学校教育における現代的課題 としての 「 暴力」に関する一考察
一 教育 と 「 暴力」の関係 に関する分析枠組みの比較 を中心 に‑
尾 島 卓
社 会 問題 と しての子 ども ・青 年の暴力 は,近年,新 たな局 面を迎 えてい る。本研 究 は, こ れ ら 「暴力」 が学校教育 にお ける現代 的課題 であ るこ とを,以下 の論考 を通 じて論証す る こ とを 目的 と してい る。 まず 第1に, ドイツとわが 国 におけ る理論 的枠組 みの比較検 討 を通 し て, 1990年代 までの両 国にお け る暴力把握 のあ り方 の共 通点 を明確 にす る。次 に,90年代 以降わが 国において急 速 に拡大 したサ ブ カルチ ャーの影響 と子 ども ・青年 の暴力 の関係 を検 討す る。 これ らの結果か ら, わが 国 にお ける子 ども ・青年 にお け る 「暴力」 の捉 え方 を見直 す こ とを通 して,主体形成 の新 た な疎外形態 と して暴力 を捉 え直す。
Keywords :暴力 ,現代 的課題 ,消 費文化社 会
は じめに 問題 の所在 と研究 の方法
人手 出来 る限 りの先 行研 究お よび論考 を散見 した 限 り,我 が 国 と ドイツにお け る子 ども ・青年の暴力 行為 の状 況及びその把握 の され 方には,次 の3つ の 共通点が あ る。
まず 第1は,子 ども ・青年の生活世界 にお ける暴 力 の裾野 の拡大 であ る。彼 らの暴 力現 象 を端 的 に表 現 し,報 道 レ トリック として用 い られ る統 計 資料 を 参照す る と,両 国 に共通 して,少年犯罪 は漸増傾 向
を示 してい る1'。
この ような,量の拡 大の質的転化 と して注 目され るべ き第2の特徴 が 「犯罪 の 凶悪化」 であ る。我 が 国の場 合, 1997年 (平 成9年 ) 及 び2000年 (平成 12年 ) にお きた一 連 の 「凶悪 」 少年犯 罪 は,子 ど
も ・青年 の生活世 界にお け る暴 力 の深刻 さを多 くの 人 々に印象づ けた。 また,その結 果 と して,刑罰 の 年齢引 き下 げお よび厳罰化 を争点 と した 「改正」 少 年 法 (2000年) を容 認 す る世論 が醸 成 され たの で あ る ZJ。 ドイツにお いて も, 肉体 に障害 を残す暴 力 や年 金生活者や移民 な どの弱者 を標 的 と した残忍 な 行為 に,先行世代 は奇異 さを隠 しきれない 3'。
さ らに第3の特 徴 と して は
,
「フツ ウの子 の い きな り」型暴 力が あげ られ る。土井が指摘 す る ような
「初発 の犯 行 は軽微 な もの い」 で, その後 「凶悪化」
す る とい う子 ども ・青年 の暴 力の変化 に対す る我 々 の もつ イ メー ジは,例 えばギ ムナ ジウムにお け る凄 惨 な殺 人事件5)な どが報道 され る ドイツにおいて も 過去 の もの とな りつつ あ る。
この ように新 た な局面 に突入 した彼 らの暴力 を読 み解 く枠組 み は,果 た して従来の非行 問題で用 い ら れた もので十分 な ものであ ろ うか。 これの こ とを関 心 の出発点 と して,彼 らの暴 力が学校教育の現 代 的 な課題 とな るか どうか を,本研 究 では検 討す るO な お,方法論 と して は, ドイツと日本 にお け る教育 と 暴力 との 関係 を読 み解 く枠組 みの比較 を用 いる。
第1章 1990年 代 ま で の子 ど も ・青 年 の 暴 力 の
「解 釈」 にお ける 日本 と ドイツの共通点
盈⊥節 家庭 に お け る ライ フス タ/̲ルの変化 と暴力
̲V̲)Jii鎖
ドイ ツ に お け る 暴 力 議 論 で 頻 繁 に 参 照 さ れ る Gerd‑BodoReinertとHelmutWehrの主張 で は,学 校教育 で問題 とされて きた授 業妨害が,教 師や仲 間
岡山大学教育学 部教育学講座 700‑8530 岡山市津 島中 3‑ 1‑ 1
A StudyofViorenceasPresentTopicinSchoolEducation‑ FocusofComparisonofAnalyticalFrameworksof RelationforViolenceandEducation‑
TakuOJIMA
DepartmentofSchoolStudy,FacultyofEducation,OkayamaUniversity,all‑1,Tsushima‑naka,OKayama,700‑8530
への挑発 と再定義 され,ポス トモ ダン社会の到来に 起 因す る 「集 中力及び動機付 けの低 さ」であるこの 挑発の延長において暴力が分析 されている。
とりわけ
,
「一人親家庭」
「代替家族」 などの増大 を主な特徴 とす る現代 ドイツ社会では,家族の持つ 社会化機能及び社会への仲介機関 としての潜在的機 能が破壊 された結果 として,
「暴力」が拡大 している6'。
ドイツにお けるこの ような指摘 は,89年1月 に 我が国において,その全貌が明 らかになった 「女子 高生監禁殺 人事件」の加害者少年たちの暴力 を 「家 庭の病理」と 「自己暴力的なグループへの帰属意識」
か ら解釈 しようとす る,我が国における枠組み とも 一致す る7)。 なぜ な ら,加害者少年たちは様 々な形 での 「父親不在」家庭 に育 っていると指摘 されてい るか らだ。 自宅 を被害女性の監禁場所 として提供 し た加害者少年Cの家庭 の場合
,
「決 め られた仕事 を していない」 ことを根拠 に,少年Cは,父親か ら度 重 なる暴力 を受けている。 また,犯行の中心 となっ た少年Aにいたっては,子育てを一 人で背負い込む 母親の体罰 と過保護の 「二面性」 にさいなまれ続 け ていた8'。この ように,事実上家族関係が不安定 な家庭で育 った加害者少年4人には,Reinertらが指摘す るよ うな 「暴力 に平気 になる
。 )
」習慣 と否定的な自己感 情が形成 され,彼 らのグループ内お よび被害者女性 に対す る暴行へ と暴力が連鎖 していった と分析す る ことがで きるのである。豊国 とした暴力の拡大
「学歴社会の勝者」 を望 む親世代 と 「大多数の一 員」 を望む子 ども世代のあいだの世代間葛藤の先鋭 化が進 むポス トモ ダ ン社会 を迎 えた90年代 ドイツ 社会では,人間関係や社会的規範の伝統か らの解放 と自己暴力的な仲間づ くりが同時 に進行す ると言わ れてい る⊥o)。青年 による 「結社 (clique)
l l
)」が増 加す る ドイツの状況は,様 々な理 由か ら高校 を 「中 退」 し,中学校卒業以降の人生設計 を困難 にさせ ら れた 「女子高生監禁殺人事件」の加害者 グループを 連想 さる。なぜ な ら, この ような結社 に属 し家族関係 に背 を 向ける子 ども ・青年が
,
「極端 なス リル」 を介 した「自立」す なわち, 自分の限界 を何 らかの形 で越 え ることで 「自分つ くり」 を行 うとい う ドイツの分析 枠組みが,被害者女性の死亡前 日の暴力 を紡沸 させ るか らだ。
「 A
君やB君 に,"なぜ,お まえ殴 らないんだ 'と 言われるのが怖 くて,女子高生 を殴ったんです」2 ‑ 」
と当時 を振 り返 る加害者少年の コメ ン トか らは, こ こでの暴力が,行為の限界を試みるだけの ものだ と い うことが読み取 れる
。
「ウケ」 をね らう加害者少 年B,C,Dに も リー ダーの立場 を誇示す る少年Aにとって も,被害者女性 は意味ある他者 とは受け取 られていないo
Gerd‑BodoReinertとHelmutWehrが指摘す るよ うに, 自分の生命や感情 ・身体 に対す るリア リテ ィ の喪失,及び,本来であれば文脈 をもって受 け取 ら れるはずの意識外の世界に対す る創造的興味 を失 っ てい く過程 を通 じて,意識化されない暴力水準の低下 が生 じる事例を して,この事件は把握されうるのだ。
第3節 子 ども ・青年の暴力水準の低下 と社会変化 の Tlil:lil
本章第 2節及び第 3節で描写 した 2つの要 因を更 に促進す るものが,ポス トモ ダン社会の特徴 として の レジャー化すなわち消費文化社会化であるO レジ ャー化が進行す るなかで,青年 ・子 どもの 「心理的 なエネルギーは、家族や学校 といった社会化エー ジ ェン トか ら同世代 とともに過 ごす余暇時間へ と向 き を変える。楽 しさとにぎやか さが 人生の中心 テーマ となるのである。13)」
青年中心主義 (Jungendzentrismus)と命名 され る社 会か ら自らを絶縁す るこの ような90年代 ドイ ツにおける青年の ラフスタイルは,音楽や宗教 など の 「系」の細分化 される活動分野で出会 う仲 間以外 の例 えば両親な ど身近 な他者にす ら自分 にとっての 意味 を兄いださせ ない態度 をつ くりだす。
「女子高生監禁殺 人事件」の加害少年 たちがそ う であって ように, とりわけ就労 による社会参加が困 難 となるポス トモ ダン社会では,多かれ少 なかれ,
自らの成長後の世界 に対す る見通 しをもてない状況 に子 ども ・若者 は追い込 まれる。 ドイツに しろ我が 国に しろ幼 い頃か ら自由な消 費者 と して育つ 彼 ら に,マスメデ ィアや商品を介 して提供 されるもの 一 例 えば上述の加害少年たちにとってはポルノだった のだが 1̀1)‑は,生 産 的活動へ と刺激す る活性化 さ れた陶酔ではな く,単純 な陶酔の繰 り返 しを引 き起 こす興奮で しかない。
ドイツにおいては外 国人居住区に向かって焼夷剤 を投 げることは 「焼却処分 (Abfackeln)」 と呼ばれ ている15'。学校 と社会か ら落ちこぼされ 「時間の過 ご し方がわか らず、その受け皿がポルノだった」加 害者少年の とった非倫理 的な行為 は
,
「マキ ャベ リ‑ 144I
の ように目的主義的に計算す ることが,情緒的に他 者 と共同で考 えることや一緒 に感 じることを埋め合 わせ る16、」 とい う ドイツの議論 における指摘 を坊沸 させるものである。
我が国の凄惨 な事件の加害少年たちは
,
「限界 を 超 えようとす る自分」 と 「意識外 の世界に対す る興 味のなさ」 とい う極端 にバ ランスの悪い現実世界の 住人だった。周辺にいる隣人 としての意味 を兄いだ せ ないがゆえに,彼 らは41日間に も及ぶ監禁の あ いだに被害者女性 (当時17歳) に対 し精神 的肉体 的な暴力を与えることがで きたのであろう。第2章 若者 を取 り囲 む文化状況の変化 を視点 と し た 「暴力」解釈
塵̲土̲盈 1990年代 以 降魁 LL監左1 盤腰姐 遠点
Gerd‑BodoReinertとHelmutWehrの ドイツにお ける暴力の解釈 は,E・フロムの人格理論 とりわけ 慢性的な退屈 と密の発生過程 を土台 としている。 こ の解釈の枠組みに,我が国の凄惨 な少年犯罪の解釈 を重ね合わせてみる と,ポス トモ ダン社会において この発生過程 をさらに加速 させ るものは, メデ ィア や商品であることが浮 き彫 りとなった。 これ らを介 して提供 される 「興奮」は, フロム理論で人間を生 産的活動 に活性化 させ る と把握 されている 「刺激」
にとって変わることが ないため,ニコチ ンと同様 に, 退屈 と密 は若者 に慢性 的なもの となる。
ドイツと比較 した場合,上で指摘 したような子 ど も ・青年の人格形成 に与 えるメデ ィアや商品の影響 は,我が国において以下に挙 げた三つの根拠か ら改 めて注 目を払 うべ きである。
① メデ ィア ・商品が単 に 「興奮」 だけでな く,坐 き方の 「マニュアル」を も流通 している。
② メディア ・商品は子 ども ・青年の逃避場所 とし ての仲 間づ くりの起点 とな りなが らも,他方, そこで他者 を消去す る内容 と仕組みを有 してい る。
③ メデ ィア ・商品を介 して成立す る 「親密圏」が, 肉体的 ・精神的 「限界」の確認 を行 う場 となる 一一一万で,その限界 をも超 えて 「強い 自分」像 を 追求するところとなること。
我が国において生産 され流通す る商品及びメディ アの うち,子 ども ・青年に対 して絶大 な影響力 をも つ ものが
,
「サ ブカルチ ャー」 だ と言 われ てい る。 本章以下の節では, この具体的事例 としての 「オウ ム真理教事件」 における暴力の素描 を通 して上記①〜③ までの根拠 について詳論 を展開 したい。
監且節 文化状況 の変化 による子 ど紅 ・若者の 「生 きゴ ̲ら呈上旦生 成
まず
,
「オ ウム真理教」 と,かつて我が国を震掘 させた集団 リンチ殺 人事件 を引 き起 こした連合赤軍 の共通点 を探 り出す ことで,前節であげた① の問題 について検討 したい。連 合赤軍 に集い後 に被害者 となった 「女性兵士
」
の悲劇 を大塚 は,次 の ように分析す る
。
「彼女 たち (小 島和子 ら被害者女性 :執筆者注)は,大衆 とし ての女性たちが 「わた し」 という輪郭 を描 き出す手 だて を 『思想』で はな く,
『消費』 に求めてい く時 代‑の過渡期 にあって,その欲望 に忠実であった故 に殺 され たので あ る。 17)」
「総括 」 の名 目で リン チ ・殺 人の指示 を出 した主犯格の永 田洋子 らも総 じ て,消費す ることで 自己実現 を可能 とす るサブカル チ ャーにとらわれていたのであ り,彼女 らを隔てて いた ものは,サブカルチ ャー的尺度である 「かわい い」をめ ぐる,統一の困難 な思考 と感覚の壁 (矛盾) だったのだ と,大塚 は指摘す る1 8 ) 0
「思想」集 団 を内部か ら瓦解 させ,或 いはかつて の学生運動の主体 によって担 われるサブカルチ ャー は,80年代以 降我が 国おいて全面展 開 し
,
「マ ルク ス主義 をは じめ とす る 『思想』が機能 しな くなった 時代 に,オカル トやニューアカ的な<知 >,アニメ や コミックが もた らした世界像 といった 「サブカル チ ャー」が,それ を補 うように代行す る。 19)」 よう になる。大塚 は,オ ウム真理教男性幹部 と自らを同一視す ることでオウム真理教 ‑<おた く>の連合赤軍 と形 容す るが, ここでは,彼が注 目す る女性幹部の生 き 方か ら,現代の子 ども ・若者 に共通す る 「生 きづ ら さ」 を掘 り起 こしてみたい。確かに,彼女たちが生 きる世界では
,
『自分探 し』が職業選択 や商品購入 のキ ャッチ コピー となる時代であった。 しか しなが ら 「究極の布施」による 「宗教的自己実現」を求めた オウム真理教女性幹部たちは,消費社会における自由 か らは疎外 されてもなお,サブカルチャーに依拠する ことで しか 自己実現 で きない存在 だったのである。この ように見る と,オウム真理教 とい う我が国に 独 自な現象は,サブカルチ ャーが浸透す る社会にお いて,それを通 して 自己実現す る困難 さの二面性 を あわせ もつ ものだった と総括で きるのである。
第3節二
細
動薩 と二子と も̲二̲童生型 暴力水準の低下オウム真理教 とい う1990年 代の社 会現 象 は,70 年代以 降の我が国における暴力 ー今 の ところ青年 に 限定 は されるが ‑と密接 に結 び付 くだけでな く,現 在の子 ども ・青年の生 き方 をも象徴 している と考 え られ る。 この点 に注 目す ることで,本章第1節② と
③の根拠 につ いて述べてみたい。
「オ ウムは 『性 な き世界』 として こそ意味 を持 っ ていた こ とは確認 してお くべ きだ。20'」 この ように 述べ る大塚 は,女性 幹部が求めた 「性 か らの解放」
を 「男性 とい う他者の消去」 と特徴づ ける21ノ. この 心性 は 一見 「おた く」文化 を媒介 とした 自閉的集団 に固有 な ものである と考え られが ちであるが,中西 は
,
「変身願望」 を伴 った 「他者 の観 念的消 失」 が サ ブ カルチ ャーを媒介 してマ ス化 ・普遍化す ること こそを,オウム現象か ら読み取 とるべ きである と主 張す る。「連合赤軍事件」の分析 で用 いた 「かわいい」, ま たは 「面 白い」 ・ 「や さ しい」 な どサブ カルチ ャー によって一般化 され大衆化 された ものの割 り切 り方 は
,
「こ とが らの リア リテ ィと直面 した ときに生 じ る摩擦 ,葛藤,攻撃 を回避 で きる2 2 )
」枠組 み となる。これ らの枠組 みが, とりわけ人間関係 において用い られ ることに よって,そ こでの 自他 関係 に二つの変 化 を生 じさせ る。
第一 の変化 は
,
「他者の観念 的消失」 であ るLlす なわち,
「かわ いい」 とい う言葉 で人 間関係の 円滑 さをつ くりだ した り, えげつ ない下 ネ タを 「お もし ろさ」 として共有す ることによって,す ぐ隣 にいる 他者の実存 的意味 を当事者の内面か ら消去す ること を意味す る。人間関係 における葛藤や対立 を回避す るマニ ュアル化 されたこの ような 「気遣 い」 は.親 しい もの同士の間柄 で も若者 を襲 う 「押 しつ けが ま しさ」 を中和 させ るか らだOさらに,存在 としての他者や関係 にお ける 「押 し つ けが ま しさ」 か ら悩 まされ ないため には
,
「他者 に動か されることのない強い私の追求」が必要 とな る。 オウム真理教 においてマニュアル化 されたい く つかの 「修行」 は,その結果到達す る ところのお手 軽 な 「変身」 によって,この ような願望 を容易 に叶 える もの として多 くの若者 に受 け入 れ られ うる もの だったのである231。「何 になるのか, なれ るのかわか らない 『わた し
』
は さ しあた り他者 に 『や さ しく』 してお くことが 必 要であ り,可能であった.
2 1 )
」 この ように, 中西 に よって分析 され る1980年 代 の 『よい子 』 た ちの幸 福 追 求 は, オ ウム真 理教 事 件 が 発 覚 す る こ とで ,林 よ しの り) に代表 される 「弱 きを見せぬ ように振 る舞 う」強 さは, ここで さらに 「徹底 的に自分 を殺 す」暴力‑ と発展 してい くのである25㌧,
第3章 学校教育の現代的課題 と しての子 ども ・青 年の 「暴力」
塵̲L節 重大重任複 の対応 に見るサブカルチ ャーの̲ 位置づ け
前章で取 り上 げた,サブカルチ ャーの影響 は,近 年の子 ども ・青年の暴力事件 において も注 目を集め ているC,この こ とは,末だ記憶 に新 しい 「佐世保 同 級生殺害事件」の家庭裁判所決定要 旨に も現 れてい る。 ここで は
,
「女児が 『バ トルロワイヤ ル』 な ど ホ ラー小説 に影響 され,
「攻撃 的 な 自我 を肥大 させ ていた」 ことを事件の間接要 因 とした うえで,直接 には女児がA子 さん とのあいだで交換 ノー トや イ ン ター ネ ッ トをめ ぐるい さかいがあった ことが本件の 動機 だ とい う。 これ もまた外形 的事実 としては間違 いない26)」 と事件把握 におけるサ ブカルチ ャーの位 置づ けが指摘 されている。また,佐世保市教育委員会の 『佐世保市立大久保 小学校 児童殺 人事件 にかかわ る調査報告書』 (第 二 次) の 「緊 急 に取 り組 み たい施 策」 にお い て は,
「子 どもた ちの心 の常態 を的確 に把握 す る システム の確立」と 「子 どもたちの心 に届 く道徳教育の推進」
に並記す る形 で
,
「イ ンター ネ ッ トモ ラル ・マナー 向上対策」が打 ち出 されている27)。本論の 「は じめ に」 で挙 げたギムナ ジウム殺人事件後 に暴力的なゲ ームや ビデオの発売禁止が話題 となる ドイツよ りは 穏 やかな記述 ではあるが,イ ンター ネ ッ ト上の子 ど も ・青年向け文化 を有害祝 し,そ こか ら子 どもたち を 「隔離」す る対抗策であることにはかわ りがない。しか しなが ら,この ような緊急避難的な措置 には, 二重 の誤謬が含 まれてい る と断言せ ざるを得 ない。
先ず 第一 に挙 げ られ る ものが,我が国におけるサブ カルチ ャーが もつ子 ども ・青年文化 に対す る影響力 の強 さの過小評価 である。仮 にこの誤謬 を正 しなが らも,なおかつ,サ ブカルチ ャーか らの隔離 を対抗i'̀ 策 とす ることは,第 2の誤 りを呼 び込む。す なわち, それは, 子ども ・青年の暴力の根元的原因を,常 に 学校教育の 「外側」でだけ解釈する誤 りなのである。
‑ 146‑
乱ご飽
̲ ̲ ̲
̲推力iJ』の1二ども 二占L.iF‑I)生活̲吐脚 におけ る̲1kl化塾ノJq施用
すで に第2章第2節 で は,1970年代 に発生 した 青年たちの暴力事件が,1980年代 以 降わが国 にお いて拡大す る消費文化社会の影響下 にあったことを 述べた。 この ように消 費文化社会において, とりわ け子 ども ・青年向けに生産 ・流通そ して消 費 される 文化商品 ‑サブカルチャーは,着実 に彼 らの生活世 界に影響 を与えて きた。
しか しなが ら, この特異 な文化状況が先行世代か ら注 目され る ようになるのは,1990年代 後半以 降 の ことである。 この時期か ら,子 ども ・若者の生活 世界 と文化の関連 を検討 して きた中西 の主張 では, 消費文化 ‑サブカルチ ャーは,以下の三つの側面 を 見誤ると理解 ・了解 しに くい ものである洲O
まず,第1の特徴 は 「大人」の文化か らの独 自性 である。呼称 としては 「サブ」を冠せ られているが, 例 えば,子 ども ・青年 に人気 の週刊漫画雑誌の発行 部数や扱 われているモチー フをな どを鑑 みた場合, その量 と質は,お となの 「メイン」 カルチ ャーを凌 駕す る。 また,今 日において これ ら 「日本独 自」の 文化 ブラン ド例 えばアニメな どは,貴重な輸出商品 にまでなっている。危険な 「おた く」文化 という偏 見 を持 たれがちではあるが,伝統文化 と並 んで我が 国の独 自文化 として発展 しているところに第2の特 徴がある。
最後に特徴 として挙 げなければな らない ことは, このサ ブカルチ ャーが子 ども ・若者 の 「共通教養」
となっていることである。中西 によれば,人付 き合 いの上でマニュアル としてサブカルチ ャーは 「ひ と まずお さえてお くべ き」ものであるが,また同時に, 自分 らしさをつ くる商品は
.
「系」が違 えば相互 に 理解 し合えないほ ど多様化 しているのである。この ように見 ると,子 ども ・若者向け文化 に対 し て,佐世保事件で一定の対抗策 を検討 した世代をは じめ とす る先行世代 は,多かれ少なかれ 「誤解」 を 持 ってい ることが明 らかになる。「サブカルチ ャー の世界,つ ま り青少年 に とっての常 識の世 界では, 大人 (親,教師)が無知で 「子 ども」が 「ものを知 っている」 とい う逆転現象 とい う事態が大規模 に生 じる。学校現場の教職員が 日々経験す るこの関係 は, 経験者が後継世代 に知識や経験 を伝 えるとい う文化 の流れ を くつがえす新 しい事態 なのである。20J」 こ の ようなサブカルチ ャーの 「威力」が,欧米諸国 よ りも我が国においてはるかに強い と主張す る中西の 指摘 に我 々は注意 を払 わなければな らないのではな いだろうか。
盈且盟̲皇 投教育 の空洞化の問鷹を塵i も遡
上 上こ
の子 ども ・青垂 の
暴力
本論 で扱 った ドイツにお ける暴力解釈 において, マ スメデ ィアの影響 は,ある程度妥当に評価 されて いる。消費文化社会 を形成す るコマーシャリズムが セ ックス と暴力の象徴 的表現であ り, この ような単 純 な刺激 (衝動) を繰 り返すだけのテ レビが, ここ で は暴力 の根 本要 因の ひ とつ として取 り上 げ られ る。ポス トモ ダ ン社会 を前提 とす る ドイツの議論 に おいて, したが って
,
「と りわけコマー シャリズム 以来のテ レビが暴力 を繰 り返 し流布 しているとい う 事実は,家族の社会化機能の弱 ま りない しは子 ども と青年の暴力的な社会化 を一緒 に見通 さなければな らない30)
」 とい う指摘 か らは,暴力‑の対抗策が メ デ ィアの隔離 として帰結す ることも予想 される。しか しなが ら,対抗策 までを含めた 「暴力」の解 釈枠組み を ドイツと日本で比較 した場合, この よう
な対抗策は,学校 の外側 に暴力の原因の所在 を求め ることにはかわ りが ない。世界で希 に見 るほどサブ カルチ ャーの威力が発展 した我が国における暴力 を め ぐる議論 は,学校教育の在 り方その ものを問 う限
りにおいて ドイツのそれ よ りも前進 している。
佐世保事件で加害者女児が影響 を受けた とされる
『バ トルロワイヤ ル』の影響 につ いて,浜 田は次 の ように述べ ているo 「い まの子 どもにとって,学校 の場 は<私が生 きる> とい うその文字通 りの意味 で, リア リテ ィのある場 にな りえているのか。佐世 保事件の女児が 『バ トル ・ロワイヤル』のバーチ ャ ルな世界に囚われ,攻撃的な自我 を肥大 させ たのだ とすれ ば,そ れ は彼 女 に とって学校 の場 が 『バ ト ル ・ロワイヤ ル』 と同等のバーチ ャルな場で しかな かった ことを物語 っていないだろうか。あ るいは, そ こまで言わない まで も,学校がバーチ ャルな世界 に対抗で きるだけの リア リテ ィをもちえていなかっ たのではないか
。弓 1 ' 」
オウム真理教 に傾倒 した若者たちが 「他者の観念 的消失」 と 「変身願望」 を求めたことを,上述の指 摘 は連想 させ る。マニュアル化 された 「修行」 にこ の二つ を求めた彼 らと同様 に,加害女児 もまた,大 人か ら期待 され る80年代 までの成功者 としての ラ イフコースか らの解放 を願い, また競争主義社会を 相対化する といった二重の意味で,子 ども ・青年を 解放す るサブカルチ ャーに魅せ られていったのだ。
しか しなが ら,実際には他者 との接触 を回避 で き ない現実 に対 して
,
「弱み を見せ ない ように振 る舞 う強 さ」 を求 めた結果 は,
『バ トルロワイヤル』の 世界に自らをキャラクター化す るもので しかなかった。 「自分 の感情す ら自分 自身の もの とは実感 で き ない32)」 程 , 自分 自身 を 「殺 す」 行 為 ,す なわ ち
「脱主体化」現 象が ,実際 に小学校 の教育現場 に ま で拡大 していることを, この事件 は物語 ってい るの である。
あわ りに一本論 にお ける到達点 と今後の課題
「私 は,余 り者 も嫌 だけ ど, グループは もっ と嫌 だ。で きた瞬間か ら繕 わなければいけない,不毛 な ものだか ら。 中学校 の頃,話 に詰 まって 目を泳がせ て,つ まらない話題 に しがみつ いて,そ してなん と か盛 り上 げ ようと,けたた ま しく笑い声 をあげてい る時 なんかは,授業の中休 みの十分 間が永遠 に思 え た。 33
'
」綿谷 りさが小説 の中で措 く教室風景 は,多 くの若者 に共感 をえるものである。 ここで醸成 され る他者 と自己 との関係 に,学校外 の消 費文化社 会の 影響が重 なることで,我が 国における子 ども ・青年 の暴力 は,拡大 を範囲 し水準 を低 下 させ ている。この ように考 える と,子 ども ・青年 の暴力 は, ド イツにおける解釈 で見 られるような予 防 ・防止可能 な 「対象」 と してではな く,学校教育 において生 じ る不可避 な 「前提」 と して把握 され るべ きであ る。
学校教育 にお ける現代的な課題 の克服 には,拡大す る消 費文化社会 との関係 において
,
「主体」 の場 と しての学校教育の新 たなイメー ジを構築す る必要が あろ う。<註及 び参考 ・引用文献 >
1)以 下参照 した文献 にある警察統計 に よる と, ド イ ツで は例 えば14歳 以 下 の被 疑 者 少 年 数 は, 88,276人 (1993年) か ら145,843人 (2000年) に増加 している。 また,土井 隆義 は
『 <
非行少 年 >の消 滅 一個性 神話 と少年 犯 罪 』 (信 山社 , 2003年) にお い て,統 計 の妥 当性 につ いて疑 問 を呈 しなが らも,近年の少年犯罪者数の増加 を指摘 してい る。Vgl.LotharR.Martin/Peter Martin:GewaltinSchuleundErziehung.Bad Heilbmlm.,2003,S.8.2)土井,同上書, 3頁以下参照
3)Vgl.Gerd‑BodoReinert/HelmutWehr:Gewalt undGewaltpraventioninderSchule.InSieg血.ied Bauerle/HelgardMoll‑Strobel/Gerd‑Bodo Reinert/HelmutWehr:GewaltinderSchule.
Donauwo叫 2.Aulg.2COl.S.68.
4)土井,前掲著,28頁
5) ここで引 き合 い に出 した事 件 は,2002年4月 26日に旧東 ドイ ツ領 のエ ア フル トで発 生 した ギムナ ジウムでの銃乱射事件であ る。教 師お よ び生徒16人 が死 亡 し,犯 人 は逮捕 直後 自殺 し た。犯 人の家族が事件後 に被害者 とその遺族 に 対 して発表 した謝罪では,事件直前 まで 「ご く 普 通 の家 庭 」 だ った と記 され てい た とされ る (http://m 2.dokkyo.ac.jp/〜lessOO67/jijiO2̲05.h tmlを参照)
6)vgl.ebanda.S.76f.
7)ここで取 り上 げた 「女子高生監禁殺人事件」は, 被疑者 少年 (当時16‑ 18歳)が1998年3月 に 逮捕 され るこ とで明るみ に出た,凄惨 な事件 で あ る。41日間 に わ た り被 害 者 を監 禁 し, 強 姦 ・殺 人のはてに遺体 を ドラム缶 にコンク リー ト詰め して遺棄 した少年たちの家庭環境 や人 間 関係 な どにつ いては,横川和男 ・保坂渉 『かげ ろ うの家 』 (共 同通 信 社,1990年 ) を参 照 せ よ。
8) 同上書,22頁 ない しは113頁以降 を参照。
9)vgl.ebanda.S.79f. 10)vgl.ebanda.S.77.
ll)Ebanda.S.77.この組織 の代 表 的 な もの と して
「ネオナチ」 を挙 げることがで きる。
12)前掲著
,
『かげろうの家』,212頁 13)Ebanda.S.78.14)前掲著
,
『かげろうの家』,274頁。15)Vgl.ebanda.S.86.
16)Ebanda.
17)大塚英志
『
「彼 女 た ち」 の連合赤 軍 サ ブ カル チ ャー と民主主義』角川書店,2001年,34頁 18)上記 資料 の 中で大塚 は,
「植垣 の 『かわい子 ちゃん』 とい う大槻‑ の第一 印象 は重要 で あ る。
何故 な ら彼女が 「総括」 され る根拠 は 「かわい 子 ち ゃん」 であ るこ とにみいだ され るか らだ」
と指摘 している。
19)同上書,92頁 20)同上書,105頁 21)同上,109頁以 降参照
22)中西新 太郎
「
「よい子」 の幸福論 の破綻 「自 分探 し」か ら 「他者消去」‑」亀 山純生 ・後藤 道夫 ・中西新太郎 ・中村行秀 『離脱願望 唯物 論 で読 むオ ウムの物 語』労働旬報社,1996年, 40頁。23)中西新太郎 『若者たちに何が起 こっているのか.□ 花伝社,2004年,314‑328頁参照。 なお,80 年代 中期以 降わが 国のニュー ミュー ジック界で
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『MyRevolutionJlやZard『負 けないで』な どは, 本文で指摘 した 「わた し」 の強 さを希求す る自 分づ くりを象徴 する ものだ と考 え られる。
24)同上,333頁 25)同上,285頁。
26)浜 田寿美男 『子 どもの リア リテ ィ 学校 のバー チ ャ リテ ィ』岩波書店,2005年,52頁 よ り重
引。
27)朝 日新 聞西 部本社編著
『 1
1歳 の衝動 佐 世保同級生殺害事件』雲母書房,2005年,176頁参
照
つ いては,中西新太郎編著 『子 どものサブカル チ ャー大研 究 』 (旬報 社,1997年 ) な どを参
照 。
29)中西新太郎 『若者たちに何が起 こっているのか
』
花伝社,2004年,117頁 30)Vgl.ebanda.S.89, 31)浜 田,前掲著,100頁 32)同上書,285頁
33)綿 谷 りさ 『蹴 りたい背 中』河 出書房,2003年, 16頁