戦後(1945-1974 年)の高橋一夫・鈴木忍と日本語教育
―1974 年の座談会録音テープより( 2 )―
河路 由佳
1. はじめに
2. 戦後の高橋一夫・鈴木忍と日本語教育(座談会記録より)
2.1. 戦後早期の文部省国語課の語彙調査
2.2. 戦後初期の東京外国語大学・千葉大学における留学生教育
2.3. 千葉大学の日本語教育をめぐる人々
2.4. 文部省の日本語教育懇談会(1961)
2.5. 「外国人のための日本語教育学会」の創設(1962)
2.6. 文部省の日本語教育センター構想と東京外国語大学附属日本語学校の創設(1970)
2.7. 東京外国語大学特設日本語学科と附属日本語学校
2.8. 日本語教育のあり方をめぐって
3. おわりに・・・本資料で語られている戦後の日本語教育復興に関する考察
1. はじめに
本稿は、1974年の秋に東京外国語大学外国語学部附属日本語学校の校長室において録音され た座談会の記録1)に基づき、高橋一夫、鈴木忍の戦後早期から1970年代初めまでの日本語教育 復興への仕事をたどるものである。同じ資料の前半部分をもとに河路(2009)では、1930年代 の終わりから1945年の夏までのことがらが語られる部分をまとめたが、本稿はその続きにあた る。テープは、2008年3月28日、当時この日本語学校の教員であった川瀬生郎氏よりお借り した。
本資料の作成の過程は前号のものに準ずる。まず、録音テープを忠実に文字に書き起こし、
言い直し、言いよどみ等を整理して文章を整えた第一次原稿を作成し、鈴木忍氏の御子息、鈴 木泰氏に発表の許可をいただいた。今回発表する座談会の後半部分は、先に発表した前半部分 に比べて録音状態が悪く聞き取りにくい部分がある。そうした部分、また明らかに発言者の誤 謬と思われる個所については、前後の文脈から文章を整え、内容を明確にするために、括弧内 に語句を補充した。座談会参加者は高橋一夫、鈴木忍のほか伊藤芳照、川瀬生郎、河原崎幹夫、
高橋睦、豊田豊子、安田滋の計8名である。発言者について高橋一夫は高橋、高橋睦は高橋(睦)
と表記した。また、読みやすくするために、話題のまとまりごとに見出しをつけた。そして、
参考文献に照らして事実関係を確認し、注釈を加えた。これについて2008年9月初めに川瀬生 郎先生に確認を依頼し、そのご意見を反映して見出しや注釈に修正を加えたものを予備原稿と した。
本稿は、この予備原稿をもとに、特に1962年の日本語教育学会の設立前後の事情など、戦後 日本の日本語教育復興に関わる内容を中心にまとめた。座談会の話題は一部、高橋一夫(1968)、 鈴木忍(1975)の内容と重なっているが 、それらの文献に比べ、座談会ではより当事者の主観 が率直に語られ、当事者以外の人物についても、戦時中から日本語教育に従事してきた人々の 戦後の日本語教育へのかかわり等が具体的に語られている。こうした部分について研究資料と しての意義が認められると判断した場合は、本稿に残すようにした。
一方、後半部分に現れる東京外国語大学外国語学部附属日本語学校の内部の教員同士の打ち 合わせのような内容については本稿では省略した。なお、文中に現れる古い文献名やその引用 部分などの漢字の字体は現代の常用字体に改めて示した。
2. 戦後の高橋一夫・鈴木忍と日本語教育(座談会記録より)
2.1. 戦後早期の文部省国語課の語彙調査 鈴木:先生は文部省へはいついらしたんですか。
高橋:昭和22年(1947)の10月です2)。 鈴木:その時の課長は。
高橋:釘本(久春)3)さんです。
河原崎:先生は文部省の国語課の事務官だったんですか、専門員みたいな?
高橋:私は嘱託の身分で行って、調査を担当しました。ですから事務官ですね、要するに。
鈴木:漢字か何か文字のことを調査されたんですね。
高橋:ああ、そうですね。戦後、CIE(民間情報教育局)といったGHQの司令部の教育担当部 門にハルパン 4)という言語担当者がいて、その人の指導で小学校の語彙調査をすること になったんです。それを、私が担当することになりました。
鈴木:語彙調査とか漢字調査とか、先生がカードを作って調査をなさるのは、そのころからの ことですか。
高橋:いや、それは大学の時からですね実証的な資料を集めるのは橋本(進吉)先生の影響で す。
鈴木:それが今も残っているんですね。
高橋:ええ、そういうことです。あの小学校の語彙調査は、小学校1年生にテストをしたんで
す。新しいやり方を教わりながら、それをやらされたわけです。文字をろくに知らない 段階から、どうしてやるか。絵を使ってやるんです。当時まだそういう方法は日本では 行われていなかったんじゃないかと思います。そんなわけで、国語課では新しい方法で テストを実施したのが最初の仕事です。作ったテストを実験的に、いくつかの学校に頼 んで実施しました。その方法は東京都でも採用されまして、ある程度広まりました。
伊藤:具体的に、どういうテストで、何を調べられたんですか。
高橋:語彙力でしょうね。絵を出して、うーん、どんなことを訊いたか忘れましたがね。木が 2本、高い木と低い木とがあって、「高いほうに丸を付けなさい」とか、そういった問 題でした。質問は口頭じゃなくて書いて与えたと思いますがね。子どもは、文章も文字 も書かないで、直接答えに○をつけるんです。
河原崎:当用漢字の制定の時は、先生は国語課にいらっしゃったんですか?
高橋:そうですね。当用漢字は22年、漢字表自体は21年ですか。音訓表を制定した時は私は いたんですが、全くノータッチでした。
2.2. 戦後初期の東京外国語大学・千葉大学における留学生教育
高橋:外語(東京外国語大学)では、(昭和)29年から留学生別科5)が出来ていました。
鈴木:私も(昭和)29年から1年間ほど(非常勤講師として日本語を教えに)行きました。
高橋:そう、外語の方は鈴木(忍)さんが指導なさいましたね。そして、(昭和)35(1960)年 に千葉大と外語大の両方に留学生課程ができたんです。外語の方が文科系、千葉の方が 理科系の学生を対象にするということで。
鈴木:それで千葉大は、日本語の方は高橋先生、そのほかに英語の先生がいましたね。
高橋:木暮(義雄)さんです。それから漢文の大槻(信良)さん。池田(重)さん。あと林田
(明)さん。
鈴木:林田さんは、ちょっと後ですよ。木暮さん、大槻さんは年長の方でしたね。千葉大で日 本語教育の人が必要だということで、木暮さん、大槻さんが行ったわけですよね。その あと、高橋先生がちょっと遅れて行かれたんです。
高橋:はい、発令が5月1日でした。
鈴木:高橋先生はこのお二人を連れて「ここの教育を見よ」と、(私が在職して日本語を教えて いた国際)学友会6)へ見学に来られたことがあるんですよ7)。
高橋:とにかく、3月のいつごろか、千葉大の学長と文理学部長と私の間では(私が着任する という)話がまとまりました。学生は4月に来るでしょ。元からいる千葉大の先生は(日 本語教育の方法について)全く分からないでしょう。(私が5月 1日に着任したときに
は)私には何も相談のないまま、小学校の教科書を使って始めていたんですよ。行って みて驚きました。
河原崎:小学校の教科書を使っていたわけですか。
高橋:ええ。それで、(国際)学友会の教科書8)に変えてもらったんです。
伊藤:高橋先生が千葉大においでになったころ、釘本(久春)先生が外大(東京外国語大学)
へいらっしゃいましたね。
高橋:ええ、そうでした。
河原崎:釘本先生は(昭和)35(1960)年に外語大に来られました。
鈴木:釘本さんの方がちょっと話は早かったんじゃないでしょうか。
高橋:ええ、釘本さんはその時は育英会にいたんです。留学生課程ができるということで、(釘 本さんの行き先について)外大のほかに千葉大にも可能性はあったんです。
鈴木:ああ、そうですか。
高橋:結局、外語に来られましたが、釘本さんは初め、教官ではなく事務官として採用された んです。事務官なら教授会を通す必要はないからです。それが、あとあとまで外語の留 学生課程の運営や学内における位置づけにおける妨げになりました。
鈴木:あれは、文部省の方から一方的に釘本さんを外語大に斡旋しようとしたので、外語は怒 ったわけです。あのときの学長は澤田(節蔵)さんでした。
高橋:ああ、そうですか。
鈴木:(昭和)28、9年ごろ、私が最初に行った時には(後に学長となった)岩崎(民平)さん は英語の主任でした。英語科が日本語教育の責任を持っていたんです。
高橋:別科のころですね。
鈴木:それで、当時まだ助教授だった小川(芳男)先生がね、私を連れてって「こいつが指導 するから」と岩崎先生に言ったわけなんですよ。
河原崎:話の途中で申し訳ないんですが、外大(東京外国語大学)に29(1954)年に別科が置 かれて、それを理科と文科の二つに分けたいきさつは・・・。
高橋:私はよく知らないんです。ただ、仄聞するところによると、「1年間の予備教育ではだめ だ、大学に進学してから困る」ということだったようですね。私は知りませんでしたが、
受け入れ大学で困ったということでしょうね。
河原崎:設置することについて、外大ではすんなり受け入れたんですか。千葉大ではどうだっ たんでしょうか。
高橋:千葉大は新たにもらうんだから事情は違ったでしょうね。噂話ですが、千葉大は、留学 生課程を受け入れるのに非常に熱心だったそうですよ。行ってみて分かったんですが、
学内人事の問題があったんです。事情あって定員外の教官が大勢いたのを、留学生課程 ができて、そこに吸収することができたんです。確かに結果的に救われたんです。(新 規着任で)部外から行ったのは私だけで、あと(の教員は)は文理学部の方から連れて きましたから。
2.3. 千葉大学の日本語教育をめぐる人々
川瀬: 高橋先生は千葉大へいらっしゃって、そこで日本語教官をお集めになったんですね。
高橋:まあ、そうですね。
川瀬:そのころは望月(孝逸)先生9)も文部省にいらっしゃったんですよね。
高橋:そう、国語課にいました。
鈴木:望月さんはだいぶあとですよ。水谷(修)、倉持(保男)、林田(明)といった先生が早 かった。それから、池田重さん。
川瀬:そういう方を先生がお集めになったんですね。
鈴木:一番最初に高橋先生が呼ばれたのが水谷さんですね。
高橋:ええ、水谷(修)君でした。金田一(春彦)さんから頼まれたんです。千葉大学の最初 の教員は、木暮さん、大木さん、それからあの薄井(歳和)君というフランス語をやっ た人、早稲田出ですね。それから、英語の先生が手伝っていましたかね、小松(光)さ んなども。
河原崎:倉持(保男)さんは先生が引っ張ってこられたんですか。
高橋:そうです。(昭和)35(1960)年だとすると時枝(誠記)さんの紹介だったかな。
高橋:小杉(商一)君10)は翌年でしょうかね。はっきり覚えていませんけれど。
鈴木:そうですか。高橋先生が外語へ移られるとき彼を連れてきたんですね。
高橋:まあ、そういうことです。
河原崎:林田(明)、池田(重)さんはもともと学内にいたんですか。
高橋:池田君はロンドンのロンドン大学でしたかね11)。そこにいました。で、ある有名な千葉 大の先生がロンドンで池田君に世話になって、そちらの方で話が進んだんです。確か 2 年目に来られたでしょう。
鈴木:非常にぶしつけですが、池田先生と高橋先生はうまが合わなかったようですね。日本語 教育の考え方でしょうか、高橋先生と池田先生とでは違っていました。
高橋:ええ、彼は向こう(ロンドン)で英語を媒介にしてやってきたわけですが、私の方は日 本語の直接法でね。
鈴木:ええ。先生が千葉大へ行かれた時、日本語教育はこうあるべきだというお考えがおあり
でしたでしょうか。
高橋:そういうことを聞かれると弱いですね。私は、そういう(日本語教育を軌道に乗せる)
役割にはめ込まれたということに過ぎないと思います。
2.4. 文部省の日本語教育懇談会(1961)
鈴木:(昭和)36年から文部省調査局内に日本語教育懇談会が開かれました12)。そのころのこ とを復習してみますと、中華日本語学校の松浦という人物がいて・・・。
高橋:松浦珪三さん13)。
鈴木:ええ、松浦珪三さん。彼はあくまでも日本語教育は文法を教えるんでなくちゃいけない という考えの持ち主でした。それも学校文法をそのまま教えるんです。高橋先生が非常に これに反発されていましたね。
高橋:そうでしたかね。
鈴木:高橋先生は、「外国人に教える場合はいわゆる学校文法じゃいけない、別の方法でなけれ ばいけない」としょっちゅうおっしゃっていました。
高橋:それは、(戦時中の国際)学友会で教えられたり経験したりしたことを、そのまま千葉に 持っていこうとしていたんじゃないでしょうかね。
河原崎:千葉大の方は理科系の学生だけということですが、それで難しさをお感じになるよう なことはありませんでしたか。
高橋:理科の学生だけだから難しいとは思いませんでしたね。ただ、専門のことは分りません から、(学生たちの進学先としての)大学の配置その他(の決定)には直接かかわりま せんでした。
鈴木:文部省「日本語教育のあり方」14)を読んでみますとね、「ようだ」とか「ように」とかね、
これは助動詞だとかどうだとか品詞で分けるんじゃなく、まとめて教えなければならな いということを(高橋先生は)おっしゃっていますね。
高橋:学校文法は品詞論が主体でしょう。品詞がどうだこうだといっても、日本語教育ではあ まり役に立たないでしょう。そういう気持ちは強いです。
鈴木:そういう意味では、新しいものを打ち出されたんじゃないでしょうかね。
河原崎:先生が外語に来られたきっかけをうかがえますか。
高橋:中野から千葉まで行くのは遠くて疲れるんです。ちょうどそういう時に外語から話があ ったんで応じたわけです。それだけなんですよ。
河原崎:外語大の方から先生に来ていただきたいということだったんですね。
高橋:ええ。当時、釘本(久春)さんは日本語ではなく日本事情の担当でした。日本語の方は
佐藤(純一)君15)、ロシア語の、それから窪田(富男)さんなど若い人でした。
声をかけてこられたのは窪田さんでした。
鈴木:ぜひ高橋先生を、というのは、おそらく釘本さんから出た話だろうと思います。
2.5.「外国人のための日本語教育学会」の創設(1962)
河原崎:(外国人のための)日本語教育学会が昭和37(1962)年にできましたね。
高橋:外語大に学会の事務局がありましたね16)。窪田(富男)先生や湯本(昭南)先生が一生 懸命になさっていました。
鈴木:日本語教育学会はね、釘本(久春)、高橋(一夫)、林(大)に私が加わりまして4人で、
いつか飲みながら話をしたことがあって、それが設立のきっかけになりました。あれは 飲む会の肴にしたんじゃないかと思うんですがね。日本語教育懇談会が36(1961)年に ありましてね。その研究会が終わると一杯飲みに行ってね。何か話をしなくちゃいけな いというので、そういうのを作ろうという話をしたんです。
高橋:4人で話しあいましたね。4人が同じことを考えていたかどうかはわかりませんよ。私 は放っておいたら日本語教育は文部省にいいようにされてしまうと思ったんですよ。し っかりしなきゃだめだ、という気持ちが強かったんです。だから、学会を作ることには 積極的な気持でした。
鈴木:私の立場は、ちょっと違います。ある時から文部省が乗り出してきた。私の方はむしろ、
文部省が日本語教育に関心をもってきたのはありがたいと思いました。小さな国際学友 会に勤める身としましては、この機に乗じて国際学友会の立場を少し強くしたいという 気持ちでいっぱいでした。高橋先生とは違う気持ちであのとき、話していたのかもしれ ませんね。
高橋:私は大学にいたからかもしれませんが、文部省にいいように振り回されてはかなわない という思いが強かったです。
鈴木:先生は反体制的なところがおありですからね。
高橋:そうですか。非常に協力的にやってきたと思うんですがね。
鈴木:先生のその反体制はどこから来るんですかね。
高橋:そういうことには意識の薄い人間でして、よくわからないんです。反骨精神は生まれつ きかもしれません。権力にはむかうということは昔からありました。十八中(東京府立 第十八中学校)の教師をしていたとき、担任のクラスの生徒たちを守るために軍事教官 と喧嘩をしたことがあります。人に迎合するのは苦手ですね。
伊藤:東外大に移られたのはいつになりますか。
高橋:昭和39(1964)年の5月です。
2.6. 文部省の日本語教育センター構想と東京外国語大学附属日本語学校の創設(1970)
伊藤:それから(東京外国語大学外国語学部)附属(日本語学校)ができたのは昭和45(1970)
年ですね。
鈴木:附属日本語学校を作るについては、高橋先生はそれまでのやり方に対して大反対をされ たんです。その辺のこともうかがいたいですね。一番大きい反対は、「1年では無理だ」
ということ、もう一つは「大学教育での日本語教育はだめだ」ということ。これがポイ ントでした。「大学教育では予備教育の集中コースはできないから日本語学校を作ろう」
「それも1年じゃ足りない」と、この二つの点を主張されました。
高橋:そう言ってもらうと思い出しましたが、1年制の日本語学校を作ろうというのに際して はね・・・
鈴木:先生、それより前に、大学における日本語教育について、これが先です。
高橋:そうですか。千葉大の留学生課程にいたころから、大学というところで日本語教育をや ることへの失望と疑問を感じたんです。大学の先生は授業時間が少なく授業に没入でき ない。みんなで協力してやるんじゃなくて一人でやっている。大学の中の教育ではうま くいかないということを強く感じました。そこに(外国人のための)日本語教育センタ ーの話17)が出てきて、どこに作るかという話になったんですが、大学の付属という形で しかできないとすれば、千葉大や東外大ではなく、これまで、そういうことに関係のな かったところに作るのがいいんじゃないかと思いましてね。(文部省の)国際文化課に そう言ったこともあるんです。
鈴木:日本語教育センター構想 18)が話題にのぼったのは、留学生課ができる前のこと、(国際 文化課長が)佐藤薫さんの時代、昭和37・38(1962・1963)年ごろですね、私がこうい うのを作らなきゃだめだと言ったら、すぐ佐藤さんが飛んできました。
高橋:ああ、覚えていますよ。あれは東大に作ろうとして、東大でも乗り気だったんですよね。
特に前田(陽一)さん19)がね。でも結局は東外大に来ることに決まったんですが、この とき学内はまとまらなくてね。
河原崎:この日本語教育センター構想には、日本語学校と研究所が一緒にできるという話があ りましたね。
高橋:ええ。
川瀬:それでそのセンター構想の日本語学校がここになり、研究部が国立国語研究所になった というわけなんですね。
河原崎:日本語学校だけになったというのは、どういういきさつですか。
鈴木:予算が少なかったんじゃないですか。
高橋:(日本語教育センター構想に基づいて)作ろうとしたんですよ。予算の規模はだんだん縮 小されていきましたけどね。
国立国語研究所とは競合の形だったんです。(予算要求は)国語研究所の予算請求もして いたんです。納得いかないのは、外語にできた別科が 1 年、(もっとよいものにしよう と)3年制の課程が千葉大にできたんです。それが3年の課程はだめだと決定づけられ た理由は、私だけじゃないと思うんですが、関係者の間でも分からない。1年にすると いうのはもとの別科に戻すということなんですよね。その辺が納得できないんですよ。
考えられるのは、千葉大がいけないということなんです。千葉大は文部省に気に入られ なかった。大きなできごとが、千葉大のシンガポールの学生、チュア・スイリンによる 訴訟事件20)ですね。文部省は最後に負けたんです。千葉大はいかんと文部省に思わせる 決定的な事件だったんじゃないでしょうかね。
鈴木:私も何度も文部省に行ったと思いますがね、3年間日本人と別に教育を受けさせるより 日本人学生と一緒に勉強するほうがいいとかいくつかの理由があったんですよ。
高橋:受け入れ大学側の要求は、確かにいろんな形でありました。3年もおかれちゃ、十分な 責任が持てないとかね。
鈴木:そういうところが一番大きい問題だったんじゃないかと思います。外大の留学生日本語 学科もそうですよ。難しい問題で、誰がこの決断をくだしたのか私はよく知らないんで すが、とにかく前に否定されたものが復活したんです。
河原崎:学友会では1年で(国際学友会日本語学校編)『日本語読本3』を終わってくるのに、
千葉大から京都大学や水産大学に行ったものが(同)『(日本語謄本)2』の途中あたり で入ってくる。それで困る、と。やっぱりこれはもっと集中的に教育できないのかとい うこともあったようです。
鈴木:大学では集中できないということで、日本語学校に戻ったんです。これは事実。
高橋:ランゲージ・ドミトリーという構想21)がありましたね。
鈴木:ここの1年コースというのは、ランゲージ・ドミトリーですよ。でも、今のこの日本語 学校のいきかたについては、批判がドーンと出てきているんです。日本語学校の先生た ちが大学と同じような考え方を持ってるんじゃないかと思うんですが。しかし、日本語 学校というのは高橋構想でいかなくちゃいけないんですね。日本語教育というのは、日 本語学校でなければできない。日本語学校の先生は大学教授ではないんです。集中教育 の学校の先生で、それが本来の姿なんです。そのためにここに持ってきたんです。それ
をもとに戻しては何にもならないんです。こういうことを言うと、私は憎まれ役を買う かもしれないけれど、先生方もまたそういう気持ちで今後もやってもらわないと、もと に戻っては何もならないと思います。
高橋:私が大部屋主義22)で対応してきたのもそういうことです。自分だけの研究やクラスの指 導というだけでは足りないので、悩みを話し合い連絡しあって、よりよくしてゆくよう に、と。それにはめいめいが個別の研究室に入り込んでしまってはだめだと私は強く思 ったんです。それが(今の教員たちからの要望では)個室が欲しいというようなことに なってるようですけれどね。
鈴木:高橋先生は、ここに来られてからはあまり強くはおっしゃらなかった。でも、日本語教 育は大学ではだめだから日本語学校をここに作った、それでここに落ち着いたんですよ。
昔に戻っちゃいけないんです。非常に過酷かもしれません。研究もしなくちゃいけない、
教育にも努めなくちゃいけないというところがあるかもしれないんですが。
高橋:大学では組織で動きにくいんです。でも、ここ(日本語学校)は組織体で動きやすいん です。個人が教えているんじゃなくて、組織が教えているんです。
2.7. 東京外国語大学特設日本語学科と附属日本語学校
伊藤:日本語学校が設置されることについて、東外大の先生方の間で反対意見が多かったと聞 いています。そこをあえて高橋先生が踏み切られたと。
高橋:いえ、そんなことはないんです。私から言うと文部省から押し付けられた話ということ になるんですが、その日本語教育について、鈴木先生も私もいかにあるべきかという話 をしてきたと思うんです。そのころは東外大にという話は出てなかったので、東外大の 附属の学校と思って話したんじゃなくて、一般論として議論してきたんです。東外大に 持ってくることがはっきりしていたら違っていたんですが、一般論としての話だったの で、強く反対できなかったんです。ランゲージ・ドミトリーで24時間というような構想 は、私はそれほど賛成じゃなかったんです。実現されてよかったのは1クラス8人を標 準とする、というあたりでしょうかね。
いよいよ日本語学校ができることになって私が校長になることになったとき23)、私が(校 長を)受けるかどうか、(東京外国語大学の学部)教授会の理解も得なければならないこ ともあり、日本語学科の先生方に協力を要請したことがありましたが、たてまえとして それはできない、と言われました。
高橋(睦):それは教授会の意見として、ですか。
高橋:はい。たとえば持ち時間の問題もある。従来からのやりかたでいくと、こちらに来ても
手当はでない。そんなこともあったと思います。でも、こちら(中河原の日本語学校)
からあちら(西が原の外国語学部特設日本語学科)に進学する学生もあるので、協力し てもらうのが望ましい形だと思ったのでお願いしたのです。これは今でも遺憾に思って います。
高橋(睦):特設日本語学科 24)の先生はフランクに話し合おうという様子ではなかったんでし ょうか。
高橋:機会があれば話しあえるんじゃないですか。
鈴木:今の今井(庄次)校長25)も何か話し合いの機会をもたなければと考えているようですよ。
私も中間報告的に近いうちに今の学生の学習状況を向こうに話しに行こうと思っていま す。お互いに知らない仲じゃないんですから、「やあやあ、こんにちは」という具合に近 づいていけば了解できることもあるんじゃないかと思います。もっとお互いに努力しな きゃいけません。西が原にいたころ 26)、(特設日本語学科の先生と)いっぱい飲んで話 し合って、たまたま喧嘩になったこともありましたが、それきりじゃいけない。お互い にもっと話さなきゃいけないというのはあると思います。
川瀬:文部省から押し付けられた貰いっ子が5歳に成長して、この辺でそろそろ話し合いをし なきゃならないという時期なんでしょうね。
川瀬:日本語専攻の学生 27)は、現状では全員西が原の日本語学科に進学するしかないんです。
全体で5年。そのうちの最初の1年がここで、あとは西が原で4年と。そう考えれば、
もっと西が原とカリキュラム上の連携を考えていいという気もします。
高橋:当然、いろいろな点で深くつながりを持つべきでしょうね。人の交流がもっとあればい いんですが、こちらの専任とあちらの専任の入れ替わりなんかも難しいんですね。(西が 原の)講義科目に日本語教授法なんかもあるんですから、それはこちら(日本語学校)
の教員が向こうに行って授業を担当してもいいと思いますし、向こうの連中もほんとの 日本語の初歩を教えることなしに日本語教育をやっている教官も中にはいますから、そ ういう人には初歩も経験してもらったほうがいい。そういう意味で、交流があったほう がいいんです。大方の教員は外語に来る以前に初歩を教えた経験があるんですが、若い 方はそうではない。日本語初歩を教えた経験もなく、何も知らない人もいるんです。
鈴木:そうなんですよ。「もし、教授法の授業の関係で教育実習をすることになれば、それはう ちで引き受けますよ」と私は言っているんですが、そういう話にならない。でも、こう いうことを言い合ってもしょうがないんですよ。我々としてはできるだけの努力をして 向こうと接触して、うまくやっていかなきゃなりません。その意味では私もできるだけ やっていきたいと思います。今後は向こうが来るのを待つのではなく、こちらから出て
いきます。きちんと彼らと話すことが大切です。
2.8. 日本語教育のあり方をめぐって
鈴木:日本語教育のあり方ですが、どこまでを日本語教育というのか、その範囲をどう考える か、と思うことが多いんですが、先生はどうお考えになりますか。
高橋:日本語を専攻するものとして勉強することと、いわゆる日本語教育で扱うものとの間に 一線を画する必要があるのかどうか。
鈴木:この間、(国際学友会で数学を教えていた)下瀬川(一郎)さんと、それから(現在本校 で数学を教えている)完田充弘さんと授業のあとで話したんですが、数学や科学につい て、学生たちは先生の日本語を聞き取らなきゃという意識がとても強いんです。内容を 知りたいという目的意識があることで、学生は緊張感をもって聞く、これは非常にいい 日本語の勉強になっていると思います。数学も日本語教育の場だと思います。
高橋:それはそうでしょうね。目的意識が大事ですね。勉強したいことと日本語が結びつくと いうことですね。
鈴木:そうです。数学でも化学でも物理でも、日本語教育としての成果をあげています。
高橋:しかし、私は日本語教育の範囲ということでは、鈴木先生に異論があって、反対意見を 開陳しなければならないと思うんです。数学の先生も日本語教員だ、というご意見だっ たと思いますが、それは日本語学校という職場においては、数学の先生も物理の先生も 歴史の先生も、日本語教育も勉強して貰って日本語の先生でもあってもらいたいという ことには賛成ですけれども、日本語教員の資格という意味では、そういった他の教科の 先生にも一般の日本語教育の先生と同じように日本語を勉強してもらわなければ困ると なると、これは大変なことで現実的ではないと思います。
鈴木:それは確かに非常に難しいです。でもうちの学校のような場合はそういう人を考えてい かなければならないと思います。
高橋:いや、そうかもしれないが、それが資格と言われると・・・。
鈴木:いや、確かに資格というのは何ですが。私の経験から言いますと、非常に大きい効果を 得られた例として伊藤(芳照)夫人、伊藤徳子さん28)の授業があります。数学を教えな がら日本語も教えて貰ったんです。大西(晴彦)君29)もそうですね。この二人には日本 語教育もやり数学もやるということをしてもらいました。高等学校の数学の先生にお願 いしても、これはどうにもなりません。だから日本語を教えてみて、それから数学を教 える、というそういう先生であってもらいたい。「私は日本語の先生じゃありませんから、
そんなことできません」というような先生じゃ困るんです。確かに先生のおっしゃると
おり、資格にまでもっていくことはできないと思いますが、日本語教育を大きくもって いけば、そこまで考えないとだめだと思います。ひととおり教えたらあとは語彙の問題 です。それぞれの専門家が専門にかかわる語彙を教えるということが必要になってきま す。私に数学のことばを教えよと言われても無理なんです。
高橋:この学校の立場をきちんと説明するオリエンテーションをやったほうがいいと思います よ。やっているうちにわかってくるんですよ、半年もすれば普通の人は。
鈴木:変な方に話が発展しちゃいましたがね、高橋先生、日本語教育はどうあるべきか。高橋 先生は日本語教育のあり方について、文法教育にもかかわっていらっしゃって、松浦先 生に相当くってかかられたことも覚えてます。最後の結論として・・・・・。
高橋:中教審の課題みたいなもんですなあ。これは。あなたの意見もうかがいたいですね。
鈴木:助詞の扱いは重要だと思います。例えば「洞穴の中で住む」と「洞穴の中に住む」。どち らも言う場合もあるでしょうが、意味合いが違う30)。それから、日本語教育の期間です が、高橋先生は1年半にしようと文部省で強調していらっしゃる。
高橋:いや、私は1年3か月と言っています。木村(宗男)さんや鈴木さんは1年半とおっし ゃいますが、私は1年3か月です。
川瀬:私もどっちかというと1年半ですね。
豊田:集中教育を1年半もやったら、みな神経衰弱になってしまうんじゃないでしょうか。
鈴木:同じ場所で、あと半年延ばしたってだめです。1 年の次の半年は場所を変えてやるんで す。
川瀬:基礎教育は1年日本語だけをやるんですよ。そして、あとの半年は違うことをやる。有 効に使えるんじゃないかという気がします。これ以上の語彙はかなり高度な知識ととも につけていかなきゃならないので、そこは大学でやってもらうのがいいんじゃないか。
環境が変わるというのは、先生も変わるんです。現状では大学の教養の課程に入る時に 断層があるんです。その断層を埋めるにはいい方法だと思います。
(このあと、しばらく現実の日本語学校での集中日本語教育の在り方をめぐって口々に議 論が展開されるが、本稿では省略。・・河路)
鈴木:ちょっと待ってください。私が先ほど高橋先生にお出しした問題は何でしたか。
高橋:「日本語教育はどうあるべきか」。メモに書いてある。
鈴木:私はこう思います。効果的な教育について、ということでいうと、日本語教育にはマジ ックのようなものはない。教師が一生懸命教えることが第一だと思います。
高橋:それはそうですね。
鈴木:そういう面ではね、(いろいろな)教授法があっても、(唯一これだ、と言えるものは)
ないんですよ。
高橋:文法にしてもいろいろな文法があるというけれど、学説はいろいろあっても、言語現象 は同じなんです。
川瀬:専門の日本語専攻学生は別として、一般的には日本語の言語現象を教えればいいですね。
(「日本語学」は)大学の専門教育でやっていただく、ということですね。
高橋:私は学者じゃないから勝手なことを言いますが、学説を披瀝することはいらない。知識 を与えるんじゃない、言語現象を素直に受け止めて、自分のものにできるというように させるんです。でも、思いつきでこういう言い方があるというんじゃなくて、大多数に 該当することを言わないといけない。自分のわからないことを逃げてもいけないんです。
それでその意味で研究が必要です。
川瀬:先ほどの大テーマについて、逆の面からうかがいますが、この学校の教育を見て、教師 をみて、問題があると思われるのはどういう点でしょうか。
高橋:実証的追求が足りないのではないかということですね。誤用例のカードとか、問題のあ る文のカードとか31)、ちゃんと集まっていますか。
川瀬:高橋先生が提唱された誤用例のカード採り、あれが発展的になりまして、今は大きな研 究になってきています32)。
高橋:例えば、物理のことばとか数学のことばとか、その科目の先生方と協力してカードをと るなどすればよいと思いますが、そういう動きが見えませんね。
川瀬:他教科の先生方との協力の必要ということですね。
3. おわりに・・・本資料で語られている戦後の日本語教育復興に関する考察
本資料では、戦後日本の日本語教育の復興期の事情が語られている。高橋一夫、鈴木忍は日 本語教育学会の設立を初めとして、戦後の日本語教育施策に深くかかわった人物で、東京外国 語大学外国語学部附属日本語学校の設立時にそれぞれ、校長、教務主事としてその集中日本語 教育の基礎を作った。
1961年に文部省調査局内に日本語教育懇談会が設けられ、長沼直兄や西尾實らも含め、主と して戦前戦中から日本語教育に従事していた人々が集められて日本語教育にかかわる施策に ついて協議を行い、その帰りにメンバーの中の高橋一夫、釘本久春、鈴木忍、林大の4名が雑 談の中で構想したのが日本語教育学会であったことは、鈴木忍(1975)でも語られているが、
座談会ではその時のそれぞれの思惑が率直に語られているのは興味深い。当時、千葉大学の留 学生課程に勤めていた高橋一夫は日本語教育が「文部省にいいように振り回されてはかなわな い」という思いから、文部省から独立した日本語教育の振興、教育研究のための組織として学
会の設立が必要であると考えたというのに対し、鈴木忍は文部省が日本語教育に関心をもって きたことに乗じてさらに日本語教育の認知を高めたいという思いであったと語っている。この ときの仲間には戦時中の日本語普及政策のイデオローグであった釘本久春もいて、彼らを中心 に「外国人のための日本語教育学会」は1962年に設立された。『日本語教育の為に』と題され た学会誌の「創刊準備号」は1962年6月、「日本語教育学会会報1号」は同年9月、そして学 会誌『日本語教育』1号が同年12月に刊行されている。「創刊準備号」には釘本久春が8ペー ジほど「外国人に対する日本語教育小史覚え書」と題して、専ら日本の植民地・占領地におけ る日本語教育の「成果」を記している33)。
このように日本語教育学会は、戦前戦中から日本語教育に従事していた人たちを中心に、か つて日本語教育に関する研究が盛んに行われた実績をふまえて戦後の日本語教育を復興させ たいとの意識に支えられつつ、現実のニーズに応えて設立されたものであった34)。しかし、今 田滋子(2007)が「思い起こせば、戦後の日本語教育は、戦前・戦中の日本語教育への反省に 基づき、国際社会に求められる日本語教育・学習者支援として再出発し、その理念を基本とし て今日まで歩んできた(p.9)」と述べるように、1980年代以降現在に至るまで、戦後の日本 語教育を戦前・戦中の「反省のもとの再出発」としたり、全く切り離したものとして考えよう としたりする論調が目立つ。
実際には、この日本語教育学会の学会誌の創刊号の「発刊の辞」も釘本久春(当時、東京外 国語大学教授)によるもので、戦時中に日本語教育にかかわった人々が多数稿を寄せているが、
「反省」や「新たな理念」を確認することはできない。高橋一夫(1962)は、日本語教育の参 考文献として「教授法」16点、「教授資料」11 点、「学習書」16 点、「教科書」21 点をあげて いるが、そのうち、戦後の出版物は、長沼直兄による教科書3点、巣鈴木忍・阪田雪子編の国 際学友会の教科書3点を含む、合計10点でしかなく、大半が戦前戦中の著作物である。石黒 修(1962)は、その戦時中の著作物が「アメリカさんに追放をくらった(p.43)」と屈折し た表現で述べつつその著作を再び刊行しようと準備中だと述べている。日本語教育の歴史につ いての議論は本稿の課題ではないので別の機会に譲るとして、このような当事者の思いを知る ことは大切である。
戦後の本格的な留学生教育の取り組みのひとつである千葉大学の留学生課程について、当初 小学校の教科書が使われていたのを高橋一夫が、鈴木忍らによる国際学友会の教科書に切り替 えたこと、カリキュラムや教授法について鈴木忍が当時副校長をしていた国際学友会に見学に 来たことも語られている。非漢字圏留学生のための1年間の予備教育課程を実現したのは1943 年開校の国際学友会日本語学校で(河路 2006)、高橋一夫も鈴木忍もその関係者であるが、そ の実績が戦後に生かされたことが、本座談会資料からも読み取れる。しかし、当事者の間でも
集中教育に必要な期間の問題はなお議論にのぼっており、1年間から3年間へそして再び1年 間へと文部省の施策が変わったことについては当事者たちもそれに対応するのにとまどって いる様子も率直に語られている。
また東京外国語大学外国語学部附属日本語学校の創設当時の考え方が高橋、鈴木の両氏より 語られているのも貴重である。大学ではなく日本語学校でなければならないとの積極的な意志 が強調して語られている。特に鈴木忍は教育者としての経験を積んでおり、教材、教授法の開 発者であったが、「効果的な教育について、ということでいうと、日本語教育にはマジックの ようなものはない。教師が一生懸命教えることが第一だと思います」と語り、高橋一夫以下み なが同意しているのも印象的である。
謝辞
貴重な資料をご提供いただきご教示いただきました川瀬生郎先生に衷心より感謝申し上げ ます。また鈴木泰先生には公開のご許可をいただきました。ここに記し感謝の意を表します。
*高橋一夫氏のご遺族の連絡先をご存じの方がありましたら河路([email protected])まで、
お知らせください。
注
1) 座談会の記録は60分用カセットテープ3本に収録されている。テープの冒頭で司会役の鈴木忍が説明する ところによると、座談会の目的は、その3月末に校長を退任する高橋一夫の「校長退官記念」として、同日 本語学校の紀要である『日本語学校論集』に鈴木忍が「高橋一夫先生と日本語教育」という文章を書くため の取材であったが、同時にいろいろ話を聞いておきたいということで他に当時の日本語学校の教員諸氏が同 席した。
2) 高橋一夫は1943年7月下旬、国際学友会日本語学校に日本語教員として就職した。戦後も国際学友会に残 って戦時中の残務整理等に従事したが、1947年10月に文部省国語課の嘱託となり、1949年2月末に設立さ れたばかりの国立国語研究所に移った。
3) 釘本久春は戦時中より文部省で日本語教育関係の事業を担当していた。戦時には「東亜の共通語」としての 日本語普及のイデオローグとして活躍した。(釘本久春1944)
4) 高橋一夫(1968)によると、Mr.Halpern.
5) 国費外国人留学生制度が1954年にできたのに伴い、その日本語教育は当初、東京外国語大学留学生別科の 1年課程で実施された。
6) 国際学友会は1935年設立。1936年2月より日本語教育を始め、1943年度には非漢字圏出身の留学生を主た る対象とした1年課程の日本語予備教育機関、国際学友会日本語学校を開校した[河路2006]。鈴木忍は、1936 年から1941年7月まで(その後終戦までタイのバンコク日本語学校へ赴任)、高橋一夫は1943年7月月か ら1947年10月まで在職し主として日本語教育に従事した。
7) 鈴木忍(1975)によると高橋一夫は鈴木忍の教える国際学友会に「たびたびおいでになり、日本語学校のカ リキュラム、教材、教授法などについて実にきめ細かい観察をされ、よいところはよい、悪い点は悪いと遠 慮会釈なく批判していかれた。(中略)うれしかったことは、日本語学校の教材、教え方について、先生が 以外に高い評価をしてくださったことだった[鈴木忍 1975:120]」ということである。
8) 国際学友会(鈴木忍・阪田雪子編)(1954)『NIHONGO NO HANASIKATA』
国際学友会(鈴木忍・阪田雪子編)(1954-1955)『日本語読本 一~四』
この教科書は、長沼直兄(1950)『Basic Japanese Course』,『改訂標準日本語読本巻一~八』教科書とと もに戦後1970年代まで、国の内外を問わず広く使われていた。特に日本国内における留学生教育では国際 学友会の教科書が使われることが多かった。
9) 望月孝逸:文部省国語課から千葉大学留学生部教授に就任、後に大東文化大学教授。
10) 小杉商一:國學院大學大学院修了、千葉大学講師を経て後に東京外国語大学教授、拓殖大学教授。
11) 池田重はロンドン大学の東洋アフリカ学院で日本語を教えていた【池田1962:20】。
12) 1961 年に文部省調査局内に日本語教育懇談会が設けられた。委員は、伊藤日出登、小川芳男、釘本久春、
黒田巍、鈴木忍、関口隆克、高橋一夫、戸川敬一、中島文雄、長沼直兄、西尾実、林大、穂積五一、松浦珪 三、山本みち。
13) 著書に松浦珪三(1938)『口語俗語日本語現代語法』(文求堂)がある。中国語の訳注付きの日本語文法書で
ある。
14) 前述の1961年から始められた日本語教育懇談会でのこの協議をまとめたものが1964年に文部省から刊行さ
れた「日本語教育のあり方」で、1964年3月、文部省調査局から日本語教育資料のひとつとつとしてB5 判70ページの小冊子として刊行された。そこから議事要録を除く部分は『日本語教育』6号(1965年3月)
に掲載されている。
15) 佐藤純一:千葉大学から東京外国語大学を経て、東京大学教授に就任、ロシア語研究者。千葉大学留学生課 程高橋研究室に置かれた「外国人のための日本語教育学会」設立準備室仮事務局長を務めた。
16) 日本語教育学会が正式に設立されたのは1962年6月だが、その準備のために1961年秋に学会準備委員会が
でき、同時に「外国人のための日本語教育研究会」も発足した。ここから学会の設立までの間は、仮の事務 局は千葉大学留学生課程におかれた。学会誌の創立準備号『日本語教育のために』はここから発行され、高 橋一夫はこれに尽力した。設立当時の名称は「外国人のための日本語教育学会」で、1977年3月に社団法 人「日本語教育学会」となった。
17) 日本語教育懇談会は日本語教育研究会と名を改めて協議・検討が続けられたが、1968年には「外国人留学 生問題調査研究に関する会議」が設けられ、日本語学校・日本語教育センターの設立についての検討が行わ れた。
18) 「外国人のための日本語教育センター構想概要(草案)」昭和38(1963)年6月18日付、B4判14ペー ジ、作成者記載なし、文部省調査局内部資料と思われる。川瀬生郎氏ご所蔵のコピーを閲覧させていただい た。機構として、総務部・研究部・教育部(日本語学校を経営)・養成研修部・教科用図書編纂部の5部門 を設定、敷地面積1万坪の大構想であった。鈴木忍、高橋一夫の発言から、この大構想計画には両者が参画 していたものと思われる。
19) 前田陽一:東京大学教授、仏文学者。国際文化会館専務理事、外国人のための日本語教育学会副会長を務め た。
20) 1963 年にシンガポールがマレーシア連邦に併合されたことに抗議活動をした千葉大学のシンガポール人留
学生が、翌1964年に同連邦の送還要請を受けた文部省から奨学金を打ち切られる出来事があり、文部省を 相手取った裁判になった。(田中宏1973、同1995)
21) 文部省(1963年6月18日)「外国人のための日本語教育センター構想概要(草案)」(川瀬生郎氏所蔵)に、
日本語の「集中教育の徹底」のための方法として「ランゲージ・ドミトリー」という全寮制の日本語教育機 関の構想が書かれている。「次善の策としての一定期間の合宿(24時間教育)」とある。東京外国語大学外 国語学部附属日本語学校はその実現でもあった。
22) この大部屋主義は教員の不満もあり、第五代校長、田中忠治の時期に(1982年2月 同年10月)大部屋の教 官室を二人部屋の教官室にするという改革が行われた。
23) 日本語学校の構想は、日本語教育懇談会の話題にものぼっていたが、当初はどこに置かれるか決まっていな かった。1969年になって東京外国語大学に置かれることになり、設立間近の1970年3月になって高橋一夫 が初代校長に選ばれた。4月の開校にあわせて着任したのは当時国際学友会日本語学校の校長であった鈴木 忍、副校長であった川瀬生郎、マラヤ大学で2年間教えて帰国したばかりの伊勢田涼子の3名であった。
24) 東京外国語大学特設日本語学科。1968年4月設立。留学生に対し日本語の教育と研究を行い、あわせて日
本語教師としての資質を育成することを目的とした4年制の学科。
25) 今井庄次は高橋一夫の後任の第二代校長。在職期間は1974-1976。校長今井庄次は、当時、特設日本語学科 との併任であった。
26) 附属日本語学校の設立された初年度は、まだ府中・中河原の校舎ができていなかったので西が原校舎の一室 に仮の事務室と教官室を置き、2教室を借りて、文科専攻・日本語専攻の2クラスでの授業を運営していた。
27) 学生は、理科・文科・日本語の3専攻に分けられ、日本語専攻の学生は東京外国語大学特設日本語学科へ進 学することになっていた。
28) 旧姓、福原徳子、東京女子大学数学科卒業、国際学友会日本語学校で数学を担当、後に日本語の授業も担当 した。
29) 大西晴彦:都立大学(物理学を専攻)卒業、国際学友会日本語学校で数学を担当、後に日本語の授業を担当 した。
30) 鈴木忍はとくに助詞の誤用研究に熱心にとりくんだ。鈴木忍(1977)など論文も多いが、鈴木忍(1978)は それらの集大成といえる。
31) 学生の作文等から誤用例をぬきだしてカード化し、教材・教授法研究に生かそうとするもので、高橋一夫の 発案で教員の共同作業として進められた。
32) 成果は、「助詞に関する誤用例(1)」(1978年3月)、「助詞に関する誤用例(2)」(1978年3月)、「動詞に 関する誤用例(1)」(1978年3月)、「動詞に関する誤用例(2)」(1979年3月)の4冊にまとめられた。
33) 釘本(1962)は、日本政府のかかわった日本語教育についてのみ語っており、専ら「外地」での日本語教育 に焦点を当てている。台湾領有に伴う「日本語教育の第一頁」から書き起こすが、当時の日本語教育従事者 の「努力には敬服せざるを得ない」と表現している。
34) 戦後の日本語教育の復興の実際と、戦後1980年代にそれが語られるときの言説とのずれについては、河路
(2006)でも考察した。
参考文献
池田重1962「英国における日本語教育について」『日本語教育』創刊準備号,p.20
伊藤芳照1978「鈴木忍先生と東外大附属日本語学校」『日本語学校論集』5号,東京外国語大学外国語学部附属日
本語学校,pp.19-23
石黒修1962「日本語教育とわたし」『日本語教育』1号,日本語教育学会, pp.43-53
今田滋子2007「日本語教育に導かれて 半世紀の歩みを通して願うこと 」『日本語教育』135号,pp.9-15
河路由佳2006『非漢字圏留学生のための日本語学校の誕生 戦時体制下の国際学友会における日本語教育の展開』
港の人
河路由佳編2006『国際学友会「日本語教科書」1940-1943 全七冊合本』港の人
川瀬生郎1978「鈴木忍先生と日本語教育」『日本語学校論集』5号,東京外国語大学外国語学部附属日本語学校,pp.3
-18
川瀬生郎2000「東京外国語大学付属日本語学校1970年代の研究活動について」『東京外国語大学留学生日本語教
育センター設立30周年記念 国際シンポジウム予稿集』pp.4-10
釘本久春1944『戦争と日本語』龍文書局
釘本久春1962a「外国人に対する日本語教育小史覚え書」『日本語教育』創刊準備号,pp.2-9
釘本久春1962b「機関誌『日本語教育』発刊の意義」『日本語教育』1号,pp.2
国際学友会1986『国際学友会50年史』
国際学友会(鈴木忍・阪田雪子編)1954『NIHONGO NO HANASIKATA』
国際学友会(鈴木忍・阪田雪子編)1954-1955『日本語読本 一~四』
鈴木忍1975「高橋一夫先生と日本語教育」『日本語学校論集』第2号, 東京外国語大学外国語学部附属日本語学校, pp.117-125
鈴木忍1977「文法上の誤用例から何を学ぶか―格助詞を中心にして―」『日本語教育』34号, pp.1-14
鈴木忍1978『教師用日本語教育ハンドブック 文法Ⅰ』国際交流基金
高橋一夫1962「日本語教育参考文献」『日本語教育』創刊準備号, pp.21-29
高橋一夫1968「戦中戦後あれこれ」『日本語教育』11号,日本語教育学会, pp.2-13
田中宏1973『アジア留学生と日本』日本放送出版協会
田中宏1995『在日外国人』岩波書店
千葉大学留学生部1972『千葉大学留学生部 12年の歩み 』
東京外国語大学留学生日本語教育センター2000『東京外国語大学留学生日本語教育センター設立30周年記念 国 際シンポジウム予稿集』
豊田豊子1996「伝統的日本語教授法―長沼直兄と鈴木忍の場合―(第2回)」『日本語教育研究』第31号,財団法
人言語文化研究所,pp.33-60
日本語教育学会事務局1962「日本語教育学会会報1号」
文部省1963「外国人のための日本語教育センター構想概要(草案)」
文部省調査局1965「日本語教育のあり方(抄)」『日本語教育』6号,1965年3月,pp.46-58
Works of TAKAHASHI Kazuo and SUZUKI Shinobu on the History of Teaching Japanese as a Foreign
Language after World War Ⅱ (1945 - 1974)
― Based on Transcripts of their Discussions in 1974 (2) ― KAWAJI Yuka
This paper is based on the same record of discussions which were reported in a paper written by the author published in the 78th issue of Area and Culture Studies(July 2009). The discussions were taped in the principal's office of the Japanese School attached to Tokyo University of Foreign Studies in autumn, 1974. Seven teachers gathered, including SUZUKI Shinobu, to hear an account from Principal TAKAHASHI Kazuo who would retire in the end of the school year.
There are three tapes in total; the first contents were reported previously. This paper is based on the second and third tapes in whichthe postwar activities of the teachers who engaged in teaching Japanese during WWII were discussed.
TAKAHASHI Kazuo, SUZUKI Shinobu were individuals who were concerned deeply with the establishment of The Society for Teaching Japanese as a Foreign Language in 1962 and the Japanese School attached to Tokyo University of Foreign Studies in 1970.
We can learn from this discussion the relations between individuals, the results of education regarding the teaching of Japanese during WWII, and the postwar revival of teaching Japanese.
It is an advantage oforal documents that we can share a real sense of reality that we cannot grasp from written documents. We can know how the concerned individuals coped with the change of postwar policy about teaching Japanese while being perplexed.
In this discussion, they talked about KUGIMOTO Hisaharu and TAKAHASHI Kazuo, individuals concerned with Japanese education both before and during WWⅡ, in addition to SUZUKI Shinobu, who played a central role in the formulating of policy regarding teaching Japanese in the postwar period, and they established the Society for Teaching Japanese as a Foreign Language. It is valuable that open and frank discussions can be heard between concerned individuals.
In addition, it is impressive that SUZUKI Shinobu who engaged in teaching Japanese for many years, and developed teaching materials and a teaching method said, "There are no magical methods. What is most important is a trained teacher who teaches learners eagerly.”