著者名(日)
松本 誠一
雑誌名
白山人類学
号
14
ページ
103-132
発行年
2011-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002411/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止研究ノート
台湾韓人研究ノート
松 本 誠 _* A Note on the Korean People in TaiwanMATsuMoTo Seiichi*
Studies on Koreans in Taiwan are few, and generally have been carried out by Korean scholars in the last two decades. The brief history of Korean people in T。iw。n b。gan after th・peri・d・f J・p・n・・e c・1・ni・ati・n(f・・m 1910’1945)・ According to statistics, the total number of Koreans in Taiwan todaylat that period was less than ten thousands, which is a much smaller number than Korean population in Manchuria or Japan. Although their population is small, it is necessary to accomplish the research 。,g・ntly・・th・p・・pl・wh・k・・w th・p・・t i・b…mi・g・f an・ld・g・・E・p・・i・lly, the expected research topics should concern: the people who missed chances to return to Korea and stayed in Taiwan;the emigrants who have come over from the Chinese mainland along with the Kuomintang government;and those who have worked in both South Korea and Taiwan during the period of high economlc 9,。wth(f・・m th・mid・1960’・t・a・・und 1990)・T・d・y th・・e are m・ny K・・ean p・・pl・ who came from South Korea in the 1980「s. In this paper, I attempt to present several topics on the transnational ways of life for Koreans, as well as describe another brief history of the Korean community in Taiwan. キーワード:台湾韓人,総督府,行商人,社会史 Keywords:Korean People in Taiwan, Japanese Colonization, Peddlers, Social History *東洋大学社会学部;Faeulty of Sociology,5-28-20, Hakusan, Bunkyo-ku, Tokyo 112・8606Japan/matsu1@toyo.jpはじめに 韓国からの海外移民は現在も盛んに続いている。筆者はこれまでカナダ・ケ ベック州,東南アジア(シンガポール・バンコク・ヤンゴン,ジャワ島・ベト ナムの諸都市),ドイツの在住コリアンに関して現地での資料集めをして,それ ぞれどのような社会形成が行われているかを探ってきた。〈トランスナショナ ルな生活の展開〉,言い換えればく普通の生活の中で国境を越えて往来するこ と〉に対する関心も海外コリアンとの接触を重ねるうちに強まったものである、 世界各国のコリアン社会の実態調査は韓国人研究者によって広く行なわれてき た。彼らの成果報告の蓄積も相当あるが,日本への紹介はまだ少ない。台湾の コリアンに関しては,日本ではさらに知られていない。 本稿での台湾韓人資料紹介を通じて,これまでコリアンを対象としていなか った台湾研究者,台湾を対象としていなかった韓国・朝鮮研究者の参入を促す 契機になれば幸いである。ただ,台湾「韓人」社会史の全体像を描き出すには, まだ収集資料が不十分であり,本稿では手元の資料を紹介しつつ,そこから考 えられる今後の問題点を提示する。 日本の元植民地であったという歴史背景との関連で行う研究はその当事者が 超高齢となっているので,緊急を要する。アジアで日本に次いで高度経済成長 をしたNICS, NIESに含まれる台湾と韓国の人的交流,台韓断交後の台湾韓人 社会の状況など,その次の世代に関わる研究課題についても,関係者は高齢に 達している。余人の参入開拓を期待する。 台湾での資料収集は2003年10月1),2009年10~11月2)に行なった。いずれ の調査期間も8日間,6日間と短い。2度の訪台で台北・台中・台南・基隆・花 蓮の各市を回った。高雄は訪れていない。このうち花蓮を除く各市に韓人社会 の結節点(韓人団体事務所・韓僑学校・韓人キリスト教会など)がある。花蓮 だけ過去も現在もコリアンの居住情報は皆無であった。歩き回った中では,わ ずかに市場で韓国商品(衣類・加工食品)を台湾人が売っている個所が2か所 見いだせただけであった。 韓僑学校について『僑民史一1948~1993』[中華民国韓僑協会1993:64-77] では基隆・台北・高雄の各校について比較的詳しく記載しており,それを紹介 すると他とのバランスを欠くので別稿に回す。韓人キリスト教会については, 1)このときの調査結果概要は松本[2004]として報告した。 2)このときの調査経過については山本[2010]を参照。
教会数に比べて,直接得た資料は少なく,あまり多くを記載できない。 2010年11月6日のワークショップの際に行なった報告では,筆者は「港の コリアンー基隆・花蓮と下関・福岡を比べて」と題して発表した。本稿はそ の内容を大幅に改めて起こしたものである。 1 用語 韓人 本稿で「韓人」と用いるのは,拙稿[松本2000:59]で記したとおり,「韓 国人」の語を韓国(大韓民国)籍所有者に限定したいからである。海外のコリ アン・コミュニティに集まる人々の中には韓国籍をもたないコリアンもいるか ら,その人々を含めてコリアン・コミュニティに集まる人々を「韓人」と呼ぶ のが適切と記した。筆者の本稿での用語法はそれと変わっていないが,以下に 補足をしておく。 朝鮮半島にルーツを持つ世界のコリアンは,朝鮮王朝,大韓帝国,朝鮮総督 府,1945年から大韓民国成立の1948年8月15日まで(米軍政期)とそれ以降 の大韓民国,1948年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)創建以降な どの時代に朝鮮半島を離れた人々,およびその子孫となる。世界のコリアンの 呼称,とくに「韓人」の語に関わる政治的ニュアンスなどに関しては林史樹 [2006;2007a;2007b]が詳しく整理し論じているので,それを参照されたい。 この「韓人」という用語は,海外の韓国系移民社会で「韓人会」「韓人社会」「韓 人教会」などのように,広く使用されている。個々の韓人会規則では会員資格を 「韓国民」に限定するような文章で表現されていても,実態としては韓国籍をも たないコリアンが正会員になっていたり,役員になっていたりもする。法・規則 に拘らずに行動する現実がある。大韓民国成立以前から海外のその国で暮らして きた先達や帰化して長い人が,韓国からの新来者の定住化を支援してくれるので あれば,韓国籍をもたないという理由で彼らを排除することに利益は無い。 韓国の国籍法は日本と同様に重国籍を認めていなかったが,最近,重国籍を 条件付きで認めるように改正された3)。韓国民としての義務(とくに兵役)を免 3)2011年1月施行の第10次改正国籍法。外国籍を容易に取得する便法として,女性が く出生者に国籍を与える国に行き出産し,その国籍を得た乳児の家族としてその国で の市民権や永住権を取得する〉という行為(「遠征出産」という)が流行しているた め,それに歯止めをかけるなど,国民国家の体制を守るいろいろな工夫が凝らされて おり,この法改正自体一つの検討対象となりうる。藤原[2010]に改正までの経緯解 説と改正国籍法訳文がある。
れるための外国籍取得を抑制することなどと,韓国内に増えた外国人や,海外 移民して外国籍を得て帰国し,韓国籍回復を希望する者を社会統合しやすくす ることなどが配慮されている。 これは他方で海外移民との結びつきを失わないこととの両立を意図した改正 である一面を持つと解される。1999年に韓国は「在外同胞法」を制定して,海 外移民が居住国の国籍をとることを奨励したが,経済発展した韓国との関係を 保持したいという海外移民社会の側からの要望に応じる改正である。これは多 文化主義を国政の基本に据えるカナダのような国では,「多文化状況は資源」と 捉え,外国にルーツを持っ国民が海外貿易を維持し,発展させる経済活動力を 認めるところに通じる。コミュニケーション・コストが余計にかかるという考 えは取らない。このことはトランスナショナリズムの現象の一一つと言えよう。 移民先で外国籍者には経済活動に各種制限があるので,帰化したり永住権を 得たりするが,韓国籍も保持したいという「2力国両属希望」がある。「複数国 籍」を認めない韓国のこれまでの制度の下でも,移民国で一定年数を経て市民 権申請の資格を得て審査を通り,希望通り市民権を得た際に韓国領事館にその 旨を届けなければ,韓国籍を離脱することは無く,重国籍状態は続いたので, 重国籍は実態としてはあった。それが追認されたことになる。 「韓人」は韓国語辞書の説明では,普通「韓国人」とのみ注記されている。 したがって、韓国語では〈韓人=韓国人〉である。ここで注意すべきことは,「韓 国」の語には二義あり,「大韓民国」という意味だけではなく,歴史的に「日韓 併合」の際,日本が併合した「韓国=大韓帝国」の意味もある。したがって, 〈韓人=韓国人〉には「大韓帝国の国民」という意味も含まれる。 しかし,筆者がこれまで回った国・地域では,大韓帝国から出移民した当事 者,その子孫に出遭うことは無かった。ほとんどが大韓民国の出身で,若干が 朝鮮総督府期の朝鮮出身である。台湾にも朝鮮総督府期に渡航した人々が居た ので,彼らについては「朝鮮人」と表記する。 ベトナムで北朝鮮から外貨稼ぎに来た人々かと推測される朝鮮食堂の広告を 若干みたことがある。「脱北者」が増加してきた近年,難しい状況の中で彼らか ら聞き取り調査を進めている研究者もいる。また,中国東北地区の朝鮮族がか なり韓国や,その他の国にも進出している。彼らが韓国籍を持つに至っていな い場合は同様に「韓人」の語で言及するには不適当かもしれない。本稿では彼 らに言及することは無い。 なお,「韓人」を「カンジン」と音読みすると耳で聞いたとき,「漢人」と区
別がつかなくなる欠点がある。歴史小説では「韓人」と書いて「からのひと」と ルビをふる場合があり,これは古代の「渡来人」や秀吉の「文禄・慶長の役」の 時代を想起させる。「韓人」はハングルでは「竜但」と表記する。カタカナ(ロ ーマ字)で表音すると,「ハニン(han-in)」あるいは一語ずつ読んで「ハンイン」 となる。これを発音すると,日本語では語弊があるので,漢字で表記する。 「韓人」と「韓国人」を用語として使い分けるとしても,現実に海外で「韓人」 「韓国人」の人に会った際,国籍・市民権をいちいち尋ねたとき,快く回答して くれる場合もあるが,身構えられてその後の会話継続に支障が生じる場合もある ので,実際には本人や家族からの確認を取りにくい。韓国籍を持たない人も含む 「韓人」を用いるのが,都合が良い。仮に「チョソン(朝鮮)」族や「チョソン」 人だと自称する人に出会った際は,自称を尊重して対応するのが,適切であろう。 韓僑 台湾では,本文で示すように「韓僑」の語も用いられている。これは台湾政 府の公文書で用いられている語である。台湾の韓人会は「中華民国韓僑協会」 と名乗っており,「韓僑」は台湾政府の用語法に従った命名であろう。同会規則 4)によれば,その正会員は韓国籍保持者で,国籍離脱者は1999年以降は「名誉 会員」として所属しうる。両者を含めれば「韓僑」の意味は「韓人」と同義で ある。商業経営者に限定して使用されているわけではない。「僑」は「華僑」や 「僑民」「僑胞」などでも使用され,諸橋大漢和辞典によると,「たび。旅中。 出稼。出稼人」や「かりずまひ。たびやどりする」などの意味がある。「いっま でも居る人」「永住する人」の意味が無い。その場合には別の字を当てるのが適 切ということになろう。「喬」に「あちらとこちらを繋ぐ」という意味は本来無 さそうであるが,「橋」の字を思うと,「僑」の字に「あちらとこちらを繋ぐ人」 という意義を新たに加えると面白い。 韓国華僑 韓国に居た華僑を「韓国華僑5)」と呼ぶ。台湾に「中華民国韓国華僑協会」と 4)http:〃www.korean.org.tw/pageConstitution(2011年2月14日参照)。会員の種類 について詳しく後述する。 5) 「韓国華僑」については林史樹「韓国華僑主要文献リスト」 (http:〃www。page.sannet.ne.jp/hayaf/kk-list.htm 2011年1月30日参照)に見 えるように研究業績が多い。台湾の韓国華僑については,上水流・中村[2007]が ある。
いう組織がある。中華民国韓僑協会と似通った名称であるが,こちらは台湾の 「韓国に居た華僑」の団体である。この協会の規定6)によると,「個人会員」の 資格は「本会の趣旨に賛同する満20歳以上の『帰国韓国華僑およびその子弟』」 である。ほかに「団体会員」もあり,これは「団体を代表する1人が個人会員 と同じ権利をもつ」,また「賛助会員」は「表決権,選挙権,被選挙権,罷免権 を有しない」とある。 「会員商店」104社中の84社は「成衣業」(衣料産業)ですべて永和市中興 街の所在である。中興街は「韓国街」と表示されている。永和中興街には台北 市から地下鉄で行ける。 成衣業以外に「餐飲業」(飲食業)9社(うち8社は同名でチェー一一ン店),「旅 遊業」(観光)3社,「委託行」(銀行送金)3社,「貿易業」1社,その他4社が 見えるが,これらの所在地はいずれも永和中興街ではない。 永和中興街のある韓国商店(韓国華僑協会の会員リストに見えない店)で尋 ねたところでは,やはり韓人が経営するのではなく,韓国に居たことのある人 だという。μ」東省出身で韓国から(2003年より)「20年前」に台湾に来た。子 どもがインチョン(仁川)と東京に居る。中興街には1店だけ韓人経営(夫人 が韓国華僑)の店があると聞いた。
1 先行研究
2003年訪台時に,中華民国韓僑協会『僑民史一1948~1993』(前掲)のあ ることを同会(台北市)で教えられ,所望した。後述のように,台湾にコリア ンが来たのが明らかな最初の年代が1923年頃とすれば,70周年の記念刊行物 となる。それまで,台湾韓人社会ではこの種の刊行物は無かったという。 台湾の韓人社会史を扱った既存文献として,管見ではこの『僑民史』と,韓 敬九[1996]の第1章「台湾の韓人」のみが視野に入っていた。 韓敬九は,自著巻末の参考文献欄に挙げた台湾関係の参考文献として,韓国 政府外務部の『台湾概況』(韓国語。1993年11月)と上述『僑民史』の2点の みを挙げている。他国の韓人に関してはもっと多数の参考文献が挙げられてい るので,台湾については先行研究の僅少であることが窺える。 『僑民史』はA4版, ix+125頁,非売品である。その内容は通史とはなって 6)http:〃www.hanhua.org.twl(2011年1月26日参照)いない。巻末に編纂委員の氏名一覧はあるが,本書は研究者による専門書の体 は成していないので,各箇所の執筆者名も記載されておらず,典拠も示されて いない。しかし,本書の資料的価値を減じるものではない。 これ以外に,研究者による論文がいくつかある。先ず,金泳信(KIM Yoeng Sin) 「日帝下韓人の台湾移住」(2002年。韓国語)がある。この論文は台湾総督府 の刊行物,台湾日日新報などの新聞,中華民国国史館所蔵文書,その他を参照 して作成されている。この論文で朴潤元「台湾で生活するわが兄弟の状況」[朴 潤元 1921]があることが示されている。金泳信も台湾韓人研究がほとんどな い旨を記している。 それに続いて,金勝一一(KIM Seoung-ill)の「台湾韓僑の歴史的遷移状況と 帰還問題」(2004),黄善翌(HUANG Sun-Ik)による「解放後台湾地域韓人社 会と帰還」(2005),同「解放後台湾韓僑協会設立と韓人の未帰還」(2006)が 現れているが,筆者未見である。 台湾の国立大学で唯一’韓国学関係の学科を有する政治大学外国語文学院韓国 語文学系を訪ね,ソウル大学留学経験のある王俊教授ほかの研究者に会うこと ができた。台湾韓人研究は無いというお話であった。中華民国韓国研究学会が あり,『韓国学報』(1981年創刊)を発行している。1996年の会員名簿で会員 数は130~140名という。会員名を教示してもらい,研究業績を検索することは していない。 II 人ロ史から 1 1945年以前 金泳信は台湾総督府資料や台湾で発行された新聞を博捜して,人口統計を集 成し,1945年以前の台湾における朝鮮人人口史的研究の道を開いた。彼による と,総督府統計資料の中で台湾に常住する朝鮮人が初めて現れるのは,1910年 の2人で,その後、徐々に増加して1930年代前半に1,000名を超えるとする[金 泳f言 2002:191]。 その結果としてまとめられたのが下表1であるが,そこには1910年から1925 年までの数値は含まれていない。初期の人口規模の変化については,1920年ま では2桁,1921年末に3桁に増えて,以後は持続して増加したという[金泳信 2002:202]。
表1 台湾常住朝鮮人人口(単位:人) 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 440 323 417 470 583 568 772 763 880 794 921 458 636 774 846 1,021 1,126 1,213 1,149 1,380 1,505 1,618 353 424 515 624 898 999 959 1,191 1,316 1,604 1,694 1,985 1,903 2,260 2,299 2,539 男女比 (女=100) 96.1 50.8 53.9 55.6 57.1 50.4 63.6 66.9 63.8 52.8 56.9 出典:台湾総督府『台湾人口動態統計』, 台湾総督府『台湾総督府統計書』, 金泳進[2002:202] より訳出。 1943年 1928~1943年 性比は男性に比して女性がきわめて多く上回っている。この理由については, 金泳信は当時の雑誌・新聞記事から「朝鮮内で問題になっていたように,毎年5 千名にも及ぶ女性が外国に売られ,その中では台湾に売られた女性が少なくな かった7)」としている[金泳信2002:203]。 「初期には『商女』という名で台湾に売られて来た場合や,日本軍が正式に 軍中に『慰安婦(挺身隊)』を置いた1931年以降,台湾に進出した彼らの正確 な数値は明らかでない。ただ,1940年の調査によると,台北市で台湾人がもっ とも密集した大稲埋に位置した25の妓楼の中に,朝鮮楼・新鮮楼・半島楼等, 朝鮮女性を雇用した妓館が少なくなかった。ここで生活する全220名の娼妓中, 42名が朝鮮女性だったという事実から見て,台湾地域には少なくない朝鮮出身 7)朴潤元「台湾で生活する我が兄弟の状況」(韓国語)『開閥』第13号(1921年7月, pp.76・77)ほかを参照文献として示している。
の妓女がいたものと見られる」[金泳信2002:203-204]。 上の引用文中に「慰安婦(挺身隊)」という語の使用が見られるが,括弧に入 れられていることを注意しておく。「女子挺身隊」の語は1943年に女子勤労動 員促進のため,日本政府の閣議で決められ,翌年から職場に動員されたもので 1931年には無く,〈挺身隊=慰安婦〉とする韓国に普及した知識をそのまま援 用している。「日本軍が正式に軍中に『慰安婦』を置いた」とする表現も,「従 軍慰安婦」「性奴隷」に関する論議の中では激しく対立する認識箇所である。金 泳信は「日本人の責任を明らかにする作業の一環として」この妓楼を対象とす る調査の重要性を強調している[金泳信2002;204]。 金泳信は統計資料を多角的に分析して,いろいろな指摘をしているが,とく に本稿で紹介しておきたいことは,①朝鮮半島の南部出身者が7割,②商業従 事者の比率が高い(それに対して,日本への移住者は労働者の比率が高く,満 州・沿海州移住者は農業労働者の比率が高い),③商業と言っても,行商(憩甘) や街頭販売(7}暑)などの零細業者が多く,④運輸従事者では三輪車夫が多か った[金泳信2002:210-211],という特徴である。 ②の「商業従事者の比率が高い」という特徴は,表2に明らかである。近年まで 見られた「ポッタリさん」[島村2003;井出2009コや露店商人,現在も見られる 定期市を回る商人などの移動商人の足跡を台湾総督府の時代に探ることは意味が あるように思われる。朝鮮王朝期の歴史に見られる「負裸商」あるいは「裸負商」 という移動商人の組織文化は,その全国的組織が日本の植民統治の開始とともに解 体された[朴元善1965:77]とされるが,中央組織がなくなっても分節化して各 地で存続したと見るのが妥当であるように思われる。台湾にも個々ばらばらに進出 したのではなく,朝鮮人商人のネットワークが働いていたのではないか。 表2で「商業」に次いで多い職業は「水産業」である。この点に関して,ハ ングル版ウィキペディアに「1919年の3.1運動以後,朝鮮の農村経済事情が難 しくなり,台湾に移住して行った人々が生まれたが,ほとんど基隆市などの漁 村に定住して漁業に従事していた」「[1947年以降] 台湾政府は,先住民族の 漁民の優遇政策を行なったので,それまで漁業で生計を維持していた多くの 人々[朝鮮人]が農業や商業などに転業し,基隆市を離れ,台北市や高雄市等 の大都市地域に移住し始めた8)。」とある。 8)司せせヱ(台湾韓僑) http:〃ko.wikipedia.org!wiki/%EB%8C%80%EB%A7%8C%ED%95%9C%EA%B5%90 (2011年2月14日参照)
表2 渡台朝鮮人の年度別・職業別統計(単位:人)
34567890123456789012222222333333333344
19 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9 P9v
1431445
pO2
11 23 42 48 31 20 51 37 6 3613810523555027535908
2184801331353334
1 1
7 4206
1
5287
3
2232511194752590424 31141115111144083
11
(076328716426670968012346244204814726094
11112111526
3,009 348648980778738426
1 1 1 96377
3
33312409612459154574
11 1 361205322284
1 5
3 9錫9U290826713
1
1
(0 有識者 その他の 36 53 19 16 43 18 66 21 51 19 45 126 135 22 96 77 160 15 207 55 152 40 101 76 96 28 44 31 131 42 24 143 19 468 22 443 18 443 1,465 2,13632534295070639552867415829809037
1 11133345445445
1,324 1,003 1,388 9,37371467870899523715776712839257183025159
11 21322424332775
5,843 出典:台湾総督府『台湾総督府 第25~45統計書』,1923~1943年 台湾総督府『台湾人口動態統計』,1933,1942年 台湾総督府『昭和五年,昭和十年 国勢調査結果表』,1934,1939年 金泳進[2002:196]より訳出。 この説の論拠は明示されていない。ウィキペディアの文章を学術論文で参照 することは相応しくないことではあるが,金泳信論文に漁業者に関する言及は なく,『僑民史』にも言及はないので,台湾総督府期の朝鮮人漁業者についての 問題点にっいて触れておく。 藤井賢二[2007]によると,日本統治期に朝鮮の漁獲高は世界的に見ても急 激な伸びを示した。それに比べると台湾の方は緩やかな伸びで対照的であった。漁船の動力化という面では,朝鮮の方は零細企業がきわめて多く,それを「保 護育成」するため政策的に動力化を強く推進しなかったという。それに対して 台湾の方は動力化が進み,これも対照的だった。日本企業,あるいは台湾企業 に雇用される形で朝鮮人が漁業で働いていたのか,朝鮮から企業進出があった のか,これも今後の究明を待つ。富永悠介[2010コに基隆の朝鮮人漁業者に関 わる修士論文がある。本文未見であるが,台湾で作成された論文紹介HP9)によ ると,基隆の正浜漁港を舞台に,日水が関わっていたこと,1945年以前・以後 に沖縄漁業者との交流もあったこと,1945年以降の台湾韓人社会の発足当時の 様子も描いているようで,『僑民史』(台湾韓人史)の空白を埋める貴重な仕事 である。 1930年代以降,台湾に朝鮮人が増加したのは,台湾総督府が南進政策を進め, 台湾工業化を推進した背景がある。しかし,農業は台湾人・日本人が占めてお り,工場には台湾人・中国人が多く10),朝鮮人が多数入りこむ余地が無かった という。日本では労働者が多く,社会運動の基盤となることもあったが,台湾 では総数が少なく,工場ではむしろ日本人と一緒に台湾人・中国人労働者を管 理する側に立つこともあり,職業がいろいろで社会勢力として結集できず,台 湾の中で弱い立場に立ったまま,現地社会と融合することもできないまま「社 会的辺境民」とならざるを得なかった,とする[金泳信2002:211]。 『僑民史』で「徴用11)」に関する記述があり,そこに台湾でも朝鮮人人口が 急増したことが記載されている。 「日帝末葉,敗戦に直面した日帝の強制徴用によって,戦争物資運搬船の船 員をはじめとし,機関服務者・労働者・技術者・学徒兵・軍属等,1万5千に 近い僑民たちが各自担当の仕事に従事していた」[中華民国韓僑協会1993:10]。 9)http;〃ndltd.ncl.edu.tw/cgi-bin/gs32/gsweb.cgi/ccd=RnFBeN/record(2011年2月 16日参照) 10)この点について金泳信は明確に論拠を示していないが,次のように類推しうる。『台 湾総督府統計書』[1937]で「種族別」数値を示している表では「内地人」(二日本 人),「本島人」(=漢人種・高砂族・平捕族),「朝鮮人」,「外国人」(ほとんどが中 華民国人)と分けて表示している。「戸口」表の「人口」では「中華民国人」は「朝 鮮人」の40~50倍多い。工業統計に種族別職工数は示されていないが,「罪名及職 業別新受刑者」の「工業」列に「内地人,本島人,外国人,朝鮮人」などの別に人 数が挙げられている。本島人,内地人,外国人の順に多く,朝鮮人は皆無かごく少 数である。これから,工業労働者数全体もそのような「種族別」比例であるように 推測される。 11)戦時労働力の集め方として「募集,官斡旋,徴用」などの形態があった。大正7年 「軍需工業動員法」(昭和12年朝鮮・台湾への適用)でも「徴用」の語がつかわれ ており,昭和13年「国家総動員法」,昭和14年「国民徴用令」,昭和20年「戦時 緊急措置法」はそれを継ぐ法令であった。
表1は1941年までしか人口が示されていないが,そこで1941年「台湾常住朝 鮮人」が約2,500人なので,その6倍に増えた人口となる。これは短期間に6 倍増したとするか,あるいは1941年以前にも「常住」ではない朝鮮人も相当数 いたとするか,問題として残る。1945年8月にどれほどの人数であったか,正 確な数値は無いが,この「1万5千」人が…つの目安になる。金泳信はこのう ち2,000名以上が漁業者であったとしている[金泳信2002:191]。 2 1945年以降 1945年以降,今日までの台湾韓人人口の推移をまとめた統計資料は見いだせ ていない。 『僑民史』では1993年の台湾韓僑人口の数値が見える。表3の通り,269世 帯,1,086人となっている。2003年に台湾韓僑協会で台湾の韓人人口を尋ねた ところ,口頭で「20年前は約2,000人でその後も大きな増減は無」く,現在は 「僑民1,000人,ビジネス700人,留学生700~800人,行ったり来たりして いる人500人」との回答を受けた。これは大まかな概数であり,査証の区分と も一致してはいないように思われるが,台湾韓僑協会役員の認識として,成員 の中核的な人々が約1,000人で,それに倍する人々が周辺的な立場に居るとい う認識と理解している。両者合わせるとおよそ3,000人であるが,これは下に 見る統計の3,000人台(表5,6参照)とほぼ同じ規模である。 ここで,この1,086人について来台年次別の統計資料もあるので,それを見 ておく(表4参照)。これによると,1949年以前の来台者,および1960年代ま での来台者が計14パーセント居た。1970年代以降の来台者(約35パーセント) と台湾出生者(32パーセント)を合わせて67パーセントになる。 表3 台湾韓僑男女別人口(1993年4月末現在) 区分 男 女 計 分布率 世帯数 台北地域 高雄地域 基隆地域 その他 計 391 93 35 35 554 352 85 39 56 532 743 178
74
91
1,086 68.4 16.4 6.8 8.4 100 185 44 18 22 269 出典:『僑民史』p.10より訳出。表4 台湾韓僑入国年度別人口(1993年4月末現在) 区分 1949 1950~ 1960~ 1970~ 1980~ 1990 台湾 末詳 以前 1959 1969 1979 1989 以降 出生 計 台北地域 高雄地域 基隆地域 その他 計 比率 26 5 12 2 45 4.14 6 2 2 10 0.92 12 3 15 1.38 63 9 6 5 83 198 24 3 26 251 40 194 204 743 6 2 82 43 29 50 178 10 22 74 91 48 348 286 1086 7.64 23.11 4.41 32.04 26.33 100 出典:『僑民史』p.10より訳出。 次に,2000年代の台湾の韓人人口は3,000人台を推移しており,アジア・太平 洋地域の各国と比べてとくに多い方ではない(表5参照)。2009年の統計による と,台湾籍保持者が409人,韓国籍で台湾永住権保持者が190人,駐台韓国人(一 般)が2,149人,留学生が410人で合計3,158人となっている(表6参照)。 表6の「永住権」とは,「永久居留権」と称されるもので,申請資格は「5年 以上の台湾滞在者で,満20歳以上,1年に183日以上台湾に滞在していること」, その他の条件がある。これは以前の条件,すなわち滞在年数(7年)・年間滞在 日数(270日)に比べ短縮されている12)。このことは,台湾に於いて国境を越 えて往来する生活者の増加に応じた改正であろうと思われるが,その背景は確 認していない。「在外国民登録」とは日本人が海外に住所または居所を定めて3 ヶ月以上滞在する場合に日本国大使館・領事館に出す「在留届」と同様である。 12)台湾のイミグレーション規則(「永久居留讃申請須知」2010年7月8日公布)によ ると,永久居留証の申請資格は次のようである。 ママ (一つ在我國合法連績居留5年,年漏二]一歳以上,合法連績居留期間,毎年居住超 過一一百八十三日者。 (二)居住墓漬地区設有戸籍國民,其外國籍之配偶在我國合法居留十年以上,其中 有五年毎年居留超過一百八十三日者。 (三)居住憂溝地彊設有戸籍國民,其外國籍之子女在我國合法居留十年以上,其中 有五年毎年居留超過一百八十三日者。 (四)封我國有特殊貢献者。(須提審査會) (五)為我國所需之高級専業人才。(梅花辛) (六)在文化、藝術、科技、髄育、産業、等各專業領域,参加國際公認之比寮、競 技、評鑑得有首奨者。(梅花k) (七)外國人得向入出國及移民署申請在我國投資移民,経審核許可且實行投資者, 同意其永久居留。(梅花十) http:〃iff.immigration.gov.tw/ct.asp?xItem=1085624&ctNode=29866&mp=TOO1 (2011年2月1日参照)
表5 アジア太平洋地域の韓人人口(中国・日本を除く) 2003~2009年 総計 オーストラリア全域 駐オーストラリア(大) 駐シドニー(領) ニュージーランド全域 駐ニュージーランド(大) 駐オークランド(領) インド全域 駐インド(大) 駐ムンバイ(領) ベトナム全域 駐ベトナム(大) 駐ホーチミン(領) パキスタン全域 駐パキスタン(大) 駐カラチ(領) フィリピン インドネシア タイ シンガポール 台湾 東チモール 196,401 59,940 12,529 47,411 33,000 9,038 23,962 1,745 992 753 6,821 1,060 5,761 318 195 123 37,100 23,485 15,100 5,820 3,076 440 249,732 84,316 15,216 69,100 31,500 8,300 23,200 4,471 3,587 884 16,576 1,476 15,100 361 212 149 46,000 23,025 19,500 6,952 3,454 20 384,476 105,558 22,990 82,568 32,972 8,461 24,511 7,367 5,126 2,241 53,800 3,800 50,000 449 268 181 86,800 30,700 25,000 12,656 3,166 27 461,127 100.00 125,669 27.25 29,831 6.47 95,838 20.76 30,792 6.68 7,928 1.72 22,864 4.96 8,337 1.81 5,820 1.26 2,517 0.55 84,566 18.34 4,386 0.95 80,180 17.39 529 0.11 330 0.07 199 0.04 115,400 25.03 31,760 6.89 20,200 4.38 13,509 2.93 3,158 0.68 52 0.01 注:当該国の韓国大使館・領事館(台湾は駐台北代表部)でまとめた数値を2009 年5月1日現在で整理されたもの。表題は訳者(松本)が付けた。 出典:韓国政府・外交部在外同胞領事局在外同胞課「在外同胞現況(2009)」 http:〃www.mofat.go.kr/consul/overseascitizen/policy/index.jsp(2011年1 月26日参照)より作成。
表6 台湾韓人人口(2009年) 総計 北部 中部 南部 (台北,桃園,新竹 凵j (台中,嘉義, ム等)j (台南,高雄, 苴兼凵j 区分 男 女 計 2007 N対 苟搆 ク率 男 女 計 男 女 計 男 女 計 在外同胞総数 1,431 1,727 3,158 ・ ・ . ・ ’ . ・ 一 会 一 居住資格別 外国国籍同胞 i市民権者) 104 305 409 1 一 一 ・ . ・ 一 . ・ 一 王外国民 永住権
メ
102 88 190 37 72 70 142 16 10 26 14 8 22滞留者
般 1,037 L112 2,149 4 968 1,044 2,012 145 170 315 112 120 232留学生
188 222 410 △27 計 1,327 L422 2,749 一 1,040 1,114 2」54 161 180 341 126 128 254 在外国民登録数 1,782 1,647 3,429 20 ’ ← ・ ・ 一 ・ F 一 ・ 注1: 職業別構成比は自営業18%,学生15%,会社員11%,専門職6%,宣 教師6%,その他44%。 注2: 一般居留[滞留]層から永住権に転換した者が増加した。 注3: 市民権者と留学生は地域別統計資料が無い。在外国民登録数は累積され た統計値である。 出典:[台湾】内政部戸籍係,内政部入出國及移民署の資料を元に韓国政府の駐台 北代表部および外交部在外同胞領事局在外同胞課が2009年5月1日現在で整理 した数値。http:〃www.mofat.go.kr/consul/overseascitizen/policy/index.jsp (2011年1月31日参照)より訳出。表題は筆者が付けた。III 台湾韓人の歴史断章 1 1945年以前 『僑民史』から拾う略史 先ず,「在中韓国人の定着過程」[中華民国韓僑協会1993:10]を要約すると 表7のようである。「在中」とあるが,「在台湾」である。 表7 台湾の韓人社会一略年表 年代 前史 1923頃 1924 1940年代 1945年 以降 1948 1949 薬用人参商人数名が来台。 愛国同志革命家数名が上陸。7~8名の船員も。 (8月)ソ・ヒョンギュ氏ほか多数が来台。各界で就業。船員が多 かった。 戦争物資運搬船の船員をはじめとして,機関服務者,労働者,技 術者,学徒兵,軍属等,1万5千人に近い僑民がそれぞれの仕事 に従事。 財産が多少ある人,あるいは国内に縁故者がある僑民は漸次帰国。 不本意な事情,または国内に縁故者がいない人は台湾に残留。 徴用により南洋一帯で日軍の仕事に従事し,それから解放されて 帰国途中,台湾に到着した後,そのまま残された僑民。 大韓民国建国。この後,貿易・商業・その他で来台して韓人社会 を形成。 蒋介石政府に従って,大陸にいた一部僑民が来台。 出典:『僑民史』p.10より作成 「薬用人参商人」は,朝鮮の経済・貿易史で重要な位置を占めていた人参(高 麗ニンジン)を扱う商人で,米国韓人100年史の冒頭でも「1900年初めに25 人くらいの人参商人が中国人のなりをしてサンフランシスコに上陸した13)」と 記している。 自生する人参,山に自生する山参は現在もとくに高価である。当時,すでに 朝鮮国内のは採取されつくして,朝鮮人人参採取業者は中国東北部やシベリア 沿海地方,サハリンなどにも足跡を残した。たとえば,「デルス・ウザーラ14)」 という1902年から1910年までのシベリア沿海州を舞台にした作品があるが, それにも朝鮮人山参採取業者が登場する。 13)http:〃www.koamhistory.com/home/bbs/board、php?bo_table=000&wr_id=22(2010 年12月8日参照) 14)アルセーニエフの探検記録。黒澤明監督により映画化された。
『僑民史』の記述では,単に採取したものを販売のために台湾まで来たもの か,台湾の山も探し回ったことまで含むのか,判然としない。また,具体的に 人名までの記載は無い。 1923年頃の「愛国同志革命家」とは,抗日独立運動家のことであるが,ここ でも人名は記載されていない。1919年4月に上海に亡命臨時政府が組織された ので,その関係者が台湾にも出入りした可能性も考えられる。しかし,当局の ブラックリストに載っていた人物は容易に往来することはできなかったであろ う。抗日運動の手段として暗殺と爆破を採っていた義烈団の依頼に応じて1922 年ないし1923年に「朝鮮革命宣言」を起草したという申采浩(シン・チェホ。 1880-1936) の場合,1928年に台湾の基隆に来て日本警察に逮捕され,1936 年に旅)1va刑務所で獄死している。台湾に来たのは1928年で,その目的は偽造外 貨を換金して運動資金を集めるためと言われている。申采浩の来台年は1923年 頃ではないので,この「愛国同志革命家」と特定できない。「ソ・ヒョンギュ氏」 についても未詳である。 『僑民史』[中華民国韓僑協会1993:11]に「在台朝鮮人協会十周年紀念撮 影 昭和十一年一月五日」の集合写真が掲載されている。41人の紳士が3列に 並び,上方に二つの円があり,そこに1人ずつ計2人が見える。総計43人の男 性写真である。衣服は羽織和服姿が2人いて,後は皆,背広にネクタイ(蝶ネ クタイが1人),頭髪は全員きちんと整髪されていて,まさしく紳士ぞろいの感 がある。彼らがどういう人々かは不明である。昭和11(1936)年の10年前, 1926年前後の写真である。表1で1926年には「在台常住朝鮮人人口」が353 人であるので,この協会が発足していたことは十分考えられる。1936年には約 5倍の1,700人ほどに増えている。 表8 韓僑協会の沿革 年 代 1926 年代不詳 1948 1979 1983 1983 1989 在台朝鮮人協会設立 鮮友会,船員共和会 8月15日 台湾省韓僑協会設立 韓僑聯誼会設立。2年余りで立ち消え コリアン・クラブ(韓僑聯誼会)と同趣旨で始めるが,同様に立ち 消え セマウル金庫創立。1985年解散 9月23日 中華民国韓僑協会設立 出典:『僑民史』(pp.12-29)より作成。
在台朝鮮人協会がいつまで存続したか,また表8に挙げた「年代不詳」の「鮮 友会」「鮮人共和会」は『僑民史』では日本の御用団体のように記されているの で,1945年以前であることは明らかであるが,これらもどういう機能をしてい たのか,未詳である。 「趙明河義士」 『僑民史』で大きく扱われている歴史上の人物として,「趙明河〔チョ・ミョ ンハ〕義士」がいる。彼は日本史でも「台中不敬事件」で知られている。『僑民 史』で記述された彼の事績について日韓間の「歴史認識の違い」が認められる ので,少し細かくなるが,『僑民史』の内容を紹介しておく。 彼は1905年4月8日,黄海道で生まれ,故郷で普通学校(尋常・高等小学校 に相当)を卒業15)。卒業後は講義書を入手して外国語を独学する。1926年3月 (満20歳),郡役所の書記試験に合格し採用される。半年働いて,同年9月か ら翌年11月まで大阪商工専門学校16)夜間課程に在籍。明下豊雄の名で,1926 年11月に台湾に渡り,台中市の富貴園(茶舗)寄宿舎に入り,茶葉農場の技術 者として働く。1928年5月14日,台中駅に向かう陸軍大将・久遁宮邦彦王(く にのみや・くによしおう。1873-1929)の自動車をく毒を塗った刀〉で襲って, 現場で逮捕された。警察の調べで背後関係はなく,単独犯として,台湾高等裁 判所で死刑宣告され,同年10月10日に絞首刑に処せられる。 なお,1963年,大韓民国政府から故・趙明河に対して建国功労勲章が追贈さ れ,国立墓地には遺骸のない墓地が造られる。この事件に関する日本の説明で は邦彦王にけがはなかったとされるが,『僑民史』では,このときに受けた傷か ら入った毒が原因で1929年1月に死亡したと記している。皇族を死に至らしめ たというわけで,彼についてはその後,台北韓僑学校に胸像建立(1978年), 独立記念館に語録碑建立(1988年),果川ソウル大公園に銅像建立(1988年), 韓国の放送局KBSテレビで一代記ドラマを作製・放映(1989年)と顕彰が続 いた。
基隆A氏の話
2003年に台湾韓僑協会を訪ねた際に,古いことは基隆のA氏が詳しいと教え てくれた。そこで連絡を取ってみたが,多忙で面会の時間は割いてもらえず, 15)普通学校卒業後,親戚の韓薬房(薬屋)を手伝った[金泳信2002:208]。 16)西野田商工専修学校[金泳信2002:208]。電話で聞いた話をメモにより紹介する。年齢60過ぎの男性である。以下,2003 年10月8日現在で記述する。1945年以降の内容も併せて記述する。 家庭では日本語を使っていた。〔現在,A氏は〕日本語・韓国語・北京語・台 湾語・英語を話せる。 父親が朝鮮半島から日本に渡り,養鶏に関わっていた。それから客船で台湾 に来た。最初は台中の日月潭発電所の仕事に従事した。それから新竹のタイヤ 工場で働いた。1950年に帰還するつもりで基隆まで来たが,朝鮮戦争が始まっ て帰れなくなった。 基隆には90歳の女性がいるので,もっと古い話が聞ける。〔名前は記録でき なかった〕。基隆と高雄に古くからの人たちが多い。台北には新しく入ってきた 会社関係の人たちが多い。 総督府時代には朝鮮籍だったが,日本人名で「日本語学校17)」に入れた。台湾人 は入れなかったという。台湾に韓国大使館18)が来て,韓国籍を持つようになった。 韓台国交断交〔1992年8月24日〕があって,韓僑は困った。北京語ができ ず,新しい仕事を得られなかった。韓国に帰る人が多かった。外国籍では台湾 で事業許可を得るのが難しかった。 今日,両親が韓国人だと,生まれた子供は台湾籍と韓国籍の二重国籍状態になる。 現在の仕事は,主に韓国と日本を相手にする貿易である。台湾人と合併の会 社で経営している。ネオンサインの原材料を韓国・日本から入れる。トランス はイタリアから,ガラスはアメリカから輸入する。しかし,ネオンサインは, 今は以前のように売れなくなった。 家族は妻が韓国生まれ,30歳と31歳の息子2人がいる。結婚適齢期を迎え ているが,結婚相手に韓国女性が少ない。台湾人との結婚が多い。台湾人と結 婚したら,会社登記には都合が良い。15年前に父が亡くなり,朴正煕(バク・ チョンヒ)[1917-1979.大統領在位1963-1979]大統領の時に造られた「望郷 の丘」に骨を埋めた。「望郷の丘」とは韓国忠清南道天安市にある国立墓地で, 海外に出て国内に墓地探しの難しい移民などのために造られた19)。 17)ここでいう「日本語学校」とは具体的に公立小学校のことか,また所在地がどこか を特定できなかった。 18)大韓民国の駐中華民国大使館は1949年7月29日から1992年8月まで置かれた。 それ以前は1948年11月7日に特使館が設置されていた。 19) 「望郷の丘」のWEBサイトには日本語の頁もある。韓国語のよく分からない在日 韓国人にも紹介するためである。http:〃nmhc.lnohw.go.kr/jp/html/info/info_Ol.jsp (2010年12月10日参照)
2 1945年以降 帰還 『僑民史』は第2次大戦後の台湾から韓人の帰還状況について,短く記して いる。 「解放になると財産が多少ある人,あるいは国内に縁故者が居る僑民は漸次, 帰国するようになった。経済的な止むを得ない事情,または国内に縁故者が居 ない人はここに滞留するようになった」[中華民国韓僑協会1993:10]。前述の とおり,1945年8月に1万5千人近い韓人が居たとすれば,1万人以上を帰還 させた経緯がある。これについては,黄善翌[2006]の研究があるが,本稿で はまだその本文を参照していない。抄録によると,次に記す韓僑協会が1948年 以前に彼らの帰還に関わっていたことを扱っている。 国民党政府が大陸から台湾に渡ってきた時に,ピョンヤン生まれで満州や上 海で布教活動をしていた女性の鄭成元(チョン・ソンウォン)宣教師が台湾に 渡ってきて,基隆にいた700人ほどの帰還できなかった同胞を相手に慰労,激 励を始めた。高雄韓僑教会のホームページに見えるこの話は,台湾韓人キリス ト教史の始まりに関する一つの説である。 韓僑協会 韓僑協会の沿革年表 [中華民国韓僑協会1993:12] を見ると,1948年か ら1975年までは初代理事長から第10代まで歴代の理事長名が記載されている。 1979年からの10年ほど組織活動に混乱があった。 1979年の韓僑聯誼会設立の中心になったのは第10代理事長であったようで, 韓僑聯誼会は,「僑民が生活の安定を求めるようになり,僑民相互間の団結・親 睦,また生業の経験を話し合い,異国生活のさびしさを慰め合うため,出会い の場を設けて,共感帯を形成する」[中華民国韓僑協会1993:20]という趣旨 で設立されたが,会場契約したホテルから,契約条件中に定めた協会への賛助 金納入が滞り,協会メンバーの間で不明金問題となり,立ち消えになった。 次いで1983年から「コリアン・クラブ」と称して,同趣旨のことを始めたが, 会場経営者の1人が犯罪組織に関わっていることが明らかになり,契約条件も 履行されず,理事長による事実解明がなされないままで終わった[中華民国韓 僑協会1993:20]。 セマウル金庫は,韓国で朴政権から始められたセマウル運動の一環として, 農村や都市にセマウル金庫(日本の農協金融部門に相当)が活動していた。台
湾の銀行から融資を受けるのが難しい韓人が多いので,セマウル本部の協力で 台北韓僑学校に台湾セマウル金庫を置くようになった。韓僑聯誼会から韓僑協 会に基金提供があり,金庫の運営が始まった。僑民からも預金を集め,融資申 込者には利息をつけて融資をする。同時に,韓国からの観光客を目当てに土産 物を売るセマウル販売所事業も開始したが,営業不振でセマウル金庫から流用 する不正経理が生じた。資金不足となって預金者に十分返金もできないまま事 業を終了した[中華民国韓僑協会1993:21]。 第10代理事長がいつまで在任していたかの記録も見えないが,この混乱時期 に長く理事長であり続けたようである。 1989年に執行部・立法部・監事の「三権分立」組織として再出発し,これが 現在の中華民国韓僑協会の発足と位置づけられている。 この協会に機関誌があり,誌名を『阿里山』という。2001年冬号(通巻9号), 2003年春号(通巻14号),2003年夏号(通巻15号)を入手した。創刊年代は 明記されていないが,季刊発行であれば,1999年頃の創刊と思われる。 韓僑協会の組織 中華民国韓僑協会規則(章程)によると,本会の目的は「中華民国領土に居 住する全韓国人の親睦と団結を図り,韓・中両国の民間親善および文化交流を 促進し,会員の法的権益を保護伸長し,厚生福利増進」にある[中華民国韓僑 協会1993:102]。そして会員は次のように定められている。 ①正会員:大韓民国国民で駐在国に居留する目的で居留証を取得した20歳以 上の男女は必ず加入しなくてはならない。 ②団体会員:大韓民国会社または法人で駐在国内支社または事務所。 ③準会員:駐在国に駐在する大韓民国外交官および政府派遣公務員と満20歳 以上の家族および構成員。 ④名誉会員〔1999年改正で新設された〕: (1)国際結婚などその他の理由で大韓民国国籍を喪失した者および正会員の 他国籍所持配偶者および子供。 (2)本会発展に功績ある母国人士および友邦人士。 (3)名誉会員は選挙権と被選挙権を持つことはできない。
中華民国韓僑協会の役員構成(任期2003年9月23日~2005年9月22日)
は次のようになっている。表9 中華民国韓僑協会の役員構成(2003年10月現在) 本会(台北) 基隆分会 台中分会 高雄分会 団体
事
長 幹
問長会事務事
顧会副理常監
4 1 2 6(3) 1 2(1) -一∩∠一- 1 2(1) 1 1 3(1) 1100
注1( )内数は女性役員数を表す。 出典:韓僑協会「2003年第8代理事・監事候補者」(2003年8月18日付, 選挙用候補者紹介)より作成。 協会本部は台北市にあり,基隆・台中・高雄に分会を置く。台中分会は1993 年までは無く,それ以降に開設された。 「団体」とあるのは駐在機関・企業で、団体副会長はLG/PHILIPS,団体理 事はそれぞれ三星SDI,韓国貿易中心(KOTRA),韓国観光公社の代表が就い ている。過去には大韓航空,アシアナ航空,その他,韓国を代表する企業の代 表が就いている。会長は僑民から出ているので,韓僑協会は僑民主体の団体で あると言える。 駐在企業は別途「韓商協議会」を構成しており,『阿里山』(2003年夏号)に は35社35名の代表が掲載されている。いずれも韓国の大企業で,台北に事務 所を置いている。 2003年9月より任期が始まった第8代理事・監事選挙の際に作成配布された 候補者紹介資料がある。本会(本部)理事(会長・副会長を含む)・監事に着任 している全員に一致し,各候補者の顔写真・姓名・生年月日・学歴・職歴の属 性が明示されている。以下にその属性の特徴について記す。出生年は1940年代1人,1950年代7人,1960年代4人。最年長者は常務監
事で満59歳,最年少者は監事で満40歳である。会長・副会長は49歳・50歳 であり,役員は総じて若い感がある。 学歴は高卒2人,大卒10人。大卒者の内,台湾の大学卒業者4人(国立台湾 大学2人,国立中興大学2人),日本の大卒者1人がいる。他は韓国で卒業した。来台年は1977年2人,1978年1人,1979年1人,1982年1人,1984年1人,
1988年2人,1989年2人,1992年1人,1993年1人である。最古参が26年
前,新参は10年前となる。台湾生まれの人は含まれていない。本部役員の全員がニューカマーの1世と言えよう。基隆分会の会長は前述の電話インタビュー に応じてくれた方であるが,彼は2世である。 各理事の職業は,旅行社代表と商事有限公司代表を兼業,有限公司代表(3 名),有限公司経理(2名),韓食堂代表(3名),画家,韓僑学校学父母会会長 (主婦?),韓国日報台北支局長となっている。大企業の支社長は含まれて居な い。個人事業主が多い。新聞記者は監事を担当し,各有限公司の業務内容につ いては不明である。 コミュニティ新聞 台湾韓人社会で過去に発行されたコミュニティ新聞として,以下(表10参照) のものが挙げられている[中華民国韓僑協会1993:20]。世界諸国のコリアン・ コミュニティでは広告収入による新聞が活発に発行されてきたが,概してその 収集・保存はされていない。どういう記事が掲載されているかによるが,韓人 社会史資料として重宝な場合がある。筆者は表10の各新聞はまったく未見であ る。 表10 台湾韓人社会コミュニティ紙の変遷 年代
1962 2月1日
1985 10ノ弓 12 日 1985 12月 1 日 1989 8.月 31 日 1989 10.月 1993 7月現在 僑民新聞『韓僑旬報』(台湾省韓僑協会発行)創刊号発行 『韓僑旬報』553号発行 [この号で終了と思われる] 『領事消息』第1号発行 『領事消息』第29号発行 [この号で終了と思われる] 『協会消息』第1号発行 『協会消息』第23号発行 注:この間に『僑民消息』(17人委員会発行)があるが,発行年代不明。 出典:『僑民史』p.20より作成。 宗教団体 各国に移民して形成される韓人社会では,韓人キリスト教会が彼らの社会的 結節点として重要な機能を持つことが多い20)。韓国でキリスト教信者ではなか った人も,現地生活に必要な情報を韓国語で得られる場所として,キリスト教 会に出ることを選ぶ。現地語に不自由のない人は現地人から直接生活情報を得 られる。言い換えれば,オールドカマーがニューカマーの現地定住化を支援す 20)松本[2002;2003]でモントリオールの事例を紹介した。る機能がある。現地語会話の学習クラスが開かれている場合もある。 なお,韓人宣教師は韓人の少ない所,定住者は少なく留学生などが多いとこ ろなどにも進出しており,韓国の書店の宗教書コーナーでは「宣教人類学」の 語を題目に含む図書が見える。異文化環境でどのように宣教するかについて論 じた参考書である。 韓人人口が多いところでは,韓国仏教徒の集まる所も現れる。仏教も韓国の 本部に海外布教を担当する部署をもってはいるが,プロテスタントに比べると, 勢いは弱い。 台湾韓人宗教の歴史は1945年以前については手がかりが無い。 『僑民史』(1993)に見える宗教団体は,基隆教会・高雄教会・台北韓国基督 教会・天主教台北韓人教会・大韓仏教法興院(曹渓宗)である。 表11 台湾韓人宗教団体発足年表 年代 1949 1955 1957 1981 1984 基隆韓国教会:1945年に上海から来た鄭成元(チョン・ソンウォ ン)宣教師が伝道を始める。 高雄韓国教会:鄭成元宣教師、家庭礼拝を始める 台北韓国基督教会:隻連教会堂を借りて礼拝を始める。 大韓仏教弘法院(曹渓宗):開院 天主教台北韓人教会:初めてミサをする。 出典:『僑民史』pp.31-41より作成。 10年後の『阿里山』(2003年6月号:58)には,基隆韓僑教会・台北純福音 教会・台北韓国基督教教会・中華基督教インマヌエル教会・台北韓人賛揚教会・ 台北韓人天主教会(長安堂)・台北長老教会(旧台北ル印呈教会)・スソン院が 掲載されている。ここに高雄教会,法興院が見えない。新たに見えているのが5 団体あるが,新規開設された宗教団体か,以前からあるのか,不明である。中 華基督教インマヌエル教会・台北長老教会は名称から台湾人教会で,韓人が信 徒として属しているように推測される。 2003年に台南市を訪ねた際,安北路198巷の教会,中華民国衛理公会(メソ ジスト)安平堂で日曜午後2時から行われる「韓語班」の大きな横幕が懸けら れているのを見た。日曜は午前10時から「主日礼拝」(日曜礼拝成人の部),午 後1時から「少年団契」(学生の部),午後2時から「主日学」(日曜学校)の時
間割掲示がある。「韓語班」は「主日学」の韓国語クラスになる。4人の韓国人 教師が月500元で教えるなどの掲示があり,韓人が深くこの教会に関わってい るが,韓僑協会のコミュニティ情報には含まれて居ない。 財団法人・台北市韓国基督教会(通称「台北韓国基督教会」)は松江路の12 階建のミッション・ビルの2階を使用しており,このビルの上階には,台湾人 キリスト教3教会と韓国系2関連団体などのほか一般企業も入っている。
2003年10月5日付の台北韓国基督教会週報(第36巻40号)を見ると,教
会組織は牧師(堂会長)のほか,役員として少なくとも長老3人,伝道師2人,勧士4人,執事6人がいる。牧師は70歳くらい,長老の1人は60代半ばで大
韓民国在郷軍人会21)台湾支会会長であり,この2人は台湾韓僑協会の顧問もし ている。 定例の礼拝・祈祷会として日曜礼拝・水曜礼拝・早朝祈祷会(毎日5時30分 から)・金曜区域礼拝が行われている。前週の礼拝出席者数は次のようである。 表12 ある週の韓人教会への出席者数 男 女 計 壮年部 中高等部 児童部 水曜日 総計44323
3 1 5
5
11-9ワ一∩δ 6 85 5 22 4 116 出典:『台北基督教会(週報)』2003年10月5日号より作成。 表12で中高等部の人数が他に比べて少ない。これに関して,韓僑協会で聞い たところでは,韓人の子どもの3分の2が韓僑学校に,台湾人学校に3分の1 が通い,駐在員指定の中にアメリカンスクールに通う子どももいるという。台 北韓僑学校で生徒数を聞いたところでは,幼稚園12人,1年生11人,2年生6人,3年生7人,4年生3人,5年生2人,6年生1人で,上級生になるほど少
なくなっている。これらのことから,小学校高学年・中高生を韓国の学校で学 21)大韓民国在郷軍人会のホームページ(http:〃www.korva.or.kr/2011年1月30日 参照)によると,海外支部はアメリカ東部・西部・中西部・南部,カナダ東部・西 部,オーストラリア,台湾,日本,アルゼンチンの10支会が見える。台湾支会は 1982年10月9日設立で,台北に事務所を置き,活動会員数は425名とある。この 組織は大韓民国在郷軍人会法に基づき設置され,自主財政が基本であるが,必要に 応じ大韓民国より補助金を受けることができる。ばせているか,英語圏に留学させているため,台湾に居るその年齢層が少なく なっているのであろうと思われる。 仏教は新店市に大韓仏法曹漢宗の台湾弘法院がある。 僑胞商会 『僑民史』は台湾で韓人が行っている商業について次のように記している。 「1970年代に僑民が経営した商会は僑胞商会,京城商会,兄弟商会,東莱商会, ウリ商会,アルム商会,セマウル商会,などがあった。1977年から華僑が膳物 商会[土産物店]を雨後の筍のように開業し始め,1980年には中山北路2段付 近だけでも膳物商会が20店舗余りに上った。 こうした難局を打開するため,韓人膳物商会7ヶ店舗が統合して,株式会社 ミドパを設立した。約2年間維持したが,経営不振で解体された。現存する[→ その後の]僑胞商会はソウル商会,セマウル商会,アリラン商会,高麗商会, 明洞商会など5店舗になった。 1992年8月,韓台断交の余波で,アリラン商会と明洞商会さえ業務停止し, 今はソウル商会,セマウル商会,高麗商会だけが命脈を維持している」[中華民 国韓僑協会1993:43]。 以上は1993年までの様子で,事業内容は韓国食品・物品の販売が主で,併せ て日本食品なども扱っていたろう。 2003年の韓僑会誌には,この3店舗の名前も見えず,新たな5店舗(「即席 焼き 岩のり」,韓英,致遠,韓国野菜農園,漢其有限公司)が見える。ここま でを見た限りでは,細々とではあるが,続いてはいるという印象であろう。し かし,2003年の台湾では日本より早く起こった韓流ブームで,デパートやショ ッピングモールの一角に韓流グッズを並べている場所があった。また,台北市 の職業別電話帳を見ると,「食品及餐飲類」の「餐庁一亜洲口味」の区分に全部 で56店舗が掲載されており,その内,16業者19店舗の商号が韓国的であった。 このうち1軒は韓国華僑協会会員リストで会員であるのが確認された。台北市 内を歩き回っている間に韓国食堂2軒を見つけて食したが,いずれも電話帳に 未掲載の業者であった。永和市韓国街を中心とする韓国華僑の商号のほとんど が韓国関係専門業者とは判別がつかないのと比べると対照的である。 おわりに
従来の台湾韓人の研究は管見では,韓国人研究者によるものに限られ,台湾 人研究者を含め他国研究者による接近は見いだせない。1990年代半ばに韓国政 府統一院の企画として実施された韓敬九によるものが最初で,その後は2000年 代に入ってから少し現れている程度である。 台湾韓人の歴史は日本の台湾総督府および朝鮮総督府の設置以降,20世紀に 入ってから始まる。金泳信の統計研究によると,1923年から1941年までの間 は商業,水産業,工業,公務・自由業,運輸,農業,鉱業,その他で台湾への 渡航があった。しかし,この間の延べ渡航者数は1万人を超えない。1945年ま での間に徴用により15,000人に急増した時期があったようだが,日本の敗戦後 はほとんどが帰還(あるいは他地域へ移動)し,1990年代以降は台湾帰化者と 韓国籍で居留証保持者を含めて約3,000人程度で推移している。旧満州や日本 への移動と比べると,桁違いに少人数であるが,どういう経緯で朝鮮半島から 台湾に移出したか,産業・職業ごとにできるだけ究明する作業は今後に残され ており,関係者が超高齢に達しているので緊急を要する課題である。 帰還の機会を失って留まった人,国民党政府が大陸から移ってきた際にやは り大陸から台湾に来た人などが古くからの韓人である。大韓民国政府が初めて 外国と国交を結んだのは1948年で,アメリカ合衆国と中華民国(台湾)2国で あった。外交tは,1992年に韓国が中華人民共和国と国交を結び、台湾と断交 した時までと,それ以降とに区分できるが,その前後で大きな変化があったこ とは窺えない。相互に代表部を置くことで生活上の違いはさほど生じなかった のかもしれない。 1960年代半ばから1990年ころまでの台湾・韓国を含むNICS,アジア四小龍, NIESと言われた地域の高度経済成長の期間に韓台間で,韓国華僑や台湾韓人が 果たした役割はどのようなものであったか,経済的側面からの取り上げも今後 に期待される。 本稿で検証したのではないが,本稿執筆を通じて想起されることを補筆する と,そういうところに,たとえば家族経営ビジネスに携わる家族員の国境を跨 いだトランスナショナルな生き方が見えるであろう。国際間の移動を「成功」 にっながる上昇移動とするために,有利なように活動場所を変え,国籍も選択 する。彼らの活動により貿易が活発化するのであれば,国家経済も利するので, 彼らの要求をかなえるように国籍法や入国管理制度も改正するが,国家は国家 体制をおびやかす虞がある場合,内国民に彼らの生き方に対する不公平感・不 満がある場合は,そことの兼ね合いを考慮する。トランスナショナルな暮らし
方は,即そのようなイデオロギーの表明者というわけではなく,言動はよりナ ショナリズム的であるかもしれない。トランスナショナルな生活を守るために, 政治環境・社会環境に応じてナショナリストを言明して,バリアを張るという 行為が現れることも理解できる。 参考文献 〔日本語〕 藤井賢二 2007 「水産統計から見た日本統治期の朝鮮・台湾の漁業」『東洋史訪』13: 98-114. 藤原夏人 2010 「韓国の国籍法改正 限定的な重国籍の容認」『外国の立法』245: 113-140. 林史樹 2006 「増殖する『韓人』 朝鮮系移民はどこに帰属するのか?」『神田外 国語大学紀要』18:89-108. 2007a 「グローバル化時代における朝鮮系移民の統合 『韓人』のすりか えと浸透」朝倉敏夫・岡田浩樹編『グローバル化と韓国社会 その 内と外』(国立民族学博物館調査報告69)209・222. 2007b「『韓国華僑』の生成と実践 移民集団の括り方をめぐって」『韓国・ 朝鮮の文化と社会』6:124・148. 井出弘毅 2009 「ポッタリチャンサ 日韓境域を生きる越境行商人」『白山人類学』 12:53’67. 上水流久彦・中村八重. 2007 「東アジアの政治的変化にみる越境一台湾の韓国華僑にとっての中 華民国」『広島県立大学論集』11(1):61・72. 松本誠一 2002 「モントリオールの韓人教会 1」『東洋大学アジア・アフリカ文化研 究所 研究年報』35:56-70. 2003 「モントリオールの韓人教会 II」『東洋大学アジア・アフリカ文化研 究所 研究年報』36:51・59.