第 3 章 日本の支援とその評価
3.1 日本の開発援助の歴史と現状 日本のスリランカへの援助はコロンボプランのもとに開始された。最初の日本の経済援 助は 1965 年に技術協力スキームの下、商品借款の形で行われた 500 万米ドル(18 億ルピ ー)の円借款であった。このようにして始まった日本の援助は、2000 年には約 27 倍の 1 億 3 千 400 万米ドルになり、日本はスリランカへの主要援助国となった。1965 年から 1969 年の 5 年間ではわずか 2,500 万米ドルであった日本のスリランカへの援助額は、1980 年 から 1984 年の 5 年間には 2 億 9226 万米ドルに増加している。1995 年から 1999 年まで の援助総額は 10 億 2,948 万米ドルである。 136.93 22.65 132.68 292.26 日本側から見ると、過去 10 年間の無償・有償合計金額において、スリランカは第 8 番目 の ODA 供与国となっている。1969 年に 50 万米ドルで開始された無償資金援助は、1995 年から 1999 年までの合計額をみると、2 億 6,800 万米ドルと急増している。1965 年から 2000年のあいだ、無償・有償合計金額をみると、31 億 3,300 万米ドルの援助額を受け取っ ていることになる。過去の日本のスリランカへの 2 国間援助額の構成と全体の流れについ ては、図表 III-1 および図表 III-2 を参照のこと。 図表Ⅲ-1 日本の対スリランカ ODA の推移(1985 年以降) 54.60 45.40 Rows 2-6: US $ million 期間 1985-89 355.93 285.69 無償資金協力 有償 総援助額 有償 (%) 無償 (%) 70.31 358.05 713.98 49.85 合計 50.15 1990-94 無 償 資 金 協力 技術協力 398.51 291.51 107.11 490.69 889.20 44.82 55.18 (1) (2)=(3)+(4) 1995-99 416.85 (3) (4) (5) 267.50 149.35 612.63 1,029.48 (6)=(2)+(5) (7)=(2)/(6) (8)=(5)/(6) 40.49 59.51 1965-69 0.50 0.50 0 25.00 25.50 1.96 98.04 1970-74 2.50 2.50 0 44.90 47.40 5.27 94.73 1975-79 1980-84 159.58 2000 37.20 n.a. n.a. 96.80 134.00 27.76 72.24 出所:「我が国の政府開発援助」外務省経済協力局、「経済協力の現状と問題点 1985-2000」経済産業省 「JICA in Sri Lanka 2000」国際協力事業団。図表 III-2 が示すように、微動はあるものの、日本のスリランカへの援助は全体的に上昇 傾向にある。1977 年からは無償・有償を含めた日本からの ODA 総額が急増していること がわかる。これは、1977 年にスリランカ政府が、輸入代替政策を捨て、工業化と発展のた めの輸出主導型経済政策を採用したことに、日本政府が反応したものと見られる。また、 1977年以降の援助額の増加は、日本経済の変化にも対応していると思われる。 54.00 54.00 0 128.20 182.20 29.64 70.36
図表Ⅲ-2 日本のスリランカへの援助(1975-2000 年) 1985 年以降、日本はスリランカへの最大の援助国であった。最近数年間(1999 年から 2001 年)では、スリランカの海外援助受取額の約 57%は日本からのものである。二国間 援助でみると日本の占める割合は約 74%にものぼる。図表 III-3 は日本がスリランカの外国 援助において重要な位置を占めることを示している。 図表Ⅲ-3 対スリランカ援助における日本の占有率(1997-2001 年) 二国間無償援助総額のうち日本の無償資金協力の割合 44.3 援助総額のうち日本の ODA (無償 + 有償)の割合 72.9 66.4 67.3 35.9 69.1
出所: External Resources Department of the Treasury, Sri Lanka
当初、日本のスリランカへの援助はその大部分が有償であった。この傾向は 1970 年代 の末まで続く。1975 年から 1979 年までの間、有償資金援助の ODA 全体に占める割合は 約 70%であった(図表 III-4 参照)。1970 年代以後、日本の世界に占める経済力と技術力が 発展したことを背景にしてか、無償資金援助の割合が徐々に増加する。1990 年半ばまで、 無償資金援助の ODA 総額に占める割合は約 50%であった。1990 年代の後半、スリランカ 0 50 100 150 200 250 300 1975 1976 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 年 US$ ドル 無償協力円借款 ODA合計 (単位:%) 1997 1998 1999 2000 2001 29.7 44.9 21.5 35.8 無償援助総額のうち日本の無償資金協力の割合 32.5 23.9 32.6 17.0 29.5 二国間有償援助のうち日本の有償資金協力の割合 80.8 83.1 71.3 47.2 73.1 有償援助総額のうち日本の有償資金協力の割合 59.8 37.7 32.6 20.6 53.9 二国間援助のうち日本の ODA (無償 + 有償)の割合 93.1 96.6 79.3 64.2 77.5
は世銀の定義によると、「低所得国」から、「中低所得国」への仲間入りをしている。この ころから再び ODA における有償の占める割合が増加している。2000 年には有償資金協力 は ODA 総額の 72%を占めるようになった。さらに、スリランカ財務省対外協力局発行の 統計資料によると、2001 年には有償の割合は 94%にまで上昇している 。 49 図表Ⅲ-4 日本の対スリランカ ODA の有償・無償比率(1997-2001 年) 年 無償 有償 1965-69 2.0 5.3 94.7 70.4 45.4 50.1 55.2 出所: 「我が国の政府開発援助」外務省経済協力局、「経済協力の現状と問題点 1985-2000」経済産業省、 「JICA in Sri Lanka」国際協力事業団。
1977 年以降、スリランカの経済発展政策は、市場開放施策と輸出主導型工業化施策に代 表される。この時期は日本の対スリランカ援助が増額した時期でもある。輸出主導型工業 化施策には、輸出産業の育成のための大規模なインフラ整備が必要となる。たとえば、道 路、港湾、空港、コミュニケーション・システム、電力、トレーニング施設などは、海外か らの投資を招き、外国貿易を発展させるのに必要なインフラである。この時期、スリラン カはこのようなインフラ整備のための多大なニーズを抱えており、日本の援助はそれに応 えたのである。図表 III-5 には、この頃、日本の援助が大幅にインフラ整備に重点をおいて いたことを示している。このデータでは、日本の援助は、インフラ、社会セクター、経済 活動・開発、その他という 4 つの分類に分けられている。ただし、ここでは個々の資金が 実際どのように利用されたかという詳細については記載されておらず、この分類は、全体 的な傾向を示すにとどまっている。 49 この資料のデータは、図表 III-1 と図表 III- 5 で使用した日本側発行データと相違があるが、これらの2 つのデータのギャップを埋めることは困難であり、ここでは試みないこととする。 1970-74 72.2 1975-79 29.6 54.6 49.9 44.8 40.5 27.8 98.0 1980-84 1985-89 1990-94 1995-99 59.5 2000
図表Ⅲ-5 日本からの援助の用途別分類(1997-2001 年) (単位:US $ million,%) 1997 1998 1999 2000 2001 87.5 49.5 73.6 291 83.3 電力・エネルギー 16.3 0 0.0 154 44.1 郵便・テレコミニュケーション 83.6 26.6 95.7 38.4 0 0.0 0 0.0 0 0.0 上下水道 94.1 39 11.1 住宅・都市開発 0 0.0 0 0.0 0 0 0.0 社会セクター 34.6 11.0 14.8 5.9 8.6 3.8 4.8 7.1 14.8 4.2 教育 12.3 3.9 14.5 5.8 保健医療 11.7 3.7 0 0.0 0 0.0 4.8 7.1 14.8 4.2 経済活動・開発 56.4 17.9 8.2 3.3 18.5 8.2 13 19.3 43.7 12.5 農業 11.1 3.5 8.2 3.3 6.7 3.0 5.4 0 0.0 0 0.0 7.6 11.3 0 0.0 私企業開発 45.3 14.4 0 23.8 9.6 0.4 0.2 0 0 0 0 環境 0 0.0 23.4 9.4 0 0.0 0 0.0 0 0.0 0.2 0 0.0 0 0.0 Total 314 100 249 100 225 100 インフラ整備 223 30.0 0 0.0 8.2 3.6 0 8.0 4.8 1.4 国際収支 0 0.0 71.1 202 81.0 198 36.2 16.1 0 0.0 0.0 0 0.0 漁業・水産業 0 0.0 0.4 0.2 0.4 26 8.3 71.6 28.8 0 0.0 0 0.0 0.0 0 0.0 45.6 52.8 15.1 建設 文化 0 0.0 0.3 0.0 0 0.0 350 13.0 港湾・船舶 0 0 0.0 0 0.0 0.1 0.4 0.2 0 0 0.0 38.9 11.1 100
出所: External Resources Department of the Treasury, Sri Lanka
0.0 0 107 47.3 0.0 0 農村開発 日本は円借款をもって、スリランカが輸出主導型工業化政策を成功させるために緊急に 必要であったインフラの整備に大きく貢献した。援助においては、主に、交通・運輸、テ レコミニケーション、電力・エネルギーの分野に特に重点が置かれていた。この 3 分野の みでも 1977 年以降の円借款総額の 3 分の 2 を占めている。残りは、灌漑農業、漁業、林 業、上水道、下水道などの分野である。これら様々な用途の円借款はスリランカが輸出主 導型工業化政策を成功させるために大変重要であった。1977 年以降、これらの円借款の総 額は増加し、円借款の利子率は下げられ、償還期間と据置期間も延長されている。これら の条件緩和対策は、過去数年を通じてのスリランカ・ルピーに対する円高によって減殺さ れたが、その間のスリランカのインフレ上昇による債務者利得が円高の悪影響を相殺した ことも指摘すべきであろう。 日本の無償資金協力は、その 4 分の 3 が農業、教育、保健、コミュニケーションの分野 に援助されている。そのうちのいくつかのプロジェクトは、スリランカの人々の間にも評 判が高く、有名でもある。これら大規模なプロジェクトに加えて、数多くの小規模無償援 助も実施されている。たとえば、①農業分野における資機材や生産財の援助、②低所得者 への住宅建設支援、③貧困緩和プロジェクト、④貯水池・用水路・道路・橋・地方病院の 建設や修復などのための小規模な援助などである。また、無償資金協力は、スリランカ人 へのトレーニングの供与、日本人の専門家やボランティアの派遣などの技術協力活動をも 0.0 17.6 7.8 49.5 0 0.0 0 0.0 0.0 メディア 10.6 0 0.0 0 0.0 73.6 0 0.0 灌漑 0 0.0 3.4 0 0.0 0 11.8 5.2 0 0.0 運輸 19.5 6.2 31.2 12.5 0 0.0 0 0.0 0 0.0 3.2 1.3 36.7 0.0 0 0.0 0 0.0 その他 0 0 67.3 100
含んでいる。1965 年から 1999 年までの間に、日本は 4,640 人ものスリランカ人にトレー ニングを供与し、3,974 名の日本人専門家・調査員・ボランティアをスリランカに派遣して いる。 世界的には、1989 年に日本は発展途上国への ODA の最大供与国になった。1990 年代 の終わりにおいても、日本は最大のドナーとしての地位を保っていた(1998 年には 107 億 3千 200 万米ドル)。 日本の ODA は商業主義であるとしてしばしば批判されがちである。ODA 総額に対する 無償援助の割合は 1996/7 年で 39.6%で、日本は DAC 加盟 21 か国の間で最も低いと評価 された。日本による対外援助のグラント・エレメントは同年に 78.6%と推定され、またも や DAC 加盟諸国の間で最も低いランクだった。これに対して、国内外で批判を受けたが、 日本は 1992 年 6 月に ODA 大綱を発表した。その基本理念は、 ・ 人道的配慮 ・ 相互依存性の認識 ・ 環境の保全 ・ 自助努力支援 とされ、民主化と軍事費が日本からの援助を期待する国の適合性を決定するうえで考慮さ れるとも発表された。しかし、これらの原則は望ましい方向に ODA 資金を効果的に導く ことには、あまりに抽象的であると指摘された。 日本政府の公式見解 によると、スリランカへの経済援助は、①戦略的・地理的重要性、 ②二国間の歴史的な友好関係、③援助を効果的に活用できうる高い識字率、④経済発展へ の高い可能性、との認識から実施されている。一方、日本の援助方針については、以下の ような批判がしばしば聞かれるところである。 50 ・ 無償資金協力は、貧困層の基本的ニーズを満たすために実施されているにもかかわら ず、実際は社会的中・上級層が支援の対象となってきた。 ・ 日本の ODA によっていくつかの重要なインフラ施設が提供されたが、これらのイン フラの一部は活用されていないままである。 ・ 日本はスリランカへの援助を日本からの工業製品の市場を維持するために行ってきた。 3つ目の点を裏付けるように、実際、スリランカは 1965 年から 2000 までの間継続的に 日本に対して貿易赤字をかかえている。この間のスリランカの対日本貿易赤字累積額は 40 億米ドルであり、スリランカへの日本の ODA 総額はその約 4 分の 1 でしかない。 援助に関する持続性と依存性の問題はしばしば議論されるところである。スリランカで は、外国援助への依存傾向は、一般庶民よりエリートや政策決定者に強いと思われる。そ れは日本の援助のみならず、他国の援助に関しても同様であり、スリランカが援助ででき た機関やインフラを効果的にメインテナンスしない、との批判も各援助機関からしばしば 聞かれるところである。もう一つの議論は、1965 年に世銀がスリランカを援助国グループ の一員として認めてから 40 年近くにもなるにもかかわらず、いまだにスリランカはその 開発を大幅に外国援助に頼っているということである。先述のように、1997 年、スリラン カは中低所得国の仲間入りをした。その際、スリランカの政策決定者は、喜ぶどころか、 50 外務省ホームページ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/kankei.html)
低所得国のみに与えられる援助プログラムを受けられなくなると心配したことがこの傾向 を物語っている。 スリランカへの外国援助のもう一つの問題点は実行率の低さである。最近の外国援助の プレッジ額に対する実行率は、わずか 15%であった。官僚主義による弊害、内貨の調達困 難、人材の能力不足などがその主な要因である。紛争の直接の影響下にあるスリランカ北 東部においては、援助を消化するキャパシティに問題があるとされ、実行率はさらに低い ようである。 3.2 平和構築分野での日本の対スリランカ支援 スリランカ国内での政治的対立に対し、日本の ODA が配慮を示したことを裏付けると いう明確な資料はない。1970 年代初期以降、スリランカでは、規模に大小はあれ、継続的 に武力衝突が発生していた。1971 年の反乱が軍によって鎮圧された後、80 年代中頃まで 比較的平和な時期があったが、この時期にも 1978 年の民族暴動のように、時々暴動が発 生した。1980 年代以降、特に北東部、そして全国各地での散発的な反動を伴い、ほぼ継続 的に暴動が発生した。この暴動の期間において、前述のように、スリランカへの日本の援 助は継続的に増加している。 多少の変動はあったものの、日本の援助は 1980 年代半ばから一気に増加した。そして これは、分離主義者の武力攻撃が高まる時期と一致していた。この期間を通じて、日本か らの援助は、北東部以外の地域に限定されていた。例外として、紛争地帯において非常に 小規模のいくつかのプロジェクトが実施されたのみであった。一方、これらの地域では、 紛争が広範囲に及んだため、人道的援助の必要性が緊急に高まっていた。このように、紛 争を開発援助の範囲外のものとして扱う外国援助機関の一般的な傾向は、スリランカへの 日本の援助についても同様であった。 過去数年にわたって、スリランカ北東部で実施される小規模の事業が日本からの資金援 助を受けている。図表 III-6 は、それらいくつかの「草の根」無償援助プロジェクトを示す。 図表 III-7 は北東部での日本による無償援助、有償援助および食糧増産援助(2KR)プロジ ェクトのリストである。図表 III-8 は、日本の資金提供によって、多国間援助機関を通じて 北東部で行われたプロジェクトである。 これらの 3 つの図表から得られるデータから、以下のことが導かれる。 ・ 他の日本の ODA 事業と比較して、北東部での事業は小規模であった。1990 年代半ば から 2002 年の間に、26 のプロジェクトが北東部で実施されているが、資金総額は 2,500 万ドルに満たなかった。一方、1995 から 2000 年の間のスリランカへの日本の援助総 額は、11 億 5,000 万ドルを上回った。 ・ 一つか二つのプロジェクトを除いて、これらはいわゆる「政府支配地域」で実施され、い わゆる「LTTE 支配地域」への事業の拡大は 2002 年以降にしかみられない。 ・ 日本の援助の一部は、国連や他の多国間援助機関が北東部で支援するプロジェクトに対 して行われている。北東部では日本政府機関または日本の NGO が直接活動することは なかった。 ・ 全ての「草の根プロジェクト」は、NGO を通して実施された。
・ 北東部へ事業のために政府機関に供与された多額の無償援助は 2KR を資金源としていた。 図表Ⅲ-6 北東部における日本の「草の根無償資金援助」実施状況 年 プロジェクト 実地機関 金額 (US$) ジャフナ大学へのコンピュータの設置 ジャフナ大学 47,000 1999 トリンコマリ-の地域社会開発 Sewa Lanka Foundation 71,000 2000 バティカロア総合病院の外科手術施設の修繕 国境なき医師団 2002 北部の4県(ジャフナ、キリノッチ、マンナー、 ヴァウニヤ)での 5R 戦略による 30 村の開発 サルヴォーダヤ運動 42,880 2002 トリンコマリ-県で、地元の資源を活用した灌
漑用ため池の修繕による農村経済の活性化 Sewa Lanka Foundation
55,939 2002 2000年のシンハラ・タミル正月の年賀状キャ
ンペーンを通しての平和構築の促進 People’s Peace Front 3,798 2002 ミヒンタレーでの 2002 年のポソン・ポーヤ祝
日の啓蒙活動による平和の促進 People’s Peace Front 1995 バティカロアでのモーバイルクリニックのた めの車両の供給 国境なき医師団 4,110 出所:在スリランカ日本大使館提供資料 84,000 1998 86,000 2001 バティカロアの難民センターの改善 オランダ ZOA Refugee Care 33,556 国内避難民のための 5 つの集会所の建設 日本紛争予防センタ ー 45,679 2001
2002 新聞を通じた平和構築キャンペーン Sri Lanka First 56,007 2002 ニュースレターと本の出版を通しての平和構
築の促進 National Peace Council of Sri Lanka
図表 Ⅲ-7 北東部における無償・有償・2KR による日本の援助 年 2000-2002 プロジェクト 実施機関 金額 国内避難民のための住居の提供と救援 UNHCR 4,600,000 1993,1996, 1999, 2000 ヴァヴニヤ、バティカロア、アン パーラ、トリンコマリ-県での低 所得住民のための住宅改良(無償) 住宅建設省 2002 人間の安全保障、その他の UNHCR 活動(ス リランカを含む南アジア地域での UNHCR プ ログラム) UNHCR 2,400,000 JY 177 million 2000-2002 武装対立の被害者への人間の安全保障、保健 医療、生活支援、緊急人道援助 1994/1995 北東部の紛争被災世帯のための 農業援助 (2KR) サルヴォーダヤ運動(再建・復興・社会福祉省を 通じて) ICRC 1,128,000 Rs. 25,160,000 1995/1996 ワン・エラ溜池の改良(Kantale) (2KR) 灌漑・エネルギー省 Rs. 16,000,000 1995-1996 貧困ライン以下で生活する人々 のための漁具の提供(2KR) 水産庁 Rs. 450,000 1995/1996 ヴァウニヤ県でのタマネギ栽培、 唐辛子栽培(2KR) 北東部州 Rs. 1,340,000 1995/1996 農民組織の支援事業(2KR) 北東部州 1999-2002 漁民への自助努力による住宅建 設(2KR) 漁業・水資源開発省 Rs. 375,000,000 2000 輸血サービスの改善(有償) JBIC JY 1,508 million 出所:在スリランカ日本大使館提供資料 2002 国内避難民のための食糧援助 WFP 1,100,000 1997-2002 北東部を含む全国への薬品と医療機器の供給 UNFPA 28,512,450 出所:在スリランカ日本大使館提供資料 日本政府は様々な理由により、途上国への援助において、援助対象国の政治的武力対立 の解決・緩和に向けて積極的な立場を取ってこなかった。スリランカ政府は、武装対立状 態にあったスリランカ北東部において開発プロジェクトを実行することができなかったた め、この地域での資金要請がなされず、結果としてこの地域でプロジェクトが実施されな かったのである。対外援助において「要請主義」という原則をもち、それを実行している 日本政府にとっては、援助受取り国政府の要請なく、独立して紛争地域で援助事業を行う メカニズムはなかった。いずれにせよ、紛争地域の中で事業を行うことは、日本政府の目 からは、実現可能性が低く、優先順位の低いものとして映った。日本政府からの資金提供 Rs. 8,030,000 1995/1996 協同組合を通しての酪農開発 (2KR) 北東部州 Rs. 13,600,000 図表Ⅲ-8 多国間援助機関を通じた日本の援助 年 プロジェクト 実施機関 金額 (US$)
により、スリランカの北東部で活動する日本の NGO が存在しなかった ことも日本の北 東部への援助のプレゼンスを低くさせた理由の一つであった。
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この問題にはもう一つの側面がある。他のドナー諸国と同様に、日本もスリランカのよ うな国で採用されている政策が健全か、また、開発事業への資金が効果的に利用されてい るかなどを判断する際、世界銀行と IMF による政策評価(Policy Review)に依存してい た。最近になってはじめて、これらの国際機関(少なくとも世銀)は、開発を考える際に 重要な項目として政治的紛争に若干の前向きな関心を持ち始めるようになった。政治的紛 争に対して関心を持ちはじめる以前は、国際機関がスリランカに関してアドバイスしたこ とといえば、1970 年代後期から採用された自由化政策の推進が開発の成功の秘訣である、 ということであった。「市場にフレンドリーな」施策によってもたらされた急速な開発が、 拡大しつつある社会的衝突の解決策であるとも見なされていた。1980 年代初期から急増し た日本の援助は、スリランカがこの時期に自由化のプログラムを強力に推進していたので、 上の考えを積極的に支持していたものと捉えることもできよう。また、この時期から、ス リランカでの輸入の需要が急増し、輸入元の国の中で、日本が大きな割合を占めていたこ とは重要なポイントである。 近年、開発、武力紛争、紛争解決の相互関係という問題に関して、日本の態度の大きな 変化が認められる。このような態度の変化は、スリランカにおいても認められる。新しく 組織された日本紛争予防センター(JCCP)の支部が、2001 年にコロンボに設置された。 この新しい出来事は、スリランカの紛争解決において日本政府が積極的な役割を演じたい という関心の高まりを示している。スリランカの側では、2001 年以降、重要な政治的な変 化があり、現在進行中の和平交渉が開始された。スリランカ政府が北東部で人道的援助の 実施に関して少しも前向きに関わる準備ができていなかった過去とは異なり、現在では、 和平交渉のなかで、スリランカ政府はこれらの地域で戦争の被害を受けた人々に対して人 道的援助を提供する意思を示している。さらに、恒久の和解、紛争で被害を受けた人々へ の人道的援助と長期的開発にむけて交渉に取り組む用意があることを示している。今回の 和平交渉で、スリランカ政府は、ステップ・バイ・ステップのアプローチを採用しており、 政治的解決を模索する前に、もしくはそれと同時並行的に、両者間の信頼構築や、戦争で 荒廃した地域を再建することを重視している。他の外国援助機関とともに、スリランカへ の最大のドナーである日本もまた、この複雑な試みに様々な方法で貢献する用意があると の意思表示をしている。伝統的にも、日本がスリランカの主要な援助国であったことから、 スリランカ政府は他の国々よりも、多大な期待を日本に抱いているようである。 このように、2002 年半ばから、日本はスリランカでの平和構築プロセスに貢献すること を検討し始めた。日本は、スリランカの全ての人々に和平交渉の利益をもたらすことを目 指した経済開発プログラムをまもなく準備する予定である。スリランカの首相が 2002 年 12月の初めに日本を訪問したとき、このプログラムの詳細が議論された。日本は、明石康 特使をスリランカの和平交渉を支援するよう任命した。彼はスリランカを訪問し、またオ 51 南西部で活動する日本の NGO はあるが、紛争解決・緩和、人道支援等といった分野での活動は、2001 年に日本紛争予防センターの支部がコロンボに設置されるまではほとんどなかった。コミュニティ開 発等の活動も邦人保護の観点から敷かれた渡航自粛規制等により、北東部に展開することが難しかっ たという事情がある。
スロ会議にも参加した。 日本政府は、2003 年に東京でドナー会議を主催し、また、スリ ランカ政府に LTTE との交渉の一つのセッションを行うための場を提供する予定である。 スリランカは過去において停戦合意が何度も破棄され、和平交渉の中断を経験してきた が、今日、丸 1 年もの間、停戦合意が守られている。もちろん、和平交渉には重要な問題 が含まれている。しかし、大多数の人々は、紛争に支配されてきたこの島に恒久平和が戻 ることを期待している。 3.3 日本の NGO:紛争被災地域における援助の課題 日本は、スリランカの最大の援助国で、非常に重要な貿易パートナーである。このこと を考えると、スリランカの市民社会と日本 NGO がかなり深い交流関係にあると想像する 人もいるであろう。残念なことにこれは事実ではなく、特に、北東部の紛争被災地域にお いては日本の NGO の活動はほとんどないといってもいい。なぜそうなのであろうか。 現在の、日本とスリランカの市民社会の交流は、主に、二国の仏教関連の個人と機関を 通して始められた。これらは、多くの場合スリランカから日本に、時折日本からスリラン カを訪問した個人や僧侶が始めた活動である。日本と交流のある主なスリランカの市民団 体の多くは、日本に住み、日本語を学び、日本の慈善家や宗教的なリーダーと親しくなっ た人(しばしば仏教僧侶)によって創始された。日本語学習は、スリランカのシンハラ多 数派地域で 1970 年代頃から盛んになった。一方、北東部には、日本語を教えている教育 機関はない。 もう一つ重要なことは、公式・非公式を問わず、日本で働きながら住んでいるスリラン カ国籍をもつ人々の中に占める、タミル人(ヒンズー教徒)の人口割合は、スリランカの 国内の同人口割合より非常に低いということである。これは、ヨーロッパと北アメリカで のスリランカ国籍をもつタミル人(ヒンズー教徒)の人口割合と比較すると全く対照的で ある。これらのことは、日本の市民社会がなぜスリランカの北東部において交流関係を持 たなかったか、という疑問に対しての説明となる。これらの地域が、主にヒンズー教徒と イスラム教徒の居住地である、という宗教的な構成理由は間違いなく要因の一つであった。 しかしそれは、単に宗教的な問題だけではない。 日本の市民団体はスリランカの宗教団体、市民組織、または日本の宗教組織と多くのつ ながりをもっている。しかし、これらのつながりは、紛争地域には広がらなかった。仏教 国としてのスリランカのイメージは、おそらくこの市民組織の交流にも影響を与えていた であろう。大部分の交流活動は小規模であり、そのほとんどは日本側がプロジェクト資金 や人の派遣、若干の慈善事業に関して責任を持っている。理由が何であるにせよ、北東部 が日本の市民団体の精神的な地図の範囲外であったことにまちがいなはい。 ここ数年にわたり、北東部で活動するスリランカ国内 NGO であるセーワ・ランカと協 力して活動している日本紛争予防センター(JCCP)を除いて、北東部にて長期的なプロ グラムを実施している日本 NGO はない。前述のように、JCCP はコロンボに事務所を構 えており、人道援助協議会(CHA)のメンバーでもある。また、最近になって、北東部で 再建・復興・和解活動を支援する目的で、日本の NGO であるブリッジ・エーシア・ジャ パンがコロンボに事務所を設置した。
他の開発 NGO としては、スリランカで 9 年間活動している「自立のための道具の会」 (Tools for Self Reliance:TFSR)が挙げられる。同団体は、英国 NGO の ITDG(Intermediate Technology Development Group:中間技術開発グループ)のスリランカ支部、Matale Heritage Centreなどの組織をスリランカのカウンターパートとしている。 「自立のための道具の会」は、日本から、様々な道具の送付と、草の根レベルの技術援 助を行うことによって、エネルギー、水、土、食品加工、適正技術、教育、金属加工、大 工などの分野で村落コミュニティが自立を達成することを支援する。同団体は、南東部の モネラーガラ県、ボーダー・エリヤにある村々、南部ではエンビリピティヤ、ハンバント ータなどの貧困地帯でもいくつかの活動実績がある。 道具の会は、今のところまだ北東部で活動していないが、現在、ある英国の NGO と協 力して、“Rehabilitating the Victims of Armed Conflict Armed Conflict(ROVAC)”と題 した紛争被害者の復興のためのプロジェクトの企画書を作成中である。また、RRR プロ グラムの一部として、前述した様々な分野において、北東部に技術協力を行うことも検討 中である。道具の会はスリランカに事務所を設け、CHA へ加盟することも検討している。 道具の会は、2002 年 10 月に、エネルギー効率とレンガの強度を改善するための「地質テ ストセンター」を、コロンボから北へ車で1時間のカターナに設置した。また、2003 年に は、同じくコロンボから南に車で 1 時間ほどのカルタラの近くに「地方で独自に自然エネ ルギーを供給するための方策をテストするセンター」を設置することを計画している。道 具の会は、Lanka Energy Forum, Lanka Water Harvesting Forum, International Federation for Rural Transport Development in Sri Lanka等の団体と協力しあって活動 している。 スリランカにおける第 5 回目の和平プロセスの特徴を考えると、日本とスリランカの市 民組織の交流と「トラック 2」の外交関係は、非常に重要なものである。武器製造の破棄 と特殊な平和憲法(特に第 9 条)にて戦争を永遠に放棄している国として、日本の NGO は、北東部での平和への取り組みを積極的に支持する勢力となることができる。したがっ て、関心のある日本 NGO に情報を提供し、プロジェクト資金の支援をあおぐために、ス リランカ NGO プラットフォームを設立することを提案する。このプラットフォームの、 CHA への加盟も重要である。このプラットフォームのありかた、特に日本とスリランカ での役割や機能に関しては十分議論されるべきである。 多様な NGO がスリランカ北東部での平和構築と RRR プロジェクトに積極的に参加し ているなかで、日本の「トラック 2」の外交は、両国の人々の間で、多くの信用と親善を 培う案内役となるであろう。2002 年は、1952 年のサンフランシスコ和平会議以来始まっ た日本・スリランカ外交の 50 周年記念である。50 年前の歴史的な会議ではスリランカが、 戦争賠償金を放棄して日本を国際コミュニティに再び仲間入りすることが許されるべきで あるとして、支持した。このことを考えると、今、両国は、友好、平和、発展のために、 市民社会の交流を強化するための絶妙のタイミングにあるといえよう。
第 4 章 和平交渉・復興の現状および今後の見通し
• • • • 1983 年に内戦が始まってから、スリランカの民族紛争に恒久的な政治的解決策を模索 するために何度も和平交渉が繰り返されており、現在の交渉はその主要な交渉のうち、第 5回目の試みである。この交渉は、2002 年 2 月 22 日にノルウェーの調停により、スリラ ンカ政府と LTTE が停戦合意(CFA)に署名することにより開始された。この交渉は、 多くのオブザーバーとアナリストによって、前途有望で有意義なものであると評価されて いる。この章では、1985 年以降行われた過去の和平交渉の試みを簡単に振り返り、2002 年 12 月現在までの、現行の交渉過程の進捗状況を分析する。分析は、和平交渉の成果、 交渉過程の持続性、および戦争で破壊された北東部の復興と開発の今後の見通しに焦点を あてる。 4.1 過去の和平交渉の過程のレビュー 52 スリランカの紛争に政治的な解決を見出す過去の取り組みは、希望と絶望の一連の浮き 沈みが続いたことから、しばしば「岩多き道の旅」と描写される。この道のりを大きく分 けると以下のとおりになる。 ティンプー会談(1985 年) インド・ランカ協定(1987 年) プレーマダーサ・LTTE 会談(1989-90 年) クマーラトゥンガ・LTTE 会談(1994-95 年) (1) ティンプー会談とデリー協定(1985 年) 1985 年 7 月に、インド政府の主催の下、スリランカ政府代表団は、ブータンのティン プーで分離独立を主張する各タミル人組織と会議をもった。出席団体は、タミル・イーラ ム解放のトラ(Liberation Tigers of Tamil Eelam: LTTE)、タミル開放機構(Tamil Liberation Organization: TELO)、イーラム人民革命解放戦線(Eelam People's Revolutionary Liberation Front:EPRLF)の 3 団体からなる新しい連合組織であるイ ーラム国民解放戦線(Eelam National Liberation Front: ENLF)、学生によるイーラ ム革命組織(Eelam Revolutionary Organizations of Students: EROS)、タミル・イ ーラム人民開放組織(People's Liberation Organization of Tamil Eelam: PLOTE)、 タミル統一解放戦線(Tamil United Liberation Front: TULF)であった。ティンプー 会談直前の 6 月に、ジャヤワルダナ大統領は、ニューデリーで始めてラジーヴ・ガンデ ィ首相に会った。この後まもなく、インドの外務事務官ロメーシュ・バーンダリがコロン ボを訪問した。インドの圧力の下、スリランカ政府とタミル人武装グループは、6 月 1852 このレビューは、過去の平和交渉と過程についての著者自身の知識に加えて、以下の資料を引用した。 Loganathan (1996) , Swarmy (2002) , Silva・Peiris (2002)。
日に停戦を発表した。 当初、タミル組織のうち、TULF と PLOTE だけが、ティンプー会談に積極的に参加 を表明していた。ENLF を形成する他のグループは、インド政府に強く説得されて始め て参加に同意した。インドの試みは、1984 年にコロンボで開かれた全政党による会議が 失敗した後に行われた。そこでは TULF がタミル人を代表していた。インドの関与は、 武装グループを交渉のテーブルにつかせたいということが動機となっていた。さらに、ラ ジーヴ・ガンディ率いる当時のインド政府は、スリランカ政府との関係を改善するのに熱 心であった。彼の前任者であり母であるガンディ夫人の時代には両政府は緊張関係にあっ た。スリランカ政府にとっては、インド政府がタミル軍事組織へ軍事トレーニングを施し たり、他の便宜を図ったりしていたことが不満のもとであった。ラジーヴ・ガンディ首相 に政権交代した後、「スリランカの武装対立を収束させ、統一スリランカの中で政治的和 解を実現するために、インドは誠実な仲介者の役割を演じる準備がある」と、インド政府 はスリランカ政府に信号を送っていた。また、インドは、スリランカでの分離主義者の戦 いと、インドにおけるスリランカ出身タミル軍人の政治活動が、タミル・ナードゥ州での 分離主義の復活に影響するかもしれないと懸念していたのである。このことが、スリラン カを分割させないように紛争を調停する主な動機となっていた。 会談は、1985 年 7 月と 8 月に 2 回、ティンプーで行われた。6 日間続いた第 1 回目で は、タミル人代表団は、会談の基本的条件として、後に「ティンプー原則」として知られ るようになった 4 つの要求を出した。 ① 別個の国籍をもつものとしてのタミル人の承認 ② タミル故国とその領土へのタミル人の権利の承認 ③ タミル国の不可譲の自決権の承認 ④ スリランカを故郷とみなす全てのタミル人の全面的市民権と他の基本的民主的権利 の承認 スリランカ政府代表のリーダー(弁護士でありジャヤワルダナ大統領の兄弟であった) は、最初の 3 つの原則に関して、もしそれらを言葉どおりに解釈し、一般の法律的意味 を用いて解釈するなら、容認できないと回答した。彼は、それらはスリランカの独立国と しての領域的統一性を否定したという理由で拒否されなければならないと述べた。しかし 彼は、以上の要求が、原則的に分離独立を意味しないならば、前向きに意見を交換する余 地があるとも述べた。第 4 の要求に対して、彼は「今回の会談に参加しているいかなる タミル組織の代表も、スリランカに住んでいる全タミル人に代わって交渉する権利はな い」、と言った。そして「近年インドから移り住んだタミル人(インド・タミルを指す)」 は、自身達が選んだ代表者組織を有している、と指摘した。スリランカ政府は、スリラン カの既存の憲法の範囲内で問題解決策を提供することしかできず、また現行の県議会シス テムを越えたかたちで北東部地方への権限委譲を行わないことを表明した。タミル人は、 当初は 4 つの原則が認められることを望んでいた。第 1 回目の会談はあまり進展せず、 議論にいかなる共通基盤をも見出すことができなかったが、両者は再び会合をもつことに は同意した。 7 月 20 日に、ジャフナ(Valvettiturai)でスリランカ軍とタミル武装兵の間で衝突が 起こった。両者は、その時点で停戦協定を完全には破棄しなかったが、爆弾攻撃もいくつ
か起こった。しかし、第二回の会談が 8 月 12 日に始まるや否や、暴動は過激化した。会 談が始まった数日後、タミル人代表は、スリランカ軍がタミル人を攻撃し続けていると抗 議した。彼らは、軍は大量虐殺行為を行っていると主張した。インド政府は、何とか会談 を続行しようとしたが、LTTE は会談から引き上げ、他のグループは代表団の規模を縮小 した。しかし、第二回目の会談が始まる前に、ティンプー会談は事実上失敗していた。そ れは、的確な準備と相互の信頼関係を構築することなしに、インドの命令で開催が引き受 けられたからである。会談は失敗に終わり、停戦も破棄された。 しかし、インド政府は、スリランカ政府に対して外交上の働きかけを続け、スリランカ 政府に州議会に基づく移行の枠組みに同意させることに努力した。後に、1985 年のデリ ー協定として知られたこの枠組みは、インド政府の発案であった。それは、州政府へ権力 を大幅に委任するという案であった。スリランカ政府はしぶしぶそれを受け入れたが、タ ミル武装組織はそうしなかった。TULF は初め同意に積極的だったが、武装組織からの 圧力でその支持を取り下げた。インド政府の努力は日の目を見ることはなかったが、デリ ー協定は「県」ではなく、「州」単位での権限委譲を提案することで、将来の平和交渉の 議題に載せたという意味では目的を果たしたといえよう。タミル解放諸組織は、その後も タミル・ナードゥ州の支援組織と、インド国内のかなりの数のタミル人口からの支持を享 受し続けた。その一方で、インド政府は、LTTE の理論家であるバーラシンハム、TELO の代表であるサチャンドラとチャンドラハサン、インドのスリランカ・タミル難民の間で 人道的援助をしていた TELO 支持者である活動家等に、即時追放を命じることでタミル 軍事組織の会談からの引き上げに対抗した。スリランカ北東部では、スリランカ軍とタミ ル軍事組織の間で衝突が続き、一般のタミル人とシンハラ人が犠牲になった。 ティンプー会議の失敗は、主導者が和平会談の準備がまだできていなかったという事実 を明らかにした。また、各タミル武装集団への後援者を演じながら、スリランカ政府の調 停者に同時になろう、という二重のアプローチによるインドのジレンマを明らかにした。 一方、タミル武装集団は、ティンプー会談に参加することによって、人々からの認識度を 高め、政治的正当性を得たのである。 (2) インド・ランカ協定(1987 年) 1985 年、ティンプー会談が決裂した後、より多くの血が流され、命が失われた。その 後、1987 年 7 月 29 日に、インドの首相ラジーヴ・ガンディとスリランカの大統領 J.R. ジャヤワルダナによって、インド・ランカ協定が署名された。主導権争いのなかで、 LTTEは TELO の幹部とその構成メンバーの多数を排除した。PLOTE は、内部の混乱と 粛清によって事実上、弱体化し麻痺状態であった。LTTE は、軍事力を拡大し、戦場にお いて最も支配的な勢力になった。EROS と EPRLF は、一応活動はしていたが、軍事的 には LTTE よりはるかに劣り、LTTE に脅されつつあった。ENLF は機能を停止してい た。紛争は完全に軍事的になり、武装集団の間での衝突により紛争がエスカレートすると、 非武装の TULF はさらに端に追いやられた。
前述のように、インドはティンプー会談決裂後も、調停への努力を続けていた。イン ド・ランカ協定の基本的要素のいくつかは、その時、両政府間ですでに同意されていた。 スリランカ政府が州単位での権限委譲を承認したことが、その中で最も重要なものである。
しかし、合意に公式に署名する前の期間には次のような経緯があった。まず、1986 年 11 月、バンガロールにおいて、タミル・ナードゥ州政府主席大臣である M. G. ラーマチャ ンドラン(当時、LTTE の主要な後援者と見なされていた)の面前で、ラジーヴ・ガンデ ィ首相とプラバーカランの直々の会議がもたれた。ラーマチャンドランは、プラバーカラ ン(彼はその時チェンナイに住んでいた)に、バンガロールでインドの首相に会うように 説得した。プラバーカランは、ガンディによって提案された州政府案に不満であったため、 チェンナイに帰って、すぐにジャフナへ向かった。スリランカ政府は、この時、ジャフナ 攻略のための攻勢を開始する。しかし、スリランカ政府の予想に反して、インドはタミル 武装グループへの物的支援を増加させたばかりでなく、空軍機でジャフナ半島に「食物投 下」するという最も劇的な行為を行った。インドは、スリランカの空域を侵犯し、「攻勢 を止めて、新しい和平交渉のためのインドの提案に同意するように」という強力なメッセ ージをスリランカ政府に送ったのである。インドはまた、提案を受け入れさせるために、 LTTEに多くの軍事的締め付けをしなくてはならなかった。 インド・ランカ協定の基本的前提は、以下の重要な条項を含んでいた。 ・ 一つのスリランカ、スリランカの主権と統一の維持(第 1.1 節) ・ 全ての市民が平等・安全・調和のもとに生活し、向上し、目標を達成できるように (第 1.5 節)、多民族・多言語の社会の枠組みのなかで(第 1.2 節)、各民族の異な る文化・言語アイデンティティを育てる(第 1.3 節)。 ・ 北東部州を「タミル語を話すスリランカ人の歴史的居住地域」(第 1.4 節)として 認める。 この合意の主な特徴は、北東部州を、一つの選ばれた州議会、一人の州知事、主席大臣 と各大臣から構成される委員会をもつ一つの行政単位とした「一時的」な措置にある。こ の一時的な処置を将来どうするかは、1 年後の国民投票にて決定されることになっていた。 合意条件の下で、インドの政府は、提案の実行における問題解決と協力を引き受けること を保証した。それは、タミル武装集団の非武装化と、スリランカ治安部隊の兵舎内への撤 収を含んでいた(第 2.14 節)。インド平和維持軍(Indian Peacekeeping Forces: IPKF)として知られるようになった「インドの平和維持派遣団」が、武装集団が武器を 引き渡し、スリランカ軍隊が兵舎へ撤収され、平和が確実に維持されるために設立される ことになっていた。 しかし、LTTE 幹部は合意に満足していなかった。合意の署名前に、インドの首相と大 臣たちはニューデリーにて、合意を受け入れるよう、プラバーカランに依頼した。プラバ ーカランは憤りを表明しており、調印式がコロンボで行われたときは、デリーのアショ ク・ホテルに事実上、監禁されたままであった53。しかし、タミル人は非常に興奮して合 意のニュースを歓迎し、北東部に IPKF が到着したときは、喜びの絶頂にあった。イン ド軍はタミル人大衆に花束で迎えられた。彼らは「母なるインド」がついに彼らを解放し、 救いに来たと確信していたのである。停戦は 7 月 31 日に開始され、武装組織は停戦の開 始から 72 時間以内(すなわち 8 月 3 日)に武器を手渡すことになっていた。 53 インド・ランカ協定と LTTE の歴史についての詳細は前掲の Swamy (2002) を参照のこと。
タミル人大衆が幸福に浸っていた一方、合意内容の実施に関する限り、ことは予想通り には運ばなかった。ジャフナでは、LTTE 幹部が、リーダーのプラバーカランがニューデ リーに監禁されていることに憤慨していた。彼らは、プラバーカランの釈放を要求し、ジ ャフナ半島の様々な地域で抗議の行進と座り込みを行った。予定されていた武器の引き渡 しは実現しなかった。LTTE のジャフナ指揮官クマーラッパは、彼らのリーダーが直接命 じない限り、LTTE はいかなる武器も決して手渡さないとジャフナの IPKF 団長に言った。 プラバーカランは、8 月 2 日にジャフナに帰された。8 月 4 日に、彼はストゥマライ・ア ンマン寺院の敷地で 5 万人以上の群衆に講演した。彼は、「強大な権力が、我々のコント ロールを超えるところで我々の政治的運命を決定した」ため、彼が合意を受け入れなけれ ばならなかったことを観衆に説明した54。彼はまた、LTTE は合意に従って武器を引き渡 す、と述べた。後に、LTTE は二車輌分の武器だけを引き渡した。他のグループも、彼ら の武器の一部を引き渡した。
南部では、合意はスリランカ自由党(Sri Lanka Freedom Party:SLFP)、人民解放戦 線(JVP)と他のシンハラ国粋主義政党によって拒絶された。合意に対するコロンボでの 抗議の行進は暴動になり、38 人が死亡、いくつかの国営バスが破壊された。SLFP は、 政府は国民を裏切り、国をインドの属国にしたと非難した。JVP は、合意に対して反対 運動を行い、軍隊の中にみられた反インド感情を刺激した。ラジーヴ・ガンディ首相がス リランカで歓迎の式典に出席した際、兵隊に挨拶している間に、シンハラ海軍水兵がライ フルを彼に振りかざずという事件も起こった。しかしながら、インド政府は合意を実行す る計画を進めていた。それは 1987 年末までに開催を予定していた州議会選挙までに、北 東部州に臨時政府を設立することを含んでいた。 12 人のメンバーからなる臨時諮問議会が、北東部州を運営するために設置されること になっていた。インドは以前にタミル政党に対し、臨時議会の設立においては全てのグル ープに同数の議席が与えられると約束していた。しかし、LTTE は同数の議席に満足せず、 より多くの議席を要求した。この問題が解決される前に、ジャフナの LTTE の政治指導 者であるティレーパンは無期限のハンガーストライキを行った。彼は、IPKF は、タミル 地域をシンハラ植民地化するためにスリランカ政府と協力しているとして非難し、合意と インドに対して批判を行った。ティレーパンの断食は、LTTE による大きな政治的イベン トであった。9 月 26 日にインドのディキシット大使はジャフナへ飛び、LTTE が臨時議 会の 12 の議席のうちの 7 議席持つことをプラバーカランに知らせた。プラバーカランは 申し出を受け入れたが、ティレーパンの断食を止めなかった。ティレーパンは死に、彼の 死はジャフナで反インド感情の波を高まらせた。 臨時議会の残りの 5 議席は、TULF に 2 議席、スリランカ政府に 2 議席、1 議席はス リランカ政府によって任命されるムスリム・コミュニティの代表へ与えられた。臨時議会 は LTTE が指名する議長によって主導されることになっていた。LTTE はジャヤワルダ ナ大統領に二つのリストを提出した。一つは 7 人の臨時会議メンバーの選択のため、も う一つは議長の選択のためであった。大統領は選択を行ったが、LTTE は、大統領が議長 前掲、Swamy (2002) 54
として選択した前ジャフナ市理事の C. V. K.シバニャーナンに不満であり、また臨時議会 のメンバーのうち 2 人を交代させることを望んだ。LTTE は、大統領が、N.パットマナ ーダン(彼は公務員で、当時テロ防止法によって 45 ヵ月間拘留され、解放されたばかり であった)を選ぶことを望んでいた。大統領は、シバニャーナンをパットマナーダンに交 代させることを拒否した。LTTE はシバニャーナンに役職の受け入れを拒否するよう依頼 し、彼は書面にて受け入れを拒否した。 和平交渉は、散発的武力衝突のために平和的でなくなっていた。これらの衝突には、 LTTE と他のタミル集団が関係していた。スリランカ政府軍が関係した事件もあった。 LTTEは、より公然と IPKF に対する敵意を示し始めた。LTTE は、タミル人にインド軍 と接触しないよう警告した。問題は 10 月 5 日、スリランカ海軍が武器と弾薬を運んでい る 2 隻のトロール船を捕獲し、船上の 17 人の LTTE を留保した時に発生した。留保され た人々の中にはジャフナの指揮官クマーラッパとトリンコマリーの指揮官プレンドランが いた。LTTE は、政府は合意を冒涜したとして非難し、保留者の釈放を要求した。政府は 拒絶して、保留者をコロンボへ連れて行くことに決めた。LTTE は、彼らはコロンボへ連 行されてはならないと迫った。インド大使は、17 名をコロンボへ連れて行かないように と、ジャヤワルダナ大統領とアトゥラトゥムダリ防衛大臣に訴えたが、政府はこれを却下 した。17 人の LTTE メンバーは、シアン化物カプセルを噛み自殺を図った。17 人全員が IPKF の病院に運ばれたが、クマーラッパとプレンドランを含む 12 人が死亡した。和平 交渉は、ここで暗礁に乗り上げ、LTTE と IPKF の間の対決は避けられなくなった。 IPKFと LTTE が戦争状態にあったので、州議会は 1988 年 12 月に EPRLF のヴァラタ ラージャ・ペルマーを主席大臣として組織された。議会選挙は、非常に問題の多い中で東 部の一部でのみ開かれ、北部では開催されなかった。州議会は、各省の大臣から構成され る行政委員会が選ばれ、トリンコマリーに事務所が設置された。一方、LTTE は IPKF に よってジャフナから追い出された。北東部における一般人の犠牲は広がっていた。 EPRLFは、インド調査分析局(Research and Analysis Wing:RAW)の助けを借りて 急いでタミル国民軍(Tamil National Army:TNA)を徴兵した。LTTE は TNA と対立 し、難なくそれを押しつぶし、インドによって TNA に供給された大部分の武器を取り上 げた。LTTE は、大きな損失を IPKF に与えていた。EPRLF 率いる州議会の寿命はあと 数日となった。R.プレーマダーサが大統領として選出されたことは、LTTE にとって有利 であった。プレーマダーサは、IPKF がスリランカから撤退することを望んでいたからで ある。彼は、スリランカ軍に LTTE へ武器を供給するよう命令した。彼は IPKF を共通 の敵であると捉えたのである。1989 年 12 月、ガンディ率いるインド国民会議政府は、V. P.シン率いる国民戦線に対して敗北した。国民戦線は、スリランカから IPKF を撤退させ ることを選挙運動で誓約していた。誓約は実行され、1989 年 6 月までに IPKF は完全に 撤退した。デリーの新政府は、北東部の州議会の解散を望んだ。州議会は IPKF が撤退 するや否やすぐに崩壊した。しかし主席大臣は、タミル・イーラム国家の独立を一方的に 宣言するという劇的な抵抗を最後に行った。インド大使は驚き、主席大臣と 2、3 の他の 議員を、インドの空軍機でインドに護送した。その時既に、プレーマダーサは LTTE と の会談を開始していた。こうして、インド・ランカ協定は終わりを告げた。 EPRLF の元スポークスマンであり理論家、現在は民族問題と和平交渉の研究・解説者で
あるロガナータンおよびロパースは、次のようにインド・ランカ協定の教訓をまとめてい る55。 ・ 実質的な問題に関する議論のなかで、タミル人組織を直接協定に関与させなかった。 LTTEと他のタミル組織が協定の共同調印者でなかったということが決定的であっ た。 ・ 行政構造に関する問題は、インド政府とスリランカ政府の間で合意に署名した後に 法律で制定されることとなっていた(すなわち第 13 条の改正)。交渉のプロセス は「近接交渉」であり、紛争当事者間の直接交渉ではなかった。 ・ LTTE およびスリランカ政府は、第三者としての調停者(すなわちインド)に疑い をもっていたうえ、両者とも自分たちに有利になるようインドを利用しようとした。 インドは両者から信頼を勝ち取ることができないまま、対立に必然的に巻込まれた。 (3) プレーマダーサ・LTTE 会談(1989-90 年)とムナシンハ委員会(1991-93 年) プレーマダーサ政権は、1989 年 4 月に LTTE と交渉を開始した。会談に LTTE だけを 招くことによって、大統領は間接的に LTTE をタミル政党の代表と認めた。LTTE 幹部 は大統領と内閣の幹部と交渉するためにコロンボに飛んだ。中央州から選出された経験豊 かなイスラム政治指導者であり、LTTE と個人的に連絡を取り合っていた外務大臣 A.C.S ハミードが交渉団を率いた。アントン・バーラシンハムが LTTE の代表者であった。政 府は LTTE の要求により、タライマンナー、ヴェルヴェッティトウライ、ポイントペド ロという、北部で最も戦略的に重要な軍キャンプを閉鎖した。政府は、LTTE の機嫌を取 るための長い道のりを進んでいるように見えた。しかし、会談ははっきりした議題を持た ないままであった。IPKF の撤退と北東部州議会の解散が、初期の会談での議題であった。 4 月からは休戦に合意した。会談は、様々な間隔をとりながら、ほぼ 14 ヵ月にわたって 行われたが、いかなる前進も見られなかった。何度も停戦は崩され、武力衝突が再開した。 6月の第 1、2 週に LTTE は、北東部において 20 の警察署と 18 の軍キャンプを攻撃した。 一般人の犠牲者も多くでた。 和平交渉の失敗の根底にある理由は、それほど明白ではない。北部と東部の合併と、政 府の州議会への権限委譲の程度が、主な議論の課題であった。紛争当事者である政府と LTTEが直接交渉を行ったのはこれが初めてであった。しかし、後の考察では、両者は準 備不十分であったうえ、インド・ランカ協定と IPKF へ反対しているというほかには、 共通の基盤を見つけられなかったことが失敗の理由であるとされている。さらに、ロガナ ータンとロパースは、交渉は、両者の短期的関心の裏返しであった点を指摘している (2002 年)。 会談の失敗と引き続く紛争の中で、プレーマダーサ大統領はタミル政党を代表する国会 議員および、他の一部の反 LTTE グループと話し合いを始めた。この作業は、マンガ ラ・ムナシンハ国会議員が議長をつとめる国会選出の委員会によって遂行された。この委 員会は、1978 年の憲法第 13 条の改定に基づいて執行された。委員会は 1991 年から Loganathan・Ropers (2002) 参照。 55
1993 年を通して開催されたが、多くの業績をあげることはできなかった。ここでも、二 大シンハラ政党(UNP と SLFP)は、北部と東部を合併し、タミル語を話す人々の州と する、というタミル政党の要求に同意しなかったのである。 プレーマダーサ大統領は、1993 年 5 月 1 日に、LTTE メンバーであると考えられてい る自爆テロ犯の爆弾によって命を失った。その際、23 名の一般人が死亡、52 名が負傷し た。プレーマダーサの死は、1991 年 5 月に、南インドで女性 LTTE 自爆テロ犯によって 実行されたインド首相ラジーヴ・ガンディの暗殺を思い起こさせた。 (4) クマーラトゥンガ・LTTE 会談(1994-95 年) チャンドリカ・バンダーラナーヤカ・クマーラトゥンガは 1994 年 8 月、スリランカ大 統領に選出され、第 4 回目の和平交渉を開始した。彼女は恒久平和をもたらし、前体制 下で続いている人権の違反に終止符を打つという公約の下、先例のない大多数で大統領選 挙に勝った。彼女の選挙運動家は、連邦主義や分権化などという概念をシンハラ人へ説明 することにかなりの時間を費やした。大多数のシンハラ人、タミル人とイスラム教の有権 者は、彼女に投票した。実際、彼女はタミル有権者の圧倒的支持を得た。LTTE も、 UNP の大統領スリマ・ディサーナーヤカよりもクマーラトゥンガを支持していた。スリ マは選挙集会中に自爆テロ犯によって、数人の犠牲者とともに暗殺されたガーミニー・デ ィサナーヤカの妻であった。TULF も、クマーラトゥンガのために活発に選挙運動をし た。彼女の勝利は、国中の人々に期待を持たせた。北東部においても、再び人々は喜びに あふれ、新しく選ばれた大統領は非常に人気があった。南部においても、平和への取り組 みは、シンハラ人の広範囲にわたる支持を得た。この状況は、和解を達成するために非常 に理想的であるように思われた。第 4 回目の和平交渉は、多くの約束とともに始められ た。 同月、北部への 28 項目の必需品の輸送禁止を解いて、大統領は LTTE と無条件会談を すると申し出た。LTTE はそれを歓迎した。大統領とプラバーカランは、検討すべき色々 な問題に関して一連の手紙のやりとりをした。スリランカ政府代表団を運ぶヘリコプター が 1994 年 10 月 13 日にジャフナに着陸した時、代表を歓迎するために数千人が集まった。 ライオネル・フェルナンド(ジャフナの前知事)と代表派遣団のメンバーは、人々の熱狂 を「幸福の絶頂」と表現した。スリランカ政府代表団は、大統領の事務官であるバーラパ タベンディに率いられた。他のメンバーは、ライオネル・フェルナンド(上級公務員)、 ナビン・グナラトナ(民間部門の建築家)とラジャン・アサーワタン(新しくセイロン銀 行頭取に任命された会計士)であった。代表団にはベテランの大臣や政治家はおらず、こ の種の政治折衝にいかなる経験がある者もなかった。LTTE 代表派遣団は、東部の上級リ ーダーであるカリカーランが率いていた。彼を、後に LTTE の政治部門幹部となるタミ ル・チェルヴァンが補佐していた。 二回の会議の後、1995 年 1 月 5 日、スリランカ政府と LTTE の間で休戦協定が署名さ れた。両者が最終的に同意した項目は以下のとおりである。 ・ スリランカ政府と LTTE 部隊は、互いの間隔を最低 600 メートルに保ち、現在の 地上での位置を維持する。 ・ スリランカ政府海軍・空軍は、指定された地域での合法的漁業へのいかなる妨害も
しない。 当初、両者には問題に対する基本的な姿勢の相違があった。LTTE は、実質的な政治問 題に関して交渉する前提条件として、「正常化」を望んでいた。LTTE は、人々の日々の 生活を正常化するために、経済制裁をはじめ、他の規制を排除することを希望した。スリ ランカ政府は、実質的で中心的な問題に最初に取り組むことを望んだ。会談に議題を設定 するにあたっての両者のこのアプローチの違いは、未解決のままであり、交渉に関する両 者の緊張の主な源となった。これについては後に解説する。 1995 年 1 月 14 日の交渉において、LTTE は、ポーネルン基地の撤去とサングピッデ ィ経由でジャフナ半島と本土の間の陸路を開放することを要求した。スリランカ政府は、 ポーネルン防御線を 600 メートル後退させることに同意した。1 月 15 日、タミル・チェ ルヴァンは、スリランカ政府に以下の要求をした。 ・ LTTE 兵士は、武器を東部に運び込んでもよい。 ・ LTTE 兵士は、様々な道路における検問所にて検問を受けなくてもよい。 ・ スリランカ政府による経済制裁の解除。 ・ 東部での漁業活動を妨害することなく、許可する。 LTTE は、武装兵士の移動の自由、海岸部水域おける移動、漁業権の問題が受け入れら れるまで、和平委員会の設置には同意しないといった。クマーラトゥンガ政権は、北東部 への全ての必須品の禁止を緩和し、スリランカ軍基地の 2 マイルの範囲内以外での漁業 に関する規制を解き、エレファント・パスとサングピッディ基地の防御線を後退させて、 ジャフナ半島と本土に結ぶ交通路を開くことに同意した。しかし LTTE は、スリランカ 軍はそれらの処置に反対しているので、政府はこれらを何も実行することができないであ ろう、と述べた。 和平交渉は、トリンコマリー港で 2 隻の海軍砲艦への LTTE の攻撃によって、1995 年 4月 19 日に終わった。クマーラトゥンガ宛の 1995 年 4 月 18 日付の通知において、プラ バーカランによって示された理由は、以下のとおりであった。 ・ 政府のポーネルン基地撤去の不履行 ・ 東部における LTTE 兵士の武器を運ぶための移動の自由を許可することに対する 政府の拒絶 ・ プラバーカランにクマーラトゥンガが手紙で誓約したと言われる漁業への全ての規 制緩和に対する政府の不履行 停戦は終わり、スリランカは 4 回にわたる和平会談の後、戦争を再開した。会談は、 相互理解を促進するどころか、PA 政府と LTTE の関係を悪化させた。両者は、和平交渉 の失敗をお互いに責めあった。大統領は「平和のための戦争」に着手し、それを拡大し続 けた。両者は、新しく購入した武器のために武器庫を拡大した。政府は、1995 年 12 月、 LTTE からジャフナを奪回し、A9 道路をジャフナまで通すための軍事戦略を開始した。 これによって、スリランカ軍は大きなダメージを受けた。しかし、戦争は続き、政府は、 いかなる犠牲を払ってでも軍事で紛争に勝つという方策を採り続けた。
他方、政府はいわゆる「Uncleared Area(LTTE 支配地域)」に対して「Cleared Area (政府支配地域)」における復興・再建プログラムを開始した。「北部再建復興局」(The
Relief and Rehabilitation Authority for the North:RRAN)が 1996 年に設置された。 1994年、復興・再建関係の業務は、船舶港湾省の管轄に加えられた。それ以前、1995 年 1 月には、「北部のための大統領特別対策委員会」が、「緊急援助と復興プログラム (ERRP)」を準備するために設立された。しかし、1995 年 4 月以降の武装対立の深刻化 に伴い、薬品を含む多くの必需品への経済制裁のために、LTTE 支配地域の住民は、政府 支配地域の住民に比べて、より深刻な問題に直面していた。人道的な危機の深刻さに加え て、戦時下における救援・復興・開発は、政治・実務上、先例のないほど困難なものであ った。戦争は地理範囲を拡大し、国内避難民の数は武装対立が始まってから増加し続けて いた。これらを考え合わせると、人道的な配慮よりも、軍事への配慮が優先される傾向に あったといえる。 ジャフナを奪回した年以降、スリランカ軍は一連の失敗を経験し、その犠牲は政府と国 民が払うことになった。スリランカ軍は、容認しがたいほど多くの兵士と武器を失ってい た。治安部隊の士気は弱まり、多くの脱走兵がでた。新兵募集はされていたが、期待され る結果は得られなかった。国は、明らかに戦争に疲弊していた。戦争の経済的費用は急騰 しており、政府は常時、財政赤字を埋める苦労を繰り返していた。戦争経済は、国家経済 を食いつぶす形で増大しており、長期の発展が損なわれていた。負債への負担は重くなっ ていった。このような状況下において、クマーラトゥンガ大統領は、和平交渉の可能性を 探るためにノルウェーの支援を求めた。一方、LTTE 側は、軍事的勝利は得ていたものの、 多くの兵士が殺され、負傷していた。LTTE は、新兵募集において問題に直面していた。 LTTEは、軍事教練に子供たちを徴兵しているといって、アムネスティ・インターナショ ナルと国連によって繰り返して非難された。20 年間近く武装衝突に耐えたタミル人たち は、戦争の終結を強く望んでいた。ノルウェーは、2000 年に調停者としての役割を演じ 始めた。調停が始まった最初の年は、事態は非常に困難であることがわかり、正式な会談 への最初のステップとして、信頼関係を築く必要性が明らかになった。最後の和平会談の 失敗の後、PA 政府と LTTE は、非常に激しく戦ってきたばかりでなく、国際的な場での 非難の応酬とプロパガンダ合戦も行ってきた。政府は、LTTE を西欧諸国で活動禁止とす るために活発に働きかけてきた。両者の間には、信頼関係を築きあげるための少しの下地 もなかった。さらに、PA 政府は調停者としてのノルウェーの善意を疑い始めていた。 さて、失敗した第 4 回目の和平交渉を振り返ってみると、以下の事柄が重要であるこ とがわかる。 ・ 信頼構築に十分な時間をかけて、相互同意に基づく交渉の計画を練り上げていなか った。両者は、交渉のテーブルに着く際に異なる優先事項を持っていた。当事者間 の初期の交信は、ICRC を通じて大統領と LTTE のリーダーの間で手紙を交わす形 をとった。これは、公式な調停者として選ばれた第三者によって、信頼関係の構築 を促進した場合に比べて、明らかに限界があり良い方策ではなかった。 ・ 信頼関係が構築されていないので、両者は互いの軍の意図・戦略・計画に疑いを持 った。会談が失敗した後、和平について話し合いながら、戦争に備えていたことを お互いに責め合った時に、この事実は明るみに出た。 ・ 政府が人道的救援と復興のプログラムを一方的に実施することによって、LTTE は、