年代 年 号 で き ご と 889 903 931 935 936 937 938 939 940 寛平元 延喜3 延長9 承平5 承平6 承平7 承平8 (天慶元) 天慶2 天慶3 桓武天皇の會孫、高望王が東国に下る。 将門が生まれる、という。 伯父の平良兼と「女論」により不和となる。 2月 野本で源護の息子たちに襲われるが、こ れを破り、伯父の平国香をも敗死させる。 10月 川曲村の戦いで、叔父の平良正を破る。 7月 良兼らと下野国の国府近くで戦い、これ を破る。 10月 源護が朝廷に訴えたため、弁明のため上 京する。 5月 朱雀天皇の元服の恩赦で許されて帰国す る。 8月 子飼の渡で良兼らと戦うが敗れ、次いで 堀越の渡の戦いでも敗れる。 10月 良兼の服織の館を攻めるが、良兼軍は筑 波山中に逃げ込む。 11月 坂東諸国に良兼、貞盛らを追討する命令 が下る。 12月 良兼が石井の営所を夜襲するが、これを 撃退する。 2月 上京しようとした貞盛を信濃国まで追う が、貞盛は逃れて、将門を朝廷に訴える。 2月 武蔵国権守興世王と足立郡司武蔵武芝の 争いを調停するが、武蔵介源経基はこれを 疑い、上京して将門を密告する。 6月 貞盛が将門追討の官符をもって帰国する。 興世王、ついで藤原玄明が将門を頼って くる。 常陸介藤原維幾が玄明の引き渡しを要求 してくる。 11月 常陸国府と将門は互いに要求を拒み、合 戦となり国府軍を破る。 12月 下野国、上野国の国府を襲う。 上野国府で託宣を受け、「新皇」を称する。 国司除目を行い、藤原忠平に書状を送り、 独立国家構想の事情を述べる。 1月 将門追捕の官符が下る。 藤原秀郷、平貞盛らが下野国で将門追討 の兵を挙げる。 2月 下野で秀郷・貞盛の軍と戦い敗れる。 秀郷・貞守軍の矢を受け、猿島郡北山の 戦いで討ち死する。 4月 将門の首が京に送られる。
平将門関連略年表
ごあいさつ
今から1,100年ほど前の平安時代中期、草深い辺境の地 であった坂東に生まれ、天下にその名を轟かせ、一陣の風 となって時代を駆け抜けた一人の「つわもの(兵)」がいま した。その人の名は、平将門。 将門の行動は、坂東の天地を揺るがし、京の朝廷を震憾 させた一方で、中央政府に虐げられていた民衆には共感を 持って受け入れられた面があります。関東一円をはじめ各 地に残る数多くの伝承や伝説は、そのことを物語っている ともいえます。 1,000年以上の長きにわたって人々の心をとらえて止ま なかった郷土の英雄・平将門。日本最古の軍記物語といわ れる『将門記』や、各地に残る伝承・伝説、遺跡・遺物を 通して、今も人々の心の中に生き続ける平将門を考察して みました。 平将門公生誕1111年記念事業の一環として開催する今 特別展を通して、郷土の歴史や伝承と将門が生きた時代の 一端を知っていただければ幸いに存じます。 なお、本特別展を開催するにあたり、貴重な資料を御出品 くださいました皆様をはじめ、ご指導ご協力いただきまし た関係者各位に対しまして心より厚く御礼を申し上げます。 平成25年10月 さしま郷土館ミューズ(坂東市立猿島資料館) 平将門坐像 (国王神社蔵)茨城県指定文化財 衣冠束帯姿の寄木造坐像。将門の三女・如蔵尼が地蔵菩薩に帰依 し、将門の苦患を助けようと一刀三拝して刻んだといわれる。 将門胴塚 (坂東市神田山・延命院)『将門記』の世界
朝廷をも揺るがした古代東国における平将門の乱を記した『将門記』は、 その成立に諸説あるものの平安時代の当地域の地名や景観を今に伝える超一 級の史料です。 一族間の女論や遺領問題に端を発した争いは、坂東諸国のみならず朝廷を も巻き込む内乱に発展。乱は、武士の勢力が初めて社会の表面に姿をあらわ した事件で、坂東における武士の成長・発展に重要な意義をもっています。二つの写本
真福寺本と楊守敬本
現在、『将門記』は将門の乱ののち、同じ平安時代に書かれた写本 が二つ残っています。名古屋市の真福寺寶生院(大須観音)に伝わる『真 福寺本』と呼ばれるものと、清国人の楊守敬によって見出された通称 『楊守敬旧蔵本』と呼ばれているもので、どちらも国の重要文化財に 指定されています。 この『将門記』という名称で伝えられる中篇の記録物語には、今か ら1,000年以上前の平安時代中期(承平・天慶年間)に起きた東国での 戦乱(将門と東国の兵たちの動向)が、幾多の合戦の中に生き生きと描 かれています。 乱を知る唯一の史料で、作者・成立年代は未詳。もともとは『将門 合戦章』あるいは『将門合戦状』の名で呼ばれていたといわれます。平将門の乱
承平5(935)年、大国玉の領主・平真樹が、源護との領地をめぐる紛争の調停を平将 門に依頼した。このため将門と源護一族及び伯父の平国香との間に合戦が起った。この 戦いで護の子の扶、隆、繁や伯父・国香が敗死し、ついで将門と伯父たち(平良兼、良正) や国香の子・貞盛ら親族間での戦いが始まった。 承平8(938)年、信濃国千曲川の合戦を最後に親族間の紛争は鎮まったが、天慶2 (939)年、将門は国司との対立から常陸国府の焼き打ちを行った。これを契機に下野、 上野国をはじめ関東諸国の国府を襲い、国司を追放し、弟や同盟者を国司に任命して、 自ら「新王」と称し関八州を治めた。 しかし、天慶3(940)年、将門追捕の官符が下され、諸国の兵士を帰国させて手薄に なった本拠を藤原秀郷・平貞盛連合軍に急襲されて将門は敗死、東国の内乱は終結した。 楊守敬旧蔵本『将門記』写 <坂東市蔵> 「石井之営所」が登場する部分 『将門記』に出てくる「法城寺」の 文字が刻された古代瓦 (結城市教育委員会蔵 ) 真福寺本『将門記』写(巻子本) 部分 <個人蔵> 平将門が一族と紛争を起こした由来から、国家へ反逆し、敗死に至るまでを記した軍記物語。 ミニ解説朝廷を震撼させた
「平将門の乱」
平安時代の中期、石井(現・坂東市岩井)を拠点に坂東八ヵ国を制覇した平将門。 律令国家による貴族支配の中で、彼が武力によって東国に新国家を樹立させた期間はわずか2ヵ月足らずでした。 日本の長い歴史から見れば、それは瞬きのような時間でしかなかったかもしれません。しかし、草深い辺境の地で あった遠い昔の坂東で起きた動乱は、暗闇の中における閃光のような輝きとなって、わが国の歴史の中に深く刻み込 まれています。 “古代から中世への変革” という新時代の胎動は、この坂東から始まったのです。 平安時代の中期、京の都では藤原氏が栄華の基盤を築こ うとしていた一方、辺境の地に過ぎなかった当時の坂東で は有力者が荒れ地を開墾し、互いに婚姻関係を結ぶなどし て、私営田領主として力を蓄えていました。 また、この時代、火山の噴火や地震・雷などの天変地異、 俘囚(中央政府の支配下に入った陸奥・出羽の蝦夷)の反乱 や群盗(諸国に運送中の物資や馬を略奪する集団)の横行な ど、坂東の治安は極度に悪化し、世の中は騒然としていま した。 こうした九世紀末の坂東に治安を取り戻すために下向し たのが、中央で出世の道を閉ざされていた、高望王に代表 される貴種の血脈と武の力を併せ持つ人たちでした。騒擾の坂東
俘囚の反乱や群盗の蜂起 平の姓を授けられて坂東に下向した高望王(桓武天皇の曾 孫)の三男が将門の父・良持(良将とも)で、将門は高望王 の孫に当ります。 将門の父・良持は陸奥に置かれていた朝廷の軍事基地・ 鎮守府(東北地方の治安の要)の将軍職も務め、下総北部の 猿島郡・豊田郡一帯を地盤とする軍事貴族でした。将門の 母は、相馬郡に勢力を持っていた豪族・県犬養春枝の女と いわれますが、将門がいつ、どこで生まれ、どのように育 ったのかは謎に包まれています。将門の出自
高望王の長男・国香(常陸大掾)、次男・良兼(下総介)、 四男・良正の三人は、筑波山西部を広く支配した一大勢力・ 源護(前常陸大掾)の娘とそれぞれ婚姻関係を結び、その領 地の拡大を画策したため、将門と敵対するようになってい きました。 平氏一族の内部抗争の発端は、「女論(伯父・良兼の娘と の略奪婚に近い結婚をめぐる諍い)」と「将門の父・良持の 遺した領地をめぐる争い」にあったといわれます。平氏一族の内紛
天慶2年(939)11月21日――。将門は朝廷の東国支配 の拠点である常陸の国府(国衙の所在地)を襲撃しました。 宿敵・貞盛や国司・藤原惟幾との諍いが発端でした。 一カ国討つも八カ国討つも同じ――。心ならずも国家に 対する反乱に踏み切ってしまった将門は、その後下野、上 野の国府を襲って国守らを追放。12月19日、上野国におい て自ら「新皇」と称して坂東の自立を宣言。その後は他の 国府の役人も将門を恐れて逃亡したため、たちまち坂東8 ヵ国をその勢力下に収めてしまったのでした。 「将門、新皇に即位す」――東国での将門の乱の知らせを 受けた朝廷は大混乱に陥りました。将門ショックは京を走 り、都には明日にも将門が京に攻めのぼるという噂が飛び 交い、朝廷は全国の寺社に「打倒将門」の祈 を命じるな ど将門調伏に全力を傾けたのでした。国府襲撃、「新皇」宣言へ
新皇を称した日から50日余りたった天慶3年(940)2月 13日、朝廷の命を受けた藤原秀郷・平貞盛が率いる征討軍 が将門の根拠地(石井の営所)を急襲しました。「将門とその 仲間を討った者には特別な恩賞を与え貴族に取り立てる」 という宣旨が朝廷から出されていたのです。 翌2月14日未申の刻(午後3時ごろ)、石井営所に近い北 山(現在地は不明。北の方の小高い雑木林=山という意味か) で、征討軍と将門軍が激突。将門はこの土地特有の烈しい 季節風の吹きすさぶなか、合戦の末に壮絶な最期を遂げま した。 それは秀郷・貞盛らの率いる4000余りの軍勢に対して、 わずか400人の手兵で激戦を耐え抜くという壮絶なもので あったといわれます。嵐のなかの決戦
―将門の最期― こうした平氏一族の内輪もめは、承平5年(935)、野本の 戦いをきっかけに以後幾多の合戦を繰り広げ、いわゆる「平 将門の乱」へと激化していくのでした。「平将門の乱」
川の乱流による領地争い
大湿地帯だった将門領
一族全体を巻き込む抗争の原因の一つに、常陸・下総国一 帯に広がる大湿地帯を乱流する川によって運ばれた肥沃な土 地をめぐっての領地争いがあったともいわれる。川の乱流は、 川を境界としていた土地を大きくしたり小さくしたりする。 そこに領地をめぐる争いの種がある。一方、河川の乱流は広 大な氾濫原をつくり、氾濫原は豊かな緑の草原となって馬の 産地としての条件がつくり上げられていった。 馬や鉄の生産が盛んだった坂東――騎馬戦術に長けた武士 団が生れる歴史と風土、将門軍の強さの根源がそこにあった。 将門時代の関東平野は湖沼地が多く、低地の部分にはところ どころに瀬が見え隠れする広大な湿地帯が広がっていた。 将門軍の特徴は馬にある。将門が本拠とした下総国豊田 郡、猿島郡一帯は沼沢地が広がっていて湿地が多い。広大 な洪積台地は、農業という面から見れば生産性の低い土地 だった。反面、馬牧という面から見ると、馬が自由に疾駆 できる広大な平地、そして沼や川を天然の柵とした「牧」は、 野生に近い状態で馬を放牧できる絶好の地形であった。将 門は、その所領内に優れた騎馬を手に入れることができる 馬牧を持っていたのである。騎馬軍団の背景にあった「牧」
将門が当初本拠とした豊田郡の鎌輪宿(現・下妻市鎌庭) の近くには「常羽御厩」と呼ばれる馬牧があったことが知 られている。また、将門は「大結馬牧(現・八千代町大間木)」 や「長洲馬牧(現・坂東市長須)」といった朝廷の放牧場を 管理したほか、私牧も所有していた。こうした馬牧を基盤 に編成された騎馬軍団が、将門の戦力の中核をなしたので あろう。 『延喜式』に記された牧の立地条件を調べると、川の中 洲や張り出した彎曲部、半島状の地形に位置するものが多 く、それは地名からも知られる。駿馬の飼育
―常羽御厩、大結牧、長洲牧― 将門の時代、鉄鏃や轡、鐙金具などの武器・馬具、手斧 や刀子などの工具、鍬や鎌などの農具の需要拡大は、東国 に多くの小規模な製鉄工房を生み出した。 実際、古代の富豪層が拠点としていた周辺地域には、砂 鉄を原料とする製鉄遺跡や鉄器を製作したり修理を行う鍛 冶工房が散在し、鉱滓(製鉄を鍛えるときに落ちるくず=金 屎・かなくそ)なども多数出土している。たたら製鉄
―武具や馬具を生産― 将門が活躍した時代、それは馬を使った戦術が台頭した 時代でもあった。 馬上の戦いでは、突かずに切ることのできる反った刀= 彎刀がはるかに有利となる。こうした時代を反映して、刀 剣類も直刀から外反り曲の形式に変化する。つまり、直刀 による刺突から、騎馬による斬撃戦への戦闘法の変化が新 兵器「日本刀」を誕生させたと考えられている。馬上の戦いに適した刀
将門。その強さの秘密は、
刀を手にした騎馬軍団だった。
大宝沼より出土した古太刀 (個人蔵)坂東武者を育んだ風土と歴史
天慶2年(939)、わずか1カ月で関東8ヵ国を制し、都の帝に反 抗する「新皇」即位を宣言した平将門。東国の自立を夢み、武士の 時代をいちはやく出現させようとした屈強の兵(つわもの)たち。 将門軍の圧倒的な強さを支えたものは何か。将門を育んだ北下総 地域の風土と歴史から将門軍の強さの秘密を考察する。将門の叔父にあたる平良文が、関東の名族・千葉氏の遠祖である。『平家物語』の一異本『源平闘諍録』には、 将門と良文との関係について、承平5年(935)に良兼と戦った蚕飼川(小貝川)合戦でのこととして、一人の 小童が現われ、劣勢であった良文と将門を救う。小童は妙見菩薩の化身であった。以後、将門はこの妙見を 信仰した利益で5か年のうちに坂東八か国を平定した。その後、妙見菩薩は将門から良文のもとに移ったた め、千葉氏とその支流の相馬氏が厚く尊崇することになったといわれる。
下総国千葉郷
妙見寺大縁起絵巻
(部分)
複製:千葉市立郷土博物館蔵 (原史料は歓喜寺蔵 福島県指定文化財 非公開) 関東の名族・千葉氏の守護神であ った「千葉妙見」の由来を記した絵 巻である。千葉氏は平良文を祖とし、 星に関する家紋をもち、妙見を祀る など、将門伝承と関係が深い。 関東に勢力を伸ばしていた千葉氏 にとって、自らが武勇の象徴でもあ る平将門の正当な後継者であること を妙見信仰を介して主張したものと いわれる。将門が生きた時代の坂東
木心乾漆造は、奈良時代後 期に官営造仏所で成立し、平 安時代初期9世紀末には消滅 する造像技法の一つである。 平将門が活躍した時代、『将 門記』に出てくる「栗 院常 羽御厨」に祀られていた仏像 と考えられている。 この像は、失われていた頭 部、両手、両足部の復原修理 『将門記』にも登場する下野国府の中心部「下野国 庁跡」(栃木市)が発掘調査され、国庁内の建物群や道 路、溝などの遺構が確認された。また、将門が生きた 時代を知る手掛りとなる木簡(木に墨書した公文書)や 染谷川の合戦に妙見菩薩が現われ、将門と良文を救う場面将門の系譜
妙見によって継承される
木心乾漆如来形坐像
(八千代町・栗栖院弁寿山佛性寺蔵)発掘された「下野国庁跡」
妙見菩薩の加護のもと平国香と戦う将門と良文。将門軍は九曜紋の幡を掲げている。 漆紙文書、 墨書土器や 古代瓦など も多量に出 土している。 が行われ、平安時代初期の特徴を表現した薬師如来坐 像として復元されている。相馬之馬追祭図絵巻
(部分)
〈坂東市蔵〉 相馬氏は、千葉常胤の次男・師常を祖とする。師常は、将門の直系の子孫である師国の養子となり、相馬御厨の 支配を任されて相馬氏を名乗ったとされる。 相馬氏は、後に下総相馬氏と奥州相馬氏の二つに分かれる。元亨3年(1323)、相馬重胤が下総流山から奥州行 方郡に移ったのが、奥州相馬氏の始まりとされている。 様々な色紋様の指旗を掲げた士が隊列を組んで街道を行く。 毎年7月下旬、福島県南相馬市を中心 に行われる相馬野馬追は、将門が行った 軍事訓練が始まりで、重胤が伝えたもの とされている。騎馬武者たちが繰り広げ る神旗争奪戦は特に有名で、勇壮な祭り として全国的に知られている。 古代の景観を留める水守村周辺を描い た絵図(江戸時代初期)。水守営所は将門 の叔父・良正の本拠で、『将門記』にも 登場する。相馬野馬追
(神旗争奪戦)
国指定重要無形民俗文化財泉田家所蔵の
「結び亀甲に鬼蔦紋陣羽織」
絵図から読み解く
将門の時代
水守村絵図
(筑波大学白井哲哉研究室蔵) 広大な野馬追原に入る行列(右)と野馬を追う光景(左)平将門にまつわる伝説は数知れない。 将門の首を祀った地だけでも、京の東市に晒された首を空也上人が供養したとい う京都市下京区の神田明神、首が胴を慕い飛び帰ってきたという東京・大手町の首 塚、その首を途中で射落として祀ったという岐阜県大垣市の御首神社など様々。東 京・千代田区の築土神社には、将門の首を京から持ち帰る際に使った首桶が伝えら れていたという(東京大空襲で焼失)。ほかに、将門の体の各部分を祀った場所とし て、胴体を埋めたという坂東市神田山(カラダ山が転訛したものという)延命院の胴 塚、腹・手・足を葬ったという栃木県足利市の大原神社・大手神社・鶏足寺。将門 軍の残党が遺体を分けて密かに祀った名残りとも、御霊将門(恨みを残して非業の最 期を遂げた将門の霊)の甦りを恐れた五体分葬の結果ともいわれる。 全国各地に散在する将門伝説地の祠や石碑は、遥か昔の一人の「つわもの(兵)」 の末路を妖しく語り続けている。 伝説の将門岩は、比叡山の山頂にある。 「純友は関白に、将門は天皇になって、 天下の政治を行う」――藤原純友が平将 門と京の都を見下ろしながら、共に天下 をとる約束を交わした場所、と伝えられ ている。
妖しい伝説に彩られた将門
将門首塚
(東京都千代田区大手町) 「平将門退治図絵」に描かれた将門の首。 胴体と一緒になってまた戦うと言っている。 江戸時代には平将門を祀る社として、江戸の 惣鎮守として崇められ大いに発展。これによっ て、将門伝説も伝播されることとなった。 都大路に晒された将門の首が獄門を 抜けて、胴体を求めて東国に飛び帰る 途中、この地に落ちて祀られたという。 秀郷が将門の首と兜を運んで来 て、その兜を埋めて塚をつくり、 祠を建てたとの伝承がある。 京で晒された将門の首を持ち帰り、 祠を建てて祀ったといわれる。将門 の首を入れた首桶を秘蔵していたと いう。 将門の鎧を埋めて祀ったという伝 承がある。比叡山の将門岩伝説
兜神社
(東京都中央区日本橋兜町)神田神社
(東京都千代田区外神田)築土神社
(東京都千代田区九段北)鎧神社
(東京都新宿区北新宿) 将門には七人の影武者がいたという。錦絵「平親王将門」
(歌川貞国画)「俵藤太物語」の伝える鉄人伝説
将門には、姿から顔までそっくりな影武者が7人いた。秀郷はどれが本物の将 門であるかがわからず、なかなか討てないでいたという。ところが、ある時、将 門の寵妃・小宰相を誘惑し、「影武者は、その影が映らない。将門本人の体は鉄 でできているので、矢も通らない。ただ一カ所、こめかみのところが生身である」 という話を聞き出し、次の戦いの時、影の有無によって本人であるか影武者であ るかを見定め、こめかみに矢を放って将門を倒すことに成功したという。 荒唐無稽な話ではあるが、将門の体が鉄でできていたという伝承は、製鉄を経 済的基盤としていた将門の姿を示したものとも考えられている。 将門と七人の影武者の墓とされる宝印 塔や五輪塔が建てられている。 「こめかみが動くのは本人だけ」―― 将門と分身を見分ける唯一の特徴を宿 敵・藤原秀郷に漏らした。 将門の愛妾であった「桔梗の前」が、 将門の死を知り、ここまで逃れてきたが、 追っ手の手にかかって殺されたと伝えら れている。非業の死を遂げた桔梗御前の 恨みで、桔梗を植えても花が咲かないと か、桔梗を植えてはいけないといわれて いる。 平安貴族が京都で安逸をむさぼってい た時代、将門は東国の自立を夢みて兵を 挙げた。天もこれを嘉し給うて、その謀 を愛で、天から黒馬を下し、将門を励ま した。しかし、この馬は、天与のもので 普通の馬ではない。将門以外は乗ること ができなかった。それで繋いでおくこと にした。これが「繋ぎ馬」の由来である といわれる。 将門が再び駿馬に乗って乱を起こさぬよ う繋いだ馬を紋章にしたと伝えられている。 平将門の家臣として落武者 になった旧家に伝わる朱地白 抜きの絹地旗。 石井営所で髪を梳かしていると ころに、下野の豪族・藤原秀郷の 来訪が告げられる。その時の場面 を描いた二世五姓田芳柳(坂東市 沓掛出身の洋画家)の作品である。将門梳髪図
二世五姓田芳柳 (坂東市・延命寺蔵)将門七騎塚
(守谷市・海禅寺)桔梗塚
(取手市)繋ぎ馬伝説
伝 平将門の旗
(個人蔵)国王神社社殿の「繋ぎ馬」彫刻
「俵藤太絵巻」部分(栃木県立博物館蔵)俵藤太に弓で狙われている将門。背後には7人の影武者がいる。平将門とその一族の伝説は、江戸文芸の中心的な役割を負う双草子と 読本、歌舞伎と芝居、浮世絵版画である錦絵の世界を通して江戸庶民に 歓迎されました。 庶民文化の成熟の中で崇められた将門とその一族たちの錦絵には多様 さがあり、まさに関東の英雄と呼ぶにふさわしい存在であるといえます。
錦絵にみる将門伝説
「総州猿島内裡図」江戸時代後期/楊洲周延画 将門の館に秀郷を招いて観月の宴を張る場面である。満月が湖上から昇り、月の輪にかかった対の雁が飛落する態を、 それぞれ思いを秘めながら眺めている。 「近江八景之内 堅田落雁 平将門」 江戸時代後期/歌川豊国(三代)画 琵琶湖南岸の優れた景観・近江八景の一つ「堅田落雁」を遠景に 平将門に扮した役者を描いたもの。似顔は八代目・市川団十郎。 「総州猿島大内裏之図」 江戸時代後期/歌川豊艶画 駒絵が描かれた襖や繋ぎ駒 の陣幕が張られた将門の内裏。 「将門記」に登場する人物と 瀧夜叉、良門など伝説上の人 物が入り乱れて描かれている。「相馬の古内裏」江戸時代後期/歌川国芳画 かつて将門が築いた相馬内裏の廃屋に将門の娘瀧夜叉姫が妖術で味方を集めているところに、大宅太郎光国が征伐にや ってきた。瀧夜叉姫が妖術で巨大な骸骨を出現させた場面で、骸骨は将門の怨霊を象徴している。 「藤白川合戦之図」 江戸時代後期/錦朝楼芳虎画 『前太平記』の「藤代川軍 事付国香中矢給事」をもとに、 平将門と平国香らとの合戦の 様子を描いた作品。黒駒に乗 った将門の強弓から放たれた 矢が、遥か対岸の白馬に乗っ た国香を射落とす場面である。 「前太平記相馬内裏之図」 江戸時代後期/一魁斎芳年画 先陣を務める部将に献盃を 執らせ、いざ出陣の光景を描 いた三枚続絵である。西洋的 描法と戯画的な仕法が窺える。
国王神社社殿 将門の娘・如蔵尼が父の尊像を刻して納め、その霊を祀った所という。 富士見の馬場 将門が軍馬の調錬や伝馬の市を開い た所という。 石井の井戸 将門が水に困っている時、老翁が清水を出してくれた所という。 九重の桜 京都御所の桜を株分けして植えた所という。 一言神社 石井を守るという伝説の老翁を祀 った所という。 延命寺(島の薬師) 将門の守り本尊・薬師如来を祀っている。 島広山(石井の営所跡) 将門が政治・軍事の拠点とした 石井営所跡といわれる。
坂東市内には、将門の史跡や伝説が多い。東に聳える 筑波は、往昔の将門を見、武士の時代、明治維新、戦後 の近代化など、幾多の歴史的事実をただ黙々と見つづけ てきた。都市化によって、ともすれば埋もれてしまうか も知れぬ将門史跡――。 今から50年ほど前(昭和40年頃)に市内在住の写真家・ 五津忠男氏が撮影した写真によって、今は懐かしき風景 となってしまった「将門ゆかりの史跡」を振り返ってみる。 弓田・慈光寺 将門が石井営館の鬼門除けとして篤く信仰した不動尊 が祀られている。 菅生沼の風景 将門の時代に広がっていたであろう沼沢地の面影を留めている。 神田山・延命院(胴塚) 将門山と伝える塚は、将門の胴体を埋めた所 という。 天神山の遠望 辺田・西念寺 将門が寺の鐘を陣 鐘に使ったという 伝説が残る。
将門史跡の風景
今から50年前
織田完之 おだ かんし 天保13年(1842)三河国(現・愛知県)高須に生まれ、鷹洲と号した。 大蔵省を退官した後、歴史的な史跡の保存や平将門など冷遇されている 歴史上の人物の復権運動に精力を傾けた。明治38年に「国宝将門記伝」 を著し、翌明治39年には大蔵省構内にあった将門の首塚に古蹟保存碑建 立を実現。さらに明治40年、全国の将門関係の史跡や伝説を研究紹介し た「平将門故蹟考」をまとめた。大正12年(1923)没。享年82歳。 平将門は武家政権の始祖と考えられることから、武家社会の中では尊敬の念をいだ かれてもいました。しかし、江戸時代に水戸藩が編纂した「大日本史」は、将門を「叛 臣列伝」に入れ、天皇への反逆者として扱いました。この傾向は、明治以降の近代国 家体制の中で、ますます強くなりました。こうした時代にあって、将門を反逆者の汚 名から雪ごうと努力した人物が織田完之(1842~1923)でした。明治40年(1907)に 著した「平将門故蹟考」をはじめとする織田の研究書は、将門を尊崇し敬愛する人々 に受け入れられました。 明治40年4月3日に岩井で開催された織田の 講演会には、近隣の村々から数百人の聴衆が集 まり、講演が終わるや会場は喝采の嵐に包まれ たという話も伝わっています。 国府焼き討ち
「平将門公一代絵巻」
秋山桑人画
(常総市新石下・壽廣山観音院西福寺蔵)織 田 完 之
「反逆者将門」の汚名を雪ぐべく奔走
将門復権に尽力した
山野跋渉 上洛 将門出生から幼年時代、山野跋渉、 上洛、藤原忠平謁見、初陣、桔梗の前、 国府焼き討ち、関東平定、執金剛神、 運命の日、国王神社まで12面の絵に よって将門の生涯が描かれています。平将門を主人公にしたN HK大河ドラマ「風と雲と 虹と」は、今から37年前の昭 和51年(1976)に放送された。 原作は海音寺潮五郎。主 な配役は、平将門に加藤剛、 藤原純友に緖形拳、二人を 結ぶ密偵に草刈正雄。当時、 最高視聴率は30%を超える 人気番組であった。 〈和本〉 将門軍記、絵本将門一代記、絵本実録 平親王将門実記、武勇魁殿図会など 〈戯曲・小説〉 真山青果「平将門」、幸田露伴「蒲生氏郷・平将門」、吉川英治「平の将門」、 海音寺潮五郎「平将門」、大岡昇平「将門記」、早乙女貢「乱菊の太刀―平将門」、 童門冬二「平将門-湖水の疾風―」、高橋直樹「平将門―射止めよ、武者の 天下」、竜崎攻「平将門―坂東八ヶ国を制した覇王」、矢野隆「将門」など 〈研究書〉 織田完之「平将門故蹟考」、大森金五郎「平将門研究」、赤城宗徳「将門地 誌」、福田豊彦「東国の兵乱ともののふたち」、村上春樹「平将門伝説」、稲 葉嶽男「平将門伝説の旅」、鈴木哲雄「平将門と東国武士団」、川尻秋生「古 代東国史の基礎的研究」など 出羽三山信仰の中で羽黒山を象徴するのが将門建立と伝 えられる五重塔です。 あや絵は、別織りした佐賀錦の白生地に、 図に従って染色し、それを裁断してパネル に貼り合わせた独創的な絵です。 布絵は、日本の古い貴重な布(着物や帯 など)を使って表現したオリジナル・アー トです。京の都から離れた坂東に、民と 共に生きる理想の国を創ろうとした若き 日の将門、夢と希望に向かって飛躍する 坂東市をイメージしています。
将門関連の著作物
歌舞伎で演じられた
「平将門―叛逆時代―」
NHK大河ドラマ
「風と雲と虹と」
水墨画「将門の塔」
高橋英男 作布絵「蒼き武者 平将門」
皆川末子 作あや絵「平親王将門之雄姿」
川崎是空 作 で、将門役を市川染五郎(現・松本幸四郎)、貞盛役を 中村吉右衛門、将門の妻を坂東玉三郎が演じている。 昭和50年度芸術 祭協賛公演として 国立劇場で上演さ れた「平将門―叛 逆時代―」(真山青 果=作、真山美保 =演出)の冊子とパ ンフレットである。 四幕六場の舞台狩衣姿で黒鹿毛の馬に乗った平将門公 のブロンズ像で、国王神社の方角を向い ています。制作は、茨城県土浦市出身の 彫刻家・一色邦彦氏。 坂東市総合文化ホール「ベルフォーレ」 の竣工を記念して、平成6年3月に建立 されたものです。 ベルフォーレ(市民音楽ホール・岩井図書館)前庭には、原始・古代から 現代に至る岩井の歴史と未来を描いた長大な陶板レリーフ壁画があります。 これは総合文化ホール「ベルフォーレ」建設を記念して、市内の児童・ 生徒が描いた原画を陶板レリーフにして玄関前広場に設置したものです。 「郷土の英雄・平将門」が描かれた場面は、ベルフォーレ正面玄関前の 左手側の壁面にあります。いつでも誰でも見ることができます。ぜひ、現 地で迫力ある巨大な陶板レリーフ壁画をご覧になってみてください。 天慶3年(940)正月中旬、武蔵・相模などを制圧して帰国した将門は、 仇敵・貞盛の探索等のため再度常陸に出兵。戦乱の中、兵士たちに凌辱 された貞盛の妻と扶の妻に、将門は衣服などを与えている。 その時に詠んだとされる贈答歌である。