第6章 幕藩体制の確立 1.織豊政権 近世01 教p156 ヨーロッパ人の東アジア進出 図表 ?なぜ,この時期(15世紀後半~16世紀)にヨーロッパ人が東アジ ※ 1492年 , イタ リア 人 アに進出したのか コ ロ ン ブ ス は ス ペ イ ン [背景] ルネサンスと宗教改革をへて近代社会へ移行しつつあったヨ 女 王 イ サ ベ ル の 援 助 に ーロッパ諸国は,イスラーム世界に対抗するために,キリス よ っ て 大 西 洋 を 横 断 し ト教の布教,海外貿易の拡大などをめざして世界に進出した て西インド諸島に達し, =>世界の諸地域が広く交流する大航海時代とよばれる時代に入った。 1498年 に は ポル トガ ル 人 ヴ ァ ス コ = ダ = ガ マ ?大航海時代を主導した国はどこか が ア フ リ カ 大 陸 南 端 を →イベリア半島の王国(1 スペイン=イスパニア)と(2ポルトガル )ま わ っ て イ ン ド 西 海 岸 [スペイン] の カ リ カ ッ ト に 到 着 し ・アメリカ大陸に植民地を広げ,16世紀半ばに太平洋を横断して東ア た 。 ま た ポ ル ト ガ ル 人 ジアに進出,フィリピン諸島を占領,(3マニラ )に拠点をおく マゼランは16世紀初め, [ポルトガル] ス ペ イ ン の 船 隊 を ひ き ・インド西海岸のゴアを根拠地にして東へ進出,中国の(4マカオ )い , ア メ リ カ 大 陸 南 端 に拠点をおく を ま わ っ て 太 平 洋 に 出 ?これらの国々は,東アジアに進出して何をしたか て フ ィ リ ピ ン 諸 島 に 到 ・当時の東アジア地域では,なお明が海禁政策をとって私貿易を禁止 着 し , そ の 一 隊 は さ ら していたが,環シナ海の中国・日本・朝鮮・琉球・安南(ベトナム) に 西 進 を 続 け て 世 界 周 などの人びとが,国の枠を越えて広く中継貿易をおこなっていた。 航をなしとげた。 =>ヨーロッパ人は世界貿易の一環として,この中継貿易に参入してき た。 南蛮貿易とキリスト教 ?日本人とヨーロッパ人はどのように出会ったか ・1543年に(5ポルトガル人)を乗せた中国人倭寇の船が,九州南方 の(6 種子島 )に漂着 →島主の種子島時堯は,彼らの持っていた鉄砲を買い求め,家臣にそ ※ 南 蛮 人 は , 中 国 の 生 の使用法と製造法を学ばせた。これ以後,ポルトガル人は毎年のよ 糸 や 鉄 砲 ・ 火 薬 な ど を うに九州の諸港に来航し,日本との貿易をおこなった。 も た ら し , 16世 紀 中 ご ・スペイン人も,1584年肥前の平戸に来航,日本との貿易を開始した。ろ か ら 飛 躍 的 に 生 産 が =>当時の日本では,ポルトガル人やスペイン人を(7 南蛮 人)と 増 大 し た 日 本 の 銀 な ど よんだので,この貿易を南蛮貿易という。 と交易した ?鉄砲の伝来は,日本にどんな変化をもたらしたか =>[a鉄砲は戦国大名のあいだに新鋭武器として急速に普及し, 足軽鉄砲隊の登場は従来の 騎馬戦を中心とする戦法を変え, 防御施設としての 城 の構造も変化させた。] ?南蛮貿易とともに,キリスト教はどのように伝わったか ・南蛮貿易は宣教師の布教活動と一体化しておこなわれてい た。 →1549年,日本布教をこころざした(1 イエズス 会) (耶蘇会) の宣教師,フランシスコ=ザビエルが (2 鹿児島 )に到着し, 大内義隆・大友義鎮(宗麟)らの 大名の保護を受けて布教を開始した →その後,宣教師はあいついで来日し, ・南蛮寺 (教会堂) ・コレジオ (宣教師の養成学校) ・セミナリオ(神学校)などをつくって布教につとめた =>ポルトガル船は,布教を認めた大名領に入港したため,大名は貿易 ※ 当 時 , ヨ ー ロ ッ パ で をのぞんで宣教師の布教活動を保護し,なかには洗礼を受ける大名 は 宗 教 改 革 に よ る プ ロ もあった。(=3 キリシタン大名) テ ス タ ン ト の 動 き が 活 ※キリシタン大名の大友義鎮・有馬晴信・大村純忠の3大名は,イエ 発 で あ っ た が , カ ト リ ズス会宣教師ヴァリニャーニのすすめにより,1582(天正10)年, ッ ク 側 も 勢 力 の 挽 回 を 少年使節をローマ教皇のもとに派遣した(=4 天正遣欧使節 ) は か っ て , ア ジ ア で の ↑伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4少年 布 教 に 力 を 入 れ る 修 道 が派遣され,ゴア・リスボンをへてローマに到着し,教皇グレゴリウ 会 も 多 か っ た 。 そ の 一 ス13世にあい,1590(天正18)年に帰国した。 つがイエズス会である。 当 時 日 本 で は , キ リ ス ※宣教師の区別をしよう ト 教 を キ リ シ タ ン ・ 天 ガスパルヴィレラ←堺の様子の手紙 主 教 ・ 耶 蘇 教 な ど と よ ルイスフロイス←信長に接近 んだ。 ヴァリニャーニ←天正遣欧使節・コ ※ ザ ビ エ ル の あ と , ポ レジオ・セミナリヨ ル ト ガ ル 人 宣 教 師 ガ ス パ ル = ヴ ィ レ ラ や ル イ ス = フ ロ イ ス ら が 布 教 に つ と め , キ リ ス ト 教 は 急 速 に 広 ま った。
織田信長の統一事業 近世02 p158 ?信長はいかにして「天下布武」の道を歩んだか [信長の統一事業] 1560年 今川義元を尾張の(1 桶狭間 の戦い)で破る 1567年 美濃の斎藤氏を滅ぼして岐阜城に移る →(2「 天下布武)」の印判を使用し,天下を武力によっ て統一する意志を明らかにした。 1568年 畿内を追われていた(3 足利義昭 )を立てて入京し, 義昭を将軍職につけて,全国統一の第一歩をふみ出した。 1570年 (4 姉川の戦い)で近江の浅井氏と越前の朝倉氏を破り, [織田信長] 1571年 (5比叡山延暦寺 )の焼打ちをおこなう →強大な宗教的権威を屈伏させた。 ※信長の最大の敵は石 1573年 敵対した義昭を京都から追放(=室町幕府の滅亡) 山 本 願 寺 を 頂 点 に し , 1574年 伊勢長島の(7一向一揆 )を滅ぼす。 全 国 各 地 の 浄 土 真 宗 寺 →翌年には越前の一向一揆を平定 院 や 寺 内 町 を 拠 点 に し 1575年 三河の(6長篠 合戦)で騎馬隊を中心とする武田勝頼の て 信 長 の 支 配 に 反 抗 し 軍に大勝 ↑鉄砲を大量に用いた戦法 た一向一揆であった。 本願寺の顕如(光佐) 1576年 近江で壮大な(8安土城 )の建設開始 は,1570年に挙兵し,1 1580年 石山(大坂)の(9石山本願寺 )を屈伏させる 1年におよぶ石山戦争を 展 開し た が ,1580年 , ?なぜ信長が突出したのか ついに屈伏して,石山 →・信長は,強大な軍事力をつくりあげ,すぐれた軍事指揮官だった を退去した。 ・伝統的な政治や経済の秩序・権威を克服して,関所の撤廃など新 しい支配体制をつくることをめざしていた ・信長は,自治的都市として繁栄した(10堺 )を武力で屈伏させ て直轄領とするなどして,畿内の高い 経済力を自分のものとした ・安土の城下町に楽市 令を出して,商 工業者に自由な営業活動を認めるな ど,新しい都市 政策を打ち出してい った。 =>信長は京都をおさえ,近畿・東海・北陸 地方を支配下に入れて,統一事業を完成 しつつあったが, 1582年京都の本能寺で,配下の (11明智光秀 )にそむかれて敗死した (=12 本能寺 の変) 豊臣秀吉の天下統一 ?信長の後継者となった秀吉は,どのようにして天下を統一したか →・1582年 山崎の合戦で(1 明智光秀 )を討つ ・1583年 信長の重臣であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦で破り,信長 の後継者の地位を確立 同年 石山の本願寺の跡に壮大な大坂城の築城開始 ・1584年 小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長の次男)・徳川家康 軍と戦い,和睦 [ 豊臣秀吉 ] ・1585年 長宗我部元親をくだして四国を平定 木下藤吉郎 →朝廷から(2関白 ),翌年には太政大臣に任じられ, →羽柴秀吉 豊臣の姓をあたえられた →豊臣秀吉 =>関白になった秀吉は,天皇から日本全国の支配権をゆだねられ たと称して,全国の戦国大名に停戦を命じ,その領国の確定を 秀吉の裁定にまかせることを強制した(=3 惣無事 令) 惣無事令違反を理由に, ・1587年 九州の島津義久を征討して降伏させる, ・1590年 小田原の北条氏政を滅ぼす(小田原攻め) =>(4 伊達政宗 )ら東北地方の諸大名を服属させ,全国統一完成 ※1588年京都に新築 し た 聚 楽第 に 後 陽 成 ?秀吉の統一事業の特徴とはなにか 天 皇 を むか え て 歓 待 =>[a秀吉は,信長の後継者としての道を歩みながらも,軍事力 し , そ の機 会 に , 諸 だけでなく,伝統的権威を利用して新しい全国統一をめざした。] 大 名 に 天皇 と 秀 吉 へ の忠誠を誓わせた
?秀吉政権の特徴は何か 近世03 p161 [経済基盤] 図表 ・ばく大な(1 蔵入地 (直轄領)) ←各時代の直轄領をまとめよう! ※ 佐 渡 (金 )・ 石 見 大 森 ・主要な(2 鉱山 )を直轄領とした ・但馬生野(銀)など。 ・天正大判などの貨幣を鋳造 地図チェック! ・京都・大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市も直轄にして豪商を統 ※ 秀 吉 は 堺 の 千 利 休 ・ 制下におき,政治・軍事などにその経済力を活用した。 小 西 隆 佐 (行 長 の 父 ), [政治組織] 博 多 の 島 井 宗 室 ・ 神 谷 ・豊臣政権は秀吉の独裁が著しく,中央政府の組織の整備が十分おこ 宗 湛 ら の 商 人 の 力 を 利 なわれなかった。 用した →秀吉の晩年,腹心の家臣を(3 五奉行 )として政務を分掌させ, ※ 五 奉 行 は 前 田 玄 以 ・ 有力大名を(4 五大老)として重要政務を合議させる制度ができた 浅 野 長 政 ・ 増 田 長 盛 ・ 石 田 三 成 ・ 長 束 正 家 。 検地と刀狩 ~豊臣政権が打ち出した中心政策 大 老 は は じ め 徳 川 家 康 ・秀吉は新しく獲得した領地につぎつぎと検地を施行した ・ 前 田 利 家 ・ 毛 利 輝 元 (=5 太閤検地 )←太閤とは,前に関白であった人の尊称 ・ 小 早 川 隆 景 ・ 上 杉 景 [太閤検地の内容] ↓6尺3寸(約 191センチ)四方を1歩とし,300歩を1段とした。 勝 ・ 宇 喜 多 秀 家 で , 小 ・土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町・段・畝・歩に統一 早川隆景の死後,五大 ・枡の容量を(6 京枡 )に統一 老とよばれた。 ・村ごとに田畑・屋敷地の面積・等級を調 査(田畑に上・中・下・下々などの等級をつけた) →この1段当りの生産力を石盛といい, 石盛に面積を乗じて得られた量を(7 石高 (村高))という※石高=面積×石盛 ?検地の意義は何か p163 =>[a全国の生産力が米の量で換算された 石高 制が確立した。 また,荘園制のもとで一つの土地に何 人もの権利が重なりあっていた状態を 整理し,検地帳には実際に耕作してい る農民の田畑と屋敷地を登録した (= 一地一作人 ) [bこの結果,農民は自分の田畑の所有権 を法的に認められることになったが, 自分の石高に応じた年貢などの負担を義 務づけられた →秀吉は天下統一を終えた1591年,全国の大名に対し,その領国の ※太閤検地は, (8 検地帳(御前帳)と 国絵図)の提出を命じた。 「 天 正 の 石 直 し 」と =>これにより,[cすべての大名の石高が正式に定まり,大名は支配す もよばれる る領国の石高にみあった軍役を奉仕する体制ができあがった。] ←p163 ?刀狩のねらいは何か ※ 荘 園 制 下 の 農 民 は 刀 ・1588年 (1 刀狩 令) な ど の 武 器 を 持 つ も の =>農民から武器を没収して農民の身分を明確にし, が 多 く , 土 一 揆 や 一 向 [a 一揆を防止し,農民を 農業に専念 させるため] p163 一 揆 な ど で は , こ れ ら の武器が威力を発揮し ていた ※ 秀 吉 の統 一 事 業 は 中 世 の 旧体 制 を 改 め た 。 し かし , 中 世 の 惣 村 で 生み 出 さ れ た 自 治 的 な村 の 運 営 方 式 は 太 閤検 地 後 も 続 き , 年 貢な ど を 村 高 に も と づい て 村 の 責 任 で 一 括納 入 す る 村 ?人掃令のねらいは何か ※下記の補足も読もう 請 も , 江戸 時 代 の 村 ・1591年 (2 人掃 令) へ と 受 け継 が れ て い →武家奉公人(兵)が町人・百姓になることや,百姓が商人・職人にな った。 ることなどを禁じる →翌年には関白豊臣秀次が朝鮮出兵の人員確保のために前年の人掃 ※ 年 貢 の 納 入 額 は , 領 令を再令し,武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの戸数 主 に 石 高 の 3 分 の 2 を ・人数を調査・確定する全国的な戸口調査をおこなった。 納 入 す る 二 公 一 民 が 一 =>その結果,諸身分が確定することになったので,人掃令のことを 般的であった。 (3 身分統制 令)ともいう。 ?検地・刀狩・人掃令などの政策の意義は何か =>[b兵・町人・百姓の職業にもとづく身分が定められ,いわゆる 兵農分離 が完成した。] p164 ※人掃令と身分統制令は区別し辛いが,別の法令である。また,身分統制令 は最近は「身分法令」とされ,身分を固定化した制度とは評価されていない。 身分法令(身分統制令)も人掃令も,朝鮮出兵のために人員を把握し確保す るための制度といえる。しかし,結果的に身分統制の端緒となった。 1591年 (いわゆる)身分統制令・身分法令 ・・・・武家奉公人が町人や農民になって兵が減ったり,租税を負担す ← 教 科 書 で 採 用 さ れ て べき農民が転業することを禁じている。 い る 解 釈 と の 違 い を 考 1592年 人掃令・・・・関白秀次が発令。条文中に「人掃」の語あり。朝鮮出兵 えてみよう のための戸口調査の意味合いが強い。
秀吉の対外政策と朝鮮侵略 近世04 p164 ?秀吉のキリスト教に対する対応は,どのように変化したか 図表 →秀吉は,はじめキリスト教の布教を認めていた ※ こ の 時 , キ リ ス ト 教 ・1587年 九州平定におもむいたさい,キリシタン大名の大村純忠が を 捨 て な か っ た 播 磨 国 長崎をイエズス会の教会に寄付していることを知る 明 石 城 主 高 山 右 近 は , →大名らのキリスト教入信を許可制とする 領地をとりあげられた。 →(1 バテレン (宣教師)追放令)を出し,宣教師の国外 しかし一般人の信仰は, 追放を命じた。 「 そ の 者 の 心 次 第 」 と して禁じなかった。 ?秀吉のキリスト禁教はなぜ徹底されな かったのか ・1588年 海賊取締令を出して倭寇など の海賊行為を禁止し,海上支 配を強化するとともに,京都 ・堺・長崎・博多の豪商らに 南方との貿易を奨励した =>[a布教は 貿易 と一体化していた ので,キリスト教の取締りは不徹底 に終った] p164 ?秀吉の思い描いた東アジアの国際秩序 とは ・16世紀後半,明の国力の衰退により東アジアの国際秩序が変化しつ つあった。 →全国を統一した秀吉は,日本を東アジアの中心とする新しい国際秩 序をつくることをこころざし,ゴアのポルトガル政庁,マニラのス ペイン政庁,高山国(台湾)などに服属と入貢を求めた。 ?秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか ・1587年 秀吉は(2対馬 )の宗氏を通して,朝鮮に対し入貢と明 へ出兵するための先導を求めた。→朝鮮がこれを拒否 →秀吉は肥前の名護屋に本陣をきずき, ・1592(文禄元)年,15万余りの大軍を朝鮮に派兵(=3 文禄の 役)。 秀吉のキリスト教迫害 1596(慶長元)年,土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が,スペインが領土拡 張に宣教師を利用していると証言したことから(サン=フェリペ号事件),秀吉は宣教師・信者26 名を捕えて長崎で処刑した(26聖人殉教)。その背景には,日本への布教のため進出したスペイン 系のフランシスコ会とイエズス会との対立があった。 ←諸説あり [文禄の役] ・釜山に上陸した日本軍は,鉄砲の威力などによってまもなく漢 城(現,ソウル)・平壌(現,ピョンヤン)を占領した →しかし,(4 李舜臣)のひきいる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の 抵抗,明の援軍などにより,しだいに戦局は不利になった。 →現地の日本軍は休戦し,秀吉に明との講和を求めたが,秀吉が 強硬な姿勢をとり続けたため交渉は決裂した。 [慶長の役] ・1597(慶長2)年,秀吉はふたたび朝鮮に14万余りの兵をおくっ た(=5 慶長 の役) →日本軍は最初から苦戦をしいられ,翌年秀吉が病死すると撤兵 した。 ?文禄・慶長の役の意義は何か ※1593(文禄2)年から =>[b前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は,朝鮮の人びとを戦火に は じ ま っ た 和 平 交 渉 で まき込み,多くの被害をあたえた。また国内的には,ぼう大な戦 は , 和 平 の 実 現 を 急 ぐ 費と兵を無駄についやす結果となり, 豊臣政権を衰退 させる 現 地 の 武 将 た ち の 判 断 原因となった。] p165 で , 明 の 降 伏 や 朝 鮮 南 部 の 割 譲 な ど を 求 め た 秀 吉 の 要 求 は 明 側 に 伝 え ら れ な か っ た 。 そ の 結 果, 明 は 1596年に 使 者を派遣し,秀吉を「日 本 国 王 」 に 封 じ , そ の 朝 貢 を 許 す と い う 態 度 を と っ た の で , 交 渉 は 決裂した。 ※ 朝 鮮 で は 「 壬 辰 ・ 丁 酉 倭 乱 」 と よ ば れ て い る。 コラム 鉄砲・花火・鉱山 戦国時代は技術革新の時代であった。その生産技術を代表するのが鉄砲 の大量生産であった。鉄砲は,伝えられるとすぐ,和泉の堺,紀伊の根来 ・雑賀,近江の国友などで大量生産された。わずか7年後には畿内で鉄砲 を使用した戦闘がおこなわれ,十数年後には,全国的に大量の鉄砲が普及 していた。 この大量生産を可能にしたのは,当時の製鉄技術や鍛造・鋳造技 術の水準の高さであった。さらに鉄砲に必要な火薬製造の技術は, のちに平和な時代になると花火をつくり出した。また博多商人神谷 寿禎が朝鮮から伝えた「灰吹法」という精錬技術が銀の生産を飛躍 的に高め,鉱山開発ブームをもたらしたのもこの時代であった。
2 桃山文化 近世05 p165 ・信長・秀吉の時期をその居城の地名にちなんで安土桃山時代ともよ 図表 び,この文化を桃山文化という ※ 秀 吉 は , 晩 年 に 伏 見 ?桃山文化の特徴は何か 城 を き ず い て そ こ に 住 →・戦国の争乱をおさめ,富と権力を集中した統一政権のもとで,そ ん だ が , の ち そ の 城 跡 のひらかれた時代感覚が新鮮味あふれる豪華・壮大な文化を生み に 桃 が 植 え ら れ 桃 山 と 出した。 よぶようになった。 ・寺院勢力が信長や秀吉によって弱められたため,文化の面でも仏 教色がうすれ,現実的で力感ある絵画や彫刻が多く製作された。 ・西欧文化との接触がはじまったことで,多彩な文化となった。 桃山美術 ※ 中 世 の 城 は 戦 時 の 防 [城郭建築] 塞 と し て の 役 割 を 果 た ・平地につくられ,重層の天守閣を持つ本丸をはじめ,石垣できずか す 山 城 が 多 か っ た が , れ,土塁や濠で囲まれた複数の郭を持つようになった。 こ の 時 代 の 城 は 領 国 支 ・安土城や大坂城・伏見城などは,天下統一の勢威を示す雄大・華麗 配の利便をも考慮して, なもので,城の内部には書院造をとり入れた居館が設けられた。 山 城 か ら 小 高 い 丘 の 上 →内部の襖 壁・屏風には,金箔地に青・緑を彩色する濃絵の豪華 に き ず く 平 山 城 や 平 地 な障壁画が描かれ,欄間には透し彫の彫刻がほどこされた。 に つ く る 平 城 と な り , ・都市や庶民の生活・風俗などを題材に風俗画もさかんに描かれた。 軍 事 施 設 と し て の 機 能 [障壁画] と 城 主 の 居 館 ・ 政 庁 と ・狩野派が中心となり,狩野永徳が室町時代にさかんになった水墨画 し て の 機 能 と を 合 わ せ と日本古来の大和絵とを融合させて,豊かな色彩と力強い線描,雄 持つものとなった。 大な構図を持つ新しい装飾画を大成し,その門人狩野山楽とともに 多くの障壁画を描いた。 ※ 東 山 文 化 の 狩 野 派 と ・海北友松や長谷川等伯らは,濃彩の装飾的作品とともに,水墨画に 区別しよう もすぐれた作品を残した。 [彫刻] ・欄間彫刻がさかんになり,蒔絵をほどこした家具調度品や建物の飾 り金具などにも装飾性の強い作品がつくられた。 ※また,朝鮮侵略の際に朝鮮から活字印刷術が伝えられて,数種類の 書籍が出版された。→慶長年間,後陽成天皇の勅命で,朝鮮伝来の 印刷法と木製の活字により数種の書物が出版された(慶長勅版)。 町衆の生活 ・京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する富裕な町衆も,この時 代の文化のにない手となった。 →堺の千利休は,茶の湯の儀礼を定め,茶道を確立した。利休の完成 した侘茶は簡素・閑寂を精神とし,華やかな桃山文化のなかに,異 なった一面を生み出した。 [庶民の娯楽] ・室町時代からの能に加え,17世紀初めに出雲阿国が京都でかぶき踊 ※ 「 か ぶ き 」 と は 「 傾 りをはじめて人びとにもてはやされた(阿国歌舞伎), く 」 と い う 語 か ら 生 ま ・琉球から渡来した三味線を伴奏に,操り人形を動かす人形浄瑠璃も れ た 言 葉 で , 異 様 な 姿 流行した。 で 歩 き ま わ る も の を , ・堺の商人高三隆達が小歌に節づけをした隆達節も民衆の人気を得た 当 時 「 か ぶ き 者 」 と い ・盆踊りが各地でさかんにおこなわれた。 っ た 。 女 歌 舞 伎 は の ち ・衣服は小袖が一般に用いられた。男性は袴をつけることが多く,簡 江 戸 幕 府 に よ っ て 禁 止 単な礼服として肩衣・袴(裃)を用いたが,女性は小袖の着流しがふ さ れ , つ い で 少 年 が 演 つうになり,男女ともに結髪するようになった。 じ る 若 衆 歌 舞 伎 が さ か ・食事も朝夕2回が3回になり,公家や武士は日常の食事に米を用い ん に な っ た が , こ れ も たが,庶民の多くは雑穀を常食としていた。 禁 じ ら れ , 17世 紀 半 ば ・住居は,農村では萱葺屋根の平屋がふつうであったが,京都などの か ら は 成 人 男 子 だ け の 都市では二階建ての住居も建てられ,瓦屋根も多くなった。 野郎歌舞伎になった。 南蛮文化 ・南蛮貿易がさかんになり,宣教師の布教が活発になるにつれて,庶 民のなかにも南蛮風の衣服を身につけるものが出てきた。 ?宣教師たちは日本文化に何をもたらしたか →・天文学・医学・地理学など実用的な学問 ・油絵や銅版画の技法をもたらし,日本人の手によって西洋画の影 ※ 天 草 版 『 平 家 物 語 』 響を受けた南蛮屏風も描かれた。 や天草版『伊曽保物語』, ・金属製の活字による活字印刷術も宣教師ヴァリニャーニによって 『 日 葡 辞 書 』 な ど が 刊 伝えられ,印刷機も輸入されて,ローマ字によるキリスト教文学 行された。 宗教書の翻訳,日本語辞書・日本古典の出版などもおこなわれた ※ 今 も 残 っ て い る ポ ル (=キリシタン版・天草版) ト ガ ル 語 に , カ ス テ ラ →この文化は江戸幕府の鎖国政策のために短命に終ったが,今日なお ・ カ ッ パ ・ カ ル タ ・ コ 衣服や食物の名には,その影響が残っているものがある。 ン ペ イ ト ウ ・ シ ャ ボ ン ・ パ ン ・ ラ シ ャ ・ ジ ュ バンなどがある。 茶の湯の流行 茶の湯は豊臣秀吉や諸大名の保護を受けて大いに流行し,茶室・茶器・庭園にすぐれたものが つくられ,花道や香道も発達した。 秀吉は1587(天正15)年,京都北野で茶会(北野大茶湯)をひらき,千利休・今井宗久・津田宗及 らの茶人を中心に,貧富・身分の別なく民衆を参加させた。また大名たちもさかんに茶会をもよ おし,武将のなかからも織田有楽斎(信長の弟,長益)・小堀遠州・古田織部らの茶人が出た。
3 幕藩体制の成立 江戸幕府の成立 近世06 p169 ?秀吉の死後,家康はどのようにして実権を握ったか ・五大老の筆頭の地位にあった家康は,秀吉の死後に地位を高め, 五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする(1石田三成 )と の対立が表面化した →1600(慶長5)年,三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあ げた(西軍)。対するのは家康と彼に従う福島正則・黒田長政らの諸 大名(東軍)で,両者は関ヶ原で激突した(=2 関ヶ原の戦い)。 →関ヶ原の戦いに勝利した家康は,西軍の諸大名を処分した。 (※石田三成・小西行長らは京都で処刑され,西軍諸大名93家・ 506万石が [徳川家康] 改易(領地没収)され,毛利輝元は 120万石を37万石に,上杉景勝は 120 ※ 織 田 信 長 と 同 盟 し , 万石を30万石に減封(領地削減)された。) 東 海 地 方 に 勢 力 を ふ る =>1603年,全大名に対する指揮権の正統性を得るため(3征夷大将軍 っ た 徳 川 家 康 は , 豊 臣 )の宣下を受け,江戸に幕府をひらいた。(=江戸幕府の成立) 政 権下 の 1590年 ,北 条 →家康は全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を,また国単位に国絵 氏 滅 亡 後 の 関 東 に 移 さ 図と郷帳の作成を命じ,全国の支配者であることを明示した。 れ ,約 250万石 の領 地 を 支 配 す る 大 名 と な っ ?豊臣氏はいかにして滅亡したか た。 ・大阪城には,家康に従わない秀吉の子(4豊臣秀頼 )が,名目的 に秀吉以来の地位を継承していた。 →1605年,家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すた め,将軍職を辞して子の(5徳川秀忠 )に将軍宣下を受けさせた。 (※家康は駿府に移ったが,(6大御所 (前将軍))として実権は にぎり続けた) ※江戸幕府は1615年7月 →・豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘を口実に,1614~15年, に元号を元和と改めて, (7 大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣))で豊臣方に戦いをしかけ,天 下 の 平 定 が 完 了 し た 攻め滅ぼした。 事 を 内 外に 宣 し た。( = 元和偃武) ?幕府は諸大名をどのように統制したか →1615年(大坂の役の直後)(8 一国一城 令)で大名の居城を一つ に限り,さらに(9 武家諸法度 )を制定して大名をきびしく統 制した ※ 家 康 が 南 禅 寺 金 地 院 →家康の死後,2代将軍徳川秀忠は,1617年に大名・公家・寺社に領 の 崇 伝 に 起 草 さ せ , 将 知の確認文書をいっせいに発給し,全国の土地領有者としての地位 軍秀忠の名で発布した。 を明示した。 →1619年,福島正則を武家諸法度違反で改易するなど,長く功績のあ った外様大名をも処分できる将軍の力量を示した。秀忠は1623年に は,将軍職を(10徳川家光 )にゆずり,大御所として幕府権力の 基礎固めをおこなった。 ?3代将軍家光はどのような政策を行ったか →・1632(寛永9)年,秀忠の死後,肥後 の外様大名加藤氏を処分し,九州も 将軍権力が広くおよぶ地とした。 ・1634年,将軍の代がわりにあたり, 30万余りの軍勢をひきいて上洛した。 なぜ?→統一した軍役を全大名に賦課し,軍事指揮 権を示すねらい ・1635(寛永12)年 武家諸法度(寛永令) を発布し,諸大名に法度の遵守を厳命 した。 そのなかで,大名には国元と江戸とを 1年交代で往復する(参勤交代 ) を義務づけ,大名の妻子は江戸に住む ことを強制された。 大名の区別 将軍と主従関係を結んだ( 1万石以上)の武士を大名といい,大名は将軍との親疎の関係で 親藩・譜代・外様に分けられる。 親藩は三家(尾張・紀伊・水戸の3藩)など徳川氏一門の大 名, 譜代ははじめから徳川氏の家臣であった大名, 外様は関ヶ原の戦いののちに徳川氏に従 った大名をいう。これらの大名の配置にあたっては,親藩・譜代を要所に,有力な外様はなるべ く遠隔地に配置した。大名は石高に応じて一定数の兵馬を常備し,戦時には将軍の命令で出陣し, 平時には江戸城などの修築や河川の工事などを負担した。 ※ 旗 本 ・ 御 家 人 は 将 軍直属の家臣(直参) で,1万石未満のも のである。将軍に謁 見(お目見え)を許さ れるものが旗本,許 されないものが御家 人である。1722年の 調査では,旗本5205 人・御家人1万7399 人であった。彼らは 江戸に住み石高や才 能に応じた役職につ き,軍役を負担した。 建武式目や分国法などをもとに作成されており, 家光以降も将軍代がわりにくり返し発布され,少 しずつ修正された。
?参勤交代は何をもたらしたか 近世07 p172 →[a参勤交代によって 交通 が発達し,江戸は大都市に発展した。 図表 b大名にとって,江戸に屋敷をかまえて妻子をおき,また多くの 家臣をつれての往来は,多額の出費をともなう重い役務だった。] ※ 藩 財 源 の 中 心 は 年 貢 =>3代将軍徳川家光のころまでに,将軍と諸大名との主従関係は確立 米 で , そ の う ち 半 分 近 した。強力な領主権を持つ将軍 と大名(幕府と藩)が土 く が 藩 士 (陪 臣 )の 俸 禄 地と人民を 統治する支配体制を(1 幕藩 体制)という。 に 支 出 さ れ た 。 藩 士 の 大 部 分 は 数 百 石 な い し 幕府と藩の機構 は 数 十 石 の 知 行 し か 持 ?幕府と藩の機構はどうなっていたか たない蔵米取であった。 [幕府の財政収入] 下 級 の 足 軽 な ど は 何 人 ・400万石(17世紀末)にもおよぶ直轄領(幕領)からあがる年貢 扶 持 や , 給 金 何 両 と い ・佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森など主要鉱山からの収入 う 形 で 俸 禄 を あ た え ら ・江戸・京都・大坂・長崎・堺などの重要都市を直轄する れ た 。 1 人 扶 持 は , 一 ・商工業や貿易を統制 人 の 食 料 と し て 1 日 当 ・貨幣の鋳造権をにぎる り米5合を給与される [軍事力] ものであった。 ・将軍直属の家臣団である(2 旗本・御家人 )のほか,諸大名の 負担する軍役で構成された。←圧倒的な力! [幕府の職制](・・・3代将軍徳川家光のころまでに整備された) ○中央 ・(3 老中)が政務を統轄(※大老は臨時の最高職。将軍代がわりなど, 重要事項の決定のみ合議に加わった。) ・(4 若年寄 )・・・老中を補佐し旗本を監督する ・(5 大目付 )・・・・大名の監察する ・目付・・・旗本を監察する目付 ・三奉行{6 寺社 ・町 ・ 勘定 奉行} ※役職には原則として数名の大名・旗本らがつき,月番交代で政務を 扱った。簡略な訴訟はその役職で専決したが,役職をまたがる事項 などは評定所で老中・三奉行が合議して裁決した。 ○地方組織 ・(7 遠国奉行 )・・・朝廷の統制や西国大名の監視などをおこなう ・重要都市の京都・大坂・駿府には城代と町奉行がおかれた ・伏見・長崎・佐渡・日光などに奉行(いわゆる遠国奉行)がおかれた ・幕府領では,関東・飛騨・美濃などには郡代が,その他には代官が 派遣され,勘定奉行が統轄した。 ?大名はどのように領地を統治したか ・大名の領地とその支配機構を総称して(8藩 )とよぶ。 図表に歴代将軍の ・大名は,初期には領内の有力武士に領地をあたえ,その領民支配を 肖像あり。↓ 認める地方知行制をとる場合もあったが,しだいに領内一 円支配を進めて,有力武士も家臣団に編成して城下町に集 住させ,家老や奉行などの役職につけて藩政を分担させた。 →17世紀半ばになると,多くの藩では郡奉行や代官などが支 配する藩の直轄領(蔵入地)からの年貢を蔵米として支給す る俸禄制度がとられるようになった。 =>こうして大名の領地・領民を支配する力は強化され,藩の 職制も整備されて藩権力は確立していった。 ポイント: ・大老は臨時の職。 ・寺社奉行のみが将軍直属で譜代大名から任命され,町・勘 定奉行は老中支配下で旗本から任命されるようになった。 ・勘定奉行は幕府領の代官を統括する。 ・江戸町奉行は北町・南町奉行が月番交代で執務する。 ・京都に置かれた武家の組織(まとめ) 鎌倉 京都守護→(承久の乱)→六波羅探題 室町 京都に幕府あり。 江戸 京都所司代,幕末に京都守護職が置かれる。
天皇と朝廷 近世08 p174 ?幕府府と天皇・朝廷の関係はどうだったか ※ 武 家 伝 奏 に は 公 家 か ・家康は1611年,後水尾天皇を擁立した際,天皇の譲位・即位まで武 ら 二 人 選 ば れ , 幕 府 か 家の意向に従わせるほどの権力の強さを示した。 ら 役 料 を 受 け た 。 彼 ら →1615年(1 禁中並公家諸法度 )を制定して,朝廷統制の基準 は朝廷と幕府とをつな を明示した。幕府は京都所司代らに朝廷を監視させたほか,摂家(関 ぐ 窓 口 に な っ て , 京 都 白・三公)に朝廷統制の主導権を持たせ,(2 武家伝奏 )を通じ 所 司 代 と 連 絡 を と り な て操作した。 が ら , 朝 廷 に 幕 府 側 の ・幕府は天皇・朝廷がみずから権力をふるったり,他大名に利用され 指示をあたえた ないよう,天皇や公家の生活・行動を規制する体制をとった。 ※(3 禁裏御領 (天皇領))・公家領・門跡領は必要最小限度にとどめら れた。天皇の行幸は慶安年間を最後に幕末まで原則として認められず,公 ※ 明 正 天 皇 は 奈 良 時 代 家の京都から醍醐や吉野への花見なども武家伝奏を通して届け出なければ の称徳天皇以来,859年 できなかった。 ぶ り の 女 帝 で あ る 。 そ ・1620年には,徳川秀忠の娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させ の 後 , 女 帝 と し て は 後 たのを機に,朝廷に残されていた権能(官位制度・改元・改暦)も幕 桜町天皇が1762~70(宝 府の承諾を必要とすることにして,幕府による全国支配に役立てた。暦12~明和7)年に在位 ・1629年体調をくずしていた後水尾天皇は,(4 紫衣事件)をきっ した例がある。 かけに,幕府の同意を求めずに突然譲位した。幕府はつぎの天皇が, 秀忠の孫である明正天皇となることもあり譲位を追認したが,その 際,幕府は摂家と武家伝奏に厳重な朝廷統制を命じた。 =>[a家康以来おし進めてきた朝廷統制の基本的な枠組が確立し,幕末 まで維持された。] p175 ?紫衣事件の意義は 禁中並公家諸法度には,紫衣の 寺の住持に関する許可規定が定め られていたが,遵守されなかった。 紫衣事件とは,1627年に幕府に届 け出なく後水尾天皇が紫衣着用を 勅許したことを問題にし,これに 抗議した大徳寺の沢庵らを幕府が 処罰した事件である。幕府の法度 が天皇の勅許に優先することを明 示したものといえる。 禁教と寺社 ?幕府は,キリスト教に対してどういう政策をとったか →初めはキリスト教を黙認していた。 ※ 1614年 に は ,高山 右 →1612(慶長17)年,直轄領に(1 禁教令)を出し,翌年これを全国 近 ら 300人 余 りをマ ニ におよぼして信者に改宗を強制した。 ラとマカオに追放され, ?なぜこのような方針転換をしたのか ま も な く 病 死 し た 。 ま ・キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略をまねく恐れ た, 1622(元 和8)年に ・信徒が信仰のために団結することも考えられた は 長 崎 で 宣 教 師 ・ 信 徒 →こののち幕府や諸藩は,宣教師やキリスト教信者に対して処刑や国 ら55名を処刑した(元和 外追放など激しい迫害を加えた。 の大殉教)。 =>多くの信者は改宗したが,一部の信者は迫害に屈せず,殉教するも のやひそかに信仰を維持した潜伏(隠れ)キリシタンもいた。 ?島原の乱は,幕府の対外政策にどんな影響を与えたか ・1637(寛永14)年には,島原の乱がおこった。 →幕府は乱後,キリスト教徒を根絶するため,とくに 信者の多い九 州北部などで島原の乱以前から実施されていた(2 絵踏 )を 強化し,また(3寺請 制度)を設けて(4宗門改め )を実施し, 仏教への転宗を強制するなど,キリスト教に対してきびしい監視を 続けていった ※寺請制度とは、寺院に一般民衆を檀家として所属させ,キリシタンでない ことを証 明させる制度。寺請証文を発行した。 島原・天草一揆 この乱は,飢饉のなかで島原城主松倉氏と天草領主寺沢氏とが領民に苛酷な年貢を課 し,キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した土豪や百姓の一揆である。島原半島と天 草島は,かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で,一揆勢のなかには有 馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。益田(天草四郎)時貞を首領にして原城 跡に立てこもった3万余りの一揆勢に対して,幕府は九州の諸大名ら約12万人の兵力 を動員し,翌1638(寛永15)年,ようやくこの一揆を鎮圧した。
?幕府がキリスト教とともに禁じた宗派とは 近世09 p176 →(1 日蓮宗不受不施 派)を信仰させないために,武士も神職も だれもが檀那寺の檀家になり(=2 寺檀 制度),寺請証明を受けた。※ 不 受 不 施 派 : 法 華 を 仏教以外の宗教がすべて禁圧されたわけではなく,神道・修験道 信 じ な い も の の 施 し を ・陰陽道なども仏教に準じて幕府によって容認されていた。 受 け ず , ま た 施 し を せ ず と す る 日 蓮 宗 の 一 派 で , 幕 府 権 力 よ り も 宗 教 を 優 越 す る 信 仰 を 持っていた。 ?幕府は寺社を,なぜ・どのように統制したか ・幕府は皇子や宮家・摂家の子弟が入寺した門跡寺院が仏教諸宗の本 ※ 一 向 宗の 本 山 本 願 山ともなることから,門跡を朝廷の一員とみなして統制した。 寺 は 2 つ に 分 け , そ →・1601~16年にかけて寺院法度を出し,宗派ごとに本山・本寺の地 の勢力を弱めた。(東 位を保障して末寺を組織させる(=本末制度 ) 西本願寺) ・1665年 宗派を越えた仏教寺院の僧侶全体を共通に統制するため に諸宗寺院法度を出した。 同年 神社・神職に対しても諸社禰宜神主法度を制定し,公家 の吉田家を本所として統制させた。 金地院崇伝と天海 崇伝は臨済宗の僧で,外交僧として江戸幕府の政策に関与し,黒衣の宰 相の異名を取った。徳川家康の側近として,キリスト教の禁止や、寺院諸 法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草に関わったという。大坂の役 の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与した。 天海は天台宗の僧で,陸奥国会津出身といわれる。徳川家康の側近と して,初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。家康の死後,神号 を巡って明神として祀ることを主張する崇伝と論争,最終的には天海の主 張する権現に決定する。また,紫衣事件に対する幕府の措置に対して反対 [金地院崇伝] 意見書を提出した沢庵宗彭らを崇伝が遠島に処すところを,天海や柳生宗矩らがとりなし,沢 庵は出羽国上山への配流にとどめた。 ※修験道は,天台系(本山派)は聖護院門跡が,真言系(当山派)は醍 醐寺三宝 院門跡が本山として末端の修験者を支配した。また,陰陽 道は,公家の土御門家が全国の陰陽師を配下においた。 ※中世から続く仏教諸宗派のほかに,新たに17世紀半ばに,明僧 (3隠元 隆琦)が禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう) を伝えた。 江戸時代初期の外交 p177 ?家康はどのような外交・貿易政策をとったか 背景:当時,ヨーロッパでは16世紀後半にスペインから独立したオラ ※ オ ラ ン ダ 人 ・ イ ギ リ ンダと毛織物工業の発達したイギリスとが台頭し,両国は東イ ス 人 は , 南 蛮 人 に 対 し ンド会社を設立して,アジアへの進出をはかっていた。 て紅毛人とよばれた。 [オランダ] 宗 教 も カ ト リ ッ ク ( 旧 ・1600(慶長5)年,オランダ船(1リーフデ 号)が豊後に漂着 教)ではなくプロテスタ →徳川家康は,リーフデ号の航海士ヤン=ヨーステン(耶揚子)と水先 ント(新教)であった。 案内人のイギリス人(2ウィリアム =アダムス (三浦按針)) とを江戸に招き,外交・貿易の顧問とした。 ※スペインとの通交は, →オランダは1609年に,イギリスは1613年に幕府ら自由貿易の許可を 1596年 の サ ン =フェ リ 受け,肥前の(3 平戸 )に商館をひらいた ペ 号 事 件 以 来 絶 え て い [明] た が, 1609年 ,たま た ・家康は朝鮮や琉球王国を介して明との国交回復を交渉したが,明か ま ル ソ ン の 前 総 督 ド ン らは拒否された。 = ロ ド リ ゴ が 上 総 に 漂 [スペイン] 着 し, 翌 1610年家康 が ・家康はスペインとの貿易にも積極的で,スペイン領のメキシコ(ノ 船 を あ た え て 彼 ら を ス ヴィスパン)との通商を求め,京都の商人田中勝介を派遣した。 ペ イ ン 領 メ キ シ コ に お ・仙台藩主伊達政宗は,1613年家臣の(4支倉常長 )をスペインに く っ た の を 機 に 復 活 し 派遣してメキシコと直接貿易をひらこうとしたが,通商貿易を結ぶ た。この時,同行した 目的は果たせなかった(=5 慶長遣欧 使節) [ポルトガル] 田 中 勝 介 ら は 最 初 に ア ・当時,ポルトガル商人は,マカオを根拠地に中国産の生糸(白糸)を メ リ カ 大 陸 に わ た っ た 長崎に運んで巨利を得ていた 日本人とされている →幕府は1604年,(6糸割符 制度)を設けて,糸割符仲間とよばれ る特定の商人らに輸入生糸を一括購入させ,ポルトガル商人らの利 ※ 京 都 ・ 堺 ・ 長 崎 の 特 益独占を排除した。 定 の 商 人 ら に 糸 割 符 仲 間 を つ く ら せ , こ の 仲 ?日本人の海外進出はどのようにすすんだか 間 が 毎 年 春 に 輸 入 生 糸 ・秀吉時代以来さかんに進出し,ルソン・トンキン・アンナン カン の 価 格 を 決 定 し , そ の ボジア・タイなどに渡航する商人たちの船も多かった。 価 格 で 輸 入 生 糸 を 一 括 →幕府は彼らに海外渡航を許可する(7 朱印状)をあたえた。この 購 入 し て , こ れ を 仲 間 船を朱印船という。 構 成 員 に 分 配 し た 制 度 朱印船貿易がさかんになると,海外に移住する日本人も増え,南 で あ る 。 の ち 江 戸 ・ 大 方の各地に自治制をしいた(8日本町 )がつくられた。渡航した 坂 の 商 人 が 加 わ り , 五 日本人のなかには,山田長政のようにアユタヤ朝の王室に重く用い カ所商人とよばれた。 られたものもいる。
近世10 p178 朱印船貿易 朱印船を出した大名には,島津家久・有馬晴信らがおり,商人には長崎の末次平蔵,摂津の末 吉孫左衛門,京都の角倉了以・茶屋四郎次郎らがいる。輸入品は,生糸・絹織物・砂糖・鹿皮・ 鮫皮などアジア産のものがおもで,ヨーロッパ産のものではラシャなどの織物がある。日本から は銀・銅・鉄などを輸出したが,当時の日本の銀輸出額は世界の銀産出額の3分の1におよんだ。 鎖国政策 p179 ?幕府の外交政策はどのように変化したか ・幕府初期の外交は,キリスト教は禁じるが平和貿易は奨励する方針 →幕藩体制が固まるにつれて,日本人の海外渡航や貿易に制限が加え られるようになった。 [貿易制限の理由] [理由1] キリスト教の禁教政策 ・・・・幕府は,はじめキリスト教を放任していたが,キリスト教の布教 がスペイン・ポルトガルの侵略を招く恐れを強く感じ,また信徒 が信仰のために団結することをおそれた。(p175) →・1612年 直轄領に禁教令を出す 13年 禁教令を全国におよぼし,信者に改宗を強制 →こののちも幕府や諸藩は,宣教師やキリスト教信者に対して処刑や 国外追放など激しい迫害を加えた。多くの信者は改宗したが,一部 の信者は迫害に屈せず,殉教するものが後を絶たなかった。 [理由2] 幕府が貿易の利益を独占するため ・・・・貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて,貿易 を幕府の統制下におこうとした。 →・1616年 ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限 ※奉書船・・・朱印状のほ ・1624年 スペイン船の来航を禁じた か に , 老 中 奉 書 と い う ・1633年 (1 奉書 船)以外の日本船の海外渡航を禁止 許 可 状 を 受 け た 海 外 渡 ・1635年 日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し,中国船 航船のこと。 の寄港を長崎に限った ・1637年 (2 島原 の乱)おこる ※この間,イギリスも ・1639年 (3 ポルトガル 船)の来航を禁止 オ ラ ン ダ と の 競 争 に 敗 ・1641年 平戸のオランダ商館を長崎の(4出島 )に移し,オラ れ ,1623年 商 館を閉 鎖 ンダ人と日本人との自由な交流も禁じ,長崎奉行が厳し して引きあげた。 く監視 =>いわゆる鎖国の状態となり,その後日本は 200年余りの間オランダ ※「鎖国」の由来 ・中国・朝鮮・琉球王国以外の諸国との交渉を閉ざすことになった。 → ド イ ツ 人 医 師 ケ ン ペ ↑4つの窓口 ルはその著書『日本誌』 ?なぜ幕府が対外関係を統制できたのか で , 日 本 は 閉 ざ さ れ た →当時の日本の経済が海外との結びつきがなくとも成り立ったため 状 態 で あ る こ と を 指 摘 した 。1801(享和元 )年 ?いわゆる「鎖国体制」の意義は何か 『 日 本 誌 』 を 和 訳 し た →[a鎖国によって幕府は 貿易を独占 することになり,産業や 長 崎 通 詞 志 筑 忠 雄 は , 文化にあたえる海外からの影響は制限され,国内ではキリスト教 こ れ を 「 鎖 国 論 」 と 題 の禁圧 が徹底し,幕府の統制力がいっそう強化された。]p179 した。
長崎貿易 近世11 p180 ?長崎でどのような貿易が行われたか ・「鎖国」により,日本に来航する貿易船はオランダ船と中国船だけ になり,貿易港は長崎1港に限られた。 [オランダ] ・バタヴィア(現,ジャカルタ)においた東インド会社の支店として長 崎の出島に商館をおき,貿易の利益のみを求めた ・幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの文物を輸入し,オランダ船の 来航のたびにオランダ商館長が提出する(1 オランダ風説書 ) によって,海外の事情を知ることができた。 ・オランダ船は,中国産の生糸や絹織物・毛織物・綿織物などの織物 類と,薬品・砂糖・書籍などをもたらした。 [中国] ・明(漢民族)が17世紀半ばに滅び,満州民族の清が成立 →明清の動乱がおさまると長崎での貿易額年々増加し,1688年,長 崎の町に雑居していた清国人の居住地を(2 唐人屋敷)とよば れる区画内に限定した。 ・輸入品は,中国産の生糸・絹織物・書籍のほか,ヨーロッパからの 綿織物・毛織物,南洋産の砂糖・蘇木・香木・獣皮・獣角などをも たらした。日本の輸出品は,銀・銅・海産物などがおもであった。 ?この時期の長崎貿易の収支はどうだったか =>幕府は輸入の増加による銀の流出をおさえるため, ←損した! 1685年 オランダ船・清船からの輸入額を制限 1688年 清船の来航を年間70隻に制限した ※糸割符制度は,1655年に一時廃されたが,1685年に復活し,年間貿 易額を銀換算でオランダ船は3000貫,中国船は6000貫に限定した。 朝鮮と琉球・蝦夷地 ?家康は朝鮮との講和を成し遂げ,どのような関係を結んだか →1609年 対馬藩主(1 宗氏)は朝鮮との間に(2己酉約条 )を 結ぶ。これは日本と朝鮮との関係の基本となり,釜山に(3倭館 ) が設置され,宗氏は朝鮮外交上の特権的な地位を認められた。 =>朝鮮からは前後12回の使節が来日し,4回目からは(4通信使 ) とよばれた。来日の名目は新将軍就任の慶賀が過半を超えた。 ※通信使とは信を通じる修好を目的とした使節の意味で,1回の朝鮮使節の 人数は約 300~ 500人であった。初期の3回は,文禄・慶長の役の朝鮮人 捕虜の返還を目的だった。 p181 ※ 宗 氏 の 特 権 と は 対 朝 鮮 貿 易 を 独 占 す る こ と で , そ の 貿 易 利 潤 を , 宗 氏 は 家 臣 に 分 与 す る こ と で 主 従 関 係 を 結 ん だ 。 対 馬 は 耕 地 に め ぐ ま れ な か っ た の で , 貿 易 利 潤 が 知 行 の か わ り になった。 ※ 薩 摩 藩 は 琉 球 産 の 黒 ?琉球との関係はどうなったか 砂糖を上納させたほか, ・琉球王国は,1609年,(5薩摩 )の島津家久の軍に征服され,薩 琉 球 王 国 と 明 ( の ち に 摩の支配下に入った。 清)との朝貢貿易によっ →薩摩藩は,琉球にも検地・刀狩をおこなって兵農分離をおし進めて て 得 た 中 国 の 産 物 も お 農村支配を確立したうえ,通商交易権も掌握した くらせた。 ?薩摩藩は琉球国王をどのように処遇したか →琉球王国の尚氏を石高8万9000石余りの王位につかせ,独立し た王国の姿をとらせて中国との(6 朝貢貿易)を継続させた= =>琉球は,国王の代がわりごとにその就任を感謝する(7謝恩 使) を,また将軍の代がわりごとにそれを奉祝する(8慶賀 使)を幕 府に派遣した。使節の行列には,異国風の服装・髪型をはじめ,旗 ・楽器などを用いさせ,あたかも「異民族」としての琉球人が将軍に 入貢するように見せた。
?松前氏は蝦夷地をどのように統治したか 近世12 p182 ・蝦夷ヶ島の和人地(道南部)に勢力を持っていた蠣崎氏は,近世にな ※ コ シ ャマ イ ン の 蜂 ると(1 松前氏)と改称して,1604年,家康からアイヌとの交易 起(1457年,p130) 独占権を保障され,藩制をしいた。 ・和人地以外の広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団と ※アイヌたちの多くは, の交易対象地域は,商場あるいは場所とよばれ,そこでの交易収入 こ の 段 階 で は も は や 自 が家臣にあたえられた。(=2 商場 知行制) 立 し た 交 易 の 相 手 で は →アイヌ集団は1669年,(3シャクシャイン)を中心に松前藩と対立 な く , 漁 場 な ど で 和 人 して戦闘をおこなったが,松前藩は津軽藩の協力を得て勝利した。 商 人 に 使 わ れ る 立 場 に シャクシャインの戦いでアイヌは全面的に松前藩に服従させられ, 変わっていた。和人は, さらに18世紀前半ごろまでには,多くの商場が和人商人の請負とな ア イ ヌ を 交 易 で ご ま か った(=4 場所請負 制度)。 したり,酷使すること があった。
寛永期の文化 近世13 p183 ?江戸時代初期の文化はどのような特徴があるか ・江戸初期の文化は桃山文化を受け継いだが,幕藩体制が安定するに つれて,寛永期(1624~1646年)前後に新しい傾向を示しはじめた。 [学問] ※ 図 説 ・ 教 科 書 の ・室町時代に五山の禅僧が学んでいた朱子学を中心に,儒学がさかん 口絵を見よう! になった。京都相国寺の禅僧であった藤原惺窩は,還俗して朱子学 の啓蒙につとめた。 ?なぜ朱子学なのか →門人の林羅山(道春)は家康に用いられ,羅山の子孫(林家)は代々儒 =>朱 子 学 は 君 臣 ・ 父 子 者として幕府に仕えて,学問と教育をになった。(←p180林信篤) の 別 を わ き ま え , 上 下 の 秩 序 を 重 ん じ る 学 問 [建築] で あ っ た た め , 幕 府 や ・家康をまつる日光東照宮をはじめ霊廟建築が流行し,神社建築には 藩に受け入れられた。 権現造が広く用いられた。これらの建築には,桃山文化の影響を受 けた豪華な装飾彫刻がほどこされた。 ・ま書院造に草庵風の茶室をとり入れた数寄屋造が工夫され,京都の 俵屋宗達 桂離宮の書院はその代表である。 「風神雷神図屏風」 狩野探幽 [絵画] 「大徳寺方丈襖絵」 ・狩野派から狩野探幽が出て,幕府の御用絵師となったが,その子孫 久隅守景 は様式の踏襲にとどまった。 「 夕 顔 棚 納 涼 図 屏 風 」 ・京都では俵屋宗達があらわれ,土佐派の画法をもとに,装飾画に新 本阿弥光悦 様式を生み出し,元禄期の琳派の先駆となった。 「舟橋蒔絵硯箱」 ・京都の上層町衆であった本阿弥光悦は,多才な文化人として知られ,酒井田柿右衛門 書や蒔絵ですぐれた作品を生み出し,陶芸でも楽焼の茶碗に秀作を 「色絵花鳥文深鉢」 残した。 ←地図もチェック! ※ 赤 を 主 調 に 多 く の 絵 [陶磁器] 具 を 用 い , さ ま ざ ま の ・文禄・慶長の役の際に,諸大名が連れ帰った朝鮮人陶工の手で登窯 色 彩 を 染 め 付 け た 色 絵 や上絵付けの技術が伝えられ,九州・中国地方の各地で陶磁器生産 の一種をいう がはじめられた。 →有田焼(鍋島氏)・薩摩焼(島津氏)・萩焼(毛利氏)・平戸焼(松浦氏) ※ 俳 諧 の 系 譜 も ま ・高取焼(黒田氏)などが有名である。とくに有田では磁器がつくられ,とめよう! 酒井田柿右衛門は赤絵の技法を完成させた。 [文芸面] ・教訓・道徳を主とした仮名草子があらわれた, ・連歌から俳諧が独立して,京都の貞徳の貞門俳諧が流行するなど, 新たな民衆文化の基盤がつくられた。 ←数寄屋造!
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幕藩社会の構造
身分と社会 近世14 p185 ?近世社会において身分制はどのように機能したか ・武士は主人の家を中心に結集し,村や町,あるいは仲間・組合など さまざまな集団によって構成される社会を,身分と法の秩序にもと づいて支配した。 [支配身分] ・武士は政治や軍事を独占し,苗字・帯刀のほかさまざまの特権を持 ※ こ の ほ か , 一 般 の 僧 つ支配身分で,将軍を頂点に大名・旗本・御家人などで構成され, 侶 や 神 職 を は じ め , 儒 主人への忠誠や上下の別がきびしく強制された。 者 ・ 医 者 ・ 修 験 者 ・ 陰 ・天皇家や公家,上層の僧侶・神職らも武士と並ぶ支配身分である。 陽 師 な ど の 宗 教 者 , 芸 ・武士の家で,女性は家事への専念を強いられた。 能 者 な ど 職 業 や 居 所 に よ っ て 区 別 さ れ る 小 さ [被支配身分] な 身 分 集 団 が 多 数 あ っ ・百姓(農業を中心に林業・漁業に従事),職人(手工業者),商人 た。 (商業を営む)を中心とする都市の家持町人の三つがおもなものとさ れた。こうした身分制度を士農工商とよぶこともある。 ※ 武 士 や 有 力 な 百 姓 ・ 町 人 の 家 で は , 戸 主 の ?身分制の下位におかれた人びとは,どのような生活をしていたか 権 限 が 強 く , 家 督 や 財 ・かわた(長吏) 産 ・ 家 業 は 長 子 を 通 し かわたは城下町のすぐ近くに集められ(かわた町村),百姓とは て 子 孫 に 相 続 さ れ る こ 別の村や集落をつくり,農業や皮革の製造・わら細工などの手工業 と が 基 本 と さ れ , 戸 主 に従事した。中には,遠隔地と取引をするものもいた。 以 外 の 家 族 は 軽 ん じ ら しかし,死牛馬の処理や行刑役などを強いられ,江戸幕府の身分 れ た 。 ま た こ う し た 家 支配のもとで「えた」(穢多)という蔑称でよばれた。 で は 女 性 は 家 督 か ら 排 ・非人 除された。 村や町から排除され集団化をとげた乞食を指す。 しかし,飢饉・貧困や刑罰により新たに非人とされるものも多く, 村や町の番人をつとめたり,芸能・掃除・物乞いなどにたずさわっ た →かわた・非人は居住地や衣服・髪型などで他の被支配身分とは区別 され,賤視の対象とされた。 ※被差別身分については,劇画「カムイ伝」(白土三平)が参考にな る。現在も差別が存在していることを心に留めておこう。 =>これらの諸身分は,武士の家,百姓の村,町人の町,職人の仲間な ど,団体や集団ごとに組織された。そして一人ひとりの個人は家に 所属し,家や家が所属する集団を通じて,それぞれの身分に位置づ けられた。 村と百姓 ?近世の社会を構成した最大の要素は何だったか p187 =>村と百姓 ・・・中世の長い歴史を経て,村は百姓の家屋敷から構成される集落を 中心に,田畑の耕地や野・山・浜をふくむ広い領域を持つ小社会 (共同体)として成熟した。百姓の小経営と暮らしを支える自治的 な組織が生み出され,農業生産のうえに成り立つ幕藩体制にとっ ては,もっとも重要な基盤となった。 ?江戸期に「村」はどのように再編成されたか →豊臣政権の兵農分離政策と検地によって,村ははじめて全国規模で 直接把握された。 →惣村が村切などで分割されたり,中世以来急速にすすんだ新田開発 によって新しい村が生まれ,17世紀末には全国で6万3000余りもの ※ 村 切 と は , 村 の 境 界 村があった を画定すること。 ・村は農業を主とする農村がほとんどであるが,漁村や山村,在郷町 ※ 17世 紀 末 の 総 石 高 は (定期市などを中心に都市化した村)などのような小都市もみられ 約 2500万 石 で ,1村 平 た。また,村高・家数の大小や地域差も大きく,村は一つひとつ個 均は約400石となった。 性的であった。 ?村は地域によって個性的であったが,ほぼ共通する特徴とは何か →・(1 名主 (庄屋・肝煎)や 組頭 ・ 百姓代からなる村役人惣村と比較
(村方三役)を中心とする(2本百姓 )によって運営されたしよう!
p131 ・(3入会地 )の共同利用,用水や山野の管理,治安や防災など の仕事が自主的にになわれた。 →これらの経費は村入用とよばれ,村民が共同で負担しあった。 ・村の運営は(4村法 (村掟))にもとづいておこなわれ,これに そむくと(5村八分 )などの制裁が加えられたりした。 ?幕府や諸藩・旗本は,村をどのように利用したか →・村の自治に依存して,年貢・諸役を割当て,収納 し,村民を掌握した(=6 村請 制)とよぶ。 ・村民は数戸ずつ(7 五人組)に編成され,年貢の 納入や犯罪の防止に連帯責任を負わされた。 ※一つの村に複数の領主や知行主の支配が同時に存在 することを相給とよぶ。?村の人びとには,どんな結びつきがあったか 近世15 p188 (1 本百姓(高持))・・・・検地帳に登録されて高請地となった田・ 畑・家屋敷を持ち,年貢・諸役をつとめ, 村政に参加する。 ※ ま た , 本 家 と 分 家 の (2 水呑 (無高))・・・・田・畑を持たず,地主のもとで小作を営 よ う な 血 縁 の 序 列 や , んだり,日用(日雇)仕事に従事する 漁 村 に お け る 網 元 と 網 名子・被官・譜代など・・・有力な本百姓と主従制のような隷属関係 子 の よ う な 経 営 を め ぐ の下にあるもの る階層区分もあった。 ・村には寺院や神社(鎮守)がつくられ,村の人びとの相互の結びつ きや信仰を支える場となった。 ・田植・稲刈り・脱穀・屋根葺などに際して,村民は結・もやいな ←共同作業のこと どとよばれる共同作業を集中的におこなって,労働や暮らしを支 えあった。 ?村の人びとは,どんな負担を負っていたか →・(3 本途物成)・・・年貢ともいい,本百姓が負担する。田・畑・ ※ 年 貢 率 (免 と よ ぶ )は 家屋敷の高請地を基準にかけられる。 そ の 年 の 収 穫 に 応 じ て 石高の40%前後を米穀や貨幣で領主におさめ 決める検見法と,一定 ることが標準とされた(四公六民・五公五民)。期 間 は 同 じ 率 を 続 け る ・(4 小物成)・・・山野河海の利用や農業以外の副業などにかかる 定免法とがあった。 ・国役 ・・・一国単位でかけられる河川の土木工事での夫役 ↑重要! 労働をする ・伝馬役 ・・・街道近辺の村々が公用交通に人や馬をさし出す 負担。→零細な百姓にとって重い負担となった。 ?幕府は,確実に年貢・諸役を徴収するためにどうしたか ・幕府は百姓の小経営をできるだけ安定させ,一方で貨幣経済にま き込まれないようにし,年貢・諸役の徴収を確実にしようとした。 →・1643年(5 田畑永代売買 の禁止令) ← の ち 商 品 作 物 の 栽 培 ・1673年(6 分地制限 令) ←分割相続による田畑の細分化を が 広 ま る と と も に , 有 ・田畑勝手作りの禁 防ぐのがねらい 名無実化した ↑田畑ではたばこ・木綿・菜種などの(7 商品作物)を自由に 栽培することを禁じる。 ・1642年の寛永の飢饉のあと村々へ出された法令にみられるよう に,日常の労働や暮らしにまでこまごまと指示を加えた。 ← こ の よ う な 法 令 と し ?この「農村法令」から何が読み取れるか ては ,1649(慶安2 )年 →・一般の百姓の衣服は,麻(布)や木綿の筒袖がふつう に 幕 府 が 出 し た と さ れ ・食事は日常での主食として米はまれで,麦・粟・稗などの雑穀 る 「 慶 安 の 触 書 」 が 有 が主とされた 名 で あ る が , 最 近 は そ ・住居も萱やわら葺の粗末な家屋 の 存 在 に 疑 問 が 出 さ れ =>衣食住のすべてにわたって貧しい生活を強いられた。 ている。
町と町人 近世16 p189 ?近世の都市はどんなようすであったか ・近世になると,多数の都市がつくられ,その中心は城下町であった。 城下町は,それまで在地領主として農村部に居住していた武士が, 兵農分離政策で移住を強制され,あわせて商人や手工業者(諸職人) も営業の自由や屋敷地にかけられる年貢である地子免除の特権を得 て定着した。 [城下町] ・将軍や大名の城郭を核とし,武家地・寺社地・町人地・かわた町村 など身分ごとに居住する地域がはっきりと区分された。 ・城郭と武家地は城下町の面積の大半を占め,政治・軍事の諸施設や 家臣団・足軽の屋敷がおかれた。 ・寺社地には,有力寺院や神社を中心に多くの寺社が集められ,宗教 統制の中心としての役割をになった。 ・町人地は町方とよばれ,商人・手工業者が居住し営業をおこなう場 であり,面積は小さいが,全国と領地とを結ぶ経済活動の中枢とし て重要な役割を果たした。町人地には,町という小社会(共同体)が 多数存在した。 ?町人はどのような生活をしていたか →・町には村と類似の自治組織があり,商人や手工業者である住民の 営業や生産・暮らしを支えた。 ・町内に町屋敷を持つ(1家持 )の住民は町人とよばれ,町人の 代表である名主・町年寄・月行事などを中心に,町法(町掟)にも ※ 多 く の 町 で , 家 持 の とづいて運営された。 町 人 は 住 民 の 少 数 を 占 ・町には田・畑がなく,町人は百姓にくらべて重い年貢負担をまぬが めるにすぎなかった。 れたが,上下水道の整備,城郭や堀の清掃,防火・防災など都市機 能を維持する役割を,夫役である町人足役や貨幣を支払うことでに なわされた。 ※ 都 市 に は 城 下 町 の ほ ・町には宅地を借りて家屋を自分で建てる(2 地借),家屋ごとや か に , 港 町 ・ 門 前 町 ・ 多くはその一部分を借りて住む(3借家・店借 ),また商家の奉 宿 場 町 ・ 鉱 山 町 な ど が 公人など多様な階層が居住した。地借や借家・店借は,地主の町人 あ る が , ど の 場 合 も 都 に地代や店賃を支払うほかに負担はないが,町の運営には参加でき 市 社 会 の 基 礎 に は 町 が なかった。 存在した。 農業 p191 近世の農業は,一組の夫婦を中心とする小規模な家族が,狭い耕地 に細やかな労働を集中的に投下し,面積当たりの収穫量を高くすると いう,零細ではあるが高度な技術を駆使する小経営をおこなう点に特 徴がある。幕府や大名は,こうした高い生産力をもつ小経営とこれを 支える村を,社会の富を生み出す基礎とした。このために,検地など により小経営の実態や耕地の増加を調べた。 17世紀初めから幕府や大名は大規模な治水・灌漑工事を各地で始 ※ 芦 ノ 湖を 水 源 と す め,用水の体系を整備した。また商人の資力も利用して,海浜の浅瀬 る 箱 根 用水 や , 利 根 ・湖沼・荒蕪地などを耕地として開発させ(新田開発),そこに新たに 川 か ら 分水 す る 見 沼 百姓を移住させて村をつくらせた。その結果,全国の耕地は2倍近く 代 用 水 など が 知 ら れ に拡大し,年貢米の増収をもたらした。 る。 農業に用いられる道具(農具)は,人が用いる鋤・鍬・鎌などをはじ め,牛・馬など畜力による耕起用の犂など,耕耘・除草・収穫などに 応じて多様に発達した。こうした農具には鉄が用いられ,これを生産 ・修理する城下町の職人(鍛冶職)が村々をまわった。
農業のつづき 近世17 p192 肥料は刈敷と厩肥が基本であった。刈敷は,村内や近くの入会地か ら共同で得られる草である。作物は,多くを年貢にあてる米がもっと も主要なものであったが,小麦や粟・稗・蕎麦など自給用の雑穀,麻 ・木綿など衣料の原料,近くの城下町向けの野菜・果物,江戸・上方 など遠隔地に向けた蜜柑・茶などの商品作物,養蚕のための桑など, 地域の条件にもとづいて多様に生産された。 村は,水路・溜池などの用水や入会地の維持・管理,田植えや収穫 時の共同労働(結)など,百姓の農業経営になくてはならない役割を果 たした。 ※ 有 力 な都 市 商 人 が 資 金 を 投下 し て 開 発 す る 町 人 請 負 新 田 が, 17世紀 末から 各 地 に み られ た 。 干 潟 を 干 拓 した 新 田 開 発 の 例 と して は , 備 前 児 島 湾 や有 明 海 , ま た 湖 沼 干拓 で は 下 総 椿 海 の もの が 有 名 で ある。 林業・漁業 p192 国土の大半が山でおおわれる日本では,村や城下町の多くが山と深 い関わりをもった。まず山は,建築や土木工事に不可欠な材木を豊富 にもたらした。なかでも良質な大木を多く抱える山地は,幕府や大名 の直轄支配とされ,伐り出された材木は,城郭や武家屋敷の建築に用 いられ,民間にも大量に払い下げられた。また尾張藩や秋田藩などで は,藩が直轄する山林から伐り出された材木が商品化し,木曽檜や秋 田杉として有名になった。材木産地の山を抱える村には,杣と呼ばれ る専業の職人や,材木の運送などにたずさわる労働者(日用)が,百姓 として多数居住した。 山の一部は,村の共有地,あるいはいくつかの村々が共同で利用す る入会地とされた。村の共有地や入会地では,肥料となる刈敷や,牛 馬の餌である秣が採取され,また百姓の衣食住を支えるさまざまな草 木が採集された。また山は,化石燃料が普及する以前の,ほぼ唯一の 燃料エネルギー源である薪や炭の供給源であった。これらの薪や炭は, 近隣の城下町などで大量に販売された。 近世の漁業は,主要な動物性蛋白源として,また肥料(魚肥)に用い るために魚介類を獲得することをめざして,多様に発達した。海・河 川・湖沼で,さまざまな漁法や漁具・漁船を用いておこなわれ,網漁 を中心とする漁法の改良と,沿岸部の漁場の開発が進んだ。中世末以 来の網漁の技術は,摂津・和泉・紀伊などの上方漁民によって全国に 広まった。こうして得られた漁獲物は自給用に消費されるほか,鮮魚 のまま近くの都市で売られ,あるいは塩や日干しによる保存措置が講 じられ,なかでも干し鮑や鰹節などは全国規模で流通した。海辺の漁 村では,城下町の魚問屋と取引する網元などの有力者を中心とする漁 民たちが,漁場を占有した。こうした漁業や流通には,城下町や三都 の魚問屋の資金が大きな役割を果たした。