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日本の歴史

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日本の歴史

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『江戸が東京になった日 :

    明治二年の東京遷都』

佐々木克著(講談社選書メチエ 講談社 2001)

本書の請求記号 210.58‖Sas

稲垣 宏行

 変革を行うには多くの困難が伴います。特に 数百年も前に生じた変革については、我々は実 際に見た訳ではなく、後から見ているため、そ こに何の滞りも無かったのだと錯覚し、困難で あった部分を軽視しがちです。 

 江戸城が開城した慶應 3(1867)年頃、大久 保利通ら明治政府の首脳が計画した江戸遷都 も、実現までに多くの障害と試行錯誤がありま した。しかも、当初は大坂(現大阪)が有力で 江戸はまだ候補に挙がっていませんでした。当 時、大坂は商業・流通の中心地で、諸侯を統制 する上でも利便性のある地だと考えられていた からです。 

 幕末期、京都には多くの武士が集い政治上の 重要拠点となりました。しかし、京都ではなく 大坂を首都に定めようとしたのは、新しい政治 体制を組織するために従来の場所から離れる必 要があったからです。ところが、この大坂遷都 論に触発される形で、驚くことに幕臣の前島密 らが江戸遷都論を大久保に上申したことが、江 戸が首都となるきっかけになりました。彼らが 江戸を推薦した理由として、蝦夷地の開拓を視 野に入れていることや、その当時の江戸が人口 や土木・建築技術において世界の首都と見劣り しないものであったことなどを挙げています。

大久保らは今後の徳川家の処分に加えて、明治 政府内部から江戸遷都論が少なからず出たこと もあって、江戸を首都とする方向に傾いていっ たようです。

 本書で最も重要と考えられるのは、明治政府 が江戸遷都について明言を避けていた点です。

当初この計画は東にも都(首都)を拵える、す なわち両都論として主張されていたのです。こ の両都論は前島密と同じく江戸遷都を支持して いた佐賀の大木喬たかとう任、江藤新平が主に唱えてい ました。明治政府は計画の布石として明治天皇 に江戸への行幸を促しました。しかし、現実に は岩倉具視ら公家たちからの慎重論が強く、公 表にも難儀をしたと言われています。ただ、岩 倉らが京都への配慮から行幸に難色を示してい たのに対し、三条実美のように行幸に積極姿勢

を示していた公家もいたようです。最終的に三 条ら行幸を支持する公家の存在もあって、3 ヶ 月かかって明治元(1868)年 9 月頃、実現にこ ぎつけましたが、遷都自体については、明治 2

(1869)年に皇城とした江戸城に天皇が入城し た後も明確な声明はなく、なしくずし的に江戸

(1868年 7 月17日より東京に名称変更)を首都 にする形となりました。

 遷都自体は奈良時代、平安時代にも行われて いたことで、前例の無い事例ではありません。

しかも、明治政府は徳川幕府を倒して勝者と なった以上、躊た め ら躇う必要はなかったとも考えら れます。それでも遷都という表現を避け続けて きた理由は、一千年以上の伝統を持つ京都に対 して憚はばかりを感じていたからだと著者は述べてい ます。

 このように変革は、その内容が斬新で、旧来 の制度や慣習などを大きく変えてしまうものほ ど実行は困難になります。後の四民平等や徴兵 制度に見られる武士階級の撤廃の場合、武士の 強い反発を招き、最後は西南の役に見られる戦 争に発展しました。

 現代も、政治家によって多くの社会・政治改 革案が提唱されていますが、反対勢力の抵抗な どで成立を見ずに頓挫したものもあります。ま た、実施に持ち込めても、それが理想とは違い、

地域や国民の利害にそぐわぬ結果に終わった改 革も存在します。したがって、いつの時代でも 改革は現状を大きく変えてしまうことが前提で あり、立案前に広範な視点からの検討を積み重 ねることが求められます。

 本書の主題は東京遷都に搾られていますが、

その中で述べられた変革の困難は、日本史全体 に当てはまることだと思います。そして、その 歴史の中で苦慮を重ねてきた先人達の行動を見 ていくことによって、現在の政治改革において もなすべきことが見えてくるのではないかと考 えます。

いながき ひろゆき(司書・情報サービス課)

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