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比較法綿|研究(国十舘大学)第24号(2001)1-29

《論説》

地価問題と北海道の税務行政組織(8)

西野敞雄

目次

はじめに

第一章札幌・函館・根室税務管理局の時代 一租税徴収の制度の整備の試み 二税務署の前身の時代 三税務署の発足

H日清戦争後の租税をめぐる事`肩 口税務署設置構想

に)税務署の発足(以下17号)

四税務署の時代

H明治32.33年税制改革とその対応 口営業税問題と税務施行上の諸施策 曰地租問題と北海道の特例(以上18号)

(四)税務管理局から税務監督局へ

-税務署全廃論と北海道の住民感‘清一 A北海道の住民感情と参政権

B税務署全廃論と行政整理 田税務管理局時代の経済と税務行政

一まとめにかえて-(以上19号)

第二章税務監督局の時代(そのD H明治37年改正までの時代 口明治38年改正(第二次増税)

ロ日露戦後の税制整理

(1)税法審査委員会の発足(以上20号)

(2)税法審査委員会の審査

(3)税法整理審査会の審査

(4)宅地地価修正(その1)

①税収の状況と地租の状況

②税法審査委員会での地租論議

(2)

③税法整理案審査会での地租論議

④宅地地価修正法案(第一次)

⑤宅地地価修正法案(第二次・第三次)

⑥宅地地価修正法案(第四次)

⑦地租条例の改正

(四)明治41年.43年の税制整理

(1)明治41年の税制整理

(2)明治43年の税制整理(以上,21号)

田宅地地価修正(その2)

(六)塩業整理

(1)たばこ専売

(2)塩専売と塩田整理 化)宅地価修正をめぐる新聞報道

(ノO北海道における開拓と地租を中心とする税務行政(以上,22号)

第三章地価問題とその後の税務監督局 一税務監督局の時代(そのn-

H明治から大正へ

(。臨時制度整理局の税制整理案(以上,23号)

曰税制整理の実行と第一次世界大戦(そのI)(本号)

(四)税制整理の実行と第一次世界大戦(そのⅡ)(以下,次号)

田地価問題の発生と展開

㈹土地賃貸価格調査 化)臨時財政経済調査会

(ノリ大正時代の税務行政の要約 第四章昭和時代前期の税務監督局

一税務監督局の時代(そのm-

第五章税務局の時代 第六章国税局の時代 第七章まとめ

に)税制整理の実行と第一次世界大戦(そのI)

(1)明治という輝かしい時代が終り,「大正」(

(1)明治という輝かしい時代が終り,|大正」という一つの時代が始まっ た。この「大正」の始まりの時期は,内外ともに多事多難な時期でもあった。

ヨーロッパではブルガリア・セルビア・ギリシアの地域で大正元年 (1912)10月第1次バルカン戦争がおこり,大正2年(1913)6月には第2 次バルカン戦争がおこった。ヨーロッパの火薬庫バルカンはくすぶりつづけ

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地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)3

ている。また,イギリスでも,大正2年にはアイルランド自治法案について 下院可決・上院否決をくりかえした。さらに,大正2年5月には外国人土地 所有禁止法をカリフォルニア州議会が可決し,同年6月には南ア連邦も,ア ジア人の入国や移住の自由を制限する移民制限法を制定した。この事件に対 し移民によって開拓中の地域である北海道は,官民をあげて大わぎした。隣 国である中国に対し日本は干渉を続けた。大正2年7月に第2革命が始まり,

日本人殺害事件がおきる中で9月には第2革命が失敗し,蓑世凱が大統領に 選出された。その後も,中国に激動が続き,日本はますます従来以上に大陸 という泥沼に足を入れていく。こうした全世界の激動は,北海道の人々を強 く刺戟し,全国紙はもちろん「北海タイムス」(三大ブロック紙の一つであ る。)も,詳細に報道をくりかえしている。

国内においても,大正元年末になると,上原陸相が増師問題で内閣の方針 に反対して辞表を提出し,これを受けて陸軍が後任を出さなかったため,第 2次西園寺内閣は総辞職し,第3次桂内閣が成立したことから,憲政擁護大 会が全国で盛んに開催されることになる(内閣は成立前後にわたって長期の 議会停会をも行っている。)。この一連の騒しい状況の中で第3次桂内閣カゴ大(2)

正2年2月総辞職し,薩摩出身で海軍の重鎮である山本権兵衛を首班とする 内閣が成立する。このどさくさの中で,ごく一部の税制改正が行われた(前 述)。この山本権兵術内閣は,首相・外相・陸相・外相を除く全閣僚が政友 会出身者であったにもかかわらず,妥協と判断した人々は政友会から脱退す

る。山本権兵衛内閣は,さらに激動を迎える。

こうした状況の中で,税制改正は,あまり議論にのぼらなかったようにみ られる。大正2年の改正では,法人所得の課税において,会社を大小に区分 するという重要な改正がなされているにもかかわらずである。たしかに,厳 しい財政事情から減税財源は乏しく,国民的関心の高かった営業税法改正案 は成立しなかった。このため,従来からの三税廃止運動に火をつける結果と なった。「政友」(政友会の機関誌)も税制改正に相当量にわたって言及して いる。折からわきあがった憲法擁護運動の言己事をよく読むと,その後から三

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税廃止問題がにじみ出ているのであり,両者の間には国民の意識に訴えるも のが含まれていたのではあるまいか。少くとも,いわゆる「大正政変」にお いては,戦争中の非常特別税が塩専売や酒税の増徴として〈みこまれ国民の 生活に影響を与えていたこと,さらには長引く不況に対する一般国民の不満(4)

が,第3次桂内閣と軍閥に向けられたともいえよう。いったん火のついた民 衆(一般国民)の不満は,さらに激化した三税廃止運動と倒閣運動に向かつ たのである。そこで,この時期は,一種のタックス・レポノレトの時代ともい(5)

えよう。第二次世界大戦前の時期において,国民の反対運動により内閣が倒 れた唯一の事例であるばかりでなく,大正期を通じて営業税などの廃税が政 治の大きなテーマとなりつづけ,やがては,営業税から営業収益税への改正 に結びついたからである。

そのほか,営業税の影に全国的には隠れてはいるが,凶作の影響,長引く 不況の影響も大きい。そのほかにも,基幹税であった地租がその座を譲って いく中で,土地の評価(=課税標準額の算定)が法定地価として固定され,

時代の変化に対応できない状況に陥っている(もちろん,若干の修正作業は 行なわれているが,時代の変化に対応できていない。)中で,時代の変化に 対応できなくなっていた好例が,北海道であった。北海道では前述したよう に,(イ)拓殖財源が国税であり,地租収入に関心を常にもたざるを得ず,(ロ)開 拓の進行に伴って地価が上昇を続け,小樽や角田村のように全国でも有数の 高地価地帯を生じており,㈹地租の免税期限も満期となりつつあり地租のそ の後に重大関心を寄せざるを得ず,目その多くの有力地主が角田村周辺に集 中し,しかも政友会,道庁等の政官界の関係者であったことを忘れてはなら ない。「栗山町史」によれば,角田村を含む一帯には,鳩山農場(鳩山ポロ

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夫)・堀田農場・揚地農場(揚地定基)・実吉農場・伊藤農場(伊藤広樹)・

高木農場(高木兼寛)など多くの農場があり,また札幌農科大学の農場も存 在していたことがわかる。これらの農場主は,すべて明治政府の高官や有力 者といってよい。しかも,「地価問題」における納税者となる。こういう有 力者が多いこともあり,しかも有力者の協力のもと,栗山町は模範農村とし

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地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)5

て,開発が順調にすすめられて,大正2年には角田村の村税調定見込額は2 万1831円余にも達していた。が,大正2年には大冷害・凶作を被むり,議員 提案により「村税軽減について建議」が村会に提出され,採択される。これ(7)

により,村の基本財産から9953円余が大正4年度から大正13年度にかけてと りくずされたのである。いかに往時の冷害凶作が角田村の村民に与えた影響 が大きかったのかを示している。角田村は基金の積立があったので対応でき たカゴ,対応できなかった他の地域はもっと大変であった。その凶作が一応し(8)

のげたにしても,欧州戦舌Lの影響がこれらの村々をやがて襲うことになり,(9)

税務行政に多大の影響を及ぼすことになる。

(2)大正2年の東北・北海道および東北の大凶作は,北海道で9割が減収,

青森県では7割が減収したといわれ,救済を要する者は937万人に達したと いわれる。この状況に鑑み,内努金より50万円カゴ下賜された。しかし,救済(1o)

事業のための起債について内務・大蔵両省はなかなか認可を与えず,1月26 日になってようやく認可された。さらには「地租免税ノ件」と題する請願も 出されるほどであった。しかし,大正3年1月19日,政府は「災害と地租免 除二関スル法律案」を提出して対応した(なお,1月12日桜島が大噴火し,

九州と陸つづきとなっている)。これは,水害以外の災害又は天候不順のた め収穫皆無となった場合に地租年賦延納であったのを,北海道又は府県の全 部又は-部にわたる災害又は天候不良により収穫皆無となった場合にも申請 により免除しようとするものであった。なお同日提出された大正3年度予算 案では,拓殖費は大幅に要求額が間I減され,大正2年度予算を下回っている(11)

ほかに,行政整理による前年度以前のくりのべも含まれており,複雑な処理 になっている。けれども,北海道の有租別面積および地価は増加高騰をつづ け,田の上等についての土地賃貸標準は角田村の9円60銭であり,宅地下等(12)

の賃貸標準(恵庭村大字漁)を上回っており,角田村は模範村でありつづけ ている。

1月5曰に憲政擁護会(代表尾崎行雄)が減税宣言を発表し,営業税・

織物消費税・通行税の三税の廃止を決議し,つづく1月14日には全国三税廃

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止大会が開かれ,廃減税運動が全国に広がった。「北海タイムス」は,政友 会も減税実行者であり,外交問題と切り離して,いたずらに減税額の多少を 云為すべきでないとのべているが,これに対し,首相は,1月21日に貴族院(13)

において,税制整理は調査の結果整理を要すると認めるものは相当の計画を たてて議会に提出すると回答した。(14)

ところが,とんでもない外電がとびこんできたのである。シーメンスエン ドシュッケルト会社東京支店より書類窃取の廉をもって徴役刑を申渡された 者が,尋問の際に会社が注文をとらんがために日本海軍の高級将校に贈賄し た旨を裁半Iで申し立てたとの報道がなされた。これ以後,召換されたり収監(15)

される者があいつぎ,呉鎮守府長官まで逮捕された。そして,議会でも政府 がさかんに攻撃されることになったし,さらに,その後,戦艦金剛発注にか らむヴィッカース社による1曽賄事件も明らかになった。そして「帝国海軍を(16)

して国民疑惑の府たらしめ帝国の威信を中外に失墜したるはその責政府たり 政府は宣く自ら虚決すへし」との決議カゴ出されたが,ようやく否決されたよ(17)

うな状況で,税制改正の議論は営業税法を中心とするものにとどまった。シ ーメンス事件は,その後も議会の中心問題となりつづけた。その後,予算案 について両院協議会が開会された。この両院協議会案を3月23日に貴族院は 原内相に反発して否決し,3月24日に山本内閣は総辞職する。

第31回帝国議会(大正2年12月24曰召集,会期90日)(なお,第30回帝国 議会は大正元年12月24日召集,会期90曰,大正2年3月27曰閉院式)に,政 府提出された税制改正案は,営業税法改正案・相続税法改正案・私立学校及 公益法人ノ用地免租二関スル法律案・災害地地租免除法案・改租延納年賦金 免除二関スル法律案・取引所税法改正案である。このうち,災害地地租免除 法案は,北海道及び東北の大凶作をふまえたものである。それまで政府は水 害についてのみ地租の免除を認め,それ以外の災害については延期のみ認め たのにすぎなかったが,議員提出されてきプこものを,とりこんだものである。

(18)

その意味で同じ扱いをしようというものであり,政府は方針を大転換した (大正3年3月28日法律第1号)。これに対して改租延納年賦金免除二関スル

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地Mi問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)7

法律案は,明治初年の改租において改租が遅れた850万円について50年の延 納をしてきたところ,改租が増税となるものがあり,又それでも約2千円残 るが,2千円をさらに20年も延納をつづけるとなると事務整理上頻雑である として,未だ徴収せざるものは免除する(納税者の申請を要件としない。)(19)

ものである。政府が,厳しい財政状況の中で,何故急に方針変更をしたのか,

理由は不明である(大正3年2月20日法律第2号)が,「明治大正財政史」

第6巻794頁は,官民共に不便であること及災害地租免除法との権衡をあげ ている。

これに対し,議員提出の税関係の法律案は,営業税法廃止案(2グループ 提出)・通行税法廃止案(2グループ提出)・塩専売法廃止案・織物消費税法 廃止案・石消費税法廃止案のほか,前述の災害地免租二関スル法律案及地租 条例改正案(税率を引下げるもの)・関税定率法改正案(外米及大麦の関税 率を引下げ)・登録税法改正案(登録税法における課税標準が不相当な場合 の便宜を図るもの。前年に衆議院を修正のうえ通過したもの)・地租条例改 正案(第3期の納期を1カ月ずらす)・酒造税法改正案(第4期の納期を1 カ月ずらすもの)・国税徴収法改正案(地租に対しても徴収手数料を交付す ることにして農民の休養を図ろうとするもの)と,実に多様の税制改正案が 当初提出されている。こうしてみると,営業税法等の廃止が実は大問題とな っていることが明らかである。

政府が第31回帝国議会に提出した営業税法改正案は,臨時制度整理局の成 案を土台に,第30回帝国議会の衆議院修正の施行期日を大正4年1月1日に 延長したものにすぎない。前述したように,課税廃止法案が2件存在したの で,衆議院の審議では相当の修正が加えられ,廃止法案は採決されなかった。

衆議院では,課税最低限が一般に現行の倍額に引上げられ,また,営業税調 査委員会が設置されるよう改正された。さらに同一区域内にある土地建物に して直接又は間接に営業に使用しないものは営業に使用しないものとして賃 貸価格に計算しないこととするほか,従業者を課税標準とするものも軽減さ れ,物品販売業について適用すべき税率もいくつかの業種で低い方に改めら

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れるなど,多くの項目にわたって改めている。それでもなお,貴族院は,字(20)

句修正のほか,製造業の資本金額が2年継続して増加した場合は前々年に対 する増加額を控除し負担を軽減することとされた。この貴族院の修正を衆議 院は受けいれ,大正3年3月31日法律第20号として公布された。なお,貴族 院は,「政府ハ尚ホ篇ト調査ヲ遂ゲ財政上法ノ改正ヲ加へ得ルノ場合二於テ 更二廟議ヲ蓋サレムコトヲ望ム」との決議カゴなされている。今後ともなお,(21)

営業税法の議論が続くことを示しているとともに,護憲運動の激化を配慮し たといえよう。

日露戦争当時には反対がほとんどなく成立した相続税ではあったが,その 後,家族制度に馳背するという批判,また,家督相続した小資産家にとって 負担が酷ではないかという批判が高まってきた。そこで,政府として,その ような問題をかかえている相続税が多額となれば歳入の上から容易でないが,

今日は未だ収入が少額であるので今曰は適当な時機であるとして,相続税の 減税を提案してきた。これに対して,守屋此助代議」三は,大臣は世論を重ん

(22)

じたというが,世論は相続税についてはあまり言及してはおらず,むしろ通 行税や織物消費税の方が世論は強いのではないかと批判している。政府カヌ提(23)

案した相続税の改正案は,(イ)家督相続の場合の課税最低限を2000円に倍増し たうえ,課税価格が3000円以下なるときは1000円・5000円以下なるときは 500円を課税価格より控除する,(ロ)家督相続及遺産相続の税率を大幅に引下 げようというものであった。この改正については,両院が原案のまま可決し,

大正3年3月30曰法律第22号として公布された。

取引所税についても,議会は異議なく成立して大正3年3月31日法律第23 号として公布された。臨時制度整理局の整理案を基礎とした改正であるカメ,

(24)

定期取引のみ課税幅を縮小するとともに取引所税の税率を万分の2ないし5 と引下げたが,営業所にかかる営業税を100分の15に引上げている。この改 正の特色は,いわゆる呑行為を取引税の脱税とみなして数重なる取締りを行 うことにしたことにより収入額を維持する内容となったことである。この取 引所税法の改正について,新聞報道でふれるところはない。これに対し,織

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地{illi問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)9

物7肖費税及び通行税については衆議院は可決したものの,貴族院が否決した(25)

ことについて,新聞は言及している。

基幹的地位にあった地租についても,あわただしい中で,いくつか改正が 成立した。前述の議員提出された地租軽減は,田畑の地租率を100分の4.7か ら4へ(北海道の田畑は100分の3.4を3へ)大正3年9月1曰より軽減しよ うとするものであったが,地租徴収交付金の可決もあり,田畑租率を若干引 下げを抑え100分の4.5(北海道は100分の3.2)と衆議院で修正され,成立し た(大正3年3月31日法律第18号)。地租税率はその後大正年間かオフりがな(26)

い。

また,政府は,運河用地を新たに免租地に指定し,官有水面の埋立・干拓 に新聞免租年期を付与する法律案を提出したが,これも大正3年3月31日法

(27)(28)

律第19号として成立する。この改正は,刹卜地整理法の改正と連動する。

また,地租徴収交付金を引上げる国税徴収法改正案は大正3年3月28日法 律第12号として公布されている。さらには,大嘗祭齋田の土地(悠起齋田が 愛知県・主基齋田が香川県)について大正3年分及び4年分を免租する法律 案が政府提出され,何ら問題となることなく大正3年3月31曰法律第17号及 12月29曰法律第45号として公布された。このほか,所得税については議員提 出されたものの,成立せず,変更はなかった。

こうして,多くの税制関係法律案が,護憲運動及廃減税運動の中で成立し た。原内相が妥協的であったということもあるのだろうが,国民の意識や活 動が大きく影響したことはまちがいがない。

この第31回帝国議会の時期を通じて,営業税の動きについて,詳細に報道 をつづけている。しかし,廃税案が全敗になると,人気とりは凡へてあえな き最後をとげたと第三者的に報じている。けれども,2月16曰における堀切(30)

善兵衛議員の議会演説を2日間にわたって詳しく報じているなど,まだ,続 けようという姿勢カゴみられる。

(31)

この冷静さの裏には,北海道経営問答がある。北海道の開拓が停帯する中 で,台湾は1方里に3万円を投じているのに北海道は300円にすぎず北海道

(10)

10

を軽視しているのではないかと代議士が質問しているのに対し,自然増収は 増減あり如何ともしがたいが閑却するつもりはないと政府委員は答弁してい

(32)る。ただし,原内相Iよ「15ヶ年を通し予定額なりとし之れを基礎とした。而

して算定し-定額の支出を為すを得ん」と,一定の理解を示している。そし て,会期中の3月27曰には,衆議院で拓殖促進建議がなされた。この建議で は大正4年度より十箇年を期して15カ年計画を完成するに足るべき継続的に 確定支出をしてほしい旨,さらに拓殖会社すなわち官民に資本を融通する機 関をつくってほしい旨が織りこまれている。それだけ拓殖にかける議会の熱(33)

意は高いのである。

それでも,凶作による被害をこおむつた農地にかかる地租の免除法が成立 するだけの被害を北海道は,蒙ったことは事実である。そこで単に凶作を救 済するだけではなく,積極的に何をどのように耕作するかを研究し,あわせ て農家の災禍を未然に防止する対策をとるよう主張するようになってきた。(34)

とはいえ,財政事情が厳しく,長官さえも前年並みを維持するのがやつとと いう覚悟をしている状況では,長官自らが矢表にたつ状況に入っていたので ある。「」上海タイムス」から,拓殖の更始一新を期する上に進んで画策し新

(35)

聞から全面的努力を求められても,長官も対応の余地がなかったであろう。

その中で,拓殖費の増加要求だけが増えていったのである。

(3)第31回帝国議会がシーメンス事件と廃減税運動に揺れる中で,大正3 年2月末,突如札幌税務監督局長が交代する。

「」上海タイムス」によると,蓮見義隆局長は,大正2年6月熊本税務監督(36)

局長より転任された人にして就任8カ月を出ずして,今回丸亀税務監督局長 に栄転し,乙竹仲太氏が後任になると報ずる゜それ以上の異動事情にふれて いない。 (37)

そこで,「大蔵省人名録」を調べると,蓮見局長は,東京帝大(政治)卒 で,明治38年4月赤穂塩務局長となり,明治40年5月広島税務監督局長(広 島県・山口県を管轄),明治42年10月熊本税務監督局長(福岡県・熊本県・

大分県を管轄。明治42年11月から長崎県及佐賀県も管轄)を経て札幌税務監

(11)

地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)11

督局長に就任している。札幌税務監督局長からは丸亀税務監督局長(四国4 県を管轄)に転じ,大正4年7月名古屋税務監督局長(愛知県・静岡県・三 重県・岐阜県を管轄。現代の名古屋国税局の管轄と同じ),大正6年3月に 2度目の熊本税務監督局長(ただし,沖縄県・鹿児島県・宮崎県を含む全九 州を管轄。現代の福岡国税局プラス熊本国税局プラス沖縄国税事務所に相 当)となり,大正12年3月に天下りをしている。蓮見局長は,東京帝大(政 治)出身で現場の税務監督局長を長年つとめた人物であるが,札幌時代は

「北海タイムス」にはその動静がみられない。ただ,蓮見局長の送別会出席 者の氏名が全員「北海タイムス」に報じられており,温厚な人物だったよう である。

後任となった乙竹仲太局長は,明治34年弁護士判検事文官高等試験に優等 の成績をおさめた人物で,明治40年11月松江税務監督局長(明治42年11月広 島税務監督局に吸収。島根・鳥取両県を担当)をはじめた。明治42年11月長 野税務監督局長(長野・新潟両県を担当。大正2年6月名古屋税務監督局に 統合),大正2年1月鹿児島税務監督局長(鹿児島・宮崎・沖縄県を担当。

大正2年6月熊本税務監督局に統合),大正2年6月一時期大阪税務監督局 税務監督官(この時の大阪税務監督局は近畿の2府4県のほか北陸3県を管 轄。この人事も異例)を経て,札幌税務監督局長となった人物である。札幌 の勤務は大正5年12月までで,丸亀税務監督局長(四国4県を担当。現代の 高松国税局長に相当)に転じ(本人は不満な異動だったようである。)。大正 7年2月北海道拓殖銀行取締役に天下っている。この北海道拓殖銀行勤務も 大正13年9月までで,その後は消息不明である。恵まれた官歴であるとは言 い難い。この乙竹局長の時代に本稿のテーマである「地価問題」がピークを 迎える。

この乙竹局長が札幌税務監督局を離れた後,小島誠局長が継ぐ。小島局長 は,「地価問題」を解決するため黒田英雄大蔵省参事官(当時。後,大蔵省 秘書課長及主税局長をつとめる。)が約1カ月来道して「地価問題」の関係 者と接触し現地調査を行う中で,札幌税務監督局長を約4年つとめる。小島

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12

局長は,いわばわきおこった「地価問題」の火消し役をつとめたことになる。

その後,小島局長は,大正9年10月仙台税務監督局長(東北6県担当。現代 の仙台国税局長に同じ)に転じる。その後,小島局長は,大正12年4月広島 税務監督局長(中国5県のほか,大正13年12月から愛媛県も担当。現代の広 島国税局より広い。),大正14年6月大阪税務監督局長(近畿2府4県のほか,

大正13年12月から香川・徳島・高知の3県も担当。現代の大阪国税局のほか 高松国税局の大半を含む。),昭和4年7月東京税務監督局長(東京・神奈 川・千葉・山梨・埼玉・群馬・栃木・茨城を担当。現代の東京国税局および 関東信越国税局の半分を含む。)と栄進する。そして,昭和6年2月から昭 和14年2月まで朝鮮銀行監事をつとめる。このように,小島局長は税務畑で は大栄進をとげている。

これに対し,乙竹局長は,地租課税及営業税の適正化,税負担の適正化を めざし着実に歩をすすめたが,むくわれなかったことになる。あたかも,北 海道では免租期間が満了し原則通りに課税をしなければならない土地が増加 し,他方,日本も激動期を迎えた時期に,乙竹局長は,たまたま札幌税務監 督局長をつとめ,小島局長とは対照的な役人生活を送ったことになる。なお,

高文組で,当時,第8代札幌税務署長を勤めていた人物がいるが,その人物 もめぐまれていない。

乙竹局長を迎えた北海道内の税務署は,納税者との間にトラブルをかかえ ていた。たとえば,根室税務署では,営業税及所得税について昨年より税額 が2倍ないし3倍になったのは不平があるとして,納税者の代表5人が約2 時間にわたって税務署と交渉を行っている。$内税者の代表は,時機によりて(38)

は大蔵省にまで具陳する覚,唐といっており,「北海タイムス」のいう「|凍情」

との表現よりは団体交渉に近かったであろう。この時の代表者は,「地価問 題」が空知税務署だけでなく根室税務署でも発生した際にも,登場する。

他方,この時の根室税務署長は,明治42年6月網走税務署長を経て,明治 45年5月から大正5年10月まで根室税務署長をつとめており,事件解決後退 職したものと思われる。なお,乙竹局長のもとで「地価問題」の当事者であ

(13)

地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)13

った空知税務署長は,乙竹局長着任時は帯広税務署長をつとめていたが,大 正3年11月に空知税務署長に転じている。(39)

函館税務署管内でも災害凶作のため地租収入は3割減少し,寿都税務署管 内でも大正3年5月の大火の影響から営業税の減損更定請求の発生が多数見 込まれていた。(40)

こうした状況の中で,大正3年7月1日から3日まで,札幌税務監督局管 内の税務署長会議が開催された。この会議が,乙竹局長にとっての札幌初の 全管税務署長会議であろう。「北海タイムス」は,平常は全管税務署長会議 の内容を詳しくは報道しないカゴ,この回は実に詳しく報道している。(41)

乙竹局長は,冒頭の訓示の中で,(イ)税務執行に係る負担の公平並に誤びゅ うなからしめることを指示し,(ロ)改正法令の施行,(ハ)酒税の不正増量の取締 り,(二)徴収成績の改善につとめること,㈹税務官吏の修養の酒養につとめる こと,(へ)地方経済事情の考厳考察の実施についても指示し,さらに(ト)地租事 務に関する取扱いを精確にするとともに,土地丈量に関する智識を養成する よう訓示している。地租事務を適正に行うことが重要であると訓示している のであり,それも訓示の中の個別事項のトップであり,重要であることを示

している。

全管税務署長会議では,8項目の諮問事項のうち,地租関係は実に4項目 と半分を占め,しかも最初の諮問事項となっている。すなわち,「①地租事 務取扱の状況,②区町村に於ける土地台帳及地租名寄帳整理に関する意見,

③災害地地租免除に関する調査の状況,⑤土地所得の基本並に標準調査状 況」が該当する(マルの中の数字は諮問の''1Bi序)。それだけ,地租が重大な 執行上の問題となっていることを示している。このほかは,④所得税調査の 状況,⑥改正営業税法の施行準備,⑦売薬税法の改正準備と取締り,⑧改正 取引所税法施行準備であり,一般の所得税実務やその他の実務は,あまり重 点がおかれていなかったことを示している。少くとも,北海道では,地租事 務が最大の課題であり,しかも免租期間が近く満了することを札幌税務監督 局は局をあげて身まがえ備えていたことがうかがわれる。

(14)

14

なお,全管税務署長会議に先だって,乙竹局長は,樺太に副監督官を派遣 し,調査をさせている。この出張について,一般・世人は樺太に近い将来にお

(42)

いて税法を施行せんとする準備ととっており,樺太をどう扱うか,樺太庁を つくるか否かなど,論議をしていたことは事実である。これに対し,乙竹局 長は,わが領土に帰したとはいえ,俄かに税法を施行するのは殖民改策上大 いに研究を要する問題であり,今回の出張は税法上参考の資料に供するため の調査にしかすぎないと答えている。しかし,少くとも何年も前から調査を 重ねていることは,地租・所得税・消費税として例が多数存在することから みても自然な準備なのである。本省においても詮議に上ったことは聞いたこ とがないと乙竹局長は答えているが,納得できるものではない(樺太をどう するかについての記事は前から散見している。その中に税も言及している例

もある)。

(4)第31回帝国議会で貴族院が海軍の拡張費の予算を否定したため,大正 3年3月24日,ついに山本内閣は総辞職する(もっとも,「衆議院手帖」は 4月16日に辞職と扱う。その曰は,後任発令曰である)。

後任選出は,混乱する。山本内閣を倒した貴族院側は大山巌をかつぎだそ うとした。元老会議は,松方正義,ついで貴族院議長の徳川家達を指名した が,両者は辞退した。つぎに清浦奎吾が指名され組閣に入ったが,海軍(海 相候補の加藤友三郎)が建艦計画の補充費の実現を条件としたため,清浦内 閣は流産する。最後に残ったのが,1907年(明治40年)に憲政本党の党首の 座を去っていた大隈重信に4月13日になって組閣命令がだされた。国民党代 議士会が党員を入閣させないと決議する中で,ようやく,大隈内閣は,同志 会(加藤高明外相)および中正会(尾|崎行雄法相)を与党として発足する。

こうしたもめごとは新聞紙上で,おもしるおかしく報じられている。

こうした状況の中で,軍部の力は強くなった。6月23日,大隈首相は「防 務会議」を設置する旨の議会演説を行う。6月27日には臨時閣議で海軍補充 策が決定される。もっとも,増師が一年延期されることが一時内定したこと もあった。年末の第35回帝国議会で,2個師団の増設が政友会の多数Iこよつ

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地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)15

て否決されると,大隈首相は解散に打ってでる。

大正4年3月の第12回総選挙で政友会は前回の209人から108人へと,大幅 に当選者数を減らし政友会は大敗する。北海道でも,多くの政友会の代議士 が落選した。大隈首相の与党は大勝し,2個師団の増設が可決されることと なるが,この総選挙が大隈ブームの中で行われ,演説会が多数開催された。

これに対し,政友会も演説会で対抗したことは新聞で報道されている。これ(43)

によって,陸軍の師団は増加し,海軍の建艦も認められたが,すでに「憲政 の神様」といわれていた尾崎行雄も賛成に回っていた。その転換の背景には,

第一次世界大戦が勃発し,日英同盟を中心とする外交を脱皮しようとする動 きカゴ存在していたといわれる。せっかく,総選挙に大勝した大隈内閣ではあ(44)

ったが,大浦内相の収賄事件に苦しむことになる。他方,北海道は政友会の 大地盤であったことから,「北海タイムス」は政府に批判的になっていく。

大隈内閣が軍備増強について方針変更ともいう路線をとったことの背景に は,いうまでもなく,第一次世界大戦の勃発がある。もともと,くすぶって いたセルビアにおいて,大正3年(1914)6月28日,オーストリアの皇太子 が暗殺される。7月28日,オーストリアはセルビアに宣戦布告し,戦端がヨ ーロッパ全域に広がり,8月4日にはイギリスはドイツに宣戦する。当初,

日本では,戦争が長期化するとは思われておらず,かえって戦争終結後には 列強の間で曰本カヌ孤立することへの懸念も強かった。株価も8月3日に暴落(45)

し,12月まで低落傾向をたどっている。

大戦の勃発を天佑と考え,大陸進出意欲を露わにするものがあったとはい え,それらの全てが参戦を意図していたわけではない。

大正3年8月7日になって,英国駐曰大使は,極東水域におけるドイツ軍 艦の捜索および撃破について曰本海軍の出動を求めてきた。加藤外相は,同 日に緊急閣議を求め,翌日には元老を含めた閣議をおしきり,参戦を決定す る。閣議決定後,加藤外相がイギリスに渡した覚え書は,交戦国となれば曰 本の行動はイギリスの要請の範囲に限定することは不可能であるとして,全 面参戦の意欲を示したため,イギリスは要請を取り消すが,日本が強く反対

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16

した。このため,イギリスは結局日本の参戦を承認した。イギリスは,戦闘 区域を限定しようとしたが,日英での交渉がすすまないうちに,大正3年8 月15曰になって,ドイツに対し最後通牒がだされる。そのドイツに対する最 後通牒には,「膠州湾租借地全部を支那国に還付する目的を以て」日本に引 渡すことの要求が含まれていた。8月23日にはドイツに宣戦布告し,27曰に は膠州湾を封鎖し,9月2日に陸軍第18師団が山東半島北岸より上陸を開始 し,青島より先に山東鉄道全線を占領した(中国と取り決めた交戦区域外で あり中立違反であった)。ついで行われた本来の攻略目標である青島は11月 7日占領され,1週間ほどで攻略が終る。青島攻略にあたった第18師団の撤 退後も,青島守備兵約7000人が残留し,山東鉄道も占領し続けた。この山東 半島制圧は,ワシントン条約の締結にともない山東半島が中国に還付される 大正11年(1922)まで続く。山東占領とあわせ,10月14日には赤道以北のド イツ領南洋諸島を占領する。この結果,アメリカのフィリッピン駐在軍と日(46)

本は直接接することになる。11月15日には,イギリスは,先ほどの行動と異 なり曰本艦隊のダーダネルス海峡派遣を申し入れてきたが,日本はいったん 拒絶している(結局,大正6年2月になってイギリスの要請で地中海へ艦隊

を派遣している。)。

こうして第一次薑世界大戦への参加を拡大する中で,日本が中国に対し,明 確な禾I権要求を行う。いわゆる「21カ条要求」である。

(47)

大正3年12月3日,加藤外相は日置公使に対し「対支政策に関する件」と 題する訓令とともに要求案を渡している。その案は第1号は山東問題処分に 関する4項目第2号は満蒙における曰本の地位確認に関する7項目第3 号は漢冶葬公司に関する2項目,第4号は中国領土保全に関する1項目,第

5号は日本人顧問招聰等に関する7項目の21項目からなっている。このうち,

第1号から第4号は要求(demand)であり条約案の形式をとっているが,

第5号は希望条項(request)と表現され,多岐にわたる内容がもりこまれ

ている。

この第5号が中国側を刺戟し,紛糾し,第5号においては交渉そのものに

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地l1li問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)17

応じないという態度を示し,会談も決裂し,アメリカも強硬な態度を示すよ(48)

うになる。「北海タイムス」は逐一報道を続けているが,不満足,弱腰との ニュアンスをみせている。第5号は結局最後通牒カコら除かれ,大正4年5月(49)

25曰それぞれの問題ごとに条約および交換公文が調印され,5月8曰に批准 書が交換される。が,アメリカから,すでに調印されまたは今後締結される 条約等で,中国の領土保全や門戸開放に反するものは承認しないという覚書 を5月11日に日本は受取っている。

2'力条問題が後の曰中問題に重大な影響を及ぼしたが,曰本イギリス等は 哀世凱を皇帝にしようとする運動にも帝制を延期するよう勧告を行っている。

このような経過は,中国の国内情勢に混乱をもたらしている。こうした混乱 に乗じて利益を得ようとする志向が政党政治家にもみられるようになる中で,

税制についての議論は,転換をみせる。第一次世界大戦への参戦により,行 政及財政整理によって得た財産も前年度剰余金とともに戦費に充当され,租 税軽減の計画も打切られた。営業税の全廃をめざして全国商業会議所を中心 に組織された大日本商工協会も,挙国一致の実をあげんがために廃減税の運 動を中止し,表面的には廃減税運動は沈静イヒする。爾後も帝国議会には地(50)

租・営業税・織物消費税等の廃減税案がくりかえし議員提出されても,こと ごとく議員提出案は否決され,あるいは審議未了となる。その理由として,

「明治大正財政史」は,「一般の関心は既にこの問題を離れ」とし,また,大 日本商工協会も挙国一致の実をあげんがために反対運動を中止したとしてお り,一連の動きの中にあることを示唆する。たしかに,国をあげて第一次世 界大戦にとりくんでおり,第一次世界大戦のための対策が最優先課題であっ たが,廃滅税問題への関心がなくなったわけではない。政友会は,なお廃減 税問題をテーマとして講演会を行っており,また,議員提出案があるという ことは,それだけ国民の関心が従来にも比して強いことを示している。

「北海タイムス」によると,第31回帝国議会が3月26日に終了した後も,

税制改正の動きが報じられている。大正3年は,第32回(5月4日から5月 8曰),第33回(6月20日から29日),第34回(9月3日から9月10日)と3

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地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)19

悲願であったのは当然であろう。だからこそ,拓殖計画の進行が「北海タイ ムス」の大きな関心であり,拓殖計画の停滞が国家の危機であると感じられ ていた。そうした動きを「」上海タイムス」は大正3年末にとりまとめている。(58)

この中で,計画を13項目に限定する理由もないのに予定年度割合額の約3 分の1を削られ,長官が三拝九拝しても僅かに認められたのにすぎず,今後 残る1o年間も予定額が支出される保証もなく,道民が一団とならない限り政 府の眼をさますことはできないとする。そして,拓殖'5カ年計画を廃止,改 修あるいは新計画をたてるのも方策であり,必要な経費を要求すべきである とする。しかし,この時期には,次年度(大正4年度)の予算編成の大詰に きており,事実上勝負がついていた。

この拓殖計画に大きな影響を及ぼした問題は各国の戦時財政の情報であり,

世界的な動乱が北海道にいかなる影響を及ぼすかである。「北海タイムス」

は,ロシアの財政は改革をすませ剰余金を多額にもっているのに対し,ドイ ツは当座の資金しかなく結局ロシアがドイツに勝禾lIするであろうが,我国が(59)

胄島を占領しても戦線は今後むしろ拡大するので剰余金を流用するのは却っ て危険であると}旨摘している。(60)

この戦乱が北海道に対し及ぼす原料や機械確保の困難(たとえば綿花や鉱 業用の機械)が指摘され,単純な輸出の増加を喜べないということが示され ている。単純にはうかれていない。(61)

この状況の中で,札幌税務監督局長がらみの記事がではじめる。地価の最 高最低地力Xどこか,営業税の後期の収入がそれであるが,そこには角田村が(62)

登場してこないが,凶作が地価に反映したものと考えられる。

このほか,年末にかけて米価対策が大問題となり(米騒動の前段階),政 府が対策を迫られる中で,増師問題を政府は強行しようとする。

(5)大正3年(1912)12月5日,第35回帝国議会が召集され,2個師団の 増設案が議会に提出される。少数与党であった大隈内閣の提出した2個師団 増設案が多数を占める政友会によって否決されると,12月25日に予定のごと

<衆議院カゴ解散される。

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大隈内閣は,大隈ブームを利用して,列車が停車するごとに大隈総理が演 説をし,また大隈伯後援会を中心とする支持者が各地で演説会を行い,これ に対して政友会もさかんに演説会を行った。すなわち大隈人気に便乗した選 挙といわれ,大隈伯後援会がそれを組織的かつ大々的に全国遊説にすすめた もので,それに対抗して政友会も,演説会を地盤であった福岡や北海道で行 ったことが報道されている。両者の演説会を荷なった人々は,普通選挙をめ ざす人々でもあり,構造的な変化力xみられるといわれても仕方ない。(64)

しかし,この選挙では大金の金が動き,買収供応が盛んに行われたといわ れるほか,また,政府の干渉も激しく,「憲政の汚辱」と「北海タイムス」

も非難している。その干渉について辣腕をふるった大浦兼武内務大臣カゴ,与

(65)

党系候補者の立候補取り下げにからむ収賄及び政友会系代議士を増師に賛成 させるため行ったとされる買収について告発された。この事件が大隈内閣を ゆすぶり,事後の政局をゆさぶる。大隈内相は,大正4年7月29日ついに辞 表を提出する。内務大臣の辞職をめぐって内閣総辞職論もあり紛糾を重ねた 結果,いったん内閣総辞職をする。大隈重信に大命が再び下り,再度大隈内 閣が8月10日組織されるが,加藤外相・若槻蔵相は留任せず,大隈内閣の性 格は大I扇にかわったといわれる。

(66)

大正3年から4年にかけて,国内では当初は米価を安定させることと,選 挙のことに議会の関心が集った。その中で,政府は平均15~16円の米価を維 持しようと米券の操作という対策を講じているが「」上海タイムス」は,姑息(67)

劣等の調節策と批判し,5月末にはもう13円程度に下っているから調節をや めるのは矛盾すると批半Iしている。すなわち,昨年12円台で調節をはじめた(68)

ときには15円台までになれば調節の要なしとしているので,現在13円台であ り調節をすべきであると「北海タイムス」が主張するのに対し,政府はほと んど騰貴していないから調節の必要はないとする。このやりとりは,勅令第 2号をみる限り,価格操作の目標額もねらいも書かれておらず,政府の裁量 に全てがまかされた白紙委任規定の解釈論争にすぎない。総選挙が3月25日 に修了するや否や調節をやめようとしたことから,-昨年来の凶作にくるし

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地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)21

んだ人々に不満をよびおこしたらしい。財政事情もあるし,もともと積極的 に米価操作をして米価を引き下げようとする意思がなかった。むしろ,後か らみる限り下落を防ごうとしている。とすれば,換言すれば米価を市場にま かせるのでなく,下止まりさせようとする地主サイドの要求に沿った勅令で あったとすれば,当然の結果であろう。米価低下を阻止するための措置であ(69)

るとすれば,当然13円台なら政府は米価調節をする必要はなかったし,2か 月にわたって20万石を買入れても価格下落抑止の効果がなかったので,これ 以上続ける必要はないということになろう。こうしたネライのずれから,や りとりがみられる。この年は,9月23日に東京期米相場が暴落したあと米価 は上昇に転じた。そこであらためて米価調節調査会令が10月7曰に公布され たから,前の勅令は地主対策であったことは明かである。なお,大正4年12 月4曰になり,東京様式市場が暴騰,いわゆる「大戦景気」が始まった。,

それまでは物価は下落,停滞傾向にあった。

一方,政府は,この頃は対支21カ条の大づめにあり,中国が日本の要求を のんだのは5月9日である。6月8日には,衆議院が選挙干渉などに関する 内閣不信任決議案で紛糾し,翌日には大隈内閣の予算外支出について貴族院(70)

から警告つきで事後承諾をようやく得た。さらには,懸案の2個師団増設 費.軍艦新造費.航路補助費などを含む大正4年度追加予算も6月21曰に公 布されるなど,難問が解決しつつあった。しかし,台湾では約2500人が参加 した抗曰蜂起が7月から10カ月にわたっておきた。第一次・世界大戦も5月7 日に英客船が独潜水艦に撃沈され(この事件が翌年の米参戦に結びつく),

また,イタリアが5月23日にオーストリアに参戦し,アラビアのロレンスが 中東で活動するなど,宣戦布告が各国間でつづき,戦局は拡大していた。し かし,日本周辺では大正4年については落ちついており,むしろ,対中国へ

(71)

の輸出が,日本の外交による排曰運動の高まりにより減少することのおそれ の方カゴ強くなっていた。

(72)

その間にかかわらず,北海道では地価調査がすすみつつあり,また減税問 題の関心が強くなっていたことは,「北海タイムス」が税に関して多くの記

(22)

22

事を載せていたことからもうかがうことができる。

たとえば,「」上海タイムス」は,「何故に減税を断行せざるや」の連載の中

(72J

で同志会がかって約束していた廃減税を内閣を構成した今実行すべきであり,

廃減税も可能であると主張している。さらに,大正4年5月においても,3 年度は1500万円以上の増収があり大正5年度には2千万円の自然増加があり 今こそ減税すべきであると主張している。政友会地盤であった」上海道の動き(73)

を受けて,他の地域でも同じような動きがあったと思われる。政友会の代議 士会は,国債整理基金の減額を地租及営業税の軽減にあてる旨の法律案を提 出することを決議したが,対華外交に関する内閣弾劾決議案(6月3日上 程.否決).選挙干渉などに関する内閣不信任決議案(6月8曰上程・否決)

と議会が紛糾したため廃減税が十分に審議されなかった。「明治大正財政史」

がいうように,単純に議論がされずにおわったわけではない。

こういう減税論議がおきたときには,これまでも述べてきたように,行政 改革カゴ論議されてきた。今回も,営業整理を行うと,若槻蔵相は述べている。(74)

若槻蔵相は,3年5月の地方長官会議にて訓示したように官業にして民業に 適するものはなるべく民業に移すべく,官業整理委員会は官業整理の大方針 を決定し此の方針に基づき各省に於て具体的調査を行い整理事項を決定する と述べ,調査を終了したものは直ちに実行に着手するとしていた。この委員 会の委員は6月11日に任命されたが,政府の言行は常に-致せず,政綱も一 片の誠意も見られず,今までの事跡にてらせば監視することが必要であると して,楽観視していない。案じられるように,「近代日本総合年表」(岩波書(75)

店刊)にもとりあげられず,大正5年2月には官営八幡製鉄所の拡張が議決 され,大正5年4月には大蔵省銀行局が発足するなど,成果をあげていない。

結局,大蔵関係の専売・造幣・印刷も変更がなく,官営鉄道も広軌化問題が わきあがるなど,むしろ官営拡人の方向に議論が向っていた。

こうした状況下で,札幌税務監督局では大正3年度は,大正2年度に比し 収入歩合が向上し,97.5%を示して,やや良好の成績を示している。角田村 を含む空知税務署{よ100%の収入を示しており,凶作の影響はみられない。

(76)

(23)

地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)23

しかし,営業税については北海道においても税務署との間で各地でトラブ ルが生じている。たとえば小樽では,凶作と大戦の影響を理由として建物賃 貸価格を下げるとともに,営業に関係を有するものは賃貸価格算定の対象か ら除くよう陳情がなされている。このことは,ネし幌でもみられているが,こ(77)

こでも内地に比して高いのではないかと批半Iされている。納税者側は通常の(78)

土地建物価格を適用すべき状況にないと主張している。こうした状況にかん がみ,たとえば,上川税務署では調定額は前年に比し減少しているが,他も 同様の状況と考えられる。こうした状況があったであろうカゴ,税務監督局の(79)

責任者は,浴場便所は営業税に関係がないとはいえないが,独立の隠居部屋,

倉庫間貸等よりは徴収せず従前と同じにする旨税務署に通達したと述べてい(80)

る。この扱いは,営業税税法の改正をうけたものであり,改正された法律は 現行実務とほぼ一致しているものの改正されたことから,本当に寛大になっ たのか納税者が不信をもったものであろう。こうした不満をふまえ乙竹局長 は,「」上海タイムス」上で,2回にわたって述べている。この中で,乙竹局(81)

長は,営業税の負担減のため監理委員会の議を経て改正となったものであり,

物品販売等においては,負担は大幅に軽減されており,また金銭貸付等では 負担の軽減はないとしている。各業種毎に解説しているものの,業者側は納 得せず,当局者の常識的判断と権力範囲における公平的見なおしをくりかえ

し求めつづけている。(82)

他方,地租についても,静かな動きがみられる。大正4年’月1日現在の 本道地価カヌ調査され,その最高最低地が2月に発表された。それによれば,(83)

田は渡島郡大野村が最高であり,宅地は小樽が最高であった。その宅地の地 価は全国七位になっていた。そのうちの標準地は,田の上等が角田村,畑の 上等が三笠山村,宅地の上等が小樽であり,米価下落の影響はなかったこと があきらかとなっている。とはいえ,政友会系の農政研究会は,地租軽減を

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めさ、し大活動を始めつつあった。

その中で,国有未開地処分法により開墾免租年期地に編入されるものが明 らかになってくる。明治44年には9,572,518町歩の総面積のうち835,159町歩

(24)

24

(8分7厘)にすぎなかったが,大正4年には総面積1,876,865町歩(1割9 分6厘)にまで達した。そして,有租地にあっては開墾年限地の年期満了有 租地となったものは,明治44年には60,289町歩(6厘3毛)にすぎなかった のに,大正4年には254,116町歩(2分6厘)となり,4倍強の伸びとなっ

(85)た。こうなると,税務当局としても何らかの対応をとる必要力Xでてくる。他 方,北海道農会も,宅地より公道に通ずる道路は宅地とされ課税されたのに

(86)

対し不満を主張するようになった。

大正4年にはあまり報道されなかったが,実は「本道税務連絡聯絡圖」の 編さんカゴ始まっており,さらには,本道の地図を調整する作業も並行して始(87)

められていたカゴ,大正3年7月の管内税務署長会議にはでてこない。この地(88)

図が完成すれば,税務当局の便宜のみならず,町村役場並びに土地所有者そ の他本道に関係を有する者に利益を与えるものとして,道庁からも支援をう けてすすめられ,大正5年5月初めには約8割が完成していた。これらの作 業と並行して年期明の土地の地価を決定する作業が並行していることが5年 初にかけて次第に明らかとなる。「北海タイムス」の紙面からは,大正5年 になって急に地価問題がにぎやかになるが,実は既に先行していたのであり,

「地価問題」の主要メンバーが気がつかなかった。あるいは大隈内閣をめぐ る政争に関心が集っていたとしか,いいようがない。彼らは大地主であり,

政友会の幹部であり,具体的に新しい地価が示されるまで,動かなかったの である。

大正4年8月,大隈改造内閣がスタートしていた。しかし,大浦事件を契 機として大隈人気が凋落し,後継内閣をめぐる動きが始まるとともに,,2月 には内閣弾劾決議案が出されるなど,国内で大混乱をつづけている。一方,

日本の関与もあって中国’情勢は一層混乱を示していたし,台湾でも抗日蜂起 がつづき,欧州や中近東でも混乱が続く中で,大正5年を迎える。

》王

(1)l明治末期から大正3年にかけての内外の動きについては「新北海道年表」参 照。

(25)

地価問題と北海道の税務行政組織(8)(西野)25

(2)大正元年末の第2次西園寺内閣の互解から翌年の第3次桂内閣崩壊までを

「大正政変」とよぶ。基本的には,次第に強くなる議会勢力を危倶した藩閥勢力が,

増師問題を機に巻きかえようとした出来事であるといわれる。「日録20世紀」

1913年号27頁~29頁。

(3)西野敞雄「地価問題と北海道の税務行政組織(7)」比較法制研究23号1頁。

(4)たとえば,大正2年9月12日付の「読売新聞」の論議「財界の悲境」が思い きった多額の外債輸入を提案するほどの状況に財界はおちいっている。

(5)西野敞雄「世論調査にみる納税者意識の動向一『納税者の反乱』と『歳出の 反乱』を中心として」税務大学校論叢13号285頁。

(6)栗山町史編さん委員会編「栗山町史』,昭和46年,栗山町役場発行(以下,

「栗山町史」という。)189頁~232頁。

(7)「栗山町史」712頁~713頁。

(8)たとえば「北見農民窮状」,「北海タイムス」大正2年12月25日付。

(9)「栗山町史」714頁~716頁。

(10)「優渥なる哉天恩」,「北海タイムス」大正3年1月24日付。同日付には,「凶 作の聾救済の叫」とする記事もあり,凶作の激しさを明らかにしている。このほ か,「北海タイムス」には次の救済に関する社説がある。

大正3年1月17日「積極的救済H」

1月18日「積極的救済口」

1月20日「意義ある救済」

(11)「議会便」,「北海タイムス」大正3年1月24日。

(12)「本道有租地」,「北海タイムス」大正3年1月31日。

「本道土地賃貸標準(税務監督局調査)」,「北海タイムス」大正3年2月14日。

(13)「所謂減税運動」,「北海タイムス」大正3年1月19日。

(14)「首相の演説」,「北海タイムス」大正3年1月22日。

(15)「日本海軍収賄」,「北海タイムス」大正3年1月24日。「海軍贈賄事件」,「北 海タイムス」大正3年1月28日。「近代総合年表」岩波書店,1968年。なお5月29

日に海軍軍法会議で有罪判決が下される。

(16)「帝國議會衆議院議事速記録」28-113頁~120頁。

(17)「帝國議会衆議院議事速記録」28-110頁~124頁。有馬学「国際化の中の帝国 日本」(以下「有馬」)という。」59頁。

(18)「帝國議會衆議院議事速記録」28-36頁での同趣旨の議員提出の法律案におけ る説明。議員提出より遅く政府から提出されているが,政府案の方が条文として はよくできている。

(19)「帝國議會衆議院議事速記録」28-24頁~25頁の勝田主計政府委員の説明。

(20)「明治大正財政史」第7巻66頁~67頁。成立した内容は,同70頁~81頁。

(21)「明治大正財政史」第7巻70頁。

(22)「帝国議會衆議院議事速記録」28-164頁の大蔵大臣の答弁。

(23)「帝國議會衆議院議事速記録」28-164頁~165頁。

(26)

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(24)「明治大正財政史」第7巻920頁~927頁。

(25)「帝國議會貴族院議事速記録」30-338頁~340頁。第2読会開催に賛成する者 は誰もいなかった。

(26)「明治大正財政史」第6巻785頁~786頁。

(27)「明治大正財政史」第6巻787頁~788頁。

(28)耕地整理法は,明治43年4月法律第44号をもって土地整理に関する総括法と してまとめられた。多くの地租条例からの規定が移されているし,租率を異にす る土地が含まれ,地租の負担に不公平を生ずる場合に,現地価により算出した地 租の合計額を毎年相当に配賦し,当該地目の税率をもって除した金額を配賦地価 とする規定も含まれている。このように,地租條例と耕地整理法は極めて混交し ており,両方が混交して議論され,新聞でも混交して報道されている例が多い。

「帝國議會貴族院議事速記録」30-304頁~307頁,375頁~377頁。

(29)「帝國議會貴族院議事速記録」30-35回-53頁。大賞祭の大典が11月に行われ るところ延期になったことによる。

(30)「廃税案全敗」,「北海タイムス」大正3年2月21日付。

(31)「営業税改正に関する意見(上)(下)」,「北海タイムス」大正3年3月3「1及 4日。

(32)「北海道経営問答」,「北海タイムス」大正3年2月3日。貴族院においては2 月27日に問答が行われており,その内容が大正3年3月4日の「北海タイムス」

に詳しく報じられている。

(33)「拓殖促進建議」,「北海タイムス」大正3年3月31日付。

(34)「凶作救済の善後」,「北海タイムス」大正3年4月17日付。「本年の道開拓」,

「北海タイムス」大正3年4月20日付。

(35)「拓殖書問題」,「北海タイムス」大正3年6月3日。

(36)「監督局長交迭」,「北海タイムス」大正3年2月27日付。「蓮見局長送別会」

については,「北海タイムス」大正3年3月9日付。

(37)「大蔵省人名録一明治・大正・昭和」,昭和48年,大蔵財務協会。

(38)「対税務署不平」,「北海タイムス」大正3年5月3日,「根室納税問題」,「同」

大正3年5月12R号。ただし,各団体とも期日前に申告納入し,不服も法定期間 内に行うことなどを申し合わせており,反税団体というほどのものではない。

なお,交渉委員は大谷署長と会見した結果,今後の査定については充分調査研 究すべしとの言質を得たという。一方,住民側も将来納税組合を組織することと なったので,痛み分けともいえる。「根室納税問題落着」,「北海タイムス」大正3 年5月16日付。

(39)「地価問題」を担当するのは物応由松であり,「国税北海道70年のあゆみ」に よると,次の経歴を歩んでいる。

明治43年12月函館税務署長心得 44年6月釧路税務署長 大正2年3月J帯広税務署長

参照

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