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ブリタル反日蜂起の史的考察 : インドネシア8月革命序曲 [The Anti-Japanese Revolt of the Peta Army in Blitar]

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(1)

東南 アジア研 究 13巻4号 1976年3月

資料 ・研究 ノー ト

ブ リ タ ル 反 日 蜂 起 の 史 的 考 察

- イ ン ドネ シ ア

8

月革 命序

曲-白

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SHIRAISHI

PETA(TentaraPembelaTanahAir)wasanIndonesianvolunteerarmyOrganized underJapaneseauspicesin 1943during theJapaneseOccupatioll.InFebruary 1945, 0neoftheBattalionsofthePETA Army,locatedatBlitarCity,KediriResidency,in EastJava,roseinarmedrebellionagainstJapaneserule.WithSoeprijadiShoodan・cho (PlatoonComlllander) asleader,severalyoungoffic∈・rsofthis Battalion beganto plotanantりapaneserevoltinSeptember1944.TheirhatredalldangeragainstJapan werecausedprinlari】ybythecrueltyoftheJapalleSetowardtheIndonesianpopulation,

thepitifulconditionoftheRoomusha(forced laborers:) inparticulararousedbitter hatredin thehearts ofPETA officerswhohadonceworkedwiththoseRoomushas.

Thearrogantattitudeofthe Japanese lnstructors appointed to eachBattalionalso irritated the Indonesian officers. Furthermore they felttllatIndonesia should be totally liberatedfrom Japaneserule.Takingallthesefactorsinto consideration,we can interpretthis revoltasthepl-eludetotheIndonesian Revolution,whichbegan inAugust1945.

TheRevolt,involvingthree・fourthsofthesoldiersoftheBattalion,beganatdawn onFebruary 14. 4Japaneseciviliansand7Chinesewhowereconsidered tobepro・ Japanese,Were killed,butthe revoltwaseasily supressed becauseoflackofcoor・ dinationwithotherBattalionscombinedwiththefactthattheyhadbeguntherevolt beforetheirplanswerecomplete.550ftherevolutionariesweretriedand sentenced. Six were sentenced to death and executed before the surrender of Japan. The leader ofthis revolt,Soeprijadi Shoodan・cho disappeared during therebellionand

hasnotbeen found to thisday. Nonetheless,he was appointed the firstDefense Minister and Supreme Commander ofthe Indonesian National Army,althoughhe never actuallyassumedtheseposts.ThisdelllOnStrateSthe extentoftheinfluence ofthe BlitarRebelliononthe development of nation;llisrn arid the revolution in lndonesia. 序

1

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5

8

月の 日本軍政 の崩壊 を もって始 まるイ ン ドネ シアの一連の革命運動は,一般に

4

5

年 独立革命 と総称 され てい る。 この革命 の経緯,意義, あ るいは 性格等に関す る分析は これ まで *東京大学社会学系大学院 (国際関係論 コース) 535

(2)

多 くの著作 の中で行 なわれ て きた。そ の多 くは45年革 命 の 出発点を8月17日の独立宣言におい て,それ 以後 の問題に関す る記述 を展開 してい る。 しか しなが ら, さ らに時代 を も う少 し逆流 させ,8月17日の独立宣言を生み 出す に至 った よ うな軍政末期 の急進 的青年 たちの運 動に焦点 をあてた研究 も近年盛 んに行 なわれつつ あ る。1' この種 の研究 は,45年革命 の性格分析 を行な う上で非常 に貴重 な もので あ り,今 後 さ らに深め られ てゆ く必要が あ るだろ う。 本稿 はそ の よ うな脈 ら くのrtlで45年革 命 の序 曲 と しての 日本軍政時代 の反 目抵 抗運動の一つ を テーマに と りあげ,それが革命全体 をみ る うえで どの よ うな意味を もっていたか とい う問題 について若干 の考察 を試みん とす るもので あ る。 著者 が本稿で と りあげ る「ブ リタル蜂起」は, 1945年2月 ジ ャワ防衛 義 勇軍 の一大 団が起 こした反 日武装蜂起で あ る。 「イ ン ドネ シア独立」 を旗 印 と して立 ち上が った彼 らは, 日本人4名, 中国人

7

名,温血女性1名を殺害 し,刑務所 を解放 し,警察,電話 局を襲撃 した のち ブ リタル郊外 の山中にた て こもるが,巨大 な 日本軍 の 軍事 力 と権 力 の前 につ いに鋲圧 され て しま う. しか しこの蜂起が 日本軍 に与 えた衝撃は大 きか った。特 に, 日本軍 自らが 訓練 し育 て,連合軍 に対す る強 力な友軍 として期待 していた防衛義 勇軍 の中か ら発生 した蜂起であ ったが散にそれ は大 きか った。 一万 イ -/ ドネシアの青年た ち, 特 に他 の義勇軍将兵に与 えた衝撃 も大 きか った。 本稿においては, まず蜂起に至 るまで の客観情勢,特 に蜂 起 の原因 とな った事情 を考察 した のち仁,事件 の経過 を のべ,最後に,それが イ ン ドネシ ア民族 お よび 日本軍 の双方に与 えた影 響 (衝撃)につ いて考察 しよ うとす るもので あ る.2) 1) この種の研究としては次のようなものがある。

Anderson,Benedict,Java in theTimeof Revolution: Occupation and Resistance1944-46.

(Ithaca:CornellUniversityPress,1972)

Kanahele,George,I(ゆaneseOccubaiionin Indonesia:PreludetoIndependence,chap.9Towards Zndependence(Ph.D.ThesistoCornellUniversity,1967)

NugrohoNotosusanto,Pemberontakan Tentara PETA Blitar Melawan L)jePang:14Pebruari

1945(義勇軍ブリタル大田の反 目蜂起 :1945年2月14日),(Jakarta,1968)

IdrisAdrianatakesuma,Pemberontakan PETA diBlitar(ブリタルの義勇軍蜂起)(Yogyakarta,

1973)

Oemar Bahasan,PETA dan Perisiiwa Rengasdengklok(義勇軍 とレンガスデンクロック事件),

(Bandung,1955)

Sihombing,PemudaIndonesiaMenentang FasismeDjepang(ファシズム日本に対するイソトネシ ア青年の挑戦), (Jakarta,1962)

白石愛 子 「アンカタン・ムダ運動の形成と展開

『アジア研究』 第22巻第1号,昭和50年4月.

2)ブリタル蜂起に関す る著作としてほ

,

注 1で掲げたNugrohoとIdrisの研究書の他に,次のような手 記がある。

SoehoedPrawiroatmodjo,PerlawananBersendjaiaterhadapFasismeDjePang(ファシズム日本に 対する武力抵抗), (Jakarta,1953)

SoejonoRahardjo,``Kisah SingkatPemberolltakanPeta Blitar(義勇軍ブリタル犬用蜂起に関する 小論),"MadjalahPHB,TahunIV,No2/3Pebruari/Maret,1959.

(3)

白石 :ブ リタル反 日蜂起 の史的考察

背 景

1.

防衛義勇軍 プ リタル大 団 ジ ャワ防衛義 勇軍 は,手薄 にな った ジ ャワの 日本軍防衛 力を補充す る 目的 で

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3

1

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月に 日 本軍 政下で設立 された イ ン ドネ シア人軍 であ る。3) 日本軍 の指導下 で各 州に

2- 5

個大団 (

1

個 大 田約

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名) を設置 し,

1

個大 田は

4

個 中田に,

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個 中田は

3

個 小田に,

1

個 小 団は

4

個 分 団に分け られ ていた。 義勇兵は もちろんの こと,大 団長 以下 の将校 もすべ て イ ン ドネ シア人 か らな る民族軍で あ った。 ジ ャワでは

3

期 にわた って大 団が設立 され,終戦 時には

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6

個大 田約

3

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人 の兵力を擁 していた。 プ リタル大 団は

,1

94

3

1

2

2

5

日に クデ ィリ州 プ リタル県 ブ リタル市に設 立 され,正式 名称 を クデ ィリ第

2

大 田 と称 した。ブ リタル市 は,クデ ィリ州の州都 クデ ィリ市か ら南東-約

8

4

km

, また マ ラン州 々都 マ ラン市か ら南西-約

8

0km

の地 点にあ り, ケル ッ ト山麓 の ブランタス川流 域 に あ る農業地帯 であ る。 この付近 は土壌 が悪 く, また ブラソタス

の氾濫がはげ しいた め, 昔か ら米作 はあ ま り振 るわ なか った.付近 には,コー ヒー,茶,砂糖 な どの プ ランテーシ ョンが 多 く, プ リタル周辺 の住民 の多 くは これ らの農園労働者で あ った。 貧 しい土地柄,昔か ら左翼運動が比較 的根 を もちやす く, また戦 後においては イ ン ドネ シア 共 産党

(

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I) の勢 力が強か った

。1

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年 の

9・3

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事 件 以後共産党 の残党が南 プ リタルにた て こも り最 後 まで抵 抗 を続けた ことで も知 られ てい る。 歴 史的に見 る と

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年 に マ タラム王国

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の王 エ ソプ ・セ ン ドック

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を首都 に選び, これ 以後

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2

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年 に至 るまで この地 を中心 と して王 国の繁栄 を見たo4' 民衆 のいい伝 えに よれば, マ ドゥラの王子 トゥル ノジ ョヨが マ クラム王 国 3)ジャワ防衛義勇軍に関 しては,次の拙論を参照されたい。 白石愛子 「ジャワ防衛義勇軍の設立_‖F東南アジア 歴史と文化』第4号,(東南アジア史学会,1974) 1974. 4)A

・J

・エイクマン,F・W・スターベル著 (村上匿次郎 ・原徹郎訳) 『蘭領印度史』 (東亜研究所,昭和 17年)9pp・

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(4)

に反乱 を起 こ して敗れた際,近 くの ケル ッ ト山中に逃 げ て きて この地 に住みつ い た。 また ジ ャ デ サ ワ戦争 の時, デ ィポネ ゴロ軍 の落武者 が ブ リタル周辺 の山岳地帯-逃 げ こんで,新 しい村 落 を 開拓 し,住みつ いた といわれ る05) 宗教 的にみ ると, トゥル ソガ グ ソに始 まる東 ジ ャワの南海岸一帯 は昔か ら神秘 主義 (mystト cism)の盛 んな ところで,ブ リタル周辺で もいわゆ る Javanism の影 響が強か った。それ に加 えて仏教 ・ヒンズ ー王 国時代 の遺 跡 も豊富で,中で もプ リタル苗 の北方15kmにあ るチ ャンデ ィ ・ブナ ク ラン(CandiPenataran)は有 名で あ る。)また ブ リタル市 の南 ロ ドヨ村 のキ ドゥルKidul

山中には多 くの寺 (Candi)が あ り, ス ソブル ジ ャ リ寺 (CandiSumberdjali)には モジ ョパ ヒ ト国王 ス リ ・マ- ラジ ャ ・クル タラジ ャサ (SriMaharadjaKertaradjasa)の墓 があ る。6)

ブ リタルでの大 田編成 に先 だ って, まず この地 方 の名士 あ るいは青年 リーダ-の中か ら義 勇 軍 の幹部候補生が選ばれた。中団長以上 は応募 とい うよ りも上か らの指名に よる者がほ とん ど で,大 団長には ブ リタル郡長 の ス ラフマ ッ ド(Soerachmad),第1中団長 には ブ リタル村長 ス フ ッ ド・プラウ ィロア トモ ジ ョ(SoehoedPrawiroatmodjo),第2中団 長 には師範学校教師 の -サ ンナ ワウ ィ(Hasannawawi), 第3中団長には タマ ン ・ シス ワ学校長 の チ プ ト-ル ソノ

(Tjiptoharsono),第4中団長 には ブ リタルの検 事 スジ ョ トモ(Soedjotmo)が選ばれた。7)小 団 長は主 と して中等 以上 のオ ランダ教育を受けた小 プ リヤイ階層 の子弟 を中心 に選抜 された。

これ らの幹 部要員 は, ジ ャワの他 の地 方か らの候補生 たち とともに,1943年10月末か らボ ゴ ールに集 め られ, この地 の義勇軍錬成隊 にお いて 日本軍 か ら

6

0

日にわ た る訓練 を受けた。そ の 後 ブ リタル- もどって, 市 の東端近 くにあ るベ ン ドグ リッ ト(Bendogerit) の原住民 中堅官吏 養成学校 (MiddelbareOpleidingsschoolvoorlnlandscheAmbtenaren略 して M.0.S.Ⅴ. Ⅰ.A.)跡 を兵舎 に定 め て,一般義 勇兵 を募 集 し大 団を設 立 した。8) 1944年 の初 めか ら, さっそ く義 勇兵 の訓練が開始 され た。訓練 には,個人単位 の もの,分 団 単位 の もの,お よび小 間単位 の ものが あ ったが,そ の うち一番 中心 にな った のは,小団 ごとの 訓練であ った。小団戦 闘教練は, ブ リタル市 の東方約15kmにあ るカ リブテ ィ(Kaliputih)で 行 なわれ た。そ こには, 田が あ り,畑があ り,谷 があ り,河があ り,村 が あ りで,非常に変化 に富 んだ地形 をな してお り,戦 闘訓練には好適であ った。9) 義 勇兵 た ちは,15kmの道 の りを 歩 いて, また,時 には "かけ あ し"で訓練に 向か うのであ った。 5)マラン在住の歴史家ステイ・ラノ、ユ(SutiRahaju)ならびにプラニョト・スチョア トモジョ(Pranjoto Setjoatmodjo)姉弟とのインタビュー (1973年2月,マランにて) 6)Soehoed,op.cii.,pp.ll-12. 7)元ブリタル大田の教育中団長スカンダル (Sukandar)とのインタビュー(1974年7月,ジョクジャカル タにて)。彼自身は,義勇軍入隊前はブリタルの原住民小学校 (H.Ⅰ.S.)教師であった。 8)現在ここは, 工業中学校の敷地になっているが,正面には大きな兵士像があ り, 像の下の 石碑には, 「1945年2月14日,まさしくこの地点か らスプリヤディ小団長の指導下に反 日蜂起がスター トした」 と 記されている。またその前の通 りは,「英雄通 り」(JalanPahlawan)と命名されている。 9)Soehoed,op.cit.,pp.95-96.

(5)

白石 :ブ リタ/レ反 日蜂起 の史的考察 一定期間の基礎的な訓練が終わ ると,次には各申田 ごとに分か れ て, 自分たちの受け持つべ き地域-お もむ き,防衛戦 とゲ リラ戦 のための訓練が行なわれた。第1申団は ブ リタル市の東 方にあ るクサ ンベ ン

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で, "対空監視"の任務につ くことにな った。 一方,第

2

中田は, ブ リタル市の南方にあ るセ ラ

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において, "海岸監視"の任務を得た。第 3申団 と第4中田は,引 き続 きブ リタル市に残留 していた。10)

1

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4

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月以降大団は,陣地構築の命を受けて,南部海岸-向か った。第

1

申団は, ジ ョヨ ス トロ

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地方,第

2

中団は セ ラソ地方,第

3

中団は タムバ ック

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地方 へお もむいて現地に駐屯 しつつ,陣地構築の仕事にたず さわ った。第

4

中団のみは,引 き続 き ブ リタル市 に 残 りブランタス

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川の グロン ドン

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橋 お よびカ ドマ ンガン

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橋の防衛 に当た った。11)

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年 の

10

月以降は, ガ ンタン

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渓谷での陣地構築の使命を受け,大団戦闘本 部は ガ ンタン市-移動 した。第

1

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申団は ガ ンクソ周辺において,それぞれ任務を分担 した。 また,一部将校 の配置転換が行なわれたの もこの時期であ る.12)

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年にな ると,大団全体が,北部海岸の トクバ ン

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での合同訓練を受け るよ うに との命令を受けた。 しか しなが ら,後述す るように この訓練は,彼 らが トゥバ ン-到着 した後 に,突然 日本側か ら中止を通告 されたため結局実行 され なか った。そ してそ こか らもどって全 大団が再び ブ リタルに集結 した時,反乱が勃発 したのである。13)

2.

困窮するジャワ社会 蜂起の経過を見 る前に,当時のジ ャワの社会的,経済的,政治的状況に関す る若干の記述を 試みたい。それは,第一に蜂起の原因を さぐる上で,第二に蜂起が ジ ャワ社会に与えた影響を 知 る上で重要 と思われ るか らであ る。

1

94

3

年末か ら加速度的に深 まっていった 日本軍 の戦況の悪化は,兵砧基地 として重要 な役割 を諌せ られ ていた ジ ャワ経済に ます ます重圧をかけ,民衆 の生活を圧迫 し,強い社会不安を も た らす よ うにな っていた。あ らゆ る物資は戦略物資であろ うと民需物資であろ うと軍 の管理下 におかれ,農民に対 しては厳 しい強制供 出政策が とられ ていた。その結果, ジ ャワ社会 におけ る食料,衣料その他の必需物質の流通量 は著 しく減少 し,民衆の経済生活は極端に圧迫 されて いた。 また 日本軍は この ような経済搾取のみな らず, 「労務者」 の徴発 とい う形で露骨 な労働

10)Nugroho,oP.cit.,p.13ならびにSoehoed,oP.cii.,p.97.

ll)Soehoed,ob.cii.,p.123ならびにNugroho,oP.eii.,p.13.

12)Soehoed,p.131&p.185. 13)Nugroho

,o

p.

cit・,p・14.

(6)

力の搾取 も行な った。 この対象 とな ったのほ16才∼40才 までの男性,お よび16才か ら25才 まで の独身女性で,形式上 は応募 とい う形 を とっていたが,実際は村長 らの手 をか りてあ らゆ る強 制に よって徴発 したのであ った.14) 政治的には,結社,集会,言論 の 自由を奪われ, ジ ャワ侵攻前に 日本軍が約束 していた民族 歌や民族旗 の使用 も禁止 され,そ の一方で,大東亜共栄圏思想や新秩序 とい うよ うな 日本の価 値体系を強要 され,民衆は動員力を高め るため各種 の翼賛組織 の申-組み こまれ てい った。憲 兵隊に よる弾圧 の厳 しさも民衆を恐怖 にお と しいれ ていた。 こ うして ジ ャワ上陸当時 の 「解放 者」 としての 日本のイメージは, は るかかなたに消え去 り残忍 な 「抑圧者

「支配者」 として のイメージが前面に押 し出 され て きた。 もちろん,宣伝班を中心 とす る巧みな宣伝活動や民族意識をあ る程度満足 させ るよ うな懐柔 政策に よって, 日本側は絶えず彼 らの心をひ きつ な ご うと試みていたが,1944年後期にな ると それ ももはや限界に達 していた のであ った。現に1944年 の春か ら夏 にかけてジ ャワの各地で反 日抵抗事 件が発生 していた。た とえば,1944年 2月18日には, プ リアンガ ン州 タシ クマ ラヤ県 で,回教指導者に率い られた農民 の反 日暴動事件が発生 した。その直接 の理 由は,米 の強制供 出に対す る農民たちの不満にあ った といわれ る。 さ らに 同 じ年, チ レポ ソ州のあ る農村で, 日 本軍 の指示 を忠実に実施 しよ うとす る県長,郡長に対 して,住民が2回にわた って暴動を起 こ した。 このほかに,謀議段階で発覚 し,未遂に終わ った もの としてモホ タル事件があ る。 これ は,当時 ジ ャカル タ医科大学 の細菌学 の教授 であった モホ タル博士が,予防接種液に破傷風菌 を混入 させ て 日本人殺害を計画 した とい うもので あ る。15) その よ うな時, 1944年 9月の帝国議会におけ る小磯 首相 の演説 の中で, 民心把握 のための 最後の手段 として,将来東 イ ン ドに独立を与 え ることが発表 され,一時的な緩和剤の役割を果 た した。 イ ソ ドネシ7人 の政治参加が拡大 され,義勇軍 も拡張 され,民族旗,民族歌 の使用 も 再び許 され るようにな った。 しか しなが ら,年があけて1945年にな って も, イ ン ドネシア独立 のための具体 的な政策は何一つ うち出 されず,民衆 の不満 は再 び うっ積 して きた。 日本軍は依 然 として強力な権 力を維持 してお り, イ ン ドネシア民衆 の生活 は ます ます苦 しくな り, 日々の 糧 さえ も十分得 ることがで きな くな って きた。独立の時期 も明示 され ない上,それに向けての 準備 も何一つ開始 されていなか った。そ の一方で,時お り様 々な秘密 ルー トで伝 え られ る戦況 は,加速度的に 日本軍 に とって不 利な ものにな りつつ あ った。1945年 2月14日, ブ リタルの義 勇軍が立 ち上が った時 のジ ャワを と りま く状況は,その よ うな ものだ ったのであ る。 14)早稲田大学社会科学研究所編 『インドネシアにおける日本軍政の研究

(紀伊国屋書店,1959)p.310 お よび p.312. 15)同上,pp.203-205,

(7)

白石 :ブ リグル反 日蜂起 の史的考察

蜂 起

1.

原因 と目的 ブ リタルの義 勇軍を 武装蜂起- と立 ち上が らせた原因は 何だ ったのであろ うか。 そ してま た,彼 らの運動が 目指 していた ものは何 だ ったのであろ うか。 のちに大団長 ス ラフマ ッ ドが語 った ところに よれば,蜂 起 の指導者 スプ リヤデ ィ

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が大団長 も計画に参加す るよ う 勧誘 した時,蜂 起の原因 と 目的につ いて次の よ うに述べた といわれ る。16) 1.民衆,特に労務者たちの悲款を これ 以上見 るに しのびない。

2.

周囲の 日本人 の倣慢 さと残酷 な行為を これ 以上我慢で きない。

3.

日本をは じめ とす る諸外 国か ら何 ら干渉を受け ない真 に 自由な独立 を求めたい。そ の ためには贈 り物 としての独立を待つのではな く武力でか ち とらねば な らない。小磯首 相が約束 した "将来 の独立"はでた らめで 自分 は信 じていない。 一方,元 ブ リタル大団教育担 当中団長であ り,蜂 起に参加 して15年 の刑を受けた スカ ソダル

(

Sukanda

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)

は蜂起の原因を次の よ うに述べ てい る。17)

1.

陣地構築作業 を通 じて知 った労務者 の悲惨 な状況に対す る怒 り。

2.

日本人指導者 の義勇軍 に対す る侮辱 的な態度 な らびに "独立 の約束" と矛盾す るよ う ●●● な言動。 例えば 「お前達 は馬鹿 だか ら独立 なんかで きないのだ

「ギュ--イ (義 勇 ●●● 兵)なんか スイギ ュ- (水牛) と同 じだ」 とい うよ うな発言。 また,一般 に義勇軍将 校 は よ り下位 の 日本軍兵士 に対 して も敬礼す ることを要求 され,将校 としての威信を しば しば傷つけ られ ていた。

3.

イ ン ドネシア女性に対す る日本人 の性 的な搾取に対す る怒 り。18' 4. 「組合」 の名において行 なわれ る経済的搾取に対す る怒 り。 イ ン ドネシア国軍史研究所編 の 『イ ン ドネシア民族武力闘争小史

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な らびにイ ドゥリスの 『ブ リタル 義勇軍反乱

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の中に述べ られ てい る原因 もはば同様 の内 容で あ る。 以上 の ことか ら,蜂起の原因は,主 と して(1)日本 の占領政策 の苛酷 さに対す る不満,(2)周囲 の 日本人,特 に指導者 の悪態に対す る感情的反発, (3)引 きのば され てい る独立 の約束に対す る 不信 とい った ことにあ り, またその 目指す ところは,贈 り物 としての独立を拒否 し実力に よっ 16)Nugroho,oP.cit.,p.25.なれ 大団長とスプリヤディは,伯父と甥の間柄であったといわれる。 17)同氏とのインクビ,.- (前述) 18)例えば,多 くの女学生が東京へ留学させるという名目で連れ去 られたが,現実にはスラバヤで娼婦にさ せ られたとい う。

4

1

(8)

て独立を奪取す ること, も しくは奪取すべ きことを示す こと, にあ った と考 え られ る。

ところで, この蜂起 の背後には何 らか の反 日地下運動 との政 治的なつ なが りが あ った のであ ろ うか。 これ に関 して ケー ヒン (Kahin)は ア ミル ・シ ャ リフデ ィソ (AmirSjarifuddin)を 中心 とす る反 目地 下抵 抗組織 に よるオル グ活動が あ った と述べ てい る019)彼に よれば, 日本軍 政 下 の主要 な四つ の反 目組織はいずれ も義勇軍- の浸透工 作を行 な っていたが,そ の うち ブ リ タルを含む東部 ジ ャワで活動 していた のが シ ャ リフデ ィソの グル ー プであ った とい う。 しか し なが らこの ことは,そ の他 の研究書 において も, あ るいは また関係者 の証言に よって も他 に傍 証 を得 る ことがで きない。 また ケー ヒソ自身 この情報源を 明示 してお らず, この説 はあ ま り信 愚性 がない もの と思われ る。 そ の他 の資料か ら知 り得 る限 りでは, この蜂起は特 に特定 の政治 色を持 った団体 との結 びつ きはなか った もの と思われ る。

2.

準備 会談 反乱が誰 に よって, いつ, どの よ うに発案 され, どの よ うな形 で具体化 したかは,首謀者 と 言われ てい る人 々が皆死亡 した り行方不 明 とな って しま った現在,深 く知 ることはで きない。 ただ参加者 の多 くの者 の証言をあわせ ると,一般 には第

3

中田の第

1

小団長 ス プ リヤデ ィが発 案者であ った と言われ てい る。 また ヌグロホほ,首謀者 として このほか に ム ラデ ィ(Moeradi)

小団長 (当時大 団副官), - リル (Halir)分 団長 (炊事係分 団長) お よび スナ ン ト(Soenant)

分団長 (第3中団 の指揮班長) の三人 の名を あげてい る。 スフ ッ ドに よれば最終 的な準備会議

に 出席 した のは, ス プ リヤデ ィ, ムラデ ィ, スバル ヨノの3小団長 とスナ ン ト分 団長であ った とい う。

スプ リヤデ ィは,1923年 トゥレンガ レック (Trenggalik)に,中級官吏 の息子 と して生 まれ た。祖 父は ケ ドゥソ ・ワル (KedungWaru)の副郡長, 父は ポ ノロ ゴ (Ponorogo)や ケル ト

ソノ(Kertosono)の郡長 (ウ ェダナ) を務 めた伝統的 な プ リヤ イの家 系で あ った。 スプ リヤデ ィは ポ ノロゴの ヨー ロ ッパ人小学校 (E.R.S)な らびに原住民中学校 (Mulo)を卒業 した のち, マゲラン (Magelang)の原住民 中堅官吏 養成学校 (M.0.S.V.I.A)に進 んだが,2年生 の時 日 本軍 の侵攻 とな り学校は閉鎖 され た。 当時 ケル トソノ (ブ リタル市 の北) の郡長 を していた 父 は親蘭派 とみ な され ,家は 日本軍 の命 令で民衆たちに破壊 され て しまったため,一家は財産 を 失 って逃 げ ま どった。やが て平和が確 立す る と共 に一 家は ケル トソノに もど り, 父 も再 び この 地 の郡長 としての職 を得た。M.0.S.

.Ⅰ.Aを中退 した ス プ リヤデ ィは,やが て ス ラバヤの工業 学 校 -進 んだが,在 学 中に抜 擢 され て 日本軍参謀部別班 の運 営す るタンゲ ラン青年道場 へ入 隊 した。 これ は イ ン ドネ シア人特殊要員養成 のため の機 関で あ ったが, ここでの訓練が完 了す

19)Kahin,George M..Nationalism and Revolutionin Indonesia(Ithaca:CornellUniversity Press,

(9)

白石 :ブリタル反日蜂起の史的考察 る頃,義勇軍が設立 され たため, ス プ リヤデ ィは他 の仲 間た ち と共 に 自動的に義 勇軍幹 部要 員 と して ボ ゴール錬成隊-送 られた。訓練終 了後小 団長に任官 し出身地 クデ ィリ州の ブ リタル大 団へ配属 された のであ る。BO) ス プ リヤデ ィは,面長 のほ っそ りした体格 で,無 口で物静か な性格 の青年 だ った。 非常 に神 秘 主義的で,子供 の頃か ら断食や冥想 にふけ る ことが多か った。 あ る時は 1時 間 も太陽 を見つ め ていた り, あ る日は果物ばか り食べ た りとい う変 わ った ところ もあ った。そ して感情 をあ ま り表 に出 さず 自制 心 の強 い人 で もあ った。21)彼 の神秘主義 的な人格 に まつわ る次 の よ うな話 も あ る。 小学校 の 2年生 の時,医師 も祈 薦師 も手 に負 えない よ うな大病にかか りどん どんやせ衰 え てい った。 高熱が

1

カ月ほ ど続 いた のち母を呼んで

,

「明朝僕 は病気が治 る。 夕方

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時 に青豆 のおかゆ と青 いバナナを用意 してほ しい」 と語 った。す る と彼 の言葉は本 当にな り翌

夕 5

時 ま でにはす っか り平熱 に もどって しまった。それ 以後 どん どん体 力が 回復 し 2カ月後には学校へ もどって きた。 のちに語 った ところに よれば, ス プ リヤデ ィは病気にな る前 に町 の広場(al un-alun)-行 き, ジ ャム (jamu)とい うジ ャワ伝 来 の 薬 を売 ってい る男に会 い 占って も らった ところ 「あなたはやが て病 気にな るがそ ののちに特 別な力 (wahyu)を得 るだろ う」 と言われ たそ うであ る。22) この よ うな物静かで隠 者 の よ うな神秘主義 的な雰 囲気 をた だ よわせ ていた ス プ リヤデ ィに対 して, ム ラデ ィ小 団長 とスバル ヨノ小団長は武人 (クシ ャ トリア) らしい剛健 さとエ ネルギ ッシ ュな性格 を持 っていた。23) ヌグロホに よれば24),反乱計画 のため の第1回秘 密会談 が開かれた のは,反乱 の五 カ月前 , 即 ち

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年 の

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月 の ことで あ った。会談 を主宰 した のは ムラデ ィ小 団長であ り,一方反乱 の筋 書 と動機 に関す る一般 的な手 引 きを与 えた のは スプ リヤデ ィ小 団長であ った。 この会議 に出席 していた のは, この2人 のほか に4人 の小 団長 と6人 の分団長計12人 であ った。25)会談 が行 な 20)スプリヤディ小団長の母スス リ (Susulih)とのインタビュ- (1973年2月,ブt)タルにて)。 21)スカソ'/ルとのインタビュー (前述)な らびにSoehoed,OPICii.,pp・142T1431 22)スプリヤディの母とのインタビュー (前述)0 23)SoehoedoP.cii・,pp・142-143・ 24)以下,反乱の準備過程に関 して,特に断 りがない限 り,Nugroho,oP・cii・,pp・20-29による。 25)その12名の氏名と階級,な らびのちに下された判決は,次のとお りである。 スプリヤデ ィ (Soeprijadi) ムラディ (Moeradi) ス-アイ (Soehadhi) スマルディ (Soemardi) パル ト-ルジョヨ (Partohardjono) スキャット (Soekijat) 小団長 (第3中団) 行方不 明 小団長 (大団副官 ) 死刑 小団長 (兵 器 係.) 7年 小団長 (経 理 係二) 15年 小団長 (物 品 係) 15年 小団長 (第3「回司) 離脱 スヨノ・ラノ、ルジョ(SoejonoRahardjo)分団長 10年 スナント (Soenanto) ク 死刑 - リル (Halir) /y ソッフアン (Sofchan) ク スカユニ (Soekaeni) // タルムジ (Tarmoedji) ク 年 午 年 7 7 7

(10)

われた のは,義勇軍兵舎 内の- リル分 団長 の部屋で あ り,裏 の憲兵隊か らわずか

1

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しか離 れ ていなか った。 スプ リヤデ ィは会談 のは じめに 「ここに 出席 してい る者 は皆平等で階級 の差 はない」 と述べ て全 員に階級章 をはずす ことを求めた。 ス プ リヤデ ィは,市 外- 出て労務者た ち と共 に働 いた時,多 くの人 々が 日本の圧迫 の もとに非常 な苦 しみを受け てい るのを見ていか に怒 りに燃 えたかを 出席者 に思 い起 こさせた のち, 日本軍 に対 して反乱 を起 こす とすれば賛成 す るか否か をたず ねた。直 ちに全 員が賛成 を表 明 した。 この 日の話 し合 いの結果,最後に次 の よ うな ことが決定 され た。

1.

ブ リタル市 の一般市民 の中か ら協 力者 を探 し求め,彼 らと接 触を深め る。

2.

他 の大 団に も同時蜂 起を働 きかけ る。 3.反乱 の 目標 お よび計画につ いて,それ ぞれ の部下たちに説 明す る。 第

2

回 目の会談 が開かれた のは,それか ら二 カ月後 の

,1

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1

1月中旬 の ことで あ った。場 所は 同 じく- リルの部鼠で あ る。 前 回 の会談 以後 の各 自の活動報告が行 なわれたが,それを上 記 の決議 に則 して要約す る とお よそ 次 の よ うで あ った。

1.

先ず ブ リタル市民 との提 携に関 しては まだ何 ら可能性は見 出 され ていない。

2.

い くつか の大 田 との連絡 はすでに と られた.26) 3.同僚 や部下た ちは大 部分 が参 加す る見込みが あ る。

また マ ラン(ブ リタルの東)ではす でに

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(反 イ ン ドネシア独立

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とい う地下抵抗組織が作 られた とい うこ とが報 告 された。 第

3

回 目の会談 は

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1

月中旬に,大 田全部が, トゥバ ン

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北部海岸)- 出発す るために ブ リタルに再結 集 した時 に開かれた。 ここでは, トゥバ ンで合 同訓練を受け る予定 の 他 の

1

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個大 田を誘 って-勢 に蜂起す る計画が練 られた。 そ の計画に よれば, ブ リタルに残留 し てい る一 部 の者 が,蜂 起発生 と同時に大団 の武器 をすべ て マデ ィウ

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へ運ぶ こと にな っていた。 トゥバ ン-は

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日に 出発 した。 トゥノミソ- 向か う車 中で, ス ヨノ ・ラ-ル ジ ョ

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は秘 密会談 の全参 加者 に弾薬 を分配 した。 ところが, トゥバ ンに着 くと他 の大 同は きてお らず,突然合 同訓練が中止 され,1週間後に全 員 ブ リタルへ もどるよ う に命ぜ られた。 おそ ら く日本 側が,義勇兵た ちの何 らか の動 きを察知 して,- カ所 に多 くの兵 力を集結 させ てお くこ との 危険性 を 感 じたた めであ った らしい。 か くして, -勢蜂起はおろ か,他 の大 田 と連絡 をつけ る機 会 さえ失われ て しまった のであ った。

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1

[=こな って,第

4

回 日の秘密会談 が行 なわれた。 この席上 ス プ リヤデ ィは,す でに計 画が憲兵隊 に知 られ てい るか らとの理 由でそ の夜す ぐに蜂 起す ることを主張 した。 しか し他 の 者た ちは,長 い旅 か ら帰 ったばか りで部下た ちは まだ疲れ てい るか らと言 って反対 した。 26)ヌグロホほ次の地方の大開の名をあげているO トゥルソガグソ, クディリ,マラン,ルマジャン,マディウソ, スラバヤ (以上東部ジャワ), ジョ クジャカルタ(中部ジャワ),ジャカルタ,タンゲラン,バンドゥソ (以上西部ジャワ)

(11)

白石 :ブリタ/レ反日蜂起の史的考察 そ の後

2

5

日に,隣接 の トゥル ソガ グソ大 団

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Tul

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- クデ ィリ第

1

大 団) との 間で小団長 の柔剣術 の合 同訓練が行 なわれ ることに な り, ブ リタルの小団長た ちは トウル ンガ グ ン-お もむ いた。訓練が終わ って休 憩 していた時,両大団の一部 の小団長の間で蜂 起に関す る話 し合 いが持 たれ た。そ o)中で ブ リタル の小団長は,蜂 起 の計画 を述べ, い ったん開始 した な ら直 ちに トゥル ソガグ ン-連絡員を送 る ことを 申 し合 わせ た。27' そ の後2月9日に, 第5回 目の会談が もたれ た。 ス プ リヤデ ィは, 再度蜂起 を決行す る こ とを促 したが, まだ他 の大 団か ら共 闘 の具体的 な連絡が きていない との理 由で 再 び 拒 否 され た。 なお この時,義 勇兵た ちが師 と仰 いでいた バ ・ベ ン ド

(

MbakBendo)

とい う予言者が蜂 起には まだ時期が早 い と忠告 した こと も影響 してい ると考 え られ る。 また, この頃 までにほ, プ リタルの民間 の有 力者 た ち との間に も蜂 起に関 してか な り連絡が とれ ていた よ うであ る。 例 えば, ブ リタル師範学校 の学生 リーダー, スマ リ

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らを初め とす る青年 た ち と連絡 が とれ た。28'また,元 ブ リタル県長 プ リアムボ ド

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, スカル ノの義 兄で戦前 国民 党 党員 であ った ワル ドヨ

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, ブ リタル 市 参 議 会 議 長 アブ ドゥル ・ワシス

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, 中国人 医師 タ ン

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な ども蜂 起計画を うちあげ られ賛意 を表 していたが, ま だ時 期 尚早 とい うのが一般 的意見 であ った。 タ ン夫人 が ドイ ツ人 であ った ため 日本軍 の信頼 も あつ く,それ をか くれみ のに して,禁止 され ていた海外放送 を聴取 していたので義 勇軍 の将兵 たちに も正確 な戦況が伝わ って きた。 それ に よれば, 日本軍 は苦戦 を重ね てお り,彼 らは

4

- 5

月頃には ジ ャワに も連合軍 の大規模 な空襲が開始 され るであろ うか ら,そ の時期 をみほか らって蜂 起す るのが最 も有 効であ る」 と考 えていた。29) また この頃 日本軍 が反 目的 パモ ン ・プ ラジ ャ

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の ブラ ック リス トを作 り殺害 を予定 してい るとい う噂 があ り, パモ ン ・プラジ ャの問に恐怖 を よび起 こ していた.30) そ の よ うな中で, 2月11日午 後大団内で次の よ うな事件が あ った。午 後 3時頃指導下士官 田 中伍 長が飲酒 して刀をふ りか ざ して大 田 内であばれ , 「スプ リヤデ ィは どこだ。 あいつ は反乱 を起 こ し日本人 を皆殺 しにす ると言 ってい る。 悪 い奴 だ。殺 してや る。」 な どとわめ きだ した。 田中伍長は憲兵隊か ら蜂 起計 画を知 らされ ていたのであ った。居 あわせ た スカ ソダル中団長が, サ ッカー場 で訓 練 中の スプ リヤデ ィの もと-かけつけ事件 を知 らせ,危険 だか ら大団- もどら ず どこかへ逃 げ るよ うに と助 言 した。 ス プ リヤデ ィは これに従 い,そ の まま姿 を消 して しまっ た。 この間 ス プ リヤデ ィは, これ までに もたびたび彼 らに影響 を与 えて きた バ ・ベ ン ドの もと 27)Idris,op.cit.,pp.35-36. 28)Zbid.p.34. 29)Zbid.p.37. 30)Zbid.p.80. 東部ジャワだけで,1942-45年までの間に,県艮 10名,郡長 4名,副郡長 8名,その他多数のパモ ソ・プラジャが 日本軍によって殺された。その中には,オランダ時代最後のブリタル県長であったプ リアムボ ド(Prihanlbodo)もいる。 545

(12)

へ助言を乞 いに行 っていた のであ った。31) 一万大 田では,大 団長や岩 淵少尉 らが 田中伍長を と りな し,事件 は一応解決 していた。 しか しこの事 件後,突然岩淵 少尉か ら,訓練に必 要な一部 の武器 を除 いてあ とはすべ て スラバ ヤ-送 り返 し, また各中田を再び市外-ヤ-送 り出 して分散 させ る とい う計画が伝 え られた。 また

1

3

日 朝, 教育 中団長 スカソダルは通 訳 として岩 淵指導官に同 行 して警 察- 出 頭 させ られた。 そ の 時,参 議 会 議 長 の アブ ドゥル ・ワシスも警 察-呼ばれ ていた。 彼は,かつ て イスマイル中 団 長か ら蜂 起計画を打 ちあけ られ援助 を求 め られ ていたのであ るが, 警察 に追求 され て 口を割 っ て しまった。 もっとも警察 のほ うは,それ 以前 に事実 をつかんでお り, アブ ドゥル ・ワシスに はただそれ に対す る確 証を求めただけであ った といわれ る。32) スプ リヤデ ィは

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3

日夜 にな って突然大 田-戻 って来 た。 軍 服をぬ ぎ,半袖 の うす茶 の シ ャツ に濃赤 のサ ロンとい う姿 であ った。腰 には先祖伝来 の ク リス(短剣)を さ し,左手には軍刀を, 右手 には ピス トルをに ぎっていた。彼は仲間た ちを集め, そ の夜 の うちに直 ちに蜂起を決行す ることを提案 した。 「計画が もれ て しまった以上 間 もな く憲兵隊 の手 が のびて くるであろ う。 憲兵隊にむ ざむ ざ殺 され る くらいな ら,蜂起を決行 したほ うが良い

」 また

,

「他 の大 団 との連 絡 は まだ とれ ていないが,ブ リタルが立 ちあがれば彼 らもあ とに続 くだ ろ う。」とい う判断に よ るものであ った。仲 間たち も今 回は スプ リヤデ ィの意見に賛 成 した。 か くして,い よい よ1945 年2

14日午前3時, ブ リタル大 団 の反 日武 力蜂起が点火 されたのであ る。

3.

蜂 起 蜂起は,1945年2月14日午前3時,迫撃砲 発射を合 図に,そ の火ぶ たを切 った。それに先 だ って, ス プ リヤデ ィは住 民 の問で パ ニ ック状態が起 こるのを避け るために電話局-行 き, ブ リ タル県長 サ マデ ィクン

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と,ブ リタル市長 モホ タル ・プラブ ・マ ンクネ ゴロ

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と警察に電話をかけ, 大 田は これか ら実弾 を使 っての訓練を行 な うので,住民は静かに家 の中に留 まってい る よ うに と伝 えた。 この間 , ス-デ ィ

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お よび ス ヨ ノ ・ラ-ル ジ ョ分 団長 が,兵器庫か らと りだ した武器 を各小団に分配 した。 さ らに 眠 っていた義 勇兵たちに非常呼集 がかけ られ,着衣 して整列す るよ う命 じられた。そ して,集 まった義 勇兵たちを前 に して, ス プ リヤ デ ィとムラデ ィが反乱計画を説 明 し,訓示を与 えた。 参 加 した くない者 はぬけて も良い と説 明 され ると,何人か の兵士 はそ の言葉に従 った。 さ らに この時,二つ の重要 な命令が与 え られ た。そ の一つは, 同胞には決 して銃を 向け てはな らない とい うこと, も う一つ は, 出会 った 日本人 をすべ て殺せ とい うことであ った。 そ の よ うに準備 が整 ってか ら,迫撃砲 の発射 に よって攻 撃が開始 され るまで全 員はい った ん 31)スカソダル中団良とのインタビュー

(

前述)0 32)同上

(13)

白石 :ブリグル反日蜂起の史的考察

休息を命ぜ ら九 ,装備 をつけた まま仮眠 を とった。兵舎外 の 自宅 で眠 っていた パル ト-ル ジ ョ

(Partohardjo)小団長は,迫撃砲 の音 を聞 いてただちにかけつけ, 自宅 に保存 してあ った紅 白

旗 (民族旗 )を大 団前 の広場 に掲揚 した。か くして準備 は整 い,反乱 の幕 は切 って落 とされ た

のであ った。33)

迫撃砲 の合 図に続 いて, まず, クス ニ(Koesni), トゥヌス(Toenoes)両分団長が,大 団に 隣接 した指導 官邸 と,裏手 の憲兵隊 を重機関銃 で攻撃 した。 しか し,指導官はた また ま不在, また憲兵隊 は事前 に危険を察 して逃 げ ていたので,双方 とも被害 はなか った。34) それ に続 いて,プジ(Poedji),ア ミン(Amin)両分団長に率 い られ た部隊 が市 内- く り出 し, 電話局, 日本人経 営 の ホテル, 日本人 警察官官舎 な どを襲撃 した。電話局 では電話線 を切断 し て通信 を不可能 に した。 この間,姿を現 わ した 日本人電話局長 を射殺 した。 また,警察官官舎 ではかね てか ら彼 らの ブラ ック ・リス トに の っていた 日本人 警察官 片岡を 自宅 に襲 い射殺 した。 ホテルでは 日本人経 営者 を負傷 させ た。35) ム ラデ ィに率 い られた他 の一隊 は, 日本人が しば しば 出入 り していた混血 女性 の家を襲 い, そ こで 日本人 2名 とそ の女性 を射殺 した。 つ いで親 日的 な 華僑責 了良一家 を襲 って 家人 数人 を戸外-連れ 出 して殺害 した り負傷 させ たのち, さ らに路上 で 出会 った華僑男性1名を射殺 し た。86) しか るのちに ブ リタル刑務所 を襲 い,監守 に全政治犯 を釈放 す るよ う命 じた。 しか し誤 解が生 じて刑事 犯 まで合計

2

5

8

人 が釈放 され て しまった。 この時, 中国人 の囚人 は残 され た と い う。37)この ことは,上述 の中国人殺害 と共 に,彼 らの民 族意識 の性格 を理 解す る上 で注 目に 値す るだろ う。 彼 らは さらにそ のあ と,釈-行 って汽車 の運行 を妨害 して市 内での活動 を終 了 した。一方 スカ ソダル中団長 らは,倉庫 を解放 して中の物 資を ブ リタルの人 民 に分け与 えた。 このために彼は のちに 日本側 か ら共 産主義者 だ と疑 われ た とい う。38) と ころで, この突然 の 蜂 起開始 に 日本側 は どの よ うに応対 したのであろ うか。 ブ リタル大 団では, この夜専 任指導官岩 淵少尉 は大 団長宅 を訪れ ていて不在, また木村 少尉 は ス ラバヤ-行 っていて留守 であ った。39)事件 の報告 は,残 っていた指導官 た ちに よって, まず マ ラ ン-知 らされ, マ ランの州庁関係者 の手 で直 ちに東部防衛隊40)-報告 され た。 当時,東部防衛 隊配下 33)Nugroho,oP.cit.,pp.30-31. 34)Zbid.pp.30-31. 35)Ibid.p.44.ならびに元義勇軍指導部将校山崎一中尉の筆者あて書簡 (1975年 7月19目付)。 なお,山崎中尉は,のちの

律会議において判士をつとめた。 36)Ll順 一の書簡ならびに当時ブリタルに住んでいた-中国人女性

(

匿名希望)とのインタビュ-(1974年 2月,マランにて)0

37)AsiaRaya(インドネシア語 日刊紙)1945年6月3日付ならびにNugroho,oP.cit.,p.45. 38)スカンダル中団長とのインタビュー (前述)0

39)山崎-の書簡 (前述)0

40)当時ジャワの日本軍は16軍の指揮下に,東都,中部,西部の三地区防衛隊を設置していた。東部防衛隊

は,スラバヤに司令部を置き,第28混成旅団を基幹としていた。

(14)

の 日本軍 部隊 はすべ て中部 ジ ャワの スマ ラ ンで の合 同演 習に参 加 してお り不 在 であ った。14日 朝 ブ 1)タル大 田が蜂 起 した とい う報 を うけた のち, マ ラ ン大隊 (隊 長 片桐 寿大佐)41)は直 ちに クデ ィリ- も どるよ う命 じられ た。 彼 らは クデ ィリを根拠 地 と してそれ 以後反 乱軍 の討 伐 に当 た る ことに な った。 しか しこの時弾 薬 はい っさい 与え られ なか -)た とい う。42) 一 万 ジ ャカル タでは,軍 司令部 は東 部防衛隊 長岩部 少将 か らの報 告 で事件 を 知 り, ただちに 義 勇軍 指導 部 に連絡 を とって,馬杉 情報参 謀 と山崎 -大尉 (義 勇軍指導 部) を空 路 マデ ィウ ソ - 出発 させ ,そ こか らさ らに車 で現 地 - 向かわ せ た。 そ の後遅れ て15日に,義 勇軍 司令部 か ら 苗木竜夫, 井上常三 両 嘱託 とモ ゴ ッ ト小 団 長,軍 政監 部か ら宣伝部 の清 水斉 がかけつけた。43) ところで,蜂 起軍 の動 きに眼 を転 じてみ ると, このあ と彼 らは

4

隊 に分 かれ, ブ リタルか ら それ ぞれ東 西 南北 の進 路 を とって ケル ッ ト山めがけ て進 軍 した。 当初 の計画 では,蜂 起軍 を三 分 し, マ ラ ソ, パ レ, ジ ョクジ ャカル タを指 して進 み現地 の大 田 を一 緒 に立 ちあが るよ う勧請 す る予定 であ ったが, 準備不足 のため, この長距離 の進軍 は中止 され た。代わ りに, ケル ッ ト 山中に集結 して, そ こで抗戦 しつ つ他 の大 団 の蜂 起を待 と うと考 えた のであ る。 これ 以後 の蜂 起軍 各部隊 の動 きはほ ぼ次 の よ うであ った044) <北方 部隊> 北方部隊 は,第3中田 の第2小 団長 スナル ジ ョの指揮 下 にあ り,大 部分 は彼 自身 の小団 の兵 か ら成 っていた。そ の数 は30-40名で あ った と思われ る。 この部隊 に は最初 ス プ リヤデ ィも加 わ っていた。 しか し北方 部隊 が ブ リタル市 の北方 の ク レンチ ェソ村 まで来 た時, スプ リヤデ ィ は スナ ン ト分 団長 の指揮 下 にあ る東方 部隊 に会 うため ガ ン ドゥサ リ-行 きたい と述べ,二人 の 親衛隊 員 を連れ て本隊 を離れ た のであ る。 そ してそれ 以後 今 日に至 るまで行方不 明に な ってい る。 ク レンチ ェソ村 で ス プ リヤデ ィと別れ て後 本隊 は夜 明け頃 キ アイ ・- ジ ・ガブ ドゥラ- ・シ ラ ッ ド(KjahiHajiNgabdullahSirad)の経 営す る同村 内の回教学 校 に入 った。 彼 らは この 日一 日こ こに留 ま って休息 した後 , 夕方6時 頃 ガル ム(Garum)を 目指 して出発 した。 出発前 に キ アイ ・- ジ ・ガ ブ ドゥラー ・シ ラ ッ ドは兵士達 を祝 福 した。

部隊 はそ の後 カ ラ ン レジ ョ(Karangrejo)か らカ ランタ フソ(Karangtahun)を経 て グ レゴ ッグ

41) この大隊は,東部防衛隊指揮下の独立歩兵第156大隊で,マラン, クディリ両州がその管轄地域であっ た。 この指揮下にてラン市に3個中隊, クデ ィリ市に1個 中隊,ルマジャンに1個中隊が配属されてい た。なお,ブリタル

内には,憲兵隊以外の日本軍は配置されていなかった。 42)元片桐大隊下の駐マラン中隊長松田恒男大尉 とのインタビュ- (1975年 7月,東京にて)。 43)山崎- の書簡。 44)蜂起の経過に関 しては, ヌグロホと,スフッドの著作の問に食い違いが見 られるが,本稿においてほ, 特に断 りのない限 り, ヌグロ,1-1の説に従って記述し,スフッドの記述は必要に応 じて参照するにとどめ たoそれは, ヌグロJl二の研究は,スフッドの記述をふまえた上でさらに他の多数の関係者に直接面会 し て得たデータに基づいてまとめ られたものであ り,より信愚性があると考えられるか らである。

(15)

白石 :ブ リゲル反 日蜂起の史的考察

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-着 いたが,ここで もまた,回教指導者 キ アイ・- ジ・ム- マ ッ ド・ホ リ

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)の手厚い保護 と援助 を受け一夜 を ここで過 ごした045)そ して翌15日の朝,指 揮者 の スナル ジ ョ小団長は部下を集めて, 自分たちは既に トゥル ソガグンの義勇軍 に よって包 れ ていることを伝 えた。 イ ン ドネシア人 同胞には決 して銃 を向けてはな らない とい う指示を受 け ていたので,彼 らは この義 勇軍に も抵抗 しない ことを決め,部下たちに一人一人逃 げ るよ う に命 じた。その命令に従 って部隊 は解散 し,義勇兵 たちは制服 を脱 ぎ武器 を捨 て,い くつかの小 グル ー プに分かれ て散 ってい った。 しか し大部分の者はその 日の うちに捕 え られた。 自分の村 へ帰 りついた者 もいたが,彼 らも後 日,上官であ るチ プ ト-ル ソノ中団長に よって捕 え られた。 こ うして全 く交戦せぬ うちに北方部隊は,あ っけ ない終局を迎 えたのであ る。 く東方部隊> 東方部隊は スナ ン ト分団長の指揮下 に第3申団の二つの小団 を主た る戦力 と していた。そ の 他に大団本部所属の将校が

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人 (中団長

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人,小団長

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人) とスカル デ ィ

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i)に率 い ら れた

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分団 (第

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申開第

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分団)が加わ ってお り,全体で約

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名を擁 していた。小団 長や 中団長を さ しおいて 分団長た るスナ ン トが この部隊 の指揮権 を 振 った とい うことは, こ の反乱軍 の性質 を知 る上で興味深い ことであ る。 即 ち第1回 目の秘密準備会談で スプ リヤデ ィ が 「我 々は皆平等であ る」 と言 って各 自階級章をはず したそ の精神が, この よ うな ところに生 か され てい る。 ここでは, 日本軍に よって作 られ与 え られた階級 な ど全 く意味を持 っていなか った。ただ人望 と指導力があ りさえすればそれ で充分 "人民軍 "の長 として活躍 し得 たのであ った 。 ところで, この東方部隊 の出発に際 して一つ のエ ピソー ドが あ る。 兵舎 の前 で指揮者 の スナ ン ト分団長は 「イ ン ドネシ アは独立す るであろ う。

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」 と書かれた ポス ターを引 き降す よ うに命 じた。 そ して

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(∼であろ う)" と書かれ た部分を短剣で引 き裂 いて 「イ ン ドネシアは独立す る

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」 と改めた後に再 び掲 げ るよ うに命 じた。 これは象徴的な出来事 であ る。 「イ ン ドネシアは独立す るであろ う」 とい う未来形で書 かれた初めのポス ターは即 ち 日本製の "後 日の独立"を意味 してい る。それ を 「イ ン ドネシア は独立す る」 とい う現在形に直 した ことに よって 日本製 の独立 を拒否 し,今 ここで 自分 たち 自 らの手に よって独立を勝 ち取 るのだ とい う強 い意気込みを表わ したのであ る。 この事実か らも この蜂起が単な る抵抗 ではな く, "イ ン ドネシアの独立"を展望 していた とい うことが うかが え るのであ る。 か くして東方 部隊 は出発 し,ほ どな くガル

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に着 いて この地 の砂糖工場 で休息 し 45)蜂起軍を授けた二人の回教指導者は,後 日,日本軍憲兵隊か ら厳しい取 り調べを受けた。ガブ ドゥラー ・シラッドは逮捕され,後獄死した。ム-マッドのほ うは捕えられて苛酷な尋問を受けたが,運良く釈 放された。 549

(16)

た。 彼 らは指令通 りに この工場 内の 日本人 を探 したが, 工場 の建物は どれ も無人 だ った。 工 場 の事務所 を破壊 した後, 彼 らは再 び 出発 し, ベ ンチ ェ (Bence)千, 前方か ら車 でや って来 た 日本人民 間人 に 出会 い これ を射殺 した。 ベ ンチ ェを通過す ると,夜が 明け て きた ので危険 を 感 じて裏道-入 り, ス ンベル アグソ(Sumberagung)を 目指 して進軍 した。途 中 ケ ンダル レジ ョ (Kendalrejo)ゴム農 園で事務所 をか き回 してい った。 午後2時 に ス ソベル ア グン-着 いた時, 日本軍が空襲 をかけて きた。 しか し彼 らは ともか く 休息 し,村 長をは じめ とす る村 民た ちか ら食物 を与 え られ た。 しか し間 もな く,前方か らブ リタル大 田第3中団のチ プ ト-ル ソノ中団長を長 とす る義 勇軍 がや って来 た。彼 らは反乱軍 を大 田 まで連れ戻す よ うに との命令 を受け てや って来 たのであ っ た。初め この軍隊 を見た時, イ スマ ンギル (Ismangil)中団長は発砲す るよ うに と主張 したが 他 の将校た ちがそれを許 さなか った と言われ てい る。 同胞 には銃を 向け るな とい う最初 の指令 を あ くまで忠実に守 り通そ うとした のであ る。 や って来 た チ プ ト-ル ソノ

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j団長は部下 たちを 集めて訓示 を垂れ,彼 らを降伏 させ て ブ リタルに連れ戻す ことに成功 した。 か くして,東方部隊 の進軍 も,一度 も交戦せ ぬ うちに終息 して しまった のであ る。 <南方部隊> 大 団本部要員に よって構 成 され ていた南方部隊 は, さ らにこっ の グル ー プに分かれ,終始行 動 を別に した。大 きいほ うの グル ー プは ダス リップ (Dasrip)小団長 (大 団旗係) とイ マ ン ・ バ ク リ (ImanBakri)分団長 の指揮下 にあ り,彼 らは大 田を 出てか らガ プラン(Gaprang)を 通過 し, さ らに ドゴソ (Dogong)に て ブラ ンタス川を渡 った ところで夜が 明けた。 そ こでべ テ ッ ト(Betet)山に登 り宿営を した。 この朝,頭上には多数 の飛行機が低空飛行を続 けていた。 彼 らは この山にい った ん落 ちつ き, ここか ら麓 の ロ ドヨの郡長兼警察官 と連絡を とった。郡長 は彼 らに食物を提供 して くれた。 日が暮 れ てか ら彼 らは ロ ドヨ- 向か って下 山 し始 めた。そ の 途 中,酉 の方か らクデ ィリ大 団の義 勇軍 がや って くるのに 出会 った。そ の クデ ィリ軍 の中か ら "竹 山" とい う日本人 指導官が 出て きた ので,反乱軍 は当初 の指令通 り発砲 した。 しか し不運 な ことに,それ は クデ ィリの義 勇兵に当た って しまった。 クデ ィリ軍 は反撃 して きた ので,反 乱軍 は退 散 し,そ の夜 は ブロ ン ドソ (Glondon)橋付近に泊 った。 この時逃亡 した兵が何人か お り,そ の中には何 と指揮者 の ダス リップ小 団長 も入 っていた。翌

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日に,彼 らは ロ ドヨ経 由 で ブ リタル大 団か ら,全員ただ ちに帰 るよ うに との電話命令を受けた。 バ ク リ(Bakri)分 団長 は大 団長 自 らの命令 でなければ帰 らない と答 えた。 後に再 び電話があ り, また同 じ返事 が くり 返 された。す るとしば らくして本 当に彼 らの大団長 スラ フマ ッ トが, チ プ ト-ル ソノ中団長を 伴 ってや って きた ので あ る。 大 団長 は,反乱軍全 員に向か ってす ぐ大 団- もどるよ うに と命令 した後, ジ ャワ語 でバ ク リ分 団長に次 の よ うに言 った。 「父親一人を大 田に残 しておいて,お

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白石 :ブ リタル反 日蜂起 の史的考察 前 は何 とい う子供 だ。 日本 は まだ強 いか ら反 乱 は うま くゆ くまい

拒否 した者 も何人か いた が,大部分 は大 団長 の命令 に従 って ブ リタルへ帰 ってい った。彼 らは,大 団長 の背後 に 日本 の 力が存在 してい ることを忘 れ ていたのであ る。 一万, も う一 つ の グル ー プは タル ムジ

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に率 い られ て進軍 し, グロソ ドン

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橋 を渡 って ロ ドヨで一夜 を過 ご した。 そ して翌 15日はバチ ェム

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を経 てセ ラ ンを 目指 し,途 中 クラタ ック

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川で夜を 明か した

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日に ジ ャル ワデ ィ

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分 団長が訪ね て きて, 「反 乱 は成功 しない。他 の大 団 は共鳴す る どころか ,む しろ君 た ちを包 囲 Lに きてい る」 と伝 えた。か くして,砲 火を交 え ることもな く

,

南方部隊 も大 団-連れ戻 さ れ た のであ った。 く西方部隊 > 西方部隊 は, 計画 の当初か ら中心的役割を果 た していた ム ラデ ィ (大 団副官), スバル ヨノ (第2申団第1小団), S・ジ ョノ (第1中団第3小団) の三人 の小団長に よ って率 い られ,

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人 を擁す る大 部隊 であ った。 この部隊 は,前述 した よ うに, まず市内各所 を襲撃 したのち, 北方 に進路を とって ガ ンチ ャル

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の森 に集結 した。 進軍 の途 中各地 で, 日本軍 の連 絡 を妨 げ るため電線 を切 った。 また農 園を通過す る際 には 日本人 を探 したが も う全部逃 げた後 だ った。 ガ ンチ ャンの森 で野営 したが, ち ょうど雨季 だ ったため,部隊 はず ぶぬれ にな り寒 さ に震 えていた。 日本軍 は,他 の部隊 に対 して試みた の と同 じよ うに,最初,大 団の上官 (- ッサ ソナ ワウイ中 団長)を使 っての連れ戻 しを計 ったが失 敗 した。派遣 され た - ッサ ンナ ワウイ中団長 は,反対 に部下達 に よって抑留 され て しまったのであ る。 そ こで, ジャカル タか ら

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日にか けつ け て き ていた宣伝部 の清水斉が,義 勇軍 た ちの信頼 の厚 い バ ・ベ ン ドの もとをたずね,仲 介を依頼 し た。 しか しバ ・ベ ン ドは, 「ム ラデ ィは まちが っていない。 まちが ってい るのはあ なた方 日本 人 のほ うだ」 と言 って清水 の要求を聞 き入れ よ うと しなか った という 。 日本側は さ らに防衛義 勇軍 特設遊撃隊 や ジ ャカル タの義 勇軍指導部か ら何人 か の義 勇軍将校 を工作 に派遣 した。そ の 中には タ ンゲ ラ ン道場 で ス プ リヤデ ィと同期 だ った スチ プ ト

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申団長や ダー ソ ・モ ゴ ッ ト

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t)小団長 もいた。46) か くして, あ らゆ る打診 を重ね た後に, 農 園の責 任者 を していた プル ウ ォス ダル モ

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の餐 で, ム ラデ ィと片桐大佐 の間に会 談が行 なわれ る ことにな った。(ス フ ッ ド に よれば, ムラデ ィと清水,依 田准尉 との間に会談が行 なわれ ,そ の と りきめを後に片桐が承 認 した ことにな ってい る)。 この会談には, 他 に

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・ジ ョノ,バ ・ベ ン ド,遊撃隊 の二人 の小 46)柳川宗成 『陸軍諜報員柳川中尉』 (サンケイ新聞社,1967)178pp.ならびに山崎-の書簡。 551

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団長お よび ブ リタル大 田 のかつ ての指導下士官 であ った橋 爪が同席 していた。 大 田-帰還す る条件 として ムラデ ィが提 出 した条項 は次 の よ うであ った。 1.反乱参 加者を武装解除 しない。

2.

反乱軍に対 して責任 の追求は しない。 ヌグロホは, これ 以外 の条件は明 らか では ない と述べ てい るが, ス フ ッ ドに よれば さらに次の 3ヵ条が追 加 され てい る。 3.す でに とられた行為 の結果生 じた損害 は賠償す る必要がない。

4.

日本人指揮 官の義 勇軍兵士に対す る待遇 を改善す る。

5.

未解決にな ってい る "旗 " の件を満足 のい くよ うな方法で解決す る(大団長 の乗物には, 日本軍 の将校 としての地位 を示す大同旗 を使 用す る ことが定 め られ ていたが,そ の実施 は 日本軍 の妨害 に よって遅れ ていた)0 片桐大佐 はすべ ての条件 を受け入れ,約束 を守 る印 として 自分 の剣 を ムラデ ィに渡 した。か く して合意が成立 した ので,西方部隊 は 2月28日,武器 を手 に した まま トラ ックで ブ リタル ま で送還 され, ブ リタル反乱 は ここにそ のすべ ての幕 を閉 じたのであ った。蜂起開始級,2週間 目の ことであ った。47) 事件 の解 決に当た って特徴的だ った こ とは, 日本軍 は一度 も直接前 面に出ず に,義 勇軍,兵 棉,特別警察隊 な どの イ ソ ドネ シア兵 を前 面に 出 して威嚇 した こと, また直接 的 な武 力行使 を 避け,大 田 の上官な ど彼 らに対 して影響力を もってい る人 々に よる説 得工作を主 に した ことな どであ る。 皮 肉な ことに, ブ リタルの将兵が蜂起の際 の同志 として期待 していた クデ ィリや ト ゥル ソガ グソの義 勇軍 が反対 に反乱鎮圧 のた めにか り出 され たのであ った。彼 らは,連合軍が 上陸 した ので直 ちに行動 を開始す るよ うに と言われ, だ まされ て出動 させ られ た のであ る。48) 蜂起軍 は, イ ン ドネ シア人 に対 しては抵抗 しないであろ う, とい う弱点 を 日本側 は見ぬいてい た のであ った。 ところで, この蜂起に参 加 した のは大 田総 勢

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名の うち

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名の将兵 であ った。49)不参加 の 約

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名の うち大部分 は スヤ トモ申団長指揮下 の第

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中田の兵士 であ る。 その他 の不参加者 の 大 部分は大 団長や 中団長 な どよ り上級 の将校 たちであ る。50)原則 として中団長以上は蜂起に勧 誘 されず ,蜂起の主導権 を握 った のは若手 の小団長,分 団長 クラスであ った。それは第一 に, 47)しかし,この後も憲兵隊は拡声器をもって 「インドネシア ・ラヤ」の音楽を流 しなが ら,まだ森の中に 潜んでいると思われる残兵の捜査を続けた。 48)Idris,oP.citリpp.4ト42.しかしなが ら,山崎-は,蜂起鎮圧に義勇軍を使用した事実はなかったと述 べている。

49)AsiaRaya,1945年 6月3日付。

50)蜂起開始当初,スプリヤディらが,親 日的だと見なしていた大団長や中団長の家におもむき,銃をつき

つけて殺そ うとした,ともいわれている。スカソダル中ト日兵も,銃をつきつけられたが,部下が立ち上

がった以上自分はじっとしていられない,とい う判断か ら蜂起に参加したという (スカソダルとのイン

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白石 :プ リタル反 日蜂起 の史的考察 上 官た ちは一般 に熱意が少 ない と判断 され たか らであ り, また第二 に,彼 らは兵舎 の外 に住ん でいたので小 団長以下 の者 たち との結 びつ きが うす か ったか らであ る。 この ことは, の ちの

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年革命 の中で果 たす いわゆ る新世代 の役割 と重ねあわせ てみ ると興味深 い。51)

4.

軍 律 会 議 日本軍 の巧 み な処理 に よって, ブ リタル蜂 起の火の手は ジ ャワ各地 に燃 え広が ることな くし て鋲圧 され た。 そ して事 態終息後,直 ちに ジ ャカル タか ら憲兵隊が派遣 され事実 の徹底 調査が 行 なわれ た。片桐大佐 との会談 に よって,「反乱軍 の責任追求は しない」とい う合意に達 した西 方部隊 に対 して もこれ は例外 では なか った。厳 しい拷問 を ま じえた調査 の結果,

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日に容 疑者が ジ ャカル タへ送 られ,その うち68名 (軍 発表 )に対 して5月 1日か ら8回にわた る軍律 会議が開かれ た。52)彼 らには 日本軍刑法が適用 され ることにな り,義 勇軍指導部長吉本大佐が 判士 長,同指導 部員山崎 大尉 と法務官木 田大尉が判士 をつ とめた。53) 第16軍 司令官 (当時 は長野佑一郎 中将) は裁判 に先立 って,特別傍聴人 と してイ ン ドネ シア 人知 名人6名を任命 し,法廷 へ意見 を上 申 させ た。 この委員会 の メ ンバ ーは次の とお りであ る。 oスポモ教授 (Dr.Soepomo)- 司法部参与

oア ビクス ノ ・チ ョクロス ヨノ (AbikusnoTjokrosoejono)- ジ ャワ奉公会

oオ ッ ト・イスカ ソダル ・デ ィナ タ (OtolskandarDinata)- ジ ャワ奉 公会, 防衛 後援

会 会 長

oカスマ ン ・シ ソゴデ ィメジ ョ (KasmanSingodimedjo)大 団長 - ジ ャカル タ大 団 。スデ ィロ (Soediro)大 団長 - トゥル ソガ グ ソ大 団 。ムジ ャキル (Moedjakir)一 回教大学 長54) これ らは いずれ も,年長 の対 日協力者 た ちであ り,それ ぞれ政界,軍部,民 間 を代表す る知 名 人 た ちであ った。彼 らは合議 の末,軍律会議 に報告書 を提 出 した。それ は兵士 たちが まだ若 く て,情熱的 な民族 意識に影響 されやす い とい う状況 を強調 して,次 の 2点 を提案 した。

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.決 して死刑 を宣告 してはな らな い。 2.重刑は課 してほ な らない 。55) 51)45年革命においては,戦前か らの民族主義者で,比較的隠健な思想をもつ,いわゆる「旧世代Angkatan Lama」の人々と,日本軍政時代に台頭 してきた,急進的青年層を中心 とする「新世代AngkatanBaru」

とが,その価値観,イデオロギー,戦術等において,絶えず対立を繰 り返していた. 52)1945年6月13日付の 『ジャワ新聞 (邦字紙)』に記載された軍発表による。 一方, ヌグロホによれば, 3月 8日に,78名がジャカルタへ送 られたが,その後,このうち26名がブ リタルへ帰され,結局52名が裁判にかけ られたとい う。 また裁判の口付に関 しても, 4月14日か ら3日 間となっている。 53)山崎-の書簡。 54)同上。なお,この人選はスカルノに依頼されたという0 55)Soehoed

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・cii・,p・181.

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参照

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