古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台一本造り軒 丸瓦の研究
著者 佐川 正敏
雑誌名 東北学院大学東北文化研究所紀要
号 31
ページ 1‑20
発行年 1999‑08‑31
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024221/
古 代 出 羽 国 秋 田 城 の 積 み 上 げ 技 法 成 形 台 一 本 造 り 軒 丸 瓦 の 研 究
佐 川 正 敏
一
はじめに 本稿執筆の
きっかけは一
九九八年一 一
月に宮城県石巻市文化セン タI
で開催されていた展示﹁
古代の瓦﹂
を見学したことによる︵阿 波広子編一
九九八︶︒
古代陸奥国と出羽国の
城柵・
官衙や寺院の瓦 が一
堂に集められていたので︑それらを直接概観する絶好の機会で あっ
た︒
そこには秋田城跡︵
図一 ︶
で従来から知られた単弁一
五弁蓮華文軒丸瓦︵以下︑軒丸瓦
I
種と仮称 :図五
1
3︶ の
ほかに︑も う一
種類出土していた単弁蓮華文軒丸瓦︵以下︑
軒丸瓦I I
種と仮称:
図二︶も展示されてぉり
︑
筆者はそれをはじめて見た︒
同センタI
の阿波広子氏によれば︑秋田城跡調査事務所がこの
軒丸瓦を展示 用に貸し出すのははじめてのことで︑
展示を機にこの
軒丸瓦の文様 のルーツに関する手がかりが得られないかと期待している︑
という ことであっ
た︒
秋田城のある出羽国は一
翻海国使節の着岸地でもあり︑
文様のルーツの候補として一
翻海国もイメージされていたそうであ る︒
秋田城軒丸瓦I I
種は半分に割れて半円形を呈してぉり︑
割れ面を左側にして展示されていた
︒
筆者は何気なくその割れ面をガラス 越しにの
ぞき込んだ︒
するとその割れ面は破損して割れたものと異なり
︑
粘土の
接合面に沿つて剥離したように見えた︒
その瞬間︑
筆 者の
脳裏に浮かんだのは︑後述する奈良時代に平城宮の瓦工房で誕 生した﹁
積み上げ技法成形台一
本造り﹂
であっ
た︒
この製作技法が古代の出羽国や陸奥国にあ
っ
たことを︑今まで聞 いたことはなかったので︑
阿波氏にお願いして軒丸瓦I I
種を直接観 察することにした︒
その
結果︑軒丸瓦I I
種はまちがいなく積み上げ 技法成形台一
本造りによる製品であることを確認した︒
しかも︑
こ れは古代日本最北端の分布例であり︑
近隣に事例がなく︑きわめて 重大な発見といえる︒
この結果と筆者の初歩的見解を秋田城跡調査事務所の日野久氏と 伊藤武
士
氏に連絡したところ︑
軒丸瓦I I
種は計二点しか出土してい ないことやそれらの出土地点などにつ
いてご教示を頂いた︒
それを 具体的に観察し︑
さらに軒丸瓦 I種をはじめとするほかの秋田城跡 出土の
丸瓦︑
平瓦全体における軒丸瓦I I
種の
位置づけと年代を知る ために︑ 一
九九九年二月に秋田城跡調査事務所へ
赴き︑資料調査な らびに日野氏等との
意見交換を行つた︒
その
結果︑
軒丸瓦I I
種の年
古代出羽国秋田城の- 9み上げ技法成形台
一
本造りfF丸瓦の研究古代出羽国秋国城の積み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究図
一
秋国城跡発掘調査位置図と軒丸瓦II
種の出土地点代は九世紀第1四半期に近い時期と見られることがわかった
︒
また︑平城宮
・
京における積み上げ技法成形台一
本造りにつ
いて 詳細な研究を行つてきた奈良国立文化財研究所の
毛利光俊彦氏と連 絡を取り︑
本技法が八世紀第1四半期末に平城宮で考案され︑
八世 紀末には衰退し始めることを再確認した︒
平川南氏によれば
︑
秋田城は出羽細が天平五年︵
七三三︶に移さ れて出羽国府となり︑
延暦二三年︵
八〇四︶
にそれが解除されるが︑ その
後も国府の
出先機関として機能していた︵平川一
九八二︶︒
古 代日本最北端の中心
地に︑
平城宮で誕生した瓦作りの技術が伝わっ
た意義は大きい︑
と考える︒
以下︑
古代出羽国および陸奥国ではじ めて確認された被み上げ技法成形台一
本造りにつ
いて具体的に紹介し︑
その年代や系譜︑さらに発見の
意義につ
いて考察する︒
二秋国城の積み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦 1秋国城の軒丸瓦I I
種
軒丸瓦
I I
種は瓦当直径が約一
五センチメートルとやや小型の単弁 蓮華文である︒ ﹁
平成三年度秋田城跡発掘調査概報﹄第六五図では単 弁七弁に復原されているが︑
後述する外区内縁珠文は八個に復原さ れている︵
秋田城跡調査事務所ほか一
九九二︶ ︒
出土している二点 の軒丸瓦I I
種の
拓本を合成︑検討した結果︑
単弁八弁の復原も十分 可能であることがわかっ
た︵
図二︶ ︒
完形品が見つ
かるまでは︑単弁 八弁案も考慮してほしい︒
蓮華文は相当簡略化されてぉり︑小振り:
3で突出する楕円形を弁と︵
1見れば︑やや大きめで突 たのであろう︒図二 秋田城軒丸
II
種瓦当文様復原出する逆三角形が間弁と なろう
︒
中房は直径が約 五センチメートルあるの で︑大きく感ずるが︑圏 線で囲まれただけで︑内 部に蓮子を置かない素文 である︒
外区は一
重の圏 線で弁区と区分される︒
内縁には珠文を推定八個間隔をぉいてめぐらし︑外縁は高さのない 平縁で素文である︒
瓦当側面幅が約四センチメートルであり︑瓦当 直径に比べて厚みをもった軒丸瓦ということができる︵図四1
1・
2︶
︒
二点とも色調が黄褐色ないし黄灰色を呈し︑焼き質はやや軟質 である︒
軒丸瓦
I I 種は弁と間弁の表現が簡略化され︑中房にいたっては空 間があるだけで完全に形骸化されている
︒
なぉ︑軒丸瓦I I 種の出土 地点は第四〇次調査
・
政庁正殿北側土坑S K
六六八︵秋田城跡調査 事務所ほか一
九八五︶と第五四次調査・
外郭束門南西側城内湿地S G 一
〇三一
の第一
三・一
四層︵秋田城跡調査事務所ほか一
九九二︶である︵図
一
︶︒
なぉ︑秋田城には軒丸瓦 I種
・
I I 種と組み合う軒平瓦がない
︒
したがって︑後述する平瓦のいずれかを軒平瓦の代わりに組ませてい 2積み上げ技法成形台
一
本造りとは古代出羽国や陸奥国を含む日本において︑もっとも
一
般的な軒丸瓦の製作技法は︑ :把詰めし︑成形した瓦当粘土に丸瓦を縦位置で接
合する
﹁
接合式﹂
である︒
後述する秋田城の軒丸瓦I
種はそれによ って製作されている︵図五1
3︶︒したがって︑この技法によって 製作された軒丸瓦の瓦当部と丸瓦都は接合位置で剥離しやすいの で︑瓦当裏面には丸瓦先端の円弧状の剥離痕が鮮明に残されること が多い︵図五1
5︶︒
これに対して︑秋田城軒丸瓦II種に見られる
﹁
積み上げ技法成形 台一
本造り﹂
では︑丸瓦の円弧状の剥離痕はまったく確認すること ができない︒その理由を含め︑本技法の製作工程にっ
いてまず説明 する︵図三︶︒
本技法は従来﹁ 一
本造り﹂
と総称されてきた技法を鈴 木久男氏が体系的に整理した中の﹁
D技法︵型造り成形︶﹂
の一
部に 相当するが︵鈴木一
九九〇︶︑鈴木氏はこれに特定の名称をつけな かった︒
その頃︑平城宮・
京のいわゆる一
本造り軒丸瓦を調査︑研 究していた毛利光俊彦氏も一
本造りの概念を再整理し︑鈴木氏のD 技法を﹁
成形台一
本造り﹂
と呼び︑それを﹁
積み上げ技法﹂
と﹁
折 り曲げ技法﹂
とに細分した︵毛利光一
九九一
︶︒上原真人氏は成形 台一
本造りを﹁
横置き型一
本造り﹂
と呼ぶ︵上原一
九九七︶︒
三者 三様の名称を使つているが︑筆者は従来から成形台一
本造りと呼ん できたので︑本文でもそれを使用する︵佐川一
九九三︶︒
古代出羽国秋国城の被み上げ技法成形台
一
本造り- lFF丸瓦の研究8. 械 か ら」,
L
、t'面に,
通型を押す9..l
i
を成形合からはずして完成・l.くり込みに
-
Mllの見'l1納l:を◆11め込t5. .MllのJli
;
'li
納l:は丸見部と J生-
l:るげ
み械を
一
●◆'見の= :
-E :
6'
l. 成 形
-
'' 1 :組み合わせ式2.成形
-
'、一 : ・木式式木
・
1 合形成:3図 三 成形台
一
本造りの成形台 ( 1 ・ 2 ) と秋田城軒丸瓦II
種に見る積み上げ技術成形台
一
本 作 りの 工 程 復 原 ( 3 ˜ 9 )本技法で重要な役割を果たすのがカマボ
コ
形の成形台である︒
軒 丸瓦に残された痕跡を手がかりにして︑成形台の復原図を最初に提示したのは上原氏である︵図三
1
1 :上原
一
九八六︶︒
上原氏が 復原した成形台は上部型と下部型の﹁
組み合わせ式﹂
になっている が︑それは瓦当裏面に成形台の組み合わせ部分の凹凸の圧痕が残さ れている場合があるからである︒
鈴木氏と毛利光氏はこの痕跡が残 されていない場合の成形台を︑﹁一
木
﹂
あるいは﹁ 一
木式﹂
と想定し ている︵図三1
2・
3︶︒
これらの成形台は機能的に瓦当下半部の 粘土を置く半円形のくり込み部分と丸瓦部の粘土を置く部分から構 成されている︒
丸瓦部の側面をはめ込むための︑ 溝をもっている例も ある︵図三1
2︶︒
軒丸瓦の製作にあたっては︑成形台に布をかぶせることが多い
︒
まず正面のくり込み部分の下から瓦当粘土を水平方向に
一
〜二層積 み上げる︵図三1
4︶︒
そして︑その上にやや長めの丸瓦部用粘土 板の先端を乗せるようにしながら合体させ︑丸瓦部は成形台に押し つけてU字形にする︵図三1
5︶︒
さらに︑瓦当上端から丸瓦部に かけて部分的に粘土を積み上げて瓦当の上半部も成形し︑玉縁部凸 面を作り︵削り︶出して︵行基の場合もある︶︑全体の成形を完了す る︵図三1
6︶︒
つぎに全体にナデ調整を施して平滑にする︵図三1
7︶︒
最後に横から瓦当面に館型を押捺し︵打ち込み︶︑瓦を成形台からはずして完成する︵図三
1
8・9︶︒
この後に瓦当裏面・
側 面などにナデやケズリ調整を加え︑成形過程でっ
いた布目痕を消去することもある
︒
古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台一本造り軒丸瓦の研究以上の結果
︑
軒丸瓦にはつ
ぎの
ような痕跡が残されることが多い︒
①成形台に布をかぶせた場合には
︑
瓦当裏面︵時には瓦当側面を含 む︶から丸瓦凹面・
側面︵時には玉縁凸面︶にかけて連続する布日 痕が残ることがある︒
②粘土を層状に積み上げて瓦当部を成形する ので︑
焼成後に粘土の
接合面に沿つて水平方向に剥離することがあ る︒
③丸瓦部用粘土板は厚めで︑
先端が瓦当部中央を構成するので︑
接合式の
場合のように︑瓦当裏面に丸瓦先端の
円弧状の剥離痕を残 すことはない︒
したがっ
て︑剥離した丸瓦部先端に瓦当文様が残さ れていたり︑
その
縦断面形状も三日月形か半月形を呈するのである︒
④粘土を成形台
の
くり込みの
下から安定して被み上げるために︑
く り込みの
奥行きは四〜五センチメートルと深いの
で︑瓦当側面幅と 瓦当厚は接合式の
軒丸瓦と比べて大きいことが多い︒
3
軒丸瓦I I
種に見られる﹁
積み上げ技法成形台一
本造り﹂ の
特徴
さて︑筆者が秋田城
の
軒丸瓦I I
種を積み上げ技法成形台一
本造り と判断したのは︑ つ
ぎの
ような特徴が残されているからである︒
ま ず︑瓦当下半部を残す本資料の
割れ面は︑
明らかに接合面に沿つて 剥離した結果生じたものであり︑
成形台のくり込みに手の
ひらか指 で押し込んだ時につ
いた軽い凹凸が残る︵図四1
5︶ ︒
しかも︑
そ れは軒丸瓦を正立状態に見て︑
水平方向に発生している︵図四1
1〜3
︶ ︒
瓦当下半部の
途中には︑接合面の
存在を示す層状の亀裂がないので︑
一
:現りの
粘土を使つたと見られる︒
瓦当側面幅が四センチ メートルと︑
瓦当径に比べて厚い点も︑
積み上げ技法の特徴を示す︒
つ
ぎに瓦当裏面の
向かっ
て左側には丸瓦部の一
部が残つている︵
図四1
4︶︒
本来右側にも丸瓦部の 一
部が残つていたが︑
そこは破 損してしまっ
た︒
しかし︑左側の丸瓦部を上方から見ても︑
瓦当部 粘土接合面には丸瓦の
先端が確認できるという接合式に見られる現 象はまっ
たくなく︑
丸瓦部の
粘土の一
部と瓦当部粘土は一
体の粘土︵
共土︶から構成されていることも明白である︵
図四1
5︶ ︒
さらに︑瓦当裏面には成形台のカマボ
コ
形の突出部分の
当たりが 残る︵
図四1 6 ︶ ︒
カマ
ボコ
形の突出部の
上端は︑
瓦当面の中心よ りやや高い位置にあたると推定される︵
図四1
l・
2︶ ︒
瓦当裏面 に残る緩方向の
木目痕は︑成形台が木製であることを示し︑また︑
そこには組み合わせ式の成形台を示す痕跡がないの
で︑成形台は一
木式といえる
︒
瓦当裏面は下半に横ナデ調整を施す程度で平坦であ り︑
丸瓦部側面とは垂直をなす︵
図四1
8︶︒
残存する軒丸瓦II
種 の下半部にはケズリ調整がほとんど認められないので︑面に凹凸が なく滑らかであり︑面と面の
変わり目にも減り張りがある︒
これは まさに成形台のなせる技である︒
なぉ︑瓦当裏面と丸瓦部凹面・
側 面には布日痕がないので︑
成形台には布をかぶせていない︒
以上か ら︑
軒丸瓦︒
形種三復にの I I
図は台成の1
原でよきるう3 それではこの
ような成形台を使つて行われた軒丸瓦I I
種の
製作工 程を復原してみよう︒
まず︑
成形台のくり込みに瓦当下半部用の粘 土をはめ込む︵
図三1
4︶ ︒
その高さは瓦当半径より少し大きい︵
図 四1
1・
2︶ ︒
この時に瓦当粘土の一
部がはみ出し︑丸瓦部側面の古代出羽国秋田城の- 9み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究2
.
軒丸瓦II
種 (5-
192) の拓影と断面図 (1:4) 1.
軒丸瓦II
種 (3-
218) の拓影と断面図 (1:4)4
.
軒丸瓦II
種の瓦当裏面と丸瓦部側面 ( l: 3 ) 3.
軒丸瓦II
種 (3-
218) の瓦当面 (1: 3 )6
.
軒丸瓦直種の瓦当基面に残る成形台の痕跡 5.
軒丸II
種の瓦当粘土接合面 ( l:
3)8
.
軒丸瓦直種の瓦当側面と丸瓦部 ( 横 か ら ) 7.
軒丸瓦II
種の瓦当側面 ( 期 か ら )図 四 秋田城軒丸瓦
II
種と積み上げ技法成形台一本造りの特徴6
古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究一
部も形成される︒ つ
ぎの
工程では︑
丸瓦部の大半を形成すること になる板状の粘土を︑
成形台の
カマポコ
形の
突出部に置いて押しっ
ける
︵
図四1
5︶ ︒
この
時に粘土板の先端は瓦当の四分の一
強の
厚 みをもっ
ていたと推定され︑
瓦当下半部粘土の
上に置かれる︒
最後の
成形の工程は︑実物資料がないの
で推定しているの
だが︑瓦当上 部から丸瓦部にかけての
粘土を付加したり︑玉縁部を作り出したり していたの
であろう︵
図三1
6︶ ︒
その
後︑調整して全体を平滑に仕上げ
︑
:范型を打ち込んで完成したのである︵図三1
7〜9︶︒
三秋国城
の
A〜C
三群の
瓦と軒丸瓦I I
類の
位置づけ1秋国城
の
A一・︑ ・︐l
lC
三群の瓦つ
ぎに軒丸瓦I I
種が秋田城の
瓦全体の
中でどの
ような位置づけに あるの
かを考えてみたい︒
秋田城の瓦については︑長年秋田城を調 査・
研究してきた小松正夫氏の
詳細な論考がある︵小松一
九七六︑一
九八七︶︒
筆者は氏の
論考と秋田城跡調査事務所での
瓦調査結果を 検討して︑ A
〜C
の三群にまとめられるのではないかと考えている︵
表一 ︶ ︒ A
群は主に粘土板巻作りによる行基丸瓦︵丸瓦I b
:図五
1
1︶と凹面の広端側を幅狭く横ナデする平瓦︵平瓦
I I
1a
:図五
1
2︶から構成される
︒
小松氏によれば︑A
群は軒丸瓦を伴わないという︒
丸瓦
I
bの凸面には縦位縄叩き目を施すが︑
それをほとんどナデ消 す︒
平瓦︒
土板粘てに氏松小かほの作枚一
はあでよI I
こるりっ a
1表
一
秋国城の丸瓦・
平瓦分類表((小松、 l987) 別表を改変)s
成 形 紐巻作り 板巻作り 紐巻作り 板卷作り 板巻作り 板I a:
行基(無段)b 丸 IIa:
玉縁 (有段)瓦 b、 m :
不明1
商巷作りa1, 一
平 枚作りa l一
枚作りa2II瓦一
枚作りb調
整 凸面
叩き
目 細叩き目
一
・ナデ消しi l・
額囲き日→ナデ消し 斜格子lPき日 経位割中き日 経m
印き日 組叩き日 船子中き目斜・
様位n
れ砂 無 無 無 無 無 有 有 無 無
凹面
資
有 有 有 有 有 有1
˜
2面取り有
l
˜
2画取り有→
少しナデ消す 有
ケズ リ 面 取り
側
面 l 面 取 り 無 l 面 取 り 無 無 l
˜
2画取り l 面 取 り端狭 無 無 無 無 不明 無 無 凹面寄り
1面取り 無
端広 無 無 無 無 不明 凹面寄り
横ナデ 国面寄り
横ナデ 無 無
い ぶ し 無 有 無 無 無 有 有 無 無
焼 成 未確認 普通 硬質 未確認 やや柔質 未確認 普通 硬質 無
色 調 未確認 黄灰色
暗灰色 黒福色 未確認 黄得色 未確認 暗灰色 黒得色 黄福色
灰得色
備 考 小松、l987
に よ る 小松、l987
に よ る l 点 のみ
確認 小松、l987
に よ る 少fit
古代出羽国秋田城の- 9み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究古代出羽国秋田城の- 9み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究桶巻作り
の
可能性が指摘されている平瓦I a
1が少量ある︒
これは 凹面に枠板連結模骨痕を残すことを根拠とするが︑今回の
瓦調査で は実物を見ていないので︑
次回検討したい︒
平瓦I a
1とは
I I a
1 ともに凸面に離れ砂を付け︑また整然とした縦位總叩き日
を施し︑ さらに焼成の具合と色調も共通する︒ B
群は単弁一
五弁蓮華文軒丸瓦︵軒丸瓦I
種 :図五
1
3・
4︶と粘土紐巻作りによる玉縁丸瓦
︵
丸瓦I I a
:図五
1
7︶︑ 一
枚作りの平瓦
︒
瓦︵図五︶
瓦軒丸は類丸I I
なかるら1
82a I
接合す
I I
をa
るが︑接合前後に瓦当面
︑
瓦当裏面︑瓦当側面を縄叩きする︵
図五l
4〜6︶︒
丸瓦I I
種は凸面に斜・
縦位縄叩き日を施した後にそれを 部分的にナデ消している︒
平瓦凸面に斜縦位縄叩日
I I
はきを2a ・
施し︑凹面
の
狭端側を面取りし︑凹面の布日痕を部分的にナデ消す︒
丸瓦
︑
平瓦ともに須恵器の
ように硬質に焼成するものが多く︑
時に は自然釉を発するもの
さえある︒
色調は黒色や黒褐色を呈すること が多い︒ C
群は凸面に斜格子叩き日を施す丸瓦m
︵図六1
1︶
と平瓦I I
b︵図六
1
2〜4︶からなる︒
丸瓦m
は破片1点が見つかっ
ているだ けなの
で︑
行基丸瓦か玉縁丸瓦かの区別ができない︒
平瓦は
一 I I
b枚作りである
︒
斜格子日
をもつ
叩き板の形状は長方形で︑その
柄に近いところには
﹁
秋田瓦﹂ ︑ ﹁
秋﹂
︑﹁
高水﹂ の
文字を刻んでいる︒
そ の叩き板は小松氏によっ
て復原されている︵
図六1
5〜7︶︒
これ で凸面を平瓦の
側面に対して斜めに叩きしめている︒
なぉ︑
小松氏は平瓦
瓦紐基行丸瓦作巻土
︵
粘︶
瓦丸む組考丸I I
をの
ととりa
bI ︒ ︑
︑数点叩わずれ目て縄は整調面凸いえいがるかきでらしもこも今回観察していない
の
で︑次回検討したい︒
さて︑軒丸瓦
I I
種は丸瓦部を大きく欠くので︑その凸面調整具は 不明だが︑
二個体とも軟質に焼成され︑色調は黄褐色あるいは灰褐 色を帯びている︒
この特徴に近いものは︑ C
群の凸面に斜格子叩き 日を施す丸瓦と平瓦である︒
したがっ
て︑
軒丸瓦I I
種が
C
群に伴うも
の
であるかどうかを確定することは︑今後の重要課題である︒
なぉ
︑
小松氏によれば︑粘土板巻作りの
玉縁丸瓦︵丸瓦II
b︶も 少数ながらあるというが︑今回の瓦調査では観察していないので︑ 次回検討した︒
2秋国城A
l ; C
群瓦の索と年代A
群瓦は東面築地で落下した状態で発見され︑
鵜ノ木地区の井戸 から﹁
天平六年﹂ の
紀年をもつ
木簡と共伴していることから︑秋田 城が天平五年︵七三三︶
に出羽細として創建されてほどない段階に︑
築地や門に毒いたと考えられている
︵
小松一
九八七︶︒
秋田城の北 方では八世紀後半から九世紀末にかけて須恵器を生産していた新城 索跡群が見つ
かっている︵伊藤一
九九八︶ ︒
とくにA群の平瓦I I a
1に類似する平瓦と丸瓦の破片は
︑
新城一
需跡群を構成する谷地I I
遺
跡1号察
︵
八世紀第3四半期操業︶︑
大沢無跡 I・
1号察︵八世紀第3・
4四半期操業︶︑谷地I I
適跡2号無︵
八世紀第4四半期〜九世紀 第1四半期操業︶
の察内や灰原から見つかっ
ており︑
須恵器ととも に瓦も焼成されたことが判明している︒
しかし︑その点数から見れ8
古代出羽国秋田城の一
一一 一
み上げ技法成形台一本造り-llf丸一-一
の研究2 .:
、
1iii
:の、l'l1
.しII a 1(1 : 10)・1
.
Bllfiの中.1
:丸J・し I 何ll の j,し、li
面 (1 :5)l .・
、
9f1の丸.i
・L
I b( l: l 0) と'
l1
li l : 板 控 き 作 り (イl )3.B1111の,ll.l:丸
. 1
、し1 ff1
lのi石影と断面図 ( l :56 . B
a
?1の相:丸i . L
Ii
「,iL
、li
側面 (1
l;
l'l) の: 1 1
'll叫1き1l ). B 解 の lil: 丸. i
しI f'1li
し、!l実面と丸1
・し接合部8 . B 排
-
の、l- 11
し1I a 2 ( l :10) 7 . B fy
1の丸.i
しII
a(1:10) と1l,
l i l : 紐 を き 作 り (イl)図五 秋 田 城 A 群 瓦 ( 1 ・ 2 ) と B 群 瓦 ( 4 ˜ 8 )
、・
一 ・
':i . 、l'
i
.L
II b :llI」きli
l 「秋」 (l :1i
)1 . 丸.
1
・L
II1: lltl面111
:l・t
各1'-
l1l1'1l (I : ))7.「高水」 (). f大」
文'1・:を刻んだ11lJ き 板 (1 : :i
5 . 秋 l l l J・
L
1-
l0.). 'l':
1
・しII b :l1l1きii.「秋lll」l・し」 (1 :5)l'Jl・
L
I l b :l1lJきili 「高水」 (1: 5 )図六 秋田城C群瓦の丸瓦 ・ 平 瓦 と 叩 き 板
10
古代出羽同秋
m
城の械み-'-げ技法成形︐-︐一本造り--例--f'
の研究ば
︑
これらの察で八世紀第3四半期から九世紀第1四半期まで継続して瓦を大量生産していたとは考えられず︑
その
年代幅は主として 須恵器生産の操業期間を示すもの
であろう︒
また︑
出羽概創建段階の
草創期に当たる八世紀第2四半期に通る察は︑
この付近で見つかっ
ていない︒
この
時期の察で発見されているの
は秋田城束方にある 手形山索跡2号察で︑八世紀第2・ 3
四半期の
須恵器を生産してい る︒
手形山察跡1号窯では八世紀第3 ・
4四半期の
須恵器を生産し ている︒
しかし︑
そこで瓦は今まで見つ
かっ
ていない︒ A
群瓦を最 初に生産した窯はどこか︒
なぜそこから新城窯跡群へ
移動し︑
外郭 築地以外のどこに供給されたの
か︒ A
群瓦の生産の
実態を解明する ためにも︑
将来の
手形山察跡付近での継続調査に期待したい︒ B
群瓦は秋田城の
束北方にある古城理窯跡1〜3
号窯で︑九世紀第1〜2四半期のある段階に属する須恵器とともに焼成されている
︵
小松ほか一
九九七︶ ︒
その年代幅を前提に︑B
群の瓦が必要とさ れた契機につ
いて考えるならば︑それは天長七年︵
八三〇︶ の
出羽 国大地質︵﹁
類聚国史﹂
︶か︑
あるいは嘉祥三年︵八五〇︶
の出羽国 大地震︵﹁
文徳実録﹂ ︶
からの復興の
ためであろう︒
とくに八三〇年の
大地震は秋田城とその
周辺
地域に大規模な被害を与えている︒
したが
っ
て︑筆者はB
群瓦の製作年代を九世紀第2四半期と考えたい︒ C
群の
瓦のうち斜格子叩き日をもつ
丸・
平瓦の
年代については︑上層通構︑包含層から出土し
︑
赤褐色土器を伴出することからこと から︑
九世紀以降の所産と考えられてきた︵
小松一
九八七︶︒ C
群瓦を焼成した察跡は日下不明である
︒
秋田市羽白日遭跡の
堅穴通構 からもこの
種の瓦が出土しているが︑
察跡ではないという︒
したがっ
て︑
出土状況から見るならば︑C
群瓦は創建瓦であるA群瓦と八三〇年か八五〇年の大地震の復興瓦の可能性がある
B
群瓦との間に 置くか︑
それとも元慶二年︵八七八︶の
元慶の乱焼失後︵ ﹁
日本三大 実録﹂ ︶
の復興瓦にあてるかということになる︒
以下︑
秋田城軒丸瓦I I
種の
年代を絞り込む過程で︑C群瓦の年代も検討する︒
四積み上げ技法成形台
一
本造りの
年代と秋国城軒丸瓦u
種の年代
l積み上げ技法成形台
一
本造りの出現と存続︑
伝播の年代 毛利光氏は平城宮・
京跡出土の成形台一
本造り軒丸瓦を研究した 結果︑
積み上げ技法が平城宮・
京出土軒瓦編年第期末頃
︵
神I I l
1亀年間〜天平年間初頭︶に平城富用の瓦を焼成した中山瓦窯で発明 されたこと︑軒瓦編年第
I V
天︶
間年字宝平〜七一
平︵天期に年I
1 かけて存続することを明らかにした︵毛利光一
九九一 ︶ ︒
なぉ︑そ の間︑
接合式も同時に存在し︑むしろ積み上げ技法より主体的に用 いられている︒
それにも関わらずこのような特殊な技法が発明され た理由は何か︒
今後の
大きな検討課題である︒
積み上げ技法は畿内より東では︑富山県の越中国分寺︵図七
1 3 ・
4 :西井ほか
一
九八七︶︑
愛知県の
三河国分寺︵図七1
2 :森ほか編
一
九九〇︶で確認されている︒
瓦当下半部︑
丸瓦部を含 む瓦当中間部︑
さらに瓦当上部の順に三層の
粘土を積み上げているl l 古代出羽国秋田城の- 9み上げ技法成形台
一
本造り軒丸瓦の研究ことがわかる
︒
これらはいずれも八世紀中頃から後半の年代のもの であり︑積み上げ技法は国分寺造営に関連して地方に広がったと考 えられている︵毛利光一
九九一
︶︒
その広がりの実態は︑おそらく 地方でまだ積み上げ技法の存在が気づかれず眠つている-l
if
丸瓦の発 見によって︑徐々
に解明されるであろう︒なぉ︑群馬県の台之原廃 寺-l
lf
丸瓦A類も成形台一
本造りだが︵須田ほか一
九八六︶︑調査者 の一
人である高井氏のご教示によれば︑積み上げ技法か後述する折 り曲げ技法かの判断は困難という︒さて︑越中国分寺と三河国分寺の軒丸瓦の文様も︑それと組み合 う軒平瓦も相互に同文である
︒
さらにこのような特殊な技法まで同一
となると︑相互の類似性は偶然起こったのではなく︑モデルとな る共通の文様があった可能性がある︒
そこで平城宮・京の軒瓦に類 似する文様がないかと探してみると︑両者の一 一 一
:丸瓦の文様は平城宮 出土軒丸瓦六三一
四に類似している︵西井ほか︑一
九八七︶︒さらに︑ 平城宮のたとえば六三一
四A︵図七-
1︶は軒平瓦六六八一
Aと組 むのだが︑この軒平瓦の文様の中心飾と一
部の唐草を反転させてみ ると︑越中国分寺と三河国分寺の軒平瓦に類似する感がある︒
六三一
四Aが積み上げ技法であることを考慮すれば︑六三一
四AI
六六 八一
Aがモデルとなった軒瓦の有力な候補である︒
越中国分寺と三 河国分寺の軒瓦は平城宮の官瓦窯で積み上げ技法を習得したが︑文 様にはあまり通じていない工人︵地方から中央へ
徴用されて帰国し た者か︑中央から派造された者かは不明︶が︑平城宮の軒瓦六三一
四A
1
六六八一
Aをモデルにして作つたのだろう︒
この平城宮の軒2.三河国分、
f
(瓦当上部の接合面は推定) 1.平城宮6314A (接合面は推定)5.秋田域軒丸瓦ll種 (瓦当上 4.越中国分寺・外縁目
,
り直し品 3.越中国分寺'外縁鋸蘭文あり部の接合面は推定) (接合面は実例より推定) (瓦当上部の接合面は実例より推定)
図七 平城宮と東国の積み上げ技法成形台一本造り軒丸瓦(1
:
6 )12
古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台
一
本造り軒丸一-一
の研究瓦
の
年代は積み上げ技法が誕生して間もない平城宮軒瓦編年第I I
l
2期︵天平初頭〜一
七年頃︶
である︒
したがっ
て︑積み上げ技法 が越中国分寺と三河国分寺に伝播した年代は︑
八世紀中頃と見るこ とができよう︒
2
平城宮では積み上げ技法から折り曲げ技法へ
毛利光氏
の
研究によれば︑
平城宮の
瓦工房では平城宮軒瓦編年第I
Vl
2期︵
神護景雲年間︶
になると﹁
折り曲げ技法﹂
が出現し︑
そ れに交代されるように積み上げ技法が衰退する︵
毛利光一
九九一
︶︒
折り曲げ技法も成形台一
本作りの 一
種であり︑
成形台は積み上げ技法で使用する成形台に類似するが
︑
その上に置く丸瓦部用の粘 土板の
先端が台の外に長くはみ出し︑
それを折り曲げて瓦当部の
基 礎を成形する︵図八︶︒
実際はくり込みに粘土現を詰め込んで瓦当下 部としたものと合成する︑
瓦当面寄りにさらに粘土を足して厚みを,
l
lf丸Eを成形合から はずして完成図八折り曲げ技法成形台
一
本造りの工程加えた瓦当部に仕上げる場合もある
︒
しかし︑
その
瓦当部は積み上 げ技法の場合の
ように水平方向に層状に剥離することがない︒
接合式
の
技法を含めて比較しても︑折り曲げ技法は瓦当部が丸瓦 部と一
体なの
で︑
瓦当部が丸瓦部から剥離しにくい特質をもっ
てい ると指摘されることもある︒
しかし︑折り曲げ技法が接合式を凌駕 することはなく︑接合式が依然主流なのであるから︑
その
指摘の蓋 然性は少ない︒
むしろ︑
平城宮においては瓦の大量生産にあたっ
て︑ 積み上げ技法における瓦当粘土の三回以上にわたる積み上げ工程を やめて︑瓦当部の成形がほぼ一
回で済むという効率性を重視して折り曲げ技法に移行していっ
た︑と見たほうがよいだろう︒
鈴木氏に よっ
てまとめられた平安時代における折り曲げ式の変通を見ても︑ 瓦当粘土は徐々
に薄くなっ
ていく︵
鈴木一
九八六︑一
九九〇︶ ︒
こ れは積み上げ技法で安定した瓦当粘土の接合を行うために︑瓦当を 相当厚めにしていたが︑折り曲げ技法になっ
てからは︑その必要が なくなり︑粘土も製作時間も節約されていっ
たのである︒
しかし︑
折り曲げ技法がいつ ︑
どこで︑どんな理由で発明されたかは依然明らかでない
︒
毛利光氏は平城宮の場合︑折り曲げ技法を 採用した軒丸瓦の瓦当文様が飛雲文︵
六八〇一
型式︶という新たな 文様であることから︑
この技法が外から導入されたものである可能 性を示唆している︵毛利光一
九九一
︶︒
奈良時代の折り曲げ技法は 束国の下総国分寺︵佐々
木一
九八五︑山路ほか一
九九四︶
や下 野国分寺︵大橋一
九九七︶
でも採用されている︒
前者の年代は八 世紀第3
四半期後半頃と推定している︒
後者︵
二A・ B
︑二〇型式︶13 古代出羽国秋国城の積み上げ技法成形台
一
本造り- lif丸瓦の研究古代出羽国秋田城の較み上げ技法成形台
一
本造り一 一 一
:丸瓦の研究 には創建当初の軒丸瓦で七五〇年前後の年代を与えてぉり︑
平城宮の瓦工房で採用された年代よりず
っ
と古い︒
後者の瓦当文様はその 弁区文様が奈良時代末期から長岡京期にかけて作られた六二二九型 式に類似し︑六二二九型式も折り曲げ技法である︒
六二二九B
と組 む軒平瓦六八〇二B
の文様は飛雲文であり︑
下野国分寺創建軒平瓦の
なかにもこれと同文︵
4型式︶
があり︑
その :組型はその
後一
〇〇 年あまりも使用される︒
大橋泰夫氏らはこれが祖型となっ
て平城宮 の六八〇二B
が成立したと見ている︒
しかし︑七五〇年代後半以降 奈良時代末期までの下野国分寺の軒丸瓦は接合式であるので︑飛雲 文軒平瓦が奈良に伝播した時に︑
折り曲げ技法は同時に伝播しなかっ
たことになる︒
大橋氏は下野国分寺の折り曲げ技法を外部からの
強い影響と考えている︒
なぉ︑
下野国分寺にも下総国分寺にも積み 上げ技法は存在しないの
で︑
それを下地にして折り曲げ技法が誕生 したともいえない︒
いずれにせよ平城宮の
瓦工房で折り曲げ技法は 奈良時代末期までに積み上げ技法を淘汰し︑
その後平安時代中期に 平安宮の瓦作りとして盛行し︑ 一 一
世紀前半から中頃まで存続する︵
鈴木一
九九〇︑
植村ほか一
九九四︶︒
なお︑鈴木氏は大局的に見て
︑
成形台は奈良時代末期から平安時 代前期にかけて組み合わせ式から一
木式に変化するという考えを提 示している︵鈴木一
九九〇︶︒
佐藤隆氏はこれを支持する立場で︑
一范
の
打ち込みの繰り返しによっ
て成形台の組み合わせ部が断層のよ うにずれだし︑その影響で :相も割れやすくなるの
で︑ 一
木式にしたと解釈をしている︵佐藤
一
九九二︶︒ 3
秋国城軒丸瓦I I
種の製作年代と廃案年代 以上の検討結果に基づくならば︑
秋田城軒丸瓦I I
種の製作年代は 八世紀後半以後のいずれかの
段階という可能性が高いことになる︒ つ
ぎに︑
その
廃棄年代を出土状況から検証してみよう︵
図一 ︶ ︒
二点ある軒丸瓦
I I
種のうち一
点は︑
外郭東門南西側城内にある湿 地S G 一
〇三一
埋土第一
三・ 一
四層から出土した︒ S G 一
〇三一 の
埋土第一
三・ 一
四層の下からは天平宝字年間から延暦年間の紀年銘 木簡三〇〇余点と漆紙文書三〇余点が見つ
かっている︒
また︑S G 一
〇三一
の埋土第一
三・ 一
四層より上には八七八年の元慶の乱によ る秋田城炎上を示す焼土と炭化物を含む土層がある︒
さらに︑共伴 する土器の
年代を考慮するならば︑
軒丸瓦I I
種が
S G 一
〇三一
に埋ま
っ
たの
は︑九世紀第1四半期頃の
可能性が高い︒
もう
一
点の軒丸瓦I I
種は︑政庁正殿の北にある築地S F
六七七を 破壊する土坑S K
六六八から出土した︒ S K
六六八からはB
群の
平瓦
I I
a
2もみつ
かっ
ている︒
築地S F
六七七は秋田城 I〜m
期の
も のであり︑ I
V期には位置をやや北にずらして掘立柱塀に改作され︑ これは八七八年の元慶の
乱で焼けている︒
したがって︑築地S F
六七七が
I V
期に改作された契機は︑八三〇年か八五〇年に発生した大 地震後の復興の
可能性が高い︒
仮にそうであれば︑
大地震で落下し 不要となっ
た軒丸瓦I I
種と大地震復興のためのB
群瓦の平瓦I I a
2の破損品が︑
S K
六六八で共伴する可能性は十分にある︒
以上から︑軒丸瓦
I I
種は八世紀後葉から九世紀第1四半期にかけ て新城瓦窯群以外で生産され︑
城内のいずれかの
屋根に毒かれ︑
八l 4
三〇年か八五〇年
の
大地震によっ
て落下︑
廃棄された可能性を考え てぉく︒
軒丸瓦I I
種が生産された時期は︑
積み上げ技法成形台一
本 造りが平城宮の瓦工房で衰退し︑
廃され︑
その
技法が波及した国分 寺の
造営も一
段落しはじめる頃である︒
五秋国城軒丸瓦
I I
種とC
群瓦の
系譜 1軒丸瓦I I
種の
系譜軒丸瓦
I I
種が製作された契機は︑
秋田城における何らかの
造営で あろうが︑軒丸瓦I I
種の
点数から見て︑
それは大規模なもの
ではな かっ
た︒
この
瓦製作に関与した工人の
中に演み上げ技法成形台一
本 作りを修得した工人がいたわけであり︑
そのような工人の存在なく して︑
この特殊な技術が在地的に発生することはありえない︒
本例の
ような技術伝播は工人が移住した︑あるいは招来された結果なの
である︒
それでは工人はどこから来たの
だろうか︒
越中国分寺︑
三 河国分寺︑
平城宮の瓦工人と︑候補はいくっ
もあげられるが︑
それ ら以外の東国に確実な例は日下見あたらないので︑
かれらは出羽国 から遠く離れた地方から渡来したと見られる︵図七︶︒
そ
の
場所をある程度絞り込む手段の一 つ
は軒丸瓦の文様である︒
秋田城軒丸瓦
I I
種の
文様は単純化されていて︑
比較するべき資料を 特定するの
が大変困難な状況にあるが︑単弁八弁同士
ということで︑ あえて越中国分寺の
軒丸瓦の
文様と比較してみよう︵
図七1
3〜5
︶ ︒
すでに越中国分寺例の
モデルの
有力候補を平城宮六三一
四A と推定したが︑
この
段階ですでに複弁四弁が単弁八弁に︑ T
字形の
間弁が
Y
字形に︑内区内縁の珠文数が一
六個から八個に簡略化され ている︒
越中国分寺例は若干の時間をぉいて︑外縁の a
m歯文を削り 落として素文にしている︒
さらに︑
ここで越中国分寺例の弁区の弁 が輪郭線を失い︑ Y
字形の
間弁が三角形化し︑中房蓮子や内縁外圏 線が省略されると︑
秋田城軒丸瓦I I
種にある程度近い文様となるこ とに気がつ
く︒
軒丸瓦以外にも
︑
出羽国と北陸地方の つ
ながりを示す資料がある︒ 一
九九八年の秋田城跡第七二次調査で見つ
かった漆紙文書の中の死 亡帳には︑九頃︑中世てれ述記人紀た亡死に間年祥嘉
の
名がさぉしり 本籍地を氏︵ウジ︶
名にしている︒
それは越後国南部の高志を本貫 地とする高志公︑
加賀国江沼︵八二三年まで加賀国︶
を本貫地とす る江沼臣であり︑
北陸地方から出羽国へ
移住させられた者であった︵平川
一
九九八︶ ︒
このように北陸地方は強制移住による住民の入 植を含め︑出羽国の
後方支援の役割を果たしており︑両者は緊密な 関係にあっ
たようである︵平川一
九八二︶︒
そのような関係を背景 に憶測が許されるの
であれば︑
越中国分寺創建に従事した瓦工人が︑
国分寺瓦工房での役日を終えた後に︑あるいは秋田城へ
招来され︑
瓦作りに関与したことも考慮に入れてぉく必要があろう︒
15
2
C
群の丸・
平瓦に見られる斜格子-Il ﹈
き日の
系譜まず
︑ C
群平瓦の
凸面に見られる︑
斜格子叩き日と﹁
秋田瓦﹂ ︑ ﹁
秋﹂ ︑ ﹁
高水﹂
という供給地名を刻んだ縦長の叩き具︵図六1
2〜7︶
の古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台