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アルトゥール・カウフマン グスタフ・ラートブル フ--生涯と作品 : 続編

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アルトゥール・カウフマン グスタフ・ラートブル フ‑‑生涯と作品 : 続編

著者 カウフマン アルトゥール, 上田 健二

雑誌名 同志社法學

巻 60

号 2

ページ 13‑85

発行年 2008‑07‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011432

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アルトゥール・カウフマン

グスタフ・ラートブルフ 生涯と作品:続編

以下の訳文は、本誌326号 ₁ 頁以下に掲載されている訳文「アルトゥール・カウフマン:

グスタフ・ラートブルフの生涯と作品」のいわば続編として、1987年から刊行が開始 され2003年に完結したグスタフ・ラートブルフ全集全20巻のうち、法哲学と刑法に直 接にかかわっている5巻について、それぞれの巻の校訂者による序文のみをあらかじ め訳出したものである。これらの巻のいずれもののなかには、われわれが法哲学と刑 法学を開始しようとする場合には確実で信頼に値する基盤となり得るような、この意 味において現在でもなお重要かつ現実的な意義を有している諸作品が収められている のであり、それらに個別的に取り組むに当たっては、個々の作品がラートブルフの生 涯にわたる法思考の道のなかで有している意義とそれらの独自的な意義を念頭に置い ておくことが必要かつ得策であると思われることから、ここであらかじめ一括して訳 出掲載しておくことにしたわけである。それゆえに題名も上記のようにした。

 訳者である私は、このラートブルフ全集を初刊以来、この全集が日本語に訳されて 日本の読者にもグスタフ・ラートブルフの人格と作品に触れる機会が作り出されたい という念願を込めて続巻が刊行される毎に送呈され、2001年 ₄ 月11日のこの全集の総 編集者であるカウフマンの没後もその遺志を継いだドローテア夫人によって2003年の 完結に至るまで送呈され続けたこのご夫妻のご恩顧にお答えするためにも、たとえこ の全集の全巻を私単独で完訳することは時間的にも能力的にも望めないにしても、せ めてこれらの巻に納められた重要かつ現在的意義を有している作品を選別して本誌次 号から順次掲載したいと目論んでいる。

上 田 健 二 訳

アルトゥール・カウフマンのグスターフ・ラートブルフ全集第 2 巻 法哲学II(Gustav-Radbruch-Gesamteausgabe=GRGA Band 2, Rechts- philosophie II Heidelbelg 1993)への序文

訳者まえがき

 ラートブルフ全集のなかでもこの巻が、「法哲学」複合体を完全なものに している。もっともこの巻の校訂者であるアルトウール・カウフマンが言う ように、法哲学上の思想が他の諸々のテーマを、たとえば刑法上の、社会お よび文化政策上の、国家法上の、国際法上の、宗教哲学上の、精神史上のテ ーマを取り扱う場合にも見られなかったとすれば、ラートブルフ0 0 0 0 0 0はラートブ ルフではなかったであろう。この巻のなかで統合されている諸作品はラート

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ブルフの性格の中枢において成り立っているのである(Vorwort II)。

 転載されているのは、グスタフ・ラートブルフの法哲学の核心的な部分を 形 成 し て い る 両 書、 す な わ ち1914年 の『 法 哲 学 綱 要 (Grundzüge der Rechtsphilosophie)』の第 ₁ 版(邦訳、山田晟訳・ラートブルフ著作集第 ₂ 巻、

東京大学出版会、1963年)と1932年の『法哲学』第 ₃ 版(邦訳、田中耕太郎 訳・ラートブルフ著作集第 ₁ 巻、東京大学出版会、1961年)であり、次いで ラートブルフの法哲学上の基本思想の1923年から1924年までの、この基本思 想のある種の「変遷」を跡づけている ₇ 本の論文、すなわち1923/24年の『法 理念と法素材 (Rechtsidee und Rechtsstoff)』(邦訳、野田良之訳・ラートブ ルフ著作集第 ₅ 巻『法における人間』(東京大学出版会、1962年所収67頁以下)

(本巻453頁以下)、1927年の『法における人間 (Der Mensch im Recht)』(邦訳、

桑田三郎・田村忠充訳前掲訳書 ₁ 頁以下)(本巻467頁以下)、1929年の『階 級法と法理念(Klassenrecht und Rechtsidee)』(477頁以下)、『個人主義的 刑法から社会主義的刑法へ (Vom individualistische zum sozialen Recht)』(485 頁 以 下 ) お よ び1932年 の『 法 哲 学 と 法 実 務 (Rechtsphilosophie und Rechtspraxis)』(495頁以下)である。以上の論文のいずれも、いわゆる「ダ マスカスの回心」をめぐる、現在でも大いに争われている問題の究明のため の鍵としての重要な役割を演じていることを、本巻の校訂者であるアルトウ ール・カウフマンは以下の序文のなかで如実に示している。

 本巻は多くの視点においてこの全集の核心を表わしている。このことはひとつに は、すでにしてそれがラートブルフの法哲学の主要な諸作品を、すなわち1914年の『法 哲学綱要』と1832年の『法哲学』を含んでいるという理由からである。両書の関係は 表面的にはこういうことである。すなわち、『綱領』は初版としての、そして『法哲学』

は第 ₃ 版としての役割を演じている(後者の死後刊行された版は1983年の第 ₉ 版であ る)のであり、両者の間には『綱要』の特別に特徴づけられた復刻版が第 ₂ 版として 挿し込まれている)。しかし事実として『綱要』は『法哲学』とは、もともと両著は 独自の本であるほどに異なっている。確かに多くの法哲学上の思想をラートブルフの 全作品において一貫して見出すことができる(たとえば存在と当為との方法二元論、

法の価値被関係性、価値哲学上の相対主義およびこれら以外のなお多くのもの)。し かし注目に値するのは、一方では『綱要』からの多くのものが『法哲学』には入り込 んでいないということ(たとえば契約説の見事な描写、意志自由の問題のなし得なく もない概要が。何ゆえに『法哲学』のなかでこれが除去されるか、もしくはほんのわ

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ずかな残滓に切り詰められているのかを説明することができない)。他方で『法哲学』

のなかには、所有権、契約、婚姻、相続権、刑法、死刑、恩寵、訴訟、法治国家、教 会法、国際法および戦争に関する諸章を伴うひとつの全く新しい「各則」にまで及ん でいるのであり、これらについては『綱要』のなかでは全く見られないか、もしくは 散在的にしか見られない。

 しかし、ここで本巻においてラートブルの二つの主要作品が統合されているという このことは、本巻が他の一連の諸巻から傑出しているということにとっての本来的な 理由をなしているということではない。本当の理由はむしろ、この巻は最もよくラー トブルフを知っている者にもそこまでは知られていないままになっているきわめて多 くの素材をもたらしている、ということである。両書すなわち『綱領』と『法哲学』

には、つまりは「行間を開けた」[この全集ではこれらすべてが斜字体に統一されて いる]類例が存在しているのである(『法学への案内』にも確かにこのような類例が 存在しているのである。全集第17巻274頁参照。しかしこれは決して再び表われてく ることはない)。非専門家のために:二つの印刷された側面にひとつの空虚な側面が

「挿入されている」のであり、そこで著者がとくに後の版に関して諸々のコメントを、

とくにより後の版を顧慮してすることができるのである。諸々の論評に関するメモ、

次の版のための諸々のスケッチ、自らのテクストの修正、もちろんさらには賛同する 諸意見表明の注目点およびその他多くのもの。

 ラートブルフは、本書の読者には容易に確認することができるように、数百にも及 ぶこのような行間を開けた例解に注釈を付した。しばしば容易に読み取ることもでき るこのような書き込みのすべてを同定し、活用されなければならないであろう。ラー トブルフのいくらかの数少ない申し立てでは(たとえばある引用の場合では)、数ヶ 月に及ぶ探索を求めて諸々の努力がなされなければならず、行間を開けた諸面では本 文との配列が一義的に遂行することができないラートブルフの脚注のある(わずか な)数が存在している。

 それにもかかわらず、将来的なラートブルフ- 研究にとってほとんど過小評価す ることができないほどの意義を有しており、それが多くの年月を要求しているひとつ の概説が成り立っている。ラートブルフとその法哲学に関して多くの行き渡っている 判断さえ、新たに検証されなければならないのである。ラートブルフの生涯において、

とくにその法哲学において「大変革」というものが、「ダマスカスの回心」さえ存在 していたのか、それとも彼にあっては疑いもなく確認することができ、彼によっても 決して否認されることがなかった諸々の変化は、亀裂なく前へと進行する発展の表現 にすぎなかったのかということについての激しい論争は、ラートブルフの諸々の所見 を通して後者の意味において決着が付けられるといってよい。彼の「価値に関係づけ

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られた」法概念はすでにつねに終末に至るまで「自然法と法実証主義のかなた」に存 在するひとつの概念であり、たとえ彼が「法律上の不法」に関して以前よりも後には より楽観的であったにせよ、「汚辱した諸法律」にはナチズムの体験の後にはじめて ではなく、すでに『綱要』(171、175頁)のなかで妥当を否認していた。ラートブル フは力点を一度だけ置いたのではなく、彼はこれを状況の尺度に従って置いたのであ る。現に彼は1932年の法哲学と法実務に関するひとつの論文(この巻のなかでは495 頁以下)のなかでナチストに直面して入り口の前に(ante portas)自然法を思い起こ させ、ついで「人種法的自然法」の喧伝の後には、1939年 ₄ 月26日付のエリック・ヴ ォルフに宛てた手紙のなかで、彼にはいまや0 0 0実証主義がわれわれを過酷に強いるひと つの理想としてさえ再び表われることを告白している。そして、なおもうひとつの例 を持ち出すならば、「理念の素材被規定性」(この巻の453頁以下における1923/1924年 の論文『法理念と法素材(Rechtsidee und Rechtsstoff)』を見よ)という思想もまた、

初期(『綱要』、147頁)から挙げられた論文を経て、そして『法哲学』( ₇ 頁以下)を 経て『法的思考における分類概念と整序概念(Klassenbegriff und Ordnungbegriff im Recchtsdenken)』(1938年)および『法学的思考形式としての事物の本性(Natur der Sache als juristische Denkforum)』という後期の理論(両論文は全集第三巻60頁以下、

229頁以下に見られる)に至るまで追跡することができる。

 しかしなお興味深いのは、ラートブルフがそれらのなかで新しい思想を、しばしば 諸々の標語においてのみであるが、しかし長期をかけて慎重に吟味された論述のなか で構想している諸々の所見である。誰がすでにラートブルフにおいて解釈学に関する 諸洞察を探り当てたのであろうか。『綱要』の42/43頁の脚注のなかでラートブルフは、

法概念の獲得は「ひとつの明白な循環のなかで」進展することについて述べている。

ひとは法を、法価値を迂回して探し求めようと試みるのであるが、しかし法価値をひ とは再び、その具体的な構成要素が法である共同体との関連づけにおいてのみ定義す ることができるのである。しかしこのことは、このような循環推論は無価値であろう ということを意味しているのではない。彼はむしろ、法的現実は二つの構成要素に、

アプリオリな構成要素とアポステリオリなそれとに分類することができるのであり、

そのさいこの二つの構成要素のいずれもが他方との関連づけを通してのみ定義づける ことができるということを証明しているのである。「このような推論のなかですべて の批判哲学は進展する。……このような循環推論の手続きは、しかし次のようなこと であろう。両側からトンネル掘削を試み、両側から法概念に取り組んで両坑道が 互いに衝突し合うならば、それで辻褄が合っているのである。哲学では包括的な思考 の内在的な首尾一貫性以外にはどのような真理性の証明も存在していない、それは少 なくとも超越論的な真理性のひとつの徴候でもある。」私は、私が循環的な、演繹‐

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帰納的な、それゆえに法発見の類比的な手続きにために、私が「真理の収斂理論」と 呼んでいるところのもののためにも、それほどに見事などのような表現形式も、それ ほどに具象的などのような像も思い浮かんでいなかったことを告白しなければならな い。『綱要』の190頁のもうひとつの脚注のなかでラートブルフは、ひとつの「重要な 解釈上の問題」、すなわち解釈者はしばしば著者を、著者が自分自身で理解していた よりもよく理解するということを書き記している(ここでは「解釈的前理解」を想起 させる)。

 アドルフ・ライナッハ(Adolf Reinach)とフェリックス・カウフマン(Felix Kaufmann)のアプリオリな法理論についてはすでにラートブルフは、『綱要』のな かで一連の書き込みをしていた(この箇所で、ラートブルフは『綱要』の行間を開け た類例を論争のなかに持ち込んでいたのであり、その注釈の多くが塹壕のなかで書か れていたことが指摘されよう)。

 後期では、しかしラートブルフがアプリオリな法理論を引き続いて拾い上げること はなかった。これ以外の諸々の諸々の覚え書きもこれと同じ事情にある。『綱要』の 行間を開けた紙面では一度ならず諸々の名称が現われているのであるが、しかしこれ らは引き続いては『法哲学』のなかには見られない、いずれにせよ同じコンテクスト のなかには見られないのである。その名称とは、マックス・シェーラー(Max Scheler,)、 フ ェ リ ッ ク ス・ ゾ ム ロ(Felix Smulo)、 ル ド ル フ・ ラ ウ ン(Rudlf Raun)、レオナルド・ネルソン(Leonald Nelson……この人とは、彼はきわめて折 合いが悪かった)、エーリッヒ・ロータッカー(Erich Rothacker)、ルドルフ・ショ タムラー(Rudolf Stammler)であり、そしてたとえば実質的な諸々の所見、す なわち諸関係の構造としての法、幸福主義的な法哲学の拒絶、法哲学と倫理学にとっ て幸福概念が役立たないこと、無条件的な服従の排斥……である。

 つねにラートブルフ‐研究がこれらの素材からなすであろうものを、確実性を持っ て証明することができる者がいよいよもって驚かされるのはただひとつ、すなわちラ ートブルフの博識と教養である。

 『法哲学』についての諸々の所見のなかでとりわけひと目を引くのは、ナチズムと その取り巻きについての数多くの注釈である。現にそこからカール・シュミット(Carl Scnmidt)、ヘルムート・ニコライ(Helmut Nicolei)、ハンス‐ヘルムート・デイー ツエ(Hans-Hermut Dietze)……が登場してくるのは煩わしくなくもないが、しか しラートブルフはその学問的誠実さにおいてこれらナチス‐法律家の多くが適切な思 想をも展開していた(彼はカール・シュミットを、この人がしかしラートブルフとと もにしたことで、決して一括して断罪しなかったのである)。ナチズムそれ自体に対 しては、しかし彼の立場は容赦なく否認した。フライブルグの枢機卿コンラード・グ

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レーバー(Konrad Gröber)の1940年の大晦日祝祭についての覚え書きは感動的であ る(『法哲学』の30頁で)。

 特別な関心を有しているのはもちろん、『法哲学』の行間を開けた類例のなかで、

どのようにしてラートブルフがナチス体制の終焉後に新たに手を加えようとしたのか に対してどの程度にまで示唆を与えているのかである。(これについて明らかにされ た意志を彼は有していたのであるが、しかし1949年11月23日のその死がこの計画にバ ツ印を付けたのである。)それをひとつの短い公式に乗せてみると、こういうことで ある。すなわち、確実な諸帰結を導き出すことができる、細部にわたってまで仕上げ られたどのような構想も存在していない、存在しているのは解釈を一定数の必要とし ている一定数の示唆でしかなく、その解釈を、とりわけ1948年の『法哲学』を背景と して行わなければならない、ということである(全集第 ₃ 巻121頁以下)。このような 示唆とは、たとえばこういうことである。すなわち、「事物の本性」の場合では類比 思想を想起させること、絶対的な真理はすべて偽であり、これに対して諸関係は厳密 であり得ること、相対主義の固持、実存哲学の相対主義との関係、合目的性ではなく、

正義が法理念であること、客観でも主観でもない人格主義の思想、モーリス・オーリ ュー(Maurice Hauriius)の諸制度理論への賛同、法化というものがら免れている 恩赦制度への諸々の論究……、そしてきわめてしばしば出てくる名称:ゲーテ、シラ ー、プラトン、ドストエフスキー、マックス・ヴェーバー、カール・ヤスパース、ル ター、モンテスキュー、カール・バルト、ルドルフ・ブルトマン、ダンテ、フリード リッヒ・ボルノヴ、アルノルド・ツヴァイグ、ハンス・カロッサ、ヴィルヘルム・フ ンボルト、アルベルト・シュヴァイツアー……である。

 将来のラートブルフ‐研究にとって豊な、きわめて豊な素材である!そのさい重要 であるのは、どのような時代にある書き込みが由来しているのかの確認であろう。こ れはたいていの場合において困難であるというほかはなく、少なくない事例において 全く決着をつけることができない。諸々の示唆はあり得る。手書きの様式(もともと ラートブルフはきわめて明瞭かつかなり大きく書いていたのであり、後には、パーキ ンソン症候群の進行とともに、ほとんど判読が可能でないまでにますます小さくなっ ている)。ラートブルフは様々な色のインキを、しかしまた鉛筆をも用いた。字体は しばしばきわめて異なっている。引用されたある本の場合では、その刊行の年度が手 がかりを与えているのであり、これに類することは数多くある。諸々の論評に関する 前付けにおける諸々の脚注と翻訳およびこれに類するものは完全に原典のなかで受け 継がれている。そのうえ、読者にラートブルフの絶え間のない仕事についての印象を 伝えることが求められるいくらかの類型的な行間を開けた誌面が再現されている。

―『綱要』 ₇ 頁で;大きく読みやすい筆跡が黒色インキで書かれている。疑いもなく

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初期に由来している(ここでは28頁)[本誌本号11頁書体 ₁ ]。

―『綱要』24頁で;不規則的な書体、筆跡の様々な大きさ、部分的に青色インキで、

部分的に黒色インキで書かれている。諸々の書き込みは異なる時期になされている

(43頁)[12頁書体 ₂ ]。

―『綱要』38/39頁で;大きくて明瞭な筆跡、青色インキ;次いで筆跡はより小さく そしてなお小さくなってゆく;黒色インキで。これらの書き込みも同じ時期に由来し ていないことが明らかにわかる(55頁)[13頁書体 ₃ ]。

―『綱要』67頁で:うえから二番目の文章は老齢期に書かれたひとつのメモにとって 典型的である。他の二つの脚注は確かにより古いものであり、別のインキをもって書 かれている(78頁)[14頁書体 ₄ ]。

―『綱要』125頁で:様々に異なる書体:部分的に直線体、部分的に斜字体、部分的 により小さな、部分的により大きな筆跡、多くの文字がドイツ語で、多くの文字がラ テン語である(142頁)[15頁書体 ₅ ]。

―『綱要』142頁で:明らかに初期の書き込みであり、明瞭な、大きな筆跡、青色イ ンキ(139頁)[16/17頁書体 ₆,₆ - ₂ ]。

―『綱要』166頁で:様々に全く異なる書体、様々に異なっているインキ(少なくと も ₃ 色);諸々の書き込みはあまりにも多く(おそらくは ₅ 回でもあろう)の異なる 時期になされていると言ってよい(157頁)[18頁書体 ₇ ]。

―『綱要』174/175頁で:ここではうえに挙げられた差異が同様にきわめて明瞭に示 される(165/166頁)[19頁書体 ₈ ]。

―『綱要』192/193頁で:哲学史についての注解は早くになされていると言ってよい(紫 色のインキで)(183/184頁)[20頁書体 ₉ ]。しかしテクストからは「ゲーテをも参照」

はほんのわずか後に書かれていると推察され、同じことはアベラルド(Abaelard)に ついても妥当すると言ってよい(両者の場合では黒色インキが用いられている)。

„Morito partitionis“という書き込みはより後の時期に由来している。

―『法哲学』 ₂/3頁で:老いを重ねつつあるラートブルフの典型的な書体である

(223/224頁)[21頁書体10]。

―『法哲学』 ₂ 頁で:筆跡は明らかに小さくなっているが、しかしそれでもいまだよ く読み取ることができる(224頁)[22頁書体11]。

―『法哲学』13頁で:筆跡は部分的にすでにまさに小さくなっているにもかかわらず、

それでもいまだ比較的に明瞭である(238頁)[23頁書体12]。

―『法哲学』30頁で:ここにすでにはっきりとパーキンソン症候群の影響が示されて いる(257頁)[24頁書体13]。

―『法哲学』53頁で:ここでは全く異なる書体がひと目を引く。諸々の注釈は疑いも

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なく異なる時期に書かれている(282頁)[25頁書体14]。

―『法哲学』55頁で:これらの書き留められたものもまた異なる時期になされている のであるが、しかし最終的な生存年においてはじめてということでは確かにない(286 頁)[26頁書体15]。

―『法哲学』84頁で:典型的な老人の筆跡である(317頁)[27頁書体16]。

―『法哲学』413頁で:上半分はいまだいくらかは明瞭である。下半分は全くの高齢 のなかで書かれている(348頁)[17頁書体17]。

 このような検査について注目されるべきは、それらはひとつの危険のない印象を伝 えることができるということである。ここで真摯な研究を営もうとする者は、二つの 行間を開けた例群それ自体に考慮を払わなければならないということである。それら はハイデルベルク大学図書館のラートブルフ‐アルキーフに見られる。『法哲学』の 行間が開けられた例群がきわめてはっきりと赤色インキをもってなされた書き込みは グスタフ・ラートブルフによるものではなく、エリック・ヴォルフに由来しているこ とを指摘しておこう。

 おそらくこの巻を一度は、その刊行をもってひとはラートブルフ‐研究の新しい画 期的な時期とすることができよう。1914年の『法哲学綱要』と1932年の『法哲学』と いう二つの本のほかに、この巻はなお1919年から1932年に成り立っている六つの論文 を、「そしてそれらに加えていくらかの書評」を含んでいる。これらの論文のなかで は大体において次の三つのテーマが問題になっているのである。すなわち、1. 法ない しは法学の体系論;2. 法における「不可任意処分的なもの」理念;3. 社会法の思想で ある。

 法学的体系論0 0 0 0 0 0とは、ラートブルフはきわめて早くすでに『行為の概念』に関するそ の教授資格論文[本全集第 ₇ 巻75頁以下]のなかで取り組んでいた(1904)。行為の 純類的もしくは分類的概念観から出発して彼は行為概念と不作為概念とは対照的に対 立しているのであり、それゆえにaと非aとの関係にある結果として「体系は上から 下まで二つの部分に引き裂かれている」。行為と不作為とは対照的な対立であるとい う出発点からは、それらがどのような共通の上位概念を、たとえば態度といったそれ をもち得ないという帰結は必然的である。これとは異なる見解をギュンター・シュペ ンデル(Günter Spendel)ラートブルフ‐全集の第17巻のなかで表明している、322 頁)。問題はもちろん、ラートブルフの前提が正しいのかである。それは正しくはな いのであって、それというのも積極的な作為(行為)と不作為とは徹頭徹尾共通の諸 要素(たとえば、因果的経過の支配可能性という要素)を有しているのであり、そし てそれゆえに行為と不作為とはまさにaと非‐aの関係にあるのではないのである(こ れ に つ い て は、Arthur Kaufmann, Die Ontologische Sturuktur der Handlung, in:

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Ferstechrft für Hellmut Mayer, 1966, S. 79 ff., [浅田和茂役「行為の存在構造」(上田健 二監訳)『転換期の法哲学』第 ₂ 版(成文堂、1995年所収)25頁以下]参照。

 ラートブルフは自らその当時の見解を、それも『法理念と法素材 (Rechtsidee und Rechtsstoff)』(1923/24)[本巻453頁以下。野田良之訳・『法における人間』ラートブ ルフ著作集第 ₅ 巻(東京大学出版会、1962年)67頁以下]のなかで修正した。孤立化 する抽象を通して獲得された行為の「自然主義的な概念」の場合では、行為の法的な 評価にとって最も重要なもの、「つまりは言語的意味と社会的意義がそのように構成 された概念の全く外にとどまる」、と彼は自分自身を批判した。事物論理的体系論と いうものへの突進はいくらか後の1930年においてラインハルト・フォン・フランクの た め の 記 念 論 集 へ の 寄 稿 論 文『 犯 罪 論 の 体 系 論 に つ い て(Zur Systematik der Verbrechenslehre)』[本全集第 ₈ 巻207頁以下]のなかでなされ、次いで論文『法思 考 に お け る 分 類 諸 概 念 と 整 序 諸 概 念(Klassenbegriff und Ordnungsbegriffe im

Rechtsdenken)』(1938年)[本全集第 ₃ 巻60頁以下]においてそれが全く明瞭になる。

「……ある空虚な類概念を通してはどのような全体をも考えることができない。 たとえば行為の類概念と不作為の類概念のように最高の類的諸概念は互いに結び 付けられずに並存している。類的諸概念の思考は「分離思考」である。

 第二の問題、つまり立法、司法、行政および法的に判断する者の恣意から免れてい る法における「不可任意処分的なもの0 0 0 0 0 0 0 0 0 0」というものは、すでに論文『法理念と法素材』

(1923/24年)のなかに感じ取られ、『法学的思考形式としての事物の本性 (Die Natur der Sache als juristische Denkform)』(1948年)[本全集第 ₃ 巻229頁以下]という後の 理論に流れ込んでいる。ラートブルフにとっては、ホラチウスの模範に従って、「理 性を事物のなかに求めること」が重要である。その根本思想は次のようなものである。

「芸術家の理念は素材に順応するのであり、それが大理石のなかにある場合はひとつ の別のものであり、それが大理石のなかで具現されようとする場合にはもうひとつの 別のものであるように、いっさいの理念は生得的であり、実質的に正しくなければな らないのである。」ラートブルフはこのことを「理念の素材被規定性」と呼ぶ(一貫 するところとして彼は後に「素材の理念被規定性」をも自覚しなければならなかった であろう)。(小論文『法理念の問題性(Die Probrematik der Rechtsidee)』(1924年)[本 全集第 ₂ 巻460頁以下。邦訳、野田良之訳・『法における人間』ラートブルフ著作集 ₅

(東京大学出版会、1962年)所収55頁以下] のなかでラートブルフはもうひとつの問 題、つまりはどのようにして法理念、合目的性および法的安定性が互いに関係してい る の か を 究 明 し よ う と し て い る )。 し か し ま た 雑 誌 論 文『 法 哲 学 と 法 実 務

(Rechtsphilosophie und Rechtspraxis)』(1932年)[本全集第 ₂ 巻405頁以下]で問題 になっているのは「不可任意処分性」であり、そこでラートブルフは「迫りくる法の

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再野蛮化」に直面して不可欠な最小限度の自然法に向けて注意を促した。ラートブル フがその前に、そしてその後にも力点を別の所に置いた(先の ₂ 頁参照)ことが意味 しているのは、彼が風にそよぐ葦であったということではなく、彼が数少ない人々と 同様に、適正な時期に正しい力点を置くことを理解したからである。

 社会的な要素0 0 0 0 0 0はラートブルフの法哲学のなかで、たとえはじめからひとつの中心的 なの要素であったのではなくても、つねにひとつの役割を演じている。それは1927年 の最も重要なハイデルベルク大学での就任講演『法における人間(Der Mensh im Recht)』[本全集第 ₂ 巻467頁以下。邦訳、桑田三郎・常盤忠充訳・『法における人間』

ラートブルフ著作集第 ₅ 巻(東京大学出版会、1962年) ₁ 頁以下]において、次いで

『階級法と法理念(Klassenrcht und Rechtside )』(1929年)[本全集第 ₉ 巻477頁以下]

において(ここではとりわけマルクス主義的な法観との対決が見られる)、そして最 終的に『個人主義法から社会法へ (Vom individualische zum sozialen Recht)』(1930年)

[本全集第 ₂ 巻485頁以下]において真価を発揮するに至っている。ラートブルフにと ってとりわけ問題であったのは、彼がわれわれの法秩序の広い部分、すなわち契約法、

相続法、商法……の根底に置かれているように、生まれつき平等であり、つねにその 利益を認識し、そしてきわめて怜悧な人間である古典的な自然経済の「経済人(homo oeconomiicus)」が法的に把握された人間だとする自由主義的で個人主義的な見解を 克服することであった。これに対してラートブルフは、誕生からまさに平等ではない、

自由であるとは必ずしも限らない、つねに怜悧であるとは限らず、そして個々人とし てではなく、共同体のなかで生活している人間であるような「現実的な人間」を対置 するのである、法は平等、自由……を前もって与えられたものとしてではなく、それ らをはじめて実現するのである。この意味においてラートブルフは法秩序の広い部分 を、とくに刑法をも熟考した。そこから多くをひとは『法哲学』第17章から見出すこ とができる。

 なおいくらかの技術上の指示をしておこう。原典のテクストにおける太字体印刷、

斜字体印刷もしくは隔字体印刷によるかにかかわらずこの本では統一的に斜字体に置 き換えられ、『法哲学』および『法哲学綱要』のなかでの行間を開けた例群における ラートブルフの諸々の手書による注釈も斜字体に置き換えられ、連続した、括弧で括 られた、同様に斜字体に置き換えられた番号をつけることで認めることができる。こ のような注釈を何回もファクシミルとして再現され、これにそれらを適切な 印刷正文として対置することに努められた。これはつねに可能であったのではない。

このような場合では読者はある頁を前にめくったり、後ろにめくったりしなければな らないのである。

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書体 ₁

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書体 ₂

(14)

書体 ₃

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書体 ₄

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書体 ₅

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書体 ₆

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書体 ₆-₂

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書体 ₇

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書体 ₈

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(30)

ヴィンフリート・ハッセマーによる『ラートブルフ全集』第 3 巻 法哲学III (Gustav-Radbruch-Gesamteausgabe Band 3, Rechtsphilosophie III Heidelberg 1990) への序文

訳者まえがき

 グスタフ・ラートブルフ全集の第 ₃ 巻として1990年に刊行されたこの巻に は、ラートブルフの学問的人生行路のいわば終着駅であることを表わしている 1948年の体系的な著作である『法哲学綱要(Grundzzüge der Rechtsphilosophie)』

(本巻121頁以下)のほか、ナチ‐時代のはじめからラートブルフの死に至る までの、すなわち1933年から1949年までのすべての、いずれも重要なラート ブルフの論文14本とこの間に公表された ₆ 本の書評が転載されている。その うちドイツ語論文だけを挙げると次の通りである。

・『法哲学における相対主義 (Der Relativismus in der Rechtsphilosophie)』

(1934年)[邦訳、尾高朝雄「法哲学における相対主義」ラートブルフ著作集 第 ₄ 巻『実定法と自然法』(東京大学出版会、1961年)所収 ₁ 頁以下]本巻 17頁以下

・『解釈の種類 (Arten der Interpretation)』(1935)[碧海純一訳「解釈の種類」

ラートブルフ著作集第 ₅ 巻『法における人間』(東京大学出版会、1962年)

所収99頁以下]23頁以下

・『法の目的 (Der Zweck des Rechts)』(1937年)39頁以下

・『 法 思 考 に お け る 分 類 的 諸 概 念 と 整 序 的 諸 概 念 (Klassenbegriffe und Ordnungs- begriffe)』(1938年)60頁以下

・『五分間の法哲学 (Fünf Minuten Rechtsphilosophie)』(1945年)[村上淳一 訳「五分間の法哲学」上掲第 ₅ 巻223頁以下所収]78頁以下

・『法の革新 (Erneuerung des Rechts)』(1946年)80頁以下

・『法律上の不法と法律を超える法 (Gesetzliches Unrecht und übergesetzliches Rechts)』(1946年)[小林直樹訳「実定法上の不法と実定法を超える法」上 掲ラートブルフ著作集第 ₄ 巻249頁以下]83頁以下

・『法律と法 (Gesetzt und Rechts)』(1947年)107頁以下

・『法の革新 (Die Erneuerung des Rechts)』(1947年)107頁以下

・『法学的思考形式としての事物の本性 (Die Natur der Sache als juristische

(31)

Denkform)』(1948)229頁以下

・『正義と恩寵 (Gerechtigkeit und Gnade)』(1949) 259頁以下

・『 法 職 の 専 門 的 か つ 性 格 的 な 藷 条 件 (Fachliche und charakterliche Voraussetzungen des Rechtsberufes)』(1949年)266以下

・『主知主義について―一個の断想―(Über den Intellektualismus – Eine Fragment)』(死後刊行1969年)

 以上を一覧して直ちにわかるように、1960年代はじめのわが国のラートブ ルフ著作集にはラートブルフの法哲学上の著作活動のこの期間の諸作品の五 つしか収録されていない。その選定には、納得の行くような理由がこの著作 集のどこにも示されておらず、むしろ恣意的であるあるとさえ感じさせるの である。むしろ私見によれば、「選外」にされた諸作品にこそこの期間にお けるラートブルフ法哲学のとくに顕著な特色が見出されるのである。そのう え、訳出された諸論文の個々の訳者の「あとがき」には、ラートブルフの生 涯にわたる前著作物とのコンテクストのなかでの当の0 0論文の意義についての 的確な描写はほとんど見られない。そのほとんどが他の著作物との脈略を顧 慮せずにそれ自体の「解説」にとどまっているか、もしくは初期の著作物の 何らかの箇所と比較してラートブルフの法思想における亀裂を指摘している にすぎない。とりわけ無視することができないのは、ラートブルフは初期に は実証主義者であったザウロがナチス‐体験の後に自然法論者のパウロに変 貌したという「ダマスカスの回心」の「神話」がいまだ無反省的な「前理解」、

つまりは先入見として念頭に置かれている、ということである。このことは、

上掲 ₇ 番目の論文の題名からして「法律上の不法と法律を超える法」と訳す べきところを「実定法上の不法と実定法を超える法」と誤訳0 0されていること から明瞭である。この誤訳の波及効果は遠大である。それは、1989年のベル リンの壁の崩壊後のいわゆる「壁の射手訴訟」において思いがけずも再登場 した「ラートブルフ公式」をめぐる争いにあってわが国の論者がほとんどお しなべてこの「神話」から出発しているほどの影響力を有していることから して一目瞭然である(これについて詳しくは、上田健二「ラートブルフ公式 と法治国家性原理」『生命の刑法学』(ミネルヴァ書房、2002年)所収 ₁ 頁以 下を見よ)。せめてラートブルフのこの期間の全論文がひとつのまとまった 彼の法哲学思想として把握されてさえいれば、すでにこの種の「神話」はす でに崩れ去っていたであろう。そのうえにドイツでは、本誌本号66頁以下の

「ラートブルフに関する文献一覧」に見られるように、ラートブルフ法哲学

(32)

の初期と後期との連続性もしくは断絶性をめぐる論争は1960年代初期のそれ よりもはるかに先へと進行しているのである。それを踏まえたラートブルフ 全集 (GRGA)の各訳文はそれぞれの校訂者の骨のおれる詳細な考証によっ て全く新しい意義を獲得している。本巻の校訂者であるヴィンフリート・ハ ッセマー(Winfried Hassemer)は、これをきわめて納得の行くように描出 している。

 彼はその「まえがき」のかなで「ラートブルフの法哲学は政治哲学でもあ った。彼はナチストによって教職を追われた最初の人々の一人であった。そ して彼は、1945年の後に『法律上の不法』を分析し、これを克服した最初の 人々の一人であった。彼の著作物の現実性は、それゆえにかなりの部分につ いて、どのようにしてひとはラートブルフの生涯的宿命と哲学上の根本的諸 確信をもって諸時代を超えて学問と政治とを調和させることができたのかと いう問いに依存している」と述べている(Vorwort VII)。本巻における諸論 文は、この意味において今日でもなお、そして旧態依然として概念法学的に、

法と法律とを同じと見る法律実証主義的に盲目的に0 0 0 0方向づけられているわが

(刑)法解釈論にとってはますます現実的な意義を有している、ということ である。

 なお、本巻の校訂者であるヴィンフリート・ハッセマーはアルトウール・

カウフマンの高弟の一人として現在はフランクフルト大学の教授であり、ド イツ連邦憲法裁判所判事でもある。

I

₁ .1933年 ₅ 月 ₉ 日にグスタフ・ラートブルフは、彼が「その全人格性およびこれま でのその活動からして、彼がいまや無条件に民族国家を支持する」こと「に対する保 障」を示していないことを理由に、教職を解任された(₁)。このような評価は疑いもなく 正しかった。ラートブルフは、学者として、政治家として(₂)、懐疑論者としてと同様に、

(1) これについて、そしてこれに続く時代については、Radbruch, Der innere Weg. Aufriß meines Lebens, 2. Aufl. 1961, S. 1961, S. 136 ff; auch in Gustav⊖Radbruch⊖Gesamtausgabe – GRGR ⊖ , Band 16, biographischen Schriften, 1988, S. 250 ff.); Arthur Kaufmann, Gustav Radbruch. Rechtedenker, Philosoph, Sozialdemokrat, 1987, S. 133 ff. [中勝義・山中敬一訳『グ スタフ・ラートブルフ』(成文堂、1992年)165頁以下]. Arthur Kaufmann, Gustav Radbruch.

– Leben und Werke, in GRGA I, S. 26 ff. [本誌236号35頁以下]

(2) 詳しくは、GRGA 1, S. 26 ff.を見よ。

(33)

社会民主党員として同様に、新しい時代に対して頑なに無資格を宣告していたのであ る。

 私はある大学教師の生涯におけるこのような切り口をラートブルフは正教授と して1919年以来キールで、1926年以来ハイデルベルクで働き、1928年と1931年にはハ ンブルクとキールからの招聘を拒絶していた劇的であるとしか思い浮かべるがで きない。それというのもラートブルフは、その大学での経歴が開始時では途切れ途切 れにしか進展していなかったことに酷く苦しめられたからである(彼は1903年以来教 授資格を有していた)。彼の態度は控え目であり、当時の言葉で、「キールでは協働す る全体において快適で支えとなる仲間関係に至ったことを、感謝をもって評価する(₃)」 と表現している。

 しかしラートブルフの生涯の諸々の思い出には、これとは別のものが感じ取られ る。この解任から日々の生活にとって、家族にとって生じなければならない諸々の困 難に関しては、どのような言葉もない。その記述のなかでは、これとは全く別のこと が前面に登場している。「私のライフワークがそれらに値していた諸々の理念の排斥、

それらに対して私が否認的に行動しなければならなかった諸々の権力の支配を、私は 深く感得した。それというのも人間は、確かに然りというように作られているのであ り、彼が頑なに否を言うことに強いられている場合には、彼の心に損傷を負わなけれ ばならないからである。多くの友人の運命をも、私は深く感じないわけにはゆかなか った(₄)」。おそらくその解任にいれにせよ、後になって「いくらか和解するこ とを勝ち取る(₅)」ことが彼にはできる状態になかったのは、その仕事とその諸理念への このような集中であったのであろう。そのむしろ冷静沈着な反応を説明することもで きよう二つの事情を挙げる。解任は彼から「進行する病気が不可避的にもたらしてい たであろう教職活動の高みからの下降を省いた(₆)」ということである。いまや彼にとっ ては、「それらに私が青少年時代に苦痛をもってあきらめなければならなかった当の0 0

(3) Radbruch, Der innere Weg, S. 97. これらの文章の前に告白している:「小さな生活領域の なかでは、妨げられた輝かしい経歴というものは大学における経歴におけるよりも痛々しく 感じられる。正教授ではなく、学部に所属していない者は、彼には、よく私講師病として特 徴づけられる、ひねくれて過敏症を作り出すのがつねであるほどに多くのものから締め出さ れているのであり、それほどに少ない権利しか有していない。」

(4) Der innere Weg, S. 136.

(5) Ebenda.

(6) Ebenda. もちろんラートブルフは続いて戦後に、「ほとんど幸福という古い尺度をもって

諸々の講義を受け持つこと」を経験した(Arhur Kaufmann, in: GRGA 1, S. 47, [同号45頁]

における裏づけ)。

(34)

諸学問に献身する可能性が開かれたのである(₇)」。

 このことがラートブルフを早速に仕事に着手させた。すでに解任の次の日に、と彼 は報告している(8)、彼はフォイエルバッハ‐伝記をもって開始したのであり、それはす で に1934年 に 刊 行 さ れ て い る(₉)。 そ れ に は1938年 に『 刑 法 雅 論(Elegantia Juris Criminalis)』[Sieben studien zur Geschichte des Strafrecht, Basel 1983; Elegantia Juris Criminalis. 2. neubearb. und erw. Aufl., Basel 1950 (死後刊行). この論集はGRGAにお いては個別的な巻のなかに解消されている。Vgl. GRGA Band 1, S. 3]が、1939/40年 に『カロリナ(Carolina)』の編集が、1944には『人と思想 (Gestalten und Gedanken)』

[菊池榮一・小堀桂一郎訳・ラートブルフ全集第 ₉ 号(東京大学出版会、1965年)が、

自伝的な、文学的な、歴史的で比較法的な諸研究によって補われ、そして導かれて続 いたのであり、それは1945年後に十分な程度において引き続けられた(₁₀)

₂ .1945年 ₉ 月 ₇ 日にラートブルフはそのハイデルベルク大学の教職に復職し、法学 部の部長になる(₁₁)。1946年 ₁ 月8日に彼は『法学への案内(₁₂)』という講義をもって始め、そ して以前の諸々の恐れに反して「ほとんど働きのあらゆる尺度をもって諸々 の講義を受け持つという幸福を」体験した(₁₃)

 ラートブルフの文学上の作品は、1949年11月13日のその死に至るまでに豊なものに なっているそれらに彼が献身した諸々の対象の変型に関しても(₁₄)。戦後の法哲学上 の思考のクライマックスである『法律上の不法と法律を超える法(Geseztliche Unrecht und übergeseztliches Recht(₁₅))』、『 法 哲 学 入 門(Vorschule der Rechts-

(7) Der innere Weg, S. 136. S. 39. 彼はこれに続ける:「そして私は私にしばしば聖書の言葉を ささやいたのである。『彼らはそれを悪しきこととして私になしたのであるが、しかし神は 私とともにそれを善きこととしたのである』と」。

(8) Der innere Weg, S. 136.

(9) Paul Johann Anselm von Feuerbach. Ein Juristenleben, 3. Aufl. 1969, hrsg. von Erick Wolf.

[GRGA Band 6]. [菊池榮一・宮澤浩一訳『一法律家の生涯P. J. アンゼルム・フォイエ ルバッハ』ラートブルフ著作集第 ₄ 巻(東京大学出版会、1963年)

(10) Arthur Kaufmann, in: GAGR 1, S. 40 ff., 50 f.,ならびに、G. Löffler, in: Gedächtnisschrift für Gustav Radbruch, 1969, S. 377 ff.,参照。

(11) こ れ に つ い て、 そ し て ラ ー ト ブ ル フ の 死 に 至 る ま で の 時 期 に つ い て は、Arthur Kaufmann, Gustav Radbruch, Rechtsdenker etc., S. 147 ff.; Marie Braun, Nachspiel:

Erföllung, 1945 – 1949, in: Radbruch, Der innre Weg, S. 144 ff.

(12) Marie Bazm, Nachspiel, S. 148 ff.

(13) Brief vom 22. 1. 1946 an C. A. Emge; Arthur Kaufmann, in: GRGA 1, S. 49を見よ.

(14) これについては、G. Löfflerの伝記のほかにArthur Kaufmann, in: GRGA 1, S. 50 f.; Marie Baum, Nacspiel, S. 146.

(15) 1946年;本巻83頁以下。[小林直樹「実定法上の不法と実定法を超える法」ラートブルフ 著作集 ₄ 『実定法と自然法』(東京大学出版会、1961年)249頁以下所収……ただしこの訳文

(35)

philosophie(₁₆))』、『 法 学 的 思 考 形 式 と し て の 事 物 の 本 性(Die Natur der Sache als

juristische Denkform(₁₇))』は政治上の意図にも基づいている。これと並んでたとえば自

伝『 心 の 旅 路(Der innere weg(₁8))』、 詩 集『 生 活 に 同 伴 し た 抒 情 詩(Lyrisches Lebensgeleite(₁₉))』、オノレ・ドーミエ(Honore Daumier)の『司法の戯画(Karikaturen

der Justiz(₂₀))』の石版の、もしくは『人間性とフリーメーソンの精神史についての諸論

稿(Beiträgen zur Geistesgeschichte der Humanität und der Freimauerei)』(副題(₂₁))の 編集、フォンターネ‐エッセイ(₂₂)が成り立っている。1935/36年のオックスフォードに おける一年間の研究滞在のひとつの成果である『イギリス法の精神(₂₃)』は、大陸ヨーロ ッパの伝統のなかで教育を受けた法律家にイギリスの法思考の諸々の特殊性に接近さ せた。テーマとしては大きな範囲のものであるが、それにもかかわらずより以前のも のと結びついているのは、ラートブルフが、共著者として、刑法上の諸対象に献身し た二冊の本、すなわち『法的諸事例を手がかりとした犯罪の理論(Die Lehre vom Verbrechen an Hand von Rechtsfällen(₂₄))』と『犯罪の歴史(Geschichte der Verbrechen(₂₅))』

である。そのうえに、ラートブルフを刺戟し、そして駆り立てた数多くの論文、言葉 の寄稿、判決への所見、書評、まえがき、箴言および諸々の関心の広いパレットへの 諸々の評価が加わる。

 ラートブルフがナチ‐支配[の崩壊]後からその死に至るまで暮らしていた短い時

はすでにその表題からして明白な誤訳であることについては、上田健二『生命の刑法学』(ミ ネルヴァ書房、2002年)30頁文末中(10)をみよ。]

(16) 1948年;本巻121頁以下。[野田良之・阿南成一訳ラートブルフ著作集第 ₄ 巻『自然法と実 定法』[東京大学出版会、1961年所収13頁以下]

(17) 1947年;本巻229頁以下。[この論文は予定されていたラートブルフ著作集には見当たらな い。]

(18) 1951年;先の脚注( ₁ )を見よ。

(19) Deutsche Lyrik von Eichendolff und Rilke“, 1946, 2. Aufl. 1958.

(20) 1947, 3. Aufl. 1961.[GRGA Band 5, Literatur⊖ und Kunsthistorische Schriften, Heidelberg 1997, S. 234 ff.]

(21) Vom engdlischen Geist der Aufklärung, 1948; そのなかで23頁から34頁まではラートブルフ の論稿『魔笛の刑法(Das Straftrecht der Zauberflöte)』である。[GRGA Band. 4, Kultur- philosophische und –historische Schriften, Heidelberg 2002, S. 283 ff.]

(22) Teodor Fontane – oder Slepsis und Glaube, 1945, 3. Aufl. 1954. [GRGA Band 5, Literatur⊖

und kunsthistorische Schriften, Heidelberg 1997, S. 290 ff.][菊池榮一・小野桂一郎訳『人と 思想』ラートブルフ著作集第 ₉ 巻所収199頁以下]

(23) 1946, 4. Aufl. 1958.

(24) Engelhard/Radbruch, Strafrecht. Die Lehre vom Verbrechen an Hand von Rechtsfällen, 1946, 2. Aufl. 1948. [GRGA Band. 8, Strafrecht II, Heidelberg 1998, S. 47 ff.]

(25) Radbruch/Gwinner, Geschichte der Verbrechens. Versuch einer historischen Kriminologie, 1951. [GRGA Band 11. Strafrechtsgeschchte, Heidelberg 2001, S. 19 ff.]

(36)

期を、その文学上の作品しか見ないのでは十分に特徴づけることができない。補充的 にともに考えられなければならないのは、とくに、時代の証人(₂₆)の判断によれば、彼の 外面的な(₂₇)働きの三つの様相、すなわちラントにおける民主主義的な新規開始というも のを求める諸々の努力、大学と学問の現状回復というもののための彼の仕事および、

方向づけを探し求める学生たちへのその肩入れである。休むことのない努力の集中、

長く繋ぎ止められて多くの前線に投入された減少しつつある諸力、これらがいまやあ らわになった。このことが、それが口頭および書面による諸々の報告から判明するよ うなラートブルフの晩年の印象である。

II

 この巻は、このような時代に由来する、ナチ‐支配の開始からその崩壊を経てラー トブルフの死に至るまでのラートブルフの法哲学上の著作物を収集している。したが ってそれは、ラートブルフの法哲学上の思考がそれらのなかで時代の諸展開を、とく に1945年という刻み目を伴なった諸々の展開を究明する機会を与える。

₁ .確かにこの巻が知らせることができる認識は幾重にも限られている。それは、た とえばラートブルフの諸々の手紙のなかで映し出されるような(₂8)日常的で個人的に着色 された諸経験を、刑法(₂₉)についての、国家法(₃₀)についての、もしくは文化政策(₃₁)についての 意見表明を含んでいない。諸々の講義原稿もまた、後の読者のために起草されたので はないことを理由に、全集には採用されていない(₃₂)(講義の筆記メモ『法哲学入門

(26) たとえば、Fritz von Hippel, Gedanken an Gustav und Lydia Radbruch; Helga Einsele, Erinnerung an den Lehrer Gustav Radbruch, beiden in: Gedächtnisschrift (oben Fußn. 10), S.

29 ff., 37 ff.; Marie Baum, Nachspiel, S. 147 ff.; 1948年11月21日のラートブルフの70歳誕生日 の祝詞と感謝の演説およびGünter Spendel, in: GRGA, Band 16, S. 322 ff., 458 ff.,の編集報告 におけるこれについての諸々の補充を、そしてErich Wolf, Gustav Radbruchs Leben und Werk, in: Radbruch, Rechtsphilosophie, 8. Aufl. 1973, S. 67 ff., をも見よ。

(27) ラートブルフの「覆われた生命線」(「グスタフ・ラートブルフと宗教」)については、Ricard Hauser, in: Gedächtnisschrift (oben Fußn. 10), S. 50 ff.; auch Arthur Kaufmann, Gustav Radbruch, Rechtsdenker etc., S. 178 f. [中義勝・山中敬一訳『グスタフ・ラートブルフ』(成 文堂、1992年)222頁以下]

(28) これについては続いて、グスタフ・ラートブルフ全集の第17巻と第18巻で。しかしすでに Spendelによって編集された第16巻〈伝記的著作物」)を見よ。

(29) これについては、GRGAの第 ₆ 巻から第11巻まで。

(30) これについては、GRGAの第14巻。

(31) これについては、GRGAの第 ₄ 巻。

(32) Arthur Kaufmann, in: Einleitung in GRGA 1, S. 1.

(37)

(Vorschule der Rechtsphilpsophie(₃₃))』という重要な例外をもって)。そして最終的には、

1933年以前のラートブルフの法哲学についての孤が次いでようやく、全集第 ₂ 巻(₃₄)が現 存ずるようになるときには、完全かつ信頼の置ける形で描かれる。

 このような限界づけは重要である。ラートブルフの諸々の意見表明、その思考とそ の生涯についての諸々の報告は、他の誰でもない彼にとって、彼が献身した実務と学 問の様々な形式と領域とが互いに補完してひとつの全体を形づくっているということ を、したがってその限りでのみ、彼の諸々の意見表明が理解され得るということを明 白に裏づけている。このような諸々の制限への斟酌をもってここに収集されたラート ブルフの法哲学上の諸作品が読まれ、整理され、解されなければならないのである。

₂ .このような諸々の限界にもかかわらずこの収集はとくに読書に当たってそれ らの年代記的な順序(₃₅)に従われる場合にはラートブルフの著作物の諸々の記録を越 えて(₃₆)実質において多面的に教示し、明らかにすることができる。

 ラートブルフは、戦後では増強されて、その思想を様々な着想において、部分的に は様々な対象についても、繰り返したのであり、このような仕方でそのつど新たに検 証した。彼は、歴史的および文学的な伝統をより確かに意のままにして、その態度表 明を、その正確さと的確さを失うことなく、扱われる対象を越えて展開した。そのま れな明瞭性、完全性および完璧性において、諸々の学問間の交互関係、それらの歴史 的展開との、そしてまた実務との諸々の結合を取り入れて完全なものに仕立て上げた のである。博士論文(₃₇)において、そして教授資格論文(₃8)においてすでに際だっており、そ してその後には継続的に完熟してゆくというのがラートブルフの思考のひとつの特徴 である。現に刑法についての諸々の熟慮は法哲学的に裏づけられ、刑事および行刑政 策は継続的に考察され、検討されている。現に法哲学上の諸々の定理は哲学的に組み 込まれ、哲学史的に導き出され、文化的な諸伝統と結び付けられ、諸々の例に関係づ けられている。現に法の基盤における諸々の授業は日常的および文学的な諸経験に結 びついている。現にラートブルフの法哲学上の著作物もまた、それらがここで印刷さ れているように、そのつどの対象の小冊子であるばかりでなく、この時代展開におけ る市民としてのラートブルフの思考と行為にとっての証言である。それらは至る所で

(33) この巻の121頁以下で。

(34) GRGA Rechtsphilosophie II.

(35) これについては、この巻の[訳者]まえがきを参照。

(36) 本全集のこのような主要目標については、die Einleitung von Arthur Kaufmann, in: GRGA 1, S. 1 f., 2 f.

(37) Die Lehre von der adäquaten Verursachung, 1902.[GRGA Band 7, S. 7 ff.]

(38) Der Handlungsbegriff in seiner Bedeutung für das Strafrechtssystem. Zugleich ein Beitra zur Lehre von der rechtswissenschaftlichen Systematik, 1904.[GRGA Band 7, 75 ff.]

(38)

包括的な諸連関を一瞥することを許しているのであり、それらは明瞭な諸々の輪郭を 仲介している。それらはこのような意味において他人に成り代わってまでも読まれ得 るのである。

II

₁ .法哲学者ラートブルフの著作物のようなそれらに1933年に発する時期から1945年 を超えてつねに向けられてきたし、また向けられなければならない中心的な問いは、

実定法の正義を求める問いである。この問いは学問的に多くの衣服を纏って立ち現わ れる。存在と当為との〈現実と価値との、また法的安定性と正義との、法の実定性と 規範性との〉関係として、法の価値理論もしくは妥当理論という形において、経験的

‐分析的な法の根拠づけと形而上学的なそれとの争いにおいて、もしくは外見上 はただ単に法概念と法理念の必然的な諸要素を獲得するための闘争において法律 実証主義と自然法論との対立として。このような問いは法哲学の当の0 0核心問題であっ たし、また現にそうであるのであり、そしてそれだから法哲学者たちの間で、どのよ うにしてそれを言い表すべきかについて争われているのである。

 この問いの正しい定式化については、ここではもちろん扱うことができない。それ を扱うことを必要ともしていないのである。それというのもラートブルフの諸理論、

市民としてのその実務およびその学問上の諸々の意見表明が、考えられているものを 歴然かつ正確に表現されているからである。彼の出自は認識批判上の相対主義であ る。1921/23年の社会民主党のライヒ司法相としての仕事;刑法典のある草案に至る までの法的諸問題についてのその多彩な諸々の批判と提案;不法国家との個人的およ び学問的な諸経験とその政治的および学問的上の克服、どのようにしてこれらのこと が交わるのか。ある人がこれらのことを行為と思考との分裂なしに、少なくとも法の 認識論と価値論におけるひとつの明確な転向なしにこれらのことを克服することがで きるのか(₃₉)。どのようにして堕胎処罰というものの正義について、ナチ‐諸法律の不正 義について誰であれ意見表明する者が、学問的に(法的)諸価値を認識することがで きないという確信を持ち続けることができるのか。1933年以降のラートブルフの

(39) たとえば、Fritz von Hippel, Gustav Radbruch als rechtsphilosophishcer Denker, 1951, S.

36, 99参照。彼はラートブルフの個人的な展開のなかにではないが、しかしその思想のなか に、彼を一人の実証主義者から一人のキリスト教的自然法論者に変えさせたような「ダマス カスの回心」というものを見ている。ラートブルフの「価値相対主義」については、ごく最 近 の 著 作 物 か ら た と え ば、Gais, Der Methoden⊖ und Richtungsstreit in der Weimarer Staatslehre, in: Juristisch Schulung 1989, 91 ff., 93.

(39)

法哲学上の諸々のテクストに、次いで再び1949年以降に向けられなければならない実 定法の正義を求める問いは、今世紀[20世紀]後半のなかでラートブルの生涯宿命を 伴ったような法思考家、哲学者そして社会民主党員(₄₀)の思考と行為との統一を求める問 い以外の何ものでもないのである。

₂ .ラートブルフの価値相対主義に輪郭を与えようとする者であれば、たいていの場 合では、それを彼の『法哲学』に手を伸ばしてそこに見出すことになる(₄₁)。とくに法の 妥当を扱っている第10章(₄₂)は多くの章句のなかで、ラートブルフは、彼にとっては価値 の諸々の根拠づけが遮られていることを理由に、実定的な法律だけが法源として承認 することができるとした解釈を支持している。彼は法哲学者としてこのような法律に 実証主義的に身をゆだねたのである。これに対応する章句はよく知られている。

 「何が正義に適っている(gerecht)のかを誰もが確定することができないのであれ ば、何が合法的である(rechtens)べきかを誰かが確定しなければならないので あり(₄₃)、制定法が対立し合っている法の諸々の見方の衝突を権威的な権力の断言を通し て終わらせるべきであるならば、法の定立は、対立しているどのような法の見方に対 しても貫徹というものが可能であるような意志に当然に帰属すべきものとされなけれ ばならない。法を貫徹することができる者は、これによって、彼が法を定立するのに 適任であることを証明しているのである。逆に言えば、国民のなかでの誰であれある 者を多の者に対して保護する権力を十分に有していない者は、彼に命令する権利をも 有していないのである(カント(₄₄))」。法律に服している裁判官にとっての諸帰結は、こ れによれば明白である。すなわち「裁判官にとっては、法律の妥当意志に真価を発揮 させ、自身の法感情を権威的な法の命令の犠牲に供し、何が適法であるかを問うだけ

(40) Arthur Kaufmann (oben Fußn. 26)の伝記の副題がラートブルフをこのように特徴づけ ている。

(41) この場合に注意すべきはもちろん、かなり古い層のなかにラートブルフの法哲学が埋め込 まれているということである。コンテクストは1932年の第 ₃ 版である(Hrsg. der 4. Aufl., Erick Worf, unter I, III, 1.参照)。

(42) Radbruch, Rechtsphilosophie (oben Fußn. 26) S. 170 ff.

(43) もちろんラートブルフはある脚注のなかで直ちに、彼がここで「正義に適っている

(gerecht)」に対して「合法的である(rechtens)」を置いていることと、「態度の合法性」

の規定が同時に「喧伝と批判の自由」に余地を許しているということを強調している。「権 力掌握者の法定立権能はある一定の法の見方を確かに法の基盤とすることができるのである が、しかし権力闘争者に対して普遍的に妥当する法的真理として宣言することはできないの であり、そしてまた法的な諸々の見方の意見闘争にひとつの終結を置くこともできないので ある。反対に、法の諸々の見方の妥当に関する判定のために権力を将来するのと同じ相対主 義が、このような権力が法的な諸々の見方の意見闘争に自由な領野を許すことを要求する」

(Rechts philosophie, S. 175, Fußn. 2.

(44) Ebenda.

参照

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