• 検索結果がありません。

古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台一本造り軒 丸瓦の研究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台一本造り軒 丸瓦の研究"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

古代出羽国秋田城の積み上げ技法成形台一本造り軒 丸瓦の研究

著者 佐川 正敏

雑誌名 東北学院大学東北文化研究所紀要

号 31

ページ 1‑20

発行年 1999‑08‑31

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024221/

(2)

古 代 出 羽 国 秋 田 城 の 積 み 上 げ 技 法 成 形 台 一 本 造 り 軒 丸 瓦 の 研 究

佐 川 正 敏

はじめに 本稿執筆

きっかけは

九九八年

一 一

月に宮城県石巻市文化セン タ

I

で開催されていた展示

古代の瓦

を見学したことによる︵阿 波広子編

九九八︶

古代陸奥国と出羽国

城柵

官衙や寺院の瓦 が

堂に集められていたので︑それらを直接概観する絶好の機会で あ

そこは秋田城跡

一 ︶

で従来から知られた単弁

五弁

蓮華文軒丸瓦︵以下︑軒丸瓦

I

種と仮称 :

図五

1

3

︶ の

ほか︑も う

種類出土していた単弁蓮華文軒丸瓦︵以下

軒丸瓦

I I

種と仮称:

図二︶も展示れてぉり

筆者はそれをはじめて見た

同センタ

I

の阿波広子氏よれば︑秋田城跡調査事務所がこ

軒丸瓦を展示 用貸し出すのははじめてのことで

展示を機にこ

軒丸瓦の文様 のル関する手がかりが得られないかと期待している

という ことであ

秋田城のある出羽国は

海国使節の着岸地でもあり

文様のルツの候補として

海国もイメージされていたそうであ る

秋田城軒丸瓦

I I

種は半分割れて半円形を呈してぉり

割れ面

を左側して展示されていた

筆者は何気なくその割れ面をガラス 越し

ぞき込んだ

するとその割れ面は破損して割れたものと異

なり

粘土

接合面沿つて剥離したよう見えた

その瞬間

筆 者

脳裏浮かんだのは︑後述する奈良時代平城宮の瓦工房で誕 生した

積み上げ技法成形台

本造り

であ

この製作技法が古代の出羽国陸奥国

たことを︑今まで聞 いたことはなかったので

阿波氏願いして軒丸瓦

I I

種を直接観 察することした

結果︑軒丸瓦

I I

種はまちがいなく積上げ 技法成形台

本造りよる製品であることを確認した

しかも

こ れは古代日本最北端の分布例であり

近隣に事例がなく︑きわめて 重大な発見といえる

この結果と筆者の初歩的見解を秋田城跡調査事務所の日野久氏と 伊藤武

連絡したところ

軒丸瓦

I I

種は計二点しか出土して ないことそれらの出土地点など

いてご教示を頂いた

それを 具体的観察し

さらに軒丸瓦 I種をはじめとするほかの秋田城跡 出土

丸瓦

平瓦全体ける軒丸瓦

I I

位置づけと年代を知る ため

︑ 一

九九九年二月秋田城跡調査事務所

赴き︑資料調査な らび日野氏等と

意見交換を行つた

結果

軒丸瓦

I I

種の年

- 9

fF

(3)

一 

秋国城跡発掘調査位置図と軒丸瓦

II

種の出土地点

代は九世紀第1四半期に近い時期と見られることがわかった

また︑平城宮

京にける積み上げ技法成形台

本造り

いて 詳細な研究を行つてきた奈良国立文化財研究所

毛利光俊彦氏と連 絡を取り

本技法が八世紀第1四半期末平城宮で考案され

八世 紀末には衰退し始めることを再確認した

平川南氏によれば

秋田城は出羽細が天平五年

七三三︶移さ れて出羽国府となり

延暦二三年

八〇四

それが解除されるが︑ そ

後も国府

出先機関として機能していた︵平川

九八二︶

古 代日本最北端の中

平城宮で誕生した瓦作りの技術が伝わ

た意義は大きい

と考える

以下

古代出羽国よび陸奥国ではじ めて確認された被み上げ技法成形台

本造り

いて具体的紹介し

その年代系譜︑さらに発見

意義

いて考察する

二秋国城の積み上げ技法成形台

本造り軒丸瓦 1秋国城の軒丸瓦

I I

軒丸瓦

I I

種は瓦当直径が約

五センチメトルと小型の単弁 蓮華文である

︒ ﹁

平成三年度秋田城跡発掘調査概報第六五図では単 弁七弁に復原されているが

後述する外区内縁珠文は八個復原さ れている

秋田城跡調査事務所ほか

九九二

︶ ︒

出土している二点 の軒丸瓦

I I

拓本を合成︑検討した結果

単弁八弁の復原も十分 可能であることがわか

図二

︶ ︒

完形品が見

かるまでは︑単弁 八弁案も考慮してほしい

蓮華文は相当簡略化されてぉり︑小振り

(4)

:

3で突出る楕円形を弁と

1見れば︑大きめで突 たのであろう︒

図二  秋田城軒丸

II

種瓦当文様復原

出する逆三角形が間弁と なろう

中房は直径が約 五センチメあるの で︑大きく感ずるが︑圏 線で囲まれただけで︑内 部蓮子を置ない素文 である

外区は

重の圏 線で弁区と区分

内縁は珠文を推定八個間隔をぉいてめぐらし︑外縁は高のな 平縁で素文である

瓦当側面幅が約四センチメトルであり︑瓦当 直径比べて厚をもった軒丸瓦ということができる︵図四

1

1

2︶

二点とも色調が黄褐色なし黄灰色を呈し︑焼き質は軟質 である

軒丸瓦

I I 種は弁と間弁の表現が簡略化れ︑中房たっては空 間があるだけで完全形骸化れて

なぉ︑軒丸瓦

I I 種の出土 地点は第四〇次調査

政庁正殿北側土坑

S K

六六八︵秋田城跡調査 事務所ほか

九八五︶と第五四次調査

外郭束門南西側城内湿地

S G 一

〇三

の第

三・

四層︵秋田城跡調査事務所ほか

九九

二︶である

なぉ︑秋田城は軒丸瓦 I種

I I 種と組合う軒平瓦がな

たがって︑後述する平瓦のずれかを軒平瓦の代わり組ませて 2積み上げ技法成形台

本造りとは

古代出羽国陸奥国を含む日本て︑もっとも

般的な軒丸

瓦の製作技法は︑ :把詰めし︑成形した瓦当粘土丸瓦を縦位置で接

合する

接合式

である

後述る秋田城の軒丸瓦

I

種はそれよ って製作れてる︵図五

1

3︒したがって︑この技法よって 製作れた軒丸瓦の瓦当部と丸瓦都は接合位置で剥離しいの で︑瓦当裏面は丸瓦先端の円弧状の剥離痕が鮮明るこ が多︵図五

1

5︶

これ対して︑秋田城軒丸瓦II種見ら

上げ技法成形 台

本造り

では︑丸瓦の円弧状の剥離痕はまったく確認するこ がで︒その理由を含め︑本技法の製作工程

てまず説明 る︵図三︶

本技法は従来

﹁ 一

本造り

と総称れてた技法を鈴 木久男氏が体系的整理した中の

D技法︵型造り成形︶

相当する鈴木

九九〇︶︑鈴木氏はこれ特定の名称をつけな かった

その頃︑平城宮

京の

本造り軒丸瓦を調査︑研 究してた毛利光俊彦氏も

本造りの概念を再整理し︑鈴木氏のD 技法を

成形台

本造り

呼び︑そ

上げ技法

折 り曲げ技法

細分した︵毛利光

九九

︶︒上原真人氏は成形 台

本造りを

横置

本造り

と呼上原

九九七︶

三者 三様の名称を使ているが︑筆者は従来成形台

本造りと呼ん でたので︑本文でもそれを使用る︵佐川

九九三︶

- lFF

(5)

8. 械 か ら,

L

、t'面に

,

通型を押す

9..l

i

を成形合からはずして完成

l.くり込みに

-

Mllの見'l1納l:を◆11め込t

5. .MllのJli

;

'l

i

納l:は丸見部と J生

-

l:

'= :

-E :

6'

l. 成 形

-

'' 1  :組み合わせ式

2.成形

-

'一  :  木式

1 :3

図 三   成形台

本造りの成形台 ( 1  ・ 2 )  と秋田城軒丸瓦

II

種に見る

積み上げ技術成形台

本 作 りの 工 程 復 原 ( 3 ˜ 9 )

本技法で重要な役割を果たすのマボ

形の成形台である

軒 丸瓦た痕跡を手して︑成形台の復原図を最初

示したのは上原氏である図三

1

1 :

上原

九八六︶

上原氏 復原した成形台は上部型と下部型の

せ式

なってそれは瓦当裏面成形台の組合わせ部分の凸の圧痕 れてる場合があるである

鈴木氏と毛利光氏はこの痕跡れて場合の成形台を︑

﹁一

ある

﹁ 一

木式

想定し て図三

1

2

3

の成形台は機能的瓦当下半部の 粘土を置く半円形のくり込部分と丸瓦部の粘土を置く部分構 成れて

丸瓦部の側面をはめ込むための 溝をもってる例も ある︵図三

1

2

軒丸瓦の製作あたっては成形台布をせるこ

まず正面のくり込部分の下瓦当粘土を水平方向

〜二層積 上げる︵図三

1

4

そしてその上長めの丸瓦部用粘土 板の先端を乗せるよしなら合体丸瓦部は成形台押し つけてU字形る︵図三

1

5

瓦当上端丸瓦部 けて部分的粘土を積上げて瓦当の上半部も成形し玉縁部凸 面を作り削り出して︵行基の場合もある全体の成形を完了図三

1

6

つぎ全体調整を施して平滑る︵図三

1

7

最後瓦当面館型を押捺し瓦を成形

らはずして完成る︵図三

1

8・9

この後瓦当裏面

側 面などズリ調整を加え成形過程で

た布目痕を消去

ることもある

(6)

以上の結果

軒丸瓦

ような痕跡が残されることが多い

①成形台に布をかせた場合には

瓦当裏面︵時には瓦当側面を含 む︶から丸瓦凹面

側面︵時は玉縁凸面︶かけて連続する布日 痕が残ることがある

②粘土を層状積み上げて瓦当部を成形する ので

焼成後粘土

接合面沿つて水平方向に剥離することがあ る

③丸瓦部用粘土板は厚めで

先端が瓦当部中央を構成するので

接合式

場合のよう︑瓦当裏面丸瓦先端

円弧状の剥離痕を残 すことはない

したが

て︑剥離した丸瓦部先端に瓦当文様が残さ れていたり

縦断面形状も三日月形か半月形を呈するのである

④粘土を成形台

くり込み

下から安定して被み上げるため

く り込み

奥行きは四〜五センチメートルと深い

で︑瓦当側面幅と 瓦当厚は接合式

軒丸瓦と比べて大きいことが多い

3

軒丸瓦

I I

種に見られる

積み上げ技法成形台

本造り

﹂ の

特徴

さて︑筆者が秋田城

軒丸瓦

I I

種を積み上げ技法成形台

本造り と判断したのは

︑ つ

ような特徴が残されているからである

ま ず︑瓦当下半部を残す本資料

割れ面は

明らかに接合面沿つて 剥離した結果生じたものであり

成形台のくり込

ひらか指 で押し込んだ時

いた軽い凹凸が残る︵図四

1

5

︶ ︒

しかも

そ れは軒丸瓦を正立状態に見て

水平方向に発生している︵図四

1

1

〜3

︶ ︒

瓦当下半部

途中は︑接合面

存在を示す層状の亀裂がな

いので︑

:

粘土を使たと見られる

瓦当側面幅が四センチ メートルと

瓦当径比べて厚点も

上げ技法の特徴を示す

瓦当裏面

向か

て左側は丸瓦部の

部が残つている

図四

1

4︶

本来右側も丸瓦部

の 一

部が残つていたが

そこは破 損してしま

しかし︑左側の丸瓦部を上方から見ても

瓦当部 粘土接合面は丸瓦

先端が確認できるという接合式見られる現 象はま

たくなく

丸瓦部

粘土の

部と瓦当部粘土は

体の粘土

共土︶から構成されていることも明白である

図四

1

5

︶ ︒

さらに︑瓦当裏面には成形台のカマボ

形の突出部分

当たりが 残る

図四

1 6 ︶ ︒

形の突出部

上端は

瓦当面の中心よ りや高い位置にあたると推定れる

図四

1

l

2

︶ ︒

瓦当裏面 残る緩方向

木目痕は︑成形台が木製であることを示し︑また

そこには組み合わせ式の成形台を示す痕跡がない

で︑成形台は

木式といえる

瓦当裏面は下半横ナデ調整を施す程度で平坦であ り

丸瓦部側面とは垂直をなす

図四

1

8︶

残存する軒丸瓦I

I

種 の下半部にはケズリ調整がほとんど認められないので︑面に凹凸が なく滑らかであり︑面と面

変わり目も減り張りがある

これは まさに成形台のなせる技である

なぉ︑瓦当裏面と丸瓦部凹面

側 面には布日痕がないので

成形台には布をかせてない

以上か ら

軒丸瓦

形種三復

の I I

図は台成の

1

原でよきるう3 それではこ

ような成形台を使て行われた軒丸瓦

I I

製作工 程を復原してみよう

まず

成形台のくり込に瓦当下半部用の粘 土をはめ込む

図三

1

4

︶ ︒

その高さは瓦当半径より少し大きい

図 四

1

1

2

︶ ︒

この時瓦当粘土の

部がは出し︑丸瓦部側面の

- 9

(7)

2

.

軒丸瓦

II

種 (5

-

192) の拓影と断面図  (1:4)  1

.

軒丸瓦

II

種 (3

-

218)  の拓影と断面図  (1:4)

4

.

軒丸瓦

II

種の瓦当裏面と丸瓦部側面  ( l: 3 )   3

.

軒丸瓦

II

種 (3

-

218) の瓦当面 (1: 3 )

6

.

軒丸瓦直種の瓦当基面に残る成形台の痕跡  5

.

軒丸

II

種の瓦当粘土接合面  ( l  

3)

8

.

軒丸瓦直種の瓦当側面と丸瓦部  ( 横 か ら ) 7

.

軒丸瓦

II

種の瓦当側面  ( 期 か ら )

図 四   秋田城軒丸瓦

II

種と積み上げ技法成形台一本造りの特徴

6

(8)

部も形成される

︒ つ

工程では

丸瓦部の大半を形成すること なる板状の粘土を

成形台

カマポ

突出部に置いて押し

ける

図四

1

5

︶ ︒

時に粘土板の先端は瓦当の四分の

をも

ていたと推定され

瓦当下半部粘土

上に置かれる

最後

成形の工程は︑実物資料がない

で推定している

だが︑瓦当上 部から丸瓦部かけて

粘土を付加したり︑玉縁部を作り出したり していた

であろう

図三

1

6

︶ ︒

後︑調整して全体を平滑に

仕上げ

:范型を打ち込んで完成したのである︵図三

1

7〜9︶

三秋国城

A〜

C

三群

瓦と軒丸瓦

I I

位置づけ

1秋国城

A一・

l

l

C

三群の瓦

ぎに軒丸瓦

I I

種が秋田城

瓦全体

中でど

ような位置づけ ある

かを考えてみた

秋田城の瓦ては︑長年秋田城を調 査

研究してきた小松正夫氏

詳細な論考がある︵小松

九七六︑

九八七︶

筆者は氏

論考と秋田城跡調査事務所で

瓦調査結果を 検討して

︑ A

C

の三群にまとめられるのではないかと考えている

一 ︶ ︒ A

群は主粘土板巻作りよる行基丸瓦︵丸瓦

I b

:

図五

1

1︶

と凹面の広端側を幅狭く横ナデする平瓦︵平瓦

I I

1

a

:

図五

1

2︶

から構成される

小松氏よれば︑

A

群は軒丸瓦を伴わないという

丸瓦

I

bの凸面には縦位縄叩き目を施すが

それをほとんどナデ消 す

平瓦

土板粘て氏松小かほの作枚

はあでよ

I I

こるり

っ a

1

一 

秋国城の丸瓦

平瓦分類表((小松、 l987)  別表を改変)

s

成  形 紐巻作り 板巻作り 紐巻作り 板卷作り 板巻作り 板a

:

行基(無段)b 丸  IIa

:

玉縁  (有段) b

m :

不明

1

商巷作りa1

,

平 枚作りa l

枚作りa2II

枚作りb

調

細叩き目

ナデ消し

i l・

額囲き日→ナデ消し 斜格子lPき日 経位割中き日 経

m

印き日 組叩き日 船子中き目

様位

n

1

˜

2面取り

l

˜

2画取り

有→

少しナデ消す

l 面 取 り l 面 取 り l

˜

2画取り l 面 取 り

不明 凹面寄り

1面取り

不明 凹面寄り

横ナデ 国面寄り

横ナデ

い ぶ し

焼  未確認 普通 硬質 未確認 やや柔質 未確認 普通 硬質

色  調 未確認 黄灰色

暗灰色 黒福色 未確認 黄得色 未確認 暗灰色 黒得色 黄福色

灰得色

備  小松、l987

に よ る 小松、l987

に よ る l 点 の

確認 小松、l987

に よ る 少fit

- 9

(9)

- 9

桶巻作り

可能性が指摘されている平瓦

I a

1が少量ある

これは 凹面に枠板連結模骨痕を残すことを根拠とするが︑今回

瓦調査で は実物を見ていないので

次回検討したい

平瓦

I a

1と

I I a

1 とも凸面に離れ砂を付け︑また整然とした縦位總叩き

を施し︑ さら焼成の具合と色調も共通する

︒ B

群は単弁

五弁蓮華文軒丸瓦︵軒丸瓦

I

種 :

図五

1

3

4︶と

粘土紐巻作りよる玉縁丸瓦

丸瓦

I I a

:

図五

1

7

︶︑ 一

枚作りの

平瓦

瓦︵図五

瓦軒丸は類丸

I I

なかるら

1

82

a I

接合す

I I

a

るが︑接合前後瓦当面

瓦当裏面︑瓦当側面を縄叩きする

図五

l

4〜6︶

丸瓦

I I

種は凸面に斜

縦位縄叩き日を施した後それを 部分的ナデ消している

平瓦

凸面に斜縦位縄叩日

I I

はきを2

a ・

施し︑凹面

狭端側を面取りし︑凹面の布日痕を部分的ナデ消す

丸瓦

平瓦とも須恵器

よう硬質焼成するものが多く

は自然釉を発するも

さえある

色調は黒色黒褐色を呈すること が多い

︒ C

群は凸面斜格子叩き日を施す丸瓦

m

︵図六

1

1

と平瓦

I I

b

︵図六

1

2〜4︶からなる

丸瓦

m

は破片1点が見つか

ているだ けな

行基丸瓦か玉縁丸瓦かの区別ができない

平瓦

一 I I

b

枚作りである

斜格子

をも

叩き板の形状は長方形で︑そ

ところには

秋田瓦

﹂ ︑ ﹁

高水

﹂ の

文字を刻んでいる

そ の叩き板は小松氏

て復原されている

図六

1

5〜7︶

これ で凸面を平瓦

側面対して斜めに叩きしめている

なぉ

小松氏

は平瓦

瓦紐基行丸瓦作巻土

瓦丸む組考丸

I I

ととり

a

b

I ︒ ︑

︑数点叩わずれ目て縄は整調面凸えいがるかきでらしもこも

今回観察していない

で︑次回検討したい

さて︑軒丸瓦

I I

種は丸瓦部を大きく欠くので︑その凸面調整具は 不明だが

二個体とも軟質焼成され︑色調は黄褐色あるいは灰褐 色を帯びている

この特徴近いものは

︑ C

群の凸面斜格子叩き 日を施す丸瓦と平瓦である

したが

軒丸瓦

I I

種が

C

伴う

であるかどうかを確定することは︑今後の重要課題である

なぉ

小松氏よれば︑粘土板巻作り

玉縁丸瓦︵丸瓦I

I

b︶も 少数ながらあるというが︑今回の瓦調査では観察してないので︑ 次回検討した

2秋国城A

l ; C

群瓦の索と年代

A

群瓦は東面築地で落下した状態で発見され

鵜ノ木地区の井戸 から

天平六年

﹂ の

紀年をも

木簡と共伴してることから︑秋田 城が天平五年︵七三三

に出羽細として創建されてほどない段階

築地毒いたと考えられている

小松

九八七︶

秋田城の北 方では八世紀後半から九世紀末かけて須恵器を生産していた新城 索跡群が見

かっている︵伊藤

九九八

︶ ︒

とくA群の平瓦

I I a

1に類似する平瓦と丸瓦の破片は

新城

跡群を構成する谷地

I I

跡1号察

八世紀第3四半期操業

︶︑

大沢無跡 I

1号察︵八世紀第3

4四半期操業︶︑谷地

I I

適跡2号無

八世紀第4四半期〜九世紀 第1四半期操業

の察内や灰原から見つか

須恵器ととも 瓦も焼成されたことが判明している

しかし︑その点数から見れ

8

(10)

一一 一

-llf一-

2 .:

1

iii

:l'l

1

.II  a 1(1 : 10)

1

.

Bllfiの中.

1

:丸Jし I 何ll の j,し、l

i

面 (:5)

l .

9f1の丸

.i

L

b( l: l 0

'

l

1

li l : 板 控 き 作 り   (l )

3.B1111の,ll.l:

. 1

1 ff

1

lのi石影と断面図 ( l  :5

6 . B  

a

?1の相:

i . L

I

i

「,i

L

、l

i

側面 (

1

l

;

l'l

: 1 1

'll叫1き1l ). B 解 の lil: 丸

. i

I f'1l

i

、!l実面と丸

1

・し接合部

8 . B 排

-

l

- 11

1I a 2  ( l :10) 7 . B f

y

1の丸.

i

II

a(1:10)  1l

,

l i l : 紐 を き 作 り   (イl)

図五  秋 田 城 A 群 瓦 ( 1 ・ 2 ) と B 群 瓦 ( 4 ˜ 8 )

(11)

、・

'

:i . 、l'

i

.

L

II  b :llI」きl

i

l」 (l :

1i

)

1 .  .

1

L

II1: lltl面1

11

:l

t

各1'

-

l1l1'1l (I : ))

7.高水」  (). f

'1:を刻んだ11lJ き 板 (1 : :i

5 . 秋 l l l J

L

1

-

l0.

). 'l':

1

II b :l1l1きii.秋llll」 (1 :5)

l'Jl

L

I l b :l1lJきili 「高水」 (1: 5 )

図六  秋田城C群瓦の丸瓦 ・ 平 瓦 と 叩 き 板

10

m

-'------f

'

(12)

これらの察で八世紀第3四半期から九世紀第1四半期まで継続して瓦を大量生産していたとは考えられず

年代幅は主として 須恵器生産の操業期間を示すも

であろう

また

出羽概創建段階

草創期当たる八世紀第2四半期通る察は

この付近で見つか

ていない

時期の察で発見されている

は秋田城束方ある 手形山索跡2号察で︑八世紀第2

・ 3

四半期

須恵器を生産してい る

手形山察跡1号窯では八世紀第

3 ・

4四半期

須恵器を生産し ている

しかし

そこで瓦は今まで見

ていない

︒ A

群瓦を最 初に生産した窯はどこか

なぜそこから新城窯跡群

移動し

外郭 築地以外のどこに供給された

︒ A

群瓦の生産

実態を解明する ため

将来

手形山察跡付近での継続調査に期待したい

︒ B

群瓦は秋田城

束北方にある古城理窯跡1〜

3

号窯で︑九世紀

第1〜2四半期のある段階属する須恵器ととも焼成されている

小松ほか

九九七

︶ ︒

その年代幅を前提

B

群の瓦が必要とさ れた契機に

いて考えるならば︑それは天長七年

八三〇

︶ の

出羽 国大地質︵

類聚国史

︶か

あるいは嘉祥三年︵八五〇

の出羽国 大地震︵

文徳実録

﹂ ︶

からの復興

ためであろう

とく八三〇年

大地震は秋田城とそ

地域大規模な被害を与えている

たが

て︑筆者は

B

群瓦の製作年代を九世紀第2四半期と考えたい

︒ C

瓦のうち斜格子叩き日をも

平瓦

年代ついては︑

上層通構︑包含層から出土し

赤褐色土器を伴出することからこと から

九世紀以降の所産と考えられてきた

小松

九八七︶

︒ C

瓦を焼成した察跡は日下不明である

秋田市羽白日遭跡

堅穴通構 からもこ

種の瓦が出土しているが

察跡ではないという

したが

出土状況から見るならば︑

C

群瓦は創建瓦であるA群瓦と八

三〇年か八五〇年の大地震の復興瓦の可能性がある

B

群瓦との間 置くか

それとも元慶二年︵八七八︶

元慶の乱焼失後

︵ ﹁

日本三大 実録

﹂ ︶

の復興瓦あてるかということになる

以下

秋田城軒丸瓦

I I

年代を絞り込む過程で︑C群瓦の年代も検討する

四積み上げ技法成形台

本造り

年代と秋国城軒丸瓦

u

種の

年代

l積み上げ技法成形台

本造りの出現と存続

伝播の年代 毛利光氏は平城宮

京跡出土の成形台

本造り軒丸瓦を研究した 結果

積み上げ技法が平城宮

京出土軒瓦編年第

期末頃

I I l

1

亀年間〜天平年間初頭︶平城富用の瓦を焼成した中山瓦窯で発明 されたこと︑軒瓦編年第

I V

間年字宝平〜七

平︵天期

I

1 かけて存続することを明らかした︵毛利光

九九

一 ︶ ︒

なぉ︑そ の間

接合式も同時存在し︑むしろ積み上げ技法より主体的用 いられている

それも関わらずこのような特殊な技法が発明れ た理由は何か

今後

大きな検討課題である

積み上げ技法は畿内より東では︑富山県の越中国分寺︵図七

1 3 ・

4 :

西井ほか

九八七︶

愛知県

三河国分寺︵図七

1

2 :

森ほか編

九九〇︶で確認さている

瓦当下半部

丸瓦部を含 む瓦当中間部

さら瓦当上部の順三層

粘土を積み上げている

l l - 9

(13)

も八世紀中頃後半の年代のもの であり上げ技法は国分寺造営関連して地方ったと考 毛利光

九九

その広りの実態はそらく 地方でまだ積上げ技法の存在気づず眠-

l

i

f

丸瓦の発 見よって

るであ︒なぉ︑群馬県の台之原廃 寺-

l

l

f

丸瓦A類も成形台

本造りだ須田ほ

九八六調査者 の

人である高井氏のご教示上げ技法後述る折 り曲げ技法の判断は困難

越中国分寺三河国分寺の軒丸瓦の文様も軒平瓦も相互同文である

このような特殊な技法まで同

なる相互の類似性は偶然起こったのではなくとな る共通の文様があった可能性ある

そこで平城宮・京の軒瓦類 似る文様がなと探してると両者の

一 一 一

:丸瓦の文様は平城宮 出土軒丸瓦六三

類似してる︵西井ほ

︑ 平城宮のえば六三

四A図七

-

1は軒平瓦六六

Aと組 むのの軒平瓦の文様の中心飾と

部の唐草を反転せて越中国分寺と三河国分寺の軒平瓦類似る感ある

六三

Aが積技法であることを考慮六三

四A

I

六六 八

Aとなっ軒瓦の有力な候補である

越中国分寺と三 河国分寺の軒瓦は平城宮の官瓦窯で積上げ技法を習得したが︑文 様はあまり通じて工人︵地方中央

徴用て帰国し た者︑中央派造は不明平城宮の軒瓦六三

四A

1

六六八

Aをモして作

この平城宮の軒

2.三河国分、

f

(瓦当上部の接合面は推定) 1.平城宮6314A  (接合面は推定)

5.秋田域軒丸瓦ll種  (瓦当上  4.越中国分寺・外縁目

,

り直し品  3.越中国分寺'外縁鋸蘭文あり

部の接合面は推定)  (接合面は実例より推定)  (瓦当上部の接合面は実例より推定)

図七  平城宮と東国の積み上げ技法成形台一本造り軒丸瓦(1

:

6 )

12

一-

(14)

年代は積上げ技法が誕生して間もない平城宮軒瓦編年第

I I

l

2期︵天平初頭〜

七年頃

である

したが

て︑積み上げ技法 が越中国分寺と三河国分寺伝播した年代は

八世紀中頃と見るこ とができよう

2

平城宮では積み上げ技法から折り曲げ技法

毛利光氏

研究よれば

平城宮

瓦工房では平城宮軒瓦編年第

I

V

l

2期

神護景雲年間

になると

折り曲げ技法

が出現し

そ れ交代されるように積み上げ技法が衰退する

毛利光

九九

折り曲げ技法も成形台

本作り

の 一

種であり

成形台は積み上

げ技法で使用する成形台類似するが

その上置く丸瓦部用の粘 土板

先端が台の外長くはみ出し

それを折り曲げて瓦当部

基 礎を成形する︵図八︶

実際はくり込み粘土現を詰め込んで瓦当下 部としたものと合成する

瓦当面寄りにさら粘土を足して厚みを

,

l

lf丸Eを成形合から はずして完成

図八折り曲げ技法成形台

本造りの工程

加えた瓦当部に仕上げる場合もある

しかし

瓦当部は積上 げ技法の場合

よう水平方向層状に剥離することがない

接合式

技法を含めて比較しても︑折り曲げ技法は瓦当部が丸瓦 部と

体な

瓦当部が丸瓦部から剥離しくい特質をも

てい ると指摘されることもある

しかし︑折り曲げ技法が接合式を凌駕 することはなく︑接合式が依然主流なのであるから

指摘の蓋 然性は少ない

むしろ

平城宮いては瓦の大量生産あた

て︑ 積み上げ技法にける瓦当粘土の三回以上にわたる積上げ工程を めて︑瓦当部の成形がほ

回で済むという効率性を重視して折り曲げ技法移行してい

た︑と見たほうがよいだろう

鈴木氏

てまとめられた平安時代ける折り曲げ式の変通を見ても︑ 瓦当粘土は徐

に薄くな

ていく

鈴木

九八六︑

九九〇

︶ ︒

こ れは積み上げ技法で安定した瓦当粘土の接合を行うため︑瓦当を 相当厚めにしていたが︑折り曲げ技法

てからは︑その必要が なくなり︑粘土も製作時間も節約されてい

たのである

しかし

折り曲げ技法がい

つ ︑

どこで︑どんな理由で発明さ

かは依然明らかでない

毛利光氏は平城宮の場合︑折り曲げ技法を 採用した軒丸瓦の瓦当文様が飛雲文

六八〇

型式︶という新たな 文様であることから

この技法外から導入されたものである可能 性を示唆している︵毛利光

九九

奈良時代の折り曲げ技法は 束国の下総国分寺︵佐

九八五︑山路ほか

九九四

下 野国分寺︵大橋

九九七

でも採用されている

前者の年代は八 世紀第

3

四半期後半頃と推定している

後者

二A

・ B

︑二〇型式︶

13

- lif

(15)

一 一 一

: には創建当初の軒丸瓦で七五〇年前後の年代を与えてぉり

平城宮

の瓦工房で採用された年代よりず

と古い

後者の瓦当文様はその 弁区文様が奈良時代末期から長岡京期かけて作られた六二二九型 式類似し︑六二二九型式も折り曲げ技法である

六二二九

B

と組 む軒平瓦六八〇二

B

の文様は飛雲文であり

下野国分寺創建軒平瓦

なかにもこれと同文

4型式

があり

その :組型はそ

〇〇 年あまりも使用れる

大橋泰夫氏らはこれが祖型とな

て平城宮 の六八〇二

B

が成立したと見ている

しかし︑七五〇年代後半以降 奈良時代末期までの下野国分寺の軒丸瓦は接合式であるので︑飛雲 文軒平瓦が奈良に伝播した時

折り曲げ技法は同時伝播しなか

たことになる

大橋氏は下野国分寺の折り曲げ技法を外部から

影響と考えている

なぉ

下野国分寺も下総国分寺にも積み 上げ技法は存在しな

それを下地にして折り曲げ技法が誕生 したともいえない

いずれにせよ平城宮

瓦工房で折り曲げ技法は 奈良時代末期まで上げ技法を淘汰し

その後平安時代中期 平安宮の瓦作りとして盛行し

︑ 一 一

世紀前半から中頃まで存続する

鈴木

九九〇

植村ほか

九九四︶

︑鈴木氏は大局的見て

成形台は奈良時代末期から平安時 代前期かけて組み合わせ式から

木式変化するという考えを提 示している︵鈴木

九九〇︶

佐藤隆氏はこれを支持する立場で

一范

打ち込の繰り返しによ

て成形台の組み合わせ部が断層のよ うずれだし︑その影響で :相も割れすくなる

︑ 一

木式した

と解釈をしている︵佐藤

九九二︶

︒ 3

秋国城軒丸瓦

I I

種の製作年代と廃案年代 以上の検討結果基づくならば

秋田城軒丸瓦

I I

種の製作年代は 八世紀後半以後のいずれか

段階という可能性が高いことなる

︒ つ

廃棄年代を出土状況から検証してよう

一 ︶ ︒

二点ある軒丸瓦

I I

種のうち

点は

外郭東門南西側城内ある湿 地

S G 一

〇三

埋土第

・ 一

四層から出土した

︒ S G 一

〇三

一 の

埋土第

・ 一

四層の下からは天平宝字年間から延暦年間の紀年銘 木簡三〇〇余点と漆紙文書三〇余点が見

かっている

また︑

S G 一

〇三

の埋土第

・ 一

四層より上は八七八年の元慶の乱よ る秋田城炎上を示す焼土と炭化物を含む土層がある

︑共伴 する土器

年代を考慮するならば

軒丸瓦

I I

種が

S G 一

〇三

は︑九世紀第1四半期頃

可能性が高い

もう

点の軒丸瓦

I I

種は︑政庁正殿の北にある築地

S F

六七七を 破壊する土坑

S K

六六八から出土した

︒ S K

六六八からは

B

I I

a

2も

ている

築地

S F

六七七は秋田城 I〜

m

も のであり

︑ I

V期は位置をずらして掘立柱塀改作され︑ これは八七八年の元慶

乱で焼けている

したがって︑築地

S F

七七が

I V

改作された契機は︑八三〇年か八五〇年発生した大 地震後の復興

可能性が高い

仮にそうであれば

大地震で落下し 不要とな

た軒丸瓦

I I

種と大地震復興のための

B

群瓦の平瓦

I I a

2

の破損品が︑

S K

六六八で共伴する可能性は十分ある

以上から︑軒丸瓦

I I

種は八世紀後葉から九世紀第1四半期かけ て新城瓦窯群以外で生産され

城内のずれか

屋根毒かれ

l 4

(16)

三〇年か八五〇年

大地震によ

て落下

廃棄された可能性を考え てぉく

軒丸瓦

I I

種が生産された時期は

積み上げ技法成形台

本 造りが平城宮の瓦工房で衰退し

廃され

技法が波及した国分 寺

造営も

段落しはじめる頃である

五秋国城軒丸瓦

I I

種と

C

群瓦

系譜 1軒丸瓦

I I

系譜

軒丸瓦

I I

種が製作された契機は

秋田城ける何らか

造営で あろうが︑軒丸瓦

I I

点数から見て

それは大規模なも

ではな か

瓦製作に関与した工人

演み上げ技法成形台

本 作りを修得した工人がいたわけであり

そのような工人の存在なく して

この特殊な技術が在地的発生することはありえない

本例

ような技術伝播は工人が移住した︑あるいは招来された結果な

である

それでは工人はどこから来た

だろうか

越中国分寺

三 河国分寺

平城宮の瓦工人と︑候補はいく

もあげられるが

それ ら以外の東国確実な例は日下見あたらないので

かれらは出羽国 から遠く離れた地方から渡来したと見られる︵図七︶

場所をある程度絞り込む手段の

一 つ

は軒丸瓦の文様である

秋田城軒丸瓦

I I

文様は単純化されていて

比較するべき資料を 特定する

が大変困難な状況にあるが︑単弁八弁同

ということで︑ あえて越中国分寺

軒丸瓦

文様と比較してみよう

図七

1

3

〜5

︶ ︒

すで越中国分寺例

モデル

有力候補を平城宮六三

四A と推定したが

段階ですで複弁四弁が単弁八弁

︑ T

字形

間弁が

Y

字形に︑内区内縁の珠文数が

六個から八個に簡略化され ている

越中国分寺例は若干の時間をぉいて︑外縁

の a

m歯文を削り 落として素文にしている

さら

ここで越中国分寺例の弁区の弁 が輪郭線を失い

︑ Y

字形

間弁三角形化し︑中房蓮子内縁外圏 線が省略されると

秋田城軒丸瓦

I I

ある程度近い文様となるこ とに気が

軒丸瓦以外

出羽国と北陸地方

の つ

ながりを示す資料がある

︒ 一

九九八年の秋田城跡第七二次調査で見

かった漆紙文書の中の死 亡帳

︑九頃︑中世てれ述記人紀た亡死に間年祥嘉

名がさぉしり 本籍地を氏︵

名にしている

それは越後国南部の高志を本貫 地とする高志公

加賀国江沼︵二三年まで加賀国

を本貫地とす る江沼臣であり

北陸地方から出羽国

移住させられた者であった

︵平川

九九八

︶ ︒

このように北陸地方は強制移住による住民の入 植を含め︑出羽国

後方支援の役割を果たしてり︑両者は緊密な 関係

たようである︵平川

九八二︶

そのような関係を背景 憶測が許される

であれば

越中国分寺創建従事した瓦工人が

国分寺瓦工房での役日を終えた後︑あるいは秋田城

招来され

瓦作りに関与したことも考慮入れてぉく必要があろう

15

2

C

群の丸

平瓦に見られる斜格子-I

l ﹈

き日

系譜

まず

︑ C

群平瓦

凸面に見られる

斜格子叩き日と

秋田瓦

﹂ ︑ ﹁

﹂ ︑ ﹁

高水

という供給地名を刻んだ縦長の叩き具︵図六

1

2〜7

n

参照

関連したドキュメント

本稿 は昭和56年度文部省科学研究費 ・奨励

上げ 5 が、他のものと大きく異なっていた。前 時代的ともいえる、国際ゴシック様式に戻るか

浸・冠水のおそれのある箇所は,床面のかさ上げ,窓の改造,出入口の角

NPO 法人 ユーアンドアイ NPO 法人 結城まちづくり研究会 NPO 法人 よつ葉ナーサリー NPO 法人 らぽーる朋 NPO 法人 リーブルの会 NPO 法人

平成 31 年度アウトドアリーダー養成講習会 後援 秋田県キャンプ協会 キャンプインストラクター養成講習会 後援. (公財)日本教育科学研究所

ISO/TC8 thanks Professor Jae Wook Lee for his contribution made during the past 9 years as Chairman of ISO/TC8/SC11. Professor Jae Wook Lee is appointed as Assistant to TC8 Chairman

鋼板接着コンクリート床版の劣化に対する非破壊検査法の研究開発 橘肇*,中本啓介*,島田義則**,廣瀬壮一***,八ツ元仁****

これまでの国民健康保険制度形成史研究では、戦前期について国民健康保険法制定の過