九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Legendes De Saint Savin, Traduction Japonaise : Etudes sur l'histoiro de l' Abbaye de Saint- Savin-sur-Gartempe Ⅰ
森, 洋
https://doi.org/10.15017/2235335
出版情報:史淵. 107, pp.49-89, 1972-02-29. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
S l.l 正 P !Od . l p . l{
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こ q m ap o a 1w ・ o il u aiu 四 ' n l ・ X τ ' XX ・ c t ( 8 88
口
si n u宮山
p!̲ 田
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苫 ) T 品 . { f ‑ ; ,. ぎ 少/ ' i ' . ' . " ・ キ 逼 . L ( 1 . ! . . 湯版ど正 i ; ; : ir 日 *主 ! f H 凋a) 〔~2*
聖 サ ヴ ィ ヌ ス 諸 伝 承 の 邦 訳
サン・サヴァン修道院史研究
フに 本木
洋
緒
論
一九六九年十月一八日から一九七O年一月二七日までの約百日間︑吉川逸治教授を団長とするフランス中世美術史蹟学術調査団︵宮山守
弘g
Y宮
口巴
8
円盟
国血
g
宕Hメ
25 ba bg Hg
司同即日叩﹀が︑昭和四四年度科学研究費補助金寺つけて︑中仏サン・サヴァン・シュ
ル・ガルタンプ窃巳ロマω
ミ z ・
2?の但立叩自唱叩﹀修道院教会堂の調査を行なった︒との調査は︑乙との有名なロ7
ネスク壁画を中心とするものであったが︑特に文献関係を分担した筆者は︑三篇の報告をもってその責を果したいと思う︒その第一は本篇で︑乙の修道院が献げら
れている聖サヴィヌス公自由吉田ω
恒三
ロロ
タ脚
色三
ω世丘ロ﹀に関する諸伝承の紹介と邦訳とにあてられ︑以下第二に関聯する碑文・文献︑
第三に修道院略史が乙れに続く予定である︒
聖サヴィヌス︵聖サヴァン﹀に関する伝承は二種類ある︒一つは聖サヴィヌスとその弟聖キプリアヌス
3
・︒
司耳
目白
ロロ
タ富
山口
悼の
司宮
町田
︶
との絢教記であり︑乙れには︑ポワチエのサン・シプリアン修道院長ガウスベルトゥスハの
E $ 2 2 6
の序 ハ甲
g
岡田 氏名 と称 する もの が︑
別箇に残っている︒他は聖サヴィヌスの遺体の奉還
Q g S E
a
−﹀の記で︑乙れは︑その遺体が発見され︑現教会堂の位置に建てられた教会堂に移される物語りである︒成立年代については後にふれるが︑乙乙では物語りの展開順により︑
I
ガウスベルトゥスの序︑E
殉教記
︑
E
奉遷記の順に配列した︒特にE
は︑乙の教会堂のクリプタ壁画の素材として重要である︒︹テ
クス
卜︺
上記の何れについても︑モlリストあるいはボランディストの手になる刊本が存在している︒
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﹀
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回 一 回 一
同 ↓
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回 一回 ﹀ 叶 ︐
H ω M M E
色 白O
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山骨
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日・冨
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骨骨
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向山
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H
巳F A n s h
町
S
n H
也 ︑ ENph
宮門
戸骨
・口
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聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森 ︶
九四
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森︶
。
五︵匂 ぽ合 同︒ 品︒ 白即 日曲
﹄
E E Y H M
胆 同 即 日
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阿 ︒・
0 H
∞ 由叶 ・
u u
同−
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仲間 ロ夕
︑
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〜 口 同
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P言?の
M N J R M M R F H
∞ 印M u g
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呂田・乙のテクス
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た 崎 町 同
町 色 −
H V 2 2
・
?︿ 戸匂
−∞
c o z
−からそのまま採られたものである︒
以上のうちIは︑改行すら一箇所もない文章である︒E
は三章三二節︵序言甲己
O同 医
師
H
1
︑第一章H 2 1 9
︑第二章
H m l m
︑第三章
H a l m
記︶に分たれて︑序と各章の冒頭︑すなわち第1︑2
︑叩︑幻節にあたる部分は︑何れも節番号がふされていない︒直は著者に擬 せられているサン・ジェルマン・デ・プレの修道士︑アイモイヌスの序︵
k r g g
百 四
M M g
広三口︶をーとし︑全部で十一節から成る︒これ
らの章節割りは︑編者が便宜的にほど乙したものであろうが︑邦訳ではさしあたりこれを踏襲した︒
︹手 写本
︺
よ記テクストの
I
は欄外に﹁ポワチエの聖キプリアヌスの手写本より﹂︵切HB
田 −
g s t
︒3
HU己目立ミ芯
E Z
︶と記されており︑
E
はその本文に先立って︑﹁ブレッシアのサンタ・カタリlナ修道院で使用されていた︑個有の翠務の手書き読謂本より﹂︵何回F o n t S F v g
忌
ω
ω
・︒ 自己 仲買
D
官 即時 .
E g g o E o ω
・C
丘町
田
H E S
回同
日比
2 2 m 2 4
巳C
と記載されているな・
H E
切 ﹀ ︒
E
は︑本文標題のすぐ下に︑編者の緒論︵
C Z R E E O
官
2 4 H
巴に先立って︑とれが﹁国璽尚書ショウヴランの手書本から﹂︵
O H E m
−
E
g
背 広m z r H o g p
三のき干
F
ミ 〜E
同
5
2 5
白 山 岡 山 口
D E S
口
gg
品即日︶と記されている︒ショウヴラン︵の
R
自己 ロ
H A O
ロ即
日︒
F 2 4 0
−
E
・8 g l H
斗由凶︶は一七三七年に職
を追われているから︑彼がビブリオフィルぶりを発揮したのがその後の乙とであったにしても︑乙のショウヴラン本は十八世紀前半以前
の手写本でなければならない︒
E
についてはさらに︑ポワチエ市立図書館蔵のドン・フォントノ
lの手書本︵冨
E525
骨U O B
司
g
H S
E
ロ︶||全八九巻︑その第二五巻と第八O
巻とにサン・サヴァン関係史料の大部分が納められている||第八
O
巻に﹁ポワトウのサン・サヴァン修道院の歴史に
供する覚書﹂︵ミ雪是認旬︑口需認可之︑骨︑常ミミミ忌
E E
a E
忌−
P E
号
HS
﹄d n S F
冨
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皆目句︒三ggp
件 −
F M M
門戸 司・
町田叶田昌じがあり︑その第二巻がまさしく乙の奉遷伝承にあてられているが︑そのなかに一部︵3︑5︑9節︶をラテン語で引用しながら︑
乙れが﹁乙の修道院に保存されていた︑ゴティック文字で書かれた古い聖務日積書から﹂
2
・ロ ロ三
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芯己包3
2
口 ユ32Z33
向 ︒マ
丘
A
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伺 虫
色
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E
玄D E
三宮
夕日
u・目立︶とられたものであると記している︒乙の引用部分は︑筆者がミ|ニュ本||すなわちショウヴラ
ン本
l l
と照合した結果︑殆んど変りはない︒乙の覚書の筆蹟は︑ドン・フォントノ
1305EDEEF
ロSSE
−3 8 1
コ∞
D︶のそれ
ー
l
あるいはその後ll
と考えられ︑彼は一七六九年まで乙の地方の史料文献採集にあたっていたか勺乙の覚書はその後のもの︑すな
わち一七七O
年以降のものである可能性が強い︒従って乙の年代頃までは︑サン・サヴァン修道院に﹁ゴティック書体の聖務日稽書﹂が 存在していたと思われる︒乙のテクストと酷似していたと考えられるショウヴラン本は︑後にこれが一七四
O年前後に彼の蔵書に入った
とすれば︑明らかに別本である︒E
のテクストには︑上記の望者伝集成に納められたそれの他に︑ドン・フォントノ
1手写本集成のなかに︑独立の手写本がある︵写真
参照
﹀
O乙れは第八
O
巻の三八三頁から三九三頁にいたり︑三九三頁の半ばで︑ただちに﹁聖キプリアヌスの殉教記がはじまる﹂
Q E
芯芹 官印 氏︒
?の
喜岡 山富 山︶
︒そ して 後者 は四 一
O頁
にい たる
︒プ ロス ペル
・メ リメ はこ の筆
蹟に
つい て︑ ある いは
﹁古 い筆 蹟﹂ ハ宮 岡山
z z g n
?
25
﹀と記し︑あるいは﹁極めて見事な筆蹟で︑私には十七世紀初に属するものと思われむにと記しているが︑乙の見解は妥当であり︑
筆者 もと れを
︑お そら くは
サン
・モ
lル会がこの修道院に定着した一六四O
年八月二九回直後あたりに書かれたものと考えたい︒しかし乙 の手写本は︑その冒頭によって﹁ポワチエのサン・シプリアン修道院の聖者物語集からの抜翠﹂︵関与
E E E E
同
g
r
可申
E
g s a s z
品 ︒
ω?
の可
宮山
自宏 司︒
E 2
乙である乙とが明らかであり︑従って我々は︑
E
に関する限り︑ボランディストが用いたブレッシアのサン
タ・カタリlナ修道院本︵以下プレッシア本HBと呼ぶ︶と︑本写本︵以下ポワチエ本HPと呼ぶ﹀とを併用し得るζ
とに なる ので ある
︒
B−P
二本の相互対照は︑種々の興味ある事実を明らかにする︒
山B−P
の両者を校合した結果︑もっともはなはだしいのは語の配列順序の相異であるが︑しかもそのことによって物語りの内容や
展開は些かも変化を来していない︒
間 た だ し
Pに
は︑
B
においては欠落している一行ないし数行の部分が三カ所︵
U−
m
・鈎
節︶
にあ
り︑
ω
節の部分は︑乙れがない限り物 語り の筋 が通 らな い︒
間B
の一 編者 たる ボラ ンデ ィス トは
Pを見ていない︒何となれば彼らは緒論において︑本文序冒頭の献辞に司教名が欠けているととを
非難しているがな・
8N
UV ︑
Pには乙の司教名がゲルマヌスと明記されている︒
凶B
の欄外には︑異本の読みが記入されている︒これらの大部分は
Pと合致するが︑数カ所にわたって合致せず︑しかもその前後の
文章 も異 って いる
︒ 間 メ リ メ
Pはを
E
宙開
・
5
5
豊宮町宮内むさきさミ
e s E R
?
F
H
四日 刊司・
8
印・と校合して︑本質的な差はないと言っていむ一方
Bは︑その注の多くをラップによっている︒従ってBに見られる異読はラップのそれであるかも知れない︒
附P
には幻節以下に目立って悪い箇処があり︑その原本から解読出来なかったと思われる数語を横線でつないだり︵
m
−m
−m v
あ
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森 ︶
五
聖サグィヌス諸伝承の邦訳
森
五
るいは欠落のまま放置したりしている︵担﹀︒とれらは何れもB
によ って 補損 され 得る
︒
m p
は︑乙れを用いたメリメによって︑﹁唾棄すべきラテン語︑誇張された文台と評されたが︑ラテン語の誤綴にみちている︒一方
Bは︑ポランディストの努力にもかかわらず︑句読点がまことに悪い︒
以上 の所 見か ら筆 者は
︑
BとPとを共通の根から出た︑しかも相当にはなれたこ写本であると判断したい︒BはおそらくP系統の︑し
かも
P自体ではない︑テクストと校合されている︒B−P
両テ タス トの 系列 のち がい を最 も明 らか に示 して いる のは
︑読 請︿ 目︒ 白骨 窓口
g
﹀の切り方に見られる相違である︒修道院の聖務日課においては︑その修道院が献げられている聖者の祝日には︑特に夜課の際に︑当該聖者の伝記あるいは殉教記が︑重要度に応じて︑三乃至十二読請に分けて読み上げられた︒Bは乙れを六読請に分けて︑乙れを欄外に明示している︒Pにおいては唯一カ所︑三八三頁の欄
外に︑︽
F2
仲 ・ 同 一
Vと記されているのみであるが︵写真参照︶︑直後の︽開
g
己︾という語が特に太く大きく書かれているのが認められる︒文中には乙うした︑あるいは太く︑あるいは大きく︑あるいは飾りをつけて書かれた語または文字が全体で九カ所ある︒とれらを読請の切れ目の場所を指示するものと考えれば︑Pは乙の殉教伝を十読請に分けていた乙とになる︒Pにおける十読請は︑長短さまざまであるが︑第一読請が目立って短かい︒乙の乙とは如何に説明さるべきであろうか︒またドン・フ
ォン トノ
lの手写本が︑当時入手可能なサン・サヴァン修道院関係の文献を||量は極めて少ないが︑ーl網羅したとすれば︑何故にーと
E
とがとれに含まれていないのであろうか︒との理由は一括して次の如くに推定され得るであろう︒山ポワチエのサン・シプリアンの手写本からとられたという序文ハ
I
﹀は
︑本 来は
P
の原 本と とも にあ って
︑第 一読 請を 形成 して いた
︒ 凶序文をともなう
Pの原文には︑本来奉還記︵
E
︶も附属していたであろうが︑ζの部分のみはショウヴランの蔵舎に移った︒︵したが って 我々 は︑
−−
E−
E
をともに含んでいたサン・シプリアン本HC
の存在を推定し得るであろうJ
間Pの筆生は︑おそらくその後にCを筆写し︑したがってとの聖サヴァン・聖ジプリアン殉教記︵E︶が終るや︑ただちに聖キプリ
アヌ ス殉 教記 を続 けた
︒
我々はボランディストの緒論︵の
o g g g
一 良
E
m U H 8 4 2 6
によって︑プレッシアのサンタ・カタリlナ修道院に対して︑聖サヴィヌ
ス︑聖キプリアヌス両聖者がプレッシア出身である乙とを理由にして︑彼らの殉教記を︑おそらくはガリアから持ち乙んで︑読請として課したのが︑十五世紀半ばのプレッシア司教ペトルス・デ・モンテハ句
2 2
帥宕
Z g
︶であったであろうととを知っている︒ζ
g
れは
B−P両系列の分岐が乙の年代より遥かにさかのぼり得る乙とを示している︒筆者の印象ではPの方がむしろ素性が良いように思われるが︑両者の本格的な比較は︑後日Pを底本としてテクストを作製する際にゆずりたい︒
︹物 語り の内 容と 成立
︺ ーに よれ ば︑
E
の殉教記||ちなみにBはこれに標題らしいものを付して居らず︑Pのみが乙れを﹁殉教記﹂9 8
弘o v
と呼んでいる
ーーは︑ポワチエ市壁外のサン・シプリアン修道院長ガウスベルトゥスが︑聖サヴィヌス・聖キプリアヌスの事蹟を集めて︑乙れを﹁物
語り風に﹂記したものの如くであり︑マルテlヌとデュランは︑理由を記す乙となく︑乙の序に一O二九年という年代を与えている︒ガリ
ア・クリスティア1ナは︑サン・シプリアンの第十代院長としての
Z Z
g
立をあげ︑彼がサン・プノワ・シュル・ロワlZ
ル 修 道 院
長にして︑有名な文人・学者であったアボハ
ω
包三﹀z s e E
弓
g
・胆
5 P
白 血∞ ム
0 0 3
の血縁者である乙と︑また乙の人物が一00
三年に﹁サマリタl
ニ﹂
︵凹
SS
世ω
H E M S O
と共住していたの
E Z 2 5
と別人であるとは認め難い乙となどを述べている︒但し乙の修道
院の
一
O二九年頃の修道院長は第十三代︵﹀血色岡山
26
または第十四代︵司巳g
ロ品ロろにあたるから︑ガウスベルトゥス修道院長の存在は認められでも︑彼が一
O
二九年にとの序を書いたととを認めるととは不可能である︒筆者は従ってとの序文は︑文人アボの血縁者ガウスベルトゥスの記憶が強く残っている時期︑すなわち彼の死後半世紀前後の頃に︑文人アボの令名に便乗して︑またおそらくは殉教記の
成立後に︑サン・シプリアン修道院で書かれたものと考えたい︒また乙の文体から判断する限り︑乙の筆者は殉教記そのものの筆者と同
一人 では ない であ ろう
︒
E
の﹁殉教記﹂は︑それが自称すると乙ろによれば︑四五八年に︑ブレッシア︵切立岡山P切H g n g
︶出身のサヴィヌスとキプリアヌスの
兄婚が︑仮空の町アンフィポリス︵﹀
S M M V
S o
−−回﹀︑ついでガリアの各地において︑プロコンスル・ラディチウス︵F E
ロ
E
タド
胆品
目白
宮る
とマクシミヌス︵冨
g n
即 日gg
︶とによって迫害されつつ多くの奇蹟を行ない︑ついにサン・サヴァンから約三粁のアンティニイ付近で斬首され︑﹁三本の糸杉の丘﹂E|l今日のモン・サン・サヴァンーーに葬られる経緯を︑その一部始終の目撃者アスクレピウス︵krmnH82
乙
とヴァレリウスハ︿巴@ユロるの二司祭が記述して︑ーlpによれば||司教ゲルマヌス︵おそらくは両聖人が旅の途上立寄って歓待を・つ
けた聖ジエルマン・ドlセlルω巴己の
2g
巴ロ
島民
国同
28一・お節︶に献じたものである︒内容は荒唐無稽で︑一見してとれらが事実に基
づくものではないととを示しているが︑ボランディストはその緒論で一四項目にわたって矛盾を論じ︑とれを偽書︵﹀白骨但凹居者
g g
︶と断
じた︒しかし我々は乙乙で︑書かれた乙とが歴史的事実であるととを要求するポランディストと同じ立場に立つ必要は必ずしもないから︑
さしあたり非常に顕著な矛盾を指摘しておけば充分である︒
川両筆者の生地は北伊のプレッシアか︑あるいはガリアのプレッスか︒近代の聖者伝学者にはプレッス説をとるものもいるが︑BもP
︵H
V
も共通して回ユ弘同の読みをとっているので︑邦訳でもプレッシアをとった︒
凶乙れらの事件が起ったと記されている時期に︑聖ジエル7
ン・ ド
lセlルはすでに死亡していた︒乙の司教は︑ボランディストの
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
ハ 森 ﹀
五
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森 ︶
五 四 指摘をまつまでもなく︑四四八年七月三一日にラヴェンナで残した︒
間 そ の 治 下 に
ζ
のことが起ったと記されている東ロ!?皇帝マルティアヌス︵冨虫色
M E
・5
A P E
−
83
は反 キリ スト 教で はな かっ た︒
このことは彼の治下にカルケドン公会議︵
SC
が関かれている乙とからも明らかである︒
以上の知くしてこの殉教記については︑外層的には勿論の乙と内層的にもその成立時期を指示する要素がない︒乙れは少なくとも三種
の聖者伝|lオlセlルの聖ジエルマン︑トロワの聖サビニアヌス︑コンスタンティノlプルの聖モキウスーーによって構成されたもの
︹ 日︶
である︒乙の中で我々は︑トロワで︑アウレリウス帝の治下に斬首によって殉教したという聖サピニアヌス
3
・ω
ロ 世 玄
22pm
丘三
ω
守三回目申ロ︶に興味をひかれる︒彼の異教徒の父は正にサヴィヌスであり︑物語りの展開も酷似しているからである︒乙の最古の手写本は十 世紀のものであるから︑聖サヴィヌスと聖キプリアヌスとの﹁殉教記﹂の著者が乙れを利用しているとすれば︑その成立年代は十世紀か
ら十一世紀後半︵
I
の序文の成立期︶までの間である︒筆者は文体から︑成立年代として十一世紀の第三四半期をとりたい︒また乙の著者 は︑サン・サヴァン周辺の地理に比較的明るい乙とと︑また聖サヴァンが物語りの中で終始兄としてイニシァティヴをとっているととから︑
乙の著者はサン・サヴァンの修道士であると考えたい︒
Eの﹁奉還記﹂は一応サン・ジェルマン・デ・プレの修道士アイモイヌス︵﹀吉
55 5・
﹀E
55
・↓
∞宮
山口
・
8 H
・呂 田︶ に帰 せら れて い
︹H︶るが︑モリニエは無条件にこの乙とを否定し︑あわせて
l l
理由をあげず
K I
−− 乙れ を十 一世 紀の もの とし てい る
o
乙の 物語 りの 内容 は︑ メリメがその素朴さからその古さを推定したにして句何らの現実の反映も感じられない︒冒頭に修道院長故フクベルトゥス
S 5 2 5
︶の名が見られるが︑ガリア・クリスティアl
ナによれば︑サン・サヴァン修道院に乙の名の修道院長はいない︒しかし同じくガリア・ク
リスティアl
ナによれば︑他にフクベルトゥス修道院長は二人いる︒一人は八六二年にサン・
15
・ド
・ト
1
ゥ2
修道院長とな弘︶ 一人は八九二年にサン・ジエルマン・デ・プレの修道院長となっていm v
一方では︑乙の﹁奉遷記﹂がアイモイヌスの文名に便乗してい
るζと︑他方では︑乙の物語りの中で﹁奉遷﹂に主役を演ずるパイディルスが︑トウl
ルの マル ム
lティエの修道院長とされているとと︵6節︑ミl
ニュ版の緒論が指摘する如くに︑乙の名の修道院長はいない︶が︑上記二人のフクベルトゥスの何れにも可能性を残している が︑凶この物語りの内容が今日認められている修道院の成立事情︵続稿にゆずる︶とおよそかけはなれているととと︑凶との物語りの 筆致には︑地理的感覚が一切感じられない乙ととから︑筆者はむしろ地理的にも時間的にもよりかけ離れた︑サン・ジェルマン・デ・プ レのフクベルトゥス修道院長をとりたいと思う︒従ってとの﹁奉遷記﹂の成立は︑八九二年から約半世紀以内︑十世紀半ばのサン・ジエ ルマン・デ・プレ修道院に属して︑十一世紀までは下らないのではないだろうか︒
︹翻
訳と
付注
︺
ーとE
とについて訳者は︑上記刊本テクストを︑出来るだけ逐語的に訳した︒
E
につ いて は︑
B
から︑テクストとともに︑その章節割 りとリュブリックとを踏襲し︑
P
を併用して︑同じく逐語訳を試みた︒訳文のうち︹︺でくくった部分は
B
にあるもの︑︵︶でくくっ
た部分はP
のみにある部分である︒したがって
BとP
との聞に表現の相異がある場合には︑訳文も二重になっている︒
Pのみに存する長
い文章についてはその都度注記した︒原則として地名は現行名を︑人名は原文の読みをとった︒但し偶像ディオニソスは︑
B−P何れも
これ をり 目︒ ロ可 回目
5
としているが︑妥当ではないのでディオニソスに統一した︒
読請については︑B
のそれはテクスト通りに欄外に訳出し︑
P
の読訴の切れ目と思われる部分には︑訳文中の該当箇所と欄外とに
5印 を付した︒その他欄外には︑
IとE
とについてはそれぞれが納められている集成のコロンヌ番号を︑
E
については門︺内に
Bのページ
数を︑︵︶内に
Pのそれを付した︒
訳注は特殊なものを除き︑出来るだけ避けた︒ただ
E
の場 合に
︑
B
には十四ケ所の注があるが︑その大部分はボランディストが緒論で 展開した︑内容が歴史的事実ではないととを論証する対応箇処を指示したものである︒乙の注を採用した場合には︵原注︶と記し︑訳注
と区別されている︒
なお︑これらのテクストの何れにも聖書のレフエランスがないので︑訳者が発見し得た限りは乙れを訳注に付した︒
本稿が成るためには︑調査団員諸氏の御協力もさることながら︑ポワチ工大学のクロゼ名誉教授︑同大学中世文化史研究所長ラバンド 教授︑ラバンド夫人︑ファヴロ
l氏等の適切なる助言を必要とした︒また︑ドン・フォントノ
l手写本の閲覧及︑びマイクロフィルム撮影
については︑ポワチエ市図書館長ゲラン氏の御好意にすがった︒さらに翻訳の作業を進める上では︑福岡大学助教授河井田研郎氏及︑び九 州大学文学部助手岸チズ子氏の多大の協力を得た︒識して感謝の意を表するとともに︑乙の拙なき邦訳を︑サン・サヴァン研究の先駆者 にして︑思師である︑調査団長吉川逸治教授に献げさせていただきたいと思う︒
注
︵1
︶ドン・フォントノーについては︑さしあたり︑同・の同
ZO
寸 ・ 何崎 君︒
=
Rh
円︑
・同
町民
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九 時 聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森︶
五五
倒:1:‑b守ll<.κ糠l話帳Q緊隠(矯〉
Ieglise de Saint‑Savin‑sur,聞Gartempe,Paris, 1845, p. 63 et 45. (ro) MERIMEE, op. cit., p. 34. (咽)MERIMEE, Loe. cit., p. 15. (凶)id. (co) E. PELLEGRIN, Notes sur quelques recueils de vies de saints utilis岳spour la liturgie
a
Fleury‑sur‑Loire au XII" siecle, dans Bulletin dinformation de l'institut de recherche et dhistoire des textes, C.N.R. S., n・
12(1963), Paris, 1964, pp. 7‑30. (ト・〉AASS., Julii, t. III, pp. 181‑183. (co)MARTENE‑DURAND,
Thesaurus anecdotorum, t. I, Index chronologicus (sans pagination). ( 0)) Gallia christiana, t. II, Paris, 1720, reimp., 1970, col. 1233.
(宮)Mgr P. GU企RIN,Les Petits Bollandistes. Vies des Saints, 7° ed. revues, corrigees et considerablement augmentees, t. VIII, Paris, 1888, pp. 243‑245.格。h入Tトvr<ム士:iJ Q Bresse .!al (I 5
ド「占'"入
r<ト主主J眠r< Qロ−眠li!:hl!l!!>.J同~~草織J(. .. e castro Transalpino, dicto Bresse, haud procul a fluvio Rhodano ... ) (p. 183D) ..._,1~a 炉ド~l{lo iJ Q 械設以同~Q :!;! (Bresse‑sur‑Grosne (ar. Chalon‑sur‑Saone, c. Sennecy‑le・Grand)¥t' ,IQ時主主F誕軍慰.!al:t! I縦...)耳ミ~~o~』V,)¥ +ロ入・2足首 同
4
くえ.::‑‑‑ll<. G減,MQl除.!alBresse..._,~小梨録~為,IQ待。コトII'¥入士:( cette partie de la Gaule lyonnaise, qum a depuis appel岳eBresse ... )...̲, Q必胸m
。
(ロ)L. DUCHESNE, Fastes episcopaux de l'ancienne Gau/e, t. II, Paris, 1910, p. 445.
(臼)Y.
LABANDE‑MAILFERT,
Saint‑Savin ou le mira‑c/e roman, p. 13 (dans Poitou roman, 2° ed., 1962, p. 135.)
(包)AASS., Januarii, t. II, pp. 939‑941, 941‑943, 94
←
946. Cf. A. MOLINIER, Les flources de l'histoire de France, t. I, Paris, 1901, p. 25, n・
66;J. de MAIL‑LY, 0. P., Abrege des gestes et miracles des saints, traduit du latin par Antoine DONDAINE, O.P., Paris, 1947, pp. 126‑130, n・
32.〈ヨ)MOLINIER, op. cit., I, p. 254, n• 828.(~) MERIM垂E,op. cit., p. 20, n. 3. (~) Gallia chr., t. XIV, Paris, 1856, r岳imp.1970, col. 166. 〈む)Gallia chr., t. VII, Paris, 1744, reimp. 1970, col. 430‑1.
(~) MIGNE, P. L., t. CXXVI, Paris, 1852, col. 1049‑1052 (Observatio praevia).
I
殉教者聖キプリアヌスおよび聖サビヌス伝に対する修道院長ガウスベルトウスの序
山教会の諸知識の研錆により︑無械なまでに完成されたる︑また愛の紳によって我と分ちがたく結ぼれたら日最愛のボゾ
︒
cと最も静誼なるフリデリグスへ︑あらゆる修道院長のうちで最も愚かなる我ガクスベルトゥス︑終りなく続くべき主の歓 びを贈る︒筆によって武装したキリストの闘技士たちのある者は︑古き先達よりうけついだ簡潔さをもって︑獣皮紙のう えに信仰の闘いを記述したが︑これは我らの時代の信仰篤き人々に対する教本としては︑神の提の理解の代りに︑味けな さを与えるものである︒とにかく人々はむしろながながと楽しめる書巻を好み︑これらは︑憐舌な語り口の習慣と合致し て︑仰々しい尾鰭によって︑耳という器官をくすぐるのである︒実際ある人々には︑より広範な︑そしてそれに即席で言 葉を加えることによって引のばされたものが︑より豊かでより楽しみにとむと考えられている︒何となれば大袈裟な話し 方をするものは︑当然それに伴って︑短い散文の表現を避けるからであるが︑彼らはかの短い筆致で意志を伝えた古代人 の努力を損なうものではまったくなく︑かえって神のすべての讃美の上に称讃をつけ加えるものである︒彼らは︑彼らが 詩篇詠諦者とともに︑神の聖者を通じて神を賞めまつる際には︑まこと一途に神の不思議を︑神の聖者を通じて宣ベ伝え ているのである︒事情がかくのごとくであった折しも︑何れかと言えば︑ポワチエの市壁の傍に位置する︑殉教者の栄冠 をうけたキプリアヌスの修道院の兄弟たちの懇願もだしがたく︑我々は︑この最も顕著なる神の戦士と︑彼自身の兄であ るサヴィヌスとの信仰の戦いの功業を︑より長めにかつ物語り風に書くことによって︑まとめるように意を用いた︒しか
しながら栄光は彼らによって我らに与えられるものではなく︑かえって上に名をあげた︑その御方に帰せられる︒
方は︑彼の証人たちが著るしく栄光あるものとなることを知りたまうたし︑彼らをこの世の時の以前から︑天の嗣業の市
かかる意図をもって企てられたこの仕事をやりとげ
この
御
民たらしめることを︑予知し予定したまうた︒そして最後に我らは︑
聖サ
グィ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
︵ 森 ︶
五七
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森 ︶
五八
るに足る峻厳なる魂を︑我らの祈りによって求めまつる
Q
この魂は︑これが持続すれば︑貧しき教えの庭を︑北風から遮 られたものとなし︑我らの内に神の讃美の若芽を育くみ︑また育くみつつ聖化するのである︒我が霊化すると言うは︑
神は我らを︑神が告げたまうた約束の言葉によって︑無償の御慈悲をもって憐みたまうであろうからである︒これは︑汝 の口を聞けよ︑我それを満さんと言われた如くである︒事実我らは︑かの御方に︑我らの口を聞きたまわんことを求めま つる︒彼はその叡知をもって︑物言わぬ口をひらき︑幼児の言葉を理にかなったものとなしたまう︒我がかの御方と言う は︑信仰なきアハズ王が立去った後に︑しかも邪悪なる会話によって唇が穣れていると判断したイザヤの予言する唇を︑
錯で祭壇よりとりたる炭火をもって︑潔めたまいし御方である︒最後に我々は︑これを卓越した読諦文に導入して︑定め られたる祈りに加えんとするものである︒
︵1
︶
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︵2︶詩第︑第八一︵八
O
︶皆
川︑
日︒
︵3﹀イザヤ書︑第六章︑
61
70
涯
〔p. 181〕
I I
︹聖殉教者サヴィヌスおよびキプリアヌスについて
〔p.184〕
イタリアではプレッシアの︑あるいはガリアではアシティニイの
偽
書
プレ
yシアのサシグ・カグリl
ナ修道院で使用されていた個有の聖務の手書き読諦本より 序
=
EコL...J
読 請
(p. 383)
︵ポワチエのサシ・シプリアジ修道院の聖者物語集からの抜率 聖殉教者サヴィヌスおよびキプリアヌスの序言はじまる︒︶
もろもろの司教のうちで最も聖なるハグルマヌス︶殿へ︑司祭アスグレピワスおよびグァレりクス︑挨拶をおくる︒聖 なる父ょ︑倣うにふさわしきことどもや︑さらにその他この世に有益なることども︑すなわち詩聖人の勝利は︑記述する 文体が野卑であっても︑︹神から恵みを得んと欲するものに︺︵これらに倣わんと欲するものに︶褒賞と健全なる癒しとを もたらすものである︒ところで貴重なる殉教者サグィヌスとその弟キプりアヌスとの勝利を︑それらに最後まで立会って いた我々は︑物語るに相応しいものである︒何となれば︑伝記類は︑︹我々が卑俗な筆を用いて書いたにしても︑︺︵我々は 俗人のような筆を用いるにふさわしいものであろうが︑︶一般の人々に益をもたらすに足るものだからである︒我々は多く の中から僅かを︑とは言え︑神が証人となりたまう如くに︑最も真実なることを記した︒これらは汝の聖性に捧げるに価 すると我らが考えたところであって︑これすなわち汝が彼らを汝の祝福をもって確認したまい︑彼らの信仰の闘いを︑今 汝がふたたび述べひろめたまわんがためである︒
パツシオ
︵序
言は
終り
︑殉
教記
始ま
る︒
︶
︹第
一章
聖人たちの信仰におけるゆるぎなさと拷問︺
主の
化肉
の四
五八
年に
︑ イダリアのアシフィポリスの町でラディチクスとマグシムスとがヨシスルたりし第六年に︑異
聖サ
ヴィ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
︵ 森 ︶
五九
サ聖
ヴィ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
︵ 森 ︶
六0
教徒の予期されぬ群衆が︑突如としてこの属州に偽りの神々の礼拝のためにあらわれた︒
ところでほとん
E
全てのものが神々の像に犠牲をささげたが︑しかもアジフィポリスの町では︑人々は悪魔的な罪悪に毒されて︑ディオ=ツスの像から生
S
命と助けとを亨けたと信じ︑この像に生賛をささげた
05
当時二人の兄弟がいたが︑高貴な家系において︑知識におい て︑聖性において︑︵さらに︶信仰において︑︹さらになかんづく貞潔において︺抜きんでており︑アシフィポ
p
スの
近く
のプレッシアの︵町の︶出身であった︒彼らはすなわちサヴィヌスとキプリアヌスとである︒彼らは毎日︑人々が偽りの 聞神の故に廃棄した聖なる︹三位一体の︺信仰を擁護するために︑俗人の職に任ぜられていたにもかかわらず︑救いにいた
Uる︹三位一体の︺途を説くために︑自らを壁としてすべての人の前に立ちはだかった︒日く︒見ょ︑そして知れ︒人の手
によって作られたものは︑神々ではないのであるから︑偽りの神の狂気沙汰と︑悪魔どもの誘惑とを捨てよ︒そして生け る神︑我らの主なるイエス・キりストに帰れ︒彼が父とともにすべてを無から創りたまいしことは︑詩篇作者が︑もろも ろの天は主のみことばによりて成り︑天の万寧は彼の口の気によりでつくられたり日と言って証しした如くである︒
︵1︶
詩篇
︑第
三ニ
︿三
︶三
錦︑
6︒
3
︑彼はその生涯の終りに︑白から人を︹救うものとして︺︵嘉しとして︶︑我々を慈悲深くも贈いたまうた︒ところで偽りの神々は︑聾であり︑︹唖でゐり︺︵多数であり︶︑そして愚かしいものであり︑それら自体が役に立ち得ないし︑そ れらを礼拝するものを聾や唖や愚かしいものとなして︑地獄の獄舎へと曳いて行くものである︒しかしながらキ
F
スト
舶は︑一人子︑長子にましまして︑永遠なる神と同じ実体をもち︑ともに永遠に生きたまう息子であり︑我らの無知と不信 ドとの黄泉をてらす︑近寄りがたい光であらせたまう︒︹このように︺彼等は︑かかる救いをもたらすべき戒めによって︑
家郷の町︹プレ
7
シア︺でも︑すでに述べた如くに︹プレヲシアの︺隣りにあるアジフィポリスでも︑人々を説くことを やめなかった︒しかし人々はこの戒めに嫉みをいだき︑反対に︑すでにのベた忌わしい偽りの神ディオユツスの周年祭に
は︑従来の習慣通りに︑もっぱら犠牲をささげ︑饗宴をはってこれを称えた︒
4︑ところで前述の思わしきディオ−一ツスの祭りから五カ月自に︑プロコシスルのラディチクスが︑ディオユツスに犠
牲をささげるためにアジフィポリスに来た︒そして翌日には︑
︹プ
レッ
シア
の町
から
来た
︺
サヴィヌスとキプリアヌスの
兄弟が︵プレy
シアの町から来てて自らをキリストの兵士で
φめ
ると
言い
︑
新しい教えを︹もたらし︺︵主張して
死人
で あり︑しかも十字架にかけられたイエス・キりストを︑
かつ真の神であると言い張って︑人々
︹真
の︺
神の
子︑
真の
人︑
偽りの神々︹の礼拝から︺︵を拝むものの︶多くが引はなされたと︑
その上さらに人々は︹熱狂して︺︵歓声をあげて︶プロコシスルに懇願した︒群衆とは彼らが始めたことをと ことんまでやりぬくものであるから︑プロコシスル殿ょ︑もしも汝が彼らに今やっていることを認めたならば︑すべての
ものがキリストを信ずるようになるだろうし︑また人々は我らの供犠を愚かなことと考えて︑我らのディオェツスの︵神 をまどわし且誘惑し︑またこのことの故に︑彼に知
らさ
れた
︒ の︶信仰は︑ことごとく廃れてしまうであろう︒
読請ニプロコシスルは恐怖の余り極度に興奮して︑町の一段高い場所にある裁判官席に座して︑
s
ち︑すなわち聖サグィヌスと︵彼の弟︶キプリアヌスとが彼のもとに連れてこられるように命じた︒そして︵プロコシス同hu
︑ ︒ ︒
υキpストの兵士た
ルは﹀彼らに言った︒汝らは何処のものか︑また如何なる名で呼ばれているかを私に述べよ︒
ることによって︑より容易に汝らの魔︑法の技の秘密が発見されんがためで為る︒と言うのも汝らは単にディオニツスに犠 牲をささげなかったのみならず︑しかもさらに︹彼に︺犠牲をささげんと欲するものたちを誘惑して背をむけさせている が︑我々は汝らが如何なる信仰︑あるいは力によって︹この︺︵これらの︶ことをなすのかを知らないからである︒聖サ グィヌスは答えた︒汝は真理も神の力も知らないが︑何故に汝はすべての真理を憎悪しながら︑我らを尋問するのか︒し
これは先ず汝らの家系を知
聖サ
ヴィ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
森
六
聖サ
ィヴ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
︵ 森 ︶
六 そして誰が汝を魂と肉体とをもって造りたまいしかを想え︒
汝は真理を識るであろう︒ところで我と我が弟とは︑聖書を学んだが︑そのなかに我々は︑異教徒の偶像が人の手の業で
あるが故に︑これらが︑自ら益をもたらすことも出来事す︑他人を助けることも出来ない所以を︑また汝らがこれらのなか かしながら先ず汝の心に理解カを備えよ︵貯えよ︶︒
かく
て にあると︹認めている︺︵信じている︶権威も︑
永遠にこれらと共に︹愚かしいものとして︺
廃れるであろうことを学ん
だの
であ
る︒
6
︑ラディチワスは言った︒汝らが龍舌である︹が故に︺︵ことから︶︑汝らが学んだことと︑しかもなおかつ汝らが︹嘘言に︺︵嘘つきに︶信をおいていることとがわかる︒聖子ヴィヌスは︵彼に︶答えた︒我らが韻舌であるのは事実であるが︑
汝が真実を︹知らんが︺︵知る︶ためには︑我らの語ることを︑より注意ぶかく聞け︒事実主は御白から彼を信ずるもの たちに約束しておられる︒日く︑汝らが王たちまたは裁判官たちの前に出た際には︑如何にして︑あるいは何を汝らが語
何と
なれ
ば︑
我は
汝ら
に︑
汝らに反対するものどもが抵抗し得ぬ口と智慧とを与えるであるかを思慮らんと欲するな︒
ろうから
L d
従って︑我らは神について語るのであるから︑我らの鐘舌は我らのものではなく︑神のものである︒汝らが 拝む神々は金属製であり︑すでに言った如くに聾で︑唖で︑愚かしい︑悪魔によって神化された偶像である︒ラディチワ スは言った︒もしも汝らが犠牲をささげたならば︑汝らは命びろいをすることに︹なろう︺︵なる︶︒聖サヴィヌスは答え た︒我らの益はキリストの名において死ぬことである︒そこでラディチウスは聖キプリアヌスの方にむきなおって︑彼に 言った︒そして︑汝はその若さで︑何をもって我が神々に犠牲をささげないのか︒我は汝に︹衷心から︺︵ことごとく﹀言いあらわす︒すなわち我は汝の神々に犠牲を供げぬであろうし︑
天にて父の右に座すイエス・キりストを崇めまつると︒
聖キ
プリ
アヌ
スは
答え
た︒
︵ま
こと
に︶
かえ
って
我が
神︑
︵1︶
ルカ
伝︑
第二
一章
︑ロ
l旬 ︒
︵2︶
ピリ
ピ書
︑第
一章
︑
n
︒(p. 385)
Tこ
T
こけ
。
7
︑ラディチクスは言った︒彼ら
を吊
し︑
︹鉄
の爪
で引
裂き
︺︵
油を
塗り
︶︑
頭か
ら腫
まで
︑ しかも︵へり下った︶彼らに︹う
彼らの骨が露出するまで
またこうして︹おのずから万人が︺︵人々の聞に︶神々を冒潰することなく︑
ゃうやしく︺犠牲をささげるように教えるがよい︒そこでプロコシスル・ラディチクスの兵士たちは︑恐ろしい命令に従 って︑彼らを︹鉄の爪で裂く︺︿鉄の爪で裂いた︶︒しかし彼らは︑裂かれている問︑
に︺︵神に︶感謝をささげた︒主イエス・キリストょ︑汝は父とともに終りなく統べたまい︑
の僕たちに汝の慈悲を示したまうことにより︑いたるところに光を与えたまう︒殉教を耐えしのぶ力をもたらしたまえ︒
大声で叫びかつ語って︑︹キリスト
正義の根源として︑我ら汝 汝の︹聖なる︺︵至聖の︶旋︹の故に︺︵との聞に︶︑今行なわれている信仰の闘いに際して︑
えたまえ︒しかしてこれらのことを︹彼らが︺︵彼らから﹀︹言った︺︵言われた︶ので︑両聖者は︑すでに︹両足は︺︵あ
我らにゆるぎなき信仰を与
らかた︶裂かれていたが︑彼ら︹の肉︺が︹ほとんど︺骨まで︹破壊される︺︵なくなる︶
まで
にひ
どく
︑
下役たちから
責められた︒二人の司祭︑すなわちアスグレピクスとヴァレリクスとは︑この見世物に居あわせたが︑両聖者の残忍な責
︹永
い間
身を
かく
して
いた
︺︵
香油
を塗
つ
苦を目のあたりに見て︑
彼らが誰であるかを公けに示すことを敢えてせずに︑
た ︶ ︒
8
︑しかしてその問中︑刑執行吏たちは責苦の手を休めることを欲しなかったにもかかわらず︑しかも忌むべきラディチクスは︑依然として聖人たちに好意をもたぬものどもに︑彼らを拷聞から解きはなつように命じた︒そして︵これらの﹀
後に彼らが生き生きとした顔つきで︑神を讃め称えながらラディチウスの面前に引出されると︑ラディチクスは彼等に言 った︒もう︹そろそろ︺多くの拷聞から免れるために︑ディオ−コノスに︹犠牲をささげよ︺︵犠牲をささげたらどうだ︶︒
聖サヴィヌス諸伝承の邦訳
︵ 森 ︶
占 ハ 一
聖サ
ヴィ
ヌス
諸伝
承の
邦訳
︵ 森 ︶
六回
聖サヴィヌスは彼に言った︒何と馬鹿げたことよ︒
になったと言うのか︒︺︵感情もなく動けぬものに造られたものが︑汝によれば神なのか︒︶汝は極悪の犯罪人ではあるが︑
我らを真理の途から逸らすことは出来ないであろう︒汝はすでに︑汝の拷聞によって︹我が︺︵我らの︶肉体が鼓損され ず︑また汝の加えた最も厳しい苦痛を我らが感じていないことを見ている︹ではないか︺︒汝の力の何と空しいことよ︒
青銅の彫像が︑人の技で造られたものが︑
︹汝
は確
たる
由理
なし
に神
ところで︹至上の︺︿万能の︶神は︑誰によって作られたものでもないが︑万事をなしとげたまうた︒
の青銅の神は︑人によって作られ︑何事もなし得ず︑またなしとげたこともない︒そこでラディチワスは聖キプりアヌス に言った︒キプリアヌスよ︑その若さで汝は︑汝白からについて感みをもたぬか︒聖キプリアヌスは答えた︒
ウスよ︑人として最も破廉恥なるものよ︑何故に汝は︵汝を作った︶汝の神を信ぜずして試みるのか︒
しかし汝が拝む汝
ラデ
チィ
9
︑ラディチクスはこれを聞いて︑竃に︑焔がもえあがるのが六十グピトゥスの距離まで見えるように︑麻屑と油とを入れて︑火をつけるように命じた︒これはあたかも︹かつて︺パピロ=アにおいて︑神の少年たち︑ディドラ
yグ
︑ミ
サ ツグおよびアプデネシゴを焼きつくさんがために︑ヵルデア人がなした如くである︒こうしてラディチワスは竃の激しい 焔を見ながら︑神の両聖者を彼のもとに曳き来るように命じ︑そして聖サヴィヌスに言った︒ディ−
x
−コ
ノス
の神
に犠
牲を
ささげよ︒さらに彼はふたたびサヴィヌスに言った︒サヴィヌスょ︑汝は精神については片意地な︑
心においては酷薄な 態度をとってきたが︑そのままで︹この火焔の中で︺耐えるがよい︒見るとおりに︑汝には懲罰が用意されているが︑こ 揃のなかで汝は︑我らの神ディオ−ごノスの大いなる報復を身をもって思いしるがよい︒
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