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南アジア研究 第28号 030学会近況・中谷 純江「日本語テーマ別セッションV 南アジアの移住商人(マールワーリー)の研究」

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Academic year: 2021

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(1)南アジア研究第28号( 2016年). 学・会・近・況. 日本語テーマ別セッション V. 南アジアの移住商人 ( マールワーリー ) の研究 ―1920-30年代に焦点をあてて ―. 中谷純江 本セッションでは、美術史・ヒンディー文学・宗教学・社会人類学・ 経済史を専門とする各研究者が、 「マールワーリー」とよばれるラージ. ャスターン地方出身の移住商人について、1920 -30 年代という彼らにと っての大きな変革期に焦点をあてて議論を行った。1920 -30 年代は、宗. 主国イギリスの力に陰りが見え、世界が恐慌に見舞われる戦間期であ. る。ラージャスターン出身の移住商人たちの間では、インドの港湾都市. で (1 ) 英貿易会社のブローカーやエイジェントとして、交易や投機や融. 資に従事してきた者の中から、産業資本家へと成長するものが現れた。. (2 ) それまでカーストや同郷や親族のつながりによって資金や人材の調. 達を行ってきたのに対し、市場への依存を強め、ビジネス・ネットワー. クが拡大した。(3 ) 家族を故郷に残して単身で半定住していた商人たち. の多くが移住先に家族をよびよせるようになり、故郷との関係も大きく 変化した。(4 ) ナショナリズムや社会改革の機運がコミュニティに高まる. と同時に、親英派と反英派、近代主義者と伝統主義者という対立も生ま れた。 この時期の政治的、経済的、法的変化に対応する中で、それ以前には 一つの実体的コミュニティとして存在しなかった「マールワーリー」が、 特定の文化やアイデンティティや表象を共有する存在になっていった。 現代インドにおける「マールワーリー」の源がこの時代に創られたと考 えられ、この時期に出現した「マールワーリー・プレゼンス」が、その 後の地域社会を考える上でいかに重要かを問う試みとして、セッション 全体を位置付けることができる。各報告から明らかになったのは、イン ド的近代の形成過程にマールワーリーが与えた影響力、果たした役割の 大きさである。政治経済制度、法制度、宗教制度の近代化過程に自身が. 254.

(2) 学会近況 日本語テーマ別セッション V 南アジアの移住商人 ( マールワーリー ) の研究―1920­30年代に焦点をあてて―. 適応しつつ、一方で制度自体の構築に働きかけていったことが示され た。以下に各報告の論点を整理する。 最初の報告は、豊山亜希「マールワーリーの近代的アイデンティティ. としての日本製マジョリカタイル」であった。豊山は、1920 -30 年代に 建てられたマールワーリーを施主とする建造物について美術史の観点. から論じた。植民地経済下で成功したマールワーリー商人の富は、しば しば建造物という目に見える形で積極的に消費された。1860 年頃から 1930 年代の終わり頃までに、彼らの出身地ラージャスターン・シェーカ ーワーティー地方各地の商人町、及び移住先カルカッタに、豊山が「マ ールワーリー建築」とよぶ豪奢な建物が多数建造された。豊山は、1920 -30 年代のマールワーリー建築にそれ以前の造営例にはなかった新し い装飾様式)として、日本製のタイル、通称マジョリカタイルが用いられて いる点に注目する。戦間期インドの政治的・社会経済的状況戦間期インドの 政治的・社会経済的状況からマールワーリーが日本製タイルを積極的に消費 した要因を読み解き、当時のマールワーリー社会、ひいてはインド社会 において、近代的民族主義資本家の表象がいかにして創り出されたのか を論じた。 まず、最初に植民地インドにおけるタイル受容の歴史にふれ、20 世紀 初頭にカルカッタにおけるマールワーリー社会の中核地バラ・バザール が「疫病とペストの温床」として名指しされたこと、その批判を払拭す るかのように、1910 年代以降マールワーリーがインフラ整備や公衆衛生 の改善に熱心に取り組んだことを指摘する。とりわけ同胞や巡礼者のた めの宿泊所や救護院といった社会福祉施設の整備に積極的で、 それらの 建物の壁面にはほぼ例外なくタイルが施工された。この時期のタイルの 大多数が日本製であり、第一次世界大戦後に植民地インドにおいて消費 されるタイルがイギリス製から日本製へと転換したことがわかる。イギ リスの戦後不況によってインドへのタイル輸出が減少するなか、日本で は関東大震災後の建設ブームでタイル工業が急成長し、イギリスが独占 してきたアジア市場への参入に成功したのである。とりわけインド市場 において日本製タイルが成功した要因として豊山は二点をあげる。一点 目は、インドで流行していたヒンドゥー神話の印刷画を図像的典拠とす る製品を生産して、シェア拡大を図ったことである。二点目は、日本製 タイルの消費がヒンドゥー神話にもとづくデザインの政治性とも相俟っ. 255.

(3) 南アジア研究第28号( 2016年). て、イギリス製品のボイコットと密接に関連していたことである。豊山 は、戦間期インド社会において資本家としてのプレゼンスを正当化する 方便として、民族運動を支持することは大いに有効であり、その点でも マールワーリーには日本製マジョリカタイルを消費する動機が十分にあ ったという。近代国家インドを支える民族資本家というマールワーリー 像を創り上げるうえで、日本製マジョリカタイルは少なからず役割を果 たしたことが明らかになった。 続いて、小松久恵が「 『ガーンディーの五番目の息子』とその妻―独 立運動におけるマールワーリー女性をめぐる一考察―」と題する報告を 行った。小松は、独立運動において重要な位置を占めた一人のマールワ ーリー女性について自伝や書簡を分析した。当時、タイルがモダンの記 号であったように、 「女性」は独立運動の中で重要な記号としての役割 をもっていた。小松は、1920 年代後半に北インドで人気を博していたヒ ンディー雑誌チャーンド Cāṅd の「マールワーリー」特集号において、マ ールワーリー・コミュニティが強欲で享楽的な存在としてネガティブに 表象された一方で、同時期に成功したマールワーリー商人の中にガーン ディーの教えに傾倒し、 アーシュラムで質素な共同生活を送りながら、 独 立運動に専心した者が多数いたことを指摘する。その代表的な事例がジ ャムナーラール・バジャージであり、彼とガーンディーとの関係ならび に独立運動との関わり方が夫婦の関係にどのような影響を及ぼしたの かが論点となっている。 ジャムナーラール・バジャージは16 歳の若さでバジャージ家の当主と なり、企業家として名を馳せていく。妻であるジャーナキー・デーヴィ ーは1902 年に9 歳で 4 歳上のジャムナーラールに嫁ぐと、パルダーの慣 習を守って結婚後 10 年近く世の中とは没交渉であった。商用で留守が 多い夫から妻へ送られた手紙は、ジャーナキーにとって社会を知る唯一 の手段であり、夫婦の初期の書簡には互いに対する愛情や思いやり、夫 に対するジャーナキーの尊敬の念と従順さを読み取ることができる。し かし、1910 年代後半にジャムナーラールがガーンディーと出会い、親交 を深めるにつれて手紙の内容は急変する。ジャムナーラールは自身が政 治活動に積極的に参加するだけでなく、妻をはじめとして家族中にガー ンディーの教えを徹底させようとした。妻にあてた手紙には、装身具や パルダーの廃止、外国製服や工場製布の一掃、彼女や子供が受けるべ. 256.

(4) 学会近況 日本語テーマ別セッション V 南アジアの移住商人 ( マールワーリー ) の研究―1920­30年代に焦点をあてて―. き教育の奨励、読むべき新聞や書籍の紹介、そして活動家としてあるべ き心構えが説かれる。ジャーナキーは戸惑いながらも、ガーンディーと 夫の指示に従って装身具やパルダーをはずし、カーディーを身につけ、 次第に酒屋前でのピケや人前での演説を行い、運動後半では女性会議 の議長を務めるなど、徐々に独立運動に深く関わるようになった。 ジャムナーラールは妻を励まし諭しながら、理想の活動家に導こうと し、ジャーナキーはそれに応えようと奮闘した。しかし「ガーンディー の五番目の息子」である夫が妻に寄せた期待は大きすぎ、彼女はそれに 応えられないという葛藤から子供に手を上げ、使用人と対立し、そして 夫と言い争うようになっていく。夫が目指した理想の活動家女性姿と実 際の彼女にはずれがあり、そのずれは運動への参加が深まるにつれ次第 に大きくなっていった。小松は、ジャーナキーの運動への参加をガーン ディー理念への共鳴ではなく、あくまで夫の言葉に従うヒンドゥーの良 き妻としての行為であったことを指摘する。それゆえにチャルカに熱中 し、カーディーを身につけるなど容易に実行できた活動と、ハリジャン を家族とみなして台所に入れるなど、最後まで受け入れられなかった活 動があり、彼女自身もその限界を認識していた。小松は、ジャーナキー の葛藤や限界にネルー家の女性に代表される中産階級女性との運動へ の理解や関わり方のちがいを読み取る。 第 3 報告は、田中鉄也「マールワーリーと「公益」をめぐる政治学―. カルカッタのケーリヤー支援基金を事例に(1913 年 -1962 年)―」であ. る。田中は、ケーリヤーという一つの親族集団を事例として、マールワ ーリーが近代的価値として出現した「公益」概念をどのように理解し、 採用していったのかを論じた。 インドにおいて公益信託制度は英領インド期に導入された。一般的に 信託とは、委託者が受益者のために受託者に財産を管理または処分する 権利を委託する制度で、 私益信託と公益信託に分けられる。公益信託は、 不特定の人々を受益者とした公益上の慈善的・宗教的信託を指し、公益 であるがため免税の特権が生じる。1920 年に 「慈善的ならびに宗教的信 託法」が制定され、 公益信託による宗教的贈与や慈善活動に関する所得 税の控除が認められると、豪商や産業資本家たちは自らの資産をまるで. 「公益活動」に投機・運用するように、公益信託を設立し、自ら受託者 となった。その活動が「公益慈善目的」を果たす限りにおいて、自らの. 257.

(5) 南アジア研究第28号( 2016年). 「名誉」を高め、同時に自らの財産への課税を逃れさせてくれるため、非 常に魅力的であった。 「ケーリヤー支援基金」は、1913 年にカルカッタで活躍中であったラー ジャスターン出身の3 人のビジネスマンによって組織された。ケーリヤ ーとはアグラワールに帰属するリネージの一つで、支援基金はカルカッ タ在住のケーリヤー同胞への支援を目的とし、いうならば親族集団内の 助け合いを目的に設立された。しかし、基金が拡大するにつれ、1931年. には「協会(society) 」として運営組織を整備し、それに伴って協会を. 「公益信託」へと再編する。1931年から1947 年まで植民地政府の下で、 ケーリヤー協会は公的組織として税の免除を受けることができたが、独 立後 1952 年に西ベンガル州税務当局によってその申請は却下され、法 廷で争われることになった。田中は、彼らが展開した訴訟例を検討し、 1962 年の判決で彼らの活動が公益慈善目的に資するものではないとみ. なされた理由として、受益者に階層を横断する多様な人々(Cross-. Section of the Public)を含むことを示すことができなかった点をあげ. る。この時代には、ケーリヤーと同様に一族の信託が公益活動に資さな いという判決をうけた事例が複数あることから、1950 年代に「公益」概 念に分岐点となる変化があったことがわかる。その後、ケーリヤー協会 はカルカッタ在住者のみならず、他の地域に住むケーリヤーの貧しい 人々へと支援を拡大し、1977 年に公益信託としての認可を受けることが できた。田中の報告からは、 「私」と「公」との区別を対立させるので なく、 「私」から「公」へと同心円状に拡大させるインド的概念の形成 にマールワーリーが関与した形跡を見ることができる。. 第 4 報告は、 中谷純江「聖地ガヤーの変遷と1920 -30 年代における『マ. ールワーリー』の出現」であった。中谷は近代的「公益」概念を利用し. て、ヒンドゥー教の聖地ガヤーでパトロンの地位を占めるようになった マールワーリーの存在について論じた。ガヤーは祖先祭祀を行う聖地と. して全国的に知られる。1920 -30 年代は、それまで王や貴族、領主の寄. 付によって支えられてきた聖地が、全国的に一般の巡礼者をあつめる聖. 地へと生まれ変わる初期にあたる。世界恐慌や分離独立、藩王国制や大 地主制の廃止の中で、ガヤーの伝統的ジャジマーンがパトロンとしての 役割を果たせなくなった時、さらに聖地の管理運営が巡礼者法や死者法 による規制をうけ、近代的施設の整備を必要としていた時に、マールワ. 258.

(6) 学会近況 日本語テーマ別セッション V 南アジアの移住商人 ( マールワーリー ) の研究―1920­30年代に焦点をあてて―. ーリーが新しいパトロンとして登場し、ガヤーの維持発展に不可欠な役 割を果たした。マールワーリー個人やトラストやパンチャーヤトによっ て、巡礼者向け宿泊所の建設や巡礼路の整備など様々な形の寄付が行 われ、聖地パトロンとしてプレゼンスを強めていった。また、他の巡礼 者に比して、マールワーリーは長期間にわたる入念な祖先祭祀を行う、 豊かでかつ宗教心の高い祭主としても知られている。マールワーリーに とってガヤーは、この世の利益をあの世の徳に変えるだけでなく、先祖 とつながり、大家族の網の目の位置を確認する場であり、先祖の名前に よって、ガヤーにお金を注ぎ込むことは、単なる篤志家ではなく、ヒン ドゥー・ユニバースの中で「伝統的」正統派ジャジマーン、最高位のヒ ンドゥー・パトロンの位置を得ることを意味する。中谷報告からは、王 族や領主に限定されていたガヤーの祖先祭祀が一般化・民衆化し、多く の巡礼者をあつめる聖地へと変わる近代化過程をマールワーリーが主 導し、自らの地位を高めたことが明らかになった。 最後に、神田さやこ「植民地期インドにおけるマールワーリーの活動 ―経済史研究を中心とした研究動向―」は、経済史研究の枠組みから、 植民地期におけるマールワーリーの台頭に関する従来の議論を整理し た上で、先の四報告を消費と法制度との関係に関する近年の議論の中に 位置づける役割を果たした。神田は、マールワーリーの消費を特徴づけ る「篤志家的」活動への税制上の優遇背景に、イギリス政府にとって 「公共の福祉」を民間が担うという重要な意味があったこと、また、ガ ーンディーの「受諾者制度理論」に支えられた独立運動への資金援助の 背景にも、法制度の問題があることを指摘する。神田は、1920-30 年 代という経済的・政治的・法的移行がいかにマールワーリーに味方した のかを明らかにした。まさに時流を捉えたマールワーリーは、 「近代国家 インドを支える民族資本家」 「ヒンドゥー聖地を支える伝統的正統派ジ ャジマーン」 「公益慈善への篤志家」としてプレゼンスを高め、インド 的近代の創出を方向付けていったといえよう。 なかたに すみえ ●鹿児島大学. 259.

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