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J・ロックにおける<私人>概念 : 労働による領有と関わらせて

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J・ロックにおける<私人>概念

労働による領有と関わらせて

は じ め に ロックは<私人>という概念の展開者である。ここでいう<私人>とは主権者や聖職者以 外の民間人の意味である。ホッブズからロックまでの思想の共通点はふつう社会契約論と呼 ばれるが,市民革命はそもそも民間経済をつくるための政治的前提にかかわる論理を含む。 それゆえ,かれらは<私人>という概念を理論構成の立論の前提として重視したのである。 ロックに先立って,ホッブズは<私人>という概念を近代的概念として発見した1)。すな わちホッブズの場合,生命の自己保存という場合,いったい誰の生命の維持かというと<私 人>のそれであった。決して歴史貫通的な意味における人間一般の生命の保存ではなかった。 互いに同意して国家主権を構築する制作主体も<私人>であった。だが,ホッブズの<私 人>概念は,いかにもまだ揺籃期にあった。なぜなら,私人たち相互の関係は,自然権にも とづく限り,安定を欠き,戦争状態としての自然状態を否定的に媒介することによってはじ めて<私人>は平和を享受しうるものとされたからである。ホッブズの場合<私人>はリ ヴァイアサンという怪物に見立てられた権力下に置かれた限りで自然権を保障されるので あって,すこしでも権力の存立にとって危険な動きを起こせば,私的なるものそれ自体が公 的なるものともどもに解体する恐れがあった。

これにたいしてロックの『統治二論』1690において「私人 private man, private men」の 概念は,すくなくともホッブズに比べてずっと安定感を増しており,独立性ないし完成度を 引き上げたと言ってよい。ロックにおける<私人>概念の展開がなぜ可能となったか。そし てまた,この展開が近代社会形成史のうえでいかなる意味を持つのか,またできれば現代社 会にとってロックの理論が持つ意味はどこにあるのかを本稿で検討してみたい。 1)竹内真澄「<私人>の発見 リヴァイアサンの新しい読み方」『桃山学院大学社会学論集』第54 巻第2号,2021年2月。 キーワード:ロック,私人,市民社会,所有の保存

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1.ホッブズからロックへの<私人>概念の展開 一般に言われるホッブズからロックへの市民社会(政治社会)論の展開について,ここで は,<私人>概念の完成への道の系譜の中で把握してみよう。 ホッブズの場合,生命の保存は,自然状態では確立しない。言い換えれば,所有権はコモ ンウェルスの存在しないところでは確立しない。しかし,生命保存=所有権は未承認であっ ても,いわば実力のもとにおかれて人類は生き延びてきたはずである2)。だから所有権は, 自然状態のもとではまだ存在せず,社会秩序の中にしっかりと位置づけられていないために, 自然法の範囲外に位置づけられる。ホッブズによれば,人間は平等に作られているから「万 人の万人に対する闘争」3)を行わざるをえない。こうした戦争状態を国家主権の権力下の平 和に置き換えたときはじめて所有 propriety4)が成立すると言われる。ホッブズは古代(中世 を含めて)には<私人>の自由が欠けていると論じていたので,このことからすれば,<私 人>とは,コモンウェルスをつくることによって,生命の自己保存を目的に,互を承認し合 うに至った民間人のことである。 これにたいしてロックの言う生命の自己保存は自然状態でなかば確立している。というの も自然状態とは,「人それぞれが,他人の許可を求めたり,他人の意志に依存したりするこ となく,自然法の範囲内で,自分の行動を律し,自らが適当と思うままに所有物や自分の身 体を処理することができる完!全!に!自!由!な!状!態!」であるからだ。自然状態は最初から「自然法 の範囲内」に納まっているだけでなく,「自らが適当と思うままに所有物や自分の身体を処 理することができる」とされ,しかもこの根拠は労働が積極的に5)位置づけられているとこ ろから来ているのである。すなわち自然権を持ち,自然状態にあって,自然法の範囲内に生 き,労働によって所有する人間がロックの<私人>にほかならない6) ホッブズからロックへの<私人>概念の展開を見る場合 もっとも特徴的なのは,労働に よる領有という考え方が導入された点であろう。たしかにホッブズも,富の条件として労働 について言及することはあったが,所有の基礎として労働を控えめに位置づけたにとどまっ たのにたいして,ロックは自然状態にある労働はそのまま排他的領有 appropriation7)の理由 2)ホッブズはそれを「人間の生活は,孤独でまずしく,つらく残忍で短い」Hobbes, Thomas, 1991,

Leviathan, Cambridge University Press, p. 89. 水田洋訳『リヴァイアサン』第二部第13章,211頁と述

べていた。 3)近代国家の必要性の前提となる「万人の万人に対する闘争」という状態は,戦争状態ともばれる。 国民社会内部の全域的な闘争状態をいかにして平定するか,これが民間経済を成立させるための政治 的前提を生み出す闘争である。 4)ホッブズは所有を表す場合,主として propriety の概念を使い,property をあまり使わない。ホッ ブズの場合もロックと同様に,「生命の保存」という目的のためにはそのための手段たる所有が必要 であるから,この着眼は当然である。ホッブズの場合戦争状態が出発点にあるために,どうしても, 所有をもたらす労働の意味づけがロックに比べて弱くなる。

5)Locke, John, 1960, Two Treatises of Government, Cambridge University Press, II, Chap., 2, § 4, p. 269, J・ロック,加藤節訳『統治二論』岩波書店,後編第2章§4,296頁。

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になると考えていた。たとえばインディアンは未開の自然状態において,労働によって領有 する主体ではあるが,土地については共有地に付属しているにすぎず,どんぐりや鹿肉の領 有主体ではあっても,土地の所有主体ではないとロックは考えていた。 これに対応して所有権のつかみ方が変化する。よく「自己保存 self-preservation」8)がキー ワードのように言われる9)が,誰の自己保存なのか,という問いかけが抜け落ちるならば正 確な把握とは言えない。ホッブズとロックにとって自己保存とは<私人>のそれであった。 生命を保存するためには,つねに手段が必要である。手段とは,ホッブズにおいては富や 「耕作用具」,ロックにおいては果実,獣の肉や革,そして土地,ひいては貨幣である。これ に対応して,ホッブズにあっては生命の保存 preservation of life10)が主として語られ,その 手段として所有が扱われる傾向があるのに対して,ロックにおいては,生命の保存よりも端 的に所有の保存 preservation of property11)がずばり語れられる傾向がある。 だが,ホッブズの場合<私人>は,主権が定まらぬ自然状態のもとではまだ所有権を承認 されていない。コモンウェルスを構築した結果はじめて<私人>の所有権が安定すると考え られたのであった。そうであるならば<私人>は,社会契約以前の不安定な段階において, 実効支配によって所有を維持しようと努めるであろうし,それは戦争状態をひきおこす緊張 のもとに置かれざるをえない。 これにたいしてロックにおいて<私人>は最初から自然法の範囲内にある。<私人>は市 民社会=政治社会の構築以前に,労働を介することによる専有権を持っており,ただ所有権 の基礎を固め,最後に政治社会をつくることによってより一層(泥棒から)安全に所有保存 を行う。<私人>は,市民社会=政治社会以前の段階において,言い換えれば共同社会で家 族や部族ごとに分かれた小さい社会のなかにあってさえも,すでに所有を,たとえ人類の同 意がなくても,自力で守りながら生きており,すでに社会を織りなしているのである。 このことについてロックは後編第5章45節でこう言っている。 「こうして,世界の最初の頃は,誰であっても,長い間,人類が利用するよりもはるかに 大きな部分を占め,今でもそうである共有地に対してすすんで労働を投下した場合には,ど こにおいても,労!働!が!所!有!の!権!利!を!与!え!た!。初めのうちは,人間は,彼らが必要とするもの に対して自然が人間の手を借りることなく提供してくれるものにおおむね満足していた。し 7)ロックは,領有 appropriation と所有 propriety を区別する。この区別の必要がどこから来るのか。 それは,未開社会にある採取段階では,自然から果実をもぎ取る appropriate ことができるが,農耕 段階以降のように土地そのものを所有 propriety できないことを表すためであった。

8)『リヴ ァ イ ア サ ン』の preservation は47件,self-preservation は0件,『統 治 二 論』の preservation は47件,self-preservation は5件ある。

9)self-preservation の自己 self は,主格であると同時に目的格でもあると思われる。

10)生命と保存をセットにした生命の保存 preservation of life が多ければ多いほど,自己保存 self-pres-ervation は減る傾向がある。

11)所有の保存というセットは,生命保存よりもそのための手段へ焦点移動した意味を強くもつものと 思われる。

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かし,のちになると(人口や家畜の増加が貨!幣!の!使!用!と相俟って)土地を不足させ,土地に なにがしかの価値をもたらすことになった世界のある部分においては,いくつかの共同体が それぞれの領土の境界を定め,また共同体の内部でも,法によってその社会の私人 private men の所有権を規制するようになり,その結果,労働と勤労とによって始まった所有権が, 契約と同意とによって確!定!さ!れ!る!ことになったのである」12) また,後編第7章77節でこう言っていることも重要である。 「最!初!の!社!会! society は夫と妻の間のそれであり,これから,両親と子どもの間の社会が 生まれ,やがて,これに,主と召使い servant との間の社会が加わった。そして,これらの 社会 society がすべて合して一つの家族をなすことがあり,実際またそれが普通であった。 ……それらの社会 society のいずれも……およそ政!治!社!会!には達しないものであった」13) このような意味での政治社会以前の社会には,未開―採取・狩猟―牧畜・農耕の一定の発 展がある。政治社会は牧畜農耕段階より後のことだ。なぜなら所有は,とりわけ農耕・牧畜 以降に,自然に対する人間の支配となって現れるからである。この段階こそロックが「政治 社会 civil society の主要な目的は,所有権を保存することにある」(後編第7章85節)とし た固有の社会段階である。誰の所有権かということをロックは述べてこうも言う。 「もしも,臣民を支配する者が,いかなる私人 private man からでも,その所有物の一部 を好むままに取り上げて,自分が適当と思うままにそれを利用したり処分したりする権力を もつとすれば,たとえ,その私人 private man と他の臣民との間に所有権の限界を定める適 切で衡平な法が存在するとしても,人びとの所有権はおよそ安全とは言えない」14) 先に述べた通り,ロックの自然状態はまだ統治がないのだから市民社会=政治社会ではな いとしても,それ自体が社会状態であったのである。だから,市民社会=政治社会以前の水 準で,<社会>という概念が使われており,それは全面的な戦争状態を避けうる程度には平 和が維持されていることを意味する。ロックは,市民社会=政治社会なしにかつて家族や部 族の中で人々は他人を侵害することなく暮らしており,「最初の頃は,全世界がアメリカの 12)市民社会=政治社会において所有を保証された人間が<私人>である。

13)Two Treatises og Government, II, Chap., 7, § 77, p. 319,『統治二論』 後編第7章第77節,384頁。 14)Ibid., II, Chap., 11, § 138, p. 360,後編138節,461~2 頁。『統治二論』において市民社会 civill society

が15件,政治社会 political society が12件あるのにたいして社会 society は161件ある。さらにこの社 会という概念のなかには,たんなる市民社会=政治社会の省略形以外の,いわば社会契約による市民 社会形成の基礎にあたる社会の成熟を意味するものが少なからずある。これは,近代社会の秩序形成 力を反映しているものと解される。

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ような状態であった」15)と論じて,アメリカインディアンの生活を統治以前の段階とみなし ている。 そして,ものが腐らないことを基準にし,また土地については耕作可能な範囲で所有する 正当性があたえられたものが,「ある人間が隣人との間に貨!幣!と!し!て!の!用!途!と!価!値!と!をもつ 何かを見いだすと,その人間は,直ちに,その所!有!物! possessions を拡!大!し始めることがわ かるであろう」16)という。 ロックはこの認識によって,政治社会=市民社会が成立していない段階においても,<私 人>の総体としての人々 people が相互に同一の権利をもち,他から支配されることを拒み, それによって一定の自然状態=社会状態のなかで自己を維持することができるようになると 考えた。このことがホッブズの絶対的な国家主権の不可避性を否定できるようになった理由 であった。言い換えると「人々が理性に従ってともに生活しながら,しかも,かれらの間を 裁く共通の上位者を地上に,もたない場合」17)が自然状態(政治社会なき社会状態)である けれども,「人々が他人の不正な意志に服従しなくてもよい自然状態のほうが(絶対君主の 統治よりも)はるかによい」とロックは言えるようになる18)。ホッブズにあっては絶対的な 国家主権者による統治なしに<私人>の自由はなかったのであるが,ロックの自然状態にお いては国家から自立した<私人>の圏域が着実に存立していることがわかる。 このようにロックの<私人>概念は,絶対君主を排除するところまで育ったという意味で イギリス市民革命の安定期に対応する水準に結晶したのである。これはロックにおける抵抗 権=革命権に通じる根拠となるので,ホッブズの<私人>概念からロックのこの概念の展開 には決定的な意味がある。 2.ロックの<私人>概念と資本関係 (1)自然状態 <平等の自由>と<自由の平等> ホッブズは,「自然は人びとを,心身の能力において平等につくった」という平等論から 説き起こし,自由とは外的障害が存在しないことであると定義して,臣民の自由論へ移って いく。これにたいしてロックはまず自由論から説き起こす。自由とは「他人の意志に依存し たりすることなく,自然法の範囲内で自分の行動を律し,自らが適当と思うままに自分の所 有物や自分の身体を処理することができる」19)ことにほかならない。そしてそれが誰も他者 以上には権力をもたないという意味での「平等の状態」であるとする。すなわち,自由論か ら平等論へ説いてゆく。この場合,処理される「自分の身体」は,ロック独自の用語法にお いて,主体であると同時に所有される客体の扱いを受けとるものであるから,けっきょく

15)Ibid., II, Chap., 5, § 49, p. 301,後編第5章第49節,350頁。 16)Ibid., II, Chap., 5, § 49, p. 301,後編第5章第49節,350頁。 17)Ibid., II, Chap., 3, § 19, p. 280,後編第3章第19節,315頁。 18)Ibid., II, Chap., 2, § 13, p. 150,後編第2章§13,307頁。 19)Ibid., II, Chap., 2, § 4, p. 後編第2章第4節,296頁。

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「自由の平等」とは何であるかといえば,所有物の思うがままの処分の平等のことだと言え る。すなわち,およそすべての<私人>は身体を処分する自由をもちあわせているのである。 このように両者のあいだで自由と平等の関係に関して,論じる順序が異なる。ホッブズは 平等から自由を論じるのに対して,ロックは自由から平等を論じる。その理由は切実である。 というのも,ホッブズの場合自然は心身の能力において人間を平等に作ったという説き起こ しから始め,能力の平等性があるために戦争状態に陥り,ようやく恐怖のなかでコモンウェ ルスをつくることで生きるためのあらゆる手段を使うことが出来るという意味の自由を再建 する。したがって平等から始めることには強固な必然性がある(平等→自由)。だがロック にとって自由とは最初から「所有物」の処理にかかわるものになっている。外的障害からの 自由というホッブズ的な自由の一般的規定を超えて,ロックはいわば所有への自由の規定を 本質的な要素と考えているわけである(自由→平等)。 あるいはこうも言えるであろう。ホッブズの場合は,封建身分制への反対がまず「平等」 を第一義的な地位に引き上げさせているが,権力の維持の緊張のために自由は恐怖との相関 できびしく限定される。これにたいしてロックの場合になるとブルジョワ社会は,それ自体 の秩序形成の中核を所有への自由という局面へ純化しており,平等は所有への自由に服属す るものになるということだ20) このような自由と平等のカテゴリー上の順序の違い,とりわけ生命保存のための手段とし ての労働による所有概念の焦点化,国家の存立目的を平和から所有へ結びつける違いによっ て,ロックは,<私人>の所有保存という目的をホッブズに比べて鮮明にしたわけである。 <私人>という概念は,政治社会が成立するまえに,労働による領有によって基礎付けされ, あとは契約を待つだけとなって安定性を高めており,契約後に領有から所有への格上げされ るに至る。 ホッブズが,<私人>の発見によってはじめて社会契約論の必然性を考え得たとすれば, 同じ事はそれを継承したロックにも言えるのだが,ロックにおいては自然状態そのものが一 種の社会を織りなしているのであるから,社会契約による統治の必要の理由を与えるのは <私人>相互の戦争状態ではなく,すでに存在する社会(労働による領有)を泥棒(所有の 侵害)のような逸脱行動から防御する機能に限定された。 ロックの用例をカウントすると,ホッブズの<私人>概念が計78件にのぼっていたのに比 べ る と,<私 人>private man, men, private person, persons, particular men, person 概 念 は, 計21件に減っている。 『リヴァイアサン』と『統治二論』のボリュームの違いを差し引いても<私人>の概念は 使用頻度が下がっていることは疑えない。もし,ロックにとって<私人>概念が引き続き重 要であるならば,もっと全面に出てきてもよかったのではないのか,と問うことは本稿に 20)ホッブズの自由規定がいわば「障害からの自由」という消極的な規定であるのに対して,ロックの 自由規定は,いわば「所有への自由」という積極的な規定になっている。

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とっては本質的な問いである。すなわち<私人>概念がロックの理論の中でこれだけ発展さ せられている割に意外に少ないのはどうしてか,という問題である。それを説明することは 困難ではない。私見では,それは,所有概念が私人+所有の短縮形であるからだと思われる。 すなわちロックの所有論についての記述が,労働や貨幣というカテゴリーをつうじて踏み込 んだものになればなるほど,<私人>概念を欠いたとしても所有概念で意味するところを充 足できるのである。 すなわち,ロックは所有の形態としては共有と私有を区別しており,前者については入会 地のことを例示している。そして入会地を含むコモンズ(共有物)が人類に与えられている 無主物であることを前提にして労働による領有が私的所有を基礎づけるという説明をおこ なっている。だから,社会の発展段階が狩猟から牧畜・農耕団塊へ移るのに対応して,手つ かずの共有地は減るとみなされている。つまり,共有段階から領有段階への発展をロックは 人類史的な発展コースとして描いている。これに伴って,ますます政治社会をつくる必要は 成熟する。所有が出てくれば泥棒も出てくるからだ。共有が原初的な所有のありかたであり, そこから領有を介して私的所有が生み出される。 共有の方はキリスト教の教義とも関係している。教義にしたがって,神が地上のものをす べて共有物として人間に与えた,というのが神学的な自然=共有論である。問題は所与の自 然,この共有物のなかから何を私有とすることができるか,他人との境界線がどこに引ける のかである。ここで,所有論は私人相互の間の排他性の根拠を論じることを主眼とするよう にならねばならない。この意味で所有論と<私人>論は同根である。だから,共有とされて いるものは手つかずのままで先行して存在する。それは無主・無所有の共有にほかならない。 人間はその自然に働きかけて,領有を所有権に高めるので,所有権はことごとく私的所有権 ということになるのだ。だから,所有権が力強く出てくれば,それだけ<私人>のという所 有格は省略されたとして十分意味が通るのである。 『リヴァイアサン』も所有論に少なからぬ力点を置いていた。だが,所有 propriety の概 念はせいぜい全体で32件である。ホッブズは,勤労や労働という言葉を使うけれども,労働 を所有の起源に関わらせる議論はしていない。労働は領有を媒介せずに,直接的に生命の維 持のための富の生産行為という意味づけを与えられている。これにたいしてロックは,所有 property を155件も使っているのである。当然この場合でも所有は<私人>の所有であって, 私!的!所有論であった。だから,所有権を論じるとき,<私人>概念は所有概念のなかに自動 的に嵌入されるとみなければならない。ロックの場合に,つねに<私人>の所有権を語る形 で所有権が語られる傾向があるとすれば,<私人>概念は所有論の大量使用によって省略さ れるであろう。<私人>の所有権は,端的に所有権という概念に繰り入れられたのである。 貨幣が発明され,人々の同意をとりつけるようになる結果,「私的所有の不平等」(後編第5 章50節)が生まれるならば,一層政治社会の必然性は強化されよう。 要約する。ホッブズは,自然状態の平等から説き起こし,最終的には社会契約後の臣民の J・ロックにおける<私人>概念

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自由へ至る。この意味で<平等の自由>を論じた。ロックは,自然状態=社会状態という, 相応の安定状態を生み出す力量を持つに至った<私人>の自由から説き起こし,この自由を 相互に持ち合う状態を平等と呼ぶ。自分の所有物と身体とに対する処分 dispose の権利をす べての人々がもつがゆえに,偶発的なリスクを罰する権力を社会契約で作り出せば,社会の 平和は一層確かになるであろう。この意味でロックは<自由の平等>を論じたといってもよ い。そして,社会状態の中の領有,政治社会のなかの所有の国家権力からの独立性がめざま しく強力になったから,<私人>の革命権がでてくることになるのである。 (2)自分自身の身体にたいする所有権 ロックのいう自然状態は戦争状態(泥棒という所有権侵害)をもたらす蓋然的なリスクを 抱えているとはいえ,ホッブズ的な意味での自然状態=戦争状態を乗り越えていた。これは, <私人>という存在が,ともかくある所有者と別の所有者との間に所有の絶対的な排他性を もっているからであった。しかし,それならば,どうして戦争状態は起こるのか,理解でき なくなりはしないか。 ホッブズが万人の万人に対する闘争というスケールで戦争を捉えたのにたいして,ロック は終始泥棒が所有権の侵害であることを論じている。つまり個別的な刑事事件の発生可能性 をもって戦争状態と呼んでいる。これは,確かに地上の権力で裁かねばならぬことではある が,およそ戦争ないし相互略奪とは次元の異なる,せいぜい逸脱行為というべきリスクにほ かならない。にもかかわらずロックはホッブズと同様に戦争状態という概念を導入して,地 上の権力を必要とする理由にあてている。戦争状態から市民社会=政治社会へという移行が 必要になるのは,社会契約論が必然化されるためのなんらかの問題が社会に存在するからで ある。 しかし,ロックの場合には,自然状態がそれじたい社会秩序を含んでおり,戦争状態はせ いぜい逸脱行為にほかならないので,所有権のもつ秩序形成力が強いぶんだけコモンウェル スの絶対性は減じられるのである。ロックが言うように,もしも自然状態に社会状態を見出 せば,「人々が理性に従ってともに生活しながら,しかも,かれらの間を裁く権威を備えた 共通の上位者を地上に持たない場合,これこそが自然状態にほかならない」。けれども,こ の自然状態では泥棒を裁くことができない。それゆえに,「他人の身体にたいする実力行使 の公然たる企図が存在しながら,それからの救済を訴えるべき共通の上位者が地上にいない 場合,それは戦!争!状!態!である」21)とされたのであった。 <私人>がともかくも社会状態を維持できるにせよ,それは所有権の侵害(泥棒発生)の 可能性が消えるということを意味しない。かえって,所有権が確立された結果,泥棒が発生

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する可能性が生まれるのだ。したがって,コモンウェルスは,所有の保存を目的にする以上 は,政治権力(警察権力)を所有権の擁護のために設けなくてはならない。 「絶!対!的!な!統!治!権!は,たとえどこに置かれても,政治社会とはまったく異質のものであり, ちょうど奴隷状態と所有権とが両立しないのと同じように,政治社会とは両立しないもので あることに他ならない。……政!治!権!力!は,人々が自分自身で処分できる所有権を持つ場合に, ……存在するのである」22) しかし万人が<私人>であることから出発するならば,市民社会は奴隷制的な意味におけ る支配―服従のない状態を作りうるのである。この意味で<私人>は,奴隷の反対概念なの であって,ロックは所有権をもつ<私人>をしばしば「自由人」と言い換えている。ロック はこう述べている。 「主!と家!僕! servant という名称は歴史とともに古い。しかし,その名称は異なった境遇に あるものに対して与えられてきた。例えば,自由人が,受け取るべき賃金 wage と交換に, 一定の期間にわたって自らを売り,奉仕を引き受けることによって,他人の家僕になること がある。その場合,通常,彼はその主の家族の一員となり,その家族の日常的な規律 disci-pline に服するが,それも,主に対して,一時的な権力を与えるにすぎず,かれらの間の契 約に含まれる以上の権力を与えることはない。……私に言わせれば,奴隷たちは,生命とそ れに伴う自由とを喪失し,その資産を失った存在であり,いかなる意味でも,固有権=所有 権をもつことができない隷!属!状!態!にあるのだから,そうした彼らが,およそ,政!治!社!会!の一 員 part をなすとは考えられない。政治社会の主要な目的は,固有権=所有権を保存するこ とにあるからである。」23) 万人は所有権を持つべき<私人>である。したがって,ここに私的なものを基盤に創出さ れる公的なものができあがる。ロックは「パブリックな善 public good」が出てくるために は所有権の保存が前提されねばならないと論じている。所有権を保存することによって保証 されるのは,奴隷状態から抜け出た<私人>の存在である。そして<私人>は,自由人とし ての家僕を含むのであって,ここで市民社会=政治社会の一員として自由人を社会状態に組 み込む論理が示されている。家僕として現れる賃労働者は,いまや奴隷ではなく,<私人> というカテゴリーの中に繰り入れられるのである。

22)Ibid., II, Chap., 15, § 174, p. 384,後編第15章第174節,504頁。

23)Ibid., II, Chap., 7, § 85, p. 322f,後編第7章第85節,391頁。ロックはここで,賃労働者という自由 人を一時的な召使でありうるものととらえておいて,奴隷と区別している。私人=自由人≒召使 ser-vant=市民社会の一員,私人=自由人≠奴隷 slave≠市民社会の一員という等式(不等式)がある。

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すると,ロックにとって市場社会に関する一つの展望が出てくる。すなわち,政治社会が 成立することは,一旦は<私人>が主人と奴隷という隷属関係から抜け出すことを前提とし, 万人の所有権の保存を意味する。ただしこの場合,持てる側が所有権という言葉で土地を含 む生産手段をもつのに対して,持たざる側は身体のみを所有することで,しかも両者いずれ をも<私人>とみなすことによって,奴隷制に取って代わる近代階級社会を積極的に作るこ とが出来るのである。 (3)賃労働者は<私人>である ロックによれば,自然状態とは「人それぞれが,他人の許可を求めたり,他人の意志に依 存したりすることなく,自然法の範囲内で,自分の行動を律し,自らが適当と思うままに自 分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態である」。ここで,ロッ クがしばしば例示している家僕を正面に据えて考慮してみよう。家僕は,所有権を保存され ているから<私人>である。家僕は,<私人>であるのだから,「自らが適当と思うままに 自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全な自由な状態にある」と言える24) とりわけ,「自分の所有物や自分の身体を」と述べているから,これは労働力を自由に処分 する権利を含んでいると解してよかろう。 だが,労働力を自由に処分したあと,使われる身になったとき,「他人の許可を求めたり, 他人の意志に依存したりすることなく」労働することは可能なのであろうか。それは不可能 なのである。だから,ロックは家僕が「家族の日常的な規律に服する」と言い,主に対して 契約に含まれるだけの権力を与えると述べている。 すなわち,ロックの自然状態論は,とりわけ家僕という自由人において互いに矛盾し合う ことを述べていることになる。自然状態論のパラグラフを二つに分けてみよう。 ①「人それぞれが,他人の許可を求めたり,他人の意志に依存したりすることなく,自然 法の範囲内で,自分の行動を律す」る。これを「労働処分の自由」と呼ぶことにしよう。 ②「自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自 由な状態である」これを「労働力処分の自由」と呼ぼう。 まず②では「労働力処分の自由」,労働力を売る自由が語られている。労働力を売る自由 人をイメージすると,この自由人は自分の所有物としての,または自分の身体としての労働 力を自由に処分することができる。それは職業選択の自由などと呼ばれる。 次に,①では「労働処分の自由」,労働という活動の自己決定の自由が語られている。す なわち誰かの許可や意志に依存する必要のない活動の自律性をもつことを自由と定義してい

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る。 むろん,ブルジョア社会を統治する見地からすれば人々が両方の条件を満たされることが 望ましい。自由主義とは,①と②が可能な限り合致するような仕組みの社会であるべきだか らである。だが,自由人としての賃労働者を考慮する場合,①と②が両方満たされることは ありえない。なぜなら,②「労働力処分の自由」と①「労働処分の自由」は,ブルジョワや プチブルジョワの場合には矛盾しないが,家僕あるいは賃労働者の場合だけはまったく別々 の事柄であって,決して両立することがないからである。 だから,ブルジョワの代弁者としてのロックにとって,①と②は完全に両立するし,両立 すべきものなのであるが賃労働者の現実はそうはならない。ロックの自由主義原理と賃労働 者の現実の間にある溝は,市民社会=政治社会の発展とともに拡大するのである。 だが①と②の非両立性を覆い隠す道がまったくないわけではない。<私人>の自由とは, ロックによれば,「他人の意志に依存しない自己決定の主体であること」にある。とすれば, もし賃労働者が他人の意志に依存することを含めて活動の他律性を自発的に受容するならば, 労働処分権の喪失は表面だって言挙げされることはなく,この喪失は労働力処分権のなかに 吸い取られてしまうことになるであろう。 ロックは,17世紀の市場社会のなかにいるので,原初的な状況の中においてではあるが, 自由人が家僕になりうることをしばしば語った。19世紀になって露呈する階級的な矛盾にま だ目が届かなかったのであろうか。 私はそうした理解が間違いだとは言わないが,生産的ではないと考える。ここで問われて いる問題は,ロックの中に現代社会を読み取る示唆を得ることである。ロックを一貫してブ ルジョア的な統治者と捉える場合,<私人>と家僕,すなわち「自由人としての賃労働者」 の間の概念間の整合性を考えることがもっとも生産的であると思われる。すなわち,自由人 としての賃労働者が家僕 servant となった場合,ストックをもつ主体である主 master(資本 家)に身柄(person)を預ける。賃金との交換は②労働力処分の自由の行使である。これが 奴隷にはない近代的な自由であることをロックは十二分に知っていた。そのうえでロックは 「私の家僕 servant が刈った芝は……私の所!有!物!となる」25)と論じて生産物が,まるごと雇う 側の私人の所有物になることを洞察していたのである。すると,生産物を失う側の<私人> たる賃労働者の労働が継続的であるためには,起こりうる抵抗を押さえ込んで働かせる権力 がなくてはならない。家僕すなわち賃労働者が自由(労働力処分の自由)を獲得することの 中に,他人の意志に依存する不自由を凌駕する何らかのメリットがあるということを教える ことが肝心である。これこそがロック的な自由主義的統治戦略なのである。 もっとわかりやすくいえば,「上から命令されることが面白くないなら」転職すればよい。 これは不当な説明である。なぜならこの説明には,使われることの不自由を売る自由の中に

25)Ibid., II, Chap., 5, § 28, p. 289,後編第5章第28節,328頁。 J・ロックにおける<私人>概念

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還元させるものだからだ。もし賃労働者が<私人>としての意志の自立性の②労働力処分の 自由を①労働処分の自由に優越させることができれば,両方の条件の衝突を回避することは 不可能ではないのである26) ロックの自然状態の概念規定①②が家僕,すなわち賃労働者において矛盾する規定になる のか,それとも,この矛盾の隠蔽へ導く可能性をもつものであったか。これはロックの問題 というよりも現代人の意識のあり方の問題である。もし,労働力処分と労働処分の間に自由 の対照性があると見るならば,ロックの記述は矛盾しているであろう。しかし,自由の対照 性は無視しうるほど小さいのだと考えるならば,ロック(あるいは現代のロックの継承者) は,むしろ,この対照性をできるだけ目立たないようにすることに戦略的展望を見出すであ ろう。 3.アメリカ植民地化の理論的合理化 さて,ロックの著作を解読しようとする場合,イギリスの対外政策と国内政策が表裏一体 をなして論じられていることは,最近つとに論じられるようになってきている27)。<私人> という概念を重視する立場から『統治二論』を読む場合も,この表裏一体性を重視すること が必要である。 ロックは自己の社会契約論を展開するうえでホッブズの時代以上に様々な歴史記録を閲覧 し,社会契約(イギリス市民革命)が歴史的にどういう意味をもつものかを説明しようと試 みた。とくに,先行するスペインのベーガ(1539~1616)の『インカ皇統記』における記述 やジェスイット教団の宣教師アコスタ(1540~1600)の報告書,およびイギリスの北米植民 地の旅行記や報告書を渉猟して,インディアンの置かれた状態を自然状態,社会契約以前の 状態にあるものとみなした。 ここで考えるべきことは,次のようなことである。すなわちロックは,イギリスの社会契 約論の系譜の中で『統治二論』という近代社会成立史論を書いたわけであるけれども,それ は万人の自由と平等を確保する市民社会=政治社会論として書かれた。これは,すべての 人々が自由で平等な契約社会を創造する権利を持つという市民革命論として結実した。しか し,この場合,われわれはロックがこの著作において,ヨーロッパ諸国のなかで15世紀末に スペインとポルトガルが専一的に先取した新大陸に,オランダにつづいて押し入ろうという イギリスの野望を共有しながら書いていることを忘れてはならない。つまりロックが広い意 味で市民革命論の正当さを社会契約論として書いていく場合に,対外的な植民地化論が対内 26)現代のイデオロギーの中核には次のような観念があると思われる。すなわち,労働の処分において 上から命令されることは,労働力の自由な処分に基盤を持つ現代の自由観の心地よさを割り引くもの ではないという考え方である。たとえば R・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』における リバタリアニズムの主張には,こうした把握があると思われる。G・A・コーエン,松井暁,中村宗 之訳2005年『自己所有権・自由・平等』青木書店,第3章,96頁。 27)三浦永光,2005年『ジョン・ロックとアメリカ先住民―自由主義と植民地主義』御茶の水書房。

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的な市民革命論の裏側に貼り付いていること,国民社会と国際社会が論理的に表裏一体関係 をもち,時間的には同時進行するかたちになって記述されていることを見落とすわけにはい かないのである。 この連結は,しかし,いかにして可能であったのだろうか。もっと言えば,人間の自由と 平等の実現のために書かれた国内的市民革命論が国際的な植民地主義論とつながるのは,な ぜ,いかにしてなのであろうか。ロックはたとえば,こう述べている。 「ヨセフス・アコスタの言葉をそのまま受けとるとすれば,アメリカの多くの地方では統 治がまったく存在しなかったという」28) 「こうして,われわれは,アジアとヨーロッパとの初期の時代(first Age),すなわち, その国土に比して住民が極度に少なく,人口と貨幣とが不足していたために,人々が土地所 有を拡張したり,より広い土地を求めて争ったりしようという気を起こさなかった時代の見 本である今日のア!メ!リ!カ!におけるイ!ン!デ!ィ!ア!ン!の!王!た!ち!が,彼!ら!の!軍!隊!の!将!軍!とほとんど異 ならないことを見いだすであろう。」29) , 「このように,最初の頃は,全世界がアメリカのような状態であった。いや,現在のアメ リカ以上であった」30) ロックは,世界史の先行する時代は多かれ少なかれ共同社会(コミュニティ)の段階にあ り,統治がなく,現在のインディオ社会と近似性をもつと考えていた。 むろん,統治がなかったのは,ヨーロッパの最初の時代もインディオと同じであるが,彼 はすでに統治がなりたった社会が,未統治の社会を侵略するのは,当然であるとみなしてい た。 インディオの社会は同意による平等を維持していた社会であるとみなされたから,進歩の 過程を経て統治を選択するための自然状態にある社会であるという。 そして,自然状態から社会状態へという論理構成をもつ社会契約論は,現実の共同社会で あるインディアンの共同社会を近代社会へ開拓しなくてはならないという実践的な命題と なった。ロックはホッブズの場合より一層ゆたかに,所有権を媒介にして社会契約論と近代 社会論とを接合しており,社会契約論の社会科学化に大きく貢献したということができる。 しかしながら,社会契約論が社会科学としての体裁を充実させてゆくことは,大きな犠牲 を支払ってのことであった。自由で平等な<私人>の所有を保護する市民社会=政治社会は,

28)Two Treatises og Government, II, Chap., 3, § 102, p. 335,後編第8章第102節,412頁。 29)Ibid., II, Chap., 8, § 108, p. 339,後編第8章第108節,420頁。

30)Ibid., II, Chap., 5, § 49, p. 301,後編第5章第49節,350頁。 J・ロックにおける<私人>概念

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国内で同じ<私人>である召使を雇用するというかたちで国民社会を生産手段を持つ側と労 働力しかもたない側からなる階級社会へと編成する。この場合,皆が自由で平等な「私人」 (民間人)である点で(職業選択の自由という解放によって)階級は見えなくされているの であった。さらに,こうして国内で持つものと持たざる者とが出来上がるということは,お なじ論理で国際的に持つ者が持たざる者を召使化して,植民地統治のもとに服属させること を可能とさせるのである。 共同社会のインディオは,溢れるような土地がありながら,有り余る土地を耕すことなく, それらを放置していた。これにたいしてロックは,その不生産性と効率の悪さを咎めていう。 「自分が必要とするもの以上のものをもちたいという人間の欲望が,人間生活にとって有用 性ということだけにもとづいていたものの本来の価値を変え,また,消耗したり腐敗したり せずに永続する小!さ!な!黄!色!の!金!属!片!が,大きな肉の塊や山のような穀物と同じ価値があると 人々が合!意!す!る!以前の最初の頃には,人々は,おのおの,自分が利用できる限りの自然の事 物を労働によって領有する権利を有していたこと,しかし,それはさほど大きなものではな く,しかも,同じように勤労を惜しまない者には同じだけのものが十分残されていたので, それによって人々が他人に損害を与えることもなかったに違いない。」31) この文章にロックが続けて言わんとするのは,次のことである。すなわち,土地所有は, 貨幣の導入によって開拓されうるようになる。すると共有地として荒れるままにまかされて いる1エーカーの土地が産出するものよりも同じ広さの面積の開墾地は,少なく見積もって も10倍の食料を算出するであろう。比率的に言えば,荒地100エーカー分の食料と開墾地10 エーカーの食料の供給はちょうど釣り合うことになる。このことは,10エーカーを耕した土 地所有者が人類に90エーカー分の土地をもたらすのと同じ価値を創出したことに等しかろう。 したがって,囲い込みをされた土地10エーカーは,荒地のまま放置された土地の不生産性を 補い,人類をよりいっそう豊かにする方向を指し示すであろう。ゆえに,アメリカの原始林 や未墾の荒蕪地を植民化することには大きな合理性があるのだと32) 契約社会であるヨーロッパと共同社会であるインディオの社会が出会った場合,どういう ことが起こると想定されるであろうか。これは様々なレヴェルで考えられる。 第一に,ロックは,労働による私的所有権の正当性論を展開しているから,契約社会と共 同社会の間の平和的な交易をまず考えることができる33)。契約社会の側には,その社会の特 産品(たとえば手工業製品)があり,共同社会には原材料に近い狩猟品(狐の革)がある。

31)Ibid., II, Chap., 5, § 37, p. 294,後編第5章第37節,336~7 頁。訳は一部変更した。 32)Ibid., II, Chap., 5, § 37, p. 294,同,337頁。

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これらが物々交換か,もっと発展すると貨幣に同意した形で商品交換される。ロックはその 先のことは論じてはいないけれども,商品交換の形式に入ることによって,契約社会は先進 的な工業社会となり,共同社会は原料輸出に一元化されたモノカルチャ社会になっていった ことをわれわれはよく知っている。 第二に,対象が労働産物ではなく,土地それ自体となった場合が考えられる34)。この場合, 狩猟社会であるインディオの共同社会では,土地に対する私的所有観念が欠如していた。し かし,私的所有による土地開墾の動機をもつ契約社会は,インディオが土地を荒地のまま放 置している場合には,「神は人間に労働することを命じ,また,人間の困窮状態も労働を必 要とした」にもかかわらず,原住民は神に従っていないと非難し,「神の声に従った者は, その土地のある部分を征服し,耕し,種を蒔き」,私的所有の土地として接収することの道 徳的理由を獲得したのである35) 第三に,ロックは,労働を私的所有の証をたてる基礎としてのみ捉えており,諸労働が共 同体的に編成されることを固有の所有形態として考えていない。たとえば,インディオは, 狩猟労働を行い,獲得物を共同体で再配分したであろうが,このようなことは固有の所有形 態たる共同所有にもとづく共同社会の個性とは考えられずに,もっぱら前所有的または無主 的な狩猟社会の出来事であって,私的所有は牧畜・農耕以降の段階で開始されるという観念 から裁断されるものであった。 以上のような理由から,先進社会は契約社会へと進歩することによって,国民的階級社会 を編成し,世界に対しても固有の論理によって手を加え,契約社会と共同社会の間に地球規 模での階級社会を建設していったのである。 お わ り に 社会契約論は,ホッブズによって切り開かれた論理である。そのためには<私人>が民間 経済をまわしてゆく主体として成立することが必要であり,学問はそれを新たに発見しなく てはならなかった。この発見をホッブズがなしとげた後になってロックは,<私人>に,労 働による領有という契機を付け加えた。このことによって,逸脱的な所有権侵害を例外とす るようなほぼ平和的な自然状態を構想することができるようになった。そして,自然状態を 念入りに所有秩序として保存するための市民社会=政治社会を人民の合意とすることによっ て近代社会の存立を説明しようとしたのである。 ロックのもとで<私人>とは主と家僕の両方を含んでいたにもかかわらず,所有の保存 preservation of property36)という単一の論理で市民社会=政治社会を統治することができる

34)Ibid., II, Chap., 5, § 32, p. 290,後編第5章第32節,330頁。 35)Ibid., II, Chap., 5, § 32, p. 291,後編第5章第32節,331頁。

36)ロックのプロパティの概念は,資産+不動産+自己所有(自己を所有する権利)である。外界への 所有権とともに主体そのものが所有される客体とされるところにプロパティの独自性がある。ここで, マルクスの労働力所有権とロックの自己所有権とを突き合わせてみると,次のことがわかる。すなわ

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ようになった。ロックにおける<私人>概念の展開とは,つまるところ,労働による領有と いう契機の発明にかかわることであった。そしてこのことの結果,ロックは近代における資 本と労働の関係ならびに植民地支配を単一の<私人>の原理で説明することができたのであ る37) (2020年11月2日受理) ち,マルクスが労働力所有権を規定するのは,生活手段がよそよそしく手を離れていく根拠が生産手 段からの自由に由来するということである。市民的な自由と生産手段からの自由から構成される,い わゆる「二重の意味の自由」から,いわば世界疎外が生じるからこそ,何も持たない者としての賃労 働者の位置が露わになる。何も持たないがゆえに,労働力だけは所有するという形式を持たせる必要 がある。資本制の支配を受容させるために労働力所有権があるわけである。マルクスの言う「絶対的 貧困」をロックは神学的な基礎付けにより永久の権利に置き換えてしまうのである。 ホッブズの場合所有 property(3件)は,固有性と訳すべきものであるのにたいして所有 propriety (31件)という旧語は所有権をさす。だが,ロックになると圧倒的に property(155件)は所有の意味 に純化され,propriety(15件)は類語ではあるが廃れつつあったようである。 37)実証的な歴史学的な意味で,共同所有(または共同体)が私的所有よりも先行する,という把握を したのはマルクスであったわけではない。むしろ,ロックにその萌芽はあった。神学的な説明を別と すれば,15世紀末以降のヨーロッパによる新大陸への植民地化が,共有から私的所有へという文明史 観を準備した一つの要素である。この意味で,社会科学における所有論の発展は植民地主義と深く関 わっている。

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Locke’s Concept of <Private Man>

In Relation to Appropriation by Labour

TAKEUCHI Masumi

After the Discovery of Hobbese’s concept of <Private Man>, Locke suceeded and devel-oped it in Two Treatises of Government .In his theory, <Private Man> is located in the state of Nature which is distinguished from Hobbes’s meaning. According to him the state of Nature can be maintained without Government even in the stage of Civilization. This is a result of the category of ‘approproation by labour’.

In his social contract theory,the necessity of Government comes from the guard of private property. The chief end of Civil Society is the preservation of Property.

He also refered to the capitalist society in which the servant as a free man was a member of Civil Society. Because the Slave can not be considered as a menmber of it. The servant is the prototype of wage labourer. This suggests that Locke see the Civil Society can be a part of Capitalist Society on the difference between Slave Society and Modern Society. This also shows that Modern Society can be governed on a single principle of <Private Man>. Keywords : Locke, Private Man, Civil society, preservation of property

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