査から考える
著者 野崎 亜紀子
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 53
ページ 191‑209
発行年 2017‑03‑31
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015382
〈個人の尊重〉と〈他者の承認〉
― 新型出生前検査から考える
野崎 亜紀子
はじめに:生のはじまりを起点とする
医科学技術の進展に伴い、人間の生の両端を取り巻く社会状況は大きな動きを 見せている。一方で終末期医療のあり方が問われ、またこの社会がどのようにこ の医療を受容しようというのかの検討が進んでいる。他方で生殖をめぐる医科学 技術の利用もまた、注目を浴びている。いわゆる生殖補助技術によって子どもを 得るその一環としての、胎児や胚の遺伝学的検査技術と機器の開発は著しい。
社会を構成するさまざまな個人を、個人として尊重する、という社会の構想は、
現代社会のあるべき姿を考える上で起点となる価値観であり、そうした社会を維 持・継続する一端を担う法(近代法)は、こうした価値観を前提としている。そ の法を支える法理論もまた然りである。
法理論において個人を個人として等しく尊重が要請されるというときに想定さ れる個人は、いわゆる実存在としての個人ではなく、あるべき個人としての個人、
すなわちこれが法的に想定される規範的個人である。あるべき社会としての、個 人を尊重する社会を構想する上で、社会を構成する基礎単位としての個人像をめ ぐり、さまざまな議論・討議が行われてきた。この問題は、近代法を支えるイズ ムとしてのリベラリズムが採用する個人像理解への批判を皮切りに、前世紀後半 以来こんにちに至るまで、コミュニタリアニズム、プラグマティズム、フェミニ ズム、そしてケアの正義論と、あるべき規範理論とは何か、という問いとして問 われ続けてきた。本稿もまた、こうした議論の系譜の中に位置付けられる。
これらの議論の中から執筆者は旧稿で特に、ケアの正義論(ケアの理論)に着 目し、これについて、批判的検討を行った1。
「〈ケア関係の維持に努めよ〉という原理に基づく社会理論を構想するケア論は、
1 野崎亜紀子「ケアの倫理と関係性」竹下賢他編『法の理論 32 特集《ケアと法》』(成文堂、2013 年)、87-114 頁。
自由意思に基づかず、且つ普遍化不可能な特定人の間の関係を焦点化し、これを 制度的に保障する事の必要性とともに、その正当化を試みるものである。(中略)
しかし(中略)ケア論は、その議論の枠組みを構成するケア関係を評価する指標を、
その内部からは導出できないという難点を抱える2。」
すなわち、ケアの理論の屋台骨であるケア関係について、良いケア関係と、悪 いケア関係を判断する指標を議論内在的に導出できない、と。
「みな誰かお母さんの子どもである3」ということばに象徴される、人間関係内 の〈依存〉の概念を軸に規範理論を構成しようとするケアの理論において、主体 のはじまりの瞬間の出生をめぐる胎児との関係の問題は、どのように捉えられ得 るのだろうか。脆弱な存在との間のケア関係をその基盤として議論を構想するケ アの理論は、出生をめぐる問題について、示唆を与え得る議論であるのか。本稿 は、執筆者が取り組もうとする規範的関係論のプロジェクト4を展開する上で不可 欠となる有意義な批判的議論として、ケアの理論に着目し、ケアの理論との間で 実りある議論を展開するための問題提起をしようとするものである。
本稿は、〈法的主体となる〉地点、すなわち生の開始時点に焦点を当て、ここ から法理論を考えようとしている。生の両端領域というのは、人間の主体性を考 える上で困難を抱える領域である。個人をいつから法的主体とみなすのか、いつ まで法的主体とみなすのか。生の両端にある者は、事実として、意思表示をする ことが困難また不可能であり、あるいはまた意思を有すること自体が疑わしいこ ともある。法理論がその基礎単位として想定する個人〈像〉は、いわゆる事実生 身の個人とは一線を画したあるべき個人である。とはいえ事実生身の個人につい て、この社会でどのように具体的な(法的)問題が生じているのかという問題と 切り離して、法理論を構想することはできまい。元来法は、この現実社会の規律 を担う、という役割の一端を担っているのだから。
どこから4 4 4 4を法的主体と見なし、どこまで4 4 4 4を法的主体と見なすのかという問いに 対して、法は〈どのように〉線を引くかというよりもむしろ、〈どこかで〉線を 引くことをその役割としている(成人年齢を考えてみよ)。そうであればこそ、
その線引きの場である生の両端領域で生じる、法の主体のあり方に関わる具体的
2 前掲註 1、110 頁。
3 この語はケアの正義論を牽引する理論家であるキティが自らの主張の起点として論じる語であ る。Eva Feder Kittay, Love's Labor: Essays on Women, Equality, and Dependency (London:
Routledge, 1999) [ 岡野 八代・牟田 和恵監訳『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』(白澤社、
2010 年)]. 第Ⅲ部の表題としても掲げられる。
4 野崎亜紀子「規範的関係論・序説」『千葉大学法学論集』29 巻 1・2 号(2014 年)、149-74 頁。
な問題に目を向け、そこでどのような問題が、どのように生じ、その何が問題で あるのかについて思考し検討することは、法が〈どこかで〉線を引くことの意味 を明らかにすることと連結している。
時に法的主体の問題を考える上で、生の両端領域の問題は、例外的に、あるい は周縁の問題として位置づけられるのだが、本稿がこの領域をこそ、法理論を検 討する上でその基点としようとすることの意図は、ここにある。
上述の理解に基づき、本稿では生のはじまりの部分に生じている問題である、
生殖補助技術の利用によって子どもをもうけようとする際に妊婦が受診する出 生前検査(診断)に関わる局面、とりわけ非侵襲型遺伝学検査(Non-Invasive Prenatal genetic Test. 以下、NIPT と称す)の利用の局面に焦点を当てる。なお ここで取り上げる問いは、必ずしも NIPT に特化した問いではなく、出生前検査 全般に共通する問いである。しかし特に NIPT については、その利用の簡便さと 精度の高さ(なおこの場合の精度という語の持つ意味については、次節でやや詳 しく論じるように注意が必要となる)から、またこの検査にとどまらない各種出 生前検査のマス・スクリーニング化の動向5を鑑みて、課題として設定した。
この検査により染色体異常の可能性が示された時、人工妊娠中絶を行う割合が 高いことが報告されている。こうした現状を省みるならば、当該検査の受診によっ て、カップルはその子ども(胎児)を自分の家族として承認するかどうか、すな わち出産を経て家族として関係性を構築する相手となる存在(線のこちら側の仲 間)として当該の胎児を承認するかどうかの線引きを行っているということもで きる。線のこちら側に在るとすれば、その胎児は主体となるのであり、線のこち ら側にないとなれば、その胎児を主体と認めないことになる。すなわち、線のこ ちら側の者は主体であるのだから、私と同じだけの自由な主体として尊重の対象 であり、そして線のあちら側は私と同じだけの自由な主体としての尊重の対象で はない。仮に何らか一定の配慮の対象であるとしても。この考え方は、近代法に おける人・物二分法を背景とする。このような人・物二分法理解は、現実の認識 や思考との間に、時に大きなズレを生みだす。近時検討が進む〈正義論としての ケアの理論〉は、このズレを指摘すると同時に、このズレを生み出す社会構造、
またその社会構造を結論として支え続けるリベラリズムを批判する。ケアの理論 は、ケア関係の維持・継続を要請する理論である。そしていま新たな出生前検査
5 この場合のマススクリーニングとは、胎児について、特定の疾患(NIPT については、13、18、
21 番目の染色体異常)の発見を目的として、不特定多数の妊婦を対象に行う検査をいう。NIPT 以外の出生前検査(母体血清マーカー検査、超音波検査、母体年齢等による検査)等のマス・ス クリーニング化は、英・仏・米等の諸国で勧められ、法整備等の体制整備が行なわれている。増 﨑英明「出生前診断をめぐる諸問題」『産婦人科治療』101 巻 5 号(2010 年)449-56 頁。
が私たちの社会に導入されることで、関係を形成する相手であると承認するかど うかの線引き、すなわち〈誰〉を尊重と配慮すべき対象であると承認し、その主 体性の有無を判断することは、妊娠しこの検査を受けた個別の者(主に妊婦)に 委ねられているように見える。
NIPT という新たな出生前診断技術が周産期医療に導入されようとしているこ の局面を契機として、私たちの社会はいつ、誰を、どのようにして法的主体とみ なそうとし、その前提となる他者を他者として承認しようとしているのか。
本稿は、新技術の社会導入問題がこの社会を構成する構成員の選別問題に接続 することが抱える問題点を指摘する。さらにこの線引き問題が生じる場である生 のはじまりの領域における、ケア原理と個人の尊重原理との間の、古く新しい視 角と思考の対立点および両者の有する視角の異同を明らかにしたい。このことを 行うにあたり、議論の契機となる NIPT の概要と現状を概略した上で(第Ⅰ節)、
法的思考が基調とする〈個人の尊重〉原理のあり方(第Ⅱ節)と、その現代的展 開を示すとともに(第Ⅲ節)、他者を尊重することを出発点とする個人の尊重原 理(そしてそれは必ずしも個人の自己決定権の行使にとどまらない)のあり方(第
Ⅳ節)について検討する。
Ⅰ 新型出生前検査の導入
2011 年 10 月、米国の検査会社が開発した新たな出生前検査が商品化され、米 国で導入された6。この検査は、妊娠 10 週目以降の妊婦の血液を調べることによっ て、胎児に第 13 番目の染色体異常(13 トリソミー)、第 18 番目の染色体異常(18 トリソミー)、そして第 21 番目の染色体異常(21 トリソミー。一般にダウン症候 群と称される)の有無を検出するものである。当該の検査は通常の血液検査程度 のわずかな分量の血液を妊婦から採取することによって実施が可能となるため、
これを NIPT という。妊婦の血液には DNA の断片が含まれるが、その中には妊 婦自身のものとは別に、胎児由来の DNA の断片がおよそ 10% 程度含まれている。
本検査では、これら妊婦の血液に含まれるすべての DNA の断片を集め、おのお のどの染色体に由来するものであるのかを特定し、特定の染色体由来の DNA の 断片の濃度を測定することによって異常がある場合とない場合とのわずかな差を 図り、胎児について、当該染色体異常の有無を判定する。
なお、現在の NIPT で検査対象となる上記3疾患の特徴は、以下の通りであ
6 シーケノム社によって開発、商品化された。商品名 Maternity21。
る7。
13 トリソミー(パトー症候群):第 13 番染色体の過剰を原因とするもので,
前脳,顔面中央部,眼の発育異常,重度の精神遅滞,および出生時低身長で構 成される。患児の大部分(80%)は症状が重いために生後 1 カ月を前に死亡し,
1 年以上生存できるのは 10%未満である。
18 トリソミー(エドワード症候群):第 18 番染色体の過剰を原因とするもの で,通常は精神遅滞,出生時低身長,および多くの発育異常(例,重度の小頭,
後頭部突出,耳介低位および変形,つまんだような特徴的顔貌)で構成される。
半数以上は生後 1 週間以内に死亡し,生後 1 年まで生存する児は 10%未満である。
生存した場合も著明な発達の遅延と能力障害がみられる。特異的な治療法はな い。
21 トリソミー(ダウン症候群):第 21 番染色体の異常の 1 つであり,精神遅滞,
小頭,低身長,特徴的顔貌を引き起こす。診断は身体的異常と発達異常から示 唆され,核型分析によって確定される。治療は個々の症状および奇形に依存する。
* なおダウン症候群については、他の2疾患と異なり、死亡年齢の中央値は 49 歳とされ、50 歳代、60 歳代まで生存する例も多い、と記されている。
2012 年 8 月末、わが国でもこの検査を臨床研究として一部機関が導入を予定す る機関(研究者グループ「NIPT コンソーシアム」8のメンバーが属する機関)が あることが報道され、わずかな血液採取による検査、という手法の簡便さのみな らず、検査結果の精度の高さが強調されることにより、社会の注目を浴びること となった9。しかし、この検査結果の精度に対する理解は、その後修正されること となる。本検査を受ける対象は、染色体異常を生ずる可能性が高いとされる、主 に 35 歳以上の妊婦が想定される。本検査の精度について、検査結果は妊婦の年 齢に依存するものであり、陰性的中率(異常なし negative とされた場合、本当 に当該胎児にその染色体異常がない確率)は 99% を超えるが、他方、陽性的中率(異 常あり positive とされた場合、本当に当該胎児にその染色体異常がある確率)に ついては、妊婦の年齢によりばらつきがあることが明らかにされた(表1)。当初、
7 Merck & Co., Inc., Kenilworth, N.J., U.S.A., Merck Manuals (November 2010) による。
8 NIPT コンソーシアムとは、「NIPT を国内で施行するに当たり、適切な遺伝カウンセリング体制 に基づいて検査実施するための、遺伝学的出生前診断に精通した専門家(産婦人科、小児科、遺 伝カウンセラー)の自主的組織」である。http://nipt.jp/nipt_02.html#nipt04 [2016 年 9 月 30 日 最終閲覧 ]
9 「妊婦の血液でダウン症 99%診断 来月にも国内で導入」『読売新聞』 2012 年 8 月 28 日、 朝刊1面。
検査結果の精度の高さ 99% という理解と報道は、この確率が陽性的中率であると する誤解に基づくものであったことが明らかになるなど、この技術の受容の如何 を検討する上で前提となる事実レベルの情報が、錯綜した10。
(表1)検査の精度に関して
妊婦の年齢(歳) 検査時期にダウン 症の児を妊娠して
いる確率(%) 陽性的中率(%) 陰性的中率(%)
30 1/470 67.8 99.99 35 1/185 84.3 99.99
40 1/50 95.3 99.98
44 1/15 98.6 99.94
「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査 兵庫県での受信のご案内」より http://nipt.hyogo.jp/ 新型出生前診断とは /(2016 年 9 月 30 日最終閲覧)
2012 年秋にも NIPT の導入を予定する医療機関があるとの状況を受け、いち早 く日本産科婦人科学会は、声明「新たな手法を用いた出生前遺伝学的検査につい て」を発表し(2012 年 9 月 1 日)、そこで NIPT を慎重に取り扱う必要性につい て言及した。その上で早急に既存の「出生前に行われる検査および診断に関する 見解」を補足し、NIPT に対応した自主基準作りに着手した事を明らかにした。
これに加えて日本ダウン症協会を初めとする、いくつかの障害者団体、女性団体 等からの NIPT 臨床研究導入への懸念の表明などを受け、NIPT コンソーシアム による臨床研究の実施は、当初予定より半年を経た 2013 年 4 月 1 日に開始される。
開始に先んじて日本産科婦人科学会理事会は、「母体血を用いた新しい出生前遺 伝学的検査」指針を策定し(2013 年 3 月)、加えて日本医師会、日本医学会、日 本産科婦人科学会、日本産婦人科医会、日本人類遺伝学会の 5 団体共同によって、
共同声明「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」が出された。結論として、
NIPT 臨床研究は、医師団体らによる共同統制のもとに置かれ、「母体血を用いた 新しい出生前遺伝学的検査」指針の下、臨床研究として認定された施設でのみ実
10 ただし、他の出生前診断検査技術(超音波検査と母体血清マーカー試験)と比較すれば、NIPT による検査が高精度であるとの調査研究がなされている。Norton ME, Jacobsson B., “Cell-free DNA analysis for noninvasive examination of tiresome,” New England Journal of Med 372, no.
17 (April 2015): 1589-97.
施されることになったのである11。結果として「無侵襲的出生前遺伝学的検査後の 妊娠帰結や児の状況を継続的に把握して解析すること」を目的とする多施設共同 の臨床研究「母体血中 cell-free DNA を用いた無侵襲的出生前遺伝学的検査の臨 床研究」として、わが国では NIPT が開始された12。なお、本臨床研究の課題は、
少なくとも研究開始当初は、NIPT の検査精度等についての研究ではなく、NIPT 実施に際しての環境にかかる問題、より具体的には当事者に対する遺伝カウンセ リングの有り方とその制度設計について検討することであったという点について は、留意しておかなければならない。
〈本臨床研究における課題〉
⑴ 検査を適切に運用するための遺伝カウンセリングの基礎資料(検査実態、施 設基準、カウンセリング内容など)を作成する。
⑵適切な遺伝カウンセリングの下で検査が行われる体制を整備する。
⑶ 検査の適応や施設条件など一定のコンセンサス ( 原則の共有 ) のもとで各施 設が検査する。
NIPT コンソーシアムウェブサイト内 http://www.nipt.jp/rinsyo_01.html
(最終閲覧 2016 年 9 月 30 日)
臨床研究開始後 3 年半の間に、当初 15 施設で始まった本臨床研究は、2016 年 12 月現在の実施機関数が 65 施設へと増加し(うち1施設は 2017 年 1 月より開 始予定)、受検者は 3 万人を超えた13。現時点で公表されている情報によれば、研 究開始時からの3年間(2013 年 4 月- 2016 年 3 月)で本検査の受検者数は 3 万 615 名であり、そのうち陽性判定者 547 名。陽性判定者のうち羊水検査等の受検 者が 458 名。羊水検査等受検者のうち染色体異常の確定診断者数は 417 名であり、
その後 394 名が人工妊娠中絶に至っている14。
NIPT という検査手法とその臨床研究としての実施状況を踏まえて、この新た
11 開始当初 15 施設の認定から臨床研究は開始され、現在は 60 施設が認定されている(2016 年 7 月 21 日現在)。
12 報道がなされてから臨床研究が開始されるまでの間の動向については、松原洋子「日本における 新型出生前検査(NIPT)のガバナンス―臨床研究開始まで」小門穂・吉田一史美・松原洋子編『(生 存学研究センター報告)生殖をめぐる技術と倫理―日本・ヨーロッパの視座から』22 号(2014 年)、
69-85 頁。
13 「広がる出生前診断3年半で3万人超」『朝日新聞』2016 年 9 月 28 日
http://digital.asahi.com/articles/ASJ9W6HXFJ9WUBQU00N.html [ 最終閲覧 2016 年 9 月 30 日 ] 14 「新型出生前診断 開始3年間で3万人余りが受診」『朝日新聞』2016 年 7 月 17 日
http://digital.asahi.com/articles/ASJ7K7GYGJ7KUBQU005.html [ 最終閲覧 2016 年 9 月 30 日 ]
な出生前診断技術が周産期医療に導入されようとしているこの局面を契機とし て、私たちの社会はいつ、誰を、どのようにして法的主体とみなそうとし、また それはどのような意味を持つのか、という問題に取り組む事にする。
Ⅱ 法の主体
人はいつ、法的に主体となるのか。我が国の民法によれば、人は出生によって 権利主体となる。
民法第3条 私権の享有は、出生に始まる。
出生の瞬間をいつとみなすかについては、幾らかの対立があるが、人は出生に よって権利を有するものとされる。ただし胎児については、例えば次に示す規定 があることからも、一定の場合(妊娠中の母が交通事故に遭い胎児期に障がいを 負う、あるいは胎児期に親が死亡した際の相続問題等)には、生まれたものとみ なす場合がある。
第 721 条
胎児は、損害賠償の請求権については、既に生まれたものとみなす。
第 886 条 胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす。
2 前項の規定は、胎児が死体で生まれたときは、適用しない。
法の主体をどのような存在に認めるか、という問題の重要性をめぐっては、現 にこの社会で通用している実定法上の問題として、法的効果をいかに確定すべき か、という個人個人の生活にとって極めて重要で複雑な法解釈上の問題がある。
しかし本稿ではこうした視角からではなく、法が果たすべき役割である、法的な 主体とそうでないもの(=客体、すなわち物)との間の線引きが孕む、新たな医 科学技術によって生み出される問題とはなんであるかを捉えよう、とする視角か ら論じる。すなわち、NIPT という新たな科学技術の導入によって、その線引きが、
個人、特に妊娠・出産(またそれゆえに子を養育する上で一定の大きな役割の期 待される)を担う妊婦に委ねられ、一定の判断が下されることの意味を問おうと 思う。
冒頭にも述べたように、近代法の核となる特性の一つは、〈個人の尊重(respect
of individuals)〉である。近代の始まりは、個人という概念の発見にあるといっ てもよい。近代法を支えるイズムとしてのリベラリズムにおいては基本的に、こ の〈個人の尊重〉とは、当事者の意思を尊重すること、と位置づけられてきた。
そしてまたこの核としての〈個人の尊重〉の仕方とその理解(主に自己決定の尊 重としての個人の尊重理解)についてはながらく、いくつかの立場から、批判の 的とされてきた。本稿はそれ自体についての検討を目的としないので、詳細は別 稿に譲り、筆者が重要だと考えるリベラリズムに対する批判的視角からの、リベ ラリズムの〈個人の尊重〉についての理解を記す15。
リベラリズムは、社会の基盤を個人の自由に置いている。もちろん、近代社会 以前から、人と人とが共に生活を行うようになった社会の成立とともに、人は人 同士、様々な交渉ごとを行い(たとえば土地や家畜をめぐって)、問題を解決し てきた。近代以前に個人という概念、また個人の自由な意思に基づく活動がなかっ た、とは言えまい。ここで問題としているのはそうした私人間の問題ではない。
対国家との関係で、国家が、個人個人に各々の人生があり、国家はその一つ一つ を支える個人の自由を尊重する責務を有する、という国家のあり方、という考え 方の下における〈個人の尊重〉を問題としている。
リベラリズムは、対国家との関係においては、個人が社会活動を行う上で、国 家からその生のあり方についての干渉を受ける事なく、自立/自律して判断し行 動する事のできるあるべき個人を個人として想定する。もちろん社会には、この ように存在することのできるものばかりではないし(障がいのある者、病者はも とより、経済力の乏しい者、情報アクセスの困難な地域にある者、教育を受ける 事ができない/できなかった者等のことを考えみよ)、むしろそのような自律的 個人は、現実的にはごく限定された存在であるのかもしれない。そしてもちろん、
そのこと自体は、リベラリズムに与する多くの理論家もまた承知している。その 上で、リベラリズムは個人としてのあるべき像として、このような個人を擬制し、
その実現に向けた社会構造の構築に向けた様々な制度設計を行い、自立/自律し た個人が相互にそのような個人として尊重される社会を構想する社会変革プロ ジェクトなのである、と。
しかしながら、このプロジェクトに対しては、構造的な欠陥が指摘されている。
近時、規範理論の構想を進めるケア論からの批判のあり方に、その批判の典型を 見ることができよう。
15 別稿として、野崎亜紀子「法的主体と関係性―ケアの倫理とリベラリズムの論理」仲正昌樹編『叢 書アレテイア 15「法」における「主体」の問題』(御茶の水書房、2013 年)、249-73 頁、同前掲註 1、
を参照。
リベラリズムがこのプロジェクトを遂行する上で目指す像としての個人は、自 由意思を持ちこれを実践することができる主体である。しかし、人間はもともと そのような自律的個人ではありえない。人はそのはじまりにおいて、事実として 依存する存在なのであり、依存する者・依存される者としての関係性という領域、
すなわち私的領域の中で、自らの生のあり方を構想する。その営みは途切れる事 はない。しかし、リベラリズムにおいて尊重されるべきとされる個人像は、こう した地のレベルの、依存する/依存される個人から切り離された、あるべき像を こそ、その基盤とする。すなわち、リベラリズムは、依存する/依存される個人を、
社会構想の中からあらかじめ排除してしまっている。このことは、特に介護や支 援を必要とする病者、高齢者、経済的弱者等が、リベラリズムが構想する自由な 社会の主体として存在し、尊重されるべき個人として存在することを、初めから 困難にしてしまいかねない。
このような理解に基づくリベラリズム批判を承けて、いま改めて、近代法を支 える規範理論のあり方が再吟味されている。
Ⅲ 〈個人の尊重〉の意義
近代法原則の下で、どのように〈個人の尊重〉を図るべきか。まずもってこれ は、個人の自己決定という手法を採用することとしている。個人を尊重するとい うことは、個人がそのうちに持っている意思に基づく自身の生き方についての決 定、すなわち自己決定を尊重する必要がある。個人とはすなわち、他者とは異な る自分自身の生を持った、それゆえ自分自身の生き方について自ら考え行動する、
そういった存在を意味するからである16。したがって近代法がその基盤に価値理念 である〈個人の尊重〉を置いている以上、自己決定を権利とし尊重し、保障しな ければならない。しかしこの近代法上の主たる価値基盤である〈個人の尊重〉は、
自己決定を権利として尊重することのみによって保障されるべきであるのか。こ のとき、どのような制度を要請すべきであるのかについて、検討の余地はあり得 よう。前項の批判的議論にとどまらず、リベラリズム内部においても、〈個人の 尊重〉のために用いられる制度としての自己決定権の尊重のあり方に対しては、
改めて検討する必要性が議論されつつある。この問題について、旧稿の議論を用 いる。
「社会生活を営む上で、個人が個人として社会の中で自由な法的主体を構成し、
16 柳父章『翻訳語成立事情』(岩波書店、1982 年)、23-42 頁。
生を営むに際しては、同じく自由な法的主体である他者の存在を看過することは できない。そうである以上、私が何らかの権利行使をするということはすなわち、
何らかの影響を他者に与えることになる。そしてまた逆も然りである。当事者の 権利行使が、果たして他方当事者を私と等しく自由な主体として尊重する権利行 使であるかどうか、が問われることになる17。」
〈個人の尊重〉とはすなわち、代替不能な個人として、国家が個人を承認する ことであり、そしてこのことはあらゆる個人に当てはまる。遍く個人をそのよう に承認することとは、私と同様に遍く他者にもまた、私と等しく尊重と配慮を受 ける権利を認めることを意味する。個人を個人として承認することは、その権利 行使を行う当事者に対し、直ちに当事者には他者を他者として承認することが 要請するのである。ここに、〈個人の尊重〉の意義がある。そして〈個人の尊重〉
に先在する〈他者の承認〉問題は、ここに生じる。
Ⅳ NIPT によって問われる問い:他者の承認 1. 人工妊娠中絶をめぐる議論
他者の承認問題については、これまでにも様々な位相で論じられてきたところ である。ここでは法の下における4 4 4 4 4 4 4他者の承認問題という視点で論じる。ことさら に法の下におけるとしたことには、次のような意図がある。すなわち、何か特別 に配慮すべき存在について語るのでなく、何か特別に自律的な存在について語る のでなく、遍く等しい権利の主体である個人という、法的主体のあり方の問題を 考えたい、ということである。
本稿の文脈に即していえば、この社会は、誰(何)を、どのように、私(たち)
と同じく尊重と配慮の対象として承認し、よって尊重に値するもの(法的主体の 候補)として承認するのか、という視角から考えよう、というのである。
本稿が取り組む問題を改めて提示しておこう。
「NIPT という新たな出生前診断技術が周産期医療に導入されようとしているこ の局面を契機として、私たちの社会はいつ、誰を、どのようにして法的主体とみ なそうとし、その前提となる他者を他者として承認しようとしているのか。」
NIPT とは、出生前に、その胎児が特定の疾患を持つかいなかを確認する検査
17 前掲註 4、166 頁。
であり、現時点においてその疾患は、13、18、21 トリソミーとされる18。これらの 診断が NIPT および羊水検査等の確定診断可能な検査によって確定した場合、当 事者である妊婦(とそのパートナー)は次に、妊娠を継続するか否かについての 決定を下す局面に立つ。場合によっては、人工妊娠中絶を行うという決定を下す 場合もある。もちろん我が国の法制度上、胎児の健康状態それ自体のみを理由と する人工妊娠中絶は違法とされる(刑法 212-216 条、母体保護法 14 条)。中絶数 は年々減少しているとしても、なお 18 万件超の人工妊娠中絶件数である我が国 において、その中には、胎児の健康状態をその一因として実施していることは想 像に難くない(統計上の人工妊娠中絶の最大件数は 1955 年の 117 万 143 件であり、
1953-61 年の間 100 万件を超え、以後減少している)。本臨床研究の途中経過を示 すデータによれば、先述の通り NIPT の結果に基づき、染色体異常の確定診断者 417 名(陽性判定者は 458 名)中 94% に当たる 394 名が人工妊娠中絶を実施して いる(なお、確定診断にまで至らない中で人工妊娠中絶を実施した例もあること が報告されている)19。
こうした状況下で、当事者である妊婦(とそのパートナー)に委ねられる決定 には、特に染色体異常等の胎児の健康状態が明らかになった時、妊娠の継続の有 無が含まれることは想像に難くない。「妊娠を継続するかどうか、ゆっくりよく 考えてください」というこの問いかけは、あらゆる出生前検査を受診する妊婦・
当事者に対して発せられることになる。妊娠・出産とは女性の統合的身体にかか わる問題であり且つ高度に私的な問題であり、しかしまた同時に、国家による統 計調査が公表されていることからも明らかなように、国家を支える人口管理とい う観点からは極めて公的な特性を有する問題である。公性・私性の両方の特性を
18 なお、NIPT を製造するシーケノム社によれば、13、18、21 にとどまらず全染色体の異常につ いても、検査する新たな検査技術を開発したことが 2016 年 4 月に開催された国際人類遺伝学会
(京都)で報告されている。またこの検査技術は MaterniT Genome として商品化されている。
Seqenom 社ウェブサイト内、 https://www.sequenom.com/tests/reproductive-health/maternit- genome#patient-overview [ 最終閲覧 2016 年 9 月 30 日 ]
19 日本産婦人科学会によって定義される高年妊娠の年齢は 35 歳以上の初産であり、我が国では 2010 年に初産の平均年齢が 30 歳を超え、その割合は 2015 年度統計現在、64% を超える。平成 27 年(2015)人口動態統計(確定数)の概況内、「第 4 表 母の年齢(5 歳階級)・出生順位別に みた出生数 」より。http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei15/dl/08_h4.pdf [ 最 終閲覧 2016 年 9 月 30 日 ]
高年妊娠・出産が抱える問題点としては、そもそも生殖補助技術を利用しても妊娠率が低い、
流産率が高い、さまざまな産科異常(子宮筋腫等の妊娠前からある異常、妊娠高血圧症候群、妊 娠糖尿病などの妊娠中の異常、分娩時の異常として分娩誘発や陣痛促進剤の使用を要する分娩や 帝王切開の他分娩時出血、低体重児等の出生、そして染色体異常頻度)が高率となることなどが 挙げられる。
抱える生殖問題について、いま、妊婦・当事者に対して発せられる「妊娠を継続 するかどうか、ゆっくりよく考えてください」という問いは、何を誰に問うてい る問いであるのか。単純化の謗りを免れないが敢えてまとめるならば、第一に、
妊婦に対して自らの身体の扱いについての自己決定を要請し、第二に、当事者で ある妊婦とパートナーに対してどのような家族を形成するかの決定を要請してい る。この時国家は、少なくともこれらの生殖補助技術に伴う検査に対し、法規制 を持たない現状にあっては、どうすべきかについての当事者らの判断に対して、
特別な介入を行うべきでないと考えられている。なぜなら、どのような家族を構 想し形づくるかという問題は、高度に私的な内容を含んでおりしたがってその内 容に関する決定問題は、高度の倫理性を孕んでいる。そしてこの問題の高度の倫 理性に鑑み、どのような家族を良い家族とするかについては国家がことさらにそ の判断に介入すべきではなく、当該家族の問題とされるべきである、と考えられ るのである。したがってどのような判断を下すかについては(我が国の法制が許 容する限りにおいて)当事者らの意思、とりわけ自らの身体の統合性に関わる妊 婦の意思に委ねること、すなわち自己決定に委ねることとし、それより遡って当 該の決定の中身についての正当性の追求をしない(できない)ことにしてきた。
そしてこれが近代法を支えるリベラリズムの要請である、と私たちは考えてきた のである。
こうした理解を前提として、本稿が取り組む生のはじまりで用いられようとす る出生前検査とりわけ NIPT の利用についてまとめよう。
すなわち NIPT は、
① 染色体異常等が胎児に生ずる可能性(リスク)が高いとされる(日本では)
35 歳以上の妊婦らを対象とし、
② したがってこの検査は必然的に自らの妊娠・出産に際して胎児の健康状態に 対する関心の高い妊婦が受検する検査である。
③ それゆえこの検査の受検は、子どもを持ちたいという希望と、胎児の健康状 態、さらには今後の家族生活に対する様々な問題という葛藤を生む可能性を、
もともと孕んでいる。
NIPT の受検に内在する上記特徴への理解が不十分なままに、現状においては、
受検の結果 POSITIVE(染色体異常の可能性が一定以上であるとの陽性)判定を 受けた妊婦らは、なぜ自分の子について染色体異常を理由として生むか生まない かが問われ、その理由(なぜ妊娠を継続し、生むと決定するのか、なぜ妊娠を中 絶し、生まないと決定するのか)が根源的に問われるような決断をしなければな らないのか、という思いの中で決断を迫られることへの疑問、苦しさが指摘され
るところである20。
このような疑問、苦しさを生んでいる問いとは果たして、POSITIVE の結果を 受けた妊婦たちに何を問うているのか。この問いは長らく、選択的人工妊娠中絶 についての議論として問われ続けてきた。前世紀においては、ジョン・ロックを 始祖とする身体の所有権論を理論的基礎とし、女性にその決定権があるとするプ ロ・チョイス21と、生まれ来る胎児もまた人間に等しい尊重と配慮が与えられる べき生命権を有するとするプロ・ライフとによる権利に基づく二項対立によって、
理論的、運動的に先鋭的な対立構図が示された22。この状況を踏まえて、権利の視 角に基づく二項対立を、モラル・ステイタスの角度から乗り越えようとする法哲 学的議論--権利主体でなくとも聖なる価値(sacred value)を持つものとして の尊重と配慮の対象とする--もまた有力に提示された23。しかし議論の理論的決 着はつかず、こんにちに至っている。
2.〈個人の尊重〉の観点から考える
POSITIVE の結果を受けた妊婦たちに問われているこの問いがどのようなこと を彼女らに問うているのかについて、改めて本稿の観点、すなわち〈個人の尊重〉
のために要請されると考えられてきた自己決定権に先在する他者の承認という観 点から考えてみよう。
NIPT を受検すること、そしてその結果を受けて人工妊娠中絶をするや否やの 判断をすることは、果たして自己決定の問題であるのか、胎児の生命権の問題で あるのか、あるいは胎児になんらか一定の利益主体性を見出し、権利主体とは言 えないまでもなんらか私たちの社会が大事だと信ずる価値群を構成する存在とし
20 例えば、NHK『クローズアップ現代 + 新型出生前検査 導入から 1 年―命をめぐる決断 どう 支えるか』(2014 年 4 月 28 日放送)。
21 エンゲルハートによって主張された「パーソン」論 においては、胎児は権利の主体とは認めら れ な い。Engelhardt, Hugo, Triatram, The Foundation of Bioethics (Oxford University Press, 1986). 加藤尚武・飯田亘之監訳『バイオエシックスの基礎付け』(朝日出版社、1989 年)。他方 ジュディス・J・トムソンは、仮に胎児に生命権があるとしても、自らの身体を過度の危険に晒 してまで胎児の生命を救う義務を妊婦に対し法的に義務づけることはできない、として胎児の生 命を救う女性の義務を否定する。Thomson, J.J. “A Difence of Abortion,” Philosophy and Public Affairs 1, no. 1 (Princeton: Princeton University Press, 1971).塚原久美訳「妊娠中絶の擁護」江
口聡監訳『妊娠中絶の生命倫理:哲学者たちは何を議論したか』(勁草書房、2011 年)。
22 両対立をめぐる議論の整理、および実態としての対立状況については、荻野美穂『中絶論争とア メリカ社会』(岩波書店、2001 年)に詳しい。
23 R. Dworkin, Life's Dominion: An Argument About Abortion, Euthanasia, and Individual Freedom (NY: Alfred A. Knopf, 1993) 水谷英夫・小島妙子訳『ライフズ・ドミニオン―中絶と尊
厳死そして個人の自由』(信山社出版、1998 年)。
て位置付けようとしているのか。アメリカにおけるリベラリズム法学の理論を展 開した法哲学者ロナルド・ドゥオーキン(Ronald Dworkin)が論じるように、プ ロライフはもとより、プロチョイスの立場に立つものもまた、人工妊娠中絶を望 ましい決断だと言うわけではない。その決断が後々に至るまで決定者である妊婦、
そしてかつて妊婦だった者を苦しめるのは、もちろん私と結びつきのある、望ん だ大事な存在である胎児(我が子)を、中絶してしまったということへの苦しみ もあろう。しかしながらむしろ、そうした決定をしなければならない状況にある・
あったということそれ自体への理不尽を、理不尽であると主張することができな いことは、大きな困難であると考えられる。このことはしばしば、出生前検査を 受検した妊婦とそのパートナーが「生むか生まないか、なぜそんなことを問われ なければならないのだろう。」と発することと結びついている24。そしてその状況 下で下した決定は、何が問われたのであり、何を判断したものであるのかを、(形 式的には、母体保護法上許容される経済的理由等の諸理由25が示されるとしても)
当事者はもとより私たちの社会は明らかにしていない。明らかなのはただ、胎児 を自身と最も結びつきの深い、支え・支えられるケアの対象者として向き合うに 値する他者として承認するのかどうか、より単純に言えば、自身にとって大事な 近い存在として、配慮と尊重の対象となる他者であると認めるかどうかの決断を 迫られた、という事実への困惑ではないのか。この点については具体的にどのよ うに対応すべきかについて現状で明示的なことを語る事のできる情報は十分では ない。この問題の繊細さからかごく断片的にしか決定時の様子は明らかになって いないのだ26。したがってここでは、この局面でどのように対処すべきか、という 事実を語る前に、現状をどのように理解し、そこからどのように規範理論上の問
24 NHK スペシャル「出生前診断 そのとき夫婦は」(2012 年 9 月 16 日放送)。
25 母体保護法に示される人工妊娠中絶が許容される条件としては、同法第 14 条に示されるとおり である。
母体保護法第 14 条 都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定 する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶 者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある もの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠し たもの
2 前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は 妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる。
26 柘植あづみ、菅野摂子、石黒眞里『妊娠―あなたの妊娠と出生前検査の経験をおしえてください』
(洛北出版、2009 年)は、この状況下にあった当事者であった 375 名へのアンケートと 26 名への インタビューによって構成される貴重かつ希少な研究である。
いを建てることができるか、という観点から、この問いが何を問うているのかの 検討を進めておこう。
3. 他者の承認:承認される他者
まずは胎児の法的位置づけについて確認しておく。胎児は、出生していないの であるから法的権利主体ではない。もちろん、人と人でない物との間のどこに線 引きをするかについては、そのどこかで線を引くことは法の役割であるが、どこ で線を引くかという問題は、例えば何かの根本的なルール(例えば憲法)から必 然的に正解が得られる問題ではない。社会が決めることである。現時点で少なく とも我が国においては、出生前の存在は法的権利の主体ではなく、生まれて数秒 であるとしても出生した者は法的権利の主体である、ということにしている。こ の線引きの位置を考え直すことは不可能ではないが、どこかで線引きをしなけれ ばならない時、出生しているか否かという地点での線引きには、一定の合理性が あると考えられる。したがって(暫定的にではあるが)この枠組みの中では、胎 児に法的な意味での権利の主体性を認めることは困難である。
胎児自身が権利の主体でないとすれば、母が胎児の健康状態を調べ、その結果 として妊娠を継続する、または中絶するという判断を下すという選択の権限は、
胎児以外の者の下に置かれることになる。この時妊婦には、胎児を、私の胎内に あって私に依存する、もっとも近しい他者であることを承認するか否かが問われ ている。ここで思い出される事はかつて、法的主体として尊重の対象になるか否 かの判断は、優生思想というイズムをその背景とした法制度である国民優生法お よび優生保護法等に基づき、国家に委ねられていた、ということである。こんに ちその判断は、主として妊婦と、そのパートナーという当事者に委ねられる。こ れは国家が個人の生のあり方に介入すべきではない、という近代法原則に基づく 姿勢である。そしてまたこうした、承認をしなければならない状況は、とりわけ 生のはじまりの場における医科学技術の開発によって生み出される。このことは、
この社会を誰と構成するのかの決定を、そのはじまりの場に自らの身体をもって
立つ者すなわち妊婦に委ねていることを意味する27。確かに、そこに国家による強 制はないし、また医療機関等においても当事者らの意思決定を尊重する環境はあ り得よう。しかし、NIPT 等の出生前検査技術が、特定の染色体異常等の疾患を 胎児が有するか否かを明らかにするために開発され、生殖医療の場に組み込まれ、
導入され活用されているという状態を初期・標準状況(デフォルト)とし、そこ で他者承認の判断が問われるということは、そこに一定の方向性への誘因が前提 として組み込まれているとみてとることができるのである。もちろんその誘因を 断る判断を排除するものではないが、それ故に巧妙でもある28。
結びにかえて ― 生のはじまりと法
近代法制を支えるリベラリズムの基盤にある〈個人の尊重〉は、それに先在し て、自身と等しい配慮の対象である他者としての承認要請を経る必要があると述 べた。そしてその他者を他者として最初に承認する機会のひとつとして、生殖補 助技術の利用、本稿では NIPT という出生前検査の場があることを示した。他者 の承認は、国家による事なく、当事者の、とりわけその体内に胎児を抱く妊婦に 委ねられている。
〈個人の尊重〉原理を発動させるその出発点である〈他者の承認〉は、ここに 始まる。個人にもっとも近しい特定された存在であり、脆弱で、ケアを要する存
27 優生思想の歴史と、現代の医科学技術の進展とともにある新たな優生思想については、特に、米 本昌平、橳島次郎、松原洋子、市野川容孝『優生学と人間社会』(講談社、2000 年)を参照。なお、
内なる優生思想については多くの文献があるが、特にこの思想に焦点を当て、その歴史的経緯を 整理して研究として、森岡次郎「『内なる優生思想』という問題―『青い芝の会』の思想を中心に」
『大阪大学教育学年報』11 号(2006 年)、19-33 頁。本研究の中で内なる優生思想は、次のように 説明される。
「優生学の問題を、国家や権力による強制や制度上の不備といった、いわゆる「ハード」の問題 ではなく、私たち一人一人が持つ、「障害はない方がよい」「自分の子どもには健常者として産ま れてきて欲しい」といった優生学的欲望、すなわち「ソフト」の問題として捉え、健常者が持つ 優生学的な心性」である、と。
28 個人の自由な意思を尊重し、その国家による介入をすることなく、しかし同時に望ましい政策 目標の実現へと向かう技法として、昨今注目を浴びる議論として、リバタリアン・パターナリ ズム(LP)がある。LP については、その議論の全容が現時点において必ずしも明らかではな く、論争的な議論である。Cass R. Sunstein and Richard Thaler, “Libertarian Paternalism Is Not an Oxymoron,” The University of Chicago Law Review 70, no. 4 (Autumn 2003): 1159-1202;
Richard H. Thaler and Cass R. Sunstein, Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness (Yale University Press, 2008). 遠藤真美訳『実践行動経済学 : 健康、 富、幸福への
聡明な選択』(日経 BP 社、2009 年)。なおここまでの LP の議論の動向と、法理論上の問題の整 理とその展開については、那須耕介「リバタリアン・パターナリズムとその 10 年」『社会システ ム研究』19 号(2016 年)、1-35 頁を参照。
在を、あらゆる個人同様に配慮の対象とすべき他者として承認するか否かが、「妊 娠を継続するかどうか、ゆっくりよく考えてください」という問いの下で問われ ている。妊婦らがこうした決断をする立場に立つこと/立たされることが抱える 事実問題については、より実体的な調査検討を要する。明らかなことは、胎児の 特性(染色体の変異)という事実によって胎児を向き合うべき他者として承認す るかどうかを決定する要因とする、それを可能にする技術を(時に率先して)利 用する立場に、妊婦らは立っているという事実である。
脆弱な存在との間にケア関係を構築することを規範的に要請するケアの理論 は、このような胎児を前にして、脆弱な存在である他者として承認するのかどう か、またそれはどのように正当化し得るのか、という問いに対峙しなければなる まい。個人の尊重を基盤とするリベラリズムもまた、このような胎児にいかに向 き合うべきかという規範的4 4 4問いに応答しなければならない。生殖補助技術の利用 と法(制度)のあり方問題は、生のはじまりに関わる法理論上のはじまりの問題 を、私たちの社会に提示しているのであり、この問題に他者への承認問題につい て、どのような問いを立て、また建てられた問いに応答をするのか。この社会を 支える規範理論の構想は、ここから始まるのである。
ABSTRACT
Respect of individuals and the approval of others:
Considerations in light of new prenatal testing technology
Akiko Nozaki
This study focuses on the period at the beginning of life when a pregnant woman undergoes prenatal testing. A new type of technology involving Non- Invasive Prenatal genetic Tests that were developed and commercialized by US corporations are now being clinically tested in Japan. This technology can easily check for fetal chromosome abnormalities with a high degree of accuracy; it is on the verge of becoming available for potential use and widespread circulation in Japanese society. This technology makes it possible to decide whether to create a human being with certain genetic traits, and to let that person become a member of society for the very reason that this human may not have had specified traits without scientific intervention.
The technology makes it possible for all parties involved – with a focus on the pregnant woman – to make this important decision. In terms of creating a person perceived as “better” and whose health is continuously maintained, one positive aspect of choosing to undergo testing is the essential significance of the relationships between parents and children, as well as within families (the basic social unit).
However, it is another question entirely whether to make the person a member of society, and that is the problem of determining whether to make the person a social subject. This paper seeks to shed light on what kinds of normative ideas are exhibited by care theories (such theories mandate the preservation of good relationships), and to demonstrate the potential for practical challenges. Furthermore, it is hoped that this issue will stimulate dialogue on the theoretical matters that clarify the difference between “respect of individuals” (which is the foundation of liberalism) and the “maintenance of good relationships.” It is clear that this topic is worth studying.