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(1)

滋賀県・島小学校の郷土教育実践の検討を通じて

佐 藤

     はじめに一課題の設定

 前稿では、尾高豊作と小田内通敏を中心に活動を展開 した郷土教育連盟(以下、連盟と省略)が提起した郷土 教育論を「上からの郷土教育」論と対比する形で検討し た。(Dそれをいま一度概括すれば次のように言える。

 1930年代初頭、「画一教育の打破、地方の実状に応じ た教育の実現」が官民あげて叫ぼれていた事情を背景に 郷土教育は一種の流行ともなっていった。しかしその多 くは、文部省一師範学校という上意下達の系統にもとつ いて推進されたものであり、内容的には郷土愛の酒養を 通じて愛国心の養成をめざす、国民統合の有効な手段た

りうることが要請されていたものであった。こうした状 況にあって、郷土をより客観的に把握するとともに、教 育を通じて郷土の改善に貢献することを提起していたの が郷土教育連盟であった。連盟は郷土を「国民精神の酒 養の場」とみなす主観的で観念的な郷土観とは一線を画 して、郷土を客観的・動態的に把握する方法として郷土 科学を提唱した。郷土科学は、「地域を基礎とする自然 ならびに社会とその地方人との交渉連関」(2)を実態調査 を通じて明らかにすることをその主な内容としていた。

とくに地域の生産活動に焦点を当てて、その改善に役立 てることを目的のひとつとしたことは、大きな特徴のひ とつであった。連盟は、このような内容を含む郷土教育 を「教育を学校外の現実社会にまで引きおろし、今一度 根本的土台と形態とを築き直そうとする文化的革新運 動」(3)と定義し、学科課程の見直しをはじめとする「教 育の全面的改革」(4)をめざしていた。

 しかし、連盟それ自体の活動期間が実質的には約5年 と短いこともあって、当時の状況のなかで彼らの理論と 実践がどのように位置づけられていたのかは、充分には 解明されていない。

 本稿の第一の課題はこの点を明らかにすることにある。

従来、連盟の主張した教育内容・方法に注目して、それ らを「社会科の遺産」として捉える研究や、官製的な郷 土教育に対抗した運動のひとつとして、その民主主義的 な要素を評価する研究は存在していた。(5)しかし本研 究での主たる関心は、恐慌とそれに続く戦時体制とそれ

らに対抗する運動という図式で問題を捉えるのではなく、

この期の学校と地域がどのような関係にあり、これに対 する連盟の主張がいかなる有効性をもち得たか否かとい

うことにある。そこで第一章では、連盟の理論活動が当 時の諸郷土教育理論のどこに位置ついていたのかを、文 部省当局およびその対極にあったマルクス主義教育学か らの評価を手がかりにしながら浮きぼりにする。つづく 第二章では、連盟の理論が実践に移されるうえでいかな る制約を受け、客観的にどのような役割を担うことに なったのかを滋賀県島小学校の場合にそくして検討する。

第一章 郷土教育連盟の活動と「郷土教  育」運動のなかでの位置

(1) 「上からの郷土教育」との関係

 連盟は、教育という営みがすぐれて社会的なものであ るということをまず第一に強調していた。とりわけ、中 心的指導者である尾高の発言にはそのことが顕著にあら われている。尾高は、教育の社会史的検討をつうじて、

教育イコール学校という観念自体は明治の「学制」以降 に形成されたものであり、比較的新しいものにすぎない と述べた。ところが問題は、いつのまにかこの観念がひ とり歩きして「学校は社会と隔離し、社会は無心にして 可憐なる児童青年の大群を学校という別世界に委託し」

⑥てしまったことにある、と彼は指摘した。彼によれ ば、「現代社会の児童達は、学校に入るや否や生活自身 から離れて、すべての事物を間接的に謂わばセコンドハ ンド的に知覚し習練する」(7)が、ここで習得される知識 は「実際の社会生活から遊離」してしまった、という。

そして、学校で使用される教科書・教材は「現代教育に とってもっとも切実にして且つ第一次的なる教便物なる がごとくかんがえられている」が、「人為的に『教育的』

と云ふレッテルを張られて居るに過ぎない」というので ある。したがって学校が真に社会的に有用なものとなる ためには、「児童青年の教育場所たる学校ならびに家庭が 既に内在する社会的環境そのものに注意しなければなら ない。即ち農村に於いて、又都市に於いて、そうした色々 の地域における社会的環境と学校および家庭との相互関

(2)

係を深く吟味しなければならない」⑧というのである。

こうして彼らは、地域とそこで営まれている人々の生活 に着目していくわけだが、現状をそのまま肯定しようと したわけではなかった。むしろ、学校が地域社会におけ る「科学」の集中点であるべきこと、そしてこのことを根 拠として地域社会の改造の拠点となるべきことを主張し ていた。次のふたつの引用は、このことを象徴している。

  「人間は自分の作った政治、教育その他の文物制度  によって、自らの生活環境を無自覚の間に刻々と変化  させられているのです。自然を征服し、自然に順応す  るばかりが科学の仕事ではなく、反対に、人間自らが  自分で作った社会関係をもそれと同じように意識的に  計画したり改造したり変化させたりすることを心掛け  ずには居られません」(9)

  「学校教育を以て社会の伝統を次代に伝えたり単な  る既成の知識を学習する機関と見て居た時代から更に  一歩進んで、新たなる社会に順応する機能の発揮を意  味し、一面にはそれを導き出す学術の研究所又は同志  の根拠地としての意義を高めると同時に他面ではこの  切実なる要求から広く教育的結社が生まれでて、新た  なるr学校』として万人に首肯されるに至ってはじめ  て学校の社会的任務がもっと澄刺として発揮せられ

 る」(10)

 これに対して、文部省は1927年の「郷土教育に関する 件」という照会を発したことをはじめとして、「我力郷 土ヲ教授スル際愛郷心愛国ノ事二説キ及フベシ」という 姿勢を一貫して強調していた。

 当時、文部省の社会教育官であった金井浩は、その著 書『綜合郷土教育原論』のなかで郷土教育の現状を次の

ように述べている。

  「ここに絶叫されるに至った郷土教育は人間愛、民  族愛、郷土愛、国家愛というが如き国家主義的立場に  おけるもののみではなかった。即ち欧州大戦後怒濤の  如く我が思想界に押し寄せ来れる唯物論的思想による  ものもあった。当時この方面の思想研究およびその鼓  吹普及に力を注ぎたる一派の人々の間には従来の国民  教育を排して社会科学的傾向を郷土教育のうえに加味  し主義の育成拡大に資せんとする運動も台頭して来た。

 したがって今日の郷土教育はその主流である国家主義  的・民族主義的傾向のものと、萌芽的ではあるが総合  社会科学的基礎に立つものとが存在することとなるで  あろう。然し総合社会科学的基礎に立つ郷土教育は我  国においては主義宣伝のための一時的権宜とみるべき

 である」(12)

 引用が長くなったが、ここでは明らかに郷土教育をふ

たつの類型に分けるとともに、それらを対立するものと して捉えているのがわかる。しかも、国家主義的立場に 立つ郷土教育を本来的なものとする一方、総合社会科学 的基礎に立つそれを「主義宣伝のため」のものとみなし ている。ここで金井がいう「主義」とはマルクス主義に ほかならないが、それではこの金井の観点からすると、

連盟の郷土教育論はどう位置づけられるのであろうか。

 連盟のもう一方の指導者である小田内は、西欧の社会 学者ル・プレー、ゲッデスらのリージョナル・サーヴェ イ・ムーブメント(地域調査運動)を、郷土を客観的、

科学的に分析する方法として高く評価した。また連盟自 体も「郷土教育は実に自然科学と社会科学との二大分野 にまたがり、しかも生産活動を中心として、この両者を 揮一せんとするところに、大きな指標があることを知る べきである」と述べ、郷土の社会生活を科学的に分析す ることをその目的としていた。したがって、文部省に とって連盟の主張は内容的にみれば、「総合社会科学的 基礎に立つ」郷土教育論であり、文部省のすすめようと した郷土教育とは一線を画しかつ敵対するものであった といえよう。

 しかし、実際には文部省と連盟の関係は必ずしも敵対 的ではなかった。これには、小田内が文部省嘱託であっ たこともあり、連盟が文部省・師範学校関係者にも、機 関誌で発言の場を保障するなど、正面からの対決姿勢を とらなかったことが大きくかかわっている。この点の詳 しい検討に立ち入る余裕はないが、小田内が嘱託として 行なった調査のなかでも、郷土研究・調査を「教師・父 兄も共同作業として」「何処までも農村社会機構として の調査に重点をおく」ことの重要性が強調されるなど、

(13) フ制内部へ彼らの主張を浸透させる「戦術」(14)を とろうとしていたのである。

(2)マルクス主義陣営の郷土教育論

 ところで、金井によって「唯物論」的とみなされ、マ ルクス主義教育学と同列視された連盟の理論であったが、

これについて当のマルクス主義陣営はどうみていたので あろうか。

 マルクス主義陣営から郷土教育について論及していた のは浅野研真をはじめとする新興教育研究所(新教)の 人々であった。しかしその対応は必ずしも一様ではなく、

連盟の郷土教育論を、日本資本主義の矛盾を隠す反動的 なものとみなすものや、進歩主義的側面に注目して積極 的に利用することを主張したグループが存在していた。

 連盟の郷土教育論を「上からの郷土教育」と同列視し て反動的なものとみなして、連盟批判を精力的に展開し

(3)

たうちのひとりが浅野であった。彼は、連盟のいう「郷 土科学」の科学性に疑問をさしはさみ、その言葉自体を 問題にして次のように述べる。

  「その用語の内包する意味合い、即ちその語義にさ  え不満を感ずるものである。そのメタフィジークな面  構えが気に喰わないのである。(中略)そこにこそ、支  配階級のトリヅクが潜みうるからである。『郷土』教  育なるが故にこそ、その酸郁たる香りの故こそ、それ  はブルジョア的反動教育の重要なテーマとなり得るの

 である。」(15)

 郷土教育で強調される郷土主義は支配階級の政策的破 綻を自己弁護するために用いられており、教育を大衆の

ものとして建設するモメントはないのだというのが彼の 主張であった。彼は、「そうした『郷土』なる冠を載く以 上、それは決して、所詮、科学たり得な」(16)いばかり か、「郷土意識と階級意識のすりかえを企図する」(IT)も のとして連盟の理論を批判したのである。

 しかし同じ「新教」内部にあっても教育実践の「現 場」に近い立場にあった人々は、浅野とはやや異なる態 度をとっていた。学齢児童研究会の名前で発表された論 文「郷土教育はどこへいく」(r新興教育』、1931年12月 号、所収)のなかで表明された態度は「郷土教育の中に は吾々がプロレタリヤ貧農児童を正しく教育するために 利用すべきものはないか、そして如何にこれを利用すべ

きか」(11頁)というものであった。(1B)彼らが郷土教育 を「思想善導、教化総動員、××主義戦争のあと押しを する」(12頁)ものとみなしている点は浅野と同じで あったが、連盟の主張をそのような郷土教育一般と区別 して扱っている点は注意しなければならない。

 彼ら新教グループの発言はほぼ以下のように整理でき

よう。

 第一に、「上からの郷土教育」の反動性を指摘する際 に述べたことがらは連盟の主張と共鳴しあう部分がきわ めて多いことである。彼らはまず、今日の郷土教育の多 くは「従来の教育を如何に徹底せしあるか、そのために は従来の方法をどうかえていくかという立場からなされ たもの」(17頁)となっている点を批判した。更にその教 育内容が実際生活とかけ離れたものとなっており、「教 える知識がただ学校や教室の中だけの知識となって実際 吾々の生活に適用した(役に立つ)知識や習慣とならな い」(17頁)ものとなっている点を批判した。そして、こ れは結局「郷土教育も従来の教育と同じく、児童が読む とか、書くとか、教えるとかいう個々の対象を読み方、

算術、書方という風に学科目に分けて、児童の労働を中 心とした人間生活の一大総合として認識しない」(17頁)

という「根本的な欠点」から来るものであるとしていた。

 第二に、このような郷土教育を克服していく手だてと して、彼らがあげた地域の実態調査の方法は、まさに連盟 の理論を積極的に「利用」するものであった。彼らは「ひと つの意見」(20頁)と断りながら、たとえば「稲の収穫」に ついて収量がどれぐらい悪かったかを「村なら村、字なら 字、そして自分の家を具体的に調査、研究」(20頁)させ、

その原因について考えさせようとしたのである。

 しかし第三に、彼らの主張が連盟のそれと大きく異 なっていたのは調査の目的についてであった。彼らは調 査の観点について次のように述べている。

 「(各村、各戸の収量について)『成績のよくなかった  原因』についても児童各自に種々の方法を研究させ、

 それぞれ調査発表させて『成績のよくなかったのは単  なる天災ではなく、土地が長年の肥料不足から極度に

 (tV 

 疲せているからだ』という事を理解させ、更に『肥料  の不足の原因』を児童自身の日常経験を通して発表さ  せ、農村の階級関係(搾取関係)認識させるべきであ  ろう。又小作争議等が起こったら、この争議の起こっ  た原因とか闘争の有様を調査報告させて、以上のこと  を徹底させる」(20頁)。

 このように新教グループは調査の目的を主に地域社会 の階級関係を子ども達に認識させるところにあるとした のである。

 たしかに連盟も郷土の実態調査に基づいて、現実には 階級社会であることを認識させることをも意図したし

(19) Aそのような実践も存在した。しかしそこから直接

「新しい郷土社会」「新興生産体としての郷土」建設へ向 けて、生産機構や経営形態の改善とかかわらせて、生産 教育の実践に足を踏みだしていったのである。ところが、

新教グループは、実態調査をあくまでも階級関係認識の 手段とみなしたのである。新教グループも生産と教育の 結合を重視して、それこそを「プロレタリヤ的郷土教育 の方法」としていたが、未だ現実の課題ではないとして いた点で連盟とは決定的な違いを見せていた。

 以上、連盟の主張に対するマルクス主義陣営の対応を 検討してきたが、新教グループのそれとは、調査目的に ついて決定的な違いがあるものの、「上からの郷土教育」

批判の方法、実践の手続きには相通じるものが多いこと を確認できる。この点連盟の「社会改良主義」的性格が、

新教グループに批判されたことは当然としても、少なく とも具体的な教育方法のレベルでは、連盟の主張が受け 入れられる契機を多分に含んでいたといえる。又、金井 が連盟の主張をして「唯物論」的と述べた先の発言も、

この意味では理解できる。

(4)

 このように、理論的にはマルクス主義陣営にまで受け 入れられる可能性を持ちながら、この時期に連盟の主張 が全国的に広がらなかった要因のひとつにその組織的な 脆弱さがあげられる。連盟の活動はその機関誌の編集・

発行のほかは、尾高と小田内の「全国行脚」による講習 会・研究会に頼らざるをえないものであった。それでも 近畿地方を中心とする西日本にはいくつかの支部が結成

されるなどして、「上からの郷土教育」とは異質な流れ をくむ実践がたしかにこの時期存在していたことは軽視 できない。

 しかし、「上からの郷土教育」が文部省一師範学校(付 属小)一公立学校という系統で、ある場合には命令を伴 いながら強力に展開されたことに比べれば、組織的基盤 をもたない連盟の主張が一つの学校なり、地域をあげて 組織的・全面的に追求された実践例は限定されていたと いわざるをえない。峰地光重の指導した鳥取県の上灘小 学校や次に検討する島小学校などは、連盟の主張をかな りの程度取り入れることのできた数少ない例であるとい

えよう。(2°)

第二章 島小学校における郷土教育実践  の「変質」過程

 島小学校がある滋賀県蒲生郡島村は、琵琶湖に突き出 た小半島(奥島)と湖内の沖ノ島とからなる、戸数550 戸、人口2700人の農村であった。昭和初頭の島小学校の 規模は学級数において尋常科6、高等科1、生徒数では、

尋常科280人、高等科40人であり、生徒の家庭の大部分 が農業に従事し、卒業生の多くは家業を継ぐとという状 況であった。

 この島小学校が、郷土教育の実践に本格的に取り組む のは、村役場のある村の中心に校舎を移転させた1928年 10月からである。これ以後10年以上にわたって、同校は 郷土教育実践を続け、その模様は映画やラジオ、多数の 著作物(21)などを通じて全国的に有名となっていった。

 いま、島小の実践を連盟との関係に注目して時期区分 すれば、連盟の主張の先進的実践校として、機関誌上で 紹介された全国的に有名となった、前期・1932(昭和 7)年までと、連盟との関係が疎遠となる一方、同校の 実践が次第に文部省に注目されるところとなっていく後 期・1933(昭和8)年以降に大きく分けることができよ

う。

 本章では、同校の郷土教育実践が、この二つの時期に どのような違いがあったのか、そしてその違いは何に よってもたらされたのかを検討する。

(1)前期の郷土教育実践一「村の改造センター」

 としての学校

 前述したように、島小学校が、郷土教育実践に本格的 に取り組むようになるのは、1928(昭和3)年暮れから、

1929(昭和4)年にかけてのことである。当時の校長・

神田次郎は、実践をはじめるにあたって教師達に次のよ うに語っている。

  「自分はいままで、画一教育に飽き飽きしていた。い  ま村人各位の教育熱愛の精神によって、村に不釣り合  いな立派な学校を建設されたのを機会として、都市模  倣の教育を潔く清算して、村に即したる教育建設のた  めに苦難にまみれ、十力年少なくとも五力年は栄転転職  を問題とせずにじっとここで働いてもらいたい」(22)。

 ここでいう「村に即したる教育」がどのようなもので あったかについては、同年に彼らが行なった「村の調 査」をまとめたr都市農村実態調査の理論と実際』(1932 年発行)の『序』に示されている。彼らは、この調査の 第一の目的として「何を教うべきかについての直接資料 の調査」ではなく、「村人の生活を知り、児童の郷土生活 を知り、現代および将来にわたって、学校経営をいかに すべきかの解決を与える基礎づくり」であるとしている。

すなわち、彼らの実践の出発点は、当時の郷土教育の主 流であった心情主義や郷土の教材化以前の問題として、

学校教育の在り方を地域社会の一機能として再構成して いこうというものであった。こうした姿勢は結果的に、

文部省一師範学校を中心に展開されたいわゆる「上から の郷土教育」を批判する立場に自らを導くものであった。

 彼らの「上からの郷土教育」批判の形式は微温的なも のであったが、「上からの郷土教育」がもつイデオロ ギーの本質を的確につくものであった。

 その第一は、大正自由教育の成果である子どもへの着 目を徹底することを通じて、子どもの実生活をもその視 野に入れることを主張したことである。これは、「上か

らの郷土教育」が子どもの学習に際して「生徒ノ親熟シ タル日常生活ノ事項」を取り扱うことをめざしつつ、そ の実せいぜい「教員室や教室のなかで教科を通じての材 料を郷土から拾う」(23)域を出なかったことに対して発 想の転換を迫るものといえよう。同校のスポークスマン 的存在であった栗下喜久治は、次のように述べている。

  「教育の対象はいうまでもなく児童そのものである。

 教育の研究もまた児童を通じての児童を対象としての  研究であり、そこにおいてゆくりなくも郷土教育の必  要が生まれるのである。郷土が児童の生活に緊密に抱  かれるべき教育がはじまる。」(24)

(5)

 彼らはこうした発想こそ、「画一教育の打破」や「教育 の地方化」という主張を正当化するものであるとしてい

た。

 第二に、彼らは、「上からの郷土教育」が「お国自慢」

・「愛郷心養成」に血道をあげていることに対して、そ れこそ「郷土教育の画一性である」(25)と批判した。そ のうえで「郷土を凝視せよ、尋常の世界を見つめよ。そ こには幾多の資料がころがっているではないか。感情的 な認識も必要であろう。だけれども科学的な認識も必要 あろう。」(26)と述べ、生活の事実を科学的にみることが 郷土教育本来の在り方だとした。

 実践にあたってのこのような姿勢は、連盟の主張と一 致するものであり、連盟が自らの主張を具体化したもの

とみなして、紹介に努めたのも当然であった。

 連盟が結成された1930(昭和5)年からは、連盟の尾 高を招いて研究会を開くなど、連盟と連絡をとりながら、

郷土の実態調査をはじめとする活動に取り組んでいる。

この実態調査を詳細に検討する余裕はないが、その主要 な特徴を整理してみよう。

 彼らは、まず「生きた複雑なる郷土社会の機能を知ら ねばならない」(27)として、1929(昭和4)年末から193 0(昭和5)年にかけて、かなり大規模で網羅的な地域の 実態調査を行なっている。その調査項目は主なものだけ でも129にものぼっている。項目の中には「郷土の財政 問題」、「郷土民離村および帰農傾向」や「郷土の小作問 題」など当時の農村社会の抱える問題が反映しているも のも少なくない。このほか「郷土の土壌」、「農業経営状 態」、「産業発展の方向」など、農業を中心とした産業計 画策定の基礎となるべき調査も実施されている。

 また調査の主体や方法にも特別な注意が払われている。

「上からの郷土教育」においても郷土調査を実施する ケースはあるが、その多くは直観・体験教育の一環とし て、教師の指導のもとで、学校のまわりの特色ある施設 や遺物の見学などに限定された、いわばフィールド・

ワークの域を出ないものがほとんどであった。ところが 島小の調査目的は、前述したように、子どもに郷土を科 学的に認識させるとともに、学校の存在基盤そのものの 再検討をつうじて「村の必要を満たすための教育」(28)

計画を策定することにあった。したがって、その調査も 教師と子どもだけでなく、住民の協力なしには実行でき ないものであった。彼らは「調査の主体が郷土の人々に あることは当然として、その整理に関しても人々は素人 であるというが故に手をこまねいていてはならぬ。学者 の意見を徴しつつ、自らも整理と結論に努めなければな らぬ」(29)と述べ、調査が学校にとっても住民にとって

も実質的な意味をもつための組織原則を確認している。

 こうしたことは、当然ながら彼らの学校観にも反映さ れている。彼らは「今までの学校教育はあまりに学校そ のものにとじこもってはいなかったか」(3°)という認識 をもとに、「学校が郷土における中心となり、しかも学 校と郷土が有機的な相関関係になることを必要」(31)と するとしていた。

 その具体化として、同校は郷土教育の柱に生産活動を 位置づけ、学校内に農業実習地をひらき、品種改良や農 作業合理化の実験にとりくんだ。こうした実験の成果を、

子どもを通じて地域に広めようといたのである。また、

「民衆生産講座」の開催や「生産月報」の発行などで経 営形態の改善、ふるい習慣の打破などについての啓蒙普 及に努めた。彼らはこうしたことを通じて、学校が児童 の教育機関にとどまらず、地域の生産改造の中心機関と なることをめざしていた。連盟はこうした状況を「学校 が、村の農事試験所ともなり村の研究所・図書館ともな り、村の人たちが真剣味を帯びて学校にやってきて研究 し、討論し、実施しだした」(32)と評価していた。

 また、島小の教師たちは、各種団体が無系統に経営さ れ相対立していては教育的にも弊害があるとして、青年 団や婦人会の本部を全部、役場から学校に移し、全員で その指導にあたった。彼らはそのなかで、「私たちは児 童の教育者である一面、村の教育者であり、地域開発の 中心人物として活動せねばならぬ」(33)という自覚を強 めていった。

 こうした活動でえた村住民の学校への支持を背景に、

彼らの編纂物のなかで、「学校のためには施行規則等の 法規をふりかざさず、存分の活動ができるようにしては どうだ」(3のという意見を紹介して、間接的にではある が、当時の中央集権的・画一主義的な教育行政批判を行 なっていたのである。

(2)後期の実践一経済更生運動と郷土教育実践  の「変質」

 この期は、連盟との関係が急速に疎遠となり、機関誌 上から島小の名はまったく消えてしまう。反対に縣学務 部当局や文部省から農村教育のモデル校的とりあつかい をうけるようになっていった。たとえば、縣学務部は農 村教育講習会を島小学校でひらき講師を島小の教師にま かせ、その実践の普及に努めようとしたし、文部省は同 校の栗下を全国46人にのぼる第一回初等教育功労者の一 人として表彰している。そしてこの期の実践はラジオや 映画で全国に紹介され、模範的な国民学校のひとつとさ れるに至ったのである。

(6)

 この期のもっとも早い時期、島小学校は郷土教育の目 的について次にように述べている。

  「私達は単に学校舎内における児童たちのみに私達  の教育を試みようとしたのではなく、教育をして村の  産業・自治などと緊密に結びつけ私達の目的とする理  想郷の建設を念願した」。(35)

 これをみるかぎり、前期の方針は基本的に引き継がれ ているといえよう。しかし「理想郷」という言葉がここ ではじめて登場したことには注意を要する。これは、前 期で郷土を語る際に使われていた「生きた複雑なる社会 機能」という言葉に比して、いかにも観念的な表現であ る。もちろん、この言葉だけでにわかに判断することは できないが、同じ著書で述べられている次の言葉をみれ ばその意味ははっきりしてくる。

  「凡そ、郷土社会は隣保または郷党という概念に多  くの場合一致する。すなわち郷土はその成員が自然的  であり、春風秋雨幾星霜を経ている。それが心理的で  あるために郷党の各人には思慕の感がある。単なる利  益社会を以て律することはできない。すなわち郷土は  共同社会である。この共同社会に対して思慕情感が起  こるのは自然である。」(36)

 前期においては、現実の郷土が「共同社会」としての 実質を備えるために、調査をはじめとする農村の社会的

・経済的問題への取り組みが追求されていたが、この記 述のなかでは一転して心理的情緒的側面が強調されてい る。そして、この精神的結びつきの強化が「理想郷」実 現の第一の前提となっているのである。このため「現 実」と「あるべき」郷土社会の区別が曖昧となってしま い、結果的には既存の社会的・政治的秩序を肯定してい

くものとなっている。したがって、先に触れたような、

教育をして村の産業・自治などと緊密に結びつける在り 方も、前期のそれとは変わらざるをえないのである。

(この点はすぐあとで、述べることになろう。)

 また学校での教育実践も、科学的な郷土の探求から心 情的な郷土への同一化へ、子どもの自発性尊重から訓練 へと、その比重を次第に移していく。前期では、前述し たように島小の教師たちは、「各科の郷土化も、各科を 機縁としての郷土調査や研究も更に広く全体的な生活そ のものを常に(学級)自治会を出発として自治会に帰着 せしめ、更に自治会を言ひ換へれば彼等の学級の社会的 意識、自覚を深め彼等自身の生活を彼等自身の手によっ て統制、拡充させて行く」(37)ことを強調していた。し かもその際の郷土調査や郷土資料の研究・活用は「でき 得るかぎり、彼等自身の計画と労作によって実現せしめ る」(3S)ことを指導上の重要な観点としていたのである。

ところが後期では一転して「農民魂と農村共同社会精神 の酒養をめざす情的教育」(39)をスローガンとして「お

こなうことによって悟る教育」の展開が語られている。

しかもそこでは勤労作業に鍛練は不可欠という観点から、

教師を頂点とする級長一分団長一分団という指揮命令系 統をもつ学級集団づくりがめざされていた。(4°)

 このように、学校内での郷土教育実践における重大な 変化は、当然のことながら学校の外での実践の変化と大

きくかかわって生じたものである。次にこの点の検討を 行なうが、そのためにはどうしても、このような変化が なぜ生じたのか、ということに触れておかなければなら

ない。

 結論から先に言えば、農村恐慌によって疲弊した農村 を「救済」するという名目で、農村・農民をファシズム 体制に組織化=統合しようとした農山漁村経済更生=

「自力更正」運動がその契機になったといえよう。この 政策は農林省・内務省・文部省の三省の提起した三計画 が相互補完的に実体化されたものであり、いわば官製的 地域づくり運動といえるが、この時期、全国で数多くの 経済更生村が生まれていった。

 島村もまたそうした村のひとつとして、これまでとは 異なる歩みを辿らねばならなくなるのである。

 ここで、とくに問題にしたいのは、この運動による島 村の教育計画・社会計画の主体の変更の問題である。前 期の検討のなかで述べたように、島小の郷土教育実践の 出発点は学校の教育計画策定のために、地域の社会的・

経済的諸問題を調査によって明らかにすることにあった。

そこから発展して、学校が地域の生産の問題などに積極 的に取り組み、教師がその先頭に立って地域の改造に取 り組んだのであり、いわば学校は「地域改造のセン ター」的様相を呈するに至ったのである。

 ところが、1933(昭和8)年、島村が経済更生村と なったことで、この様相に変化が起きる。その間の事情 については、当の島小の教師たちによって次のように語 られている。

 「先ず、産業組合員、役場吏員、村の長老等と会合し、

 私達の意図を発表したところ村の革新の一大気運が見  えてきたのである。かかる気運があらわれたとき、故  意か偶然か好運にも政府の経済更生部第一回指定町村  に選出されたのである。私達は勇躍して之が計画なら  びに実施にあたったのである。徹宵すること幾十日、

 口角泡をとばして理想郷の建設のために論戦すること  数十回であった」。(4D

 この「論戦」の末、島村は経済更生委員会を組織し、

その規定を条例で定あた(表1および2を参照のこと)。

(7)

その結果、条例および組織系統図からわかるように、学 校は、役場、産業組合、農会と並列の関係におかれると

ともに、村当局(規定一条)および縣当局(規定一条二 項)と直接の関係に位置づけられることとなった。この

ことは次のことを意味するのではないだろうか。

 それ以前には学校で自主的に策定していた教育計画が、

一層権威づけられたものに「格上げ」された。他方、そ れまで、学校が自らの責任として行なってきた地域の実 態調査およびそれに基づく生産をはじめとする地域改善 の取り組みは、学校の手を離れて、島村経済更生委員会 の所管事務に吸収されることとなった。ところで、前期 の郷土教育実践では上記の実態調査と地域社会改造へ向 けた教育計画および社会改善計画は、いわば三位一体の ものと把握されていた。したがって、調査と地域社会改 善計画の立案・実行を別の機関(経済更生委員会・統制 部)に委譲したことは、教育計画の内容・範囲が著しく 限定されることを意味した。すなわち、学校は、村の社 会計画のうちの教育部門を担当し、実行する「下請け機 関」的存在として位置づけられていったのである(表

1)。また村の社会計画そのものが、縣当局の指導・監 督下におかれているために、教育計画の内容はさらに制 約を受けたものとなっていった。

表一1 綱大制総及織組会員委生更済経村島郡生蒲        套

       圓        萱

       名十二員委ル依二例條村島

統制部

表一2

第二條 第三條

第四條 第一條

を組織す

社会部

済部 営部

養嚢 責饗 査嚢 責嚢

書 幹 記 事

課(方面委員)

生活改善ノ徹底

書 幹 記 事

課(組薙

書 幹 記 事

耕地ノ改良   ノ開拓

麟鵬雛.義刷

晶購灘騰 蕪麟奏

繰織

書 幹 記 事

 こうしたなかで、学校はますます「農村教育の実際化 のための調査・研究」(42)のみにその任務を限定して、

こどもに対しては勤労作業訓練を、住民に対しても同様 な訓練を強制する機関となっていった。昭和9年度の教 育計画の中には「村の教育訓練」という言葉が登場して、

「自治的精神の酒養」、「勤労作業訓練の養成」、「農村社 会生活の精神酒養」、「民族的共同社会訓練」、「非常時の 教育訓練」などの項目が、その内容としてあがっている。

 以上のことを経済更生政策の側からみれば、前期で形 成された学校と地域との協力関係を利用して、学校を村 住民の訓練・教化機関に位置づけることに成功する過程 であったといえよう。こ過程で学校は、地域の政治・経 済改造のセンターとなるべき可能性を「無自覚」なまま に返上していったのである。

 昭和10年代に入ると、このことが一層明白となり、こ れにともなって郷土教育の質的転換が完了することとな る。すなわち、郷土教育の皇民教育への完全なる従属で ある。この期に至ると、彼らは郷土教育の目的を次のよ

うに述べるようになる。

(8)

 「小学校の教育において我国の理想に立って君民一致、

忠孝の大義に徹底せしめんとするは我日本教育誰しもが とるべき態度である。かかる普遍の大義に徹底せしめん とすると共に、郷土の実状すなはち彼らの生活する市町 村の発展をになう特殊の立場に立たねばならないゐ。こ こにおいて地方の発展たる特殊を通して、普遍としての 我国の大精神の顕現につとめなけれぽならないのであ

る」。(43)

 この言葉は、文部省・内閣の連名で前年にだされた50 頁余りの小冊子『国民精神総動員と小学校教育』の解説 を意図して出版された著書の一節である。このことから も島小の郷土教育が、「生産の合理化・科学化」と国民 の精神統合とを同時にはたすひとつのモデルとなってい たことが理解できよう。

結章 問題の整理と今後の課題

 これまで、島小学校の郷土教育の変化を1932年から33 年頃を中心に検討してきたが、問題を整理するためには つぎのふたつの方向からの検討を要するであろう。その ひとつは、なぜ島小学校が連盟の主張にそうかたちで実 践することができたのか、ということであり、ふたつに は、なぜ「自力更生」運動を契機として、連盟との関係 が疎遠となっていったのか、ということである。この点 についての本格的な検討は連盟の理論および「自力更 生」運動の構造的な検討を不可欠とするが、ここでは、

さしあたり連盟の「自力更生」運動に対する評価を手が かりにして、暫定的な検討を行なっておく。

 まず第一の点に関しては、連盟の社会認識と島村の経 済的状況との関係が重要である。1930年前後に、全世界 を巻き込んだ恐慌の日本におけるあらわれ方を見て、連 盟は、一方で農村を極度の貧困に陥れるものとして悲観 的にみながら(これが主要な側面であるが)、他方では、

地主的土地所有制度に基づく古い共同体秩序の崩壊過程 でもあると捉えていた。そして今後の社会は、大地主や 大資本への富の集中を極力おさえて、生産手段や富の共 同管理の方向へとむかうべきものと、連盟は認識してい たのである。

 島村の場合、稲作を中心とする農業が一応の基幹産業 であるといえるが、いずれも小規模経営であることから、

自作農・小作農を問わず、農業の合理化・多角経営化お よび共同経営などの対応が求められていた。またこのよ うな事情から、地主・自作・小作といった階級・階層差 はそれ程意味をもたなかった。このような経済上の要求 と人間関係(階層の相対的均一性)からすれば、連盟の 主張に含まれていた生産の共同化・合理化を中核とする

新しいコミュニティづくりの理念を自らの村づくりに投 影させるべき条件はあったといえよう。(表3参照)

 第二に、連盟との関係断絶について簡単にふりかえる と以下のことが言えよう。

 既にみたように島小学校は「自力更生」運動の展開過 程で、自らを「地域改造のセンター」と位置づけていた 前期の立場をなしくずし的に解消し、「自力更生」を推 進する諸機関の一翼へと位置づけなおしていったのであ る。しかもここで重要なことは、当の教師たちがこの過 程を連続したものと捉えていただけでなく、それ以上に、

自分たちの主張の発展した姿がそこにあると認識してい たことである。すなわち、生産を中心として村の共同性 の確立を目標と考えていた彼らにとって、村をあげてこ れに取り組む状況が創出されつつある事態を、彼らの運 動の帰結であると認識したのである。

 この観点から連盟の理論をいまいちどふりかえるなら ば、次のように言うことができよう。既にみたように、

連盟の主張した地域の実態調査をはじめとする「郷土科 学」はマルクス主義教育学にも「利用」され得るもので あったが、それは同時に経済更生運動にも有効に役立つ ものでもあった。

 このことは、たとえば、経済更生政策が本格化した時 点で協調会が出したハンド・ブック『農村実地調査の仕 方』(1932年7月)をみれば明らかである。同書のなかで は農村調査の目的の第一に「現在の農村の甚だしい不況 の原因がどこかを調べ適当な方策を立てること」と述べ られている。

 したがって、農村の経済的「救済」という側面からみ れぽ連盟の理論やその理論に基づく実践は「自力更生」

運動のひとつのモデルとして存在していたことは否定で

きない。

 連盟は、現に展開されている「自力更生」運動につい ては、地域社会の共同意識の喚起や生産の地域管理の可 能性について評価しつつも、現実には、「昔乍らの仕来 りか乃至は形式的習慣によって、ただ無批判に雷同する 集愚の心理に化しやすく、一時的感激はあってもその実、

部落町村思想に迎合」(44)する危険をはらむものとして 懐疑的に捉えていた。連盟が「自力更生」運動をこのよ

うに捉えた背景には、「元来が政府の権威に引きずられ やすい自治的ならぬ国民」であり「未だ社会的認識に立 脚する個人の自覚というようなものが充分に訓練されて いない」というような、彼らなりの、日本人の主体形成 に対する認識があった。したがって、真の意味での自力 更生には、「透徹せる社会認識と歴史的必然性の吟味」

(45)を保障する機関の必要を強く主張した。連盟はこの

(9)

役割を学校に期待したのであった。

 しかし、ここで検討した島小学校の例からも明らかな ように、連盟の郷土教育論の核心部分ともいうべき、こ のような主張が実現される可能性は、当時の状況におい てはほとんどなかったといわざるをえない。同時に、島 小学校をして、連盟から「無自覚」なまま遠ざけてしま

うような、理論的弱点ないしは曖昧さを連盟の理論その ものが孕んでいたことを確認しておかなければならない。

たとえばすでに見たように、連盟は、強引で権力的な政 府のやり方に対する批判や、「透徹せる社会認識」の必 要性についてはたしかに言及している。しかし、彼らは、

なぜこれほどまでに「自力更生」運動が叫ばれなければ ならないのかということについての根本的な理由を明ら かにする方法をついにもち得なかった。このことへの自 覚なしに展開される実践は主観的にはどうであろうと、

既存の政治・経済体制を前提にすすめられることになる。

そのため、島小の実践において前期に強調されていた

「村の必要を満たすための教育」計画自体も、既存の社 会秩序への批判の契機をもちながらも、実際には地域社 会の円滑な運営を行なっていくたあに必要な態度や努力 目標を住民・子どもに呈示する役割をはたしていたとい わざるをえない。そして結果的には、生産の合理化と共 同意識の確立という目標だけが、経済更生=「自力更 生」運動に吸収されていったのであり、それらも恐慌と それにつづく戦時体制をささえる「生産増強」と家族主 義的国家観を基底とする共同体意識へと媛小化されて いったのである。

       註

(1)拙稿「地域教育計画に関する一考察一戦前郷土教育連  盟と『地域教育計画』」(r教育科学研究』第6号、198  7年6月)

(2)郷土教育連盟『郷土教育学習指導方案』(刀江書院、1  932年)

(3)尾高豊作  「郷土教育運動の十字街に立つ」(『郷土教  育』1933年2月、42頁)

(4)尾高  「明治教育の社会史的検討」(『学校教育と郷土  教育』刀江書院、1933年、39頁)

(5)前者の研究には、次のようなものがある。

 三輪和敏  「昭和教育方法史の研究」(『神戸大学教育  学部研究集録』22・25、1960・1961年)

 中内敏夫  「教育科学の遺産」のうちの「解説」(『教  育』1961・7月臨時増刊)

 田中武雄  『戦後社会科の復権』(岩崎書店、1981年)

 また後者の研究の例としては海老原治善の「郷土教育

 運動における郷土化・郷土学習」(『現代日本教育実践  史』、明治図書、1975年)等がある。

(6)前掲(4)

(7)同上

(8)同上

(9)『郷土教育』1932年8月臨時増刊号

⑩尾高  「学校の社会的変化」(前掲書63頁)

ω尾高  「対象『郷土』と生活『郷土』」(r郷土教育』1  933年8月21頁)

⑫金井浩  r綜合郷土教育原論』(同文書院、1931年、8  5頁)

α訓・田内通敏  r郷土教育計画と其の動向』(1932年)。

 彼が行なったこの調査には、「郷土愛、国家愛」という  言葉はまったく使用されておらず、実証的に処理され  ている。

(14尾高は文部省や師範学校と連盟の関係について「ある  場合には地方初等教育の同志相寄って従来の中央勢力  を批判し又は攻撃したりするほどの合従連衝も起こし  たかった。かくして年来の宿志たる学校制度の根本的  反省にもっとも巧みな戦術を講じようと策して居た」

 と述べている。(尾高、「郷土教育運動の四年間を顧み  て」、『郷土教育』1934年5月、89頁)

α励浅野研真  「教育における郷土主義」(『郷土科学』13  号、1931年、11月、147頁)

㈹同上、同頁。

(10浅野  「郷土意識と階級意識」(『郷土』5号、1931年  3月、106頁)

a④同研究会のメンバーのひとりであり、かつ1930年まで  教職にあった本庄陸男は次章でとりあげる島小学校の  実践(神田・栗下『生産教育と郷土教育』)を評価し  て、「教育を口にするものの良心である」と述べてい  る。(本庄、「恐慌下の農村教育」、『季刊・教育評論』

 第一冊、1933年1月、木星書院)

⑲たとえば、前掲r方案』には「農村はなぜ貧乏する  か」ということに注目させようとする試案が少なから  ず収められている。

②胴校の実践を連盟の理論との関係でとりあげることに  ついては、先行研究から見て若干の批判が予想される  のでここで簡単に触れておきたい。川口幸宏は論文   「昭和初期の郷土教育における『生活』観」(『講座・

 日本教育史4、現代1・ll』)のなかで、島小編纂の  『自力更生理想郷の新建設』にみられる郷土観は「自  然村的共同社会を基底においた国家=家族観にもとつ  くr国民精神の酒養所』として位置づけられている」

 として、島小の実践を、連盟の理論の一方の担い手で

(10)

 あった峰地の郷土教育論と対立させて捉えている。筆  者も1933年のこの著作に対する評価としては川口の評  価に異論はないが、注意を要するのは少なくともこれ  以前まで、連盟の主張にそって実践を展開した学校の  ひとつがほかならぬ島小であったということである。

 このことは、以下にみるように連盟の機関誌への紹介  のされ方からもうかがうことができる。

①1930・11「島小学校の郷土教育」創刊号

②1930・12「郷土教育読本編纂の実際」第2号

③1931・5「島小学校の郷土教育の実際」第7号

④1931・7「見学記『島小学校より郷土教育大会へ』」第

 9号

⑤1931・10「島小r郷土教育の学習と実践』に序す」第  12号

⑥1931・11「僕達の郷土通信」第13号

  また当時(1932年)、「郷土教育に関する調査」を行  なった海後・飯田・伏見による同名論文のなかで、島  小の実践を峰地の郷土教育論と重なるものとして次の  ように評価している。

   「郷土を客観的なものとみる点、更に所謂郷土愛教   育を排して郷土の実態を認識せしめんとする点など、

  前述べた峰地氏の郷土教育論と一脈相通ずる論旨を   認め得るように思う。」(48頁)

  このようにみたときに考えられるのは、1932年から  33年にかけての島小実践にとって、連盟の主張から遠  ざかる契機が生じたということであろう。そしてその  後の島小は、川口の指摘するように国民学校期を通じ  て「先進的」郷土教育実践校として有名となっていっ  たのである。したがって同校の実践過程をたどること  によって、連盟の理論が実践化されるときにあらわれ  る問題点および体制内化への契機を分析することがで  きるであろう。

⑳『郷土の調査及研究・各教科郷土化の実際』(1931)

 r体験と信念に基づく郷土教育の学習と実際』(1931)

 r自然観察実践細案』(1931)

 『都市農村実態調査の理論と実際』(1932)

 『生産主義作業学校の施設と経営』(1932)

 『生産学校と郷土教育』(1932)

 『郷土的労作的各学年の学級経営』(1932)

 r自力更生理想郷の新建設』(1933)

 『農村教育の書』(1936)

 『体験・島の学級経営』(1936)

 r革新・農村小学校の経営』(1936)

 『青年団の経営実践』(1937)

 r実践 時局と教育経営』(1937)

 『国民精神総動員と小学校教育の実践』(1938)

 『土の教育 学村の新建設』(1938)

 『村の教育十力年』(1939)

 『農村国民学校教科経営実践』(1940)

 r国民学校 学校行事 科外施設の実践』(1940)

 『農村国民学校の学級経営』(1940)

 『国民学校の実践的経営』(1940)

 『自己を築く教育』(1941)

 『村の教育建設記』(1941)

 『初等科一・二年学級経営細案』(1941)

 『統合初一授業実践細案』(1941)

 r農村青少年団の経営』(1942)

 『吾校の動物飼育植物栽培実践記録』(1942)

 『村の学校教師の記録 子供と共に』(1942)

⑳栗下喜久治郎  「自己を築く教育」(1941年)による回  想から。

㈱小田内  『郷土教育運動』(刀江書院、1932年、228

 頁)

⑳栗下  「郷土教育読本編纂の実際」(『郷土』2号、19  30年、12月)

㈱神田・栗下  『生産学校と郷土教育』(厚生閣、1932  年、228頁)

㈱栗下 前掲論文

⑳神田・栗下 前掲書

⑱同上

⑳島小学校  r都市農村実態調査の理論と実際』(明治  図書、1932年、410頁)

⑬①神田・栗下 前掲書、(151頁)

⑳同上 152頁

働尾高  「島小学校から郷土教育大会へ」(『郷土科学』

 9号、1932年7月)

⑬神田・栗下 「新郷土教育の実際とその施設」(千葉  春雄ほか編、『エデュケーショナル・クォータリー4』、

 厚生閣、1931年、20頁)

e4神田・栗下 前掲書

㈲島小学校  『自力更生理想郷の新建設』(明治図書、1  933年、45頁)

㈹同上、19頁

(30島小学校  『郷土的労作的各学年の学級経営』(1932  年)

㈱同上書

㈹島小学校  『革新農村小学校の経営』(1936年、14頁)

㈲島小学校  r体験・島の学級経営』(1936年)

(4D島小学校 『自力更生理想郷の新建設』(45頁)

@同上、同頁

(11)

⑱島小学校  r国民精神総動員と小学校教育の実践』(1  938年)

(44尾高  「郷土教育運動の十字街に立つ」(44頁)

㈲同上、同頁

[表一3−a]昭和4年(1929年)の島村の産業       構造

農   産 188,150円 工   産

畜   産 4,559円 水   産 62,776円 林   産 9,265円 鉱   産 17,900円 350,050円 一戸当平均 647.84円

表 どにみと含あ に な村た業にで 額、造りた副額め 産は酒な②は産た 生の、とと品生る のい工がめ製業い 産な加場た木農て

*米の生産額は5530 円であり、農家一戸 平均になおすと15.85 円である。

**次に、島村における所有地の規模と耕地規模を示す。

[表一3−b]

所有(戸) 耕地(戸)

五段未満 121 108 五段以上 39 34 一町以上 39 98 三町以上 7 1 五町以上 1 0 十町以上 0 0 250 341

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