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03特集2-池辺

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はじめに

現在、日本の地域社会における衰退は、社会学 者大野晃が「限界集落」概念(1)を提唱した1990 年代初頭から「失われた20年」を経て、より深刻 な事態に至っている。これを解決すべく、国内 の一部の自治体では、現代アートによる村おこ しに取り組んでいるものがある。成功事例とし ての突出した存在は、やはり、新潟県内で3年 に一度開催される「大地の芸術祭越後妻有アー トトリエンナーレ(以後、「妻有トリエンナー レ」と略す)」であろう。こうした「村おこし」 として、現代アートという手法以外では、同じ く新潟県村上市の「町屋の人形さま巡り」、長野 県高井郡小布施町の「修景事業」及び「文化事 業」、滋賀県長浜市の「黒壁」等、元々存在して いた地域の文化資源を掘り起こし、住民主体で 観光資源とすべく磨きをかけ、地域外部からの 集客に成功した国内事例がある。 現代アートと文化資源による村おこし・まち づくりの成功事例については、その方法論の一 般化・理論化を目指し、社会学、観光学、博物 館・美術館学、経済学、文化政策論、社会福祉 論などの各学問領域において、これまで研究の 蓄積が重ねられてきた。本稿の執筆者である野 呂田は、博物館・美術館学をベースとした文化 政策論を自らの研究フィールドとしており、ま た、共同研究者である椎野は、社会学を専門と していることから、本稿では両者の研究視覚か ら現代アート事業がまちづくり・むらおこしの 地域内社会の変容にどのように影響を与えるの かについて、先行研究を仔細に検討するととも に、現代アート事業の実績報告書及び、イベン ト実施主体とその関係者の言説に関する分析を 通じて、地域・都市間の〈関係性〉の組み換え の可能性を見出すことを目的とする。 第1節「妻有トリエンナーレによる社会変容」 では「妻有トリエンナーレ」についての先行研 究と事業実績報告書を手掛かりに、地域内社会 の変容と地域・都市間の〈関係性〉の変容につ いて検討し、第2節では、「瀬戸内国際芸術祭」 による地域・都市間の〈関係性〉の変容可能性 について検討を行う。本稿は国内の「限界集落」 と地域社会の変容過程について、椎野との議論 を基に、第1節、第2節とも野呂田が分析と執 筆を行っている。

第1節 妻有トリエンナーレによる社会変容

「妻有トリエンナーレ」について、文化経済学 においては論文「住民によるアートプロジェク トの評価とその社会的要因―大地の芸術祭妻有 トリエンナーレを事例として―」(勝村(松本) 文子/田中鮎夢/吉川郷主/西前出/水野啓/小林愼太

現代アートによる地域・都市間の

〈関係性〉組み換えの可能性

The Possibility of Converting the Relations between the Region and

the City by Modern Art

野呂田 純 一

,椎 野 信 雄

** Jyunichi Norota Nobuo Shiino

*文教大学国際学部非常勤講師 **文教大学国際学部教授

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郎)があり(2)、地域社会学においては、地域社 会学会第34回大会におけるシンポジウムでの発 表をまとめた「地域社会学会年報第22集地方か ら見た地域再生の現実」所収の矢部論文「何が 再生されたのか?―エリアマネジメントからみ た、北川フラム氏の芸術による中山間村再生と 長浜・高松・ヤングスタウンでの地域再生の比 較―」がある(3) このアートプロジェクトは、元々、新潟県が 県内の広域行政圏で実施する地域活性化を支援 すべく、平成6年に策定した「ニューにいがた 里創プラン」により、当時の十日町広域行政圏 (十日町市・川西町・中里村・松代町・松之山 町・津南町)が第1号として認定されたことに 始まる。その後、平成8年には同行政圏を「アー トでつなぐ」ことを内容とした「越後妻有アー トネックレス整備構想」が策定されたが、その 4つの事業柱は、「越後妻有8万人のステキ発見 事業(隠れた土地のよさを掘り起こすことを意 図した、ことばと写真のコンテスト)」、「花の道 事業(6市町村の沿道を花でつなぐプロジェク ト)」「ステージ整備事業(旧市町村単位で地域 の固有性を意識した地域デザインの連結による 越後妻有全体の魅力発信事業)」及び「大地の芸 術祭」であった(4) この「大地の芸術祭」についての詳細は、地 域社会学会シンポジウムにおける北川フラム (同プロジェクト総合ディレクター)における報 告から引用することとしよう。 開催場所は新潟県と長野県が接する新潟県津 南町及び十日町市という、冬には道路が通らな くなることもある豪雪地帯である。同プロジェ クトの基本の考え方は、「人間は自然に内包され る」というものであり、「私たち(人間)は本当 に自然の一部であって、十数億年前から生命が 誕生して、私達がそういう中の一部である」と いう認識がある。同地域の古いところでは1500 年前から農業(米)をやっているが、今は過疎 状態にあり、「棄民」が本当に政策的に行われて いる。自殺率も相当高い両地域は先祖代々過酷 な中で農業をやってきた地域であり、(今も)や っぱり相当厳しい目に遭っている。「そういう地 域でそのままでいいんだろうか」というのが出 発点であった。(歴史的には)「450年前に伊勢の 辺りから出て行った一向宗の門徒達が、ついに 越前越中で、信長あるいは一部秀吉にやられて、 とにかく逃げついた先が世界に有数な豪雪地帯 の山の上」であった。 私たちの現在の価値観とは、(効率性を重視 し)「最新・最大の情報に最短でアクセスするこ と」であるが、妻有トリエンナーレは「200の集 落を巡る旅」であり、「最も効率化から遠いこと を選びたい」というものであり、それを「町づ くり」として行った(5) 以上の北川の報告からは、同事業のコンセプ トが、現代の価値観の一つである「効率性」に 対して、最も「非効率」にあり、敢えてそうし た(非効率な)「歩き回り」により、自然の包摂 感を実感することにあったと言えよう。 現代アートの用語では、その土地の歴史的・ 政治的文脈を汲み取りながら、その土地にしか 成立しないアートのことを、「サイト・スペシフ ィックアート」“Site-specific Art”と呼ぶが、北川 は「妻有」という土地に特有の歴史的・社会的文 脈を汲み取りながら、このアートプロジェクト を設計している。このことについて、2004年に 横浜で行われたシンポジウム「横浜会議2004 −なぜ国際展か?−」において、北川は「通信と か金融資本、あるいはそういったあたりでのグ ローバル化」がもはや社会生活そのものであっ て、日本においても「ひじょうに計量可能な、管 理可能になってきた中で、「私たちそれじゃ困る よ」という自然と深くつながった人間の生理の 叫び」はずっと存在してきており、そうした(声 を発する過疎地域の)お年寄りがつながってい くところは、同様に「これじゃ困るよ」という人 たちしかないわけで、そうした「マイノリティ というか、ささやかな生理の声に感応」する国 内・海外のアーティストが妻有トリエンナーレ に参加することになるとしている(6)

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しかしながら、2000年の第1回展を開催する にあたって、北川は相当程度の当の「マイノリ ティ」の抵抗にあった。北川によれば、「全員の 反対の中で、しかも、暴力的というのは言葉が 強いですが、アーティストというわけのわから ない、だらしない、そういう人達が妄想したこ とを植えようとすることに、そこで起きる反対、 それが色々な形で理解。」の過程があった。延べ 2000回に渡る説明回数がその困難さを物語るが、 実際には北川が観察するように、アーティスト 及び800人の若い学生達が土地に入っていく中 で、土地のお年寄りとの「協力して働く(協 働)」関係が生まれた。北川は「協働」という辞 書にないことばが一気に(国内に)広まったの は、このプロジェクトが終わってからであると する(7) サイト・スペシフィックなテーマとして「時 間の組織化」が掲げられたことにより、同プロ ジェクトは里山(コミュニティー・田畑を含め た地域、農業を通して大地と関わってきた景 観・生活)に流れてきた固有の時間を現代アー トによって「再組織化」することで、自分たち 人間と里山との距離について再認識することか ら始まったのだが(8)、北川がいう「再組織化」 とは、噛み砕いて言うならば、アーティストが その土地固有の歴史的文脈を咀嚼した表現を通 して、普段の生活では意識に上らない、人間と 里山との関係性について、「(美しく鮮やかに) 見える化」を図ることと言っていいだろう。 このテーマの代表的な作品例として、イリ ヤ&エミリア・カバコフの『棚田』がある。放 棄された「棚田」の畦に、農作業をしている 人々の様子を象った彫刻が一年の内に行われる 各月の農作業ごとに作成され、それぞれの前に はその作業を謳った抒情的な詩のスクリーンが かけられ、「立体絵本」のような構成を持つ作品 である(9) ここで、これまで妻有トリエンナーレのよう な大型アートプロジェクトを振り返るならば、 妻有トリエンナーレは後発であることが分かる。 1990年に開始され、市や企業を巻き込んで全市 的なイベントに発展した「ミュージアム・シテ ィ福岡(福岡県福岡市)」、杉並区和泉中学校を まるごと美術館にしようとして、1994年・1996 年に開催された「IZUMIWAKUプロジェクト (東京都杉並区)」、1994年から1999年まで毎年、 アーティスト・イン・レジデンス方式で開催さ れた「鶴来現代芸術祭(石川県鶴来町)」、1996 年から1998年まで(大阪市)平野在住のアーテ ィストと地元のまちづくり団体による「まちの 人と一緒につくりあげるアートプロジェクト」 である「モダン de 平野(大阪市平野区)」等が、 「妻有トリエンナーレ」より以前もしくは前後に 開催されているが、この系譜に連なるものとし て、1998年から東京都立川市で開催された「立 川国際芸術祭」では、その第4回(2001年)に おいて北川が芸術監督を務め、在日外国人と住 民との交流を目指した全市民型の運動会「アー トピクニック」が開催されている」(10) こうして、1990年代を通じて、現代アートが 全国各地のまちづくりに用いられるようになっ てきたのには、やはり、それまでの文化行政に おける博物館・美術館といった「ハコモノ」へ の投資がもはや十分にできなくなってきたこと と無縁ではないであろう。ハードよりもソフト に注力することにより、地域の社会・文化活動 への参画が生まれることや、同じ地域にありな がら、これまで関わり合わなかった人々と交 流・関係していくことの契機を地域住民に持た せることが、地域活性化には重要であるという 認識が、国内各自治体に広まっていったものと 思われる。 こうした現実的なパラダイムの変化に呼応し て、冒頭に挙げたように各学問領域でも、理論 化・一般化が図られている。たとえば、観光学 では、敷田麻美が提唱する「第3世代の観光ま ちづくり」論は、地域資源を地域の主体的判断 でうまく活用し、地域外から利益を得たものを 地域資源の保全に投資することで、持続可能な 地域社会をめざす新しい地域戦略であるが、観

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光によって地域にもたらされるメリットを観光 の元手となった地域資源の維持・向上させるた めに還元・再投資することであり、実際には自 然環境の保全や町並みの再生、関係者の学習活 動や組織づくりであるとする(11) 下記は第1回~第5回までの「妻有トリエン ナーレ」総括報告書を元に作成した表である。 第1回展から第5回展まで全5回とも7月か ら9月の夏季期間に設定されており、毎回、約 50日間である。来場者数は回を追うごとに増加 していき、第5回は第1回の実に約3倍となっ ており、国内において同プロジェクトへの評価 が高まってきた感がある。しかし、注目すべき 点は、第3回展以降の3回の来場者構成を比較 するならば、世代別構成割合に変化がなく(各 回とも、10代が5%~10%、20代が全体の3割 前後、30代が20%前半、40代が15%前後、50代 が10%前半、60代以上が10%前後)、また、性別 においても各回とも男性が4割前後、女性が6 割前後であり、更に、(居住)地域が関東が40% ~60%であるが、第3回展においては南関東だ けで50%強であったことから、「南関東」と「北 関東」をまとめ「関東」とした第4回展、第5回 展ともその大部分は「南関東」と推定される(12) こうした比較から、来場者数は第3回展から第 5回展まで約1.4倍の伸びを示しているものの、 各世代別の来場者の伸びも、性別における来場 者の伸びも、居住地域における伸びも、それに ほぼ正比例していることが看取される。また、来 訪回数について言えば、第4回展・第5回展と も1回(はじめて)が全体の6割、2回が全体の 2割である(13)。つまり、第3回展以降の3回に ついては、南関東地域に居住する20代・30代の 女性ではじめて同プロジェクトに参加する者が、 第3回~第5回展の主たる来訪者であることが 示唆されるのである。実際、第5回展の公式ツ アーバス利用者アンケートでは、性別、年齢構 成、来訪回数に多少の相違が見られるものの、基 本的な来訪者像は上記と一致している(性別の 構成割合は男性22.6%、女性77.4%であり、年齢 別では20代26%、30代26%、来訪回数では今回が はじめての者が全体の2/3を占める)。更に、第5 回展の一般来場者アンケートにおいても同様の 来訪者像が浮かび上がるが、居住地の割合は東 京都29.1%、神奈川県13.6%、埼玉県10.1%で、 この一都二県で過半数を占める。更に、この公式 ツアーバス利用者及び一般来場者向けアンケー トについて着目すべきは、「大地の芸術祭以外で 訪れたことがある芸術祭は何ですか」という問 いに対して前者の回答数2,038の内、横浜トリエ ンナーレが967人、瀬戸内国際芸術祭が651人、 愛知トリエンナーレが212人であり、後者もま た、回答数947の内、横浜トリエンナーレが448 人、瀬戸内国際芸術祭が316人、愛知トリエンナ ーレが39人と回答していることである(14)。つま り、関東圏の20代・30代の女性がこの妻有トリ エンナーレの他、近隣もしくは地元の横浜トリ エンナーレに参加する一方で、愛知を飛び越え、

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資金面、運営面での連携強化が図られた瀬戸内 国際芸術祭に参加するという行動パターンが看 取されるのである。このことは毎回参加するコ ア層だけでなく、回を追うごとに増加する層に ついても、大規模な現代アート事業に興味を持 った関東圏の20代・30代の女性であることを示 唆しており、その層の大部分は回ごとに入れ替 わっている可能性が高いのである。 一方、来場者数の伸びとともに、アーティス トとともに地域に入り込むボランティア組織 「こへび隊」の活動者数も伸びているが、これに ついての検討はより重要である。反対を押しな がらも第1回展を開催する際の「こへび隊」に ついて、北川は下記のように語っている。 「最初から若い人たちと一緒にやるつもりで はいましたが、大地の芸術祭がオーソライ ズされない状況が続くなかで、中山間地で 農業をやっているお年寄りとは180度違う人 間が入った方が事態は動くかもしれないと 思った。それで何だかよくわからない、ア ートなんていうものをやっている若者を前 面に立てました。これもまたさっきの赤ん 坊の喩えと似ていて、180度違うから絶対初 めはぶつかるのですが、アートという赤ん 坊を前にしてみんなで乗り越えようとする。 違うほうがガンガン文句を言えるし、だけ ど若者もそれなりに郷に入れば郷に従うか ら、それが繋がりとして何かを生み出して いった。似たもの同士だと逆にできなかっ たと思います。」(15) 先に挙げた論文「住民によるアートプロジェ クトの評価とその社会的要因―大地の芸術祭妻 有トリエンナーレを事例として」では、地域住 民に対する社会調査における「地域に好ましい 変化があったか」という問いに対して、「あっ た」が28.3%、「なかった」が47.2%が回答した が、それに対して「変化の程度が、大多数が体 感できるほど大きくはなかったこと」、「自信・ 意欲や達成感の生成などの感覚的変化であった ことが影響していると考えられる」と分析して いる。「あった」と回答した人の中でその原因と して「アーティストの熱意」(20.2%)、「こへび 隊の熱意」(16.1%)と外部の人間の努力が評価 され、次に「地域の熱意」(13.8%)が続いてい る。同論文ではこの帰結として、「アーティスト やボランティアといった外部からの介入が効果 的に働き、地域の熱意が促されていると推定さ れる」としている。この推定は、その後に続く、 アーティスト・こへび隊と地元住民との「協働」 を考えるとき、数は少ないものの、一部におい て、確かに地域における好ましい変容、住民の 地域社会への参加がこのアートプロジェクトを 契機に促進されたものと考察される。また、同 論文では、地元住民の「新しい知り合い」の種類 として、「作家」(16.0%)、「こへび隊」(11.3%)、 「地域内の人」(8.9%)、「来訪者」(5.9%)との結 果を報告しているが、「まとまりの増加」「話題 の増加」「活気の増加」は、「地域の協力」「地域 の熱意」「作品自体のよさ」「アーティストの熱 意」「こへび隊の熱意」等と相関係数0.3程度の 相関を持つことも報告されており(16)、このアー トプロジェクトが、アーティストと「こへび隊」 が地域に介入し、熱意を以って働きかけをする ことで地元住民の中で、まとまりや話題、活気の 増加といった好ましい変化を一定程度、もたら したと言うことができるであろう。このことは 先の北川の「アートという赤ん坊を前にしてみ んなで乗り越えようとする。違うほうがガンガ ン文句を言えるし、だけど若者もそれなりに郷 に入れば郷に従うから、それが繋がりとして何 かを生み出していった」との発言の裏付けとも なろう。北川は総合ディレクターとして、精密 な社会調査を俟つまでもなく、それらの社会変 容を感覚的に把握していたものと考察される。 「ソーシャル・キャピタル」概念に基づいて妻 有トリエンナーレを研究したものに、鷲見英司 「越後妻有大地の芸術祭とソーシャル・キャピタ ルに関する調査研究」(17)がある。近年、社会学

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はじめ、経済学、経営学等の分野で注目を浴び ている「ソーシャル・キャピタル」概念は、パ ットナムによれば、「人々の協調行動を活発にす ることによって社会の効率性を高めることので きる、「信頼」「規範」「ネットワーク」といった 社会組織の特徴」であるが、そのタイプとして、 「結合型」と「橋渡し型」というタイプがあると いう。前者は組織の内部における人と人との同 質的な結びつきで、内部で信頼や協力、結束を 生む。結合型のソーシャル・キャピタルという のは、組織の内部における人と人との同質的な 結びつきで、内部で信頼や協力、結束を生むも のである。例えば、家族内や民族グループ内の メンバー間の関係を指す。これに対し、後者は、 異なる組織間における異質な人や組織を結び付 けるネットワークであるとされている。例えば、 民族グループを越えた間の関係とか、知人、友 人の友人などとのつながりである(18)。鷲見は 「大地の芸術祭などの地域活性化プロジェクトが 結束型だけでなく、橋渡型ソーシャル・キャピ タルの形成に寄与するか、あるいはそれにつな がる変化をもたらすことができれば、地域外の 人々との交流を促進し、それがさらに広範で多 様な信頼関係の構築や相互規範を生む可能性も 期待できる」として、地域住民を対象としたソー シャル・キャピタルに関するアンケートとその 集計値のクロス分析から、「留保条件つきなが ら、大地の芸術祭がソーシャル・キャピタルの 形成につながる好ましい変化を地域の活動や個 人の生活にもたらしたことを確認できる」とし ている(19) 本節の終わりに、「こへび隊」のような、妻有 と関東圏を架橋するボランティア組織の可能性 について考察したい。2004年10月に発生した新 潟県中越地震は、同地を震度5~6の強度で襲 ったが、この約2年後に開催された第3回総括 報告書の「サポーター・地元ボランティアとの連 携」の項(②)には下記の文が記載されている。 「2004年10月23日に発生した中越大震災(新 潟県中越地震)後、被害の大きかった十日 町・川西エリアを中心に、大地の芸術祭に 関わったサポーター・アーティスト・妻有 ファンが震災ボランティアとして活動した。 この活動は延33日間、224人に及び、物資の 運搬・家屋の掃除・廃材の搬出・内壁の修 復・雪下ろしといった作業を通じて、震災 復興を支える力となった。これは芸術祭に よる地域住民とサポーターとの交流が、単 に芸術祭を開催・運営するだけにとどまら ない強い関係性に発展していたからこそ生 まれたものである。こうしたことも芸術祭 がこの地域にもたらした大きな財産であり、 今後も芸術祭以外の場面で、地域住民とサ ポーターの連携・協力が生まれることを期 待したい。」(20) 現代アートでなくても、「妻有」という地域に 関わり、当該地域の住民と何がしかの「協働」 を行い、当該地域に愛着や関心、思い出を持つ 者であれば、その地域や、関わりの持った人々 の安否を心配するのが、普通の人間の感情であ ろう。しかし、「妻有トリンナーレ」という契機 がより、「妻有」との絆を強くし震災からの「復 興力」というものに寄与したとするならば、単 に地域活性化のための外部介入というパラダイ ムだけでは捉えきれないものが存在することに なる。先に述べたように、妻有トリエンナーレ への参加者が横浜トリエンナーレの参加者でも あり、瀬戸内国際芸術祭への参加者でもあるこ とがアンケート調査から判明しているが、2010 年に第1回展が開催された「瀬戸内国際芸術祭」 は、その前年に高松市を本拠地として、「こへび 隊」ならぬ「こえび隊」を誕生させている。「こ へび隊」と「こえび隊」を掛け持ちする者がお り、また、両者の共同ワークショップが開催さ れるなど両者の親近性が確認されるが(21)、この ことは新潟県中越地震後の同地の復興に「こへ び隊」が関わったように、瀬戸内での自然災害 等が発生した場合における、ボランティアによ

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る復興への関わりをも期待されるのである。 そうした外部の若者を中心としたボランティ ア組織による現代アート事業を通じた当該地域 住民との関わりは、当該組織に対して、当該地域 と居住地域の往来についての(その事業なしに はあり得ない程の)自由度の高さを保証するこ とによって、自然災害発生直後にアートボラン ティア組織が瞬時に復興ボランティア組織へと 変身し、当該地域の復興への道のりを一歩も二 歩も近づける可能性があるのではなかろうか。 高度成長期から1980年代までの右肩上がりの 成長神話は、過疎地域から過密地域への労働力 人口の一方的な流出と都市の大型商業資本の地 方参入による、地元商店街の崩壊を招いたが、 その神話が崩壊するや否や、今度は(一部の観 光地を除いて)、大量の「限界集落」を発生させ た。そうした魅力・活力を喪失した地域は、外 部者が物理的に足を運ぶことができても、心理 的に近寄り難いものであることは言うまでもな い。1990年代を通じて盛んとなってきた地域活 性化を目的とした現代アートイベントは、都市 住民と地域住民との心理的な間隔を狭め、地域 活性化のみならず、自然災害が頻発するこの国 において、その発生後の復興支援に対する強い 動機付けがなされる点が指摘し得よう。

第2節 瀬戸内国際芸術祭による地域・都市

間の〈関係性〉の変容可能性

本節では2010年から3年に一度、瀬戸内海に 浮かぶ島々と港の周辺で開催されている「瀬戸 内国際芸術祭」(22)による地域活性化と、都市住 民と地元住民の〈関係性〉の組み換え可能性に ついて、「妻有トリエンナーレ」との比較の中で 考察してみたい。同イベントが現代アートによ る地域おこしであることは、「妻有トリンナー レ」と同じであるが、そのコアである直島にベ ネッセハウス及び、その周囲に地中美術館・李 禹煥(リウファン)美術館が建設され、そして、 犬島で「製錬所」「家プロジェクト」が立ち上げ られたのは、やはり、「妻有トリエンナーレ」と は異なるサイト・スペシフィックな文脈に由来 している。 『直島町誌』によれば、農業、漁業、製塩業の 島が大きく変化するのは、大正期の三菱精錬所 の建設である。既にその時点で日本は軽工業 (日清戦争前後)、重工業(日露戦争後)の産業 革命を経験していたが、その過程の1896年に、 政府から佐渡鉱山(新潟)、生野鉱山(兵庫県) が三菱に払い下げられ、これにより、三菱は新 しい中央製錬所の設置が必要であると考えるよ うになった。というのも、生野銀山では既に烟 害問題が発生していたため、現行の製錬所の規 模をこれ以上拡張できないと三菱合資会社は判 断したからである。三菱合資会社は新製錬所立 地のための調査を行い、その結果として「烟害 問題ヲ免ルルノ位地」にある「直島ノ北端風戸 浦」をその用地として選定した。地元直島村も 財政逼迫からこの誘致を行い、大正六年(1917 年)に三菱製錬所は開設されたのであった。以 後、直島の経済はこの製錬所に大きく左右され てきた。これが現在まで続く三菱マテリアル直 島製錬所である。 戦後、昭和34年(1959年)に当選した、当時 の三宅親連町長は、直島本島を三つの地域に分 け、北部を町経済の基盤とし、中央部を住民生 活の場とし、南部と周辺島嶼部においては観光 事業化を推進し始めた。以後、藤田観光の進出 と撤退を経て、福武書店の直島進出が決まった のは、昭和62年(1987年)である。同社の創業 者である福武哲彦(初代)社長は、「人と文化を 育てるリゾート・エリアとして創生」する「直 島文化村構想」を立ち上げた(23)。その構想は二 代目の福武總一郎社長に引き継がれ、直島国際 キャンプ場の開設に続いて1992年には、建築家 安藤忠雄による直島コンテポラリーアートミュ ージアム(通称ベネッセハウス)が完成した。 美術館の中にホテルがあるような感覚を覚える この美術館について、同氏は「日頃の喧騒を離 れ、ゆったりとたゆたう時間と空間に身をひた

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していただきたいからです。自然とアートに囲 まれて、波の音・遠くに行き交う船のこだま・ 松林をわたる風の声に耳を傾けながら、いにし えより続く人々の営みや自分の生き方に想いを 馳せて過ごしていただく」ことが、「直島文化村 のおもてなし」とする。「直島文化村」に関わっ てきた人々のメッセージ集として、編纂された 『直島文化村へのメッセージ』に先の北川フラム と建築家隈研吾は、それぞれ「感性のコミュニ ティ」「エッジと接合」と題して寄稿している が、それらの寄稿文においては、興味深いこと に後に「負ける建築」を提唱する隈が、安藤忠 雄の美術館建築とその収蔵作品について、「手に 入れたエッジが、直島という現実の場所に、今 後どのように接合されるか」「直島というポイン トを、世界に対してどのように接合するか」を 今後の二つの課題として提起する一方で、ベネ ッセハウスの完成後、約20年を経て、「瀬戸内国 際芸術祭」のディレクションを行うことになっ た北川が、「今後、直島文化村が、島の他の領域 にどう入り込むのか、どう折り合いをつけてい くのか期待と興味がつきない」としており、両 者とも直島文化村のその後の展開を見通したか のような感想を寄せている。 また、美術館に対しては、安藤建築の特徴で あるコンクリート打ち放しと幾何学性を前提に、 後に犬島の「家プロジェクト」をコーディネー トすることになる長谷川祐子は、「原風景のもつ オーセンティシティ」と題した寄稿文において、 「安藤の建築も決して展示に優しい空間ではな い。心身をやわらかく、包み込むような海に囲 まれて、見る者の心は解き放たれると同時に、 緊張感のある空間で、心深くまで響いてくる問 いにさらされる。」と感想を寄せ、長谷川と同じ く著名なキュレーターである南條史生は「自然 と対峙して直島で美術する−アートのユートピ アから」と題した寄稿文において、「自然の前の 美術は時にはひどく弱々しく見える。あるいは また無意味に見える。そう言いたくはないが、 それは事実だ。自然と対峙する作品か、自然と の融和を意図した作品だけが、直島にあること の存在意義を見いだすことができる。だから、 直島は現代美術にとっては厳しい場所だ。ひょ っとすると「裁きの場」と言ってもいいのかも 知れない。」としている(24) 隈と北川は、前者が宿題を課すような言い回 しをする一方で、後者が見守る姿勢を打ち出す という相違はあるものの、ベネッセハウスがこ の段階でまだ、直島という「場」との接合点を 持たないことを見出している点は同じであった。 また、同じキュレーターとしての感性を以って、 ベネッセハウスを見た長谷川と南條は、安藤建 築と展示物との距離感を見事に言い当てている。 つまり、安藤建築自体が「ホワイト・キューブ」 ではなく、一つの作品としての自己主張がある のであり、福武總一郎が1999年のボストン美術 館の「二十世紀のモネ」展を観覧した後、個人 蔵であったモネの晩年の大作である「睡蓮」を 購入した際、直島文化村構想から発展した直島 アートサイトのチーフキュレーターである秋元 雄史が、デ・マリア、タレルといった、安藤建 築との親和性を持つ現代アートと安藤建築をつ なぎ、作品と美術館建築が一体化した「美的経 験の場」として「地中美術館」を完成させてい った経緯(25)からもこのことは、理解される。 写真1の景観からも分かるとおり、外界の雑 音を遮断し、ゆっくりとそして、真摯に現代アー トに向き合うことが、このベネッセハウスでは 予定されており、そのコンセプトは同館以外に も1970年代「モノ派」の代表作家李禹煥の作品を 展示した「李禹煥美術館」の開設、そして、各館 の間に適度に距離を保って設置された現代アー トの作品の内容からも理解される(写真2)。こ のように島の南部で直島文化村(後に直島アー トサイト)は独自に展開していったが、やはり、 最後まで「課題」として抱えていたのは、島の 他の領域との「接合」であった。 実はベネッセハウスの開設二年前の1990年、 直島に近接する豊島(てしま)において、13年 もの間、県外の産廃が不法投棄されていたこと

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が分かったのである(26)。その対応策として、精 錬不況のただ中にあったこともあり、その不法 産廃は直島の三菱マテリアル製錬所内にある中 間処理施設で処理することが決まったのであっ た。すなわち、ベネッセハウスを含む直島文化 村構想が島南部で展開し始める一方で、島北部 では豊島から持ち込まれる産廃が処理され始め たのであり、直島及び周辺島嶼地域は政治、経 済、文化領域のいずれの文脈を取っても、よく も悪くも「本州」の「周辺」として位置付けら れていると言うことができる。 島南部における「深化」「拡大」のみの方向か ら、島中央部との「接合」の方向をも視野に入 れる方向へと切り替わる契機は、中央部の本村 地区の立石邸の購入とそこから始まる「直島・ 家プロジェクト」であった。この変化について、 前出の、直島アートサイトの美術ディレクショ ンを担当した秋元雄史は、1998年に次のように 語っている。 「直島文化村から車で5分ほどの本村という 集落は、島で代々暮らしてきた人々の住居 が残る地区で、城跡や寺、神社などの文化的 な史跡も集まっている所である。これらは 江戸時代に天領として栄えた時代の名残で もある。そんな町並みも近年では過疎と高 齢化が進み、町中には空家が目立ち始めて いる。こういった出来事は直島にとどまら ず、今や日本国中の地方という地方が直面 している問題であり、これまでもハードを 中心としてさまざまな町で町作りの対策を 実施していたが、その多くは有効な解決策 のないままで今日に至っているのが実情で あろう。直島も例外ではなく、往時の面影 を残してはいるが町の活力は失われてきて いて、人々の直島への愛着も失われてきて いる。(中略)最終的にはその地区の政治や 産業、教育といったものが元気で実質的に 島の生活を活性化しなければ根本的な解決 にはならないが、それらに取り組むにあた っては島そのものと、そこに住む人々のア イデンティティの問題といった基盤となる メンタル部分が構築されていなければなら ない。(中略)そういう意味で直島文化村の 中で始まったアートプロジェクトは、今、町 へ出て地域にも可能性と厚味を持ったプロ ジェクトへと発展してきた。「家プロジェク ト」の時間的視点と直島文化村内でのアー トプロジェクトの空間的視点をそれぞれ縦 と横の軸にして人間の存在を歴史的、地理 的観点から見て、普遍的な問いかけとして このプロジェクトを実施していき、一見、実 社会と裏腹に見えるアートによって、普遍 性から実社会へ活力を与えていきたい。」(27) 「家プロジェクト」の内、「角屋」は秋元が、 写真1:ベネッセハウス周辺からの景色(野呂田撮影) 写真2:李禹煥美術館の前に設置された作品と瀬戸内海 (野呂田撮影)

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「柿の木プロジェクト」(28)で世界的に知られて いるアーティスト宮島達男に現代アートによる 古民家(築200年の本村地区の旧・立石邸)の再 生を依頼したものであり、家屋の中にプールを 作り、その中に直島町民である125人(5~95歳) ひとりひとりが、1~9までの表示スピードを 決めたディジタルカウンターが置かれている。 (作品名:「SeaofTime’98」)(29)この秋元の構想 の中では、島南部の直島文化村(アートサイト) を現代アートの「観賞」空間として「深化」させ ていく一方で、島民の多くが住む島中央部では、 衰退した地域社会の現代アートによる「蘇生」を 模索しており、両者それぞれの自立性を保ちな がらも島全体としては一体的なものと捉えてい る。このことは、島南部が実社会からアートへ 入り込む領域であると同時に、島中央部がアー トから実社会へ入り込む領域であり、島全体と してはアートと実社会の相互補完関係の上に、 結果論的な「直島グランドデザイン」とでもい うべきものが成立したことを意味しているが、 行政が描く計画的で縦割りのグランドデザイン とは異なり、いろいろ実験して模索していった 先に相互補完関係を見出したというところが、 これ自体、直島の現在進行形の社会的文脈を汲 み取るという意味で、サイト・スペシフィック な作品とも言える。 1980年代までに全国の自治体では多くの美術 館が建設されたが、これがその後の1990年代の 現代アートによるまちづくりと接続し得ないの は、前者が、美術館が設置される地域社会とは 無関係に遠く離れた「過去」の大作家の作品を 鑑賞することしかできないことが多いのに対し て、後者は作品の中身自体はわかりづらい面を 持ち合わせながらも、過去もしくは現在進行形 の土地の文脈を織り込みながら制作されること で、「地域社会」からの参加や関係を得やすいこ とに起因するのであろう。時間的には多少タイ ムラグがあるものの、1990年代の秋元のディレ クションは実はこうした日本国内のまちづくり の1980年代と90年代の両方の要素を合わせ持っ ているが、そのことに空間論的な意味を見いだ すことで、オリジナリティが生まれている。更 に時を経て、この中央部に進出してきたアート 領域が、本格的に他の島の「接合」に踏み出す のは、2005年の直島福武美術館財団の「瀬戸内 アートネットワーク構想」からである。同構想 から香川県及び地元商工会議所を構成員とした 実行委員会が立ち上がり、「海の復権」をテーマ とした「瀬戸内国際芸術祭2010」が2010年7月19 日~10月31日までの105日間、直島はじめとする 7島と高松港周辺を会場に開催された(30) 同芸術祭の総合ディレクターともなった北川 は、この芸術祭の目的を「島の元気、海の復権」 としており、その可能性について「近代になっ て、日本人は海から離れ、内陸に向かいました。 島の力は衰え、「離島」といわれるようになりま した。しかし、一方、離れていることは、力の 源でもあり、地球人70億人が一人一人違うよう に、多様性が持つエネルギーを蓄えているので す。」として(31)、その「孤」を「個」としてとら え直し、それらを「芸術祭」として結び付け合 うことで、来島者の感動となり、それが島民の 誇りになり、爺様、婆様の元気につながるとし ている。 同事業の「総括報告」によれば、93万8千人も の来場者があったが、その来訪者の属性は、性 別では男性31.4%、女性が68.6%、世代別では10 代が2.8%、20代が40.8%、30代が27.0%、40代 が12.1%、50代が9.8%、60代以上が7.4%であ り、地域(居住)別では、地元香川県が27.6%、 次に岡山が11.6%、東京が11.5%、大阪が8.5%、 兵庫が6.1%、神奈川が4.1%となっており、地元 である香川・岡山を除けば、東京・大阪・兵 庫・神奈川で3割を占めている。このアンケー ト結果からは大都市の20代、30代の女性が大量 にこのイベントに参加したことが看取され、「妻 有トリエンナーレ」と似た特性を示している。 また、ボランティア組織「こえび隊」は、47都 道府県の内、39都道府県からの参加者があり、 実働800人、延べ8500人が参加しており、その構

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成は20代が約半数、30代が約20%、全体の7割 が女性であり、来訪者とほぼ同様の傾向を示し ている。しかも、登録者の都道府県別構成割合 は香川県が38.5%、岡山県が16.5%、東京都が 9.5%、大阪府が6.0%、兵庫県が5.5%、京都府 が4.3%、神奈川県が3.9%であった(32) ここから「妻有トリエンナーレ」では東日本 のみの地元−都市間の〈関係性〉であったもの が、「瀬戸内国際芸術祭」ではその構造がそのま ま、全国に広がっているのが看取されよう。す なわち、アートボランティアが自然災害発生後 には瞬時に復興ボランティアとなるような「妻 有トリエンナーレ」における地元−都市間の 〈関係性〉の構築が、「瀬戸内国際芸術祭」でも 十分に期待されうるのである。

おわりに

「妻有トリエンナーレ」において都市の若い人 たちが多くアートボランティアとして活動し、 その後も自然災害発生時には復興ボランティア へと「変身」すること、そして、その構造の特性 が「瀬戸内国際芸術祭」という交流人口の全国 的な拡大においても保持されていることを考慮 するならば、現代アートに高い興味を持つ世代 が、全国各地の現代アートイベントへの主体的 な参加を通じて、閉塞した大都市/過密−地元/過 疎の〈関係性〉を、新たな都市―地元間の〈関係 性〉へと組み変えていく可能性を指摘し得る。

(1)大野晃『山村環境社会学序説―現代山村の 限界集落化と流域共同管理―』(農村漁村 文化協会、2005年)同書(pp.22-23.)にお いて、「限界集落」の定義とは、「65歳以上 の高齢者が集落人口の50%を超え、独居老 人世帯が増加し、このため集落の共同活動 の機能が低下し、社会的共同生活の維持が 困難な状態にある集落」である。 (2)勝村(松本)文子/田中鮎夢/吉川郷主/西前 出/水野啓/小林愼太郎「住民によるアート プロジェクトの評価とその社会的要因―大 地の芸術祭妻有トリエンナーレを事例とし て―」(「文化経済学」第6巻第1号所収、 2008年3月、編集発行:文化経済学会〈日 本〉、pp.65-77.) (3)矢部拓也「何が再生されたのか?―エリア マネジメントからみた、北川フラム氏の芸 術による中山間村再生と長浜・高松・ヤン グスタウンでの地域再生の比較―」(地域 社会学会年報第22集「地方から見た地域再 生の現実」所収、2010年、地域社会学学会 編、ハーベスト社、pp.63-82.) (4)関口正洋「大地の芸術祭―越後妻有アー トトリエンナーレ―文化と芸術による地 域づくりの実践」(『アートイニシアティ ブ−リレーする構造』所収、編集発行: Bankart1929、2009年3月、pp.133-137.)及 び十日町市HP(http://www.city.toka-machi.niigata.jp/kanko/10170400003.html) (5)北川フラム「文化・芸術による地域づくり ―越後妻有アートトリエンナーレと瀬戸内 国際芸術祭をめぐって―」前掲(3)所 収、pp.11-14. (6)北川フラム「-越後妻有アートトリエンナー レを通じて-」(記録集『横浜会議2004 なぜ、国際展か?−』所収、監修:建畠 晢、編集:加藤慶/杣めぐみ/吉田有里、 2005年、Bankart1929、pp.34-35.) (7)前掲(3)pp.14-18. (8)前掲(6)p.37. (9)前掲(3)pp.16-17.なお、同作品の画像は 下記の「妻有トリエンナーレ」公式HPに おいても掲載している。http://www.echi-go-tsumari.jp/artwork/the_rice_field (10)『世界の人々と友だちになろう!−新しいま ちづくり・立川国際芸術祭2001の記録』、 編集:立川国際芸術祭2001実行委員会、発 行:現代企画室、2002年、pp.70-73. (11)敷田麻美「観光戦略の実践とまちづくり」

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(「アカデミアNo.91」所収、市町村職員中 央研修所、2009年、pp.4-7.) (12)「越後妻有アートトリエンナーレ2000大地 の芸術祭・総括報告書」、2000年12月、越 後妻有大地の芸術祭実行委員会「第2回越 後妻有アートトリエンナーレ2003大地の芸 術祭・総括報告書」、2003年11月、大地の 芸術祭・花の道実行委員会「第3回越後妻 有アートトリエンナーレ2006大地の芸術 祭・総括報告書」、2006年11月、大地の芸 術祭実行委員会「第4回越後妻有アートト リエンナーレ2009大地の芸術祭・総括報告 書」、2010年2月、大地の芸術祭実行委員会 「大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナ ーレ2012総括報告書」、2013年3月、大地の 芸術祭実行委員会 (13)前掲(12)の第4回・第5回総括報告書 (14)前掲(12)の第5回総括報告書なお、第4 回展・第5回展の総合プロデューサーは、 第2節で触れる、福武總一郎が就任してい る。(前掲(9)HP) (15)国際交流基金のサイト「Performing Arts Network Japan」による北川へのインタ ビュー(2009年8月)(http://performin-garts.jp/J/pre_interview/0907/2.html) (16)前掲(2)p.75.厳密には「まとまりの増 加」は「地域の協力」「地域の熱意」「作品 自体のよさ」、「話題の増加」は、「地域の 協力の度合い」「アーティストの熱意」「こ へび隊の熱意」「作品やイベントの見学」、 「活気の増加」は「作品自体のよさ」「アー ティストの熱意」「地域の熱意」「地域の協 力」と相関関係を持ったとしている。 (17)鷲見英司「越後妻有大地の芸術祭とソーシ ャル・キャピタルに関する調査研究」(紀 要「新潟大学経済論集93号」所収、新潟大 学経済学会、2012年9月、pp.171-226.) (18)Robert D.Putnum,“Making Democracy

Work:Civic Traditions in Modern Italy”, 1993,Princeton University Press

和訳および解説は、内閣府「ソーシャ ル・キャピタル」調査研究会(委員長:山 内直人大阪大学教授)の実態調査「平成14 年度「ソーシャル・キャピタル:豊かな人 間関係と市民活動の好循環を求めてからの ものである。 (19)前掲(17) (20)前掲(12)の第3回総括報告書(p.17.) (21)瀬戸内国際芸術祭サポーターこえび隊HP (http://www.koebi.jp/) (22)イベントについての詳細は、公式ガイドブ ックである「美術手帖981号瀬戸内国際芸 術祭2013」(2013年3月、美術出版社)参照 のこと。なお、2013年の第2回展の開催場 所は、12の島(直島、豊島、男木島、女木 島、大島、小豆島、犬島、本島、高見島、 粟島、沙弥島、伊吹島)と高松港・宇野港 周辺である。 (23)『直島町誌』、編集:直島町史編纂委員会、 発行:直島町役場、1990年 (24)『直島文化村へのメッセージ』、編集:秋元 雄史・江原久美子、発行:ベネッセコーポ レーション、1998年 (25)『地中美術館』、編集:徳田佳世・逸見陽 子、発行:地中美術館・財団法人直島福武 美術館財団、2005年なお、作品について は、同館HPからも見ることができる。 http://www.benesse-artsite.jp/chichu/port-folio.html (26)この「豊島事件」については、数多くの論 文が発表されているが、前掲(3)におい ても、室井研二「離島における環境再生− 香川県豊島を中心に−」が報告されてお り、都市と過疎地との交流人口の拡大につ いて、定住者の目線に立った地域の生活要 件に対する総合的な目配りの必要性から、 その検討を訴えている。 (27)『直島・家プロジェクト「角屋」』、2001年、 編集:江原久美子/逸見陽子、発行:ベネ ッセコーポレーション、pp.55-56.

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(28)1994年、宮島達男は長崎で被爆した柿の木 の二世の苗木を誕生させた海老沼医師の活 動に共感し、その苗木を分けてもらい、里 親募集と展覧会を行った。その後、「時の 蘇生」柿の木プロジェクトとして立ち上 げ、日本国内のみならず、世界各地に植樹 は広がっている(現在、20ヶ国・136か所) 公式HP http://kakitreeproject.com/now.html (29)前掲(27) (30)「瀬戸内国際芸術祭2010総括報告」、2010年 12月、瀬戸内国際芸術祭実行委員会 (31)前掲(22) (32)前掲(30)

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