川 は 砂 堆 の 間 を 通 ら ず 今 津・ 下 と の 間 を 流 れ る 金 倉 川 は 丸 亀 城 北 方 の 二 本 の 砂 堆 の 間 で 海 へ 注 い で い のそれと比べると一致することがわかる。図の右下に見える中津と今津 12 】 の 「高松国絵図」 に見える金倉川 背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。 13 】 か ら 知 ら れ る よ う に、 中 津 か ら 今 津、 津 森 に か け て の 後   金倉川の付け替えが行われたのは、いつであろうか。そこで、決め手 となるのが、 【図

15 】から得られる情報である。

  図 の 中 央 下 よ り に 描 か れ て い る 小 山 の 海 側 に 見 え る 小 判 型 の 中 に 「円 亀 」 と 記 さ れ て い る。 小 山 に は 樹 木 が 茂 っ て い る 様 子 が 描 か れ て い る。 丸 亀 城 跡 で あ る。 「丸 亀 」 の 左 脇 に 「三 浦 」 が 同 じ 小 判 型 の 中 に 記 さ れ て いる。寛永一七 ・ 八年ごろ、 「丸亀浦」 や「丸亀町」 と呼ばれていた、かつ ての城下町である。前述したように、この地域が、古町である。

  河 川 に つ い て は、 津 郷 の 土 井・ 高 津 両 村 と、 同 じ く 津 郷 の 土 器 村 と の 間 を 流 れ る 土 器 川、 下 金 倉 村 と 柞 原 今 津 村 と の 間 を 流 れ る 金 倉 川 が 描かれている。土器川の流路は、 【図

が同じである。ということは、同じく 【図 注 目 さ れ る の は、 金 倉 川 の 流 路 で あ る。 こ ち ら も 「正 保 国 絵 図 」 と 流 路 12 】の 「正保国絵図」 と変わらない。

【図 れ た の ち、 「正 保 国 絵 図 」 が 製 作 さ れ る ま で の 間、 さ ら に 時 期 を 絞 れ ば、 12 】 の 「高松国絵図」 が製作さ

存続していた。これは重要な要素である。 られたことになる。この間は、丸亀城は廃止されているが、港と古町は 15 】 が 製 作 さ れ た 寛 永 一 〇 年 ま で の 間 に、 土 器 川 の 流 路 は 付 け 替 え

  な ぜ、 丸 亀 城 の 廃 止 後 に 金 倉 川 の 付 け 替 え が な さ れ た の か。 そ れ は、 【図

14 】 か ら 知 ら れ る よ う に、 付 け 替 え 以 前 の 河 口 に 港 が 置 か れ て い た

(20)

五二

か ら で あ る。 前 に 指 摘 し た と お り、 丸 亀 は 「浦 」 で あ っ て、 そ こ は 「町 」 となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その 機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできる よ う 港 湾 の 保 全 を 図 る 必 要 が あ っ た。 金 倉 川 を 遠 方 へ 付 け 替 え る こ と で、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河口へ流入する土砂の 減少をはかったのである。

  右 に 見 た よ う に、 「正 保 国 絵 図 」 の 丸 亀 山 崎 家 領 分 に は、 丸 亀 城 の 再 築城後の状況が反映されている。この点が、高松松平家領分との大きな 違いである。松平家領の場合、寛永年間に完成したとみられる香東川の 流 路 の 一 本 化 が 絵 図 で 示 さ れ て い な い。 さ ら に 精 査 す る 必 要 が あ る が、 今回扱った範囲でいえば、年代のわかる情報の時期的下限は寛永一四年 の 木 太・ 春 日 新 開 の 完 成 で あ る。 「正 保 国 絵 図 」 の 松 平 家 領 に つ い て の 情報は寛永年間の途中までのものではなかろうか。山崎家領分について は、前述したように、正保二年に、丸亀城の絵図・木図とともに領分の 絵 図 が 製 作 さ れ て い る。 そ の 情 報 が、 「正 保 国 絵 図 」 に 反 映 さ れ た と 考 えられる。

    (注)

(1)『新編丸亀市史4史料編』平成六年  丸亀市(2)昭和二八年刊『丸亀市史』の「丸亀市史稿」に故藤田春嶺所蔵の瀬山登の手記「丸亀御城坪割」を抄録したとして、次の記事が掲げられている。

    一、正保二酉ノ年、御城之紙図・木図幷御領分の絵図共、御先主山崎甲斐守より上ル。(3)丸亀市の市街地に見られる砂堆と城下町の町割の関係については、木下晴一「砂堆と集落」『讃岐地図散歩』香川地理学会  平成一四年、を参照されたい。(4)『讃岐丸亀城研究調査報告書  昭和六三年度』丸亀市教育委員会の付図を利用した。(5)『新編丸亀市史2近世編』平成六年  丸亀市  第三章第一節  城下町の形成(6)森下友子「江戸時代から明治時代における海岸線の変遷―丸亀・宇多津・坂出―」『瀬戸内海歴史民俗資料館紀要』第二〇号  平成一九年

   おわりに   以上、 「正保国絵図」 から得られる情報をこれまでに知られている 「高 松 国 絵 図 」・ 「丸 亀 国 絵 図 」 の そ れ と 比 較 検 討 す る こ と に よ り、 生 駒 期 の 讃岐国においての開発と治水の展開について考察した。

  その結果、検討の対象とした引田・高松・丸亀についてあらたな知見 が 得 ら れ た。 引 田 に お い て は、 「正 保 国 絵 図 」 製 作 の 時 点 ま で、 小 海 川

丸亀市立資料館所蔵「讃岐国絵図」(部分)

【図15】金倉川の流路Ⅱ

(21)

五三「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀

の付け替えは行われていなかったこと、高松においては、木太・春日新 開の状況と、新川・春日川の河口の分離を含む両河川の改修は松平頼重 期に行われたこと、丸亀においては、廃城後も金倉川の付け替え、西汐 入川の新設が行われていたこと、などが明らかとなった。   その一方で、あらたな課題も生じた。それは、香東川の分岐にみられ る よ う に、 寛 永 年 間 に 行 わ れ た は ず の 事 業 の 結 果 が 「正 保 国 絵 図 」 に 反 映されていないことである。この点については、さらに研究を深める必 要がある。   本 研 究 は J S P S 科 研 費   2 6 3 7 0 7 9 4   研 究 課 題 名 「近 世 初 期 讃 岐 国 に お け る 城 下 町 建 設 と 開 発・ 治 水 に 関 す る 研 究 」 の 助 成 を 受 け た ものです。

参照

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