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山 之 内 光 躬

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(1)

。り

B∩巨ゆ巴§6︒と公共財

山 之 内 光 躬

現代は︑経済学者が︑その義務に怠慢な時代であった︑とおもう︒

われわれには︑社会的プライオリティーの研究が︑もっと必要なの

であるQ  ≧<ぎ=.口磐ωΦP憲鳴毎ミミ帖ら§穿§oミ8H㊤G・8

℃.竃︒︒噸

Social Balanceと公共財

43

 公共セクターをも含めて︑経済学の基本的問題は︑資源の稀少性にかかわってぎた︒われわれの︑私的および社会

的欲求は︑無限であるのに対して︑これら欲求充足にあてられる︑基礎的な経済的資源は︑量的および質的な制約の

もとに︑配分されざるをえない︒したがって︑それぞれのセクター内部における︑効率性の問題とは別に︑少なくと

も︑資源配分の決定が︑市場と政府という︑二元的な配分メカニズムを通じて︑おこなわれなけれぽならない社会で

は︑この︑私的セクターと公的セクター間の︑資源配分に関する︽適正率︾1ここで︑われわれは︑単なるGNP

に対する︑公的セクターの︑固定的な︑具体的百分比を考えているのではない  という︑重要な問題が提起されな

ければならない︒

 したがって︑この問題は︑根底的には︑財政のいわゆる配分機能︵巴δo簿δづ面高︒甑8︶に関連している︒そして︑

211

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もちろん︑財政の他の機能︑すなわち︑分配機能︵象曾二σ召請︒⇔ho昌︒鋤︒昌︶︑経済の安定︑成長機能︵ω冨げ葺慧自︒コ

9pαひq8≦92コ︒訟︒⇔︶等は︑この配分機能と密接に関連しあっており︑財政理論や財政政策が︑これらの目標︑あ

るいは機能を︑それぞれ︑孤立的に論ずることは︑本来︑不合理であろう︒しかし︑ここでは︑国.﹀竃匿αq莚く①に

ならって︑理論操作上の便宜から︑資源配分部門を論ずる場合︑他の部門における目標が︑達成されているという前

提のもとに︑主として︑この部門を個別的にとりあつかうことにする︒

 国民経済の︑私的セクターと公的セクターとの間に︑適正な資源配分構造を︑達成しようとする問題に関して︑

︽社会的バランス︾ωoo凶巴ゆ9︒冨郎︒①という用語を使ったのは︑旨囚・O巴寓巴9であるが︵Sミ︾ミミ§駄⑦8鳶量︾

H㊤㎝︒︒︶︑われわれも︑本稿では︑私的に生産︑配分される財・サービスと公的に生産︑配分される財.サービスの間

の適正関係を︑︿社会的.バランス﹀とよぶことにする︒

 ところで︑この問題は︑もともと︑︾畠ヨω巨岩げから冒プ=ωε轟け竃≡にいたる︑古典派経済学の財政論のな

かで︑政府活動の固有の領域として展開されたものと︑本質的には一致している︒そして︑現代公共財理論は︑両セ

クターへの資源の配分の問題について︑より精密なアプローチを試みてきた︒しかし︑客観的に︑正確な︑社会的均

衡点の決定には︑理論上︑ならびに︑運営上︑大きな困難が横たわっている︒それにもかかわらず︑この社会的均衡

点を定義する際の困難は  実は︑この点こそ︑このアプローチに対する反駁の論拠にほかならないが1必ずし

も︑社会的バランスの概念の︑基本的な重要性を減ずるものではない︒けだし︑少なくとも︑民圭的社会では︑両セ

クターへの︑資源の適正配分は︑各個人の選好体系を基礎にして︑決定されなければならないからである︒じd.℃.

閏興σ興は最近の財政学のテキスト・ブックのなかで︑社会的バランスの概念を︑資源配分の問題にとりいれている

が︵ミq§§︑さミミ謹§鳴し㊤①メ霊諄一︶︑われわれは︑まずここで︑このような意味でのく社会的バランス﹀の概

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Social Balanceと公共財

念を明確にしておこう︒

 いま︑図一Aにおいて︑公的セクターと私的セクター聞の︑総資源の最適配分点を︑P点に示すことができる︒縦

座標軸と横座標軸にそれぞれ︑公的セクターと︑私的セクターの︑産出高の比率をとれば︑概念的には︑この社会

的均衡点Pは︑両セクター間の資源配分についての︑社会の真の選好を反映しているものと︑考えることができる︒

P点が社会的均衡点として定義され︑社会が現実に︑A点で資源配分機能を果しているとき︑社会的バランスと︑現

実の配分は︑↓致しており︑社会的アンバランスは存在しない︒したがって︑社会の個々の構成員の︑選好体系が与

えられている場合︑均衡点からの︑どちらの方向への離反︵何らかの配分率の変更︶も︑厚生状態をベター・オーフ

に導くことはありえない︒そして現実の配分点が︑たとえば︑QまたはR点であるとすれば︑社会の選好が最適にみ

たされるべきである以上︑セクター問の︑ある資源の再配分が実現されない限り︑社会的不均衡が残されることにな

〔図一A〕

P

R Q

91

κ2

〃2

45

τ1

 ラ

0%

噌⊥︵

10Q(%)

0

る︒この不均衡のギャップは︑ 一方では︑蓑 と途昌で示される︑公的

セクターへの過剰配分と︑他方では︑蓑h・と遷・で示される︑公的セクタ

ーに対する過少配分にほかならない︒しかしながら︑もちろん︑この社会

的均衡点そのものは︑社会の構成員の︑選好パターンが変化するにつれ

て︑長期的にみれぽ︑変化しなけれぽならない︒

 次に︑社会的バランスの概念を︑無差別図表で示したものが︑図一Bで

      ユ     むな    ヨある︒ここでW︑W︑Wは社会的無差別曲線を示し︑それは︑公共財と私

的財の︑種々の組合せの限界代替率を意味する︒T線は資源可能性曲線で

あり︑これは私的財と公共財生産における︑限界変形率を示している︒そ

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〔図一B〕

 ︑ ︑

    ︑   ︑P ・︑

P

 ︑

TT

0

して︑資源可能性曲線が︑より高次になるにつれて︑その社会に 14      2利用可能な︑生産資源量の水準は︑上昇することになる︒したが

って︑それは︑潜在的な社会的総産出量を示すものであって︑資

源投入の最少費用組合せでの︑技術的に︑最も効率的な生産条件

を反映するものである︒

 さて︑社会的無差別曲線が原点に対して凸である限り︑一定水

準の社会的満足を提供する際の︑公共財と私的財の間の完全代替

性は存在しない︒そして︑資源可能性曲線が︑原点に対して凹で

あることは︑私的財と公共財の生産の問で︑同じ効率性では代替

が行なわれないことを意味する︒そこで︑社会的バランスは︑資

源可能性曲線と社会的無差別曲線の接点で決定され︑もしその社

会の生産能力をTで示せば︑それは鴨との接点Pで決定される︒P点で︑資源可能性曲線と社会的無差別曲線の匂配

は等しく︑したがって︑ここでは︵公共財を瑞︑私的財の総量をG︑個人1の消費する私的財を︒・︑個人2の消費す

る私的財を621したがってP11ひ+爵  とすれば︶私的財と公共財の生産変形関数と︑各個人の選好パター

ンを示す︑効用指標関数をそれぞれ︑

    ︑︵♪P︶凹O

    §︵炉︾◎︶    篤11眞卜⊇

で表わすと︑

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Socia正Balanceと公共財 47

    軌§   ①3  刈︑動︑

    .β←働評ロ郵i

         心ぶ: 一隅    寒凶

     曾卜・   ①♪   ①9

という条件がみたされているはずである︒つまり︑私的財と公共財の生産における限界変形率が︑それらの社会的消

費における限界代替率に等しいとき︑社会的バランスが達成される︒そして︑この両曲線の接点は︑両セクター間の

最適な配分効率性を反映すると同時に︑最適な技術的効率性をも反映するのであり︑前者は︑社会の選好に基づい

て︑適正なセクターによって︑財の配分が行なわれている場合の︑社会的消費に関する︑財の選択の問題を︑後者

は︑これらの財を供給する際の︑生産資源の最少費用組合せを含むのである︒

 さて︑ここでは︑社会的バランスの問題に︑経済財の所得弾力性の概念を導入してみよう︒けだし︑弾力性概念

は︑各セクターの一人当り実質産出高の変化を︑一人当りの実質所得の変化に関連させることによって︑セクター間

の資源配分のトレンドを︑示すことができるからである︵8・巳£弓.㊤占O︶︒ここで︑社会における経済的総生産

は︑公的セクターと私的セクターの︑産出量の合計としてとらえられるから︑ 一方のセクターに関する弾力性係数

は︑他方のセクターの弾力性係数と︑相互依存関係にあるはずである︒したがって︑公共財の︑一人当り︑実質生産

物の増大の弾力性係数が︑ざVHである場合には︑私的財に対する弾力性係数は︑近くHとならざるをえないであ

ろう︒すなわち︑公共財の︑一人当り︑実質産出高が︑一人当り︑実質所得の増加よりも︑大きな割合で増加するよ

うなとき︑私的財生産における︑一人当り︑実質産出高の増加率は︑より小さくならざるをえない︒けだし︑総産出

量の成長は︑公私各セクタ:における︑産出量の成長の合計に等しいからである︒したがって︑公共財に対する︑非

弾力的な弾力性係数は︑必然的に︑私的財に対する︑弾力的な係数をもたらすはずである︒

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 このように︑所得弾力性の概念は︑経済の︑公的セクターと私的セクター問の︑稀少資源に関する競合という問題

を︑論証するのに有効である︒しかし︑より長期的には︑資源は︑得ならびに質を拡大し︑両セクターとも︑産出量

の絶対量を成長させるであろう︒そして︑それぞれの相対的な比重は︑その期間を通じて︑所得弾力性係数が一でな

い限り︑変化しなければならない︒このようにみてくると︑社会的バランスについても︑単に︑静態的な観点のみか

ら分析するのは︑不合理であって︑同時に︑長期的な観点から︑インター・テンポラルな︑社会的.バランスの達成

が︑問題とされねばならないであろう︒すなわち︑資源配分可能性曲線の︑東北方向へのシフトを考慮に入れたうえ

での︑社会的バランスを達成することによって︑より高次の厚生水準が実現可能になるからである︒さらに︑経済の

成長とともに︑従来︑純粋に私的と考えられていた財・サービスが次第に公的な性格をおびてくる︒すなわち︑社会

的過密化と工業化の進展と共に︑特定サービスの︑スピル・オーバー効果はいちじるしくなる傾向は避けられない

︵oh≧≦昌閏の口鋤口ω①P↓ミトミミ請§肉6§◎§♪H霧島づ℃・おb︒需.︶ので︑公的部門の配分による財・サービスの

所得弾力性も変らざるをえないであろう︒したがって︑社会的バランスの決定において︑準公共︵私的︶財を︑どち

らのセクターで配分するかの問題が︑最も重要な問題を構成することになるであろう︒

 さて︑以上のような︑社会的バランスに関する︑新しい定式化とは別に︑この問題は︑もともと︑古典派財政論の

なかで︑財政論の固有の領域として︑展開されており︑そこでは︑基本的には︑私的領域における生産に︑すぐれ

て︑優先権を与えたうえで︑いわゆるネガティブな意味においての︑社会的バランスが強力に弁護されたのである︒

しかし︑財政観の変化に照応した︑公共経費の積極的な意義の承認とともに︑社会的バランスについての評価にも︑

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Social Balanceと公共財 49

当然大きな変化がみられた︒われわれは︑ここで︑まず︑最近の︑社会的バランスに関する論争を概観しよう︒

 現代の社会的︑バランスに関する論争は︑その経済的観点から大別すれば︑一方における︑多数の政府支出が︑不必

要なもの︑ないしは規模が過大であり︑国民稀少.資源の浪費であるという圭張と︑他方︑現代の豊富な社会は︑私的

消費財を過剰に供給しているのに︑政府によってのみ︑供給することができる︵あるいは︑ベストに供給しうる︶種

類のサービスを︑不合理にも︑量的に︑質的に︑軽視しているという見解とが対立している︒そして︑これらは︑政

治的な観点からすれぽ︑公的セクターが︑個別企業︑家族等の︑私的部門の個別主体に残しておいた方がベターな︑

機能や責任を侵害してきたという見解と︑現在われわれが直面している選択の範囲は︑大きなイデオロギー的論争を

提出するには︑あまりにも狭すぎるという主張の対立なのであった︒︵9国血ヨ§αψ勺げΦ言ρ℃識魁ミ鳴ミ§騎

§織︑導§﹀葛掛壽ミ︒・⑦ミこ§ミ薦︑ミ的ミミミG︒ら愚鴨ミO◎ミミミ§鳳国S§§ミQ㍉Φ註ω巴巴三〇p6①b︒

℃母けH︶

 さて︑このような観点から︑まず︑公的セクター配分の拡大を強力に弁護するのは︑アメリカの典型的ケインジア

ンを代表する︑≧乱昌山寓碧ωΦづ︵↓ミ︾§鳴ミ§肉ら§o零し㊤巽︶および︑これまたアメリカのリベラルの著名な

経済学者冒ずづ囚Φ昌昌憎げO巴耳江島︵↓中潮卜聴ミ鮎ミ殊⑦Oら篤Q竜導H㊤㎝刈︶であり︑現代における社会的バランス論への関心

は︑これらによって大いに助長されたのである︒まず︑出塁ωΦ⇒は﹃ミ﹄ミミ跨§肉8ミ謹における︑ω鼠巳母αω

9蒔く巴偉①ωぎ鋤勾凶︒げωoo冨蔓︵oO.良叶・OP日Q︒b︒1同㎝H︶のなかで︑国民が︑公的セクターの配分から得ているもの

は︑その真の選好表に比較して︑ますます小さくなっていることを指摘し︑社会的価値観が︑物質主義︑商業圭義か

らはなれて︑より知的に︑精神的に︑満足すべき生活を︑保証する方向へ変化しなければならないことを積極的に認      17め︑そして政府を︑その国の文化的発展を促進するための︑不可欠の手段とみなしたのである︒もちろん︑民主的な 2

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機構を基調とする社会においては︑公的セクター配分に関する意思決定は︑市民のベストな利益に貢献することが︑ 18      2仮定されているのであるが︑いまや︑経済学は︑単なる︑極大産出量や完全雇用を越えたものに︑関与しなけれぽな

らなくなっており︑社会的優先順位の問題をも︑論議せざるをえなくなった︒この半世紀の問に︑先進国社会におけ

る大衆の生活水準は︑予想外に︷卜い︑慰安と奢修の水準に達した︒労働時間の短縮︑したがって余暇の増大が生じ︑

これらが︑食料消費︑住宅︑健康︑教育︑レクリエーシ︒ンとともに︑より高い︑生活水準を示す指標の一つとなっ

ている︒しかし︑同時に産業社会の発展は︑必然的に︑様々の社会的非効用をもたらすことになり︑そして︑今やこ

れらは︑公共財・サービスを通じて︑排除されることが︑社会的な必要となった︒多くの努力が︑効用を供給するた

めでなく︑︵産業化と都市化の副産物である︶負の効用を除去するために︑払われなければならなくなっており︑さ

らに︑奇妙なことには︑そのための労働が︑やはりその社会のGNPの一部を構成しているという事実である︒さ

て︑次に︑このような高い生活水準からとり残された︑全人口の一〇%に当る︑富裕社会におけるくどん底生活者V

︵讐①ω菩ヨ興ひqoq8曇げヨ騨国︒ずQ︒oo冨昌︶の生活水準を上昇させるために︑社会の教育︑文化的発展を助長すべ

く︑公的セクターの積極的活動が︑要請されなければならなくなっている︒それゆえ︑成熟社会の経済学は︑ここ

に︑極大生産と完全雇用にのみ集中すべきではなく︑︿社会的優先順位Vと資源の効率的配分の問題に︑エネルギッ

シュな分析的努力を集中しなければならなくなったのである︒すなわち︑ゆたかな社会における︑経済政策の基本的

目標は︑人々が最も必要としている生産物を確保することであって︑単に極大生産であってはならない︒したがっ

て︑必要な財の配分に関する︑ベストなセクターを選択することが︑重要な課題になる︒かくして︑高い生活水準と

生産性の達成された︑富裕社会では︑公的セクターに︑より大きな評価が与えられることにより︑社会的バランスが

回復されることになるというのがに9ロω①づの見解である︒

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Social Balanceと公共財 51

 さて︑O巴σ冨淳﹃も︑基本的には︑さきの=きω○昌と同じ論拠をとり︑公的セクターによる︑資源の過少配分とい

う形態で︑社会的不均衡が生じているというのが︑その基本的態度である︒かれは︑この不均衡の根源を︑いわゆる

︿依存効果﹀︵山8Φ巳窪8①中①9︶に関連づけ︑社会が豊富になるにつれて︑人々の欲求は︑相対的な性格をもつ

ようになることを︑明らかにしている︒すなわち︑欲求は︑それらを充足する能力が成長するとともに︑大きくな

る︒競争と広告とを通じて︑欲求は産出量に依存するようになる︒それゆえ︑このような社会では︑生産性の巨大な

成長にもかかわらず︑消費者は︑より多くの租税負担を通じて︑この生産能力の﹈部を︑ひどく不足しているセクタ

ーに開放しようとは考えないであろう︒そして︑このような︑公的セクター配分に対する不合理な反応は︑政府が︑

効率的に経済価値を生産することができないという︑伝統的なバイアスによって︑強められているという︒このよう

な不合理性と伝統が︑私的セクターと公的セクターとの問の︑資源配分上のバランスを︑相乗的に破壊しているので

ある︒そして︑このような社会学的確証に基づいて︑○巴町巴9は︑消費者支出の拡張によるよりも︑政府支出の拡

張によって︑経済的厚生がより増加すると結論するのである︒したがって︑かれの圭張は︑國p昌ω窪のそれととも

に︑ゆたかな社会の当面の問題は︑総体的な意味での︑産出高の極大の追求ではなくて︑ディスアグリゲイション︑

すなわち︑正しい︑最も必要とされている︑経済財を配分することによって︑資源の配分を改善するという問題であ

ることを指摘した︒

 以上の見解は︑公共財の大きな厚生的意義を認識したうえで︑それらの配分についての意思決定は︑基本的には︑

個々の社会構成員の︑選好体系に結合されるべきものとしても︑このような個人的選好パターンが︑組織的にゆがめ

られており︑私的セクターの方に︑不当な優先比重がかけられていること︑そして︑そこに︑社会的バランスの破壊

の原因が︑横たわ・ているのであ・て・それが・最適資源配分による・極大厚生の実現を妨げているとみなすのであ

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るQ さて︑もう一つの見解に移ろう︒まず第一にあげられるのは︑O巴五言葺に対する反論として提出された︑閃.﹀●

団餌困Φ貯の主張︵↓げΦ20⇒ωΦρ9ε﹃Oh昏Φ..∪①℃①昌αΦ昌︒Φ国寵oo戸..︑識ミ譜ミ亀ミ恥亀ミ翫︑〜さ凝︒ミ二言︺o℃.︒F︶で

ある︒かれは○巴耳巴9の︑特に︿依存効果﹀に反対して︑食料︑住居︑セックスのような本来的なもの以外の︑す

べての欲求は︑他人がそれらを享受しているのを︑悟るところがら生じるとして︑最も基本的な欲求以外の︑すべて

の欲求は文化的環境によって条件づけられているという︒しかし︑ある欲求が︑本来的なものでないために︑重要で

ないということにはならない︒もしそうなら︑人間の全文化的業事の重要性も︑否定されねばならぬであろう︒文化

生活におけるあらゆる必要の︑文化的根源を考えるとき︑対象の利用から︑直接引き出される︑満足を追求するもの

ではなく︑その消費によって与えられる︑ステイタスからのみ︑えられる満足を︑目標にするような欲求があるとい

う事実を︑混同してはならない︒社会的環境︑あるいは他人の範例とは無関係な︑そして︑その満足が︑個人および

種の保存に︑不可欠な条件であるような意味で︑︽絶対的︾な必要というものぱ︑極めて稀である︒そしてΩ9一ぴ﹃餌一手

の︿依存効果﹀についての︑論理的推論の不合理さが︑完全に暴露されるのは︑それが芸術的生産物に適用されると

きである︒もし︑人々の欲求が︑生産に結びついているところがら︑生産されないものに対しては︑人々が欲求を感

じないために︑低い価値しかもたないとすれぽ︑すべての芸術に関する︑人間努力の最高の産物は︑低い価値しかも

たないことになる︒たとえば︑文学に対する個人の欲求は︑もし︑文学が産出されなかったら︑個人は︑それを経験

しないであろうという意味では︑かれ自らの︑本源的なものではないであろう︒しかし︑生産だけが需要を喚起する

ということが︑文学の生産を︑欲求を充足するものとして︑弁護しえないという理由になるであろうか︒○即ωコ○毛

の小説が出版される前には︑それに対する需要はなかったのであるが︑しかし︑このことは︑その事実によって︑そ

220

(11)

Social Balanceと公共財 53

の作品に対する緊要度を低下させるものではない︒このような推論から︑国我Φ貯にとっては︑追加的な消費者の私

的支出が︑公共支出よりも︑無価値︑あるいは下級であるという理由は︑存在しないのである︒

 しかし︑○巴寓鉱筈と餌騨閲Φ吋の見解を検討する場合︑やはり︑出発σ興の指摘するように︑︵ohoも・o一什b﹂ω︶

︽低い︾限界効用をもつ財と︑︽ゼロ︾の限界効用の財を︑区別しなければならぬであろう︒したがって︑O巴σ鴨巴昏

は︑一般的にいって︑社会的不均衡があるために︑公的セクターは︑私的セクターよりも︑限界効用の高い財を︑配

分することができるということを︑示唆しているのであり︑文字通り︑私的財が︽ゼロ︾の限界効用しかもたらさな

いと︑断定するのではない︒私的財のあるものは︑それを公共財の生産に代替した場合よりも︑低い限界効用しか提

供しないであろう︑と指摘するのである︒

﹁さらに︑出きωΦ旨や○巴σ鑓同島の主張に対する︑もう一つの批判として提出されているのが︑閏Φロ蔓ρ芝巴ぎげ

の見解︵園爵驚Oo無ゆ︑︑︑題魯ミ一㊤①O ℃犀げ嵩︒<Φ﹁ω¢ω℃ユく簿Φ一〇〇巳自O巴σ同日昏σ①芝﹃O昌ひq︑適ミ貯ミ匙ミ︒︐議§亀

︑ミミ鵠き鳴譜oや︒搾︶であった︒かれの主張によれば︑消費考が劣悪な消費行動に堕しているとしても︑このこと

が直ちに︑政府支出の拡大に結びつくのではなく︑ベターな私的支出をうながすような指示がなされるであろう︒す

でに︑公的セクターの規模は︑相対的に小さいが︑かれは︑政府予算膨張へのバイアスがないかどうかを問いなが

ら︑公共経費の問題の取扱いを︑純粋の経済的問題とすることに反対するのである︒すなわち︑芝巴膏プは︑現代の

社会の私的消費の多くのものが︑誤った方向にむけられているという点では︑基本的には︑=p口ωΦコやO巴耳蝕昏の

見解を是認しながら︑それにもかかわらず︑このような資源のミス・アローケイシ・ンは︑公的セクターを通じて︑

総資源のうちの︑より大きな割合が配分されることによって︑はじめて改善される︑といった性格のものではないと       21反論し︑さらに︑劣悪な私的支出の︑唯一の代替物は︑公共支出であると結論してはならない︑と警告するのであ 2

(12)

54

る︒ところで︑財の公的セクター配分と︑私的セクター配分との問の選択は︑手段の選択である︒私的支出の目的の 22      2あるものに︑不満な人々に対する︑賢明なアプローチは︑他のいかなる目的が重要なのか︑なぜ重要なのかを︑まず

明らかにすることである︒目的が決定されれば︑次の段階は︑手段の問題である︒私的配分に不満であれば︑私的セ

クター配分の目標を︑変更することに集中すべきである︒また︑公的セクターの生産物が私的セクターの生産物と十

分区別される場合には︑問題は︑資源が︑いかにすれば︑競合的な目的の問に︑ベストに配分されるか︑ということ

になる︒しかし︑多数の︽新しい必要︾が︑私的セクターか︑公的セクターにより︑ある程度まで︑効率的に配分さ

れるような︑競争的領域にある︒これらは︑すべて︑公共財・サービスとして︑公的セクターで配分すべきである︑

という通念があるけれども︑統計は︑まず第一に︑このグループの財・サービスの供給が︑近年急速に拡大してきた

こと︑しかも︑第二に︑種々の程度に︑これらは︑公私両セクターによって︑配分されていることを教えている︒老

令︑三尊︑教育︑住宅︑自然資源開発等の諸サービスがこれに該当する︒しかし︑この︽新しい必要︾の多くは︑あ

る程度まで︑私的企業によって︑充足されており︑そして︑その欲求充足の効率性は︑上昇していくものと予想され

ている︒そして︑どちらのセクターでも︑︿必要﹀が︑かなり効率的に配分充足できる場合は︑私的な資源配分を公

的資源配分に転換した場合に生ずる︑自由の削減と誘因の喪失を考慮するとき︑その︿必要﹀の充足は私的セクター

に委ねられるべきであるというが︑芝聾8ゲの心張するところである︒かくて︑政府支出の問題は︑政治的問題︑す

なわち︑手段の競合であり︑目的の競合ではない︒ここでは︑自由の価値が考察されなければならないであろう︒し

かし︑=臼げ興が提起したように︑︵o◎.9け︶私的セクターが︑これら望ましい財を︑最適規模で配分するような誘

因を有するか否かは︑依然として残された問題であろう︒

 われわれは︑社会的バランスに関する論争について︑その双方の主たる見解を︑簡単に素描してきたのであるが︑

(13)

以上の見解の外に︑課税の経済効率の観点から︑資源の選択的配分を論じ︑所得効果と代替効果の概念を導入しなが

ら︑高率の課税が︑必ずしも︑経済的誘因を阻害するという︑確証のないことを指摘するΩ①o﹃αqΦ閃.じd同①鋳の見

解・︵↓げΦ国ゑΦo房oh↓餌×讐δ58芝︒蒔ぎ︒①暮ぞΦρ︑義噂ミ鳴ミ冨ミ偽範ミ園霊さ︑腎≧鴨Q気的・o℃・︒搾・窓・㎝㎝1霧︶さ

らには︑公共セクターへの機能の移転が︑多数の私的制度の責任を解除させるというじU①星野巳U①一︒囁く①づ①一の指摘

︵○コQっβけ①国×OΦ巳淳霞ρ︑ミミ軌らミ冨ミの匙ミ亀︑ミミ普≧題駐o︐9け.︶︑そして︑民法的な社会では︑市民は︑政府

プログラムの費用を十分に知っているのに対して︑公共経費計画の完全な便益の大部分には︑大きな注意を払わない

ために︑公共経費は︑常に過少であるという︑︾昌普︒ξUo≦諺の主張︑︵芝げ︽昏①Ω︒<①﹁昌ヨΦロけ切&σqΦ什一ω80

ω日巴富︑識§鷺ミ冨ミ偽窺ミ駄ミミ驚≧題詩埴oO.o一fミミミ︑ミミら勲同㊤①O︶も看過することはできないであろう︒

Social Balanceと公共財

55

 さて︑公私両セクターの資源配分に関する︑さきの社会的バランス論を通じていえることは︑出餌昌ωΦづから︑

UO芝昌ωにいたる︑それぞれの主張と反論が︑根底的には︑それぞれの︑社会的価値判断にもとづいており︑私的セ

クターと公的セクター配分に対する︑それぞれのバイアスによって︑その構成が方向づけられている︑ということで

あり︑その意味では︑社会的バランスの概念そのものが︑客観的にベストな︑単一解を導出することができない︑困

難な問題を含んでいるといえるかもしれない︒

 しかしながら︑公私両セクターへの︑資源の最適配分という準則に対する︑それぞれのバイアスには︑それを支え

ている論拠があり︑そしてまた︑その論拠は︑現実の財政的選択の制度に結びついているように思われる︒すなわ

ち︑二きωΦ〒O巴至公昏をはじめとする公的セクターへの経済的資源の配分を︑私的セクターのそれよりも高く評価

223

(14)

56

する見解を︑強く支えているのは︑私的財生産部門における︑生産性の破行的過大発展の問題とは別に︑より根底的 24      2は︑次のような公共財そのものの特質に根ざした事実にほかならない︒ 一般的にいって︑社会の構成員一納税者に

にとって︑望ましいと考えられる︑公共財・サービスのある水準が存在している︒しかし︑それは︑納税者の租税負

担額とは︑一応きりはなされた需要水準である︒ところで︑あらゆる公共財・サービスの配分費用は︑原則的には︑

租税収入によって調達されなければならない︒ところが︑他方︑公共財の基本的性格から︑その便益は不可分である

ために︑納税者にとっては︑便益と租税一価格との問に︑個別的関係が存在しないので︑かれは︑可能であるかぎ

り︑︽ゼロ︾価格で︑他人と同等の便益をえようと企てるはずであり︑むしろ︑そうすることが︑合理的消費者行動

の方向に沿うものである︒公共財も︑個人の満足を充足し︑それぞれの効用関数に入りこむという観点からは︑私的

財と本質的には異るところはないが︑各個人が均等消費をしなければならないため︑財・サービスの水準は︑固定的

と考えられ︑それに対して︑個人i納税者は︑個別的費用︵租税負担額︶を最小にしょうと努力するはずである︒し

たがって︑当然の結果として︑納税者が認容しうる︑租税負担の水準は︑通常は︑のぞましい公共財・サービス配分

に必要な費用水準よりは︑かなり低くなる傾向をまぬかれない︒

 ところで︑少なくとも︑社会の生産性が急テンポで上昇し︑私的生産物の産出高が︑急激に成長している社会では︑

さきの自重ω①昌指摘をまつまでもなく︑それに照応した︑公共財の産出高の増大が︑強く欲求されるであろうし︑

そして︑さらに︑経済の成長が進むにつれて︑公共財に対する所得弾力性も変っていくことが予想されるであろう︒

過去において︑純粋に私的な財・サービスとして処理されてきたものが︑高度経済成長をとげた︑複雑化した産業社

会では︑強く公共的色彩をもたざるをえなくなった︒したがって︑ 一般的にいって︑社会構成員の︑公共財に対す

る︑費用とはきりはなされた︑需要水準は︑かなり高くなることが︑指摘できるであろう︒しかし︑このことが直ち

(15)

Social BaZanceと公共財 57

に︑質︑量ともに十分な︑公共財の配分を可能にするのではない︒すなわち︑このような︑公共財・サービスに対す

る︑潜在的な需要水準は︑納税者による︑租税負担の認容水準によって︑かなり低い水準にまで︑低減されねばなら

ないからである︒このように︑公的セクターに対する︑相対的な資源の配分量は︑実際の必要量よりも︑かなり低い

水準で︑決定される傾向があるということが︑指摘できるであろう︒このような︑公共財・サービス決定に関する︑

政治的プロセスにおける特質が︑いわゆる社会的不均衡をもたらす傾向の︑基礎に横たわっているのであり︑この事

実が︑公的セクター配分に対する︑弁護論を構成しているといえるであろう︒

 他方︑公的セクターよりも︑私的セクターへの資源配分に対して︑より高い評価を与える見解を︑根底において支

えている理由が︑指摘されねばならない︒それは︑基本的には︑公的セクター配分に付随する︑非効率性の問題に関

連している︒すなわち︑私的財の配分は︑原則として︑市場のプライシング・メカニズムを通じて行なわれるとき︑

資源の配分は効率的に達成されるはずであるが︑市場の有効圏外にある︑公共財の配分を決定する︑政治的プロセス

には︑不可避的に︑効率的な意思決定を歪めるような︑多数の要因が介入してくる︒原則としては︑公共財・サービ

スの配分決定は︑政治的プロセスを通して︑社会構成員の︑個々の選好パターンに基づいて︑おこなわれなければな

らない︒しかし︑現実の政治的意思決定は︑地域的政治勢力︑圧力諸団体の力関係等によって︑大きく支配されざる

をえない︒つまり︑ここでは︑経済合理性基準よりも︑いわゆる政治的姿勢が優先されていることが多く︑これが︑

しばしば︑公共財配分の効率性基準を︑無視するのである︒したがって︑一般的にいって︑選挙が︑選挙民への︑個

別的なパーレン・ゲシェンケと結びつけられることが多い︑政治的環境のなかでは︑公的セクター配分は︑大きな非

効率性を回避することはできないであろう︒しかも︑公共経費は︑一般的に︑下方硬直性をもっており︑急速な経済

成長蓬成する過程が︑書な税の自然増収をもたらすとき・安寧制度的拡張が・経済合理性基準に反して実現さ篇

(16)

58

れる傾向があり︑そして︑このことが︑ますます︑財政の非効率的硬直性を強めるという︑大きな浪費的可能性をは 26       2らんでいる︒このようにみてくると︑公的セクターへの︑より大きな資源の転換は︑それがある程度︑社会的欲求

の︑より大きな充足の必要性を認めたうえであったとしても︑大きな非効率性への危惧をともなわざるを︑兄ないこと

も︑否定できない︒

 さて︑このように︑社会的バランスに関する︑セクター評価には︑それぞれの見解を︑基本的に支えている︑一般

的根拠が認められるが︑それにもかかわらず︑公私両セクターを含めた︑社会的均衡点の決定に対しては︑これまで

のところ︑経済分析は︑われわれに明確な指針を与えなかった︒少なくとも︑客観的な社会的均衡点を︑正確に決定

することは︑科学的には︑不可能であり︑そこには︑社会的な︑ある価値判断が介入しなければならないと考えられ

てきた︒たとえぽ︑○巴σ鑓詳ゴが指摘するように︑均衡に関するテストー私的欲求と公的欲求の充足について︑均

衡が達成されているといえるような一としては︑いかなるものも︑適用可能ではないのである︵oh↓ミト聴ミ§妹

⑦o亀鴨掌bやωb︒OIωb︒H︶︒もちろん︑この問題については︑私的セクターと公的セクター問の︑資源移転には︑それぞ

れの機会費用を均等化させるという︑準則がしばしぽとりあげられている︒しかし︑このようなテストを適用すると

き︑公共財・サービスによってもたらされる便益について︑その測定可能性の問題があり︑そして︑公的資源の限界

増分から得られる効用と︑私的資源のそれを比較する場合に︑個人間の効用比較の問題とは別に︑一方の︑合成的欲

求充足と︑他方の︑個別的欲求充足とを︑比較しなければならないという︑問題が残される︒ ︵しかし︑ ○巴二巴島

にしたがえば︑正確な均衡点はそれほど重要ではなく︑ゆたかな社会の一つの特徴は︑このような問題に対する︑か

なり大きな誤差の限界を許すのである︒︶

 いずれにせよ︑社会的バランスを考えるとぎ︑いわゆる︑純粋私的財と純粋公共財配分の質︑量の問題とは別に︑

(17)

準公共︵私的︶財の配分の問題が︑その重要な決定要因を構成していることを看過してはならない︒つまり︑これら

ば︑少なくとも︑技術的には︑どちらのセクターによっても︑配分が可能なものであり︑現実の配分決定は︑資源配

分に対する︑各セクター評価のプライオリティーによって左右されるのである︒

 かくして︑社会的バランスに関する見解は︑根底的には︑資源配分に関する︑それぞれの価値判断にもとづいてい

るのであるが︑それでは︑われわれが最初に明らかにしたような︑現代公共財理論における︑社会的.バランスの概念

と︑公共財に関する︑政治的プロセスにおける意思決定の問題を︑どのように結合していけぽよいのであろうか︒こ

の問題の解明には︑もちろん︑より包括的な︑公共財理論の展開が必要であるが︑ここでは︑さしあたって︑この困

難な問題への︑一つのアプローチの糸口を検討する意味で︑公共財理論の立場から︑一つの部分的考察を試みること

にする︒

Social Balanceと公共財 59

 公私両セクターを通じての︑社会的バランスは︑理論的には︑少くとも︑パレート効率性フロンティア上に︑ベス

トな単一解を求めることになるのであるが︑現代厚生経済理論に従えば︑これらの決定には︑エクスターナルな︑社

会厚生関数を設定しなければならない︒しかしながら︑このような厚生関数は︑あくまで︑ある社会的価値判断を前

提にしない限り︑導出は不可能であり︑各社会構成員の︑個別的な選好パターンを︑客観的に集約しうるものでない

限り︑個人的選好体系のもとに構成されている︑パレート効率性基準との︑コンシステンシーを欠くことになる︒

 われわれは一応︑この予備的アプローチでぱ︑これらの困難を回避して︑公共財理論におけるわれわれの研究に︑      27一つの重要な示唆を提供している︑ 囚づ痺芝ざ冨︒=の貢献をてがかりにしながら︑公共財・サービスの決定問題を 2

(18)

60

みることにしよう︒       28

       2 一般的に︑公共財・サービスは︑多数の個人の間で︑スピル・オーバー効果をもつために︑個人の独立的行動は︑

配分点を︑必ずしも︑パレート効率性基準の方向へ︑シフトするという保証はない︒すなわち︑個人は︑ここでは︑

フリー・ライダーをねらうので︑ある修正された︑行動のルールが必要である︒このような観点から︑個人的選択の

行なわれる構造に︑特別の変更を提案するのが︑国づ耳事貯犀ωΦ=である ︵隷.§§無ミミミ8ミqミQ諺ミ魯ミミ題詳

同︒︒$︶︒ところで︑公共財における︑いわゆるフリー・ライダ:の動機が排除されるのは︑個人の選択が︑集団の他

の人々の行動に︑影響を与えること︑しかも︑あるポジティブな意味で︑集団における結果に影響を与えることが︑

意識されているときだけである︒したがって︑これを実現するための︑芝一〇閃ωΦ=の提案は︑公共財の配分における

集団の意思決定が︑満場↓致の原則に基づくべきことをのべたのである︒ここで︑集団のすべてのメンバーの同意に

基づいて︑決定が実行されることを個人が意識するとき︑かれの選択はいまや︑単に自分自身だけでなく︑集団の各

構成員︑そして︑全構成員のための結果をも︑考慮しなければならなくなる︒個人は︑もはや︑フリー・ライダーと

はなりえない︑厳しい事実に直面するのである︒もし︑個人が︑特定の提案に反対するとき︑全集団のためのこの提

案は︑もはや︑実行されることはありえない︒したがって︑かれにとって︑その提案に関して︑費用負担なしに︑便

益を期待するという︑フリー・ライダーへの途は閉されるのである︒この意味において︑満場一致のルールは︑公共

財理論における︑多数者のケースを︑少数者のケースに転換するのである︒

 さて︑このような条件のもとでは︑集団の有効規模は︑二つの党派に分解される︒すなわち︑個人は︑自分自身

を︑一単位としての︑︿他のすべての個人﹀と交渉するものと考える︒ここでは︑フリー・ライダーの問題は︑完全に

排除されるが︑再び︑少数者のケースで起る困難が︑ある程度まで︑入ってくる︒それにもかかわらず︑個人には︑

(19)

Social Balanceと公共財 61

交渉への強い動機あるはずであり︑パレート効率性フロンティアーへの︑ある接近が期待されるであろう︒しかしな

       ぬ   も   ヘ   やがら︑満場一致のルールの基本的性格からすれぽ︑すべての個人が同意しない限り︑集団の意思決定は不可能であ

る︒したがって︑灘区げωΦ一一は︑この厳密なルールを修正して︑完全な満場一致からの︑ある程度の離反を認め︑い

わゆる︑︿相対的満場一致﹀を代用するのである︒このルールのもとでは︑おそらく︑十分な数の個人が︑非戦略的

に行動して︑公共財に関する︑意思決定を実現するであろう︒芝一〇訂Φ一一の︑この厳密なルールの部分的な緩和は︑

︿非社会的﹀な少数派︑あるいは反抗者の︑却ドを考慮するためではなく︑むしろ︑一意的に差別的な︑便益獲得の

可能性を︑重要な考慮から排除させながら︑集団各個人の︑選択条件の修正をねらったものであった︵9旨ζ.

じdXげ鋤轟P﹃ミb偽ミ織§気山§職的ミ鷺督ミ︑〜さ︑思Ooo私心HΦ①○︒埴薯.Φ塗り切︶︒ところで︑パレートの条件が満足され

るとき︑定義上︑それからの変化の提案は︑すべての党派の同意を得ることばできない︒そして︑パレート条件を満

足しない︑どのような状態からの変化も︑交渉の困難を別とすれば︑集団の︑すべての個人の承認を︑確保すること

ができる︒厳密な意味での満場一致ルールの緩和︑すなわち︑相対的な満場一致︑あるいは︑条件つき満場一致の採

用は︑ある効率性の犠牲をともなうであろう︒厳密にいえば︑副次的支払いが考慮されない限り︑満場一致に達しな

い︑どのようなルールのもとでも︑パレート・フロンティアーが達成されるという保証はない︒緩和されたルールの

もとでは︑依然として︑ノン・オプティマルのままである︒

 しかしながら︑意思決定のルールが︑集合的意思決定についての︑観察者の評価ときり離されるならば︑これらのすべ

ての決定は︑その効率性の観点からランクすることが可能になる︒個人の戦略的交渉行動の範囲をせばめ︑集団意志

決定を確保するためには︑厳密な満場一致からの︑ある程度の離反が必要である︒しかしながら︑ひとたび︑意思決      29定のためのルールが選択されるならば︑異った集合的結果の︑相対的な効率性は︑同意を表明する総構成員の比率に 2

(20)

62

よって︑︐測定することができる︒もし︑ある相対的満場一致︑あるいは条件つき多数決︵あるいは単純な多数決ルー 30       2ルの場合でも︶のもとで︑ある提案が︑すべての党派の︑満場一致の支持を得るならぽ︑観察者は︑その移動を︑十

分なパレートの意味における︑︿効率的Vなものとして︑分類することができる︒このようにして︑何らかの︑意思

決定のルールが与えられると︑賛成投票の比率によって︑種々の投票の割合は︑個別的提案の効率性に対する︑容認

しうる基準となるのである︵oや︒一£娼・①①︶︒かくて︑芝8閃ω①一一は︑多数者ケースの︑公共財相互作用関係に固有の

フリー・ライダーのディレンマを排除することをはかったのである︒もし︑相対的︑あるいは条件つきの意味でさ

え︑満場一致のルールが︑適用されるなら︑公共財は︑効率的に︑供給される傾向を生ずるであろう︒したがって︑

分析上は︑この芝8閃ωΦ=の貢献は︑公共財理論の発展に︑大きなステップを提供したとえるであろう︒しかしなが

ら︑現実社会の選択的制度から考えるとき︑さらに適正な理論が要求されなければならないことはもちろんである︒

現実的制度の経験は︑集合的な意思決定のルールに関して︑単純な効率性以外の考慮が︑大きく介入してくることを

示唆している︒それにもかかわらず︑芝一〇募ω=の方式は︑第一序列の経済的効率性の︑ありうべき犠牲を︑少なく

とも概念的には︑測定することのできる︑一つのベンチマークを設定するという︑有用性をもっている︵oh8・9こ

b・零︶︒いずれにせよ︑芝ざ貯ωΦ=の満場一致のルールは︑選択の理論に対する︑政治的︑あるいは︑制度的な相対物

であり︑政治的選択の用語にひきなおせば︑パレート最適は︑〜<ざ冨①=の満場一致と同義語なのである︒集団にお

けるすべてのメンバーが︑提案された変化に同意しない限り︑あるメンバーは︑その変化によって︑改悪されること

を予期するにちがいない︒つまり︑その提案は︑パレート最適基準によって︑資格を失うことになる︒提案に対して

ではなく︑位置に適用して︑もし︑満場一致の同意を達成しうるような︑変化が存在しないなら︑最初の︑すなわ

ち︑現状の位置は︑パレート・オプティマルとしてみなされるのである︒このように︑この二つの概念の間の直接的

(21)

Social Balance と公共財 63

な関係は明白である︒

 芝一︒犀ω①一一の貢献は︑このように︑政治的制度ないしルールの︑さらにたちいった検討に︑不可欠の基礎を提供し

たのであるが︑満場一致のルール︵相対的満場一致のルールでさえも︶が︑実際の政治組織のなかに組みこまれてい

ることは稀であり︑これらの単純な効率性リミットを超克していくことが必要なのである︒現実の集団︑ないし集合

的意思決定の効率性は︑必然的に︑各単一集団の選択が︑パレートーヴィクセル効率性を達成することを要求する︑

芝8評ωΦ=のリミットから離反していることを︑われわれの経験が教えている︒この結論は︑単に財政的選択だけで

なく︑政治的選択にもあてはまるものである︒しかし︑ここでの重要な問題は︑集団の選択が行なわれる︑非満場一

致のルールが︑特定の条件のもとで︑効率性の根拠のうえに︑ジャスティファイできるということである︒たとえ

ば︑いま︑公共財の数量︑構成および︑その費用負担についての︑一連の決定に直面している社会を考えるとき︑そ

こでは︑明示的あるいは黙示的に︑具体的な結果に到達するためのルールとして︑単純な多数決の投票が採用され︑

メンバーは︑このルールによって示された︑結果に従うことに︑同意するであろう︒その過程において︑平均的ある

いは代表的市民にとっては︑この決定ルールが︑他の選択的ルールよりも︑相対的に効果的であることが︑一般的に

予想されるであろう︒少なくとも︑このことが︑種々の選択的ルールのなかで︑このルールを選好した基本的理由で

なければならない︒しかし︑個人は︑このルールが︑特定の場合に︑自分自身の選好に反するような結果を生ずるこ

とを︑予期するであろう︒かれが緊急に選好する︑公共財計画は︑多.数派が︑かれの評価に同意しないために︑決定

されないかもしれない︒逆に︑個人は︑それほど有用とは考えない︑計画の費用負担を要求されるかもしれない︒し

たがって︑このルールに対する︑効率性のジァスティフィケイシ.ンは︑期間を通じて︑結局︑利益が非効率性を相

殺するという予測に求めなければならないであろう︒

231

(22)

 われわれは︑ここで︑公共財の決定について︑最近の公共財理論を手がかりにして︑部分的な考察をしてきた︒そ

して︑以上のように︑われわれは︑︿社会的バランス﹀の概念を︑効率性基準から冤定するとき︑そ・こ﹄おけるベス

トな単一解を決定する際の︑パレート基準の個人的選好体系と︑外生的な社会厚生関数の間の矛盾を回避して︑そこ

に論理的なコンシステンシーを求めることができた︒しかし︑上述したように︑この部分的考察は︑公共財理論アプ

ローチへの︑一つの糸口を求めるためのものであり︑︿社会的バランスVの観点からの︑公共財決定については︑よ

り包括的な分析が必要なのであり︑それについては︑別の機会にゆずらねばならない︒

232

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