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Microsoft Word - 資料編1-2

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉗ ) 第1班

調 査 日 10月2日 調 査 員 池田 秀生 河岸等の名称 川口河岸・川口の渡し 河川(水路)名 荒川 所 在 地 川口市本町 河 岸 等 の 設 置 時期 元禄3年(1690)幕府廻米運賃制定以降に成立した河岸と推定される。 日光御成り街道の渡しであった。川口善光寺の参拝に利用された。 参考文献等 [荒川の水運]歴史の道調査報告書第7集 最盛期の様子 荒川の支流である芝川も利用して、川口で盛んであった鋳物やその材料 の運搬の他、米、蓮根、くわいなどを搬出し、肥料、木材、石材、砂糖 などを搬入していた。日光御成り街道の交通の要所としてにぎわった。 現 在 に 残 る 名 残 荒川が改修され、河岸場は現在河川敷となっており、往時の面影を残すも のは見つけられなかった。わずかに現在の堤防上に、近くにあった「川口 の渡し」の説明板が設置されている。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 川口の渡しの説明 説明板 新荒川大橋 説明板

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉘ ) 第1班

調 査 日 10月2日 調 査 員 池田 秀生 河岸等の名称 戸田河岸・戸田の渡し 河川(水路)名 荒川 所 在 地 戸田市川岸 河 岸 等 の 設 置 時期 元和2年(1616)に定船場に指定されて以来中山道の重要な渡船場となっ た。河岸場の創設期は、元禄8年(1695)とされている。 参考文献等 「荒川の水運」歴史の道調査第7集 最盛期の様子 中山道の重要な渡船場として、参勤交代の大名や宮様下向も多かった。 明治5年の資料では、一日の交通量として、乗合750人、乗馬5疋、 駄馬7疋、人力車60両などの記載がある 現 在 に 残 る 名 残 戸田橋のたもとの交番の前に、説明板が設置されている。また、下流堤防 裏小段に、「戸田渡船場跡」の石碑がある。近くに、水神社、地蔵堂等が残 っている。 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図・現況写真等 地蔵堂 渡跡石碑 水神社

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉙ ) 第1班

調 査 日 10月7日 調 査 員 池田 秀生 河岸等の名称 早瀬河岸・早瀬の渡し 河川(水路)名 荒川 所 在 地 戸田市早瀬 河 岸 等 の 設 置 時期 古くから現戸田市と現板橋区とを結ぶ鎌倉街道の渡船場であった。 参考文献等 「荒川の水運」歴史の道調査第7集 最盛期の様子 「武蔵国群村誌」下笹目村の項には、100石積み5艘、60石積み6 艘、肥船50艘、川下小船6艘などの記載があり、江戸からの下肥を積 んだ肥船を中心として繁栄していたことがうかがえる。 現 在 に 残 る 名 残 笹目橋下流左岸堤脚に、同じあたりにあった早瀬の渡しの碑が建てられて いる。笹目橋上流の堤脚の早瀬浅間神社内には、大杉神社碑と水天宮碑が ある。 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図・現況写真等 早瀬浅間神社 早瀬の渡し石碑

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉚ ) 第1班

調 査 日 10月7日 調 査 員 池田 秀生 河岸等の名称 道満河岸 河川(水路)名 荒川 所 在 地 戸田市美女木 河 岸 等 の 設 置 時期 参考文献等 「荒川の水運」歴史の道調査第7集 最盛期の様子 「武蔵国群村誌」内谷村の項には荷船八艘下肥船12艘の記載がある。 現 在 に 残 る 名 残 旧川に「道満河岸」の名を残した釣堀が残るのみである。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 案内板 幸魂大橋

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉛ ) 第1班

調 査 日 平成26年12月2日 調 査 員 小宮 憲一 河岸等の名称 八 丁 河 岸 河川(水路)名 芝 川 所 在 地 さいたま市 緑 区 大間木・下山口新田 河 岸 等 の 設 置 時期 1731年(享保16年) 参考文献等 さいたま市教育委員会 最盛期の様子 八丁河岸の船荷は江戸へ年貢米、麦、野菜、薪炭などが、江戸からは肥 料、塩、魚、荒物などが運ばれた。明治中期に最盛期を迎え、船数は7 0隻、船頭は150人を数えた。 現 在 に 残 る 名 残 鈴木家は幕府から差配役に任じられ、八丁会所(取引所)で各船に対する 積み荷や船頭の割り振りなどの通船業務をつかさどる。近くに水難防止祈 願の水神社がある。(1732年6月の創建) 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 国指定史跡の見沼通船掘閘門開閉実演(パナマ運河のミニチュア)が 毎年、8月下旬に行われている。 位置図・現況写真等 鈴木家(八丁会所) 八丁河岸 八 丁 河 岸

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉜ ) 第 1 班

調 査 日 平成26年11月16日 調 査 員 小川 倫正 河岸等の名称 染谷河岸・会所 河川(水路)名 見沼代用水(東縁) 所 在 地 さいたま市緑区南部領辻 河 岸 等 の 設 置 時期 1731年(享保16年) 参考文献等 見沼・その歴史と文化(浦和市立郷土博物館) さいたま市の歴史と文化を 知る本(青木義脩) 最盛期の様子 江戸に年貢米・薪炭・野菜・柿渋・酒などが、江戸からは肥料・塩・雑 貨などが運ばれていた。水運は1 年のうち農閑期のみとし水田利用とす み分けをしていた。ここ染谷河岸は通船料の徴収等を行う会所が設けら れ、現存する中久喜家の祖によって運営されていた。一方同家では、居 宅庭先までの通船を私的に設け、芝川、加田屋川を経る通船を開き、代 用水側と両方の船荷を効率的に取り扱っていた。 現在に残る名残 モニュメント・中久喜家宅 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図・現況写真等 染谷河岸

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉝) 第 1 班

調 査 日 平成26年11月16日 調 査 員 小川 倫正 河岸等の名称 北袋河岸 河川(水路)名 見沼代用水(西縁) 所 在 地 さいたま市大宮区北袋町 河 岸 等 の 設 置 時期 1731年(享保16年) 参考文献等 見沼・その歴史と文化(浦和市立郷土博物館)さいたま市の歴史と文化を知 る本(青木義脩) 最盛期の様子 江戸に年貢米・薪炭・野菜・柿渋・酒などが、江戸からは肥料・塩・雑 貨などが運ばれていた。水運は1 年のうち農閑期のみとし水田利用とす み分けをしていた。ここ北袋河岸には通船料の徴収等を行う会所が設け られていた。通行していた船は、大きなもので長さ14m、幅 2m で、米 俵200 俵積めた。 現在に残る名残 看板・北袋橋 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図・現況写真等 北袋河岸

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉞) 第1班

調 査 日 平成26年10月10日 調 査 員 吉田 耕三 河岸等の名称 小向の渡し 河川(水路)名 江戸川 所 在 地 三郷市高洲4丁目・松戸市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~昭和(戦後まで) 参考文献等 三郷市観光協会 最盛期の様子 小向村と松戸宿を結ぶ渡船場で、戦後もしばらく使われていた。十人乗 りの船が二艘常置され、専業の船頭が渡していた。 現 在 に 残 る 名 残 江戸川堤防上標柱が設置され位置は確認できるが渡し場の跡は無い。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)による 大雄寺入り口付近に設置されている案内板 江戸川堤防上に設置されている標柱 小向の渡し 標柱

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㉟) 第1班

調 査 日 平成26年10月10日 調 査 員 吉田 耕三 河岸等の名称 分水の渡し(樋野口の渡し) 河川(水路)名 江戸川 所 在 地 三郷市・松戸市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~昭和(戦後) 参考文献等 三郷市観光協会 最盛期の様子 享保十六年(1731年)の江戸川改修工事で村内中央が堀割られてか ら、飛び地となった対岸村内との往来のために設けられたもので、依頼 農耕用の渡し場として戦後しばらくの間まで使用されていた。 現 在 に 残 る 名 残 江戸川堤防上に標柱が設置され位置は確認できるが当時の面影は無い。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)によ 堤防上に設置された標柱 対岸は松戸市 当時の面影は残っていない 分水の渡し 標柱

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊱) 第1班

調 査 日 平成26年10月16日 調 査 員 吉田 耕三 河岸等の名称 岩野木の渡し(幸房の渡し) 河川(水路)名 江戸川 所 在 地 三郷市・流山市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~明治時代 参考文献等 三郷市観光協会 最盛期の様子 江戸時代は地元の人々が利用する渡船場であった。明治十九年に対岸の 飛び地に村共有の渡船場開設が許可され、村民以外からは賃銭を徴収し ていた。 現 在 に 残 る 名 残 江戸川堤防上に標柱が設置されているが河岸場の痕跡等は確認できない。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形づ閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)によ 堤防上の標柱 対岸は松戸市 当時の面影は残っていない上流につくばエキスプレス 岩野木の渡し つくばエキスプレス 標柱

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊲) 第1班

調 査 日 平成26年10月16日 調 査 員 吉田 耕三 河岸等の名称 丹後の渡し 河川(水路)名 江戸川 所 在 地 三郷市・流山市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~昭和10年 参考文献等 三郷市観光協会 最盛期の様子 江戸時代から丹後村と対岸の流山村を結ぶ渡船場として、丹後村で運営 していた。新選組が流山に向かうのに利用したともいわれる。流山橋 (旧橋)が昭和10年に架橋されるに伴い、廃止された。 現 在 に 残 る 名 残 江戸川堤防上に標柱が設置されているが渡船場の名残は残されていない。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)による 堤防上の標柱 対岸は流山市 当時の面影は無い下流に流山橋を望む 丹後の渡し 流山橋 標柱

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊳) 第1班

調 査 日 平成26年10月16日 調 査 員 吉田 耕三 河岸等の名称 矢河原の渡し(前間の渡し、加村の渡し) 河川(水路)名 江戸川 所 在 地 三郷市・流山市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~昭和30年代 参考文献等 三郷市観光協会、流山市資料 最盛期の様子 江戸時代から、前間村・田中新田と加村(現流山市)の間を渡していた 渡船場である。もとは、地元の人が利用する渡船場であったが、明治十 一年に加村の古坂善左衛門らが渡船場として公の許可を得て営業を始め た 現 在 に 残 る 名 残 江戸川堤防上に標柱が設置され位置は確認できるが渡船場の跡は無い。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(〈C〉谷 謙二)による 堤防上の標柱 対岸は流山市 当時の面影は残っていない 矢河原の渡し 標柱位置

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊴) 第1班

調 査 日 平成26年10月7日 調 査 員 折本 実 ・ 吉田 耕三 河岸等の名称 忠兵衛の渡し 河川(水路)名 中川 所 在 地 八潮市・三郷市 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸時代~昭和(戦後) 参考文献等 最盛期の様子 川崎村(現八潮市)と戸ヶ崎村(現三郷市)を結ぶ渡し。利用者は、1 日 2、30 人で盆や正月に利用する人が多かったが、戸ヶ崎の祭りには、 特に大勢利用した。 現 在 に 残 る 名 残 地元の人にかつて渡し場のあった位置を確認できたが、現地は護岸工事が 進み名残は残っていない。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 位置図 時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)による 地元情報で渡しのあった場所、対岸は八 潮市。下流側に新中川橋。 忠兵衛の渡し 新中川橋

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No1-㊵) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 19 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 中島の渡し 河川(水路)名 一級河川中川(旧古利根川) 所 在 地 越谷市中島(右岸)-吉川市平沼(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時 期 江戸期から昭和初期(S.5 年頃)まで 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 中島の渡しに替わる橋(荒川橋)が元荒川に架けられた記念の石碑 が中島橋のたもとに建っている。 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図 現況写真等 中島の渡し 元荒川 中川 中島橋 吉川橋 写真は中川右岸下流から上流を望む 中島の渡しは写真中ほどの樋管の所 古老(大正13 年越谷市中島生まれの女性)の話 私は越境して吉川の小学校に 6 年間通って昭和 11 年に卒業した。小学 1 年の時は 渡しを使った。渡しの料金は村で負担していたので払わずに乗った。 そのためか、一人での帰り、「オーイ」と呼んでも舟は来てくれない。待たされては泣 いた、私は泣き虫だった。 2 年になると元荒川に橋が出来て、渡しは廃止された。橋は地元の有力者数名が賃 取橋として木の橋を造ったもの。荒川橋と命名された(昭和 5 年 5 月竣工と記した石 碑が中島橋左岸のたもとに建てられている)。その後河川改修があり、同じ位置に中島 橋として永久橋に架け替えられた。 なお、中川にはこの少し下流に吉川橋が明治の初期に架けられている。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No1-㊶) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 28 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 吉屋村の渡し 河川(水路)名 旧庄内古川 所 在 地 吉川市吉屋(右岸)-吉川市平方新田(右岸) 河岸等の設置時期 江戸期あるいは明治期? えど参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 吉屋村の渡し 旧 庄 内 古 川 左岸堤 旧 庄 内 古 川 右岸堤 江戸川 写真は埋め立てられて水田となっている 旧庄内古川の右岸堤から左岸堤を望む。 松伏町の大川戸地区から下流の庄内古川は大正期の河川改修により湾曲部が直線 化されて現在の中川になった。吉屋村の渡しがあったこのあたりの庄内古川はこの 時、廃川となり、埋め立てられて水田となった。 吉屋村の渡しは下総(現吉川市平方新田:明治 28 年 4 月 1 日千葉県東葛飾群か ら埼玉県北葛飾郡へ編入された)から武蔵への渡しとして機能した。 なお、左岸堤は周囲から一段と高くなって、帯状に連なり(延長約 2.5 ㎞)、その 上には道路が走り、高い生け垣と大木の茂った屋敷を構えた家屋が並びその間に神 社や寺があって古い集落を形成している。遠景からも見事な景観を呈している。 右岸堤であったと思われる所も道路として利用されていて、周囲よりは少し高く なっている。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No1-㊷) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 28 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 八子新田渡し 河川(水路)名 旧庄内古川 所 在 地 吉川市八子新田地先(江戸川高水敷き) 河岸等の設置時期 江戸期 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 江戸川右岸堤、下流から上流を望む。 先方に写るところは右岸の高水敷きで 県営吉川公園となっている。 松伏町の大川戸地区から下流の庄内古川は大正期の河川改修により湾曲部が直線 化されて現在の中川になった。八子新田渡しがあったこのあたりの庄内古川はこの 時、廃川となり、更に、江戸川の拡幅工事の区域に入って消滅した。八子新田渡し があった所は現在の県営吉川公園のあたりと考えられる。 江戸川 八子新田渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊸) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 28 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 下内川の渡し 河川(水路)名 旧庄内古川 所 在 地 吉川市下内川地先(江戸川高水敷き) 河岸等の設置時期 江戸期 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 江戸川右岸、下流から上流を望む。 写真は右岸の高水敷きで吉川地区江戸川 広域総合公園となっている。 松伏町の大川戸地区から下流の庄内古川は大正期の河川改修により湾曲部が直線 化されて現在の中川になった。下内川の渡しがあったこのあたりの庄内古川はこの 時、廃川となり、更に、江戸川の拡幅工事の区域に入って消滅した。下内川の渡し があった所は現在の吉川地区広域総合公園のあたりと考えられる。 江戸川 吉 川 地 区 江 戸 川 広域総合公園 下内川の渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊹) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 17 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 内川の渡し 河川(水路)名 旧庄内古川 所 在 地 吉川市上内川(右岸)-松伏町金杉(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期 参考文献等 松伏町史、土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 旧庄内古川の左岸堤が当時の姿を保っている。また、渡しの近く、 渡しが結ぶ道沿いには古くからの神社(内川神社:村社)や家屋 があって集落を形成している。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 写真は旧庄内古川の左岸の渡し場に向う道路 から渡しを望む。この道路と十字に交差する 道路の先が、かつての川筋である。 かつて、旧庄内古川は金杉地区と上内川地区の境界に沿って東に流れ、江戸川に 合流していた。内川の渡しは現在の水くみ団地の南東端にあり、金杉地区と上内川地 区の間の庄内古川を渡していた。 往時、このあたり、洪水氾濫が多く、江戸期から河川改修が行われたが、大正期 の改修で、現在の中川となっている。旧河道は埋め立てられて、道路や農地となっ た が 、 旧 庄 内 古 川 の 左 岸 堤 は 高 い 土 手 と な っ て い て 当 時 の 姿 を 残 し て い る。この堤防と同じ高さの敷地にある神社や家屋が堤防に沿って連なり、 堤防天端は地域の生活道路として利用されている。 氾濫地域で暮らした人々の知恵がしのばれる。 内川の渡し 中川 野田橋 旧庄内古川左岸堤

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊺) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 17 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 魚沼の渡し 河川(水路)名 旧庄内古川 所 在 地 松伏町大川戸(右岸)-松伏町魚沼(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時 期 江戸期 参考文献等 松伏町史、土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 旧河跡に沿って盛土された屋敷の存在が川の名残をとどめている。 舟 運 に 関 連 す る 地域の行事等 位置図 現況写真等 庄内古川 庄内古川 旧河道 中川 農免道路 (主)野田岩槻線 魚沼の渡し 写 真 は 旧 庄 内 古 川 筋 の 下 流 か ら 上 流 を 望 む。河道は埋め立てられて道路となってい る。かつて、魚沼の渡しは写真上方交差点の あたりにあった。 旧庄内古川は大川戸地区で大きく湾曲し、同地区と魚沼地区、金杉地区の境界を 流れていた。魚沼の渡しは大川戸と魚沼の間を渡し、宝珠花道を行く人が利用した。 大正期の運賃は人が1銭、馬と自転車が2銭で、船頭は両地区の人が1日交替で務め たという。 大正期(10 年頃)の河川改修で河道は直線化され、湾曲部は埋め立てられて、道 路となった。当時の面影として残るものは、洪水の氾濫対策として宅地を盛土した屋 敷が旧川筋に沿って存在し、今なお生活の場として活用されていることである。 庄内古川 旧河道

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊻) 第1班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 かね渡し 河川(水路)名 一級河川中川 所 在 地 松伏町大川戸(右岸)-春日部市赤崎(左岸) 河岸等の設置時期 参考文献等 松伏町史、土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 左右岸とも渡しへの道があり、道は現在も機能している。 左岸の堤防上に水神宮碑や金毘羅大権現塔があり、水難除けなど を祈願したものであろう。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 かね渡し 写真中ほどにかね渡しがあった。 右側の林の中に渡しに続く道がある。 上流右岸から下流を望む。 妙楽寺の前を通り、かね渡しで中川を渡り、春日部市と松伏町の境界に沿って北上 し、関宿方面に向かう道につながっている。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊼) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 倉田の渡し 河川(水路)名 一級河川中川 所 在 地 春日部市赤沼(右岸)-春日部市赤崎 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸期から明治初期まで 参考文献等 春日部市史、土地の古老 最盛期の様子 現 在 に 残 る 名 残 倉田橋はどういういきさつで出来たか分からなかったが、渡しがあったか ら、橋が出来たものと考えられる。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 倉田橋 国道 4 号バイパス 倉田の渡し 写真は右岸下流から上流倉田橋を望む。 倉田の渡しは倉田橋が出来て廃止となる。 左岸の背後地は水田地帯であるが、このあたりには堤防沿いに神社があり、古 い集落がひとかたまりをなしている。 渡しの位置は確認できなかったが、道路との関係を考えれば橋の所ではないか と考えられる。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊽) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 水角の渡し 河川(水路)名 一級河川中川 所 在 地 春日部市藤塚(右岸)-春日部市水角(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から昭和30 年代初期まで 参考文献等 春日部市史、土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 渡しの左岸の袂に酒屋がある。左右岸とも渡しにつながる道があ り機能している。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 水角の渡し 写真は上流左岸から渡しを望む。 左手に古びた酒屋が見える。 水角の渡しは上流に永沼橋が出来て衰退した。 左岸一帯は水田が広がるばかりであり、たもとの酒屋は渡しの利用者にとって格好 の休憩所であっただろう。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊾) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 永沼の渡し 河川(水路)名 一級河川中川 所 在 地 春日部市藤塚(右岸)-春日部市永沼(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から昭和30 年代初頭 参考文献等 春日部市史、土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 左右岸に渡しに続く道がある。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 永沼橋 永沼の渡し 写真は永沼橋下流右岸から永沼橋を望む。 橋の下流の水面の中に杭の頭が見える。 初代の永沼橋の杭である。 永沼の渡しは永沼橋が出来て、これに替わる。 現在の橋は渡しがあった所から30m上流に永久橋で架け替えられている。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1-㊿) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 16 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 榎の渡し 河川(水路)名 一級河川中川(庄内古川)の旧川 所 在 地 杉戸町大塚(右岸)-春日部市榎(左岸) 河岸等の設置時期 ? 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 かつての左岸堤防と渡し場への道(当時の主要道路)、そのたもと に渡しを営んだ家がある。また、大榎橋の右岸に道しるべを兼ね た庚申塔があり、この場所が宝珠花河岸へ通じる渡船場であった ことを示している。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 榎の渡し 市 町 の 境 界 が旧河道 中川 大榎橋 写 真 は 河 川 改 修 に よ り 埋 め 立 て ら れ た 旧 河道の左岸堤から対岸を望み、その先に大 榎橋がある。手前の杭は堤防敷と民有地と の境界を示すものと思われる。 榎の渡しは百間村方面と宝珠花河岸あるいは金野井村を結ぶ金野井往還の庄内古 川を越える渡しで、写真手前の右側(写真に写ってないが、かつての左岸堤の渡し 場のたもと)に渡しの船頭をした屋号フナトノチが現存する。 現在の中川(庄内古川)は大正期に改修(蛇行していた河道を直線化)され、渡 しに替わって橋が架けられた。旧河道は埋め立てられて、農地になっているが、当 時の堤防が残されていて、その部分は周りより少し高くなっている。 旧左岸堤

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 51 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 19 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 せき舟の渡し 河川(水路)名 旧古利根川 所 在 地 越谷市増森(右岸)-吉川市須賀(左岸) 河岸等の設置時期 明治? 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 現在に残る名残 名残は残っていない。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 せき舟の渡し 新方川 中川 東埼玉道路 写 真 は 旧 古 利 根 川 筋 の 下 流 か ら 上 流 を 望 むが川は埋め立てられて、道路、公園、グ ランドになっている。渡しはこのあたりに あった。 旧古利根川は越谷市と吉川市の現在の境界を流れていた。吉川市川藤地先から大 きく湾曲していた流れを大正期に同地先から直線に改修された。湾曲した河道は埋 め立てられて、道路、公園、グランド、工業団地等に利用されてきたがここに今、 東埼玉道路が計画されて、整備が進みつつある。 かつて、増森の人で渡しをして、「わたしば」と呼ばれた屋号の家も移転され、こ のあたりに当時の面影は残っていない。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 52 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 10 月 27 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 堂面の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 越谷市向畑(右岸)-松伏町松伏(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から昭和30 年頃まで営業 参考文献等 松伏町史、土地の古老 最盛期の様子 朝の7 時ごろから夜は舟に提灯をつけて営業していた。新方地区 (越谷市)の人々は、松伏地区に買い物に来る人が多かったため 利用者が多かった。松伏地区では最後まで営業していた。 現在に残る名残 渡しを利用する人が多く、橋の要望が高まり公共で造られた。 名残としては橋である。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 写真は下流右岸から上流堂面橋を望む。 最初の堂面橋は昭和 30 年頃自衛隊が木造 で造った。その後架け替えて今の橋になっ ている。 渡しは現在の堂面橋より、やや上流にあった。舟が流されないよう両岸をワイヤ ーで吊ってあった。渡しの舟は松伏側から「オーイ」と呼ぶと迎えに来て、自転車 も一緒に乗り込だ。 渡しは堂面橋ができて廃止された。 堂面の渡しの位置は確認できなかった。 堂面橋 堂面の渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 53 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 久右衛門の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 越谷市船渡(右岸)-松伏町大川戸(左岸) 河岸等の設置時期 明治から昭和のはじめ 参考文献等 松伏町史、土地の古老 最盛期の様子 舟は10 人乗りくらいで船頭は船渡地区の人であった。竿を使っ て渡していて呼ぶと来た。農耕利用が多かった。 現在に残る名残 見当たらない 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 古利根橋 光厳寺 久右衛門の渡し 久右衛門の渡しがあったと言われるあたり の写真。名残となるものは見当たらない。 左岸下流から上流を望む。 かつて、このあたりは舟を持つ人が多く、対岸と行き来したという。 写真右手奥、のどかな田園地帯の中に戸建ての住宅団地が突然現れた。 久右衛門の渡しの位置は確認できなかった。

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 54 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 戸崎の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 越谷市枚方(右岸)-春日部市赤沼(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から昭和19 年頃まで 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 渡しは所用の他、農耕の利用が多かった。 現在に残る名残 渡し場への道が左右岸とも現存し、今も機能している。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 写真は古利根橋下流右岸から左岸を望む。 写真中央やや右の水面に旧古利根橋(昭和 19 年架設の木橋)の橋脚の残骸が見える。 ここに渡しがあった。 戸崎の渡しは昭和 19 年に、この場所に橋が架けられて廃止された。 近くには、市指定無形民俗文化財「赤沼の獅子舞」を奉納する赤沼神社や古刹「常楽 寺」があり、これらに参拝する人も渡しを使ったことだろう。 現在の古利根橋はこの上流 100 メートル地点に昭和 33 年、永久橋で架け替えら たもの。 古利根橋 戸崎の渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 55 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 10 月 27 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 平方(彦太)の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 越谷市平方(右岸)-春日部市銚子口(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸期から昭和30 年代はじめ 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 古利根橋が出来たことにより衰退する。 現 在 に 残 る 名 残 渡船場への道はあるが、今は途中で見分けがつかなくなっている。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 平方の渡し 写真中央、渡船場への道はここから先、 見分けがつかなくなっている。 平方の渡しの上流500 メートルに地蔵坊の渡しがあった。 地蔵坊の渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 56 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 10 月 14 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 地蔵坊の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 春日部市備後東(右岸)-春日部市藤塚(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時期 明治から昭和の初めまであった。藤塚橋が出来て、やめた。 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 備後のサダさんがやっていたので「サダ舟場」ともいっていた。 舟は1 艘で備後側に係留。対岸との間にロープが張ってあった。 オーイと声をかけて舟を呼んだ。あるいは手旗を合図にしていた。 竿で操船。サダさんは川に落ちて亡くなったが、家族が引き継いだ。 現 在 に 残 る 名 残 集会所の脇を渡船場へ入っていく道が残っている。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 地蔵坊の渡し 地蔵堂 国道4 号 写真、右側の道が渡船場への入口とな っている。 国道4 号から、渡船場へ入る道の角に地蔵堂がある。地蔵坊の渡しの名の由来はこ れによると言われている。 藤塚橋

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 57 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 10 月 28 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 藤塚の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 春日部市備後東(右岸)-春日部市藤塚(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸期から昭和のはじめ 参考文献等 春日部市史、土地の古老 最盛期の様子 現 在 に 残 る 名 残 藤塚橋のたもとに渡しを営んだ家がある。更に藤塚地内には渡しをした という家がある。藤塚橋はこれらの渡しの統合の象徴である。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 下流から上流、藤塚橋を望む 藤塚の渡しは現在の藤塚橋の上流側と下流側にあった。 東武線に一ノ割駅が大正15 年に開設されると、駅と藤塚や豊野地区を結ぶ橋の 要望が強くなり、藤塚の坂巻治平を中心に「藤塚橋組合」を結成し、資金 800 円 をもって昭和のはじめに賃取橋として架けられて、渡しは廃止された。 渡しの位置は特定できなかった。 藤塚橋 上 流 と 下流に 渡しが あった

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 58 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 10 月 16 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 三蔵の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 春日部市緑町(右岸)-春日部市藤塚(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から昭和の初め。 参考文献等 土地の古老 最盛期の様子 藤塚橋が出来て衰退する。 現在に残る名残 渡し場の近くと思われる所に「川守稲荷大明神」がある。 舟運 に 関連 する 地 域の行事等 川守稲荷大明神は元は渡しを営んだ個人(?)のものであったが、 その後、旧川久保地区の18軒で管理をしていて、毎年例祭を行っ ている。霊験あらたかでこの地区から水難者は出していないという。 位置図 現況写真等 写真は川守稲荷大明神。 祠の先に古利根川の水面が見える。 川守稲荷大明神は右岸、旧川久保地区にある。霊験あらたかは広く知られて いて、地区外からも参拝者が訪れるという。 三蔵の渡しの位置は確認できなかった。 三蔵の渡し 川守稲荷大明神

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 59 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 樋堀村の渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 春日部市粕壁東(右岸)-春日部市樋堀(左岸) 河岸等の設置時期 江戸期から明治初期 参考文献等 「中川水系」 最盛期の様子 現在に残る名残 渡しに替わって造られた八幡橋は、いわば、渡しの遺伝子を持っ た橋であり、地域で大切に見守らなければならない橋である。 舟 運 に 関 連 す る 地 域の行事等 位置図 現況写真等 写真:下流左岸から八幡橋を望む 左に見える森が八幡神社 粕壁宿の下手に粕壁宿と樋堀村の間の古利根川を渡す渡しがあった。明治9年4月 14 日、渡しに替わる橋が竣工し、渡しは廃止される。 橋が出来る経緯は次の通り。 明治 8 年 10 月粕壁宿の金子岩蔵・金子市兵衛・古橋茂右衛門、樋堀村の早川小左 衛門の 4 名が自費で架橋することを県に出願した。11 月 17 日に内務卿からの許可が あり、12 月 5 日着工。長さ 24 間(約 43.2m)幅 2 間(約 3.6m)の木橋で989円 32銭を要した。橋名は橋の側の八幡社の名をとって八幡橋と命名。架設費用は橋銭 を徴収し、償却することとした。その後、修繕、大破による架け替えがあり、最終的 には明治 38 年までの徴収が許可された。その期限満了後地方税負担により自由に行 き来できるようになった。 八幡橋 樋堀村の渡し

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 60 ) 第 1 班

調 査 日 平成26 年 11 月 10 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 ガッタの渡し 河川(水路)名 一級河川大落古利根川 所 在 地 宮代町川端(右岸)-春日部市小渕?杉戸町本郷?(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時期 江戸期から昭和20 年代末頃まで。 参考文献等 春日部市史 最盛期の様子 経営は宮代側の島崎家で船賃は2銭。運行時刻は定められてなく必要に 応じて舟が出た。通勤や耕作の人も見られたが、多くは小淵の観音様へ のお参りというような所用による利用。 現 在 に 残 る 名 残 左岸には「イボとり観音」と呼ばれ、昔からイボやコブ、アザをとるご利 益のある観音信仰の霊場としての小淵山観音院があり、多くの参拝客を集 めた。渡しを利用した人も多いという。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 ガッタの渡し 写真中央にガッタの渡しがあった。 下流右岸から上流を望む。 かつて、渡しと同じ所に板橋があり、この橋が朽ちて渡しになったという。 近年までそこに橋杭が残り、それに板を架けて渡ったこともあったという。 橋の途中まで行くとガタガタするので「ガッタラ橋」と呼ばれていた。その名前 からガッタの渡しと称するようになったとも伝えられている。 ガッタの渡しは下流に小渕橋が出来て廃止される。 小渕橋

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 61 ) 第 1 班

調 査 日 平成 26 年 10 月 20 日 調 査 員 市川 大倫 河岸等の名称 十文の渡し 河川(水路)名 一級河川古隅田川 所 在 地 春日部市粕壁(右岸)-春日部市梅田(左岸) 河 岸 等 の 設 置 時期 近代(明治)? 参考文献等 春日部市史他、石碑、土地の古老 最盛期の様子 十文の渡しは菖蒲道の渡しで上流の浜川戸橋(現梅田橋)が架けられた ことにより渡しは廃止された。 現 在 に 残 る 名 残 古隅田川の左岸梅田地内の河畔に「古隅田川十匁渡し跡」の石碑がある。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図 現況写真等 十文の渡し 写真は十匁渡し跡の石碑 写真後方に十文橋が架かっている。この橋は渡しが廃止された不便を解消す るため、明治22 年、岩松初五郎が個人で木橋を架け、賃取橋にした。 橋賃壱厘は十文なので「十文橋」と呼ばれ親しまれた。 十文橋

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埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史 調査表(No.1- 65 ) 第1班

調 査 日 10月4日 調 査 員 池田秀生 河岸等の名称 船戸の渡し 河川(水路)名 びん沼川(荒川旧川) 所 在 地 さいたま市西区飯田新田―川越市萱沼 「新編武蔵風土記稿」の飯田新田の項によると、徳川家康が、川越から岩 槻へ渡る話が出ており、川越大宮間の古くからの重要な渡しだった。 参考文献等 [荒川の水運]歴史の道調査第7集 最盛期の様子 現 在 に 残 る 名 残 荒川は改修により新たな堤防と広い河川敷となり、旧来の河岸の面影がほ とんど残っていない。この渡しは旧川に位置し、昔のイメージが残ってお り、逸話に基づき「昼間の渡し」として記念碑等が整備されている。 舟 運 に 関 連 す る 地 域 の 行 事 等 位置図・現況写真等 記念碑及び説明板 船戸橋 びん沼川

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参照

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