陽のあたる戯作 : 蔦屋重三郎の戯作出版をめぐって

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

陽のあたる戯作 : 蔦屋重三郎の戯作出版をめぐって

鈴木, 俊幸

中央大学, 文学部

http://hdl.handle.net/2324/4741868

出版情報:雅俗. 4, pp.11-31, 1997-01-31. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

(2)

洒落本の板元

安永期から天明初年にかけての洒落本で︑板元の素性

を明らかにするものは少ない︒明和七年刊と推定されて

いる﹃遊子方言﹄から︑﹁これに倣ひし猥褻誨淫の小冊

子﹂︵﹃近世物之本江戸作者部類﹄︶︑すなわち︑﹃遊子

方言﹄の様式を踏襲した小本一冊の体裁を備える洒落本

︵上方のもの︑談義本系のもの︑評判記の系列に属する

ものは除外する︶についてざっと眺めてみる︒なお︑そ

れぞれの諸本・書誌については﹃洒落本大成﹄解題の恩

恵を多く蒙った︒ 一︑日陰に咲く花

特 集 新 戯 作 論

﹃遊子方言﹄の初刊本は板元を明示しない︒続く﹃辰

巳之園﹄も同様である︒﹃南江駅話﹄は︑巻末に﹁書陣

南楼堂﹂と見えるが︑これは作の内容にちなんだ一回限

りの戯名であり︑その正体は不明である︒明和八年﹃無

量談﹄の﹁蛾乱堂﹂も同様︒﹃艶占奥儀抄﹄は松栄堂・

紅仙堂二書陣相板の刊記を備える︒松栄堂を称する書陣

にいくつかあるが︑これに該当しそうな者を知らず︑紅

仙堂についても他にその堂号を聞かない︒﹃侠者方言﹄

も板元は不明︒﹃両国栞﹄は﹁板元江戸橋通四日市倉

田屋庄助﹂という刊記が備わる︒これは遊里とは無縁の

小本であるし︑倉田屋庄助の他の出板書は知るところが

ない︒明和年間の刊行と思しき﹃論語町﹄見返には﹁北

椒序梓﹂とあるが︑これもこの本限りの戯名である︒明

陽 の あ た る 戯 作 ー 蔦 屋 重

11

(3)

記.かぷ̲̲̲,,..,践硲ク芯ょ

和九年︵安永元年︶序﹃猿の人真似﹄は刊記を備えない︒

安永二年︑﹃越里気思案﹄にも板元の記事は見当たらな

い︒ 金々先生作﹃当世気とり草﹄は︑刊記に﹁書陣安

原平助﹂とあるが︑これも他に出板書を聞かない本屋で︑

正体が知れない︒偽名の可能性も多分にあろう︒

﹃南

雑話﹄には板元の名前らしきものは見当たらず︑巻末に

﹁好翫蔵﹂とあるのみである︒七月刊の﹃当世風俗通﹄

は︑﹁著々羅館蔵﹂と巻末にある︒これについては︑

﹃後編風俗通﹄の板元で︑江戸下谷池之端仲町に店を構

える書物屋長谷川新兵衛であろうという考証がなされて

いる︵﹃洒落本大成﹄第六巻解題︶︒いずれにしても︑当

該分野のものが︑まともに板元名を記す習慣に乏しいこ

とを証する一例ではある︒﹃きつねのも﹄は︑安永二年

1か三年の成立と推定されているが︑これには板元の記事

はない︒安永三年正月序﹃婦美車紫酎﹄にも板元につい

ての記事は備わらない︒三月刊の﹃古今馬鹿集﹄は江戸

H市鈴木嘉兵衛板であるが︑この板元による他の出板

物については知るところがない︒七月刊﹃里のをだ巻評﹄

刊記には﹁東都書林春寿堂梓﹂とあるが︑これもその

実体は明らかではない︒

そもそも斯様な小冊は︑作者が匿名をもってその実体

をくらますのと等しく︑板元の名も露わにはしないもの

であったようである︒板元主導で成立するというよりも︑

自らの戯れを板木屋や︑懇意の本屋などに入銀して誂え

させるという成立の仕方のものが多かったからであろう

が︑それ以上に︑これらの小冊は︑本来板元がその開板

の責任をとるような筋合いのものではなく︑あくまでも

世の思惑を憚りつつ出すような類のものであったのだろ

う︒地本問屋の主たる流通網を大手を振ってまかり通っ

たとは思えず︑したがって︑絵草紙屋の店頭におおっぴ

らに並べられたりはしなかったはずである︒

﹃近世物之本江戸作者部類﹄洒落本井中本作者部︑田

螺ノ金魚の条に︑彼の作である﹃傾城買虎の巻﹄につい

て﹁甚しく賞玩したりしかは当時板元はさら也なべて貸

本屋をうるほしたりとそ﹂とある︒また︑三馬一九の条

には﹁抑件の洒落本ハ半紙をニッ裁にして一巻の張数三

ッケカナ十頁許多きも四十頁に過きす箪

エハ

仮名のみなれは傍訓

の煩しき事もなく画ハ署画にて簡端に一頁あるもありな

(4)

きもありその板一枚の刊刻銀弐三匁にて成就しぬるを唐

本標紙といふ土器色なるを切つけにしたれハ製本も極め

モトテて易かりされハ本銭を多くせすして全本一冊の価銀壱匁

五分也そか中に大半紙ニッ裁にせし中本形なるは弐匁或

ハ弐匁五分に際きしかハその板元に利の多かる事いへは

さら也貸本屋もその新板なるハ一巻の見料弐拾四文古板

なるを拾六文にて貸すに借覧せるもの他本より多かりけ

れハ﹂とある︒洒落本はもとでがさほどかからず︑その

割に小売単価が高いのである︒このことは︑貸本という

流通機構を専らとする書籍としての資格を洒落本が十分

に備えていることを示している︒製本部数は︑貸本屋の

需要を満たして少々おつりが来るか来ないかといった程

度であったのであろうし︑それゆえの高直な卸値でもあっ

たろう︒現存する洒落本の多くに貸本屋のものと思われ

る墨印を見出すことができるのももっともである︒そし

て﹁貸本屋をうるほし﹂たのは︑仕入れ価格がそもそも

高直であるのに乗じて貸本屋も旨味のある見料設定をし

たからであり︑また︑それをなしうる要件がこの分野の

ものに備わっていたからである︒高疸な見料でも借りて 読もうという客がいたのは︑これらの書の流通の主たるところが貸本屋に限られていたからでもあろうし︑それゆえに持ち合わせているすれすれのあぶない香りがその大きな魅力であったのだろう︒﹁かし本や無筆にかすも持て居る﹂︵明七智

3)

︑﹁かし本や何を見せたかどう

づかれ﹂︵明元智

2)

︑﹁かし本や是ハ御よしと下へ入

れ﹂︵明四礼

9)

︑﹁清少納言御筆とかし本や﹂︵四

0.

9)

の柳句もあるとおり︑貸本屋はいかがわしい本の流

通の大きな部分をになっていたのであって︑洒落本の扱

いもそれらと大きな隔たりはなかったと推測される︒

もう少し続けてみよう︒安永四年正月刊﹃放蕩虚誕伝﹄

の序文に﹁近々堂需に応て﹂とあるが︑近々堂について

もわからない︒五月序﹃東都・青楼八詠井略記﹄につい

ても板元は不明である︒﹃後編風俗通﹄は︑見返に﹁著々

羅舘蔵﹂とあって︑﹃当世風俗通﹄と同じ板元としてよ

く︑その目録に﹁版元池之端長谷川﹂と見えるとこ

ろから︑長谷川新兵衛と推定されている︵﹃洒落本大成﹄

第六巻解題︶︒本書は︑必ずしも遊興の世界に取材した

ものではなく︑﹃当世風俗通﹄の方法を女性風俗にあて

(5)

ざ~~`~、~ヘ"ん お潔蕊配磁子か”さ,・ u•c.、中ふ-·~亡•‘・タご ・[卜→ふ‑ 知m

はめたものである︒世を憚る必然性のやや稀薄なものと

して

よい

安永四年正月刊﹃当世故事附・選怪興﹄は鱗形屋孫兵

衛の刊︒小本の小冊ではあるが︑化物尽しの形式をもっ

て当世風俗全般をうがつ本書を﹃遊子方言﹄来の﹁猥褻

誨淫の小冊子﹂の列に入れるには若干の躊躇を覚える︒

安永五年正月刊﹃当世・妥かしこ﹄も鱗形屋板である︒

これも当世一般の流行現象をうがつもので遊里風俗への

言及の多くはない小冊である︒これらに洒落本という分

類を適用するかどうかについては︑また別の機会に考え

ることとするが︑﹁猥褻誨淫の小冊子﹂とは趣の異なる

ものであることは確かであろう︒これらは︑当然︑鱗形

屋が掌握している流通網に乗って江戸市中の絵草紙屋等

に並べられたことであろうし︑そのことに目くじらをた

てるような内容でもないだろう︒板元名が明記されてい

ることにさほどの不思議はない︒しかし︑いずれにして

も︑小本の戯作という様式が徐々に公然のものとして陽

のあたるところに出始めていることは確かである︒ 富田屋新兵衛と本屋清吉

安永四年七月序の﹃甲駅新話﹄の作者風鈴山人は大田

南畝と推定されていて︑彼の洒落本初作となる︒巻末に

は﹁新甲館蔵書﹂と見えるが︑これも書名に因んだ屋号

であろうとされている︵﹃大田南畝全集﹄第七巻解題︶︒

朱楽館主人︑すなわち南畝の盟友朱楽菅江の作である

﹃売花新駅﹄は安永六年九月の序を備える︒その巻末に

﹁ 甲 駅 新 話 全

/ 世 説 新 語 茶 全

/ 右 先 逹 而 本 出 し 置 申候/書林新甲堂﹂とある︒新甲館すなわち新甲堂で

ある︒安永五i六年頃の南畝作と推定されていて﹁硯蓋

九年房梓﹂と見返にある﹃世説新語茶﹄も︑この板元の

手になるものであることが知れる︒また︑安永八年の刊

行と思しき﹃粋町甲閏﹄は︑板元名を明示しないが︑巻

末目録に﹃世説新語茶﹄﹃甲駅新話﹄﹃粋町甲閏﹄﹃売

花新駅﹄﹃深川新話﹄﹃評判茶臼芸﹄﹃宝合之記﹄の七

点の書目を掲げていて︑この板元の出板物に︑さらに三

点を付け加えることができる︵大東急記念文庫善本叢

刊﹃洒落本集﹄の中野三敏氏による解題にすでに指摘が

(6)

ある

︶︒

山手馬鹿人︑すなわち南畝作と推定されている﹃深川

新話﹄は︑安永八年正月の菅江の序を備える︒これには

板元についての記事は見当たらない︒また︑開口末に安

永四年七月の年記がある﹃評判茶臼芸﹄も大田南畝の戯

作で︑﹁湯銭八文字屋板﹂と巻末にある︒﹃宝合之記﹄

は︑安永三年二月に催された宝合会の記録で︑同年か翌

年の刊行であろう︒この会の主催者は︑島田左内︑狂名

酒上熟昧で︑大田南畝をはじめとして︑文屋安雄︑大根

太木︑橘実副などがここに参加している︒これらも新甲

館の仕事であるということは︑先掲目録によって判明す

るのである︒安永六年か七年頃刊行と推定されている新

宿細見﹃名とり酒﹄は︑巻末に﹁川口阿阿房蔵板﹂と

あるが︑巻末蔵板目録に﹁甲駅新話﹂﹁売花新駅﹂の書

名が見えているので︑これも﹁新甲館﹂の出板と知れる︒

その﹁新甲館﹂﹁新甲堂﹂が市谷左内坂の富田屋新兵

衛のことであり︑文屋安雄という狂名を持つ四方赤良一

派の狂歌師でもあることは︑南畝の﹃奴凧﹄に﹁此宝合

の記一巻︑市谷左内坂富田や新兵衛[曾尚堂といふo狂 名文屋安雄]板行にして世に伝ふ﹂︵﹃大田南畝全集﹄第十巻による︶と見えることから︑すでに多くの先学が

2指摘するところである︒南畝やその文芸仲間の幕臣たち

の近所に住み︑ともにその仲間でもあった︒

思えば︑この記事があってはじめて︑﹁新甲館﹂﹁新

甲堂﹂の正体が知れるわけである︒富田屋のそもそもの

堂号は曾尚堂であり︑﹁新甲館﹂﹁新甲堂﹂は︑かかる

戯作刊行に際して用いられたものとしてよかろう︒作者

が匿名の陰に隠れているのと同様である︒このような小

冊の板行はおおっぴらに行われるべきものではないこと︑

従前と変わるところがない︒﹃名とり酒﹄のごとき吉原

以外の遊里の細見も︑公然と刊行されるものではあるま

い︒少なくとも︑既成の流通網を利用することはできな

かったはずである︒浜田啓介氏﹁小冊子の板行に関する

3

場所的考察ー洒落本の場合﹂の指摘どおり︑駅中での

売り捌きを主としたものであろう︒江戸市中への流通は︑

積極的な形ではなされなかったものに違いない︒他に︑

富田屋の出板について知るところはない︒富田屋は︑お

そらく板元としての営業を主とする者︑問屋ではあるま

(7)

‑""さ 芯ぷ函ゑ応;・:,ふ~`マ-・~氏年•・屯.、:忍心込ふ'て芯芯`苓迄絞お,1,謳匹~棺そ,.屯芸ぺ、一・怒、、こ玲`へふlヽ‑ぶ翠丑・心,‑.‑

い︒一過性の企画︑狂歌仲間など近しい人間の戯れに時

に手を貸して︑板を誂える類の仕事がせいぜいであった

ろう︒板木屋か︑あるいは︑板木屋等に渡りのつく小売

等を主体とした本屋であろうと推測する︒

安永十年の黄表紙評判記﹃菊寿草﹄は本屋清吉が板元

である︒上巻末に﹁安永拾年丑正月/神田鍋町西横町/

同紺屋町二丁目板木師岩崎伝蔵﹂という刊記が据わっ

ていて︑その右に次のような蔵板・近刻書目録がある︒

空 来 先 生

・ 翻 草 盲 目 全 一 冊 奴 通 全 一 冊 縁 日

・ 山 売 大 全 近 刻 大 通 俗 侠 祖 軍 談 近 刻

全部うそ八百巻

本書は役者評判記の形式を摸すことに興じた戯作であ

り︑この広告記事もその体裁を形成する役目を負ってい

る︒もとより真面目なものではない︒しかし︑﹃空来先

生・翻草盲目﹄﹃奴通﹄は実際に刊行されているもので

ある︒ともに板元名の記事が原本には備わらないが︑本

屋清吉の板行に係ることがここで明らかになる︒ 本屋清吉は︑満々堂奈良屋清吉で︑狂歌師普栗釣方として南畝と親しく︑初期の江戸狂歌の世界に遊んでいる︒天明二年ころから江戸狂歌初の企画である狂歌相撲を催すなど︑この遊びに熱心であったが︑天明三年八月二十四日に急死する︒その狂歌相撲の成果は天明四年正月︑今福勇助・満々堂清吉相板の形で﹃狂歌すまひ草﹄と題して世に出ることになる︒また︑それ以前︑天明二年暮

には﹃江戸花海老﹄︑天明三年春には狂歌師名寄せ﹃狂

歌知足振﹄を出すなど︑自身の趣味︑また︑趣味を介し

ての交友関係に基づく書籍を板行している︒﹃菊寿草﹄

もその︱つに数えてよかろう︒﹃狂歌すまひ草﹄の序文

には﹁大江戸はこらのまちにふぐりのつり方なるものあ

りとし頃たはれふみひさきて世をわたれるかた手わざに

たはれ歌このみて﹂とあるが︑出板に積極的な本屋では

なく︑富田屋同様︑南畝等︑近しい人間の作について︑

時に応じて開板の労を取っていたものと思われる︒とな

れば︑﹃空来先生・翻草盲目﹄﹃奴通﹄にしても︑その

あたりの戯作仲間の作である可能性が高かろう︒

傍証によって︑その板元の正体の知れる例を二つ掲げ

(8)

てみ

た︒

いずれも︑作者の知友であり︑作から板行まで

仲間うちの所業である︒その板元は︑必ずしも︑出板を

専らとする本屋ではない︒繰り返しになるが︑洒落本の

ような小冊は︑本来︑大手の板元によって刊行されるも

のではなかった︒たとえ関わることがあるにもせよ︑少

なくとも︑板元名を明示してそれを行うものではない︒

流通についても︑貸本屋に直接卸される場合がほとんど

であるような︑あやしげで︑いかがわしいとさえ言える

書籍であった︒

安永中期以降︑洒落本の刊行はいよいよ盛んになる︒

それは︑まず時の寵児南畝の斯界参加によるところが大

きいであろう︒南畝の仲間である富田屋新兵衛や奈良屋

清吉がこの手のものの板行に関っていることでもうかが

えるように︑洒落本などの小冊の作成に︑狂歌仲間など

南畝や菅江を中心とする者たちが群れをなして興じ始め

たの

であ

る︒

これまでほとんど︑作名は一回限りの使い捨てであっ

て︑作品や作風を指標するものとはなりえなかったが︑

山手馬鹿人や朱楽館主人︑また田螺金魚や蓬莱山人帰橋 といった固定した作名の下に続作し︑それぞれ特色ある作風を展開する作者が出てくる︒安永九年序の﹃遊婦里会談﹄巻末には﹁蓬莱山人帰橋戯作目録﹂を付載する︒固定した作名がその作品に備わるある種の煩向性を保証し︑その作名が享受者を惹き付ける︒この現象は︑黄表紙という戯作の成立・定着という現象と時間的に見合って

いる

﹁恋川春町戯作﹂と銘打った安永四年刊の﹃金々

先生栄花夢﹄以来︑草双紙において﹁作者﹂という指標

が有効になり︑作者たちは︑﹁作者﹂という虚構の人格

4をこの戯作を通じて幻出し︑道化の演技に興じていく︒

それはひとりサ早双紙の世界のみに止まるものではなかっ

安永半ばを過ぎても過半の洒落本の板元は︑匿名の面 た ︒

紗に包まれて見定めがたいか︑あるいは︑他に出板書を

聞かぬような︑出板を専らとしていないような板元がほ

とんどであるような状況であることは変わりない︒しか

し︑洒落本の世界においても︑﹁山手馬鹿人﹂といった

作名や﹁新甲館﹂といった板元名が︑それぞれの生活上

の実体とは距離を保ちながらも︑作品への有効な指標と

(9)

吉原本の流通

吉原に生い立ち︑本屋商売を始めた蔦屋重三郎は︑吉

原細見の改・卸・小売といった吉原関係の草紙の流通に

関ってきた︒血縁・地縁に支えられ︑廓内を中心とした

流通網を掌握していったものと思われる︒安永四年秋に

は自板の吉原細見を開板するが︑この蔦重板細見は他板

を圧し︑天明三年春より︑細見は蔦重が独占的に出板す

ることになる︒丁数の削減によって印刷費用と紙代を節

減し︑他より安く卸すことができたものと思われ︑おそ

らくは︑それが市場の独占につながったのであろう︒と

同時に︑廓内を中心とした主要な吉原細見の流通網を把

捉しえたことが︑廓外の板元のよく太刀打ちできないと

ころであったと思われる︒

その

吉原細見の流通網を主たる販路としたと思しき草

紙の出板も行われる︒安永三年七月刊﹃一目千本﹄︑安 二︑蔦屋重三郎登場 なり始めているのである︒永四年三月頃刊﹃急戯花の名寄﹄は︑いずれも遊女評判記まがいの絵本である︒安永五年正月には︑吉原仲之町の引手茶屋駿河屋市右衛門の著作と思われる﹃姻花清談﹄という読本を出している︒駿河屋市右衛門は︑吉原の実力者であり︑吉原という機構全体の責任を負っている立

6場の人間である︒安永六年八月刊の﹃名月余情﹄は︑吉

原俄の絵本番付ともいうべきものである︒これ以後も︑

俄や灯篭といった吉原行事の番付など︑主として吉原の

遊客に向けた草紙を出し続けていく︒吉原という機構が︑

江戸市中に向けて発信する広告的機能を負った草紙を︑

彼は吉原という機構の一部として発行していくのである︒

安永期︑それも特に半ば以降は︑吉原が印刷による媒体

を手段として︑吉原の広告を積極的に図った時期である︒

それは︑廓内の本屋蔦重の登場によるところが大きく︑

彼はその役割を担うべく登場した本屋であったとも言え

湖龍斎の﹁雛形若菜初模様﹂は︑百点を越す大判錦絵 る ︒

の連

作で

吉原遊女名入りの肖像というこれ以後定着す

る様式の喘矢である︒これが︑吉原という機構の思惑と

(10)

無関係に企画・発行されたとは思えない︒これは︑安永

五年頃から天明初年にかけて西村屋与八が発行したもの

であるが︑その初期のものに﹁耕書堂﹂の印のあるもの

がある︒この時期の錦絵に︑相板のあることはいささか

奇異である︒おそらくこれは︑共同出資︑あるいは共同

製作という意味での通例の﹁相板﹂ではなかろう︒地本

問屋としての商売を始めていないこの頃の蔦重が︑錦絵

の製作に関与したり︑地本問屋の中に立ちまじって絵箪

紙の江戸市中における流通を行っていたりするのは不自

然なのである︒実際︑蔦重の錦絵出板への関与はこれ以

後しばらく確認できない︒

この連作錦絵は︑遊女や妓楼︑そして吉原そのものを

広告する機能を負っている︒江戸市中に散在し︑この錦

絵を懸け並べる絵草紙屋がそのまま吉原の広告塔となる︒

この︑印刷という手段を広告に供する発想は︑この時期

より盛んに行われ始める吉原関係の草紙の発行と一連の

ものであろう︒長期に亙って︑しかも総計百点以上を数

えるこの連作が可能であったのは︑それを後押しする吉

原側の意向があったからであろうし︑また︑廓外の板元 との間に立ってそれを企画し︑差配する廊内の協力者が存在したからでもあろう︒吉原関係の草紙の刊行が蔦重

一人の独断ではなく︑その背後に吉原の実力者︑また吉

原全体の意向が働いていたのと同様に︑おそらく︑この

連作錦絵も吉原と西与との提携の産物と言ってしまって

よかろう︒また︑おそらく鱗形屋板吉原細見の改を業と

し︑安永四年秋からは自板の吉原細見を刊行し始める蔦

重がその協力者であったわけである︒したがって︑これ

も︑他の吉原本と等しい流通網を保持していたであろう︒

すなわち︑遊客への贈答品として︑また茶屋・小間物屋

などにおける土産物の商品として︑廓内での需要もあっ

たはずで︑蔦重はこういった流通網への卸元としても位

置付けられよう︒

ここに︑右の推測を助けてくれる資料がある︒﹁新吉

原仁和嘉女芸者﹂という鳥居清長画の横大々判墨摺りの

一枚絵である︵平木浮世絵美術館展示図録

﹃江

戸美

女競

吉原細見﹄に収載︶︒右端﹁新吉原仁和嘉女芸者﹂とい

う標題の右に﹁天明三卯八月朔日より﹂とあって︑この

年の吉原俄の番付であることがわかる︒番付といっても︑

(11)

その判形や清長の絵の効果を考えれば︑ポスターのごと

き広告効果を考慮した摺物なのであろう︒その左下に︑

山形に三つ巴の商標があって︑西村屋与八板であること

は動かないが︑標題下に︑﹁細見板元小泉忠五郎/蔦

屋重三郎﹂とある︒連名の二人はこの摺物の板元ではあ

りえない︒この提携は︑廓外の板元が廓内の情報をもと

にした印刷物を発行するに際して︑その情報を︑また廓

内や廓周辺への流通を確保しようとしたものであろう︒

また︑この記事は︑手続き正しく吉原の御墨付を得てい

る確かな摺物であるということの証しでもあったのでは

なかろうか︒逆に︑市中の絵草紙屋に流通の便を持って

いない吉原が西村屋与八と提携したという捉え方も可能

である︒いずれにしても︑この摺物は西村屋与八と吉原

という機構との提携によるものと捉えるべきであり︑小

泉忠五郎・蔦屋重三郎は吉原という機構を代表して︑そ

の広報を担当する者という扱いである︒

かくのごとく︑天明の初め頃まで蔦重の営業の大きな

柱は吉原関係の草紙であり︑彼が掌握している流通網の

主たるところもそれらが流通するところであった︒ 安永六年七月︑朋誠堂喜三二作﹃娼妃地理記﹄を蔦重は刊行する︒見立とうがちの妙に支えられた諧諌は戯作の骨法を見事につかんで本書を一級のものとしている︒喜三二という恰好の人材を得て当世流行の戯作の出板に乗り出した格好である︒しかし︑妓楼を国に︑遊女を名所に見立てて評判を行う本書は︑安永三年七月﹃一目千本﹄︑安永四年三月﹃急戯花の名寄﹄と同想の企画である︒すなわち︑これまで刊行された蔦重板吉原ものの草紙と同じ流通網に乗せることを前提として開板されたものと捉えるべきである︒浜田啓介氏は前掲﹁小冊子の板行に関する場所的考察ー洒落本の場合﹂で︑﹃一目千本﹄を︑遊郭に於ける無駄遣いを前提にした冊子とし︑これに続いて廓内外流通の冊子として﹃大通人好記﹄﹃娼妃地理記﹄﹃滸都洒美撰﹄の類をあげるが︑首肯すべき見解であると思われる︒

堂々と﹁耕書堂梓﹂と謳っているのは︑これが︑いか

がわしい冊子として日陰を流通するものではなくて︑公

許の遊里吉原の意向を負って︑吉原関係の草紙のしかる

べき流通に廻るものという建前で製作されたからであろ

(12)

う︒したがって﹃娼妃地理記﹄が今後の蔦重の盛んな戯

作出板に繋がるものであるとしても︑たまたま戯作の名

手の手にかかってしまった結果そうなったにすぎず︑当

時としてはあくまで︑吉原本の一っとして発想されたも

ので

あっ

た︒

蔦重の黄表紙出板

安永六年にその黄表紙の初作が世に出て以来︑黄表紙

作者としての朋誠堂喜三二の名は市中に喧伝されること

になる︒蔦重が喜三二の作品を主たる柱として黄表紙の

出板を始めたのは︑その三年後の安永九年のこと︑喜三

二と蔦重との陀懇ぶり︑また︑天明期の黄表紙の板元と

しての蔦重の仕事ぶりから逆に考えると︑時機を逸して

いささか遅いような気もする︒

安永九年刊の黄表紙﹃伊逹模様・見立蓬莱﹄の巻末広

告は︑蔦重の黄表紙出板を言祝ぎ︑今後の商売繁盛を予

祝するものである︒芝居の舞台を描き︑その右に外題看

板︑上部に﹁左に記す短尺の外題は則是子年新版﹂とあ

り︑外題の角書風に﹁耕書堂ときこえしは花のお江戸の 新よし原大門口と日本堤の中にまとふや蔦かづらったや璽︱一が商売の栄﹂とし﹁当世御絵双紙/御求御らん可被下候﹂と大書する︒舞台の桜には書名を記した短冊が下がり︑それが新板目録となる︒掲げられた書目は﹃伊逹模様・見立蓬莱﹄﹃うそ八百・万八伝﹄﹃夜野中狐物﹄﹃龍都四国噂﹄﹃威喜千代牟物語﹄﹃口合はなし目貫﹄﹃舛落はなした子﹄の七点である︒ここから蔦重の黄表紙出板が始る︒

この新板目録に載る﹃舛落はなした子﹄と﹃口合はな

し目貫﹄は︑安永七年十一月序﹃青楼吉原咄﹄︵仮題︶

を二つに分け︑黄表紙に仕立て直したものである︒﹃青

楼吉原咄﹄は中本四巻四冊の絵入噺本で︑草双紙の造本

形態に近い︒それでもやはり︑巻末に刊記のあるところ︑

また︑序の年記が十一月であったり︑表紙・判形︑また

画風が当時の草双紙のそれとは微妙に異なるところなど︑

草双紙の列に組み入れるには違和感が大きい︒全編吉原

に関係する小咄を集めているところも︑これまで蔦重が

刊行し続けてきた吉原本の延長としての位置づけを自然

なものとしている︒つまり︑そもそも吉原細見や吉原関

(13)

係の草紙と同じ流通機構に載せるべく発想されたものと

考えるべきである︒この体裁の変化は︑そのまま蔦重の

掌握する流通網の変化を象徴しているのである︒草双紙

の流通網は︑当然のことながら︑吉原本の流通網とは異

なる︒草双紙の板元のほとんどは錦絵の板元と重なる︒

7つまり︑草双紙は振り売りされる場合もあるが︑江戸市

中に散在する絵草紙屋を主たる流通機構として想定され

ている出板物と見てよい︒﹃青楼吉原咄﹄と﹃舛落はな

した子﹄﹃口合はなし目貫﹄とは︑体裁を変えた時点に

おいて︑中身は同じでも別扱い︑性格の異なるものとな

る︒蔦重板黄表紙が安永九年まで刊行されなかったのは︑

草双紙系の出板物の流通網に蔦重が関与していなかった

から

であ

る︒

蔦重板の往来

物出

板は

安永九

年三

月刊の﹃商売往来﹄

と﹃耕作往来千秋楽﹄の二点の中本ものから始る︒これ

が ︑

黄表紙出板の開始と同年であるのは偶然ではない︒

往来物も地本問屋の扱うものである︒他の地本と似たよ

うな流通網にのって人々の手に渡ったはずである︒

詳しくは別稿を用意する予定であるが︑地本問屋の数︑ またその中におけるそれぞれの分野に関与する本屋の数は一定程度に押さえられていたようである︒その時々に

おいて揺れがあり︑また︑時代が下るにしたがって増加

する傾向にはあるが︑それでも︑そこに秩序だったもの

を認めることができる︒おそらくそれは︑市場へ参入す

る権利と職人の確保の関係によって保たれていたものか

と思われる︒樋口二葉﹃浮世絵と版画の研究﹄︵日本書

誌学大系三五︑一九八=一年十月︶に﹁此の地本問屋と云

ふものは江戸中には随分あったけれど︑主なるもの則ち

一流の画エと常に関係を有ち︑組合を立て各店の出版物

を予じめ告げ︑互に同じ錦絵の出版を防ぐ団結をして居

た問屋が十一軒と︑仮組と称する問屋が七軒あつて︑多

<此の十八軒の間屋で新板物を引受け︑其の余が組合以

外の絵草紙屋の手に廻るのであるが︑特別の事情があっ

て画工に直接関係があるか︑又組合問屋の承諾が無い以

上は一流の画工の絵を出版することは殆ど不可能であっ

た﹂とある︒これは仲間結成後の話であるが︑結成以前

についても︑問屋の主だった者たちの間でお互いの利権

を守るために調整を図ることが行われていたと考えられ

(14)

る︒また︑さようの調整に頼らずとも︑それぞれの問屋

が卸し先や職人たちをそれぞれ掌握している以上︑その

中に新規に参入するのは困難であったであろう︒

蔦重が黄表紙を初めとする地本出板の世界に参入した

その安永九年という年は︑鱗形屋孫兵衛がこれまで続け

てき

草双紙出板を休止した年でもある︒鱗形屋に代わっ

て︑彼が抱えていた職人を使い︑彼の押さえていた流通

機構に乗せるべく︑蔦重板草双紙が製作されたと考えて

よかろう︒蔦重は︑この年︑鱗形屋の草双紙出板休止を

機として地本問屋の一角に進出したのである︒

他に同様の例をあげるとすれば︑天明六年より榎本屋

吉兵衛と西宮新六が草双紙の出板を行うが︑これは︑岩

戸屋

喜一

一郎の撤退を待つように始められている︒

また

天明九年より開始される秩父屋の草双紙出板は︑奥村源

六の草双紙出板が行われなくなったあとで始められてい

る︒また寛政三年より和泉屋市兵衛板の草双紙が見られ

るが︑これまた︑大和田安右衛門と交代するような形で

行われるのである︒商品の過剰が共倒れを招かぬよう︑

絵草紙屋等小売業者との需給の平衡を保つ機能が働いて いたと考えられよう︒

鱗形屋孫兵衛は︑天明三年より草双紙の出板を再開す

るが︑同年九月に蔦重は︑丸屋小兵衛の店舗と蔵を購求

し︑通油町に進出する︒それは︑丸小が掌握してきた地

本問屋としての製作・流通に関わる利権を購求したこと

にもなろう︒おそらく蔦重の錦絵板元としての活躍はこ

こから始ることになると思われる︒

三︑日なたの戯作

安永末から天明初年︑洒落本の発行はいよいよ盛んで

ある︒開板は︑半ば憚りつつも︑半ば以上は︑公然と行

われるようになる︒帰橋など︑ますます健箪ぶりを発揮

する︒

同様︑南陀加紫蘭︵窪俊満︶や桃栗山人柿発斎

︵烏亭焉馬︶のごとき固定した作名で続作を刊行し続け

る者たちが多く登場する︒南畝等を中心として狂歌・戯

作の愛好者が集い︑その集りが︑また︑彼らが競うよう

に興じ始めるこの新しい遊び自体が﹁会﹂のごとき様相

を呈しはじめる︒通という美的理念を共通の合言菓とし

(15)

穿̲,,̲,,.も吝~=磁l<.,~ぶ嫁睾'・'"""~""''''''"'、-. 缶守.只烹虹窃窃、``応^‘磁叫·、.•• ... ふ " 芯 臨 翠 遠 捻 匹 マ

て戯れる世界としてこの様式の文芸が一層機能し始める︒

作者として︑あるいは読者としてその世界に遊ぶことが︑

通に適う行為となる︒作者人口は増大し︑この戯れはさ

9らに世間の注目を集めていくのである︒

南畝に近しい人間の手になるもの︑それと推測させる

ものを安永八年あたりのものから拾ってみると︑安永八

年正月序﹃雑文穿袋﹄︑同年中の刊行と思われる﹃大抵

御覧﹄は朱楽菅江の作︒後者には南畝の序が添えられる︒

先にも触れたが︑同年正月序﹃深川新話﹄は南畝の作と

推定され︑朱楽菅江の序文を備える︒同じく南畝作と推

定されている﹃粋町甲闇﹄﹃南客先生文集﹄もこの頃の

刊行と考証されている︒同年同月序﹃無頼通説法﹄は恋

川春町の作︒黄表紙的な道化がそのまま洒落本の世界に

横滑りしていく︒日陰にも陽が差さざるをえないという

妙ちきりんな話になってきた︒安永九年刊﹃初葉南志﹄

は小松屋百亀の作︒﹃弁蒙通人講釈﹄は強異軒作︒何者

とも知れぬが︑朱楽菅江の序を備える︒﹃玉菊燈篭弁﹄

は紫蘭作︒﹃口学諺種﹄の作者泥田坊はすなわち狂歌師

の鳴瀧音人である︒﹃奴通﹄﹃空来先生・翻草盲目﹄が 奈良屋清吉の出板であり︑いずれ︑南畝や清吉に近しい仲間のうちの誰かの作になろうとは︑既に指摘した︒安永十年︵天明元年︶になって︑萬象亭の初作﹃真女意題﹄が出る︒紫闇に﹃娼売往来﹄﹃舌講油通汚﹄の作もある︒また︑七月序﹃無陀もの語﹄は雲楽山人の作である︒

彼らの交遊の場として安永末よりますます盛んになる

江戸狂歌は︑会的な組織としての機能を高めていく︒様々

な分野のオ子たちがそこに群れ集い︑様々な分野の作り

手逹が交錯する︒黄表紙と洒落本と︑両方で才能の徒花

を咲かせる者が多くなってくる︒そして︑作者の側にお

いて︑そもそもが筋の異なるものであった戯作間におけ

るけじめに対する意識が希薄になってくると同時に︑そ

れらを製作し流通させる機構の方においてもけじめが見

失なわれてくることになる︒

蔦重板の洒落本

喜三二の﹃娼妃地理記﹄﹃大通人好記﹄を数えなけれ

ば︑蔦重が最初に手掛けた洒落本は天明元年刊﹃東西南

北・突当富魂胆﹄となる︒西奴作とあるが︑西奴の何者

(16)

であるかは分からない︒紫蘭の序文を備えるので︑いず

れその周辺の人間ではあろう︒この洒落本には刊記が無

く︑該書のみからは︑板元の知れぬこと︑洒落本一般の

特性に通う︒吉原細見付載蔵板目録に本書の名が見られ

るところから︑蔦重板であることがはじめて了解される

ので

ある

天明二年に蔦重板の洒落本出板は見られないが︑天明

三年には︑喜三二の﹃柳巷訛言﹄︵恋川春町画︶︑唐来

三和の﹃三教色﹄︵志水燕十序︶︑志水燕十の﹃滸都洒

美撰﹄︵四方山人・朱楽菅江序︑喜三二跛︶︑雲楽山人

の﹃契情手管・智恵鏡﹄︵志水燕十跛︑歌麿跛︶を刊行

する︒ただし︑先に触れたように︑﹃滸都洒美撰﹄は︑

吉原ものの草紙の流れの中に位置するものである︒また︑

この春の吉原細見付載の蔵板目録には﹁穴遣五音相通 一冊蓬莱山人帰橋著近刻﹂とあり︑この書は未刊に

終わったものの︑蔦重の洒落本開板に対する意欲のほど

がうかがえよう︒

﹃滸都洒美撰﹄巻末には︑﹁滸都洒美撰之大意﹂と題

する後序があり︑末に﹁卯そをつきそめの春耕書堂主

人述﹂とある︒その左に︑﹁後編・錦妓諸雅是は此扁

に追而評と致し置候名所其外此本にもれたるを改あらは

し来ル辰年春御覧に入レ可申候/四方山人麻惚子作平 家 惣 勘 定 全 一 冊 出 来 袋 入 絵 本 平 家 の こ と を 当 世 風 にかきたる面白き本也/志水ゑん十作模聞雅話全一 冊出来袋入絵本化物を大通に仕立客物かたりをする

本也﹂と広告を載せ︑末に﹁新吉原大門口/細見改所板

元/耕書堂蔦屋重三郎梓﹂という刊記を備える︒蔦重

の跛文を備え﹁細見改所板元﹂とあるあたり︑﹃三教色﹄

の刊記とは意識の異なっていることが明らかである︒あ

くまでも︑吉原関係の冊子の板元としての仕事というわ

けである︒つまり︑世を憚る必要のあるいかがわしい冊

子などではなく︑公許の遊里吉原の意を代弁する仕事と

いうわけなのであろう︒板元が堂々と後序を載せている

のも道理である︒

﹃柳巷訛言﹄は咄本の形態を摸した喜三二の洒落本で

ある︒この刊記はいささか異様である︒﹁天明三年癸卯

正 月 日

/ 東 都 書 林 四 日 市 上 総 屋 利 兵 衛

/ 通 油 町 鶴

屋喜右衛門﹂とあり︑これだけ見ると上総屋利兵衛と鶴

(17)

屋喜右衛門との相板のごとくであるが︑その右にある広 告 は

﹁ 通 詩 選

︵ つ う し せ ん

︶ 四 方 山 人 撰 唐 詩 選 を

当世の通に仕立たる本也/三教色︵さんきやうしき︶

来 参 和 著 神 儒 仏 女 郎 買のしやれをしるす/青楼遊君 之 容 大 絵 錦 摺 百 枚 続 北 尾 政 油 筆 其 君 の 自 詠 を 自

筆にてしるし初衣裳生うつしに仕候正月二日より追/\

売出し申候/此書後篇追/\正説をあつめ差出し御覧に

入可申候﹂とこの年刊行の蔦重板を二点掲げ︑末に築書

で﹁耕書堂蔵﹂の四文字を据えている︒本書は︑当春細

見等︑同年刊の他の蔦重板本広告にも掲載されており︑

また︑後摺本も蔦重板である︒作者との関係を考慮に入 れても︑これがもともと蔦重板であることは動くまい︒

上総屋利兵衛と鶴屋喜右衛門とは︑この作品の流通面に

おける提携を蔦重と取り結んだ書陣ということになろう︒

上総屋については︑あとでまた触れるが︑天明末より洒

落本の板元ととして節操なきほどの盛んな商売をする人

間である︒前掲浜田啓介氏論考が指摘するように︑彼が 店を構える四日市という場所は︑遊所への墓地であり︑

風俗的な冊子の卸し元が存在する場所として相応しい︒ 一方の鶴屋喜右衛門は︑日本橋通油町の老舗の地本問屋で

ある

︒つまり︑咄本の形式による洒落本である本書

は ︑

ちょっといかがわしい風俗的冊子であるとともに︑喜三

二作

春町画という草双紙界きっての豪華な顔ぶれによ

る咄本としての流通も見込まれていたと考えられる︒ま

た︑同時にこの時期の蔦重が︑どちらの筋の流通につい

ても︑完全に掌握しきれてはいなかったということも示

していよう︒

﹃三教色﹄巻末には﹃通詩選笑知﹄﹃滸都洒美撰﹄

﹃柳巷訛言﹄三点の広告を備え︑その左に﹁天明三癸卯

正月日/地本問屋新吉原大門口蔦屋重三郎﹂という 刊記がある︒これまで︑﹁本問屋﹂という肩書きはあっ

たが︑﹁地本問屋﹂を名乗っているものはない︒これが

蔦重板においてこの肩書きが現れる最初である︒﹃通詩

選笑知﹄は狂詩集︑﹃滸都洒美撰﹄は︑吉原本︑﹃柳巷

訛言﹄は咄本と言えば言えなくもないもの︑というとこ

ろで︑この肩書きを堂々と使用することについての言い

訳は︑この新板目録については立つであろう︒しかし︑

この刊記を備える冊子は純然たる洒落本なのである︒

(18)

これまで見てきたように︑地本問屋が﹁猥褻誨淫の小

冊子﹂を堂々と刊行したことはなかった︒ここに来て洒

落本を取り巻いてきた空気が一挙に変わってしまったこ

とに感嘆を禁じ得ない︒あの背徳の雰囲気はどこにいっ

たのだろう︒作者も板元も一回性の戯名をもって発行さ

れる︑あの危険な香りはどこへいってしまったのだろう︒

洒落本はすっかり日なたのものとなってしまっている︒

蔦重の登場は︑戯作を一変してしまったといってもよい︒

蔦重が加わることによって︑洒落本総体における流通

網が変化したのである︒蔦重板の流通にはけじめが無い︒

先に紹介したように﹃滸都洒美撰﹄巻末新板目録には︑

袋入本ではあるが︑二点の草双紙を載せる︒本来ならば

﹃滸都洒美撰﹄は︑板元としての営業を始めて以来保持

してきた吉原本の流通網に乗るべきものである︒草双紙

は︑地本問屋として︑絵草紙系統の流通に乗せるべきも

のである︒そして︑どちらの流通網にも関るべきではな

いものが︑今日洒落本と称される風俗的な冊子であった

はずである︒蔦重は吉原細見に蔵板目録を付載する︒年

二回の定期刊行物である吉原細見を自店の広告媒体とし ても機能させたのである︒その着想はいかにも蔦重らし

い︒その目録には︑絵本・狂歌本・戯作・往来物など取 1 0

り混ぜて並べられている︒洒落本に近い内容を持たざる

をえない戯作化した吉原本の存在が一線を踏み越す契機

となり︑さらにもう一線を踏み越えて草双紙系の流通網

ともないまぜとなるのである︒

前述したように︑この年の九月に通油町に丸小の跡を

購求する︒絵双紙系統の一段と強力な流通網を確保した

わけであり︑吉原本や様々な質の戯作がここから江戸市

中に流通することになる︒当然︑右の傾向はますます顕

著になっていくのである︒

折しも︑江戸狂歌が爆発的な流行を迎えた年である︒

蔦重は狂歌の仲間として狂歌師・戯作者たちの中に立ち

"

i

交り︑彼らの戯れの産物を発行していく︒遊びを完結さ

せるものとしての出板という行為が至便に明確に位置づ

けられることになるとともに︑彼らの行為がそのまま広

告的営為となり︑彼らの作名と︑それ以上に蔦重店の名

とを高めていく︒また︑狂歌・黄表紙・洒落本等々︑あ

らゆる領域にまたがって明る<諧諒をつくしていく彼ら

(19)

の所業が︑それぞれの領域毎に本来備わっていた社会的

けじめを曖昧なものにしていく︒そして︑その一種自在

な境地といえばいえなくもないものをもたらしたのは︑

蔦重の存在であったのである︒

﹃近世物之本江戸作者部類﹄に﹁記者の云寛政の初の

比秋七月十四日の下哺に予通油町にてわかき法師の耕書

堂に立よりて洒落本幾種か買とるを見たりしに﹂という

くだりがある︒この記者は続けて︑盆の棚経の布施をもっ

て洒落本の支払いに充てているこの法師の様を述べ︑

﹁一時漫戯の小冊といへとも誨淫導慾の世の後生に害あ

ること法師といへともかくの如し﹂と結ぶ︒

いささかためにする言のようでもあるし︑事実である

か否かを確認するすべもないが︑このような光景が︑不

自然ではないとは言わないが︑けっして考えられないも

のではなくなっている状況であったことは確かであろう︒

日陰の花も日なたに咲き誇ることになった︒花の質も

おのずと変わることになろう︒ 蔦重の挙はこれまでの慣習の一線を曖昧にし踏み越えるものであった︒そしてそれに加えて京伝人気がその傾向を一

層助長した︒天明五年︑山東京伝洒落本の初作

﹃息子部屋﹄が蔦重より刊行される︒同年に刊行された

黄表紙﹃江戸生艶気樺焼﹄をはじめとする諸作は︑黄表

紙作者としての彼の人気を不動のものとする︒そしてそ

の人気は︑彼の作品を目玉商品として市中に広告してい

く本屋の行為によってさらに増幅されることになる︒

蔦重以外にも︑名の通った板元が︑その名をもってこ

の﹁猥褻誨淫の小冊子﹂板行に参入してくる︒伏見屋善

六は絵草紙の板元として明治にまで活躍する本屋である

が︑天明六年︑萬象亭の洒落本﹃福神粋語録﹄を刊行す

る︒その巻末には﹁戯作目録﹂と題する蔵板目録を付載

しており︑風来山人の戯著を中心に三十三点の書目を掲

載している︒京伝の洒落本も︑天明九年には﹃志羅川夜

船﹄を出し︑その巻末付載の﹁戯作目録﹂には︑これら

二点の洒落本の名前を見出すことができる︒寛政二年に 乱れ咲き・狂い咲き

(20)

は﹃京伝予志﹄を刊行している︒洒落本刊行には︑かな

り積極的で同年には梅暮里谷峨の﹃文選臥坐﹄を出して

もい

る︒

また︑多田屋利兵衛も二点の京伝洒落本を刊行してい

る︒天明九年の﹃廓大帳﹄と寛政二年の﹃繁千話﹄であ

る︒前者には巻末に蔵板目録を付載し︑﹁新板﹂として

﹃廓大帳﹄を掲載するほか﹁再板﹂として﹃廓中奇諒﹄

﹃辰巳の園﹄﹃婦美車紫蔚﹄の三点を掲げる︒旧板を買

い集め︑この分野に乗り出そうとしたのであろう︒後者

の蔵板目録は﹃繁千話﹄を加えて五点となる︒多田屋は

﹃外題作者画工書陣名目集﹄に日本橋南組貸本屋世話役

として記載されており︑貸本の営業が中心であったよう

で︑かかる小冊の板元として相応しいといえば︑相応し

上総屋利兵衛板の洒落本はよく見かける︒ほとんど旧 ︑ ︒

板を求板したものである︒これまた︑ほとんどの巻末に

自板の洒落本の書目を付載する︒﹃近世物之本江戸作者

部類﹄洒落本井二中本作者部に︑寛政八九年に出された

新板洒落本四十二種が咎めを蒙った一件のことが記され ている︒ほとんどの板元が貸本屋であったが︑その中に交じって︑書物間屋若林清兵衛とこの上総屋利兵衛がいた︒若狭屋は﹁身上半減の闊所﹂︑上総屋は﹁日本橋四日市なる書物問屋上総屋利兵衛ハ先年もかAる事あり今

度ハ再犯たるにより軽追放せられけり﹂となる︒常習犯

であった︒寛政三年の山東京伝洒落本三作が咎められ︑

関係者が処罰されて以降︑洒落本はふたたび陽の当たら

ぬもとのけじめの世界に戻っていく︒日陰の流通には危

険とそれに相応する旨味がある︒この分野に大きく手を

広げていた上総屋はその味のよろしきに足を洗いきれな

かったのである︒

鶴屋喜右衛門も︑天明七年に︑萬象亭の﹃田舎芝居﹄

と京伝の﹃古契三娼﹄を刊行し︑洒落本の出板に乗出す︒

天明八年には︑京伝の序を付けて山東鶏告・山東肝洲合

作の﹃夜半の茶漬﹄も出している︒地本間屋の老舗が乗

り出してきていることの歴史的意義は大きい︒しかし︑

これらは全て蔦重の求板するところとなる︒おそらくは

寛政の初め頃のことであろう︒蔦重の側がかなり積極的

に京伝の著作を集めようとしていたことは確かであるが︑

(21)

蔦重の洒落本出板は︑京伝のものを軸としてますます

盛んに刊行される︒寛政三年正月刊の京伝作﹃仕懸文庫﹄

﹃錦

裏﹄﹃娼妓絹籠﹄の巻末には︑﹁晒落本類目録﹂

と題して二十点の既刊書を掲げ︑その末に﹁山東京伝戯

作﹂として未刊のものを含めて七点掲げている︒同様の

目録は︑袋入の黄表紙などにも付載され︵例えば︑東博

本﹃悪魂後編・人間一生胸算用﹄は巻末に﹁辛亥年新版

洒落本名目﹂を付載する︶︑いよいよけじめの無い様相 * *  鶴喜が洒落本出板からあっさりと手を引いていることの方を︑むしろ注目すべきかもしれない︒寛政三年に蔦重

から出された京伝洒落本三点が処罰の対象となったこと

を考えあわせれば︑実にいい潮時に足を洗ったことにな

る︒折しも寛政改革下の道徳教化・風俗矯正の空気が流

れる中︑時事に取材した黄表紙が異様にもてはやされ︑

地本問屋の仲間も結成させられる状況を冷静に考えれば︑

この地本屋界の野放図な様相は危険なものと判断されて

しかるべきなのである︒

4  3  2  森銑三﹁洒落本雑記﹂巻

︱ ︱ 一号︑昭和九年三月︶︒

浜田義一郎﹁山手馬鹿人の問題﹂

第十

二号

︑ 一九六五年十月︶等︒

﹃近世小説・営為と様式に関する私見﹄

三年十二月京都大学学術出版会刊︶所収︒ 拙稿﹁板元と作者ー草双紙を中心にー﹂︵﹃国

文学・解釈と鑑賞﹄五九ー八︑一九九四年八月︶

参照

拙稿﹁板元以前の蔦屋重 ︒

三郎

﹂︵

書誌学月報﹄

第三九号︑一九八九年六月︶等に詳述した︒

︵一

九九

を呈している︒

そしてこの年︑周知のごとくこの京伝作の洒落本三点

が咎めを蒙る︒京伝は手鎖五十日︑蔦重は身代半減の重 過料の刑となる︒おかみの目もあながち節穴ではなかっ た︒狙いは的を外していない︒

︵﹃

近世

文芸

﹃国語と国文学﹄第十

(22)

[ I 

6 拙稿﹁﹃青楼奇事・姻花清談﹄の作者﹂︵﹃読本研

究﹄第五輯︑一九九一年九月︶で詳述した︒

拙稿﹁正月の草双紙売り﹂︵﹃紀要ー中央大学文

学部ー﹄文学科第六十九号︑一九九二年二月︶を

参照願いたい︒

天明三年正月︑北尾政油の﹁青楼名君自箪集﹂と

題する大々判の遊女の錦絵を蔦重は刊行している︒

これは天明四年正月に﹃吉原傾城・新美人合自筆鏡﹄

という画帖に仕立て直されて出板されが︑これに照

らしても︑広告にうたっているごとく︑百枚の点数

には到底いたらなかったと思われる︒﹁大絵﹂と広

告にあるごとく︑様式も通常の錦絵とは異なり︑ま

た︑遊女の筆跡入り肖像集という発想も︑これまで

手掛けてきた吉原本に通うものである︒必ずしも絵

草紙屋向けのものとして企画されたものではなかろ

う︒百枚の計画が途中で頓挫し︑連作錦絵の出板と

しては﹁雛形若菜初模様﹂のように成功しなかった

のも︑錦絵の流通に蔦重が全たきを得ていなかった

からかもしれない︒ このあたりのいきさつについては拙稿﹁戯作と蔦

屋重

三郎

︵上

︶﹂

︵﹃

中央

大学

国文

﹄︱

︱︱

五号

︑一

九九

二年三月︶で考察したことがある︒

1 0

拙稿﹁蔦重板細見とその付載広告﹂︵平木浮世絵財団発行展示図録『江戸美女競•吉原細見』(-九

九五

年九

月︶

︒ 1 1

拙稿﹁狂歌界の動向と蔦屋重三郎﹂︵﹃江戸文学﹄

第六号︑一九九一年六月︶でその間のいきさつを考

察し

た︒

︐ 

Updating...

参照

Updating...

関連した話題 :

Scan and read on 1LIB APP