序
藤原冨研 は、戦前 の 日本古文化研究所 の大極殿 院・朝堂院の調査 、戦後 の 奈良県教 育委員会 による国道165号線 バ イパ ス建設計画 に ともな う調査 に引 き続 いて、奈良国立文化財研究所 が調査 を続 けてお り、宮・京 の状況が次第 に明 らかにな りつつある。
奈 良県教育委員会 の調査 によって、宮 の外郭の位置 と状況が明 らか となっ たが、岸俊男氏 らは、宮 と古道の関係 な どに注 目され、左右京十二条 四坊 の 藤原京 の条坊 を復原 されている。 この案 による と、宮 は京 の北辺 か ら4町南 に寄 る ことになる。 これは藤原京 と平城京 との大 きな相違点 の一つであるが、
この宮北方の東西8町、南北4町の地 は、宮 と密接 に関連する地域 と考 えら れている。 と くに、 この地域 内の高市郡路東条里二十 四条二里三十一坪 は
「テ ンヤ ク」 の字名 をもち、 このあた りに典薬寮 関係 の施設が想定 されてい る。
今 回、林住建株式会社 によ り宅地開発が計画 されたのは、宮北面東 門推定 地 か ら北 に約200m、 国鉄桜井線 のす ぐ北側 で、 まさにその字 「テ ンヤ ク」
の北半分 にあた り、藤原京条坊では、左京二条一坊東北坪 と同二坊西北坪 に またが り、中央 を東一坊 大路が通 る と推定 される ところである。
昭和61年 4月 か ら 7月 にかけて、約2600ポ の発掘調査 を行 なった結果 は、
「テ ンヤ ク」 に関する直接 の資料 は得 られなか ったが、東一坊大路及 び坪内 の状況が明 らか となる とともに、東一坊大路西側溝か ら和 同開弥銀銭3枚が 発見 され、藤原京 の調査研究 に重要 な知見 を得 る ことが出来 た。
この調査 は、奈良県教育委員会が林住建株式会社か ら委託 を受 け、奈良国 立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部が、県教育委員会 の委嘱 を受 けて行 なった もので、調査 の実施 に当 り協力 いただいた林住建株式会社 をはじめ、
関係各位 に厚 く御礼 申 し上 げる次第である。
昭和62年 3月
奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部長