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Vol.65 , No.2(2017)064楊 潔「『瑜伽師地論』におけるtajjo manaskarah再考」

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(1)

【チベット語訳】’di ltar mig kyang yongs su ma nyams la/ gzugs kyang snang bar gyur cing/ de dang ’byung ba yid la byed pa yang nye bar gnas par gyur na/ de’i phyir de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa ’byung bar ’gyur ro// (P dzi 5b7–8, D tshi 5a3–4)

訳:このように,眼も壊れておらず,色も顕現しており,それと共に生じる作意もまた 現前するとき,それゆえ,それから生じる眼識が生起することになる. 【漢訳】要眼不壊,色現在前,能生作意正復現起,所生眼識方乃得生.(Yc 280a19–21) 訳:必ず,眼が壊れておらず,色が〔目の〕前に顕現しており,生じさせる作意がまた 正しく生起するときにはじめて,生じさせられる眼識は生じ得る. ここで tajja- cakṣurvijñāna- に対して,漢訳とチベット語訳は一致して「それか ら生じる眼識」と理解しているが,tajja- manaskāra- に対しては「それから生じる 作意」と訳出してはいない.

チベット語訳の de dang ’byung ba yid la byed pa は,’byung ba と yid la byed pa を 同格とすれば,「それと共に生じる作意」と理解できる.一方,漢訳の場合,玄奘 は「能」と「所」の対応関係で,作意を「能生」,識を「所生」とする.言い換え れば,manaskāra に付く tajja に対して,tad を後の識を指す代名詞と理解し,tajja-manaskāra- を,識を能動的に生起させる作意と捉えていると解釈できる.

要するに,漢訳とチベット語訳はいずれも,一文において前後に二回出てくる tajja を異なる意味で捉えており,特に tajja- manaskāra- の場合,「それ(眼と色)か ら生じる作意」とは理解していない.

3.tajja に対する世親の理解 

世親の『縁起経釈』(*Pratītyasamutpādavyākhyā)

は,識を解説する際に,やはりこの三要因に論及する.その特徴はすでに室寺 [2010]で考察されている.すなわち,『縁起経釈』は,tajja- manaskāra- の tajja に

対して,「それを生じさせる」(de skyed par byed pa),あるいは「そのために生じる」

(de’i ched du skyes pa)という語義解釈を示している.さらに tajja- manaskāra- を「不

相応でないもの」(mi mthun pa med pa),すなわち「相応しい作意」とし,熟睡や泥

酔などの時に,感官と対象があっても識は生起しないという例を挙げ,tajja-manaskāra- を「識別を引き起こす注意力」と理解する5).こうした指摘を踏まえ ると,世親は,識が生起しない理由を「それに相応しい作意」の欠如と考えてい たことが分かる.その場合,複合語 tajja の前分の tad は,既出の感官と対象では なく,直後に言及される識の生起に関係すると見なされている. 室寺[2010]の関心は世親の解釈に向けられており,「本地分」の記述にも言及 するものの,詳しい考察はなされていない.室寺[2010]では,「本地分」の一文 に見られる二つの tajja に対して,漢訳もチベット語訳も異なる訳語を与えて訳し 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) (155)

『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考

楊   潔

はじめに 

『瑜伽師地論』「本地分」では,識が生起するためには,「感官」 と「認識対象」と「作意」(manaskāra,心を認識対象に向けるはたらき)という三つ の要因が必要とされている.眼識を例に識の生起を説明する中で,作意と眼識 と いう二つの語の前には tajja という語が付され,“tajjo manaskāraḥ”,“tajjasya

cakṣurvijñānasya” という形で示されている1).本稿では特に「本地分中五識身相応

地」に見られる tajja- manaskāra- に着目し,tajja の用法について考察する.

1.「五識身相応地」における説明 

「五識身相応地」は眼識の生起について

次のように述べている(説明の便宜上,記号 ⓐⓑ により内容を区別する).

ⓐ tatra cakṣuḥ paribhinnaṃ bhavati/ rūpam anābhāsagataṃ bhavati/ na ca tajjo manaskāraḥ pratyupasthito bhavati/ na tajjasya cakṣurvijñānasyotpādo2 ) bhavati// ⓑ yataś ca cakṣur

aparibhinnaṃ bhavati/ rūpam ābhāsagataṃ bhavati/ tajjaś ca manaskāraḥ pratyupasthito bhavati/ tatas tajjasya3) cakṣurvijñānasyotpādo bhavati// (YBh 9, 10–13)

tajja という語は,一般には tad + ja の複合語と理解され,「それ(ら)から(/に よって)生じる」を意味する.したがって,tad を通常の指示代名詞として,既述 の語を指すものと考えれば,上記の文は次のように訳すことになる. ⓐ また,眼が壊れており,色が顕現しておらず,そして,それ(眼と色)から生じる作 意が現前しない.それ(眼,色,作意の三つ)から生じる眼識の生起がない.ⓑ 一方, 眼が壊れておらず,色が顕現しており,そして,それ(眼と色)から生じる作意が現前 しているので,それゆえ,それ(眼,色,作意の三つ)から生じる眼識の生起がある. しかしながら,「本地分」の場合,漢訳もチベット語訳もこの解釈を積極的に支 持するものではない.

2.漢訳とチベット語訳の理解 漢訳とチベット語訳はいずれも,manaskāra

と cakṣurvijñāna に付く tajja に対して,それぞれ異なる訳を与えている.例えば段 落 ⓑ に対する訳は次のようになっている4) (154) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 ─ 885 ─

(2)

【チベット語訳】’di ltar mig kyang yongs su ma nyams la/ gzugs kyang snang bar gyur cing/ de dang ’byung ba yid la byed pa yang nye bar gnas par gyur na/ de’i phyir de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa ’byung bar ’gyur ro// (P dzi 5b7–8, D tshi 5a3–4)

訳:このように,眼も壊れておらず,色も顕現しており,それと共に生じる作意もまた 現前するとき,それゆえ,それから生じる眼識が生起することになる. 【漢訳】要眼不壊,色現在前,能生作意正復現起,所生眼識方乃得生.(Yc 280a19–21) 訳:必ず,眼が壊れておらず,色が〔目の〕前に顕現しており,生じさせる作意がまた 正しく生起するときにはじめて,生じさせられる眼識は生じ得る. ここで tajja- cakṣurvijñāna- に対して,漢訳とチベット語訳は一致して「それか ら生じる眼識」と理解しているが,tajja- manaskāra- に対しては「それから生じる 作意」と訳出してはいない.

チベット語訳の de dang ’byung ba yid la byed pa は,’byung ba と yid la byed pa を 同格とすれば,「それと共に生じる作意」と理解できる.一方,漢訳の場合,玄奘 は「能」と「所」の対応関係で,作意を「能生」,識を「所生」とする.言い換え れば,manaskāra に付く tajja に対して,tad を後の識を指す代名詞と理解し,tajja-manaskāra- を,識を能動的に生起させる作意と捉えていると解釈できる.

要するに,漢訳とチベット語訳はいずれも,一文において前後に二回出てくる tajja を異なる意味で捉えており,特に tajja- manaskāra- の場合,「それ(眼と色)か ら生じる作意」とは理解していない.

3.tajja に対する世親の理解 

世親の『縁起経釈』(*Pratītyasamutpādavyākhyā)

は,識を解説する際に,やはりこの三要因に論及する.その特徴はすでに室寺 [2010]で考察されている.すなわち,『縁起経釈』は,tajja- manaskāra- の tajja に

対して,「それを生じさせる」(de skyed par byed pa),あるいは「そのために生じる」

(de’i ched du skyes pa)という語義解釈を示している.さらに tajja- manaskāra- を「不

相応でないもの」(mi mthun pa med pa),すなわち「相応しい作意」とし,熟睡や泥

酔などの時に,感官と対象があっても識は生起しないという例を挙げ,tajja-manaskāra- を「識別を引き起こす注意力」と理解する5).こうした指摘を踏まえ ると,世親は,識が生起しない理由を「それに相応しい作意」の欠如と考えてい たことが分かる.その場合,複合語 tajja の前分の tad は,既出の感官と対象では なく,直後に言及される識の生起に関係すると見なされている. 室寺[2010]の関心は世親の解釈に向けられており,「本地分」の記述にも言及 するものの,詳しい考察はなされていない.室寺[2010]では,「本地分」の一文 に見られる二つの tajja に対して,漢訳もチベット語訳も異なる訳語を与えて訳し 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) (155)

『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考

楊   潔

はじめに 

『瑜伽師地論』「本地分」では,識が生起するためには,「感官」 と「認識対象」と「作意」(manaskāra,心を認識対象に向けるはたらき)という三つ の要因が必要とされている.眼識を例に識の生起を説明する中で,作意と眼識 と いう二つの語の前には tajja という語が付され,“tajjo manaskāraḥ”,“tajjasya

cakṣurvijñānasya” という形で示されている1).本稿では特に「本地分中五識身相応

地」に見られる tajja- manaskāra- に着目し,tajja の用法について考察する.

1.「五識身相応地」における説明 

「五識身相応地」は眼識の生起について

次のように述べている(説明の便宜上,記号 ⓐⓑ により内容を区別する).

ⓐ tatra cakṣuḥ paribhinnaṃ bhavati/ rūpam anābhāsagataṃ bhavati/ na ca tajjo manaskāraḥ pratyupasthito bhavati/ na tajjasya cakṣurvijñānasyotpādo2 ) bhavati// ⓑ yataś ca cakṣur

aparibhinnaṃ bhavati/ rūpam ābhāsagataṃ bhavati/ tajjaś ca manaskāraḥ pratyupasthito bhavati/ tatas tajjasya3) cakṣurvijñānasyotpādo bhavati// (YBh 9, 10–13)

tajja という語は,一般には tad + ja の複合語と理解され,「それ(ら)から(/に よって)生じる」を意味する.したがって,tad を通常の指示代名詞として,既述 の語を指すものと考えれば,上記の文は次のように訳すことになる. ⓐ また,眼が壊れており,色が顕現しておらず,そして,それ(眼と色)から生じる作 意が現前しない.それ(眼,色,作意の三つ)から生じる眼識の生起がない.ⓑ 一方, 眼が壊れておらず,色が顕現しており,そして,それ(眼と色)から生じる作意が現前 しているので,それゆえ,それ(眼,色,作意の三つ)から生じる眼識の生起がある. しかしながら,「本地分」の場合,漢訳もチベット語訳もこの解釈を積極的に支 持するものではない.

2.漢訳とチベット語訳の理解 漢訳とチベット語訳はいずれも,manaskāra

と cakṣurvijñāna に付く tajja に対して,それぞれ異なる訳を与えている.例えば段 落 ⓑ に対する訳は次のようになっている4) (154) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 ─ 884 ─

(3)

訳した理由については更に考察の余地がある.

1)この「本地分」の “tajjo manaskāraḥ” などの表現は初期経典の『象跡喩経』に由来する ものであったことが予想される.室寺[2010: 216–219]参照.   2)写本(注 3 も参 照)および漢訳・チベット語訳に基づいて,tasya cakṣurvijñānotpādo(YBh 9, 11)を tajjasya cakṣurvijñānasyotpādo に改めた.tasya cakṣurvijñānasyotpādo(MS 3a4);「所生眼識」(Yc 280a19);de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa(P dzi 5b7, D tshi 5a3).   3)tajjo ’sya (YBh 9, 13)を tajjasya に改めた.tajjasya(MS 3a5);「所生眼識」(Yc 280a20);de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa(P dzi 5b8, D tshi 5a4).   4)漢訳とチベット語訳ではとも に,サンスクリット語テキストの段落 ⓐ の位置に相当する箇所は,眼と色とが揃ってい ても,作意が現前しない,それゆえ眼識の生起はないという表現となっている.その相 違に関して今回は扱わない.   5)室寺[2010: 221–222]参照.また,チベット語の 訳語は Muroji[1993: 15–16]参照.   6)室寺[2010: 218].   7)manaskāra に ついての説明は,チベット語訳 sems kyi ’jug pa は「本地分」における作意の定義文と合 致しているので,サンスクリット語原語は cetasa ābhogaḥ であると予想される(YBh 60, 1; P dzi 34a2, D tshi 30a7–30b1 参照).一方,漢訳の「能引発心所」は「本地分」の漢訳の 「引心為業」(Yc 291c8)とやや異なる.いずれにせよ,この説明文は manaskāra に対して 「本地分」の説に沿って,心あるいは心所を引き起こすはたらきをもつものと解説す る.    〈略号およびテキスト〉 MS 『瑜伽師地論』のサンスクリット写本(Göttingen 大学によって公開された フィルムのコピー).

YBh The Yogācārabhūmi of Ācārya Asaṅga. Part 1. Ed. Vidhushekhara Bhattacharya.

Calcutta: University of Calcutta, 1957. P no. 5536; D no. 4035. Yc 『瑜伽師地論』T 30, no. 1579.

「摂決択分」 See Yc. P no. 5539; D no. 4038. 〈参考文献〉

室寺義仁 2010「ヴァスバンドゥの注意力(manaskāra)解釈――識別(vijñāna)成立のた めの三要件――」『インド論理学研究』1: 213–222.

Muroji, Yoshihito G. 1993. Vasubandhus Interpretation des Pratītyasamutpāda: Eine kritische

Bearbeitung der Pratītyasamutpādavyākhyā. Stuttgart: Franz Steiner.

〈キーワード〉 瑜伽行派,『瑜伽師地論』,tajjo manaskāraḥ,作意 (東京大学大学院) 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) (157) 分けていることが指摘されている6).この指摘は妥当と言えるが,玄奘訳の「(そ れを)生じる」と,チベット語訳の「それと共に生じる」では,意味がそもそも 異なるとは,考えられていないようである.また,「摂決択分」の tajja- manaskāra-の解釈が取り上げられていない.

4.「摂決択分」における解説 tajja- manaskāra- について,「本地分」の「五識

身相応地・意地」に対応する「摂決択分」では,色蘊の活動領域に関する議論の 中で,次のような解説が見られる.

【チベット語訳】de dang ’byung ba yid la byed pa gang yin zhe na/ gnas yongs su ma nyams pa de dang yul snang ba dang phrad pa de dang/ des sems kyi (sems kyi D; sems can gyi P) ’jug pa mngon par grub pa gang yin pa ste/ (P zi 60b3–4, D zhi 57b3)

訳:「それと共に生じる作意」とは何かというならば,その壊れていない拠り所(感官) と,その顕現と結合した対象と,それによって,「心を向けること」(=作意)が生起す ること,〔が「それと共に生じる作意」〕である. 【漢訳】云何名為能生作意.謂由所依不壊故,境界現前故所起,能引発心所.(Yc 601a19–20) 訳:「能生作意」とは何か.拠り所が壊れていないから,対象が顕現するから,起こされ る〔もの〕であり,心所を引き起こすことができる. ここではチベット語訳,漢訳とも,「本地分」の場合と同様に de dang ’byung ba yid la byed pa と,「能生作意」という訳語を用いており,原語は tajja- manaskāra-であったと推定できる.この説明文では,前半は *tajja,後半は *manaskāra につ いて解説していると考えられる.後半では,manaskāra に対して,「本地分」にお

けるこの語の定義文(cetasa ābhogaḥ)を提示することにより,説明としている7)

前半は,チベット語訳の「それによって…生起すること」(des . . . mngon par grub pa)

と,漢訳の「から起こされる」(…故所起)という表現によって,tajja の意味を説

明していると考えられる.この解説に従えば,tajja の tad を「感官」と「対象」 と理解し,「それから(/によって)生じる」と解釈していることが分かる.

おわりに 

以上,『瑜伽師地論』における,識の生起の三要因に関する説明文の

中の tajja- manaskāra- について考察した.この場合の tajja- manaskāra- に関して, 「本地分」の漢訳とチベット語訳,さらには世親の解説では,様々な理解が見られ るが,「摂決択分」では tajja を「それから(/によって)生じる」という基本的な 意味合いで捉えていることが確認できる.「摂決択分」が示すこの tajja 解釈は, 「本地分」本来のものであると断定はできないが,「本地分」の対応箇所に対する 理解の一例を示すものと言える.このような「摂決択分」の明解な解釈があるに も関わらず,玄奘訳とチベット語訳が「(それを)生じる」「それと共に生じる」と (156) 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) ─ 883 ─

(4)

訳した理由については更に考察の余地がある.

1)この「本地分」の “tajjo manaskāraḥ” などの表現は初期経典の『象跡喩経』に由来する ものであったことが予想される.室寺[2010: 216–219]参照.   2)写本(注 3 も参 照)および漢訳・チベット語訳に基づいて,tasya cakṣurvijñānotpādo(YBh 9, 11)を tajjasya cakṣurvijñānasyotpādo に改めた.tasya cakṣurvijñānasyotpādo(MS 3a4);「所生眼識」(Yc 280a19);de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa(P dzi 5b7, D tshi 5a3).   3)tajjo ’sya (YBh 9, 13)を tajjasya に改めた.tajjasya(MS 3a5);「所生眼識」(Yc 280a20);de las skyes pa’i mig gi rnam par shes pa(P dzi 5b8, D tshi 5a4).   4)漢訳とチベット語訳ではとも に,サンスクリット語テキストの段落 ⓐ の位置に相当する箇所は,眼と色とが揃ってい ても,作意が現前しない,それゆえ眼識の生起はないという表現となっている.その相 違に関して今回は扱わない.   5)室寺[2010: 221–222]参照.また,チベット語の 訳語は Muroji[1993: 15–16]参照.   6)室寺[2010: 218].   7)manaskāra に ついての説明は,チベット語訳 sems kyi ’jug pa は「本地分」における作意の定義文と合 致しているので,サンスクリット語原語は cetasa ābhogaḥ であると予想される(YBh 60, 1; P dzi 34a2, D tshi 30a7–30b1 参照).一方,漢訳の「能引発心所」は「本地分」の漢訳の 「引心為業」(Yc 291c8)とやや異なる.いずれにせよ,この説明文は manaskāra に対して 「本地分」の説に沿って,心あるいは心所を引き起こすはたらきをもつものと解説す る.    〈略号およびテキスト〉 MS 『瑜伽師地論』のサンスクリット写本(Göttingen 大学によって公開された フィルムのコピー).

YBh The Yogācārabhūmi of Ācārya Asaṅga. Part 1. Ed. Vidhushekhara Bhattacharya.

Calcutta: University of Calcutta, 1957. P no. 5536; D no. 4035. Yc 『瑜伽師地論』T 30, no. 1579.

「摂決択分」 See Yc. P no. 5539; D no. 4038. 〈参考文献〉

室寺義仁 2010「ヴァスバンドゥの注意力(manaskāra)解釈――識別(vijñāna)成立のた めの三要件――」『インド論理学研究』1: 213–222.

Muroji, Yoshihito G. 1993. Vasubandhus Interpretation des Pratītyasamutpāda: Eine kritische

Bearbeitung der Pratītyasamutpādavyākhyā. Stuttgart: Franz Steiner.

〈キーワード〉 瑜伽行派,『瑜伽師地論』,tajjo manaskāraḥ,作意 (東京大学大学院) 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) (157) 分けていることが指摘されている6).この指摘は妥当と言えるが,玄奘訳の「(そ れを)生じる」と,チベット語訳の「それと共に生じる」では,意味がそもそも 異なるとは,考えられていないようである.また,「摂決択分」の tajja- manaskāra-の解釈が取り上げられていない.

4.「摂決択分」における解説 tajja- manaskāra- について,「本地分」の「五識

身相応地・意地」に対応する「摂決択分」では,色蘊の活動領域に関する議論の 中で,次のような解説が見られる.

【チベット語訳】de dang ’byung ba yid la byed pa gang yin zhe na/ gnas yongs su ma nyams pa de dang yul snang ba dang phrad pa de dang/ des sems kyi (sems kyi D; sems can gyi P) ’jug pa mngon par grub pa gang yin pa ste/ (P zi 60b3–4, D zhi 57b3)

訳:「それと共に生じる作意」とは何かというならば,その壊れていない拠り所(感官) と,その顕現と結合した対象と,それによって,「心を向けること」(=作意)が生起す ること,〔が「それと共に生じる作意」〕である. 【漢訳】云何名為能生作意.謂由所依不壊故,境界現前故所起,能引発心所.(Yc 601a19–20) 訳:「能生作意」とは何か.拠り所が壊れていないから,対象が顕現するから,起こされ る〔もの〕であり,心所を引き起こすことができる. ここではチベット語訳,漢訳とも,「本地分」の場合と同様に de dang ’byung ba yid la byed pa と,「能生作意」という訳語を用いており,原語は tajja- manaskāra-であったと推定できる.この説明文では,前半は *tajja,後半は *manaskāra につ いて解説していると考えられる.後半では,manaskāra に対して,「本地分」にお

けるこの語の定義文(cetasa ābhogaḥ)を提示することにより,説明としている7)

前半は,チベット語訳の「それによって…生起すること」(des . . . mngon par grub pa)

と,漢訳の「から起こされる」(…故所起)という表現によって,tajja の意味を説

明していると考えられる.この解説に従えば,tajja の tad を「感官」と「対象」 と理解し,「それから(/によって)生じる」と解釈していることが分かる.

おわりに 

以上,『瑜伽師地論』における,識の生起の三要因に関する説明文の

中の tajja- manaskāra- について考察した.この場合の tajja- manaskāra- に関して, 「本地分」の漢訳とチベット語訳,さらには世親の解説では,様々な理解が見られ るが,「摂決択分」では tajja を「それから(/によって)生じる」という基本的な 意味合いで捉えていることが確認できる.「摂決択分」が示すこの tajja 解釈は, 「本地分」本来のものであると断定はできないが,「本地分」の対応箇所に対する 理解の一例を示すものと言える.このような「摂決択分」の明解な解釈があるに も関わらず,玄奘訳とチベット語訳が「(それを)生じる」「それと共に生じる」と (156) 『瑜伽師地論』における tajjo manaskāraḥ 再考(楊) ─ 882 ─

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