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図1-1 賃金=地代比率の国際比較

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1章 場としての「東アジア」―その共通性と差異性をめぐって

本章は、比較史の“共通の基盤”を求めて、東アジア地域を分析単位として、貿易構造 などについて概観する。すなわち、貿易統計や二次文献を使用して、マクロ的観点から戦 前期東アジアの貿易動向を分析し、そこにある共通性と差異性を明らかにする。その目的 は、第3章以降の比較史において不可欠な“共通の基盤”を提供することである。

この目的には 2 つの側面がある。第一の側面は、世界経済における東アジアの位置づけ である。近代に入って、東アジアがどのような役割を担って世界市場に参入し、経済成長 を遂げたか、を解明することである。結論を先取りすれば、第一の視角からは、東アジア の共通性が浮かび上がる。その共通性の解明は、当初はとりわけ日中の間で、熾烈な「ア ジア間競争1」が繰り広げられた背景を探ることにつながる。それに対し、第二の側面は、

東アジアという場内部の役割分担、すなわち分化の過程を探ることにある。東アジアは、

共通性を孕みつつも、近代化などの面で違いが生じた。第一の共通性との関係でこの違い を明らかにすることは、比較史の重要な課題であるが、そのためには分化の過程をマクロ 的に解明することが不可欠である。地域の需要や要素賦存などの共通性を基盤とした「ア ジア間競争」は、逆に言うと、競争相手の内部で比較優位を持つ産業と持たない産業とを 生む結果、競争相手の間に経済的差異を生みだす可能性がある。その結果、その差異を原 動力として、「アジア間貿易」を拡大させる原動力になるのである。

1.共通する場としての「東アジア」

東アジア地域を世界経済からみた場合、ある種の共通した地域的広がりがある。中国的 文化圏に属するなどの文化 的共通性は言うまでもない が、この地域には経済的共 通性も存在していることを 強調したい。

図1-1 賃金=地代比率の国際比較

50 100 150 200 250 300

188084 188589

189094 189599

1900~

04 190509

191014 191519

192024 1925~

29

[出所]Williamson, "Land, Labor and Globalization・・・” [注]1911年=100

シャム パンジャブ イギリス 日本

朝鮮 台湾 アメリカ

近年、1870 年から 1914 年までの時期を「グローバ ル化」の時期と捉える研究 が多くなっている。通説的 理解に従えば、1843年に中 国、1858年に日本、1876年 に朝鮮が開国し、関税自主 権が認められなかったため に、各国は自由貿易を採用 せざるを得なかった。その ため、東アジア三国は、欧

1 「アジア間競争」については、川勝平太「日本の工業化をめぐる外圧とアジア間競争」(浜下武志・川勝 平太編『アジア交易圏と日本工業化 1500―1900』リブロポート、1991年[2001年に藤原書店より復刊]

所収)、181~189頁。

(2)

米のみならず、アジアからも影響を受けるようになったのである。

この開港によって、東アジア諸地域はどのような共通した変化を被ったのであろうか。

ここでは、J・ウィリアムソンの研究2に従って、自由貿易に直面した際の対応の共通性を検 討したい。氏は、世界各地域の賃金と地代の比を計算し、その比が収斂する「要素価格均 等化の法則」が戦前期の国際経済で成立していることを証明した。その賃金=地代比率を グラフ化したのが図1―1である。データ不備のために、中国の賃金=地代比率は算出され ていないが3、日本・朝鮮・台湾の賃金=地代比率は、同図のイギリスに代表される西ヨー ロッパ諸国と同様に上昇している反面、逆に他のアジア諸地域(同図ではタイ・パンジャ ブ)では、新開国(同図ではアメリカ)と同様、低下する傾向が見いだされた。この図か ら導かれることは、日本・朝鮮・台湾(おそらく中国も)では、自由貿易以前から土地が 稀少であり労働が豊富に存在したことである。ヘクシャー=オリーン・モデルに従えば、

自由貿易下では労働集約的産業が比較優位産業・輸出産業になる一方、土地集約的産業は 比較劣位になる。図 1-1 を見る限り、その傾向は否定できない。日本・朝鮮・台湾では、

労働集約的・土地節約的産業に比較優位があるため、賃金が相対的に上昇し、逆に地代が 相対的に下落する結果、賃金=地代比率が上昇したと考えられる。逆に、他のアジア各地 や新開国では、土地が豊富にあり労働が相対的に稀少であるため、土地集約・労働節約的 産業に比較優位がある結果、地代が相対的に上昇し賃金が相対的に低下したと考えられる4。 アジアのみに限れば、東アジアは東南アジア・南アジアと異なり、土地が稀少で労働が豊 富な経済であり、賃金=地代比率に関する限り、共通した変化を受けたと言える。

日本はどのような商品を輸出してきたのか、表 1―1 から概観しよう。時が経つにつれ、

農産物・鉱産物から労働集約的な半加工品・手工業製品へと主役の座が移っている。後述 する中国との関係で言えば、生糸・茶・綿織物・花莚・陶磁器など、当初から中国と競合 する品目が目立つ。本稿で取り上げる輸出品の位置についても、同表から明らかになろう。

次に、中国が輸出した在来的手工業はどのようなものであろうか。彭澤益氏によれば、

重要な手工業品の67品目のシェアは中国全体の輸出額の3~4割を占め続けたという5。そ の内訳を見ると、金額が多い順に、各種茶・各種糸(主に生糸)・各種子餅(主に大豆粕に 当たる)・各種植物油・絹織物(綢緞・繭綢)・蓆などが続いている。これらの品目は、日 本との関係からみると、大きく二分することができる。第一に、茶・生糸・絹織物・蓆に 代表される日本と競合した輸出品である。それらより金額は小さいが、花・白草帽辮(真

2 Williamson, Jeffrey G., “Land, Labor and Globalization in the Third World, 1850-1940,” (in Journal of Economic History, Vol.62, No.1, 2002).

3 中国については、断片的ながら、190633年まで賃金=農地価格比率を計算することはできる。それに よると、第一次大戦まで低下傾向で、それ以降は上昇し、同期間全体では、横ばい、または上昇傾向であ った。ただし、ここでは、Williamson推計と違い、農地の価格を使っている。地代は、理論上、地価に(利 子率+リスク・プレミアム)を掛けたものに近似でき、金融の発達によって利子率が低下傾向にあった点 を考慮すると、賃金=地代比率は、第一次大戦前でも横ばい、または上昇していたとも考えられる。いず れにせよ、データ不足から、説得力のある結論は得られない。データは、王玉茹「相対価格変動と近代中 国の経済発展」(on the website: http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP97.32/97_32.html#3, recently accessed on December 25, 2005)のものを使用した。

4 東南アジアでは、東アジアと違い、土地が相対的に過剰で、労働・資本が不足していた。その東南アジ アの事例から、「余剰のはけ口(vent for surplus)」理論がミント(Myint)によって提唱されたのも、偶然で はなかろう。

5 1840—1949 1962 816

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田なども含む)、綿織物(土布)、磁器、草帽などもここに属すると言えよう。第二の種類 には、各種子餅や麻織物のように、要素賦存・歴史的経緯・文化的要因などのため、日本 と中国があまり競合していない輸出品である。そこには、爆竹や豆素麺(粉絲)なども含 まれよう。両大戦間期にはまだ重要度は低いが、靴下など、徐々に日中が競合した品目も 見られる。いずれにしても、この統計には、農産物・鉱産物が含まれていないが、手工業 品で日本と中国がいかに競合していたか、が分かるであろう。

1-1 戦前期日本における主要貿易品目の変遷

1885 年 1900 年 1910 年 1925 年 1935 年

1 生糸 13,034 生糸 44,657 生糸 130,833 生糸 879,657 綿織物 496,097 2 茶 6,854 綿糸 20,589 綿糸 45,347 綿織物 432,850 生糸 387,032 3 石炭 1,976 石炭 20,032 絹織物 32,797 綿糸 123,117 人絹織物 128,260 4 銅 1,859 絹織物 18,604 銅 21,176 絹織物 116,985 絹織物 77,444 5 スルメ 904 銅 12,922 綿織物 20,463 陶磁器 35,272 鉄 65,836 6 米 767 茶 9,036 石炭 16,301 石炭 33,201 缶瓶詰 57,130 7 陶磁器 695 マッチ 5,760 茶 14,542 精糖 32,254 メリヤス製品 50,266 8 熨斗糸 672 綿織物 5,724 マッチ 10,390 メリヤス製品 30,979 陶磁器 42,735 9 昆布 652 絹織手巾 4,319 真田 9,096 屑糸 28,488 鉄製品 37,504 10 樟脳 558 真田 4,163 精糖 6,098 ガラス 17,328 綿糸 35,873 11 漆器 468 米 3,577 メリヤスシャツ 6,012 鉄製品 14,709 玩具 33,852 12 屑糸 463 花莚 3,310 米 5,900 茶 14,763 小麦粉 33,700 13 葉煙草 389 屑糸 3,200 陶磁器 5,513 小麦粉 13,942 毛織物 32,401 14 木蝋 372 樟脳 3,070 屑糸 5,371 缶瓶詰 13,614 植物油 31,607 15 寒天 346 陶磁器 2,472 絹織手巾 4,862 薄荷脳 12,478 ガラス 23,337 16 襤褸 243 スルメ 1,159 花莚 3,937 真田 12,297 自転車 22,676 17 繭 158 漆器 1,066 熨斗糸 3,046 玩具 10,789 染料 20,310 18 扇子 138 寒天 964 樟脳 2,964 ゴムタイヤ 9,470 精糖 17,577 19 硫黄 137 熨斗糸 961 スルメ 1,984 帽子 9,068 帽子 16,284

20 魚油 108 扇子 949 缶瓶詰 1,962 マッチ 8,733 鉄道客車 16,180

計 37,147 204,430 458,429 2,305,590 2,499,073

[出所]横浜市『横浜市史資料編二、日本貿易統計1868~1945』1962年より作成。

[注]右欄は金額(単位は千円);網掛けは本稿で取り上げる品目。

表1―2は、安場保吉氏が作成した表を加筆・修正したものである。同表は、統計が得ら れる動力機の馬力数を資本に置き換えられると想定して、資本・労働比率に当たる「職工 当たり馬力数」を算出したものである。開港直後から日本・中国がともに輸出していたこ とを意味する“A”が付された産業では、職工当たり馬力数は0.1を下回っている。これは、

労働集約的・資本節約的な産業に比較優位があったことを物語る。興味深いことに、マッ チを除いて主な輸出先は欧米である。欧米では既に資本蓄積が進んでいたために、資本集

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約的産業に比較優位があり、労働集約的産業が比較劣位化していたと考えられる。そうで あるならば、欧米が日中の労働集約的産業にとって重要な輸出先となったことは、要素賦 存の理論とも符合する。

そして、B・Cと中国と競合する時期が遅れるにつれ、資本集約度が上昇している。換言 すれば、アジアを主要な輸出先とした産業、もしくは輸出が少ない産業は、総じて資本集 約的な産業であった。その点からは、資本蓄積の格差を通じて、相対的に資本集約的な製 品は、日本から東アジアや東南アジア・インドに輸出されたことが考えられる。

1-2 工場における資本集約度(職工一人当り馬力数)と輸出先(1902年)

産業 職工当り 馬力数

日本の 輸出先

中 国 と

の関係 産業 職工当り 馬力数

日本の輸 出先

中 国 と の関係 藺・麦稈 0.000 米国 A 製茶 0.087 欧米 A マッチ 0.000 アジア B 綿織物 0.116 アジア A or B 陶磁器七宝 0.007 欧米 A 金属精錬 0.226 輸出少 C

絹織物 0.026 欧米 A メリヤス 0.239 各地 B

ガラス琺瑯 0.040 欧米 B 綿糸紡績 0.274 アジア B

生糸 0.065 欧米 A 製紙(西洋) 1.431 輸出少 C

漆器 0.084 欧米 A 製糖(近代) 3.584 アジア少 C

[出所]安場保吉「産業革命の時代の日本の実質賃金―比較経済史的アプローチ」(『社会 経済史学』第71巻第1号、2005年所収)表3を『第19次農商務統計表』1904年、510~

529頁を使い修正加筆。

[注]馬力数・職工数は、1902年の日本における数値。「中国との関係」欄の記号は、A=

「当初から輸出市場で競合」;B=「第一次大戦前後から輸入代替化し輸出でも競合」;C=

「戦前には輸出で競合にならず、もしくは輸入代替化すらせず」。特にBとCの区別は、上 海總税務司署統計科編印『海關中外貿易統計年鑑』民國25年、上册;上海中支建設資料整 備事務所『支那工業調査報告』(「編訳彙報」第72編)、1941年などから分類。網掛けは本 論文で取り上げる産業。

以上まとめると、以下の 2 点が重要である。第一に、東アジアと欧米との関係について 言えば、日本と中国において、労働集約的産業に比較優位があり、主に欧米市場を輸出先 としたこと、第二に、東アジア域内について言えば、綿織物や綿糸紡績、製糖業など、資 本蓄積の程度によって比較優位が決定されたことである。後者の場合、資本蓄積の変化を 通じて、日本の産業構造が労働集約的産業から資本集約的産業に変化し、中国でもタイム ラグを伴いつつ同様の変化が生じたのである。

「雁行形態」を提唱した赤松要氏は、戦前期における日中貿易の展開を、≪同質的相剋 関係(以下、同質化)→異質的相促関係(以下、異質化)→同質的相剋関係(以下、再同 質化)≫の 3 期に大別している。当初、日中両国は、ともに茶や生糸(本論文の花莚・陶 磁器も含まれよう)を輸出する同質的貿易構造であったため、日中貿易はそれほど重要で はなかった。しかし、日本が工業化を遂げ、綿製品輸出を開始すると、日中両国の貿易構

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造が異質化し、日中貿易の重要性が高まった。やがて、1920 年代に入ると、中国でも紡績 業(本論文のメリヤス製造業も含まれよう)などで、輸入代替化が進展し、日中貿易の重 要性は再び小さくなった6。氏は、この日中貿易の変化を、国内の雁行形態的発展(輸入→

輸入代替化→輸出)と関連させて論じたのである。

この変化を日本側から見ると、表1―3のようになる。そこから、赤松氏の議論を確認し ておこう。中国との貿易を考える場合、中継貿易の多い香港の比率も考慮する必要がある7。 香港の分がすべて中国との貿易と見なすことはできない。たとえば1890年には、中国向け が9.5%、香港向けは17.1%であったが、香港向けがすべて中国向けとは言い切れないため、

1913年の比率の方が高いと見てよかろう。そのように見ると、中国・満州8・香港の比率は、

輸入面で横ばい、輸出では上昇しており、第一次大戦までは赤松氏の言う異質的相促関係

(異質化)と符合する変化が見られる。しかし、1925年・35年となるのにつれ、中国・満 州の比率は 17%まで低下し、香港も低下した。当初、日本と中国は生糸・茶などで競合し たため、中国のシェア(特に輸出におけるシェア)は比較的低かった。しかし、日本が工 業化するにつれ、中国は綿業など、日本製工業製品の主要市場になった結果、中国のシェ アは上昇した。しかし、第一次大戦を契機に、在華紡の進出や中国民族企業の台頭によっ て、輸入代替化が進行したため、再び中国のシェアは低下したのである。

1-3 日本本土の地域別貿易構成(単位:%)

輸 入 輸 出

1890年1900年 1913年1925年1935年 1890年 1900年 1913年 1925年 1935年 朝鮮 5.8 3.0 3.3 10.2 14.9 2.3 4.8 5.6 8.8 17.1 台湾 - 1.5 5.2 6.9 9.7 - 4.1 6.0 4.9 6.7 中国・満州 11.6 10.4 11.9 12.6 10.8 9.5 15.4 25.8 21.3 17.6 香港 8.8 3.7 0.2 0.0 0.0 17.1 19.0 4.7 2.8 1.5 東南アジア 0.6 4.8 10.4 7.4 6.2 0.4 0.9 3.3 6.4 8.8 他のアジア 11.8 8.2 22.3 18.6 9.6 1.1 4.2 4.2 6.8 11.2 ヨーロッパ 52.2 43.7 28.4 14.4 10.8 28.2 20.8 20.6 5.7 8.0 北米 9.1 21.8 16.0 22.7 26.5 37.9 26.9 26.5 38.7 16.6

[出所]山澤逸平・山本有造『長期経済統計 14 貿易と国際収支』東洋経済新報社、1979 年、第13・14表より作成。

中国側の統計にも、同様の変化が表れている。表1―4はその変化を示している。こちら でも、香港の比率が高く、香港経由の貿易がある点を考慮しなければならない。1890 年に

6 赤松要「東亜貿易の歴史的類型」(東京商科大学東亜研究所編『東亜経済研究年報』第一輯、日本評論社、

1942年所収)参照。

7 中国の輸出入には、香港経由の貿易も存在する。香港では、東南アジアからの貿易が、他の港より、多 い傾向にあるが、1920年代から30年代にかけ、輸出ではアメリカの比率が高まり、輸入でもアメリカか らの比率はイギリスに近い比率となっている。Jarman, J. L. ed., Hong Kong Annual Administration Reports, 1841-1941, Vol.4-5, Archive Edition, 1996の貿易統計より計算。

8 「満州」は通常「 」を付するのが通例であるが、本章では頻繁に登場するため、「 」は省略する。

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は、香港を除くと、イギリスが輸出入ともに首位であり、輸出では欧州大陸・ロシアが、

輸入ではインド・日本が続いている。第一次大戦直前になると、香港を除くと、日本が輸 出入ともに首位になり、1925 年にピークとなる。その後、アメリカのシェアが輸出入とも に上昇し、日本の比率は1935年に低下している。ここで、日本を主な貿易相手とする満州 が1925年以前の数値に含まれているため、満州を除く中国本土にとっては、日本のシェア がそこまで上昇・低下していないと言うこともできる。しかし、貿易港を基準に中国本土 と満州に分けても、上昇・低下幅は小さくなるものの、戦間期に日本のシェアが低下し、

アメリカが首位になる事実は揺るがない。このような変化から、赤松氏は日中の貿易構造 が≪同質化→異質化→再同質化≫という過程を辿ったと説明したのである。

1-4 中国の地域別貿易構成(単位:%)

輸 入 輸 出

1890年1900年 1913年1925年1935年 1890年 1900年 1913年 1925年 1935年 アメリカ 2.9 7.5 6.0 14.8 18.9 8.1 9.3 9.3 18.4 23.7 欧州大陸 1.9 4.6 - - - 13.3 15.7 - - -

フランス - - 0.9 1.3 1.4 - - 10.1 8.5 5.1 ドイツ - - 4.8 5.8 11.2 - - 4.2 2.9 5.0 イタリア - - 0.1 0.6 1.4 - - 2.1 1.3 1.3 オランダ - - 0.2 1.1 0.5 - - 2.2 1.4 2.6

ロシア 0.7 2.0 3.8 1.4 0.8 10.2 7.8 11.1 6.2 0.7 イギリス 19.1 20.5 16.5 9.7 10.6 15.0 5.9 4.1 6.1 8.6

インド 8.0 7.6 8.2 4.0 3.8 1.2 1.8 1.5 1.5 3.5 香港 56.0 42.2 29.3 18.3 2.2 37.8 40.2 29.0 14.8 16.5 日本 5.7 11.6 20.4 31.1 15.1 5.5 10.7 16.3 24.0 14.2 朝鮮 0.0 0.5 0.6 1.0 0.3 0.5 0.5 1.7 4.0 2.0

[出所]Hsiao, Liang-lin, China’s Foreign Trade Statistics, 1864-1949, Harvard University Press, 1974, pp.22~24; pp.137~164.

[注]1935 年のみ「満州国」を除く。1904 年以前の欧州大陸各国は、Continent of Europe で一括されている。

但し、貿易構造や産業構造の面で(再)同質化が生じたとしても、その他の面すべてで 同質化することはあり得ない。この同質化は「アジア間競争」を激化させるが、その競争 の中で、アジア諸地域間の制度間競争を際立たせることになる。その違いを解明すること は第 4 章以降の課題であるが、本章では、異質化と同質化が、東アジア各地域間にどのよ うに表れたかを解明しつつ、「比較史の場」としての東アジアの意義を強調したい。

2. 第一次大戦前後までの同質化と異質化―4地域の共通性と差異性

東アジアを(満州を除いた)中国本土・朝鮮・台湾・満州の 4 つの国・地域に分け、そ れぞれの特質を解明する。特に中国を、満州と満州以外の中国本土とに分割したのは、後

(7)

述するように、2地域の経済的特質が異なっていたためである。同質化と異質化の動きを分 析する尺度として、一次産品と綿関係品の動向に着目して検討を進めたい。

(1)(満州を除く)中国本土

表1-5を使って中国本土の貿易構造を検討しよう。この統計には満州が含まれているが、

後述する満州の変化を考慮することにより、ある程度の趨勢を把握することができよう。

輸出では、少数の一次産品に特化することはなかった。19 世紀末には、生糸・絹製品・

茶を合わせたシェアは、8割程度を占めた。当初は、日本も生糸・茶が二大輸出品であった から、日本も中国も共通した輸出構造を持っていた。そして、その主要な輸出先は欧米で あった点も共通している。しかし、これらの輸出品は1920年代には2割前後にまで低下し た。輸出品の多様化が進んだのである。現に、1913~28 年の間に、満州を含んだ中国にお ける貿易数量の年成長率は2.9%であったのに対し、生糸輸出量の年増加率はそれより低い 約1.6%であった。ただし、中国の輸出品で急増した品目は、満州からほとんど輸出されて いた大豆三品であるため、本章の区分から見ると、中国本土の貿易から区別されなければ ならない。そのため、満州を除いた中国本土の輸出はさらに多様化していた。「満洲国」が 分離した後の1934年には、中国本土の輸出は、首位が茶の6.7%であり、次いで綿紗(5.9%)、

金属・鉱物(5.7%)、卵及び同産品(5.6%)、皮製品など(5.4%)、絲繭(5.4%)、桐油(4.9%)

の順になっており、同時期に絹関係品の価格が低下したという例外的状況であったとはい え、多様な製品が輸出されていたことが言えよう9

1-5 (満州を含む)中国の貿易構造

1880年 1890年 1905年 1913年 1920年 1925年 1928年 1931年 生糸・絹製品 38.0 33.9 30.1 25.3 18.6 22.5 18.4 13.3 茶 45.9 30.6 11.2 8.4 1.6 2.9 3.7 3.6 大豆 0.2 0.4 3.0 5.8 ― ― ― ― 大豆・大豆粕 ― ― ― 12.0 13.0 15.9 20.5 21.4 輸

出 品

油・種子 0.1 0.6 3.4 7.8 9.1 7.9 5.8 8.4 アヘン 39.3 19.5 7.7 7.4 ― ― ― ― 綿製品 24.9 20.2 25.6 19.3 21.8 16.3 14.2 7.6

綿糸 4.6 15.3 15.0 12.7 10.6 4.4 1.6 0.3 穀物・小麦粉 0.1 9.6 2.9 5.2 1.1 8.4 8.3 12.6 輸

入 品

砂糖 0.4 0.9 5.1 6.4 5.2 9.5 8.3 6.0

[出所]Cheng, Yu-kwei, Foreign Trade and Industrial Development of China, Greenwood Press, 1956, pp.19, 32, 34. [注]単位は%。

先述した彭澤益氏によると、中国の輸出で重要と思われる手工業製品67品目の実質輸出 価額は、1912~31年の間、年率1.1%で増加していた10。中国は広大な地域を包含し、さま ざまな産品が地域ごとに生産・輸出されたために、これらの労働集約的な手工業品がモノ

9 、前掲『 …』 816

10 中華民國海關總税務司署『海關中外貿易統計年鑑』民國23年、上册、第六圖参照。

(8)

カルチャー・モノエクスポート化を妨げたと言える。日本と中国はともに多様な雑貨を輸 出する“雑貨生産・輸出国”として世界市場に登場した面があったのである。その点のみ 取り上げれば、日本と中国の特徴は似通っていたと言えよう。

次に、同表を使って、輸入を見よう。19世紀末には、アヘンが3~4割を占め、最大の輸 入品であったが、その後、アヘンの比率が低下した。アヘンに代わって台頭したのが、2割 程度で最大の輸入品となった綿製品であった。当初、綿織物の輸入は増加したが、1890 年 代から綿糸輸入の比率が 12~15%まで上昇し、綿糸を除いた綿製品と拮抗するようになっ た。1890年以降、村上氏の言う「綿糸・綿布輸入並列」型構造が確認される11

表1-6は、フォイヤワーカー(Feuerwerker)氏による中国における綿製品の生産推計を 示したものである。綿糸の推計を見ると、20世紀初頭には、輸入綿糸が国内消費量の4割 を占めるまで浸透したが、その後、綿糸の輸入代替化が進み、1930 年代には外国製綿糸は 駆逐されている。さらに、手紡糸も外国製綿糸・国内工場製綿糸に駆逐された。それに対 し、綿布を見ると、中国の綿布自給率は20世紀初頭でも7割強の高水準にあり、手織も根 強く残存していた。その後、力織機生産が急増しているが、手織機生産も増加し、近代的 織物業と在来的織物業(手織)が並行的に成長したことが窺える12。中国の「綿糸・綿布輸 入並列」型構造は、綿製品輸入が増加したにもかかわらず、家内生産が根強く残存し、か つ成長したことの反映であった。在来的工業が広範に存在し近代的工業と並行的に成長し たと言われる日本13に近い傾向すら看取できる。

1-6 中国の綿業生産推計

1871~1880年 1901~1910年 1934/35年

国内工場綿糸生産 ― ― 105.5 18.0 814.1 83.1 手紡糸生産 488.2 98.0 245.0 41.8 165.1 16.9 外国綿糸輸入 9.7 2.0 236.3 40.3 ― ―

綿糸総供給 497.9 100.0 586.8 100.0 979.1 100.0 力織機綿布生産 ― ― 24.5 1.0 1471.0 37.8 手織機綿布生産 1612.5 81.1 1849.9 73.2 2329.0 59.9 外国綿布輸入 376.2 18.9 654.2 25.9 89.0 2.3 綿布総供給 1988.6 100.0 2528.6 100.0 3889.0 100.0

[出所]Feuerwerker, A., “Handicraft and Manufactured Cotton Textiles in China, 1871-1910” (in Journal of Economic History, Vol.30, No.2, 1970), pp.356, 358, 359, 372.

[注]綿糸の左欄における単位は百万担。綿布の左欄における単位は百万平方ヤール。数 値は各年平均。右欄は、綿糸・綿布総供給に占める比率で、単位は%。

先述した同質化と異質化の変化は日本と中国の間で生じていたが、後述する他地域に比

11 村上勝彦「日本資本主義による朝鮮綿業の再編成」(小島麗逸編『日本帝国主義と東アジア』アジア経済 研究所、1979年所収)

12 Hou, Chi-ming, “Economic Dualism: the Case of China 1840-1937” (in Journal of Economic History, Vol.23, No.3, 1963).

13 中村隆英『戦前期日本経済成長の分析』岩波書店、1971年。

(9)

べると、異質化の程度は小さかった。時系列的に見ると、確かに日中貿易の重要性は異質 化の時期に大きくなったが、日本の植民地・勢力圏に比べればその程度は小さかったと言 える。しかし、この同質化の作用は、当初の日中両国の輸出構造が類似していたことを意 味し、それらを比較することは、日本と中国の経済の違いを解明する上で、一つの比較対 象になりうることも示していよう。

(2) 朝鮮

植民地期を検討する前に、まず日韓併合以前の貿易構造を概観しよう。まず、当時の朝 鮮の輸出がコメを中心としていたことを確認しておこう。主要貿易相手である日本向け輸 出額に占めるコメの比率を計算すると、同比率は1896年に56%、1908年に44%であった。

それに対し、輸入では、主要輸入品である綿製品の、日本からの輸入額に占める比率は、

1896年で42%、1908年で 28%となっていた。同比率の低下からは、輸入の多様化傾向が 窺えるが、綿製品が主な輸入品であることに変化はなかった。綿製品のうち、綿布と綿糸 の比を価額データから求めると、その比はほぼ2:1であった。そこからは、当時の朝鮮の 綿関係品貿易が「綿布輸入主軸」型であったと特徴づけられる。当時の日朝貿易は、日本 が朝鮮に綿製品、中でも綿布を輸出し、コメ・大豆を輸入する構造になっていたのである14

1-7 植民地期朝鮮における主要貿易品構成

1911~15年 1916~20年 1921~25年 1926~30年 1931~35年 コメ 13,784 44.1 58,871 41.0 128,034 46.9 165,271 48.6 181,376 46.3 大豆 4,784 15.3 12,581 8.8 22,292 8.2 22,074 6.5 17,871 4.6 輸

出 総額 31,267 100.0 143,530 100.0 273,203 100.0 340,014 100.0 391,589 100.0 綿織糸 2,169 3.4 3,821 2.2 5,095 1.8 6,811 1.7 7,485 1.7 綿織物 12,732 20.2 33,808 19.8 41,394 14.7 39,273 10.0 35,640 8.2 粟 1,271 2.0 7,610 4.4 14,315 5.1 26,241 6.7 14,558 3.3 輸

入 総額 63,043 100.0 171,079 100.0 280,764 100.0 391,944 100.0 434,712 100.0

[出所]東洋経済新報社『日本貿易精覧』同社、1933 年;朝鮮総督府『朝鮮貿易年表』各 年版より作成。 [注]左欄の単位は千円、右欄は比率で単位は%。数値は5年間の平均。

次に、植民地時代における朝鮮の貿易動向を検討する。表1-7は1911~35年における貿 易構造の変化を示したものである。まず、1930年までに着目しよう。コメの比率を見ると、

同比率が44%から49%に上昇し、コメ中心の構造は逆に強化されたことが分かる。1920年 代は、産米増殖計画を通じ、朝鮮のコメ移出が拡大した時期であった15。その証左としてコ メの輸移出・生産比率(=輸移出量/生産量)を挙げると、1920年代初頭の3割弱から、

1930年代には5割超に上昇した16。主に輸移出用であった改良種の生産比率も、1910年代 半ばの4割から1920年代末には8割に上昇していた17。いずれの変化も、日本本土に向か

14 このデータは、村上勝彦「植民地」(大石嘉一郎編『日本産業革命の研究(下)』東京大学出版会、1975 年所収)による。

15 林炳潤『植民地における商業的農業の展開』東京大学出版会、1971年参照。

16 東畑精一・大川一司『朝鮮米穀経済論』日本学術振興会、1937年、140141頁。

17 同上書、60~63頁。

(10)

ってコメ移出を拡大させた事実を裏付けている。

続いて、輸移入品を検討する。同表をみると、当初、綿糸布が輸移入総額の23%を占め、

日本の植民地になっても主要輸移入品であり続けたことが分かる。輸移出総額に占める軽 工業品の比率は、1920年代前半まで6割、1920年代後半でも常に50%を維持し18、軽工業 品が輸移入品の主である傾向は維持されたと言える。

綿関係品貿易の中では、どのような変化が見られたのであろうか。日本から移入された 綿糸布に占める綿織物の比率は、1902年の66.7%から、1912年の80.6%・1925年の81.0%

へと上昇した19。外国からの輸入を加味しても、表1-7から、同比率は85~90%に達した。

以上から、「綿布輸入主軸」型構造は、1930年頃まで維持・強化されたのである。

この「綿布輸入主軸」型の構造は、農家の手織生産の衰退を示唆している。朝鮮に関す る木村光彦氏の推計を、表1-8に掲げておこう。

李朝末期には、副業として綿織物を織る農家が広範に存在したが20、木村推計をそのまま 信じれば、農家副業による綿織物の生産量が増加していた。しかし、1910 年代の統計には 信頼性が薄く、時が経つにつれ、統計の精度が高まったため、綿織物生産がこれほど急増 したとは考えにくい。木村氏自身が認めるように、むしろ一戸あたりの生産量に着目すべ きである。それは捕捉可能であった農家の一戸当たり生産量を示すためである。そのよう に見ると、一戸当たりの生産量が微減しており、結論としては、漸減した、少なくとも停 滞していたと言えそうである。

1-8 朝鮮における家内工業綿織物生産

1911年 1914年 1918年 1923年 1927年

生産戸数(千戸) 479.8 709.6 738.8 886.7 948.9 生産量(千反) 2988.8 4271.0 3911.5 4963.3 5210.4 一戸当生産量(反) 6.2 6.0 5.3 5.6 5.5

[出所]木村光彦「植民地下朝鮮の紡織工業」(安場保吉・斎藤修編『数量経済史論集3 プ ロト工業化期の経済と社会―国際比較の試み』日本経済新聞社、1983年所収)、232頁。

朝鮮内で生産された綿布が域内消費量に占める割合についても検討しよう。たとえば 1928年には、朝鮮内の綿布生産量は約4,950万平方ヤールであるのに対し、輸移入量は1.74 億平方ヤールであったと言う。その数値から計算すると、綿布自給率は2 割程度であり21、 朝鮮における綿布自給率は低かったことが分かる。綿製品では、副業を含む域内生産が停 滞、もしくは減少した結果、海外貿易への依存を高めたことが窺える。

朝鮮では、開港後から形成されたコメ中心の輸出構造、「綿布輸入主軸」型構造は変わら なかった。輸入の多様化が見られ、変化の兆しが徐々に見られたものの、1920年代までは、

18 山澤逸平・山本有造、前掲『長期経済統計14』第11表より計算。軽工業品とは、工業製品全体から重 工業品を引いたものとして計算。

19 行沢健三・前田昇三『日本貿易の長期統計―貿易構造史研究の基礎作業』同朋舎、1978年の表B-1X

B-2X、表B-3Xより計算。

20 梶村秀樹『朝鮮における資本主義の形成と展開』龍溪書舎、1977年、52109頁参照。

21 堀和生『朝鮮工業化の史的分析―日本資本主義と植民地経済』有斐閣、1995年、67頁、表2-9より。

(11)

綿とコメを交換する貿易構造、「綿布輸入主軸」型構造を覆す変化はなかったと言ってよい。

この構造は、アジア間競争の結果として、異質化の力が働いたことも意味する。ただし、

日本にも米作を中心とする農業が優勢であり、この異質化は内地内部で比較劣位化に伴う 摩擦を生んだことは、1930年代の変化を予期するものであったことを付け加えておきたい。

(3) 台湾

次に台湾を見よう。まず、植民地以前の台湾の貿易構造を概観したい。輸出では、1860 年代末に砂糖が輸出総額の約60%を占めたが、1890年代前半にはそのシェアは26%まで低 下した。代わって、茶が1860年代末の9%から1880年代後半の67%に上昇して、最大の 輸出品となった22。このように、輸出品の主役交替があったものの、植民地以前は、輸出が 主に砂糖・茶によって占められた「バイエクスポート」(もしくは「バイカルチャー」)と でも呼べる構造になっていた。

日本の台湾領有後、アヘン輸入が禁止され、中国大陸との貿易が相対的に低下するなど、

台湾の貿易構造は変化した。表1-9は、1911~35年における台湾の貿易構造の変化を示し たものである。まず1930年までに着目したい。同表からは、砂糖が輸移出の50%前後を占 めたことが分かる。砂糖を帝国内で自給化することは、日本にとって、国際収支均衡など の国益にかなうものとみなされていた。このような理由から、1910 年代までは砂糖の比率 は上昇し、砂糖モノカルチャー・モノエクスポートの傾向が強化されたと言える。しかし、

1920年代に入ると内地のコメ不足が表面化したため、台湾では、「米糖相剋」という限界が あったものの、朝鮮とともに米作が重視され、帝国内のコメ自給が企図された23。その一例 が内地種に近い蓬莱米の導入・普及であった24。同表からも、コメの輸移入比率は、1920 年以降、上昇したことが読みとれる。

1-9 植民地期台湾における主要貿易品構成

1911~15年 1916~20年 1921~25年 1926~30年 1931~35年 コメ 9,822 15.6 19,518 12.3 35,544 17.3 54,474 21.6 75,283 27.5 砂糖 29,421 46.7 87,381 55.3 105,119 51.2 121,638 48.3 128,176 46.9 輸

出 総額 63,020 100.0 158,095 100.0 205,157 100.0 251,971 100.0 273,338 100.0 アヘン 2,557 4.5 4,926 4.2 1,776 1.3 896 0.5 511 0.3 綿織物 5,420 9.6 7,289 6.2 9,368 6.9 16,318 8.7 15,984 8.2 肥料 3,599 6.4 13,057 11.2 17,395 12.7 26,394 14.2 28,587 14.7 輸

入 総額 56,608 100.0 117,003 100.0 136,520 100.0 186,837 100.0 186,837 100.0

[出所]台湾総督府財務局『台湾貿易四〇年表』1936年より作成。

[注]左欄は金額で、単位は千円;右欄は比率で単位は%。数値は5ヶ年平均。

22 以上のデータは、Ho, Samuel, P. S., Economic Development of Taiwan, 1860-1970, Yale University Press, 1978, pp.13~16.

23 川野重任『台湾米穀経済論』有斐閣、1941年;大豆生田稔『近代日本の食糧政策―対外依存米穀供給構 造の変容』ミネルヴァ書房、1993年、第4章。

24 台湾総督府殖産局『台湾米穀要覧』昭和12年版、5頁によると、1925年頃は、蓬莱米作付面積は在来粳 米水稲の作付面積の6分の1程度であったが、1935年には蓬莱米作付面積が在来米作付面積を上回った。

(12)

次に、輸移入について検討しよう。表1-9によると、植民地当局によるアヘン輸入の禁 止を反映し、アヘンの比率が大幅に低下した。他方、所得の上昇に牽引され、綿織物の輸 入額が増加し、比率も大きくは低下していない。同表からは分からないが、綿糸布の中で は、朝鮮と同様、綿布の占める比率が高かった。日本から移入された綿糸布に占める綿織 物の割合は、1902年で98.5%、1912年で96.6%、1925年でも90.4%であり、朝鮮以上に「綿 布輸入主軸」型の特徴が認められる25

1-10 朝鮮・台湾における各産業の域内自給率

朝 鮮 台 湾 1925年 1930年 1926年 1930年 農業 119.7 115.5 124.1 118.0 食料品工業 87.2 80.9 289.0 344.2 紡織工業 46.0 42.0 10.8 9.7 化学工業 61.3 52.2 38.0 31.4 金属工業 56.6 32.7 24.0 28.3 機械器具工業 26.9 26.3 37.6 31.1 製材・木製品 ― ― 58.7 51.5 工業(除食料品) ― ― 40.2 36.8 工業 68.5 58.3 ― ―

[出所]金洛年「植民地期朝鮮の産米増殖計画と工業化」(『土地制度史学』第146号、1995 年所収);『朝鮮総督府統計年報』『朝鮮貿易年表』『台湾総督府統計書』『台湾貿易四〇年表』。

[注]自給率は、自給率=生産額÷(生産額+輸移入額-輸移出額)で算出。台湾の場合、

食料品工業が主に砂糖生産である点を考慮し、「食料品を除く工業」の自給率も算出。

『台湾総督府統計書』によれば、綿織物の生産額は約2~3万円しかなく、麻織物の生産 額50~70万円に比べると、綿織物生産の低迷を窺わせる。そこで、表1-10は、金洛年氏 の推計法を使い、朝鮮・台湾の自給率を算出したものである。ここからは、台湾における 紡織工業の自給率は9~11%で、朝鮮以上に低水準であったことが分かる。くわえて、1920 年代後半には、朝鮮・台湾ともに工業の自給率が低下していた。この変化は、域内の工業 成長率よりも輸移入額の成長率の方が高く、日本が工業製品を供給し、植民地は農産物を 供給するという分業構造が強化された(誤差を考えたとしても維持された)ことを物語る。

台湾では、米・糖の二大輸移出品への依存と「綿布輸入主軸」型特徴とを併せ持ってい た。その点から見れば、台湾でも、朝鮮と共通した傾向が見られ、むしろ、日本と台湾の 間では、朝鮮以上に異質化の作用が働いたと言える。

(4) 満州26

満州は、後述する(満州を除いた)中国本土とは異なる特徴を有していた。そのため、

25 朝鮮と同様、行沢健三・前田昇三、前掲『日本貿易…』の表B-1X、表B-2X、表B-3Xより計算。

26 ここでは、大連・牛荘・安東の南満州主要三港として、そこからの貿易を満州の貿易とみなした。よっ て陸上貿易などは捨象されている。

(13)

満州の発展パターンは、満州を除く中国本土と分けて論じる必要がある。以下では、貿易 構造に着目して、満州の経済的特質を概観しよう。

表1-11 は、1920年代における満州の貿易構造を示している。同表は海上貿易のみを考 慮しているため、陸上交易が分からないという問題点がある。特に中国本土との貿易額・

貿易量はあてにならないが、ある程度の趨勢を把握することはできよう。

1-11 南満州地域の輸移出入構成

1921年 1928年

外国向け 中国諸港向け 外国向け 中国諸港向け 大豆 21.83 17.3 12.24 22.2 82.31 35.3 17.83 17.7 豆粕 46.61 37.0 7.07 12.8 40.96 17.5 16.24 16.1 豆油 9.24 7.3 6.77 12.3 7.85 3.4 13.29 13.2 大豆三品計 77.68 61.6 26.08 47.4 131.12 56.2 47.36 47.1 輸

移 出

輸移出計 126.05 100.0 55.07 100.0 233.43 100.0 100.58 100.0 外国品 中国品 外国品 中国品 綿織物 32.99 24.4 13.35 28.4 40.13 20.5 15.15 21.6 綿織糸 10.84 8.0 5.82 12.4 3.38 1.7 9.27 13.2 2商品計 43.83 32.4 19.17 40.8 43.51 22.2 24.42 34.8 輸

移 入

輸移入計 135.47 100.0 47.01 100.0 196.20 100.0 70.18 100.0

[出所]南満洲鉄道株式会社『北支那貿易年報』上編、各年版より作成。

[注]左欄の単位は百万海関両、右欄は比率で単位は%。1921 年には大東溝港が含まれて いるが、額は僅少なので、差し引いてもほとんど影響はない。

満州の主要輸出品は、大豆・大豆粕・大豆油の大豆三品であった。大豆三品の比率は、

20世紀初頭には80%と高かったが、1920年代になると、大豆三品比率は5~6割に低下し た。そこからは、輸出品の多様化が観察されるが、大豆三品比率の絶対値はまだ高く、大 豆三品主軸の輸移出構造は維持されていたと言ってよい。比率は低下したものの、同時期 の大豆三品輸出量は大幅に増加していた。エクスタインらの推計によれば、1934 年価格を 基にした大豆三品実質輸出額は、1909~1929年の間に、9,100万元から2.55億元に、2.8倍 の増加を見たのである27。大豆三品輸出の中では、大豆粕・大豆油から大豆それ自体への変 化が生じていた。従来、満州では、大豆を大豆粕・大豆油に加工した後、大豆粕は日本・

中国本土に輸移出され、大豆油はヨーロッパに輸出されていた28。しかし、1920 年代に入 ると、大豆を満州で加工して輸出する構造から、大豆を輸出して消費地で加工する構造に 変化した。しかし、表1-11から中国本土向け移出をみると、中国向け大豆油・大豆粕移出 は 2 倍以上に増加し、海外市場から中国本土に輸移出先がシフトしたことも読みとれる。

しかし、全体として、大豆三品を中心とした輸移出構造を覆す変化はなかったと言えよう。

27 Eckstein, A., K. Chao and J. Chang, “The Economic Development of Manchuria: The Rise of a Frontier Economy”(in Journal of Economic History, Vol.34, No.1, 1974), p.249.

28 天野元之助『満洲経済の発達』満鉄経済調査会、1932年参照。

(14)

次に、輸移入構造を検討しよう。同表によれば、朝鮮と同様、綿製品、特に綿織物が主 な輸入品であった。外国品における綿糸布輸入額に占める綿織物の比率は、1921年の75%

から1928年の82%に漸増している。満州でも「綿布輸入主軸」型構造が観察され、くわえ て1920年代にその傾向は強化されたことが窺える。

当時、日本と並び、満州に綿製品を供給していたのは中国本土であった。中国本土から の綿糸布移入額は移入総額の3割強から4割を占め、1920年代には、日本と中国本土の綿 業が、満州を共通の販路として競合関係にあった。中国本土からの綿糸布移入額の中に占 める綿布の比率は、1921 年から29年にかけて、70%から62%に漸減している。1920年代 に中国綿業が太糸生産を開始し、太糸を需要する満州では、日本綿糸が中国綿糸に押され た29。中国からの綿糸移入が増加する一方、日本からの綿糸輸入が減少した結果、外国品に おける綿布比率の上昇、中国品における綿布比率の低下につながったのである。しかし、

全体として、この「綿布輸入主軸」型構造は満州にも当てはまると言える。

綿布自給率を見てみよう。管見の限り、詳細な統計が得られないが、日本綿業倶楽部編

『内外綿業年鑑』昭和8年版には、「正確な統計は得難いが、満洲で一年間に消費される綿 布は八、九百萬反と推測される。而してその中の九割強を輸入に仰いでいると云ふから、

国内産綿布の供給高は知れたものである」との記載がある。当時の調査によると、綿布生 産量は1.4万俵であるのに対し、その輸移入量は16.2万俵であった30。よって綿布自給率は 8%となる。この数値は機械織布のみであり、家内生産が含まれていないと思われる。ラフ な推計ではあるが、満史会の推計によると、域内綿布生産は約 37 万担、輸入綿布は約 60 万担で、そこから計算される綿布自給率は約 38%となる31。これは朝鮮・台湾より高かっ たが、後述する中国本土に比べると低かったと言える。

以上から、全体として、満州の貿易は、主に大豆三品を輸移出し、綿製品を輸移入する 構造にあり、輸移入綿製品のうち、綿布の比率が高い特徴があった32。これらの特徴は、中 国よりも朝鮮・台湾と似通っていたと言える。

(5) 小括

これまでの傾向をまとめると、朝鮮・台湾・満州の3地域に共通する貿易構造は、「綿布

=一次産品交換体制」とでも呼びうるものである。つまり、当該 3 地域の貿易は、特に日 本製綿布と当該地域の一次産品(コメ・大豆・砂糖など)とを交換する構造になっていた。

その構造では、一次産品の輸出成長率が高く、それに呼応するように綿布の自給率は低か った。この変化は、赤松氏の「異質的相促関係」に対応しよう。その結果、域内分業を深 化させ、東アジア域内貿易を拡大させる原動力になったのである33。ただし、その特徴は、

日本に対する従属関係を強化したと否定的に評価することも可能である。それに対し、中 国では異質化の力は限定的であり、その後の再同質化の方向性を含んでいたと言える。

29 満鉄経済調査会編『満洲経済年報』1933年版、改造社、1933年、121122頁。

30 南満洲鉄道株式会社総務部調査課編『満洲の繊維工業』同社、1931年、8~9頁。

31 満史会『満州開発四十年史』下巻、満州開発四十年史刊行会、1964年、416頁、第10表。

32 金子文夫氏によると、日本と満州との間の貿易構造を、村上氏の「綿米交換体制」に倣って、「綿豆交換 体制」と命名している(金子文夫『近代日本における対満州投資の研究』近藤出版社、1991年、180185 頁)。満州と中国との関係を論じたものとして、松野周治「半植民地」(小野一一郎編『戦間期の日本帝国 主義』世界思想社、1985年所収)も参照。

33 杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』ミネルヴァ書房、1996年、特に第1章。

(15)

「綿布=一次産品交換体制」は、東アジアのみに限ったものではなく、東南アジアでも 見られた34。しかし、東アジアでは、米作の特性などのため、東南アジアに比べ、家庭内副 業・在来的製造業が根強く残ったと位置づけることも可能である。いずれにせよ、東アジ アでは、東南アジアほどではないとしても、日本と朝鮮・台湾・満州との間で産業構造の 異質化が進み、国際分業が強化されたことは事実である。分業の強化は、東アジア域内貿 易が拡大する契機になったのである。日本の工業化は、非農活動が停滞・縮小した朝鮮・

台湾・満州に消費財を供給することによって、促進された面もあったと言える。

3. 異質化から再同質化へ―両大戦間期における東アジア経済の変容 (1) 中国本土

第一次大戦を契機に中国が、1930 年前後を契機に日本の植民地・勢力圏が、貿易構造・

産業構造の点で変化を遂げ、異質化から再同質化への変化が生じた。

まず、中国の輸入について検討しよう。これまで主要輸入品であった綿製品が 1928~36 年の間に、14.2%から1.5%に激減していた。同様に、砂糖も8.3%から2.2%に、タバコも 5.1%から1.8%に低下した35。綿製品などの軽工業品が輸入代替化されたことが読みとれる。

このような動きは、中国の産業・貿易構造が日本と同質化していく過程でもあった。その 結果、日本の輸出と中国の国内生産が、中国市場で競合関係が強まったことは確かであろ う。さらに、中国市場をめぐる競争より競合の度合いは小さいものの、両国の輸出市場で も競合しつつあった。中国の東南アジア向け輸出は、概ね綿織物・絹織物・植物油などで 占められ、特に綿織物・絹織物で日本製品と競合関係に入りつつあった36。第5章で取り上 げるメリヤス製品でも、東南アジア市場をめぐる競合関係が見られた。もちろん、中国の シェアは、日本よりは低いものであったが、徐々にではあれ、東南アジア市場で日本と中 国の競合関係が強まったことは強調されてよい。

それに対して、輸入面では、石油類(灯油+液体燃料)が同時期に 6.6%から 8.3%へ、

運輸交通資材が2.3%から5.6%へ、化学染料が7.5%から10.8%へ、鉄鋼などの金属類が5.4%

から13.2%へ、機械類が1.8%から6.4%へと、それぞれ比率を上昇させている37。重工業製 品・石油類など、生産財・資本財の比率が上昇した変化が読みとれる。このような新たな 輸入品は、日本から輸入するよりも、アメリカからの輸入に依存する品目が多い傾向にあ った38。たとえば、中国に輸入される鉄鋼のうち、日本のシェアは 1~2 割程度であり、機 械類でも同シェアは2割弱から25%程度であった。化学製品でも、ドイツが首位であり、

中国輸入における日本のシェアは2割程度にとどまった39。このように、中国の輸入代替化 は、日本の市場を狭めたことは想像に難くない。

34 Resnick, S., “The Decline of Rural Industry under Export Expansion: A Comparison among Burma, Philippines and Thailand, 1870-1938” (in Journal of Economic History, Vol.30, No.1, 1970).

35 以上は、Cheng, op. cit., p.32.

36 たとえば、何炳賢『中國的國際貿易』商務印書館、1937年、603752頁。

37 Cheng, op. cit., p.32.

38 中国の輸入品でアメリカからの比率が高い品目として、石油類(潤滑油73.5%;灯油68.8%)、タバコ

(73.2%)、自動車・部品類(46.0%)、飛行機(40.1%)、綿花(38.2%)であった。Schran, P., “The Minor Significance of Commercial Relations between the United States and China, 1850-1931” (in May, E. R. and J. K.

Fairbank, eds., America’s China Trade in Historical Perspective: The Chinese and American Performance, Harvard University Press, 1986).

39 三菱経済研究所編『太平洋に於ける国際経済関係』同研究所、1937年、251頁。

(16)

輸出面では、中国にとってアメリカが主な輸出市場になっていった。アメリカ向けに輸 出をのばした品目は生糸・桐油・皮革・刺繍レース類・羊毛・豚毛などであり40、こうした 農産物や労働集約的輸出品が、労働集約的産業に比較優位のないアメリカに輸出された41。 このように、アジア域内で貿易されてきた製品で、中国が輸入代替化を遂げつつあった ことは、新たな時代の幕開けを告げていたと評価できる。東アジアにおける綿関係品貿易 は、第一次大戦頃まで≪短繊維綿花―太糸―厚地布≫の連関の中で行われていた。その結 果、中国はこの日本製太糸・厚地布の主要な市場となったのである。しかし、中国がこの 市場で輸入代替化を遂げ、日本の綿業が次第に≪長繊維綿花―細糸―薄地布≫にシフトし ていくことによって、日本綿業の販路も変化した42。そのような変化にも牽引されて、綿製 品やコメ・綿花に代表されるようなアジア“在来”の商品が後景に退き、石油・鉄鋼・資 本財といった“近代”的商品に主役の座を譲ったのである。この貿易はアジア域内で完結 しにくいものであり、特にアメリカに対する依存を強めたのである。そして、中国も、後 述する日本よりは遅れをとり、程度も小さかったものの、一方で東南アジア向け工業品輸 出を、他方でアメリカに対する依存関係を拡大させていたのである。このような傾向は、

中国だけではなく、大日本帝国でも見られたことであった。

(2) 日本

前掲表1―3 は、日本の地域別貿易構成を示している。まず1913~25年の変化に着目し よう。同表によると、その間に、北米(26.5%→38.7%)と東南アジア(3.3%→6.4%)の 比率がそれぞれ上昇している。北米への輸出増加は主に生糸の輸出増によるものであり、

東南アジアは主に綿製品・雑貨の輸出増によるものである。それに対し、中国・満州への 比率は、同時期に 25.8%から 21.3%に低下している。かつて主要な輸出先であった中国に 代わって、アメリカ・東南アジアの比率が上昇する変化が窺える。

同表からは、世界恐慌を契機に、日本の貿易構造が変化したことも読みとれる。アメリ カについては、輸入シェアが上昇しているが、輸出シェアは大幅に低下している。その要 因は、生糸輸出が減少したためである。それに対し、植民地・東南アジア・他のアジアへ の輸移出比率は上昇している。生糸輸出の減少による国際収支の悪化、それに起因した為 替の暴落が、輸出構造を劇的に変化させる契機になった。その詳細については第 2 章に譲 るが、世界恐慌を契機として、日本の国際市場が大きく変貌したことが窺える。

同様に、輸移入では、アメリカ・植民地からの輸移入が拡大し、代わって東南アジア・

他のアジアからの輸移入比率が低下している。輸移出の動向と合わせて考えると、二国間 で国際収支を均衡させる動きが強まった1930年代でも、日本の地域別貿易収支の不均衡が それぞれの地域で拡大したことが窺える。

1930 年代に拡大したアメリカからの輸入はどのようなものであったのであろうか。前 田・行沢両氏が整理した統計からその点を確認しよう。1925年と1935年を比較すると、ア メリカからの輸入総額の中でシェアが上昇した品目は、金属原料(0.7%→8.3%)、鉱物性 燃料(5.0%→11.9%)、機械機器(9.3%→9.5%)、その他の製品(9.0%→11.0%)などであ

40 何炳賢、前掲『中國的…』90106頁。

41 その点では日本も同様であり、その後、中国において戦争・社会主義化が起こらなければ、明治期のよ うに、日中両国はアメリカ市場をめぐっても熾烈な「アジア間競争」を繰り広げていたかもしれない。

42 以上は、川勝平太「アジア木綿市場の構造と展開」『社会経済史学』第51巻第1号、1985年所収)

(17)

った。金属原料では鉄鋼くずの、鉱物性燃料では石油の、機械機器では輸送機械の比率が 高い43。これらの輸入品は、総じて重工業化に不可欠な資本財や原料であり、アジア域内の みから供給されるものではなかった。先述の通り、綿花もインド産からアメリカ産への依 存を高め、アメリカ産綿花はインド産の輸入量を凌駕するようになっていた44。市場・品質 の変化、重工業化45によって、“在来”的貿易品から、“近代”的貿易品へとシフトし、前者 を中心としていたアジア域内貿易がもはや完結しなくなっていた事実が看取できる。

(3) 帝国内貿易(朝鮮・台湾・満州)

先述した植民地との貿易はどう変化したのであろうか。結論を先取りすれば、1930 年代 に入ると、大日本帝国内貿易は大きな変化を経験したのである。

これまで概観したように、日本=東アジア間貿易は、日本が綿布などの消費財を輸移出 し、コメ・大豆・砂糖などの一次産品を輸移入する構造になっていた。しかし、1930 年代 に入ると、台湾を除き、一次産品の比率は低下したのである。朝鮮では、前掲表1-7をみ ても、1930年代に入るとコメの比率が若干低下している。1930年代後半にはコメのシェア は30%まで低下し、輸移出量でも1930年代には横ばいで推移した46。また、満州でも大豆 三品の輸出量・比率がともに低下していた。台湾だけは、前掲表1-9からも分かるように、

コメと砂糖のシェアが 7 割を維持し、大きな変化はなかった。しかし、朝鮮・満州で一次 産品中心の輸移出構造が変質したことは、東アジアにおける構造的変化を告げていると言 える。コメに関しては、同時期にコメの過剰問題が日本本土で顕在化し、植民地における

「産米増殖計画」が緩和されたことも影響していよう47。このような動きが旧来型の日本=

植民地間分業を変化させたことを示している。

輸移入では、綿布などの消費財に代わり、重工業原料や重工業製品が増加した。朝鮮で は、重工業製品がその移入額に占める比率は、1925年の23.9%から、1935年の39.4%、1939 年の48.2%へと上昇し、台湾でも、同比率が、1925年の30.1%から、1935年の43.5%、1939 年の46.5%へと上昇している48。朝鮮などで、低級綿製品などの軽工業の輸移入代替化が進 行したことも、そうした変化の一因であった49。前掲表1-7をみても、1920年代後半から 綿織物輸移入額が徐々に低下し、先述した綿製品に占める綿布比率も低下に転じていた。

民族資本で著名な京城紡織をはじめとして、綿製品の移入代替化が進んだ証左である。メ リヤス製品でも、平壌・京城・新義州を中心に生産が開始された。内地における産業統制 の動きは、朝鮮への工業移転、朝鮮における在来的工業の発展をもたらすという変化もあ った50。さらに、植民地向け投資が活発になり、重工業関連の貿易が増大したことにより、

43 行沢健三・前田昇三、前掲『日本貿易…』所収の「基本表マトリックス」より計算。

44 東洋経済新報社編『日本貿易精覧』同社、1935年、394395頁の「実綿及繰綿」の数値。

45 Yasuba, Y., “Did Japan Ever Suffer from a Shortage of Natural Resources before World War II?” (in Journal of Economic History, Vol.56, No.3, 1996)は、1930年代の軍需に牽引された重工業化を契機に、石油輸入が増加 し、「資源小国」のイメージが作り出されたことを強調している。

46 『朝鮮貿易年表』各年版より計算。

47 大豆生田稔、前掲『近代日本…』第5章参照。

48 山澤逸平・山本有造、前掲『長期経済統計14』第911表より。

49 『内外綿業年鑑』昭和17年版、日本綿業倶楽部、1943年、226~232頁。朝鮮は日本から高級綿布を移 入し、朝鮮で生産した小幅白木綿・粗布・細布などが満州に輸出された。塩見常三郎「朝鮮に於ける紡績 工業の現状(二)『大日本紡績連合会月報』第589号、1941年所収)、67~68頁によると、22番手以下 の比較的太い綿糸が、朝鮮で生産された綿糸の4分の3を占めていた。

50 たとえば、セメント・電球・琺瑯鉄器・燐寸・ゴム靴などがこれに当たる(「来春の課題―統制法を繞る

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