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歴史叙述としての民事訴訟

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(1)

《論 説》

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歴史叙述としての民事訴訟

――ヴァン・カネヘム『ヨーロッパ民事訴訟の歴史』を中心に――

貝 瀬 幸 雄

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ヴァン・カネヘム『ヨーロッパ民事訴訟の歴史』

の紹介(承前)

「スペインおよびアメリカ大陸」の項目で,カネヘムは,「 (レコンキ スタが完了した) 1492 年から (スペイン独立戦争が勃発した) 1808 年にいたる 世紀の間にスペインは中央集権的君主国家となり,世界的覇権を獲得した。絶 対君主制と中央集権化とが勝利をおさめ,法発展を決定した。中世の分裂状態 は,政治的統一に対応した法的画一性へと変化した。カスティリヤ法および,

部法典

(Siete Partidas) ・1348 年のアルカラ法令集 (Ordenamiento) ・カステ ィリヤの法学書に見出されるようなカスティリヤの訴訟手続が支配的となった。

王国全土のための普通法と普通訴訟手続が確立されたのであって,その時期は

正当にも『国家法に満ちた時代』 (fullness of the national law) と呼ばれた。ア

ルカラ法令集は,カスティリヤ国王の領土全体に法的統一をもたらした。すな

わち新旧カスティリヤ,レオン,アストゥリア,ガリシア,エストレマドゥー

ラ,アンダルシア,ムルシアである」と解説を始める。スペインのこの法シス

テムは,「体系的な大編纂物とその改訂版」にまとめられ,1484 年の「カステ

ィリヤ勅令集」 (Ordenazas Reales de Castilla) ,多くの補遺と改訂を伴う 1567

年の「新法律要覧」 (Nueva Recopilación)〔その第部が民事訴訟を扱い,部法

典への言及が多くみられ,きわめてローマ的性格の強いものであった〕 ,むしろ理

論的考慮にもとづく 1805 年の「最新法律要覧」 (Novísima Recopilación) が公

(2)

表された。カスティリヤ法は,ヴァレンシア (1707 年) ,アラゴン (1711 年) , カタロニア (1716 年) に拡張され,国王によるスペインの普通法と考えられる ようになった

170)

スペイン訴訟法学はローマ法およびカノン法 (とりわけ部法典とそれに関す る Jacob de las Leyes らのテキスト) にもとづいて形成され,大学は自国の制度

(native institutions) を 無 視 し て い た た め,実 務 法 曹 は,1505 年 の ト ロ 法

(Leyes de Toro) が必要不可欠と宣言した地域法 (フェロ法) の知識を大学で習 得できず,16 世紀および 17 世紀のすぐれた法律家はローマ法にもとづき実務 を行った。18 世紀には,「非スペイン的な法および教会法」と対立するものと しての「法の国家的性格」 (national character of the law) への関心が深まり,こ の変化は大学にも導入されて,ローマ法の大学教授がそれに対応する自国の法 制についても講義を行うように求められ (1741 年,1752 年) ,スペイン法がカ リ キュ ラ ム に 加 え ら れ て (1770 年) ,「ロー マ 法 = ス ペ イ ン 法 制」 (Roma- Spanish Institutions) についての著作が出現した

171)

スペインの訴訟手続はきわめて保守的,ローマ = カノン的で,この時期まで

「注目すべき純粋さで後期中世的性格を維持していた」。1855 年訴訟法 (Ley de Enjuiciamento) 前の訴訟手続は部法典とほとんど異なっておらず,1806 年 フランス民事訴訟法典の影響も乏しかったが,1855 年法および 1881 年民事訴

170) Caenegem, Historyof European Civil Procedure, International Encyclopedia of Comparative Law, vol.ⅩⅥ, Chap. 2(1973)63-64. カネヘムによれば,「国王の制定法は フランスに比べ重要ではなかった。シャルル世とフェリペ世の訴訟手続の簡易化お よび司法組織に関する貴重な王令があったものの,制定法はたとえば 1667 年フランス法 典(ルイ法典)の意味での新法典というよりもむしろ,現存のテクストの権威的・体系 的な編纂物から構成されていた。それでも国王は法発展に対して最終的発言権を有して いた。カトリックの国王たちは,アンドレーエ(Johannes Andreae),バルトルス,バ ルドゥス,Abbas Panormitanus に補充的法的効力を与えた 1499 年王令の発令後に,態 度を逆転させて,1505 年に法律家の意見の権威を全面的に否定したということが重要で ある。すなわち,国王の権威は最終的法源なのであった。カスティリヤ顧問会議(Con- sejo de Castilla)は,その司法部門において法の統一に重要な役割を果たした」(Id., at 64)。

171) Ibid.

(3)

訟法 (Ley de Enjuiciamento Civil) ともにフランス法を導入することにはやはり 慎重であった。その結果として,スペイン民事訴訟法は,「すべてのヨーロッ パ民事訴訟法の中で,12 世紀から 14 世紀の法律家がローマ法および (主にゲ ルマン的な) 裁判実務にもとづいて発展させてきた『普通訴訟』の伝統をもっ とも忠実に保存してきたもの」 (López Ortíz の評価) となった

172)

スペイン法は国際的な重要性をポルトガルおよびアメリカ大陸で獲得した。

「アメリカ大陸のスペイン植民地における最初の法発展は無秩序なものであっ たが,すでに 1552 年および 1560 年に新スペイン (メキシコ) 総督に植民地法 の体系を編纂するという職務が与えられ,……1680 年のインディアス法要覧

(Recopilación de las Leyes de Indias) 1841 年に新版が出された,アメリカの スペイン帝国終焉までの法の基本的コレクション に結実した。裁判所組織 は第部,訴訟手続は第部で扱われた。……カスティリヤ法は補充的権威を 有し,インディアスの王の顧問会議 (Consejo Real de las Indias) が最高裁判所 であった」

173)

15 世紀以降のポルトガルにおいては,それ以前からのローマ = カノン 訴訟の迅速な継受とスペイン法の影響に加えて,国王の制定法が重要な地位を 占める。すなわち,1446 年のアフォンソ法典・1514 年のマヌエル (王) 法典

(Ordenações Manuelinas) ・1603 年のフェリペ法典 (Ordenações Filipinas) は,

いずれもローマ = カノン訴訟に従っており,18 世紀までローマ = カノン的伝 統と制定法によるその適応が続いた。「それから,ローマ法および教会裁判所 の権威に反抗し,理性を支持するリアクションが生じた。1769 年の良き理性 の法 (Lei da Boa Razão) は,理性と衡平は法の根本理念であって,ローマ法に は祖国の法 (leis patrias) にとって有害なものとして対応し,従うべきは祖国

172) Ibid.

173) Id., at 65.「多数の新しい法と続く数世紀の王令は,1680 年法律要覧(Recopilación)

の基本線を変更しなかった。法テクストの優先順位は以下の通りであった。第に,

1680 年より後に発令された法と王令,第に,1680 年法律要覧,第に,一般的な補充 的システムとして,1505 年のトロ法(Leys de Toro)が付与した順序でのカスティリヤ 法」(Ibid.)。

(4)

の法および裁判所の『方例』“styles™であって,それらを欠くときは,『良き 理性』と矛盾せず,かつ成文法に反しない限りで古い慣習が優先すべきである と宣言した。カノン法は教会裁判所に厳格に限定され,裁判所においてアック ルシウスおよびバルトルスを引用することは,明示的に禁止された。プロイセ ンの法典およびナポレオン法典の影響がポルトガルにおいては感じられ,たと えば Primeiras Linhas sobre o Processo Civil……を著した José Pereira e Sousa に影響を与えた。1845 年における自由主義の勝利は,法改革と法典化への関 心を高めた。すでに 1841 年に最新司法改革法 (Novíssima Reforma Judiciária)

が公表され,その一部は裁判所組織および訴訟手続にとって長らく重要なもの となった。……1876 年に導入された民事訴訟法典 (Codigo do Processo Civil)

は 1841 年の改革法に多くを負っている」

174)

カネヘムは,低地諸国について一般化することは難しいとしつつも,

「この時期に,少くともヨリ重要な世俗裁判所においては,ローマ = カノン訴 訟が支配的となったということができる。そしてまた,慣習法とローマ法とを 綜合することによって,北部および南部ネーデルラントをそれぞれある程度法 的に統一する方向へ進んだ。法的地域主義 (legal provincialism) を克服したの は,しばしばローマ法を通じてであった。ローマ法系オランダ法 (Roman- Dutch law) が北部における指導的体系となり,南部においては,『ベルギー』

(“Belgian™) 法が出現し始めた。中世後期に自生の (native) 裁判実務が相当な 近代化を実現していたにもかかわらず,コスモポリタン的な学識訴訟が導入さ れたのはいくつかの力が作用したからであった。さまざまな地域 (provinces)

の中央裁判所,および,ネーデルラント全域に及ぶ 分裂後は,南ネーデル ラントのみの マリーヌ大評議会〔最高法院〕 (Great Council of Malines) は,

次第に学識法律家によって構成されていった。イタリアの著者たちの影響を受 けた国内の著者たちによる訴訟手続に関する文献も相当あらわれた」

175)

,と整 理する。

174) Id., at 65-66.

(5)

カネヘムは,裁判所の『方例』 (“styles™) の形式で,または政府の王令

(governmental ordinances) として,訴訟手続に関する制定法も存在したと指摘 し,フランドル最高法院・ホラント等族議会 (Estates of Holland) ・ブラーバン ト最高法院のための諸王令,さらにもっとも有名で最後の重要な王令である 1611 年の スペイン領オランダを統治していた アルベルト大公および イザベラの永続令 (Perpetual Edict) を例示する (アルベルト大公は,スペイン における新法律要覧〔Nueva Recopilación〕にならって,低地諸国の諸法の大編纂お よび裁判所の『方例』(“styles™)の統一に着手した。1611 年の永続令はフランスの 王令の影響を明らかに受けており,費用,かつては非公開であった証人尋問(en- quête)の公開,証拠方法などにつき規定する)

176)

。なお,地方慣習法も訴訟手続 を取り扱っていたが,南部においては慣習法の「同質化」 (coutumes homolo- guées) が 1531 年以降フランスにならって進められた (シャルル世に始まる。

ただし,北部においては,政治的状況および慣習法のオフィシャルなテクストの欠 如から,ローマ法の影響がきわめて強かった)

177)

「17 世紀以降,統治者または等族議会 (the Estates) によって発せられる王 令の量は,北部のみならず南部においても最小限となった。その結果,低地諸 国においては, (手続の) 非公開,書面の大量使用,厄介なテクニカリティ,

その時代の典型的な学識的用語 (learned terms) がみられるのであるが,裁判 所の実務はドイツ式よりもフランス式に近く,それゆえ口頭の段階が実際上の 重要性を保っていた。この新しい訴訟手続はブルゴーニュ家に続いて低地諸国

175) Id., at 66.「ブルゴーニュ家のもとでの確実な統一段階ののち,16 世紀後期には,北 部は独立の統一的諸地域に,南部はスペイン領(のちにはオーストリア領ネーデルラン ト)に低地諸国が分割されていただけではなく,これらの各半分の内部においてさえ,

地域的多様性は相当のものであった」。南部では,Wielant 著『民事実務』(Practijke Civile)のラテン語版(Praxis Rerum Civilium)(1567 年刊)が北ネーデルラントおよび ヨーロッパで大成功をおさめ,北部の統一地域では,王令と独仏伊蘭の文献にもとづく Merula 著 Manier van Procederen in Civiele Zaken(ライデン,1592 年)はアンシャン・

レジームの終わりまでホラント州における基本的著作であった(Id., at 66-67)。

176) Id., at 67.

177) Id., at 67-68.

(6)

を征服したのであった。フランスの実務,王令,『方例』 (“styles™) ,学説が明 らかに支配的であった。上級裁判所のターミノロジーは,このフランスの影響 を示している。16 世紀半ばまでには,ブルゴーニュ的フランス実務に,最終 的にはローマ = カノン的学識にもとづいた訴訟手続が低地諸国で十分に確立さ れ,学識ある著者たちに絶えず依拠することが必要になった。……18 世紀に は訴訟手続の研究はほとんど進歩せず,昔の著作を利用し続けた。18 世紀後 半には,現行の裁判所,その実務,とりわけローマ法に対する反動があり,法 の簡素化・統一・法典化を望む者もいた」

178)

。「裁判官は革新を好まなかった ので,ベルギーでは,1786 年に『啓蒙専制君主』ヨーゼフ世の司法改革は 抵抗を受けた。それらの司法改革は,公共生活の近代化というヨーゼフ世の 政策の一部であり,伝統的な特権および慣習を守るための 1789 年の反乱をま ねいた。その数年後には,フランスの (ないしフランスにインスパイアされた)

諸法典は,ベルギーとホラント州 (Holland) に根本的変化をもたらし,世 紀前と同様にフランスの刺激のもとに新たな出発が始まり,法と訴訟手続に関 する近代ヨーロッパ的理念は低地諸国にフランス的外観をもたらした」

179)

中世においてイタリアの法律家は創造的かつ指導的役割を果たしたにも かかわらず,この時代のイタリア法の状況は手ひどい「アンチクライマック ス」 (anticlimax) であった,とカネヘムは評する (アルプス以北の国家的君主 制・自然法思想・法典化がイタリアをこのような状況にした) 。すなわち,「イタリ アの民事訴訟は後期中世のままであった。イタリアは学識ある著者たちを生み 出し続けたが,彼らは革新者というよりも編纂者であって,きわめて多くの権 威的著者と先例を引用しつつ,マイナーな論点について大部の著作をあらわし た。……学問的文献の間の対立を解決するのに十分な制定法はなかった。極端 な政治的分裂のために,制定法は部分的・非体系的で,国家的レヴェルではな かった」。「法典化の必要性が感じられ,1738 年にはトレント宮廷諮問会議の メンバーであるバルバコーヴィが新民事訴訟法典草案 (Progetto di un nuovo

178) Id., at 68.

179) Id., at 68-69. 南アフリカにおけるローマ法系オランダ法については,Id., at 69.

(7)

codice giudiziario nelle cause civili) を公表し,その他にも,ピエモントのファー ブロおよびナポリのチリーロによる各プロジェクトがあったが,それらは政府 の無関心や無能に直面して挫折し,『法の栄光ある不安定』が続いた。統一的 な影響を及ぼし,弁護士および裁判官を指示する中央上級裁判所も存在せず,

各裁判所はそれ自身の『方例』 (“style™) と固有の実務マニュアルを有してい た」。「18 世紀には,法典化により法を明確にする散発的な努力がなされた。

すなわち,ピエモント (1723,1729,1770 年) およびモデナ (1771 年) で民事 訴訟は法典化されたが,根本的変化が生ずるには,ヨーゼフ世のイニシアテ ィヴ,フランスによる占領,フランス民事訴訟法典の導入を待たなければなら なかった」。この時期のイタリアの訴訟手続は複雑かつ厳格で,形式主義・完 全な書面主義に支配され,証人は非公開で尋問され,法定証拠のペダンティッ クな取扱いは極限に達し,判決理由は付されず,「その学識的で (learned) 曖 昧な理論は,公衆には接近できないもの」であった。「ただしヴェニスは注目 すべき例外であって,そこでは混合的システムが支配的で,主張および立証が 書面でなされる一方,弁論は公開の法廷で行われたのであった (the arguments were heard in open court)(この混合的システムは,のちにフランス民事訴訟法典を 経由して,イタリアの制定法に取り込まれた) 」

180)

「イングランドとその海外領土」の項は,①序論,②コモン・ロー裁判 所の訴訟手続,③大法官府裁判所の訴訟手続,④訴訟に関する文献,⑤海外の イングランド法の各論点で構成され,とくに詳しく叙述されている。

まず第の「序論」においては,近代的裁判所の発展,訴訟手続の発展,上 訴制度の不備をとりあげる。すなわち,「この時期には,王権と密接に結びつ いて,コモン・ローおよびコモン・ロー裁判所と競い合う多数の近代的裁判所 の発展を目のあたりにする。これらの近代的 裁 判 権

ジュリスディクション

,すなわち,エクイテ ィ裁判所 (最初は大法官府裁判所) ,請願裁判所 (Court of Requests) ,星室 (Star

180) Id., at 69-70. 中世後期の略式手続を拡張しようとするこころみと,略式審理(sum- maria cognitio)を一般原則として導入したルッカ(1539 年),ジェノア(1597 年),ピ エモント(1582 年)の立法につき,Id., at 70.

(8)

Chamber) ,海事裁判所 (Court of Admiralty) は,異なった訴訟手続に従い,ロ ーマ法法律家およびカノン法法律家の法に類似した,異別の実体法を適用した。

そして,たとえこれらの裁判所がコモン・ローの欠陥を是正することを意図し ていたにすぎなかったとしても,実際にはさまざまなルールの組合せを発展さ せた。学識法およびローマ = カノン訴訟に対する一般的なヨーロッパの趣味

(taste) が,コモン・ローに対して現実的な脅威であったかどうかは,きわめ て疑問である」。このような新旧両裁判所間の衝突は 17 世紀に最高潮に達した が,それはイングランド憲政史の一部であるから,ここでは扱わないとカネヘ ムはいう。「われわれが本章でやや詳しく扱う大法官府裁判所は,ジェームズ

(1603 年-1625 年) によって,コモン・ロー裁判所に対する優越的地位を 与えられたのちに,1640 年ないし 1660 年ごろの危険な時期

度の内乱,

クロムウェルの統治を経て,1660 年に王政復古 を通過したけれども,生 き残ってその重要性を保った。それは不可欠の制度に発展し,大法官府裁判所 が適用するエクイティのルールは,イングランド法の不可分の一部となった。

その訴訟手続はカノン法に多くを負っていたが,その実体的ルールは,ローマ 法やカノン法よりも,コモン・ローのルールに適用された正義の一般原則

(general principles of justice) にもとづいていた」

181)

イングランドの訴訟手続は多くの点でヨーロッパに共通のパタンに従って発 展したが (ヨリ学識的になり,訴訟手続に関する多くの著作が書かれて,秘儀的な までに複雑となった)

182)

,「コモン・ロー裁判所においては,学識的な書面のプ リーディングによって事実の争点が提示されたのちに,陪審は公開のトライア ルを行うのであるが,裁判所の専門的でよそよそしい空気はきわめて衝撃的で あった。陪審の面前に出頭した証人の公開の口頭のトライアルは,近代ヨーロ

181) Id., at 70.

182) Id., at 71.「書面は多大な進歩を遂げ,書証が脚光を浴び,コモン・ロー裁判所では口 頭から書面のプリーディングへと移行し,受命裁判官(commissioners)による証人へ の質問(interrogatories)の結果は書面で大法官府裁判所に提出された。これらのすべ てのペーパーワークのもとで非公開主義(secrecy)は進歩を遂げ,たとえば質問は非公 開であるが,証言録取書(depositions)はのちに公開された」(Ibid.)。

(9)

ッパでは明らかにアルカイックかつ例外的なもので,イングランドにおいてさ え一般的ではなかった。もし近代の動向がコモン・ローにさえ影響を与えたと するならば,この時代の典型的な新しい裁判所においては,その影響はとりわ け強かったのである。それでも,新しい裁判所にローマ法の影響が及んでいた こと,および ローマ法法律家 (civilians) の団体 (1511年-1857 年) である ドクタズ・コモンズ (Doctorsʼ Commons) の発達にもかかわらず,依然と してヨーロッパ大陸との重要な相違が認められた。これはコモン・ロー裁判所 には十分自然なことであったが,星室 (Star Chamber) および大法官府裁判所 でさえも,訴訟形式は混合的性格 (一部はコモン・ロー,一部はローマ = カノン 法) を有していた」

183)

上訴制度は欠陥にみちており,誤審令状 (error) は不十分な救済でしかなか った。中世においては国会 (Parliament) が王座部の誤審を審理でき,15 世紀 以降は大法官府のコモン・ロー・サイドの誤審も同様に審理できたが,17 世 紀以降は (コモン・ロー裁判所である) 国会 (貴族院) が大法官府のエクイテ ィ・サイドの上訴も審理するよう求められ,また (国会の会期が不定期だったこ とから) 1585 年には制定法により財務府会議室裁判所 (Court of Exchequer Chamber) が設置されて,特定の訴訟について王座部の誤審を訂正する権限を 与えられた。「当事者は,国会と新裁判所のいずれに令状を提出するかを選択 できたが,新裁判所への不服申立てはさらに国会に上訴することを妨げなかっ た。全体の状況は不満足なものであった。あまりに多くの救済が (そのいくつ かは非常にアルカイックなものであった) 並列的に存在していたが,適切な上訴 裁判所はつもなかった。大法官府においては,マイナーな論点についても求 めることができる再審理と上訴のシステムは非常に厄介なもの (cumbersome)

であったし,さらにまた,貴族院における少数の学識法曹としての大法官の影 響を考えれば,大法官府から貴族院に対する上訴は,実際のところはしばしば 大法官から大法官に対する上訴であった。19 世紀まで,こうした状況は大き

183) Ibid.

(10)

く変わらなかった」

184)

第に,16 世紀から 18 世紀にいたるコモン・ロー裁判所の訴訟手続では,

その基本的要素は変化せず (①依然として令状手続によって支配され,限られた 訴権のうちのつを選択すると,全訴訟手続が支配された,②事実問題は陪審に委 ねられ,ナイサイ・プライアス〔nisi prius〕制度のために陪審が地方で集合するこ とが多かった,③法廷でのプリーディングの結果,「争点」が特定される) ,多くの 点で旧式・苛酷・形式主義的であったが (欠席の処理,手続的なミスに対する厳 罰など) ,㋐「多くの古い訴権 (actions) はひっそりと忘れ去られ,より近代的 な訴訟形式 (forms of process) を命ずる新しい令状が支配的となった」

185)

,㋑

「法廷における旧式な口頭のプリーディングは,15 世紀に始まった実務である 書面によるプリーディングの交換に移行した」

186)

,㋒証拠の許容性 (証拠能 力) ・排除法則といった証拠法の発展がみられた

187)

,などの訴訟手続の枠内で の若干の「進化」を遂げたとカネヘムは指摘する。

184) Id., at 72.「国会での司法ビジネスを通常担当していた貴族たちも,貴族院の司法ビジ ネスが法律家に委ねられた 19 世紀まで,法律問題についてあまり権威を有していなかっ た」(Ibid.)。

185) Ibid.「たとえば,中世の舞台に遅れて登場してきた侵害訴権(action of trespass)が きわめて重要となり,17 世紀末までには,王国における訴訟の大部分が侵害訴訟(tres- pass)から発展した訴訟方式(forms of action)によって行われるようになった。侵害訴 訟とそれから生じたもの,すなわち不動産回復訴訟(ejectment),引受訴訟(assump- sit),動産侵害訴訟(trover),特殊主張訴訟(case)のみが,当時実質的によく利用さ れた訴権(actions)であった」(Ibid.)。

186)「厳密にプロフェッショナルの手中にあった書面によるプリーディングが,洗練され た閉鎖的な技巧へと発展していったことは,この時代のもっとも驚くべき発展のつで あった。すでに見たように,制定法が介入することは非常に稀だったので,多くの変革 は,ルールを直接に変更するような外観を示さずに,ルールを修正する(modify)こと を目的として,フィクションとさまざまな屈折した工夫によって実現された。その結果 として,裁判所が現実に運用しているルールは,主に慣習によって構成された。明らか に,これらの書面によるプリーディングを支配するルールは,きわめて精密,技巧的,

微妙なものであったため,イングランド法のあらゆる分野の中でももっとも専門的で秘 儀的なもの,すなわち真の『オカルト科学』を形成し,司法運営の障害となった。これ らは 19 世紀に一掃された」(Id., at 73)。

187) Ibid.

(11)

㋒の証拠法の発展につき補充しておく。すなわち,16 世紀および 17 世紀に

陪審の性格が変化したので (陪審は,自らの個人的知識を述べるかわりに,面前 に提出された証拠にもとづいて事実を判断する者〔judge of the facts〕となった) , 陪審に対して証言させるために証人を呼び出す実務が 16 世紀に始まった。「通 常の臨時の陪審員団が,前もって書面化された証言を用いて学識法曹のように 手続を進めるのは不可能であったから,すべては公開の法廷で審問されなけれ ばならなかった。当然ここで法定証拠の学識理論が入る余地はなく,ただし若 干の個別の制定法 (statute) がこの点を明示的に規定している場合は別であっ た。口頭の証言と (それと抵触しうる) 書証との双方が陪審の前に頻繁に提出 されるようになると,プライオリティのルールが生ずる。すなわち,17 世紀 には,書かれた文書の内容は口頭の証言によっては変更されない,とするルー ルが確立された。それはとりわけ文書の解釈を自らの支配下に置きたいという コモン・ロー裁判所の願望から生じたものであった」

188)

ヨーロッパ大陸では法定証拠理論 (preuves légales) が生まれ,イングラン ドでは 17 世紀に証拠の許容性・証拠能力 (proof-admissibility) に関する精密な ルールすなわち証拠排除法則のアウトラインが成立した (もっとも有名なもの は,17 世紀に確立された伝聞証拠の禁止である)

189)

。「それは陪審制の直接の産物 で,陪審が誤った方向に誘導されることを防ぎ,プリーディングによって特定 された争点から彼らがそれないようにするために,裁判官によって発展させら れたルールであった」。「伝聞証拠とは,裁判所に招来されていない者の発言で,

宣誓のもとで語られておらず,交互尋問ができない発言に関する証拠である。

公開のトライアルでの証人の交互尋問の非常な重要性は,コモン・ロー訴訟手 続のもっとも注目すべき特色のつである。当事者の供述に対するきわめて懐 疑的な態度は (コモン・ロー訴訟手続の) もうつの特色である。……当事者宣 誓 (party oath) は大陸ではよく知られていたが,コモン・ロー裁判所が当事 者の供述を認めなかったイングランドでは受容されなかった」

190)

188) Ibid.

189) Ibid.

(12)

第に,同時代の「大法官府裁判所の訴訟手続」は,それが「コモン・ロー の厳格な限界の外側で発展した」こと,および大法官府裁判所の「聖職者的起 源」から,①エクイティ上の訴状 (bill of complaint) によってあらゆる種類の 事件について統一的な手続が開始されること,②陪審制の不存在,③プリーデ ィングの目的などの点で,コモン・ロー裁判所の訴訟手続とは本質的に異なっ ていた (16 世紀における世俗化〔laicization〕ののち,そしてまた当初のインフォ ーマリティが固定化した訴訟ルールに移行したのちでさえ,大法官府裁判所の訴訟 形式の方がヨリ近代的であって,ヨーロッパ共通型の学識訴訟にヨリ類似してい た)

191)

「両者の手続の本質的相違は,出発当初は正当であった。……簡素で迅速な 司法という最初の段階が終わると,大法官府裁判所は,学識的かつ書面的な処 理方法を発展させて,それは非常に厄介で,長たらしく,複雑な訴訟手続に転 じた。プリーディングは書面により,証人への質問も同じく書面に記録された

(書面による証言録取書〔written depositions〕は,15 世紀半ばに初めて出現した) 。 大法官府裁判所の主事 (masters) の多くはローマ法の教育を受けた者 (civi- lians) であったため,これらの技術はそれだけいっそう大法官府裁判所にとっ ては容易なものであった」

192)

「われわれは,コモン・ローがいかに当事者の供述に不信を抱いていたかを すでに見ておいたが,エクイティにおいてはそれとは逆に,訴状 (bill) は,

救済を求めるとともに,開示することすなわち訴状で述べられた事項に対し宣

190) しかしながら,大法官府では被告は宣誓のうえで質問され,その回答は被告自身に対 しても証拠能力を有したのであり,1851 年証拠法(Evidence Act)は当事者証言が証拠 能力を有するものとした(Id., at 74)。

191) Ibid.

192) Ibid.「書証,捺印文書(document under seal)または裁判所記録は中世以来重要で あったが,証人の口頭での証言はあまり多用されず,証人に出頭を強制する方法はなく,

自発的証人はまったく利用されなかった。……16 世紀にコモン・ローの分野で口頭での 証人が次第に頻用されるようになったことは,確かに大法官府から何らかの影響を受け ていた。すなわち,証人の出頭強制のための手続を定めた 1563 年制定法(statute)は,

大法官府裁判所の罰則付召喚令状(subpoena)手続を借りたものである」(Id., at 73)。

(13)

誓のうえで答弁することをも,被告に対して一連の質問書の形式で求めたので ある。これは明らかにローマ = ゲルマン法上の訴点決定訴訟 (positional proce- dure) に由来するもので,訴訟を真の争点に絞り込むために,相手方当事者に 自白させるという同一の目的を有する。被告が宣誓のうえでこのような答弁を したのちに,宣誓にもとづく証人尋問のために原告および被告側代理人によっ て質問書が準備された。原告および被告には,彼らのために隔離尋問 (sepa- rate examinations) が実施された。ここでもまた,関係者がロンドンないしそ の近郊に住んでいない場合には,特別受命裁判官 (special commissioners) によ ってこの尋問が行われ,そこに住んでいる場合には,尋問官 (examiners) が 実施した。これらのすべては非公開で (in camera) 実施されたので,反対尋問 はなかった。当事者が手数料を支払って公表された証拠のコピーを入手してか ら,事件は審問に熟する (ripe for hearing) のであった。一般的にいえば,大 法官府裁判所の訴訟におけるプリーディングは,コモン・ローの場合よりも司 法官 (officers) のはるかに密なコントロールに服した」

193)

末尾でカネヘムはこう総括する。「コモン・ローとエクイティは,いずれも 現行法の欠陥に対する救済として出発し,国王の直接の介入によって例外的か つ迅速な解決を与えたが,大法官府は遅れて登場したため,ヘンリー世の改 革が実施された時にはまだ利用できなかったローマ = カノン訴訟から借用した。

18 世紀末までには,コモン・ロー訴訟と大法官府訴訟は,いずれも多くの点 でアルカイックで迷宮のように複雑となっており,ルールは法典化されておら

193) Id., at 74-75. なお,「大法官府裁判所は,インジャンクションと判決(decree)とに よって,対物的にではなく対人的に作用する。すなわち人に対する強制によってのみ財 産上の権利に対して作用することができる。被告は罰則付召喚令状によって(sub poena),答弁するように召喚され,罰金の警告のもとに,ディスカヴァリーのメカニズ ムによって宣誓のうえでの開示(disclosure)を強制され,差止命令令状(writ of in- junction)は,被告を直接的かつ個人的制約下に置いて,裁判所侮辱の手続によって服 従を強制しうるのである。コモン・ローは財産,土地に対して直接に作用した。コモ ン・ローの訴訟手続は,コモン・ローの起源が土地法であったということと結びついて おり,大法官も財産に対してはたらきかけることができるようになったのはもっと後の 段階であった,ということを忘れるべきではない」(Id., at 75)。

(14)

ず,一部は裁判所の少数の命令にもとづいていたが,主に伝統的な実務と慣行 の静かな発展に依存していたのである。大法官府の訴訟手続は,明らかにコモ ン・ローのそれよりも近代的なのであるが,その当初のインフォーマルさから 離れてしまい,車輪が一周して元に戻ったときに,19 世紀の大改革の過程で 古いコモン・ロー訴訟とともにまとめて取りのけられた」

194)

第に,16 世紀ないし 18 世紀の「訴訟に関する文献」については,「イン グランドは訴訟手続に関する相当数の文献を生んだが,グランヴィル以来ずっ と実体法と手続法との関連がきわめて密接であったため,訴訟手続に特化した 文献は遅い段階で出現した」として,17 世紀後半以降の著作を列挙する

195)

第に,「海外のイングランド法」を展望して,「この時代には,イングラン ド法は大洋を越えて外国の海辺に達し,アングロ = サクソン法体系の世界的拡 大の基礎となった」,「北米のイングランド植民地は,独立後も,若いリパブリ ックにおける強い反英感情にもかかわらず,イングランドの法体系はその訴訟 手続とともに多少なりとも完全に受容され,これは州の大多数においてもそう であった。大法官府の裁 判 権

ジュリスディクション

は,植民地時代には,政府および参議会

(council) ,または下院 (assembly) ないし若干の特別裁判所によって不規則か つ断続的に行使されたが,それは司法の正規の部門となり,コモン・ロー裁判 権を有していたのと同じ裁判所によって通常行使されるようになった」と述べ る

196)

中世スコットランドにおけるイングランド法の影響 (令状〔brieves〕と 陪審を伴う) が衰えたのち,「中央裁判所および中央の制定法を欠いていたた め,国家的

ナショナル

な法体系と訴訟手続の出現が妨げられた。1532 年に,現在の民事 上級裁判所 (Court of Session) の起源である常設的な College of Justice すなわ ち専門的裁判官を伴う真の最高裁判所が創設された。元来その初代長官と裁判 所構成員の半数は聖職者であったが,その数はのちに減少し,1668 年以降は,

194) Ibid.

195) Id., at 75-76.

196) Id., at 76.

(15)

世俗裁判官のみによって構成されるようになった。スコットランドもまた,ロ ーマ = カノン訴訟という形の共通 (普通) かつ近代的訴訟形式を獲得した」

197)

。 スコットランド法および慣習についての記録が乏しかったことから,スコット ランドの法律家は,国家的・近代的法制度を確立するために,残存する法とし てはもっとも参考になる,コスモポリタン的な学識的ユス・コムーネすなわち ローマ法に 16 世紀に方向転換したのである。「いまやスコットランドは,ロー マ法そのものは明示的な権威を有しないものの,ローマ法を『継受した』諸国 の列に正式に加わった」。民事訴訟における陪審は 16 世紀後半には完全に忘れ られた

198)

民事上級裁判所 (Court of Session) は下位の裁判所 (教会裁判所と封建裁判所)

をコントロールし,手続規則 (Acts of Sederunt) を通じて広汎な立法的権限を 行使したが,「中央の諸裁判所が統合されると,召喚状 (summons) が主な最 初の令状 (initial writ) として現れ,下級の裁判官に職務を行うよう指示する のではなく民事上級裁判所を構成する上位裁判所 (supreme court) に直接召喚 することがもっとも顕著な特色となった」。この召喚状はシンプルで (開始令 状として,ラテン語の pleadable brieve からスコットランド語の玉璽

召喚状〔sig- neted summons〕に移行した) ,「訴権の法的名称や求められている救済の特定は 不要であった。ローマ = カノン訴訟のおなじみの抗弁は防御する者が利用でき た (却下,延期的抗弁,滅却的抗弁) 」。「証人は宣誓のうえで審問を受け,通常 は名ないし名の民事上級裁判所裁判官 (Lords Ordinary) が証人尋問に携 わる。当初は,弁護士が,証人に対し尋問してほしいと思う論点について陳述 して,質問書 (interrogatours) をときどき提出したものの,裁判所および書記 官が非公開で (privately) 収集した。1686 年法により,証拠を指定して,両当 事者ないしその弁護士立会いのうえで審理するようになった。証人は,伝聞を

197) Id., at 76-77.

198) Id., at 77.「スコットランドにとって,学識訴訟はまったく新しい存在ではなかった。

スコットランドの法学徒は,長きにわたって若干のヨーロッパ大陸の大学で目立ってお り,16 世紀および 17 世紀においてそのような存在であり続け,教会裁判所は中世スコ ットランドのかなりの量の裁判業務を処理していた」(Ibid.)。

(16)

排除するために自らの知識の根拠を述べなければない。証人は彼を申請した当 事者によりまず尋問され,それから反対尋問,そして再尋問等々と続き,必要 であれば裁判官ないし受命裁判官が最後の尋問を行う」

199)

。新しい訴訟手続に 関する最初の著作は 17 世紀初期に刊行されたが,それは「1532 年 (の College of Justice の創設) 以来,どれほど迅速にローマ = カノン訴訟のルールがスコッ トランドの世俗裁判所の当時の実務と融合して単一の国家的制度となったかを 示している」。「ローマ化の波は,たとえばステア子爵ジェームズ著『スコット ランド法提要』 (1681 年) に顕著であるが,18 世紀にはヨリ国家的

ナショナル

な光景を前 に退いていった。1750 年以降,スコットランド法の試験が法曹へのすべての 新規加入者に対し必須となったことが重要である。あらゆるところで国家的法 典が優勢となり,ローマ法は,ultima ratio としての自然法に道を譲っていっ た」

200)

スウェーデンにおいても,「中世の裁判所とその訴訟手続は近代的制度 に道を譲った。上級裁判所が,学識裁判官と,ローマ = カノン訴訟・ドイツ

『普通法訴訟』を基礎とする訴訟手続とともに,導入された」。

「1538 年に,グスタフ・ヴァーサ国王は,ドイツを範として,各 地 域

プロヴィンス

内で の最高の司法権と行政権が委ねられた統治委員会 (Regementsråd) の設立に着 手し,そこでの手続は,1507 年ドイツ帝室裁判所法 (Reichskammergerich- tsordnung) の示唆を受けたものであった。しかしながら,他の実験的制度で ある 1561 年の国王参審団 (Royal or Supreme Nämnd) と同様に,わずか数年し か続かなかった」。17 世紀には,スウェーデンの一般的発展,王権の発達,ド イツとの交流の緊密化によって,ローマ法の影響が真の継受に達したが,「決 定的な一歩」は,1614 年訴訟王令 (Rättegångsordinantie) によるスヴェア高等

199) Ibid.「その手続の間に,さまざまな論点ないし事件全体までも,一方当事者が他方の 宣誓に委ねた。これは,フランス法から借用した真実性の宣誓(決訟的宣誓 serment décisoire),……不濫訴宣誓(oath of calummy),訴訟に対する宣誓(oath in litem),補 充的宣誓のいずれかであろう。当時のヨーロッパ大陸訴訟法を知っている者には,これ らはすべて非常に馴染み深いものである」(Ibid.)。

200) Ibid.

(17)

裁判所 (Svea Hovrätt. 法的訓練を受けた裁判官を含む中央裁判所。ストックホルム に所在) の設立であった (グスタフ・アドルフの時代。そのほかに,Åbo〔1623 年〕,Dorpat〔1630 年〕などにも高等裁判所〔High Courts〕が置かれた) 。ライデ ンで学び,ウプサラで教育に携った Loccenius の著作 Synopsis Juris (1653 年 刊) は,学識的普通法にもとづき,裁判実務上重視された。自国法 (native law) もローマ法も大学で教授された

201)

。17 世紀の間に裁判実務によって次 第に無視されていった後期中世法にとってかわった近代的 国家

ナショナル

法典である 1734 年スウェーデン王国法典 (Sveriges Rikes Lag) は,訴訟手続法 (rätten- gångsbalk) と強制執行法 (utsökningsbalk) のつの手続法的セクションを含 み,「1734 年法典を準備した委員会の多くのメンバーは,スヴェア高等裁判所 の裁判官であって,その実務が法典に影響を与えた」。「地方の裁判所では,口 頭かつ公開の手続が占め続けた。当事者と証人は,当事者からの申出または職 権により尋問できた。裁判所は主張および証言の書面による記録を保管し,口 頭での弁論は書面の陳述 (written statements) により補充できた。……18 世紀 初期以降,国家の上訴裁判所 (the national appellate tribunals) における手続は,

非公開の部 (closed sessions) において主に書面で実施された。上級裁判所は,

一般にその審査を下級裁判所が作成した記録と当事者が提出した書面による説 明とに限定し,口頭の証言ないし弁論はほとんど認められなかった。1614 年 王令は,高等裁判所 (High Court) について,上訴もその他の民事訴訟も口頭

201) Id., at 78. 引用文中の「統治委員会」(Regementsråd)については,Kohler, supra note 118, 73 は,sog. Regimentsrat とドイツ語に直訳し,Id., at 77 N. 318 は,diesem höchsten Provinzgericht すなわち「地区(地域)最高裁判所」と言いかえている。

「1734 年スウェーデン王国法典は,民会から,専問職裁判官および参審員(nämnde- män)により構成される裁判所への権限の移譲(はるか以前に実現されていた),および,

明瞭な裁判所のヒエラルヒーを承認した。地区裁判所(häradsrätt)は,農業地域(田 園地帯)のための第審裁判所であり,地域のラーグマン裁判所(lagmansrätt)に対し て控訴でき,それから高等裁判所(hovrätt)に上告できる。都市においては,高等裁判 所に直接上訴できるつの審級が存在した(都市下級裁判所〔kämnärsrätt〕および都 市裁判所〔rådhusrätt〕)。最高裁判権は,通常は国王を代理して,国王の評議会のセ クション(justitierevision)が行使した」(Ibid.)。

(18)

と書面の併用によって進められることを許容したが,1695 年訴訟法 (Rätte- gångsförordning) は,上訴における書面のフォーマルな交換を強制した。それ は,近代高等裁判所 (Hovrätt) のほとんど全面的に書面による訴訟手続の基 礎となった」

202)

。参審団 (nämnd) は証明参審 (proof-jury) としての古い地位 を脱して,判決中の投票権 (発言権) を有する裁判所の構成組織へと発展し,

1614 年王令によってそのような性質のものとして制定法上認知された

203)

。 ドイツ「普通訴訟」の形でのローマの影響は,スウェーデン民事訴訟制度の あらゆるターニング・ポイントにおいてあらわれていたが,18 世紀からは弱 くなり始めた

204)

#

第部「『アンシャン・レジーム』の学識訴訟 (16-18 世紀) 」の末尾に 置かれた「ビザンティウム (ビザンティン帝国) と東欧」は,①序論,②ビザ ンティウム,③ブルガリア・セルビア・ルーマニア,④ロシアの各項目から構 成されている。

まず「序論」においてカネヘムは次のようにいう。「帝国の東部でローマ帝 国の支配はさらに 1000 年続き,ビザンティン帝国は,スラヴ起源の新しいヨ ーロッパ諸国に対し,政治的・文化的・社会的影響力を拡大した。東部におい ては,出発点からしてユスティニアヌス法典が基礎であり,西部においては 12 世紀まで同法典は受容されなかったが,結局のところ,東西のいずれにお いても,ゲルマンないしスラヴの古代にまで遡るかあるいは中世特有の状況下

202) カネヘムは,①法定証拠理論のように,外国法は証拠法の分野に大きな影響を与えた,

②被告の不出頭にかかわらず,原告が提出した証拠にもとづいて判決がなされた,③原 告が半証明(half-proof)以上に進めない場合には,裁判所は原告に当該財産の暫定的占 有(provisional possession)を認める旨の判断をすることができた,④おなじみの延期 的・滅却的抗弁,争点決定(litiscontestation),不濫訴宣誓(calummyoath)は欠けて いたようであるが,旧式な雪冤えん宣誓(purgatoryoath)は 17 世紀まで存続した,と指摘 する(Id., at 78-79)。

203) Id., at 78.

204) Id., at 79.たとえば,Nehrman の著書『自国の法律学におけるローマ法の過剰・濫用』

De abus juris romani in jurisprudentia patria(Lund, 1730)などが,この新しい傾向を 示しているとカネヘムはいう(Ibid.)。

(19)

で生まれたさまざまな量の慣習法と混合した,ローマ法大全 (Corpus Juris Civilis) が,最終的には法の基礎となった。いずれの場合も,ローマ法と法学

(legal learning) の保存と普及に教会が重要な役割を果たしたが,帝国法の研究 と教会のカノン法準則 (canons) の研究との間には密接な関連があった。すな わち,西においてはローマ = カノン訴訟と両法 (utrumque ius) 研究の伝統と があり,ビザンティウムとスラヴ諸国においては,nomoi は世俗法,canones は教会の布告 (decree) であるから,教会関係法令集の伝統 (nomocanonical tradition) が同じく重要であった」

205)

。しかしながら東西の大きな相違として,

「東では,ユスティニアヌスが彼の編集物を刊行したときに華々しいスタート を切ったが,この高い水準を維持することはできなかった。法学と帝国の立法 は衰え,地方慣習が自己主張をし,バシリカ法典の絶大な努力ののちに,要約,

抜粋のコレクション,非独創的なダイジェストがビザンティウムにおける主要 な内容となった。それらは,自分自身の有力な法伝統を有していた正教的なス ラヴ民族およびルーマニア民族の中に,東ローマ法 (East-Roman law) を広め る重要な仲介となった。このビザンティウム = スラヴ路線の発展は,それがフ ランス・ドイツ・オーストリアの西洋の大法典化の前に後退してゆく 18 世紀 および 19 世紀まで続いた。……西の諸大学での比類のない体系的研究と,西 側諸国の政治的・技術的・経済的卓越性とから,ついにはビザンティン文化圏 諸国にとどまらず,ギリシア,自らの継続的および自立的政治生活を発達させ てきた唯一のスラヴ国家であるロシアにおいてすら,西洋法の継受が生じ た」

206)

第に,ビザンティン帝国の法は基本的にはユスティニアヌス法であったが

($世紀の勅法集成〔Codex〕,学説彙集〔Digesta〕,法学提要〔Institutiones〕など) , 若干の慣習的・ギリシア的・スラヴ的・東方的要素も流入し,726 年に皇帝レ オ世と後継者コンスタンティノス世が連名で公布したエクロガ法典 (Eclo- ga) は,ローマ法大全の小型の体系的ダイジェストであるとともに,ユスティ

205) Ibid.

206) Ibid.

(20)

ニアヌス法と抵触しない場合に東方で生き残っていた大量の卑俗法を含むもの であった (エクロガ法典は,ビザンティンとその属州,およびその継承国家である ブルガリア,セルビア,ルーマニア,ロシアにおいて,継続的かつ基本的重要性を 有した) 。エクロガ法典とほぼ同時期の世紀ないし%世紀ごろに,Nomos Georgikos これは農村共同体の法を扱い,ユスティニアヌス法典と,属州 における原初的・民衆的な慣習とを内容とする などの重要な法書が生まれ た

207)

。カネヘムは,「続く数世紀には,古えのローマの秩序を回復しようとす るこころみを目撃する」として,「870 年から 879 年の間に,Basil

世がプロ

ケイロン法典 (Prochiron) を刊行したが,これは 40 編の体系的ハンドブック であって,依然として利用されていたローマ法大全の諸要素を保存し,エクロ ガ法典を含み,それにさまざまな修正や追加を施したものであった。それは訴 訟手続とりわけ証人について定めていた。賢王レオ$世 (886 年-912 年) は,

ローマ法大全の全体を一つの一貫した作品に完全に改作し,体系的順序に 60 部に分かったバシリカ法典 (Basilica) を刊行した。それは大全 (Corpus) の残 存するギリシア版を利用し,勅法集成 (Codex) のプランに従ったもので,訴 訟手続が相当な場所を占めていた。この重要な作品ののち,帝国の立法は急激 に衰え,もはや帝国法の書物は出版されず,改正立法集 (novellae) も稀であ った」と概観する

208)

。しかし,民間の著者による古い書物の新版 (プロケイロ ン法典の新版であるエパナゴーガ法典〔Epanagoge.879-886 年〕など) ,ダイジェ ストや抜粋のコレクションが刊行され,「それらは最終的にテッサロニカの裁 判官であるハルメノプーロス (Constantine Harmenopulos) による 1345 年のき わめて重要な$巻書

ヘクサビブロス

(Hexabiblos) に結実した。ギリシアでは,$巻書

ヘクサビブロス

はトル コによる支配後も存続し,1946 年民法典まで権威的著作として残り,先に掲 げた若干の著作と同様に,他の正教諸国においても大きな役割を果たした」

209)

。 国家法と教会法を冊に収めた教会関係法令集 (nomocanons) は,いくつかの

207) Ibid.

208) Id., at 80.

209) Ibid.

(21)

版と注釈書が流通したが,「それらはビザンティウムおよび正教スラヴ諸国に おいて大きな役割を果たし,1335 年に教会関係法令集・プロケイロン法典・

バシリカ法典からの資料をアルファベット順に収集した,アトス山出身の僧 Matthew Blastares の分類配列集 (Syntagma) に,百科全書的頂点がうかがわ れる。……これらの著作はすべて規範的な (normative) ものである。裁判実 務については,法的決定

(判例)

集録 (Peira) すなわち 1050 年の直前に裁判官 Eustathius の調書からの抜粋を集めたもの以外は,われわれにはほとんど残 っていないものである。ビザンティンの訴訟手続は,後期ローマ帝国の特別訴 訟手続 (extra ordinem) にもとづいており,……書面の役割は重要であった。

訴訟は口頭であったが,すべては詳細な調書 (protocols) に記録され,それは 当事者に利用可能であった。裁判官は強力な訴訟指揮権を有していた。被告は,

彼の防禦のすべての要素を一度に提出するものとは考えられていなかったが,

訴訟の過程でそうすることは可能であり,これは中間判決に到る可能性があっ た。原告は,書面の訴状 (libellos) で訴訟を開始し,相手が欠席者であっても,

証拠を提出しなければならない。争点決定 (litis contestatio) は重要な要素で あった。証人の審問 (the inquest and the interrogation) は裁判官に委ねられて おり,裁判官は証人を拒絶し,当事者に宣誓を猶予し,実体的真実の解明に必 要なあらゆることを命ずることができた。裁判所は通常は単独裁判官により構 成された。多くのテキストが,証人の役割・質・人数,宣誓,書証について,

書証の優越を認めながら,論じている。原則として,名の証人による証言は 不十分であるとみなされていた。推定は重要な役割を果し,詳細な規律の対象 であった。……時がたつにつれて教会裁判所が優勢となり,ギリシア = ビザン ティン法 (Greece Byzantine law) は,トルコによる支配の時代を通じて,主に 教会のおかげで自らをすぐれた状態に維持できたのである」

210)

第に,バルカン諸国を構成するブルガリア,セルビア,ルーマニアについ ては,「ビザンティン文化・宗教圏に属するこれら国の法は,学識的東ロー

210) Ibid.

(22)

マ的要素と慣習的自生的要素 (learned East-Roman and customary native ele- ments) とから構成された。ユスティニアヌス法のより短いさまざまなヴァー ジョンや,若干の教会関係法の著作 (nomocanonical works) が,早くからギリ シア語から翻訳され,ビザンティンの形式でローマ法を広めた。同時に,より 原初的な自生法が実務で用いられ,部分的には記録されていたが,時の経過に つれて学識法に道を譲ってゆき,そのプロセスは 1453 年のコンスタンティノ ープル陥落まで決して衰えたり中断されたりすることはなかった」と展望す る

211)

まずブルガリアについて,①最古のスラヴ法典の大半はエクロガ法典から採 用されており, (プロケイロン法典が現れた最後の年である) 879 年より前に翻訳 されたエクロガ法典は 10 世紀においてブルガリアで権威を有していた (「エク ロガ法典の成功は,それがローマ法大全よりもスラヴの文明状況にヨリ近かったこ とからすれば,理解できる」とカネヘムは指摘する) ,②教会関係法令集 (nomo- canons) の最古のヴァージョンが (882 年より後に) スラヴ語に翻訳され,ブル ガリアで絶大な権威を有した,③「一般的にいえば,古ブルガリア法のテクス トはビザンティン法源にもとづいていた。エクロガ法典と教会関係法 (Nomo- canon) の翻訳がしばしばいっしょに流通した」,とする。「最古のスラヴ国家 であるブルガリアが 1396 年に崩壊し,コンスタンティノープルが 1453 年に崩 壊したのちは,教会はかなり広汎な独立の民事裁判権を行使した。教会裁判所 は,教会関係法令集 (Nomocanon) ,Blastares の分類配列集 (Syntagma)〔14 世紀半ばまでに,そのブルガリア版が出現した〕 ,$巻書

ヘクサビブロス

を使用し,まさに 19 世 紀まではビザンティン的観念の普及に貢献した。とりわけ,Blastares の分類 配列集は,ギリシア = スラヴ諸国の聖職者,世俗裁判官,君公にとって司法事 項のガイドとして役立った (17 世紀にそれはロシア語に翻訳された) 。ロシア,

セルビア,ブルガリアでは教会は今でも教会関係国法集を使用している」

212)

。 セルビアでは,もっとも完全な教会関係法令集である「Photius の教会関係

211) Id., at 81.

212) Ibid.

(23)

法令集」を 1219 年に聖 Sava が翻訳し (ブルガリア教会により継受された) ,14 世紀にはドゥシャン (Duchan) による有名なセルビア語とギリシア語の三部 法典が公表され,それは,① Blastares の分類配列集の縮訳,②「ユスティニ アヌスの法」と呼ばれた Nomos Georgikos のセルビア語での要約,③原初的 なセルビア慣習法 (神判など) および大量の訴訟手続を含むドゥシャン法典

(Zakonik) から構成されていた。「この三部法典はトルコの支配下でも効力を 保ったが (改正はなされた) ,ビザンツ的要素はトルコ法およびセルビア慣習法 に道を譲り,最終的には 19 世紀に西洋モデルに服した」

213)

ルーマニアについては,①ルーマニアの正教公国 (orthodox Rumanian princi- palities) であるモルダヴィアとワラキアは長きにわたってスラヴとりわけブル ガリアの影響下にあり,ビザンティン法が 17 世紀半ばまではギリシア語から スラヴ語に翻訳されて教会法令集の形でこれらの公国に到来した,②ビザンテ ィンの伝統はブルガリアの土着の慣習と対抗しなければならなかったが,訴訟 手続は全体として慣習法よりも成文法の方に接近する傾向があった,③ 17 世 紀にはルーマニア語の印刷が可能となり,ビザンティン法の継受が次第に増加 していった,④「18 世紀および 19 世紀初めには,ギリシアの影響はピークに 達し,その主な典拠となったのは西洋版のバシリカ法典と$巻書

ヘクサビブロス

であり,その ほかに伝統的な Blastares (の『分類配列集』) および Malaxos であった。1765 年のワラキア法典は,依然としてその内容を『すべての帝国法および教会法』

から採用していた」,⑤「1821 年革命ののち,ルーマニアは自国法を近代化す るために西欧に眼を向けたが,1812 年にロシアが獲得したベッサラビア (Bes- sarabia) では,$巻書

ヘクサビブロス

とバシリカ法典が 1918 年まで法の効力を有した。そこ は,20 世紀においても純然たるビザンティン法のもとで生活している唯一の 国であった」,と解説している

214)

第に,「ロシアの法発展の一般的なパターンは明快であった。すなわち,

①原初的な自生の慣習および教会経由のビザンティンの影響の時代,それに続

213) Ibid.

214) Id., at 81-82.

(24)

くのが,②ビザンティンの帝国理念にインスパイアされた (コンスタンティノ ープルの継承者であるモスクワ大公国を基礎とする) 近代的中央集権君主制の時 代であり,そののちに③ヨリ発展したヨーロッパ諸国から刺激を受けた時代と なった」。カネヘムによれば,「ロシア的伝統の法源 (sources of the Russian tradition) は,西ヨーロッパに類似していて,地方慣習,教会法および (東)

ローマ法,法学,国家の制定法であったが,それぞれの重要性は異なっていた。

国家の中央組織による制定法はヨリ大きな役割を果たしたけれども,裁判実務 の役割は比較的小さかった。ビザンティンの帝国法および教会法の継受は,旧 式な法書の翻訳によって,断片的な形で生じ,それは,中世ローマ法が一貫し た包括的な体型の形をとっていた西洋の諸大学におけるローマ法の体系的かつ 科学的研究とは,非常に異なっていた。ロシアの大学におけるローマ法の研究 は,1755 年のモスクワ大学の創立をもって始まり,19 世紀の初めに他の諸大 学がこれに続いた」

215)

まず①アルカイックな慣習法すなわちルースカヤ・プラウダ (Russkaia

Prav- da) の時代 (11 世紀から 15 世紀の中世ロシアの農業社会で,プスコフ〔Pskov〕お よびノヴゴロド法の時代) の訴訟手続は,「口頭かつ公開であり,糺問主義的態 度の痕跡は殆ど残っておらず,その反面で裁判官は当事者間の抗争を監督する

(supervise) ことに甘んじていた。証拠の分野では,神判,当事者・宣誓補助 者・証人による形式主義的宣誓がみられる。初期には,エクロガ法典およびプ ロケイロン法典などの翻訳の形で,ビザンティンの法思想が現存していた」

216)

「このビザンティンの影響は, (たとえ俗人裁判所がルースカヤ・プラウダに忠実 なままであったとしても) とりわけ訴訟手続の分野で根本的な重要性を有して いた。ビザンティンの伝統である証人に関するルールは,偉大な革新として,

教会関係法令集のビザンティン世界に属するロシア教会によって,ロシア法に

215) Id., at 83, 86.

216) Ibid.「翻訳された教会関係法令集(Nomocanon)は Kormchaja Kniga と呼ばれ,多 くのヴァージョンで流布したが,最初は Johannes Scholasticus の教会関係法令集の形で ロシア教会の指導書となり,それから『Photius の教会関係法令集』の形でセルビアで 翻訳されて,13 世紀にブルガリア経由でロシアに受容された」(Ibid.)。

参照

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