加役方人足寄場について(3)
著者 丸山 忠綱
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 9
ページ 1‑36
発行年 1957‑01‑31
URL http://doi.org/10.15002/00011825
加 役 方 人 足 寄 場 に
て
(一一一)
、 "
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丸
山
一、はしがき二、人足寄場設立当時の社会情勢三、人足寄場設立の事情四、無宿の収容(以と前々号ν五、設備及び掛役人六、手業及び待遇ハ以上前号)七、教誠方法i石門心学の採用
八、釈放及び爾後の措置 九
、 罰 則 十
、 経 費
( 以 上 本 号
)
十一、人足の実例
十二、常州上郷村寄場、函館寄場
十一
一一
、寄
場制
度の
変遷
及び
終需
十四、まとめ
七
忠 綱
人足寄場における教誠方法として石門心学を採用し心学者を呼んで来たのは何時からであるか明確ではないが蓋し関所後間もない頃であったと思われる。元来、心学は京都の人、石田梅巌が享保年中に唱え出したに始まる。その後、その弟子達にも優れた人物が多く出たのでJ教勢は拡大せられていった。各心学者の唱えたところ、また中心思想はそれぞれニュアンスを異にしているが、詮ず
るところ封建社会に適合した、現存の秩序を是認する、卑屈と言えば言えるような忍従、知足安分を説くものであることに違いはない。これが時の為政者の気に入らぬ筈がない。しかも「心学教化が武士階級に進出したのは、精神修養を目標と
」 .
-
・
し道話と策関とを方途としてであったから、従って家庭内に於ける修養学として歓迎せられたものである。論より証拠、
大名が新学を修行したところでは、多くその夫人・その子・その一族が共に相励まして学習してゐて、この点では儒学の習得などと馨るしく面目を異にしてゐる。」(訪問グ「
44
吋均一敗)「庶民に対しては多分に社会教化的な特質を発揚してい
た心学が、武家に対しては全く精神修養の学として働き掛けていたのである。大衆へ向って行ふ道話の際には修行唱を持出すなといふのが堵庵起筆の『社中規約』の建前であるが、武家に対しては道話と共に修行唱を以て出発するのが慣はし
、同
上、
一一
Jであったo
」ケ
ニ六
Il七
頁」
ので
ある
。
大名中で最も早く心学
、 に接近したのは本多忠可であ
ったと言われるが、彼は松平定信を中心とし、親交を結んでいた一
註 翁
』
、
、
註
(刷
)
群 の 諸 侯 中 の 一 人 で あ る そ う し て 定 信 が 心 学 に 近 づ き こ れ を 保 護 し た こ と は 疑 な く そ の た め に
、 心 学 は 俄 然
この定信の時代を一つの頂点として、諸侯間にも、また旗下の間にも流行し浸透して行くことになったのである。
寺社奉行その他寄場監督の立場に花る有力武士の中に心学を奉ずる者の名が見えることは敢て異とするに当らない訳で
。註
〈則
一〉
ある
人足寄場と心学者との関係については既に石川謙博士の大著「石門心学史の研究」弟三編、「諸落の教育・教化施設と心学教化、第二、「心学教化に対する幕府及び諸藩の態度」においでほぼっくされておると一言って差支えない。ここでも
殆んど石川博士の説かれたところによっていることを断っておく3記して篤く謝意・を表する。またそれだけしか史料がないと言うのも事実である。ある程度残存している寄場側の史料にも不思議にも心学に関係したものが見当らない。これは
何を意味するものであろうか。月に三回だけと言う講話であってみれば日々のことに関する記録、文書が多く残存し、心学関係のものが見当らないとしても無理はないことであるのかも知れない。
寄場側が熱意に欠けるところあったなどと言うことにはなるまい。最初に寄場に出講したのは中沢道二で、その代講、前講むなっていたのは関口保宜、池田寛月、更には享保三年(か九一)六月、道この殻後代って教諭方となった脇阪義堂であった。
心学者達が出講するのは、毎周三固と言うのが通例であったようである。月三回の日は三の日であることもあり、幕末においては一目、十五日、二十八日の三日が寄場の休日で、この日に心学道話を聴聞せしめた。その際一席の道話だげで
Hosei University Repository
済んだのかどうか寄場開設初期については何ら見るところがない。幕末になると、七棟の人足部屋があったため棟毎に白
洲にしいた蓮席に著座せしめて七席の講話が行われたo註命)七人の講師が来ってそれぞれ別の話をしたのやら、二、
一 一
一
人
で適宜題目を変更したものであるかは明かでない。恐らく後者であったろう。
出講の節、食事時にかかると、寄場費用を以て、一汁一菜の粗飯を講師に出す定めであったo
註 ( 即 )
道話の内容も栂手を考慮してごく卑近の日常道徳を教育講談風に誇ったJ
もの
であ
った。脇阪義堂が文化八年(一ベ)に初
篇を出した「心学教諭録」は彼が人足寄場で実地に行った九席の道話の稿本である。その題目を見ると「孝行になるの伝
授」「銀のなる木の伝授」「開運出世伝授」「福相になるの伝授」「和合長久の伝授」などと言った類である。
、 一 八
Jこの脇阪義堂が交政元年〔一八)四局に残すると、その後任として大島有隣が正式に教諭方に採用されるに至ったのは文
政二年九用のことであった。時に彼は六十二歳。その際寄場役所から若年寄に進達した文書による’と次のような諸点が明
かにされるo註ぺ胤〉即ち、パけ月三回の出講で、その日は迫て定める。病気等の場合は弟子に代議せしめる。
UH
出講時刻は辰
ーよ刻とするが、.場合によっては辰下刻となることもある。日間報酬は、元祖石田勘平以来、欲情を退けるように教示し来っ
ている通りで、.そのような俗事には別に望みもないと言うことであるので、一箇年銀五枚も与えたならば外聞もよかろう
とて、そのように定められた。帥有隣採用については四月以来、寄場奉行、御徒目付で相談、更に御目付の内意をうかが
い、思番の若年寄に内慮をうかがい、その上で決定した等の点である。かくて九月二日、有隣は呼出され、当時の寄場奉
行原因寛蔵から、教諭方に任命されると同時に次のような口達に与った。
共許被相心得候心学道話之儀、寄場人足共え為相聞度相伺候処、
h
にも兼而心学之儀御承知之儀に而、早速御閉居有之、用々三度づっ罷出、人足共え道話為相聞候様被仰付候。尤大勢之内にて壱人成共、本心に立帰候様に相成候得者、
自分共御奉公筋にも相成、且共許にも教諭追々手広に相成候はば本望にも可有之候問、何様にも教一木被致候様仕度皆、
於寄場御役所、右之段御奉行原田寛蔵、御口達に御座候o註
命)
これによると、既に心学については寄場で教化のため採用してからでも最低二ナ年を経過していたこともあり、十分当
局では重要性を認識していたことが分かる。しかし、「元大勢之内にて壱人成共、本心に立帰候嫌に相成候得者」と言う
一 一
一
. . . .
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四
のは、いささか御挨拶に過ぎる嫌いがある。いくらか官辺を笠に著た趣もほの見えている。心学教諭の効果がどれ程あがったかについては寛政十二年(か飢)七月十五日附の、京都滞留中の中沢道こから代議関口
保宜にあてた手紙の一一節が最も雄弁に物語っている。一恥前一、霊場人足、用事に付他行致候処、及口論に、面体にニケ所の庇を付られ、堪忍よく致帰り候処、けんくわの
相手嶋えわびごとに参り、夫’いし御吟味被成候処、人足堪忍の徳顕れ、御上より鳥目弐〆支被為下候事、野村氏より御知
こらせ被下、是金御上の仁徳、各々様の信カ御徳と難有奉存候。猶々此
上共仰被合、乍悌無油断御頼申候F t
v b y
(ヴ
の寄場人足の他行と一言うのは、穴、でのべておいた所謂「外使」であったろうから、先ず満期が三箇店以内に近づいたものであでたかも知れない。随って「堪忍よく致帰」ったのかとも考えられなくはない。もともと喧嘩をするのがおかし
い、相手も後で嶋にあやまりに来る程の者故元来そうひどい人物とは思えないなどと疑がってかかれば限がないD
ここ
は
「夫上御吟味被成候処、人足堪忍の徳顕れ」たとあるのを素直に受容れて、心学教化の効挙Jた事例と見ておくのが最も
よろしかろうq
.
大島有隣も脇阪義堂が京那に帰るに及んで教諭万に正式に任命せられた訳であるが、非常に寄場における人足教化に重
点をおき、それに‘精励したようである。任命後五箇年を経た文政六年二局に、当時の寄場奉行高柳平川次郎が若年寄田沼玄
審頭一意正に進達した文書には
当未年迄引続毎月三度づっ無こ慨怠-欝出、打はまり道話仕候処、人足共一同に感服仕、有隣門弟に相成候者も御座候
而、自然と人気穏に相成、旧来之志を相改職業働方等出精仕候者多分出来仕、教導之一助に相成、追々改心之者約増候
得者、此後引続、於二寄場一心学為ν 仕
、人
足共
え為
レ承
候様
仕度
奉レ
存候
。註
(即
) 免えその悔勤に相応しい好成績が伴
っていたことが分かる。有隣の手記によると、初入発情したものが喜四年(一一一ベ)
六月から翌年九用までの間に八人程あった。高柳が「有隣門弟に相成候者も御座候」と言ったのは、これらを指してレた
O註
へ
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のであるなお、彼は文政五年間正月、人足寄場に程近い霊山芹島御用屋敷の一部を心学講舎建設敷地として借用せんことを出願し
た。それは実際上は彼が主宰していた室替舎が、当時地主が屋敷替になったので、それに伴って移転の必要に迫られてい
Hosei University Repository
たごとも大きい原因であった。しかし、最終の目標は寄場並にその近辺を教化の対象として相応しいものと認め、それに成功することによって「利益諸国に相聞え、枇道末世不易相伝へ」ると言うにあっ
た 。
有隣の請願書には、梅巌がこの道を始めてから八十年余、江戸に伝えられその道に深く入るようになった者が増加してから数えても四十年余を経過している。「既に寄場人足え教諭可仕候皆被二仰付一、からかい敷人足共感服仕、門入相願候者
有之、共流隣町、新川・茅場町辺、追々執心の者多く」なった。右場所拝借がかなうならば「寄場教育の手都合甚宜」く、
最寄の町方への好影響も自に見えることであるから、一層精励したいと言う趣旨が盛られているO討
(問
〉こ
の際
の請
願は
田
沼意正によって遂に顧られるところなかったのであるが、この中の文句によって我々は有隣の精魂込めた教化がある程度効果を挙げたことを知りうる。
さて有隣は天保七年(一一肌)十月に残したが、その問、交政十一年から翌年にかけては近藤平格を前譜代講に用い、
Am
)天保六年十周以降は清た春斎、小林有安の二人を前譜代議として用いたo註(山〉有隣の妓後何人かが寄場教諭方に任ぜられ
ていたのか正うかは不明である。天保九年十二月になると竹田道跡がそのあとをおそうことになったo註ハむしかし道跡は
当時既に病気勝であって出講意に任せなかったので、加藤玄圏、桑田兵太夫、高桑三省の
一 一
一
人の中で代講せしめるとの諒
解を得ていたと言うO註ペ山一)しかるに一筒年にも達せずして翌天保十年十月に道跡が死去し、十一年七月から加藤玄園・古
賀兵蔵の二人が教諭方を拝命した
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」の問、林戯雲も屡、寄場に向講した。
一六
保十
四年
(町
一一
に至
って平野橘翁が教諭方に任ぜられた。慶応三年(弁ど一一一月に老と病を以て、心学の参前舎をも退
き、教諭方をしも辞いたo橘翁の花職期間は二十五年の長きに亙るのであふが、史料乏しく代講者の名前さえ判明せぬ註岱)
ζの橘翁の時代は所謂幕末期全般を占めているのであるから前にも述べた七席の講話があったと一一百うのは正にこの人の時
のことでなければならなし。七回同じ話を繰返すと一一百うようなことは一寸考えられないから、前議や代講があったと考え
る方がよかろう。それらの人名が皆自分からぬと言うのは遺憾としなければならない。
さて、この慶応三年の十月には菊池冬斎が人足教諭方となったが、明治維新の出現とともに人足寄場も廃止の運命に陥
ったので、教諭のことも自ら解消するに至ったのである。
以上、人足寄場における教誠方法の一端として、石門心掌が当時の為政者中に相当の勢力を有していたところから採用
五
_ . . . . 、/ され、爾来、寄場の廃止に至る迄引続いて講ぜられ、相応の成績を挙げ得たことは疑問の余地はない。ただ具体的な点に なると史科の関係上明かでないところが多いのはやむをえなレ。石川博士の作製せられた要約一覧表を姑らく拝借して読
者の便に供しよう。
菊 平 古 加 竹 大 脇 中
池 野 賀 藤 田 島 阪 沢
冬 橘 兵 玄 道 有 義 道
斎 翁 蔵 間 跡 , 隣 堂 二
林 古 高 警 加 今 小 清 近 脇池関|は前 賀 桑 巴 藤 井 林 水 藤 阪田口 |代講 兵 三 太 玄 有 宥 春 平
義 寛 保 護 委
蔵 省 夫 圃 覚 安 斎 格 堂月宣l
教諭方一
年数
の一中沢道二書簡集ハ心学教化 一
本質
並発
達〉
一関口文書ハ山田敬斎氏蔵〉
孝子善次行状の序交
年
自寛政年間至享保三年
白文化元年至同十四年
自交政二年至天保七年
自天保九年至天保十年
戯
自天
保+
一年
一
至天
保士
一一
年
一
笥圭
; z : ヨミ
自天
保+
四年
至慶応三年
自慶応三年至明治元年
代
典
拠 四
典拠同上 心学教諭録の序文、大島家受書
一 八
寄場人足え心学教諭道話之儀に付申上並大
島先生出席に付書被置候一件
参前舎年譜、参前舎主年代考草稿、
参前舎年中行事ハ天保六年五月より〉
五
典拠同上
典拠同上
備
考
中沢道二は参前舎第一世の舎主
大島有隣は壷響舎の再建者
竹田道跡は参前舎第六世の舎主
林戯雲は壷審舎第二世の舎主にし
て参前舎主事務を取りしことあり
平野橘翁は安政六年より参前舎第
八世
舎主
とな
る。
菊池冬斎は自謙舎第二世の舎主
「石門心学史の研究J
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!戸頁」Hosei University Repository
八
人足
寄場
は一
一一
一ロ
うま
でも
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く、寄場に収容せられた者たちの一般社会への健金な復帰を目差した施設であった。入所者に
は前述の如く、追放刑に処せられ年限を以て寄場入り申付られた者と一般無宿者との別があった。これを釈放するに当っ
ては、当人において一定の条件を充足すると認定されることが必要であったが、それにはまた釈放された後において一応の社会生活を営みうると一一
言う
見透
しが
ついているか、あるいはこれを保証することが当然裏合わせになっておらなければ
ならなかっ
た 。
先ず一般無宿者においては、既に穴においてふれたところもあるが次のようなことが釈放の条件となった。即ち料所謂
手業の成集たる溜銭が十貫文に達するか、一般労働の場合は報償の溜銭が
一 一
一
貫女に達するかした場合。 紅
(川
〉旬
以上
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う
な十貫文あるいは三貫文の規定に達しなくとも特に精励協勤なる者には官において褒美金を与えて規定額に達せしめ付の
条件を充足したものと認定した場合o註
ハ 山
V白本人が特殊の技術を有し旦っその行状よろしき場合
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許試ハ
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ったJこれに対し、年限を以て寄場入申付けられた者及び追放刑に処せられた者は概ね三年、五年あるいは七年を経過した後に引取人に引渡すことになっていた。「日本近世行刑史稿」には「概ね五年」とあるが一
、 。
註{ ぺ 印 )
般には三年であったらしし
なお引取人には引渡方願書を提出せしめたD一般には家主であった主うな場合は五人組連署の引渡願を出さしめ、引取
人が店子の場合は家主の連暑のそれが必要であった
。 討
(
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」れは江戸時代を通じての連帯責任制の現れと見ることが出来
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るであろう。また本来、引取人となるべき者があっても、掛り合となることを嫌って、あるいは人足本人がそのような場
所に収容せられた乙とを知らないで、いる場合も少くなかったので、官の立場としてはなるべく本人の言によって引取人
たるべきものを詮議して、引取方を命じたらしい。それも生国出所の判明した場合はなるべく郷里にその人を求めたことは封建社会において「人返し」の措置にも通ずる当然の遺り方であったo詑(問}それは農地を荒廃せしめず、むしろ新田の
開発を企ること広も通じていた。
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伺のような場合には先ず生活上においては引取人を絶対に必要とすると言う訳ではなかったが、年限入所者、追放
七
刑該当者などの場合には、引取人なければ町方役人、村役人等に引渡し、あるいは前にもふれた寄場差配人に委ねて、適
当な勤め口を探させたりした。差配人は引取人が人足出迎えの際遅著するようなことがあれば、人足を役宅に一一時引取っ
て待期せしめるとか、人足釈放に際しては必ず立会い色々注意を与える等の仕事にも当ったのであるo註
( 悶 )
この差配人は人足の気持を理解しうる先輩である筈で、本来運用の妙をうれば最も効果の挙がるべきものであった。ま
た事笑上相当の実績をあげ得たでもあろうが、六、でふれた栄次と、一一百うような悪質のダ一一的存荘となっていたものもな
かった訳ではない。
幕府側、役所側としては、人足がなるべく速かに一般社会人として更生することにねらいがあったので、そうした条件
を具備した(と認定された)者に対しては積脳的な支援の手を惜しまなかったものの如くである。必要とあらば商売道具、勝手道具、畳、御四季施代などまで与えた。釈放人足になさしめた商売として注目すべきは天保十二年(m忠)以来最
も重要な作業となった油絞りの結果製出された油の小売である。天保十二年の暮から同十四年
註ハ以〉によると次のよ?な事情が判明する。即ち、寄場奉行から時の江戸町奉行に対し、釈放人足の中、江戸出身者を何 一 一 一月にかけての一連の文書
人でも江戸に店を持たせ、寄場で搾った泊をおろしてやり、小売商売をさせたいと存ずるが如何と交渉した口元来、寄
場人足は無職慨惰な者が多く、親類縁者も親身になって世話することが少ないから、釈放されて婆婆に出て自由になった
と思うのも束の間、またぞろ悪の道に逆戻りして、結局は凶回、五回と御厄介になるような仕儀であるo註
( 郎 〉
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道に落つい川
せる
ため
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っかりした商売と更には妻君を世話してやることが必要である。それが仮令小人数に対してなりと
も、実行されるならば残りの人足達に大きな羨望の念と、張合の気を懐かしめうる。寄場当局の狙いはここに荘った。
当時の江戸町奉行は次の表の如くであっ
た 。
一天保一一、三、二!l同一回、二、二四一
遠山
左衛
門尉
景元
一一天保一二、四、二八!
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同一二、一二、二一一矢部駿河守定謙一一天
保一
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弘化元、九、六一鳥居甲斐守忠耀
一一夫保ア四、二、二四||同一四、一
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、一一阿部遠江守正蔵
一
,i|||州劃剥銅劃、江戸幕府高
4 g f
-側
、 骨
’ 入 、♂
前にもふれたように、水野忠邦
の天保の改革に際し、矢部駿河
守は旧悪露顕で免職され、代っ
て鳥居甲斐守が任命せられた。
寄場から江戸町奉行に進達せら
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れたのは矢部駿河守有任中であったらしい。矢部鳥居間の事務引継が円滑にいかないこともあったらしくv
今度
は遠
山、
鳥居のどちらが主として寄場からの進達に対し取扱い方に任ずるかが明確でないと言うような問題となった。寄場の方で
も、従来からの行がかり上、遠山にも書類を持込んでいたらしいし、鳥居の方に持込んだ書類もあったらしい。結局、鳥
居がこの事に当ることになっていたので、彼の手で片がつけられたのは天保十四年三月のことであった。江一戸町奉行の側
では、その問、何をしていたかと言えば、逆に寄場側に対し、釈放後の措置の先例を尋ねていた訳であった。
しかるに寄場側でも何回もの火事で記録類の焼失せるもの多く、互つ相手の江戸町奉行が南北二つに別れて居ったため
a中々らちがあかない始末になっていたらしい。
江戸町奉行として結局の意見は、寄場側の考を容れたものであったD泊の小売を差許すことにしてもそれは極く少数に
過ぎないから、油の産額が減少した場合にも他の方面への売捌きに支障を来すことは万々あるまい。されば先ず、遠国出
生の者と、江戸出身者とを厳重に分け、前者は生国の大名に引渡すことにし、後者は改心のことが明かとなった暁には先
例もあること故油の小売を許して可なり、とのことであった。ここにも明らかに農地荒廃を恐るる人返し政策が顔を出し
てい
る。
一般的には、封建社会であってみれば、農民として定著させることが何より望ましいことであったのは言うまでもある
まい
Dされば寛政凶年(ι主)七月二十一日に村田鉄太郎が「寄場人足中百姓素性で身寄なき者に対し、川崎神奈川在の百
姓がこれらの身柄を引受けて百姓に仕立てたいと申込んで来たが、本人の意向を聞いて希望あらば呉れてやって差支えな
いか」を若年寄堀田正教に直々うかがいをたてた時、堀田は「即刻」「下ケ紙付返之」して異議なく承認したのであっ
たo註
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郷村の人足寄場なるものが石川島人足寄場とともに設置されたのは一にこの新田開発、荒廃田の再開墾(起返り)にその理由がひそんでいたのも封建社会の本質に由来するも
ので
あっ
た。
.前にものベた如く、釈放についてはその後の一応の見透しがつくことが条件であった口しかも、その見透しが常に見透
し通りにいかぬことは余りにも多かった。何度となく害場に逆戻りする人足の多かったことはこれを語るものに外なら
ぬ 。
九
。
九
寄場が教育刑主義に基づくところあるは言うまでもなく、その教誠の効が挙がったことも否定出来ないが、それよれ,も
教誠になじめず、寄場内部で博突をしたり、あるいは際あらば脱走を計る者の方が透かに多かったことも事実であった。
幕府当局としては、人足の善道への復帰を計る教化面と他の一面の、善良なる市民との隠離と言う点にも力を入れねばな
らなかったし、またむやみに脱走されると言うこともその威信にかかわる重大問題であったから、寄場における罰則では逃亡と場内の秩序維持とに関るものが主となっていたロ
寄場においては、ー新入りの人足があった場合には掛り役人がその者の前で寄場人足仕置井心得書の条目を読み聞かせる
慣わしであったo註ハ
m
)その条目は時々変更改訂せられた。現在その内容が伝えられているものは吹表の通り七つある。この外にも勿論部分的なものはあるが、寄場全体における処罰方針などについては、この七つの変り行きを見れば大休のと
ころは察せられよう。金体として一=
(表は最初の寛政二年二月の条目を基準に順序を配列してあるD随って寛政四年度のもの以降は条文の順は前後していることを予め断っておく。条文のとに附してある通しの数字は後の叙述に都合よいようにとの考慮によってなされたも
ので
ある
。)
しケ但候寄8 候所逃も場
J、以去の逃 マ上候死去 仕夜後罪盗 来盗、、致 之 致 五 し
Hosei University Repository
致 徒2 同し党 断候か
(もま 死のし罪 き
〉 儀 寄3
同場 断 逃 ハ去死候
〉の罪も
の井地寄9罪 通 死盗所場 罪い内逃 引
たニ去 廻 し隠可 之 候レ申 上 も居と 死 同10
段
上
寄場地所より赴去候もの死罪 罪h附寄場二差置候内心底改侯’ 上引取人有之候はば引渡遺q un o寄場逃去盗いたし候もの、死罪4
円 。
寄場一
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候
上可逃去と地所
内-
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レ居
候も
の 死 罪
n o F D
寄場使売より取逃致候もの金高雑物とも壱両以上は死罪金高雑物とも壱両以下は入墨軍側一旦入墨重敵
-一
相成
候後
、叉
候逃去候はY死罪、附寄場ニ差置候内心底改候上引取人有之候はY引渡遺
CU都党ケ間敷儀いたし候もので
其始
末-
一よ
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定書ニ準ジ御仕宿可申付侯
円ο寄場囲を破逃去
候 も の 死 罪
始 寄56 申ユ始し徒55 末 場 付 準 末 候 党
ニ 逃 候 ジ に も ケ 寄去 御寄の間 侯 仕細死敷 死も 置 定 罪 儀 罪の 可 書 致 越臣62
逃を 去破候り ノ、叉
遠 乗
寄69仕お右の敷於68 場 置 ゐ 之 儀 寄
を 可 て 始 い 場 述 申 ハ 末 た 徒 去 付 急 有 L 党 候 事 度 之 候 ケ も 御 に も 間
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3
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引人改置附の叉ニ但置如入見候場 渡 有 候 候 、 候 相 一 元 墨 合 処 内 遺 之 上 内 寄 逃 成 旦 寄 敵 盟 主 、 仕 候 、 、 場 去 候 入 場 之 去 人 業 は 引 心 二 死 候 後 墨 に 上 候 之 に Y最 底 差 罪 も 、 敵 差 、 も目出
島 立但 帰し 侯後
J、悔 童、致 敵 し 逃去構63 立但重二初去叉外 三帰し献度度侯ハえ 十 侯 後 目 は も 使 出 日 ハ 悔 は 重 の 先 罷 手f致 入 敵 よ 在 鎖 し 墨 り逃 或外も=且御取去ニ自れレ逃合寄65 ひ右64
J、えの入裏定之と准訴不居去叉場 立但候同 他罷無候手先類申し之逃、とは可 帰しハ断 出出断迄え例ハ合、御去後い壱迎 候後マ三 L、候寄罷出等、候尤定も難た人去 ノ、悔遠度 たも場在、見差、可井のをし立段重マ致島二 しの囲候夜合叉頭逃伺jハ 恐 隠 可 申 敵 し 及
仕お右の 置ゐ之 可て始 申は末 付急有 事度之御に
(文
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一り一等重く可 前之御仕置よ一 ー上一
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場 一
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後、叉候逃去 敵一一相成侯 但一旦入墨重 去候もの、重敵 寄場使先より逃 u
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円 。
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も の 死 罪 ハU部場逃長可申ーと地所内ニ隠レ居 候 も の 重 敵
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〉申手も不業立 付鎖〉相無帰 可陀其用精り 然り始も叉候
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も往付職5 不各不業 承等相不 超申用精 通付類奴致候、は 候て再申 ハ同20 但上 書段 な v L
申職48 付業 不無 相精用、
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経入付職58 申牢不業 付其用不 候始も精 而末の叉 もニ手者 不寄鎖申 第之付職66 手類不業 鎖も相無 叱其用精 等末もはり始の叉 ニ次の申
候於4 可 ひ 始 り 但 も 寄 申 軽 末 候 手 の 場 付重ニも合ハ同博 事ハしの二死断突 罪 た は 加 罪 致
〉が其は) し 同19 段上
も於47 候る候以但其差筒の寄 は た 共 下 五 外 別 原 場 Y博、之拾 発 打 博
、突都賭文 端子 突 重致而銭以重遠之之致 敵ニか二上敵島者無候 ハし於57 遠侯寄 島も場 重の博 敵死突罪L、
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四 Hosei University Repository
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文〉のの同も主(覚政十年二月74 文のVの同もとハ寛政十年二且37同,上
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J、 上段同82 段上悶81寄場開設後数年間は寄場創設の一大功労者たる長谷川川平蔵の考によってその御仕置の大体が定められ、慣例となっていたのが事実であった。寛政四年六月四日彼が寄場取扱いを免ぜられてから長谷川平蔵時代のものを変え改めていこうと↑る動きが出て来たようである。この勤きの中には長谷川平蔵の為人に対する反感が存するようにも見えるが、御仕置をめぐって江戸町奉行の側からもなるべく寄場から権限を回収せんとする傾向が明かに看取出来る、寛政広年(か日)十塁干七日附の江戸町奉行小田切土佐守直年、坂部能登守広吉から時の老中安藤対馬守信明に対しての伺書註(ロ〉には一、旦人足寄場
七
八
を逃去った後悪事を働いた者に対し召捕えたら処分権を江戸町奉行に与えて貰いたい旨が見える。伺書の文面で「人足寄場を逃去又ハ一旦寄場より身寄之もの等江引渡し-一相成候上者右之所欠落いたし候ハ、寄場定法
、之通重敵可申付もの-一御座候」とあるのは文意甚だ明確を欠くが、これは前段からすれば前表の口、弘、川刷、(お)、
M m 、
幻、ハ知的)、などが該当するであろう。しかるに「重敵」と言う処罰の点から見ると、日出、
MA
、幻だけになる。寛政四年か
ら七年迄の問に逃亡者に対する処分が緩和されたとも見えない。これは寛政九年、十年などの定めでも死罪であるところ
から見ても察せられる。ともかくも、寛政七年の伺書では加役方が逮捕吟味した上で罪状が明かになった者に対しては仕置を加えるのが当然であるから、それが済めば寄場では仕置せぬことになってしまう、それでは仕置の条文が存荘しながないでしまう妙なことが起るから、爾来この手の者共は江戸町奉行所一手に引受け、相当の仕置をするようにしたいとある。これに関しては寄場側の森山源五郎と江戸町奉行の聞に数次の交渉はあったらしいが、(時飢餓粉一
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勧伺
書)
老
中安藤対馬守は、「加役方に而召捕候節吟味之上向奉行江掛合、寄場御仕置附候分者、町奉行江引渡、共外ハ是迄之通加役方-一一冊御仕置可申付」しと指令している口仕置が二段に分かれるからとの江戸町奉行の意見は却けられた形である。次いで同九年間七月には小田切土佐守と村上肥後守議礼(坂部能登守の後任)の連署で寄場御仕置改正之儀についての
伺蓄が再度老中戸田来女正氏教の下に提出された o註
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その中で、「人足御仕置之儀者平蔵伺之上取極候帳面御座候-一
付右帳面通を以只今迄御仕置仕候得共不相当之儀も有之候間一勝御定書を元-一仕寄場御仕置組直し候方一一可有之哉と奉存
候」と言い、旧来の仕置書(即ち寛政四年十一月のもの)と、自分達の改正意見書(即ち寛政九年間七月のもの)とをそれぞれ相添えて出した。この改正意見はそのまま容れられた。改正の眼目がどこに夜ったかと言えば、一見直に分かるように、大体すべてに亙って寛刑にしたと言う点である。殊に盗みと逃亡の点については細かい区別をつけ、従来一括して「死罪」と扱われていたようなところを最高は死罪とするも順次情状により、一等宛を減じている。そうして臼「寄場より引渡候後之悪事ハ都而御定書之通御仕置可申付候」との規定は七年以来の考を反映したものに外ならなかった。このような罰則は無宿者逮を寄場に収容するに際して、これこれのことをすればこれこれの罰と言うことを一一読み聞
かせたものであったから、この時改正条文を読み聞かせたのでは、人足達へのひびきがうすくなり、寛刑になったのを幸いと脱走を計る者が多くなりはしないか。この点は何人も一応考えることろであるが、果然翌十年二万老中から、小田
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註(却)切、村上両江戸町奉行に対し、寸年の改正にては、かかる恐れは生ぜずやと尋ね来るところがあっ、たのである。言れに対し両奉行は、その儀は「寸ト適者今一候得共此度組直ニ而格別弛ミ候事エ者無之」と返答しなお続けて、元来御
仁恵の趣を以て取立こ£っ‘一寄場において、悪者は格別、中には無罪で唯一通りの無宿者というに留る者もあり、彼らがふとした出来心で使われど一一ら逃げ去ったとて、先規のように直に死罪に処したのでは、本来の趣旨に合しないから侠此
訪 れ 日 比 一 見 長 日 パ 行 詰 れ ば い は れ い 許
γ 日
開 註 拾 い い け は お 一 伝 説 日
二月度のものである。随ってその内容趣旨は前年のものと変りがない。ただ一々細かL 点を略し、「女末-一寄」り何々の
罰を加うと概括しているだけである。
以 一
Lの江戸町奉行の返答によって老中は納得し、そのままが行われることになった。更に寛政十三年三月に入るや時の老中戸田氏教から江戸町奉行小田切土佐守及び根芹肥前守鎮衛(村上肥後守の後任)
に対し、九年改正の人足仕置は入墨の有無によって罪の軽重を分かっているが、寄場に送られる輩は一体が十中七八入墨
の者である。主れば罰則を軽くせんとする趣旨に沿わぬではないか。今後は入墨の有無には関係なく、日逃亡に関れては囲
を破って逃げたものと、寄場構外へ出しておいてそこから逃げたのとの二種類に分かつことにしてはま何と一一一一ロう諮問があ
たO
註(
印)
老中
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主義
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あ
ったと思われる。小田切奉行らも前にも見たように寛刑主義者たるにおいては異
るものではなかったのでこれに賛意を表した。而して、他にはこのような寛刑主義では、無頼漢などの逃亡は益々増加す
るとの非難があったであろう。そこで小田切、根岸は自ら答申集中に右のような説もあるがとこの説を掲げた後に之を駁
しているのであるDすなわち寄場取立の当初においてはかかる逃亡者、規則違反者の取締り、刑罰の執行は長谷川平蔵の
手でなされていた故に厳重な罰則を設けなければならなかったものであるが‘当節では仕置は町奉行の手によって執行さ
れる故何も威丈高になる必要はない o
そ れ 故 御 老 中 の 御 趣 意 を 休 し て 向 後 白 紙
( 鞍 併 殺 さ の よ う な 所 に 目 や す を 置 き 御 室 な ら び に 誌 を 脱 み あ わ せ て 刑 罰 を す つ も り で あ
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入れる際読み聞かせる御仕置
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説話立
谷川平蔵取りきめ当時の墜国一一なものをそのまま読みあげて威嚇しておな Jば何の差支えもない話であるなおこの際、江戸町奉行の腹案となっていた寄場人足仕置奮は寄場よりの逃亡俳桐及び手芽無精者に関するものに限定さ
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れていることに注意したい。この後は、文化二年(小引)市よび交政三年(一一小)にそれぞれ改正があった。徳川禁令考に註記するところによれば、文
化二年度のものは、享和二一行(小引)一一一月、時の寄場奉行桜井隼三郎より改革意見が上申されたのがこの年に及んで允裁あ
ったものであるという
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」この御仕置蓄は寛政十年度のものに倣ったものであることは「申渡し」なる謂わば前文が、
n
全く同じであることの外、各々の条文の立て方が同一である点からも明白である。しかも、寛政十年度においてはまだ刑
罰を明示していたのに対し、文化二年度のものになると、すべて「右之始末有之においてハ急度御仕置可申付事」とぼか
した抽象的表現が用いられるようになっている口これも、当局の手加減の余地を多少なりとも容れたものと見ることが出
来
、 一 層 寛 刑 主 義 に な っ た こ と を 示 す も の で あ ろ う
。
‘
,
文政三年度の改正は、この年に江戸払以上の者も寄場に収容することになった(明ドゆ照)ことに関聯しているc註
ハ別
)追
放刑者も収容するに至った結果、その種の人足に対する申渡し前文が文化二年度のものと変ったのである。御仕置そのも
のについては何ら変更、改正の点はなかった。随って御仕置条目の改正という点から見れば、長谷川平蔵が役儀を退いて
後の十年間余りが、彼の独断専行的な取扱い方法から脱却しようとする運動の盛んであった期間とすることが出来よう。
この期間の経過した後は大きな改正変更はなかったものらしく、御仕置書の残ったものも見当らないようである。「急度御
仕置可申付事」というような表現が改正を不要とした事情もあろう。この後の改正に関する史料は部分的な改正であった
ことを語るものが残されている。
天保
十四
年(
m志)になると、人足に対し水玉はつぴを著用せしめおくだけでは逃亡後、脱ぎ棄てられると目印がなくな
hら、男は片眉剃落し、女は切禿にせよとの意見と、そんなにまでする必要は認められない。ごく重い罪を犯したような者たけ、そのようにすれば足りるとのこ説が現れて来た
)前説は御目付役、榊原主計頭忠之宗一段以一一一均
o h l
)の
首唱
、後
一説
は江
戸町
奉行
阿部
遠江
守正
蔵(
奴鰍
一四
一一
一
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ト寸!)の主張するところであり、同年九周二十六日老中水野越前守忠邦(立関心港開九
J
から評定所にこか議如何との諮問があったものである。結局十二月二十七日に三奉行は後説を支持する旨を老中へ答申した。この答申中において片眉剃落などのことは長谷川平蔵掛りの時一旦伺済の准例もあるにはあ
るが、寄場取立の御仁恵の御趣意には相応しくないと言っている。
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寛政四年十一月の御仕置条毘には、「片髪剃落年限之定有之もの遺方之儀者、年限中ハ、平日片髪剃蓄置、赦免之日数五ヶ
月以前より髪為立可申候」(前表
m m
)と見えるから、この頃は行われていたに違いない。しかし、その後の御仕置条目には見えておらない。あるいは、しばらく笑施せられた後に自然に廃れるに至ったのではなかったろラか。また水玉はっぴの
起源については寄場奉行に間合わせたところ、これは長谷川平蔵の時伺済と申し伝えていると言うだけである。交政年中
、と
れは
文政
十三
年の
とと
J戸と思われる。註ハお〉参照)寄場類焼の節書類焼失したので明確なことは判明せぬとのことでもある。長谷川平蔵が水玉はっびを著用せしめたのもそのねらいは召捕の際の目当にすると言うのではなく、平人と立交らないようにする点にあった
のであろう。きれば今、片眉剃港、切禿など「異勝之厳法」を立てるのは好ましい筋とも思われない。目印の点は従前通
りとし、ただ従来逃亡者に対する御仕置は江戸町奉行所は、その申、渡しを他の人足どもに周知せしめる方法をとった場合
もあるが、他の奉行所が関係した揚合は他の人足にこの御仕置を知らしめないが故に人足どもの中にはこれを等閑視する
ものも現れ来るのである。よって今後は目印を云々するよりも、逃亡人足を捕えたならば、これこれの科に申しつけたとのことを外の人足どもにしらせることが肝要である。云々とのべられている。
ここにも時代の降下とともに寛大な取扱いを第一とするに至ったあとが明瞭に看取出来る。
十
寄場の経費についての史料は割合に少ししか残されておらない。
寄場創設直後の寛政二年二月の御勘定奉行への閣老よりの通達によると
米五百俵
金五百両右は此度取建被仰付候加役方人足寄場当成年御入用、長谷川平蔵断次第可被相渡候、来亥年よりハ一ヶ年米三百俵金
一二百両之積を以相波、尤仕払之儀、年々申聞候筈-一候問、可被得共意候、御金出方之儀は、先達て被申聞候通可被心得
候設(別)
とあ
る。
これが寄場発足に際しての予算であったD
しか
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寛政
十二
年(
〜
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月附
の、
寛政四年六月から同十二年三月
一
四・・一
、,
. .
.
'迄の七年九箇居間の御入用米請取高書付設(即)なるものを見ると、寛政四年六月から同十一年十一月二十日まで請取った
高は
一
O
八五石でその内二八石六斗一升二合一勺六才は十一年十一月二十一日へ送りとなっているので、その聞の笑際請取高
は一
O
五六石三斗八升七合八勺四才である。しかもそのうち五石六斗四升三合六勺六才は鼠害を蒙った分である。三斗五升俵につき一合八勺七才の損害である口実際請取高から算出してみると、その間一箇年平均一五一石五斗一升三合七
勺九才余となる。三斗五升俵とせば四三三俵弱となる。発足当初の見積りからすれば大分超過していることになる。しか
し、同じ書類の続きに「寄場御入用米之儀・去未年申上候通壱ヶ年ていたが、寄場役所が二度火災に遭った上、去る巴年
米七百俵宛請取渡方仕候処近年人足高追々相増七百俵-一一間は年々引足不申」とあり、従来は寄場御定金の中で米を買入れ(一線)以来、米、割麦をはじめ諸物価が騰貴し、手詰り模様となり、未年(立)に臨時支出を要請したが、黙殺せられた
ので、やむを得ず十二年度分の請取米中より二百俵前渡し方を願い、許可を得て急場をしのいだ。その影響もあり、その
上本年は入所人足数も二百名を突破し、入用米も残り少なとなり、年内に米三百俵余は必要であるがら、何とぞ来、酉年
の分から三百俵前渡し願いたしとある。さらに弘化元年(ト臥)の桜井庄兵衛、行方源兵衛連暑の「寄場人足共之儀ニ付取計方奉伺候書付」註
(瑚
)に
院前右取賄方之償ハ一体客場御入用等米七百俵御定金五百両之内交化文政之度御倹約被仰出候問金弐百両御減-一相成残
金三百両之外別御入用金米弐百五拾俵、金五拾両
E
寄場地所内町人共物置場等-一貸置候地代金井絞油売捌代浮金を以足C
後 屯 賄 罷 在 候 処 略
、
と見
える
。
L
mむ)の書類で江戸町奉行の挙げた数字によれば、寛政五年(主)度るに後述する如く、弘化四年(
M
一は
米六
OO
俵
金四
OO
両とある。これから考えあわせてみると、米七百俵、金五百両と定められたのは、早くとも寛政六年以降のこととしなくて
はならない。とにかく、この線かちすれば寛政四年六月から同十一年十一月までで計算した年平均四コ
二 二
俵弱の数字は十分予算額内におさまるものであった筈である。しかるに上述のように大休寛政九年以後の一二、四年間は七百俵の予算
が十
一年度には九百俵にものぼり、十二年度も八百俵なくては過せぬという状態となっているのであるから、寛政六、七、八
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年当時は寄場の経済は余裕あるものであ
ったろうと察せられる。勿論、寄場の経済状態は物価の動きによって直接影響を蒙るところも多少あったではあろうけれども、殆んど入所する人足の数によって左右せられるものであった。従コて
年六相当の凸凹があJたらしい。台てかなり年次はくだるが天保十三年(トユ)十二局七日、新たに浅草の溜に設けらぷた非人寄場の経費削減が弘哨四年(ト以)に計一間せられた。その際、江戸肌奉行鍋島内匠頭豆ヰ(一諒一育、二もい八一
Q
! )
遠山左衛門尉景元(一説明一一、一一戸!)が恥調べを命ぜられ、非人寄場経費と人足寄場経費を対照、参考として答申した書類が
ある
。註
五年(主)度、文化十四年(一机)度、弘化二年()その中で、人足寄場の寛政(
m
mr
m)
度の
三ヶ年の分の経費の数字
が明かにされている。
O
寛政五年:::人足平均人数二ニ二、凶七人余収
米 入
二一
O
石つニ斗五升入六OO
俵 )
金五三七両一分、銀三匁六分一一盟七毛内金四
OO
両・
::
・御
金蔵
より
受取
金一三七両一分、銀三匁六分一厘七毛・::・地所井附屋敷共外地代
支
米一九一石一斗三升四合一月九才 出
内
米三
O
石二斗八升五合:・:・元〆役、下役、町医等御扶持米米一六
O
石八斗四升九合一勺九才:::人足扶持米割麦一一四石一升九合ハこの代九六両、平均一両に一石一斗八升一合二勺九才)
金五二八両、銀五匁九厘四毛
内
, ー・
一
守ー一
ー・一
金三三六両二分、銀七匁七分一一埋九毛:::人足用、一日一人平均銀四分三厘余
金一九.一両一分二朱、銀四匁八分七厘五毛:::役所諸色御入用、下役雑用銀
繰
金九両、銀一三匁五分二恒三毛 米一八石八斗六升五合八勺一才 越
O
文化一四年:::人足平均人数二ニ二人余収
内 米二七五石八升三勺 入
米三
O
石九斗
八升
三勺
:・
・:
前年
より
繰越
分
米二四五石(三斗五升入七
OO
俵 )
金一二四四両三分、銀一三匁一分五医内金二八
O
両二
分、
銀一
一匁
三分
一一
盟一
毛・
::
・前
年よ
り繰
越分
金三
OO
両:
・・
:御
金蔵
より
受取
金六六四両一分、銀ごニ匁一分五厘:・:地所内地代金、螺殻灰冥加金等
支
米四三石八斗一升・:・:元〆役、下役、町医等御扶持米 内 米二五六石二斗二升六合六勺 出 ご匹
Hosei University Repository
米二一二石四斗一升六合六内:::人足扶持米
金七四一両、銀一四匁二分七厘
金 ム 内
一
OO
両:
・:
・瞬
殻灰
冥加
金御
金蔵
へ納
入分
金三一一両一分、銀七匁四分七厘:::役所諸色御入用、下役雑用銀
金三二九両三分、銀六匁八分:::人足用、一日一人平均銀四分二度三毛余
繰
米一九石七斗五升三合七勺 越
金五
O
三両二分、銀一三匁八分八鹿O
弘化二年:;:人足平均人数五O
八、一八人余収
米七七一石二斗二升八合二勺六才 入
内
米三五石一斗五升三合七勺四才:::前年よりの繰越
米四八
O
石八升四合(一三斗五升入二ニ七一俵二斗三升四合)米二五五石九斗九升五勺二才ハ三斗五升入七三一俵一斗四升五勺二
才)
::
:買
入米
金二一八七両二分、銀二分五厘六毛
内金六一両三分二朱、銀七匁二
厘六
毛・
:・
:前
年よ
り繰
越分
金六四二両一分二朱、銀四匁六分:::御金蔵より受取
金一四八三両、銀三匁六分三厘:・・:地所地代井絞油売捌代
出
支
二五