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国民経済雑誌 第 207 巻第 4 号関西鉄道の草津 四日市間幹線建設を巡る考察前田裕子 2 関西鉄道会社設立の背景 (1) 第一次私鉄ブーム ➀ 明治維新政府の鉄道事業は 官設主導の敷設方針 財政基盤が脆弱な政府は路線を拡大するために 民間資本による私鉄の事業を認めることになった ➁ 明治 14(

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びわ湖をめぐる鉄道歴史研究会 関西鉄道・草津線の歴史研究 Ⅰ 平成 29(2017)年7月13日(木) 1 関西鉄道の概観 草津線は、現在でこそ東海道本線の枝線のように位置付けされているが、その生い立ちはまったく別 の輝かしいものだった。 草津線の歴史は古く、明治22(1889)年12月15日、私設鉄道の関西鉄道が草津一三雲間を開業 させたことにはじまる。この時、官設鉄道がようやく新橋一神戸間を全線開通(明治22年7月1日) したばかりで、鉄道がまだ目新しい時代であった。翌23(1890)年2月19日には柘植まで全線開通 を果たし、今日の草津線の形態ができた。草津線の歴史はこのようにわが国の鉄道の黎明期に始まり、 今年で開業128年を迎えた。 その後、関西鉄道は宿願であった名古屋、大阪都市圏の進入を図るために、自社で敷設した路線のほ か、隣接する浪 鉄道、城河鉄道(現・学研都市線)、南和鉄道(現・和歌山線の一部)、紀和鉄道(同)、 大阪鉄道(現・関西本線、大阪環状線、和歌山線、桜井線の一部)、奈良鉄道(現・関西本線、桜井線の 一部、および奈良線)を買収・合併、順次線路を延伸し、近畿、東海一円に延長450キロメートルに 及ぶ一大路線網を築き上げ、明治期五大私鉄の一角を占めた。 関西鉄道は創立期から、日本鉄道史上画期的な技術や工法を持ち込んだり、あえて「政府が技術的に 困難だとして棄却した路線を建設『ビジネスインフラの明治』―白石直治と土木の世界―前田裕子 108 ~109 頁 名古屋大学出版会 2014 年」したり、大阪―名古屋間の開業で官設東海道線と果敢な競争を 繰り広げたことからも業界に圧倒的な存在感を示す企業として有名であった。 しかし、関西鉄道は、明治40(1907)年10月 1 日付けで鉄道国有法に基づき国有化され消滅した。 その後は官設鉄道との軋轢が災いしてか、近代化からも見放されて後続の近畿日本鉄道に完全にシュア を奪われ、現在の「JR路線からは昔日のアグレッシヴなエネルギーを読み取ることはむずかしい『ビ ジネスインフラの明治』109 頁」。 草津線が明治期の私鉄の雄関西鉄道の出発点となった路線であることを知る人は数少ない。それは最 初、旧東海道沿いの大津~名古屋間を結ぶ目的から、後年には大阪~名古屋間を結ぶことに変化したた め、支線的な扱いになったためではないかと推察される。 草津線の歴史を考察することにより、草津線の知られざる部分を発掘し、その栄光の歴史に出くわす ことができるであろう。

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「国民経済雑誌」第 207 巻第 4 号 関西鉄道の草津―四日市間幹線建設を巡る考察 前田裕子 2 関西鉄道会社設立の背景 (1) 第一次私鉄ブーム ➀明治維新政府の鉄道事業は、官設主導の敷設方針。財政基盤が脆弱な政府は路線を拡大するために、 民間資本による私鉄の事業を認めることになった。 ➁明治14(1881)年 11 月、岩倉具視を中心とした華族主体の発起わが国最初の私設鉄道会社である日 本鉄道が設立。明治18(1883)年に難波―大和川間を開業した実質的な私鉄の第一号といえる「阪堺 鉄道」 ➂とにもかくにも、日本鉄道や阪堺鉄道に見られる私鉄企業の高い収益性、政府の私鉄補助奨励策も伴 い、商人や地主たちが鉄道を投資の対象とみなすようになり、第一次鉄道ブーム(明治18(1885)年 から同22(1889)年)が湧き起った。 (2)旧東海道筋にも鉄道を ➀明治13(1880)年、京都から大津に通じたが、大津からはとりあえず太湖汽船による鉄道連絡船を 利用して湖北の水陸ターミナル長浜に達し、再び鉄道で敦賀へそして、東西連絡幹線ルートとして当時 有力視されていた中山道ルートの関ケ原へと向かった。 ➁大津―長浜間という県下の要地を結ぶ湖東線区間は琵琶湖上航運(連絡船)によって代替されたため、 鉄道敷設は「「お預け」となった。 ➂連絡船による輸送は、特に冬から春にかけての季節風等で運航に支障が生じたり、鉄道との乗り換え が利用者には不便極まりない方法であった。 ➃彦根の藤山秀次を総代とし、彦根第百三十三国立銀行系の資本家や旧彦根藩主の井伊直憲など湖東地 方を中心とした県民有志四十余名が連署して、明治17(1884)年10月4日、早期に湖東鉄道敷設を 促す「湖東鉄道敷設願」を工部卿に提出した。 ➄「湖東線敷設の請願」を受けた山県工部卿は、鉄道局長の井上勝に意見を求め(諮問)た。山県工部 卿は、明治17年10月28日付けで、先の井上局長の意見を基に指令案<大津・長浜間の鉄道敷設の

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必要性の認識しつつ、都合付き次第工事に着手すべき>を作成し、左大臣有楢川宮親王に上申、11月 11日認可され、工部卿は藤山たちの請願を却下、ここに請願は実を結ばずに終った。 ➅湖東線敷設の請願が期待に反して「棚上げの継続」となったことから、近江商人を中核とする地元有 力者グループは滋賀県会議員弘世助三郎、馬場新三、高田義助らを中心に、折からの第一次鉄道ブーム に乗じて、まず京都(大津)から四日市・名古屋の旧東海道筋に沿いに私設鉄道の敷設の計画がなされ、 中井知事の賛同も得て県下の資産家・有力者に出資を要請したが、敷設費が巨額にのぼることからあい にく賛同する者の数は少なかった。 ➄中井知事は弘世らに対し、古来近江と経済的文化的に関わりの深い京都の財界有力者を勧誘させ、賛 成を得ることができたが、新たに京都から宮津に至る線の敷設計画が追加された。 ➆先の弘世らの計画とほぼ同時期、桑名の豪商諸戸清六や木村誓太郎ら伊勢商人を中心とする地方有志 家グループを中心に、官設による東西連絡幹線鉄道としての中山道鉄道の向うを張って、先の滋賀県民 有志のそれとほぼ同じような旧東海道ルートに沿った鉄道敷設計画がすすめられていた。 (3)両者の一本化が確定―関西鉄道会社が創立願書を提出。 ➀滋賀県側、三重県側で旧東海道筋に沿った同様の鉄道敷設の出願は無駄な二重投資や無益な競合を招 くとして、三重県知事石井邦猷と中井弘滋賀県知事が協調して両者の関係者を説得、合同させることに 成功、両計画は一本化されることになった。 ➁明治20(1887)年3月30日、滋賀県人弘世三郎、馬場新三、高田義助、彦根旧藩主井伊直憲、三 重県人諸戸清六、木村誓太郎、京都府の浜岡光哲、田中源太郎等11人が発起人となり、「関西鉄道会社」 創立の申請がなされた。 創立申請書による路線の敷設は、大津から草津、柘植を経て四日市に至り、将来桑名、名古屋熱田に達 する旧東海道を経由する路線と、加えて京都伏見から奈良を経て大阪に達する路線、京都から宮津に至 る壮大な計画であった。

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(4)大阪鉄道会社が路線免許を出願 このとき関西鉄道の出願(明治 20 年 3 月 30 日)に先立って、恒岡直史ほか13名の発起人が資本金 一二〇万円をもって創立した大阪鉄道会社は、明治20年1月31日大阪南区御蔵跡町(難波付近)を 起点に大和高市郡今井町(現橿原市)に至る路線を主軸に、途中から分岐して伊賀一四日市,五条一和 歌山の路線免許を大阪府知事に出願、同年3月8日、知事は伊藤博文内閣に上申した。 (5)関西鉄道の出願内容の検討 ➀関西鉄道による創立発起人の出願を受理した政府は、井上鉄道局長官に意見を求め、概ね次のような 答申を得た。 第一に、申請路線は 1 回の測量もないあまりにも大きな計画である。このうち「四日市~熱田間には 木曽川・揖斐川など我が国有数の大河川がある。また伏見から奈良を経由大阪に至る路線および京都か ら宮津に至る路線は山岳区間のため、工事には多大な困難が生じるであろうし、また仮に工事ができた としても経営が見合うかどうか疑問である。 第二に、旧来の東海道に沿って大津から四日市、名古屋に達する路線は、すでに巨費を投じて敷設を 進めている官設鉄道のルートと重なり、「全体の経済上からも得策とはいえない『日本国有鉄道史』第2 巻 539 頁日本国有鉄道 昭和45(1970)年 」。 第三に、さきに出願の大阪鉄道会社も、伊賀―四日市、奈良に至る線を計画しているが、両者は競合 しているので双方において協定する必要があるとして敷設計画の見直しを迫った。 (6)関西鉄道再出願の命令 明治20年4月11日、政府は井上長官の意見を基に、関西鉄道会社に次の⒜~⒞の指令案を作成し、 再度願書を提出するよう命令した。 ⒜難工事の予想される路線の計画事案を見送り、草津近郊から四日市間の路線のみを検討する。 ⒝―1 「四日市線路ハ草津近傍ニ於テ将来政府ニテ敷設スヘキ線路ト分岐スル所ヲ起点トシ・・・」 出願申請の起点を大津にした場合、関西鉄道の計画路線の分岐点草津までは、官設鉄道が敷設予定し ている湖東線と並走・重複することになるので、起点を草津とし、終点を桑名とする。 ⒝―2 「・・・伊勢国津其他運輸上必要ノ地ヲ経過セシムルノ計画ヲ立ヘシ」 関西鉄道の路線計画には、「伊勢一国の住民のための運輸上の利便を与えること」を謳っている。この 際、旧東海道筋に沿うよりも、地方的連絡交通機関の役割に徹して、迂回してでも「三重県内の重要な 箇所を連絡せよ」として、県庁所在地の津を通ることを条件に河原田-津間の支線も加えるべきと命じ た。 ⒞関西鉄道、大阪鉄道と両者の申請路線区間は重複する部分が多かったため、両会社に敷設区間の協定 を促したが、両者の協議はたやすくまとまらなかったので、最後には井上鉄道局長官の裁定で、関西鉄 道は草津・四日市間・四日市・桑名間および河原田一津間の路線を、一方、大阪鉄道は大阪・桜井間お よび北今市(今の和歌山線下田付近)・奈良間の路線を出願することになった。

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(7)事業計画と会社設立手続きの協議 ➀明冶20年4月26日、関西鉄道の発起人16名が事業計画と会社設立手続きについて協議した。 なお、創立事務所は明治20年4月30日「大津上京町八二番地邸」設置、明治21(1888)年1月2 0日「三重県三重郡四日市浜町七番邸」へ移転している。 ➁関西鉄道の事業計画の概要は、草津・四日市間の路線の敷設を進め、その工事費として概算約300 万円を見込み、それを資本金として3万株に分け、発起人50名で引き受けた (四日市市史) (8)関西鉄道に免許交付 ➀明治20年4月11日政府からの再出願の命令を受けた関西鉄道は、明冶21年1月23日、内閣総 理大臣あてに会社創立の請願書および定款と政府の指令に基づいた草津―四日市間、四日市―桑名間お よび河原田―津間の三路線の敷設免許申請、工事関係資料を提出した。これに対し政府は6年以内の竣 工を明示した敷設免許を明治21年3月1日付で交付した。 ➁一方、大阪鉄道会社も関西鉄道と同時に免許交付を受けた ➂なお、この免許状には、「将来関西鉄道会社が大阪鉄道会社の線路と連絡する鉄道を建設する場合は、 明治 21 年 1 月 23 日提出の関西鉄道会社創立の請願書に記載のとおり、大阪鉄道会社の場合と同様政府 の買上げまたは他社との合併を拒否できない旨の条件が付されていた『日本国有鉄道百年史』第 2 巻 昭 和 45(1970)年 542 頁」。

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(9)前島密を社長に ➀明治21年3月1日、関西鉄道会社は請願路線の免許を受けると直ちに会社を設立し、本社を三重県 四日市町に置いた。 ➁同月 21 日には会社創立の株主総会が開催され、社長に前島密(東京)を常議員に諸戸清六(三重)、 馬場新三(滋賀)・高田義助(同草津市)、検査役に弘世助三郎(滋賀)らを選び経営体制が整った。 ➂前島は当時外務大臣であった大隈人脈に近く、伊勢商人で発起人の諸戸清六とも親しかった。 ➃前島密(1835―1919)は、近代郵便制度を創設した官僚・政治家で、「わが国近代郵便制度の父」な どとして広く知られている。 ➄前島は鉄道に関しても造詣が深く、政府の鉄道政策決定に重要な役割を果たした人物である。 ➅明治3(1870)年 4 月、租税権正であった前島は大隈重信から東西連絡幹線、および東京一横浜間、 神戸一大阪間の鉄道の収支を明らかにせよと命じられた。苦心の末に精密な計画案を作り上げ「鉄道臆 測」と名づけ提出した。 ➆前島はその中で、鉄道敷設の費用や営業収支の「推算書」を作成するとともに、敷設資金の調達方法 を示した。 ➇井上勝にとって、明治2(1869)年11月10日の廟議で決定された鉄道敷設計画の早期実現こそが 重要な課題であり、前島の「鉄道臆測」はそれに資金的な見通しを与えたものとして高く評価した。 ➈井上は、前島の「鉄道憶測」を基に京浜間の鉄道敷設の建議をまとめ、明治3年 3 月 14 日の廟議にか け、敷設が正式に決定された。「鉄道臆測」の説得力が、いかに大きなものであったかが理解される。 ⑩明治21年11月には前島密は逓信省事務次官に栄転、関西鉄道の社長を辞任し、12月からは大隈 人脈の中野武営が社長に就任している。

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【参考文献】 『近江鉄道70年の歩み』連載第1回 連載 第3回 『関西の鉄道』 国鉄関西線特集 藤井信夫 №12 昭和59(1984)年9月号 『四日市市史』第 18 巻通史編 近代 四日市市 平成12(2000)年3月 『三重の軽便鉄道―廃線の痕跡調査―』 三重県立博物館 平成23(2011)年 『ドラマチック鉄道史』KOTSU ライブラリ001 原口隆行 交通新聞社 平成26(2013)年 『京都滋賀鉄道の歴史』田中真人 宇田正 西藤二郎 京都新聞社 平成 10(1998)年 『東近江市史能登川の歴史』第 3 巻近現代編 東近江市 平成26(2013)年 『鉄道忌避伝説の謎』青木栄一 吉川弘文館 平成18(2006)年 『日本国有鉄道百年史』 日本国有鉄道 第2巻 昭和45(1970)年 『五個荘町史』第二巻近世・近現代 五個荘町 平成6(1994)年 『草津市史 第三巻』 巻報 湖東線の建設と地域社会 青木栄一 昭和61(1986)年 『近代交通成立史の研究』山本弘文編 法政大学出版局, 平成6(1994)年 『日本史小百科―近代―<鉄道>』老川慶喜 東京堂出版 平成8(1996)年 『長浜市史』第 4 巻 長浜市 平成12(2000)年 『四日市市史(下)』 四日市市 昭和36(1961)年 『近代日本の鉄道構想』近代日本の社会と交通 第三巻 老川慶喜 日本経済評論社 平成20(2008) 年 今後の日程 守山Lセンター学習会 13:30 8月17日(木)『関西鉄道・草津線歴史研究 Ⅱ』 9月14日(水)『関西鉄道・草津線歴史研究 Ⅲ』

参照

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