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から考えるアダプテーション研究

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文学研究と映画批評

文学作品のアダプテーション映画の批評は文学研究者によるものが多い。こうした批評が忠 実性に終始してしまうのは、映画芸術に関して「無知」であることが大きな要因だと思われる

(Cartmell and Whelehan3)。しかし一体、何に対しての忠実性なのだろうか。ロバート・

スタム(Robert Stam)はこの「忠実性」を、自分が好きな小説のアダプテーション映画を 見たとき小説のレベルにふさわしくないと感じる感情を表していると説明する(Stam 14) ティモシー・コリガン(Timothy Corrigan)によると、映画研究は1970年から80年代にかけ て二つの方向、すなわち映画というメディアの特殊性に焦点を当てる研究と映画理論の特殊性 に焦点を当てる研究があったと言う(Corrigan 40)。コリガンはさらに第三の方向性として アダプテーション研究を挙げている。しかしながら、従来のアダプテーション研究はロバート・

レイ(Robert Ray)が指摘するような問題も抱えていた。

[…]film and literature scholars could only persist in asking about individual modes the same unproductive laymen's question( how does the film compare the book),getting the same unproductive answer(The book is better).Each article seemed isolated from all the others ; its insights apparently stopped at the borders of the specific film or novel selected for analysis.(Ray 44)

レイの主張する問題点とは、従来のアダプテーション研究が映画と文学作品とを比較し、小説 の方がやはり優れているという「非生産的」で「素人」の考察であったこと、さらにそれぞれ の考察が個別の作品のケース・スタディに終始し、蓄積して共有する方法論が確立しえていな いということである。いいかえれば、アダプテーション映画批評には、オリジナルに忠実か どうかという、いわゆる評価批評から脱却できないことが足かせとなっているのである。

今回アダプテーション映画として

The Hours

(邦訳『めぐりあう時間たち』2002)を取り

The Hours から考えるアダプテーション研究

A Study of Adaptation in The Hours

平 林 美都子

HIRABAYASHI Mitoko

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上げてみた。映画研究の対象としては少々手垢のついた感もするが、この映画には文学テクス トから映画テクストへという単なるメディアの移し替えだけでなく、先行するテクストとの関 係、俳優やメイキング・プロセスなど、さまざまな影響関係という「対話」を見て取ることが できる。ロバート・スタムが言うように、アダプテーション映画を「複数の読み」“readings”

だとすれば、通常少なくとも四人の作者(オリジナルの小説の作者、脚本家、監督、作曲家)

が必然的に存在することになる。映画『めぐりあう時間たち』の場合は、この小説の元テクス トの作者であるウルフの存在も加えなければならないだろう。撮影に立ち会った脚本家デイ ヴィッド・ヘア(David Hare)が俳優たちの即興の言い回しやしぐさを見てセリフを書き直 したと語っているように、広義の作者としては俳優も加えられるのだろう。脚本家のスティー ヴン・ダルドリー(Stephen Daldry)は、ニコル・キッドマン(Nicole Kidman)演じるヴァー ジニア・ウルフは実在したウルフのコピーではなく、独自のウルフ、同時代の人に語りかける 現代のウルフになった、と彼女の演技を高く評価している。このように、アダプテーション 映画とは先行するテクスト(群)との対話が潜在的(無意識)・顕在的(意識的)に存在する ダイアロジックなテクストであるだけでなく、作者や俳優が元テクストに納得したりそれに自 分の考えや解釈を加えたりしながら異なったメディアに置き換えていく、まさしくポリフォ ニックな声で織り上げられたテクストなのである。本稿は『めぐり合う時間たち』のアダプテー ションの諸相について考察し、アダプテーションによりテクストがどのように深化し、またサ ブテーマが浮上してくるのかを検証していきたい。

アダプトされた小説『めぐりあう時間たち』

マイケル・カニンガム(Michael Cunningham)の『めぐりあう時間たち』は1998年に出 版され、翌年にはピューリッツア賞やペン・フォークナー賞を受賞して話題となった作品であ る。この小説はイギリスのモダニズム作家ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)と彼女 の代表作『ダロウェイ夫人』

Mrs Dalloway

)が元になっている。1923年英国リッチモンド で『ダロウェイ夫人』を執筆しているヴァージニア・ウルフ、1949年ロサンゼルスで『ダロ ウェイ夫人』を読むローラ・ブラウン(Laura Brown)、20世紀末のニューヨークでミセス・

ダロウェイとあだ名を与えられて名前通りの役割を演じるクラリッサ・ヴォーン(Clarissa Vaughn)の三人が、女として生きることの重圧感を時と場所を越えて共有している。

カニンガムは高校時代、移動図書館で『ダロウェイ夫人』を読み、人生について知るべきこ とすべてが一日に含まれていると感じたと語っている。彼は当初ニューヨークに住む現代版 のダロウェイ夫人を書いていたが、ただの書き換えに過ぎないと感じてやめた。その後まもな くして、ウルフとダロウェイ夫人、そして自分の母が並んでいるイメージが目に浮かんだのが きっかけとなり、平凡な主婦ローラ・ブラウンを加えた三人の女性の三つの物語を書くことに なったのである。カニンガムが『ダロウェイ夫人』の「リフ」だと呼んでいるように、『めぐ りあう時間たち』は確かに元テクストのメロディを反復している。とくに「ミセス・ダロウェ

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イ」の物語においては、『ダロウェイ夫人』の登場人物の多くが置き換えられて元テクストを 反映している(Young 37-38)。しかし『ダロウェイ夫人』のメロディやモチーフは「ミセス・

ダロウェイ」の物語だけに限定しているわけではない。伝記的事実と虚構を綯い交ぜにされた ヴァージニアは、ダロウェイ夫人を自殺させるかどうか悩み続けるし、ウルフの文学論「ミス ター・ベネットとミセス・ブラウン」“Mr. Benett and Mrs. Brown”)を下敷きにしたロー ラは、『ダロウェイ夫人』における生死観に触れて死を思いとどまる(Cunningham 150-51)。

トーリー・ヤング(Tory Young)は「小説『めぐりあう時間たち』を味わうために必ず しも『ダロウェイ夫人』の知識は必要でないというのが大方の意見」(Young 72-73)」だと し、とくにカニンガムの本国である米国では、出版直後、受賞後、そして映画の封切に小説『め ぐりあう時間たち』がベストセラーのリストに挙がったと指摘する(Young 71)。とはいえ、

たとえウルフの読者でなくとも、この小説の断片的にみえる三つの物語の緊密な繋がりに興味 を持つ読者はいわゆる「教養人」だろう。

『ダロウェイ夫人』のような明白な先行テクスト以外にも、この小説ではドレス・レッシン グの短編「十九号室」(Doris Lessing,

To Room Nineteen

)がインターテクストとして使 用されている。母・妻・主婦という女の役割に押し潰されそうなスーザンは場末のホテルの一 室(19号室)を息抜きの場とするが、最後にはその部屋で自殺してしまう。1978年に出版され た「十九号室」は、フェミニズム批評の観点から大学で取り上げられることが多かった作品で ある。『めぐり合う時間たち』のローラが、完璧な母・妻役から逃れようとして案内されたホ テルの部屋は、スーザンと同じく19号室だった(148、149)。ローラがホテルを訪れたのは必 ずしも自殺目的ではなかったが、「19号室」という文字の繰り返しによって自殺が暗示されて いくのである。このようなさまざまなインターテクストを織り交ぜたポストモダンな作品『め ぐりあう時間たち』では、「時間」という普遍的なテーマに加えて女のジェンダー問題が前景 化されている。

アダプトされた映画『めぐり合う時間たち』

劇作家、映画監督でもあるデイヴィッド・ヘアによると、映画プロデューサー、スコット・

ルーディン(Scot Rudin)は『めぐりあう時間たち』が話題作として評判になる前に、すで に映画の権利を買い取り、ヘアに脚本執筆を持ちかけたと言うことだ(Hare vii)。ヘアは女 性の人生を書きたかったと言い、さらに自身の脚本の序文に「三つの物語を同等に説得力ある ものにする」ようにしたこと、三人の女性主人公のどの物語に対しても観客ががっかりしない ように心掛けた」(Hare xi)と記している。それから1年かけて完成された脚本はスティー ヴン・ダルドリー監督に渡された。ダルドリーは大学時代英文学専攻で、ウルフの作品のファ ンだったと言うことだ。音楽を担当した作曲家のフィリップ・グラス(Philip Glass)は、

三つの物語に同じ音楽を使い、テーマのヴァリエーションを繰り返すことで物語に一つの流れ を持つようにしたと述べている。私的な音楽であるピアノを基調とし、ストリング・オーケス

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トラで過去と現在の時間の層を作りだしたこと、ニュートラルな映像表現に音楽で方向性を与 えて情感を決めたことについても説明している

このように映画『めぐり合う時間たち』は話題の小説を元にして、経験豊かなプロデュー サー、脚本家、監督、作曲家が加わり、さらにニコル・キッドマン(ヴァージニア・ウルフ) ジュリアン・ムア(Julian Moore/ローラ・ブラウン)、メリル・ストリープ(Meril Streep

/クラリッサ・ヴォーン)という当代きっての大女優の共演による作品となった。インターテ クスチュアルな小説『めぐり合う時間たち』の複数の読みが、モザイクのように合体してアダ プテーション映画が制作されたのである

アダプテーション映画はハリウッド系のマスメディアであり、利潤重視の観点から広範な層 の観客に受け入れられることが求められている。大衆への受容のためには、第一に政治性を抑 えることは必須である。ロバート・スタムが「現代のハリウッド映画は『過激的』だとみなさ れるどんなイデオロギーに対しても嫌悪感を持つ傾向がある」(Stam 43)と述べるように、

通常アダプテーション映画では、小説内の社会的格差などのさまざまな政治性が極力排除され ている。

松本朗は小説『めぐりあう時間たち』には「やや政治色を帯びた複雑な問題」があることを 指摘し、とくに同性愛の問題を中心に論じている『ダロウェイ夫人』のエリザベス(Elizabeth)

と貧しく醜い家庭教師ミス・キルマン(Miss Kilman)の親密な関係は、『めぐりあう時間た ち』ではジュリア(Julia)とクィア理論の講師メアリ・クルール(Mary Krull)の関係に対 応するが、エリート階級に属するクラリッサと「貧困ぎりぎりの生活をし、さまざまな運動で 投獄された」メアリとの間には階級格差が存在すること、「いつも元気で、肉体的に自信があ ると言い切る」(17-18)ウォルター(Walter)のようなゲイ男性に、同じくゲイであるリチャー ドは反感を持っていることから、松本は「違う種類の生き方を選ぶレズビアン[ゲイ]同士の 間に見られるこのような敵意」「同性愛をめぐるより複雑化した問題が前景化され」(松本84)

ていると述べる。すなわち、同性愛が認知されながら、なおさまざまな不安が存在する「20世 紀末のアメリカ社会の同性愛のありようを批評」(松本85)しているのであり、「ありきたりの 風邪でも彼には致命傷になるから」という理由でリチャードと唇でのキスを避け、その後これ に拘泥するクラリッサの言動は、「エイズへの感染」という誤った不安を読者に想起させるか もしれないという解釈ができるのである(松本84)

一方、映画『めぐりあう時間たち』には、クラリッサとパートナーのサリー(Sally)、リチャー ドと元恋人だったルイス(Louis)以外のレズビアンやゲイは登場しないし、クラリッサはリ チャードの唇へ何の抵抗もなくキスしている。政治性の粛清として「外国人」への排他意識も 映画では削除されている。小説ではローラ・ブラウンの旧姓はズィールスキー(Zielski)と いうドイツ系の名前で、「互いに接近した黒い目と鼻梁の高い鼻を持った外国人のような顔つ き」(Cunningham 45)をしていて、移民の子孫であること(45)や結婚で改宗したこと(76)

にも言及されている。米国において人種問題は非常にセンシティヴな事柄であるため、アダプ

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テーション映画ではローラの旧姓がマクグラス(McGrath)へと変更され、異国性は削除さ れている11

大衆に受容されるために必要なもう一点は、ナラティヴのわかりやすさである。読み進めな がら立ち止まったり読み直したりできる読書と違って、映画鑑賞は基本的に時間とともに前進 していく。そのために見る瞬間ごとに理解できるようでなければならない。「映画におけるス ピード意識」(Stam 32)によって、ストーリーの繋がりをスムースにするため、インターテ クスチュアリティは削除される傾向がある。例えば、映画『めぐりあう時間たち』には「十九 号室」のインターテクストはない。その代り、ローラが自宅のバスルームから4本の睡眠薬を 持ち出すシーンやホテルのベッドの上に置かれた睡眠薬をクローズアップするという視覚的な 方法で、彼女の自殺願望は明らかにされている。また小説では、サリーだけが映画スターの昼 食に招待されたことやジュリアとの間のコミュニケーションのズレという母娘関係の悩みと いった『ダロウェイ夫人』からのインターテクストが見られるが12、映画ではこうした幾種類 もの悩み事は削除され、クラリッサの心はリチャードとの関係だけに占められている。とはい え、それによって映画のクラリッサが単純化されているというわけではない。後に述べるよう に、三つの物語と交差する中で人生の真髄に触れる悩みが描かれることになっていく。

アダプテーション映画におけるジェンダーのテーマの深化

小説『めぐり合う時間たち』は、時代が移り変わって家族システムが変化しても、ジェンダー という女役割が引き起こすいわゆる「女の病」が三つの物語において繰り返される。交互にま た順不同に描かれるこれらの三つの物語に、「ミセス・ウルフ」「ミセス・ブラウン」「ミセス・

ダロウェイ」と見出しがついていることは注目すべき点である。三人の女性に共通しているの は「ミセス」、すなわち結婚によって夫の姓を名乗っていることである。家父長制度の名残り として現在にも生きているこの慣習は、女性の自立を妨げる精神的束縛の象徴とも言える。

アダプテーション映画の方にはもちろん見出しはないが、女であることから生じる義務や抑 圧のテーマは小説よりさらに増幅して描かれている。ヴァージニア・ウルフは実人生でも神経 衰弱や鬱状態のため、二度の自殺未遂を起こしていた。小説ではヴァージニアの言葉(内的独 白)で自分の症状を主!!!!語っているのに対し、映画では第三者の目線で彼女の「病」が説 明され、客!!!!描写されている。「ミセス・ウルフ」の最初のシーンは往診が終わった医者 と夫レナードが話す場面から始まる。医者の権威を持ち出して食事をとるように言うレナード は、まさしく「看守のように描かれている」(Young 79)。リッチモンドでの軟禁生活に我慢 ができなくなりロンドンへ逃亡を企てる場面は、小説ではすでにロンドン行きの切符を買った ヴァージニアが駅外を散歩中、レナードに見つかり、二人は何事もなかったように帰宅する。

彼女の不安や欲求が内的独白で表現されている小説と異なり、映画ではプラットフォームで電 車を待つヴァージニアをレナードが見つける。レナードは医者を代弁するかのように、彼女の 病歴や二度の自殺未遂を持ち出し、自分で症状を把握できていないと責める。ヴァージニアは

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それに対し、もしも医者が女で田舎に閉じ込められるのが男だったらどうなのかという、性を 逆転させた状況を想像するよう夫に訴える。二人の激しい言葉の応酬から、レナードの心配と ヴァージニアの脱出願望が明らかになる一方、彼女の興奮した口調を聞く観客にはヴァージニ アの「精神的病」が決定的なものになっていく。

夫と息子との関係に常に緊張感を持ち、妻・母役割に違和感を覚えるローラ・ブラウンの場 合、小説ではヴァージニア同様、内的独白で自分の心情を説明する。他方、映画では、アブデ ルラーマンが批判するように、彼女を結婚へと救い出したという夫の独りよがりなイメージで 描かれてしまっている(AbdelRahman 160)。彼女自身が望んだわけではないのに夫が救出 したこと、その上、彼が彼女について温情主義的に語ることで、二重にローラの主体性は奪わ れているのである。映画でさらに目を引くのは、幼い息子リッチーがローラを常に見ている点 である。ローラに「母」を求め、「母」以外の誰かになってしまわないかと息子は見続ける。

リッチーの視線は映画での唯一のフラッシュバックとなり、ウェディング衣裳を着た母ローラ の写真を見る大人なったリチャードに引き継がれていく。映画における「ミセス・ダロウェイ」

のリチャードが幼いリッチーだと観客が知るのは、このときである12。この写真は、少なくと もリチャードにとって、ローラが「妻・母」役割に凍結されていることを象徴している。

レズビアンの人生を選んで精子バンクでジュリアを生み、編集者として自立した生活を送る クラリッサは、一見するとジェンダー問題とは無縁なようにも見える。ゲイのリチャードとル イスとともにひと夏を過ごした18歳のとき、彼女はリチャードと恋愛関係になり、ミセス・ダ ロウェイと命名される。リチャードはクラリッサが「因習的な妻」(16)「上流社会の妻」(20)

になると信じている14。実際のところ、彼女もまた課せられた義務感や依存心から脱すること ができない。レズビアンであっても、「こうした[ジェンダーの]ステレオタイプ」が、「敢え て揶揄するかのようになぞられ」(松本83)、彼女は妻のように、エイズで余命いくばくもない リチャードの元へ通って身の回りの世話をする。

映画のクラリッサの場合、女役割にいっそう捕らわれている状態が描き出されている。リ チャードは、あだ名どおりクラリッサが「ミセス(リ!!!!!)・ダロウェイ」15を通して自 己実現していることを察し、「ぼくが死んだら怒る?」「パーティは誰のため?」「僕は君を満 足させるためにだけ生きている」と言い、彼女自身の人生や同棲しているサリーとの生活を気 にかけている。するとクラリッサはリチャードの言葉に彼の本心を察知し、動揺して泣き出さ んばかりになる。その後、リチャードの恋人だったルイスが訪問したとき、クラリッサの動揺 は頂点に達するのである。小説のクラリッサが沈着冷静で、三〇年前に二度の自傷行為をした ルイスの方が泣き出してしまうのに対し16、映画で泣き出すのはクラリッサである。かつてリ チャードは自分ではなくルイスを選んだ。しかし現在、リチャードの看護は自分の生活の大事 な部分となっている。しかも彼女が意図しないうちに、それだけが自分のアイデンティティを 保持するための行為となってしまった。クラリッサのパニック状態は、彼女が「ミセス」とい う妻役割にはまり込んでしまい、どうにもならない状態を物語っているのである。

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アダプテーション映画においてキスが表象する別の意味

『めぐりあう時間たち』においてジェンダーの束縛が引き起こし「病」として表象される言 動に対し、その束縛からの解放は欲望の表出すなわちキスの行為である。しかしキスの意味・

意義は小説と映画では大きく異なっている。

小説のヴァージニアは姉ヴァネッサ(Vanessa)が帰るとき、「そんな習慣はまったくない が」姉の唇に「無邪気」なキスをする(154)。使用人を恐れて主婦としての役割をこなせない ヴァージニアにとり、わざと料理人ネリーの背後で行なうキスは、役割の放棄を意味している。

リッチモンドの生活から逃亡したいという願望もそこには含まれており、「甘美で禁断の快楽 の味」(154)がした。キスの意味がジェンダーのレベルにとどまっている小説に対し、映画で はヴァージニアのセクシュアリティの問題が浮上する。姉妹の通常の別れの挨拶は、突然ヴァー ジニアによる激しいキスに変わった。「私は良くなったと思った?」と詰問するヴァージニア に対し、ヴァネッサは「良くなった」と答えるものの困惑の表情を浮かべ、急いで子供たちと ともに去っていく。むさぼるような激しいキスは女吸血鬼を連想させ、直後のヴァネッサの逃! !によってヴァージニアの狂気性がいっそう強調されていくのである。同性しかも肉親へ向け た欲望の表出は、レズビアン的愛や近親姦という彼女の「異常な」セクシュアリティを想起さ せるのである。

ローラの場合、夫の誕生日のために作ったケーキが失敗し、そこへ訪れた隣人のキティ

(Kitty)にキスをする。子宮の腫瘍検査のため入院することになり不安げな様子のキティに 同情したローラは、彼女を抱きしめ、唇にキスをした。ここにも、ケーキに象徴される妻・母 役割の失敗の対極に、キスがもたらす熱い欲望があった。小説では同性に向けられたローラの セクシュアリティが危険なものとして描写されているが、その過剰なセクシュアリティは「黒 い眼をした捕食者」「異常者、外国人」(110)というよ!!!として定義されている。小説の内 的独白は、ローラが自分の内なるセクシュアリティ(両性愛)に気付いたことを示唆し(109- 110, 143)「パニックになり」(141)(自分のような女性が)正気ではなくなるとはこんなふ うなのか」と「金切り声や泣き叫ぶ声」(142)を想像している。映画ではローラのセクシュア リティの気づきに関しては明示されていない。しかし泣き叫ぶリッチーをベビーシッターに預 け、自分も泣きながら車を運転するシーンや、夫がベッドへ誘う声に受け答えしながらトイレ にこもり、キティが病気で死んでしまうのではないかと泣いているシーンから、普!!!アメリ カ人主婦のレズビアン的セクシュアリティに対するパニック状態を見て取ることは容易であ る。

小説中のクラリッサは、30年前のウェルフリートの池のほとりでリチャードとキスをしたこ とを何度も思い返している(10, 95, 131)。この体験は彼女にとって「幸福の始まりのように 思われた」だけでなく、「30年経ったいまでも、それこそが本当の幸福だった…と実感して」驚 いている(98)。しかし実のところ、クラリッサがずっと拘りを持っているのは、その後ニュー ヨークの交差点でリチャードのキスに応えなかったことである(51-52, 97-98, 203)。その結

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果、「将来の一つの可能性」(52)「別の未来」「心に影響を与え、危険な未来」(97)、つまり リチャードとの関係が閉ざされた。30年前にキスを拒絶して安定した生活を選んだ彼女にと り、今も彼に唇にキスをしないことは自分の選択の正しさを信じたいためである。しかし現実 の彼女の人生は、リチャードのためと称してパーティを開くような「妻役割」に喜びを感じて いた。

リチャードとの過去・現在の関係に拘りを持つ小説と異なり、映画のクラリッサは率直であ り、唇へのキスに全く抵抗はない(エイズへの偏見もない)。むしろ彼女にとって重要なのは、

リチャードが自殺した後、寝室でのサリーへのキスである。クラリッサは「リチャードととも にいるとき、私は生きている。いないときは意味がない」と言い、サリーのことですら「偽り の慰め」だと自分の人生から切り離したように語る。クラリッサのキスはリチャードからの解 放、言い換えれば、女のジェンダーからの解放を意味し、サリーに向き合う人生の始まりを意 味しているといえるだろう。ヴァージニアもローラも同性へのキスシーンは、本人にとっても 相手にとってもさらには観客にとっても、レズビアン的欲望の過剰さとして映し出され、その ように受けとめられていた。しかし映画における最後のキスは、同性愛を選びながらもリチャー ドに縛られていた(異性愛)クラリッサの、流動的で解放されたセクシュアリティが見て取れ るのである。

アダプテーション映画に浮上するサブテーマ

最後に映画のオープニングとエンディングに絞り、どのようなテーマ、サブテーマを見てと れるのかを確認したい。オープニングはヴァージニアが入水自殺を図るところからはじまる。

彼女はコートを羽織り、細い小路を抜けて川に向かって行く。ポケットに石を入れて入水する シーンと帰宅したレナードが彼女の遺書を読むシーンを交互に映し出しながら、ヴァージニア のヴォイス・オーヴァーが流れている。このシーンはポストモダンな作品に一つの共有する テーマを与え、その後の三つの物語を繋ぐ役目を果たしている。続く三つの物語の冒頭シーン ダンが黄色い花を抱えて帰宅して寝室で寝ているローラを見る、帰宅したレナードが医者 からヴァージニアの安静を勧められる、サリーが帰宅して寝ているクラリッサの横に滑り込む は、いずれもパートナーが外!!!!!後、相手を気遣う様子を映し出す。ただし、ヴァー ジニアとクラリッサはすでに覚醒しており、自分たちの関係のズレに気付いている。

ヴァージニアの入水シーンは映画のエンディングに再度流れている。マーティン・ホール ウェル(Martin Halliwell)はこの反復を「時間の一時性というより恒久性」(104)だと説明 している。しかし、ここではむしろ女性のジェンダーの反復性を意味しているのだと思う。た だし、フィリップ・グラスがウルフの自殺について人生を完結させる決断だと解釈したよう 17、彼女の死は選択であった。つまりジェンダー問題に女性が直面したときに自分で人生を 選択する決断を、エンディングは示しているのである。その意味で、この映画は確かに女性の 自己決定を強調している「女性の映画」(Brooker 117)だといえよう。生き残りながらも人

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生の成功者とは言えないローラについても同様である。彼女は家族を捨てて慣習的な女の人生 のシナリオを破ることを、生き残るために選んだ。リチャードの自殺の報を受け、クラリッサ の家を訪れた老齢のローラは、役割に縛られた死んだ人生ではなく「生きることを選んだ」と !!!!!で語る。その後、寝室でサリーにキスをするクラリッサの思いについてはすでに説 明したとおりである。ヴァージニアの人生の決断が時代と場所を越えてローラ、クラリッサへ と継承されていく様が、このようにアダプテーション映画では強調されているのである。

1.Thomas Leitch も“Few of the first generation of scholars who led the charge to introduce film studies to the academy had received formal training in film studies themselves”と文学研究者には映画研究の教育課程がないことを指摘している

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2.舞台監督を長く務めたダルドリーの意向があり、ヘアも撮影に立ち会った。例えば、ルイ スがクラリッサを訪問したとき、水道の水を噴出させてしまったのは偶然。

3.DVD『めぐりあう時間たち』の DISC2【特典ディスク】より。

4.『めぐりあう時間たち』に登場するウルフを指す場合は、ヴァージニア、作家として論じ る場合はウルフと記す。

5.DVD『めぐりあう時間たち』の DISC2【特典ディスク】より。

6.DVD『めぐりあう時間たち』の DISC2【特典ディスク】より。

7.DVD『めぐりあう時間たち』の DISC2【特典ディスク】より。

8.ニューヨークでの撮影は2001年2月からはじまり、マイアミ、ロンドン、さらにハート フ ォ ードシ ャ ーへと 移 り、2002年の ク リスマス直後に封切り さ れ た(“Hours, The : Production Notes”より。〈http://cinema.com/articles/1654/hours-the-production- notes.phtml〉.2014/07/08)。そして映画の段階的な公開は話題作の期待度をさらに押し 上げるものとなる。まずクリスマス後にニューヨークとロサンゼルスの二都市で封切。二 日後、米国とカナダの限定された劇場で公開。最初の二週間の11映画館での売り挙げは100 万ドルを超えた。翌年1月10日に45ヵ所、翌週、402ヵ所と広げ、2月14日に米国・カナ ダの1,113映画館で上映された。こうした慎重な公開方法で、米国とカナダでは4,100万ド ル、他の国を加えると世界で1億ドルを超える売り上げとなったのである(“Critical reception”より。〈http://en.wikipedia.org/wiki/The_Hours_%28film%29〉.2014/7/1) 9.松本朗 82-85.

10.Michael Cunningham,

The Hours

, London: Fourth Estate, 1999, 23 . 以後

The

Hours

からの引用は本テキストに拠る。引用後の( )に頁数を記す。

11.Mac はアイルランド系、スコットランド系の姓に見られる。

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12.『ダロウェイ夫人』では、夫リチャードがブルートン夫人(Lady Bruton)に昼食に招待 されている。

13.ヘアはフラッシュバックの使用は避けて、登場人物が自分で語るようにしたと語る(“The Production Notes”)

14.クラリッサ自身、世間が妻でしかないと思われていることを気にしている(Cunningham, 94)

15.『ダロウェイ夫人』でクラリッサの夫はリチャード・ダロウェイ(Richard Dalloway)。

16.『ダロウェイ夫人』のピーター・ウォルシュと対応している。

17.DVD『めぐりあう時間たち』の DISC2【特典ディスク】より。

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Michael Cunningham’s The Hours

. New York: Continuum, 2003.

松本朗「追悼の物語――『めぐりあう時間たち』試論」『ソフィア』(上智大学)52-1,2003 : 74-94.

〈http : //en.wikipedia.org/wiki/The_Hours_%28film%29〉.2014/08/06

The Hours

: Production Notes.”〈http://cinema.com/articles/1654 /hours-the - production - notes.phtml〉.2014/08/06

映画

The Hours

. Screenplay by David Hare. Dir. Stephen Daldry. Perf. Meryl Streep, Julianne Moore, and Nicole Kidman. Miramax, 2003. DVD.

参照

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