野球害毒論争研究 : 新聞社間による部数獲得競争の視点から
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(2) 甲南女子大学研 究紀要 第 47号. 54. 文学 ・文化編. (20H年 3月. ). 以上 の各 問題点 につい て,具 体 的 に論証 してみ た い 。. 3.各 紙 の 対 応. まず ,① だが ,大 阪朝 日 (現 朝 日新 聞大阪本社 )に は,記 事 が一切 掲 載 されて い な い 。 ただ ,「 東 京紙 面 で掲載 中」 との 宣伝社告 は計 2回 掲載 されてお り,大. 当時,東 京 には 38社 ほ どの新聞社が内務省 に登録. 阪本社 に 申 し込めば購 読す るこ とは 出来 た。 しか し. されてい るが,実 際に新聞を定期的に発行 していたの. よつぽ ど関心 の あ る人や俎上 に乗せ られて い る学校. は 17社 にす ぎなか った。 この うち,害 毒論 に関わっ. ,. ,. 学 生 の 関係者以外 には,大 阪在住 で購 読す る人 は見 当. たのは 13紙 だが,内 容 は積極派 と消極派 に 2分 で き. た らなか っただろ う。具体 的 な購 読者数 の記述 は社 史. る。複数回の企画記事 を掲載 したのは 6紙 あ り,残 る. に もな く不 明 だが ,ま ず ,そ う断言 して間違 い な い も. 7紙 は 1回 程度の論説や コラムのほか,投 書 ,野 球講. の と思 われ る。 このため ,朝 日と同様 ,大 阪か ら東京 へ 進 出 した大阪毎 日も,東 京 日日の題字で発行 して い. 演会の予告,講 演会記事 を数回掲載 してお茶 を濁 して い る'。 しか し,現 在 のような運動面な どはな くめ,ス. た東京紙面 だ けで ,大 阪紙面 で は全 く扱 ってい な い。. ポー ツ記事が事件や事故な どとともに社会面に同居 し. 読売 は東京 の地域新 聞 で あ つたため ,大 阪 で は購 読 で. ていたことを考 えれば,条 件 の悪 い なかで,こ れだけ. きなか った。. 多 くの新聞が スポーツを論 じた ことは画期的で,ス ポ. そ こで ,疑 間が わ く。 なぜ ,大 阪朝 日は 「野球 と其 害毒 」 を掲載 しなか ったのか 。 この 点 に関 して も,社 史には記述が ない。 このため ,あ えて傍証 となる よ う. ー ツジャーナリズム史に特筆 される「事件」 だったこ とを証明 してい るといって も過言ではない。 さらに,各 紙 の立場 を分析すると,朝 日を無条件 に. な事 象 を探 してみ る と,当 時 の東京 と大 阪 の対立 ,も. 支持する論調は見当たらない。朝 日のように,学 生が. つ と具体 的 にみ る と,こ の 害毒論 を仕掛 けた東京社 会. 野球 をやること自体 を問題視するのではな く,大 部分. 部 の渋川玄耳部長 に対す るア レルギ ー の よ うな ものが. は,学 生 と野球 ,教 育 とスポー ツの視点か ら,野 球 を. あ ったので はない か。渋川部長 は「東京社会部 こそが 新 聞社 の 中心」が持論 で ,政 治や経 済 とい った本来 の. やることには理解 を示 してい る。つ まり,朝 日の主張 する野球 の害毒 は認めつつ,そ れ以上に野球 の利点な. 社 会部 の守備範囲 で はない分野 に対 して も積極 的 に取. どを強調する言説が 目立つ。「野球 は面白いスポ ー ッ. 材 させ ,記 事化 した。 このため ,政 治部や経済部 との. だか ら,熱 中 しす ぎて各種 の弊害 を生む。過熱 しない. 軋蝶 が絶 えず ,ま た プライバ シー を も考慮 しな い徹 底. ように指導す るのが教育者 の責務」 といった意見が多. 的 で 強引 な取材指揮 には社 内外 か らの批判 も多 く,そ. く,な かには,野 球 の利害 を離れて教育問題 に傾斜 し. の「勇名」 は大阪本社 に も届 い て い た。元 来 ,ど の社 で あ って も,東 西対 立 はあ る もので い,と くに個性 が. て しまう言説 もある。 いずれ に して も,当 時の学校教 育の現場 で,人 気 スポーツとなった野球へ の対応が大. 強 い大 阪発祥 の 新 聞社 に とっては,か な り大 きな問題. きな問題 になってい ることを示 してい る。. で あ つた。現在 で も,記 事 の扱 い な ど紙面制作 上 の対. 積極派 6紙 は,仕 掛 けた朝 日の 22回 を除けば,日. H回 ,国 民 6. 立 構造 は解消 して い な い。 あ くまで も類推 の域 を出な. 日 23回 を筆頭 に読 売 16回 ,中 外商業. い が ,新 聞社 の基本 的 な対立構 造 か ら考 える と,渋 川. 回,海 国 日報 3回 の企画記事 を掲載 してい る。 この う. ア レルギ ー は 本 質 の一 端 を突 い て い るの か も しれ な. ち,異 彩 を放 っているのは,中 外商業 だ。「野球界春. い。. 秋戦国」 の タイ トルで,特 に自らの立場 を鮮 明 にせ. しか し,結 果論 的 に言 えば,大 阪紙面 で害毒論 を扱. ず,各 紙 の記事内容 を論評する紙面批判,評 論家的な. わなか った ことで ,4年 後 に中等学校 野球 の全 国大 会. ス タイルをとってい る。 また,国 民 は「野球 の利害」. (現 夏 の 高校 野球 )を 開催す る際 に救 われた こ とだ け. と題 し,大 隈重信 (早 稲田大学総長),鎌 田栄吉 (慶. は確 かだろ う。 も し,大 阪紙面 で も扱 っていた ら,と. 應義塾大学塾長)ら の談話 を集め,反 朝 日の姿勢 を鮮. て も開催 は覚 束 なか った と類推 され る。「散 々野球 の. 明に して い る。 海国 日報 は,害 毒論争 を導火線 に し. 悪 口 を言 っていた舌 の根 も乾か ぬ うちに」 との批 判 を. て,目 的意識なき学生気質に矛先 をむけてい るのが特. 浴 びるの は必 定 だか らだ。実際 ,大 阪紙面 で は扱 って. 徴的だ。. い ない に も関わ らず ,同 様 の謗 りを受 け続 けた の も事 」 実 だ 。 それ ほ ど,こ の 害毒 論 は,強 い 印象 を与 えた. 4.朝 日,日. 日,読 売 の 関係. とい える。. 積極的 に関わつた朝 日,東 京 日日,読 売 3紙 の状況.
(3) 玉置. 通夫 :野 球害毒論争研 究. につ い て説 明す る と,大 阪か ら東京 に進 出 したのは. ,. 入 る前 に ,朝 日は 2つ の 前奏 的 な記 事 を掲 載 して い. H月. 朝 日と毎 日。 ともに全 国紙 と しての態勢 を整 えつつ あ. る。 まず ,前 年 の 明治 43年. り,朝 日は東 京朝 日 (通 称 東 朝 ),毎 日は東 京 日 日. 行化」 と題 し,学 生 の クラブ活動 で あ りなが ら,観 客. (通 称 日日)の 題字 で発行 して い た。. か ら試合 の入場料 を徴収 して い るこ とに絞 った 問題提. この 2紙 は,大 阪 で激 しい 部数獲得競争 を展 開 して. 25日 に「野球 の興. 起 を行 な ってい る。 しか し, この記事 は 1回 だ けで. ,. い た。 毎 日の前 身 で あ る大 阪 日報 は 1876(明 治 9)年. 掲載 の 意 図 は不 明 だが ,お そ ら く,早 稲 田や慶應 の試. に創刊 され ,大 阪朝 日は 3年 後 に発干Uし た。その後. 合 に入場料 を取 ってい る との情報 を基 に書 い たの は 間. 大毎 ,大 朝 の名称 で人気 を 2分 し,東 京 へ の進 出は 朝 日が早 く,1888(明 治 遅 れ の 1906(同. ,. ,. 21)年 。 一 方 ,大 毎 は 18年. 39)年 に よ うや く東 京 へ 出 て ,H. 44)年 3月 ,東 京 の最古 参紙 で あ る東京 日日を買 収 し,東 京 で も朝 日との部数競争 を繰 り広 げて い た。 そ ん な ところで 発 生 したのが野球 害毒 論 争 で ,日 日 は ,朝 日の害 毒 論 が始 まった 3日 後 か ら「 学 生 と野 (同. 球」 の タイ トル をつ けて連載 を開始 した。「野球擁護」. 違 い ない 。 さらに,同 44年 8月 20日 か ら「野球界 の 諸 問題」 の タイ トルで 4回 の記事連載 に踏み切 ってい る。 内容 は,早 稲 田 と慶應 を槍 玉 にあ げ,「 米 国遠征 の 間 ,全 く授 業 を欠席 して い るが ,単 位 は 取 れ るの か」,「 入場料 の使途 が不 明朗 。選手が料理屋 な どで遊 興す る費用 に当てて い るので はない のか」 とい つた疑 問点 を提示 して い る。 この 2つ の前奏 的記事 の うち,と くに後者 の「野球. の主 張 を掲 げ る投 稿 が 主 体 で ,徹 底 的 に対 立 した の. 界 の諸 問題」 は,当 時 の読者が抱 きやす い疑 間 を記事. も,両 紙 の 関係 か ら考 える と当然 だった。 い わば,害. に してお り,裏 付 け る資料 こそ ない ものの ,そ れ な り. 毒論争 は,大 阪 で展 開中 の「大朝. VS大 毎」 の代 理戦. 争 だった とみ るのが 妥 当 だろ う。論争分析 には欠かせ ない視 点 で あ る。. の 反響 があ ったので はない か と推察 で きる。 そ こで. ,. 意 を強 くして ,徹 底 的 に問題点 を追求す る性癖 が顕著 な渋川社 会 部長9が ,勝 負 に出たの は 自然 な成 り行 き. 一 方 ,読 売 は,こ の 2紙 とは異 な り,1874(同 7). だ った 。 しか し,「 野球 と其害毒 」 は ,功 を焦 りす ぎ. 年東京 で発干Jさ れた。 当時 は東京周辺 だ け を購 読範 囲. た 感 じが強 い 。「兎 に角やれ」 と部員 に発破 をか けて. とした地域 紙 で ,小 説 な どの 文芸物 を中心 とした紙面. の長期連載 だが ,内 容 的 には拙 速 でか な り問題点 も多. が特色 だった。 このため ,事 件 の よ うな社会面 ネタに. い。. は消極 的 な傾 向があ り,販 売戦略 に乏 しい 「文芸紙」. そ の 第 一 は,事 実誤 認 が 目立 つ こ とだ。 22回 の企. と椰楡 され る こ と も多 く,部 数 も 2,3万 部程 度 で 他. 画 は,最 終 回 の ア ンケ ー ト調査分析 を除 き,談 話 と投. 紙 との部数獲得競争 には,大 き く遅 れ を とっていた。. 稿 形 式。延 べ 36人 が意見 を開陳 して い るが ,こ の う. この 害毒 論 争 で は ,野 球擁 護 の立 場 か ら著 名 な教 育. ち 22人 が談話 に よって登 場 して い る。 つ ま り,談 話. 者 ,学 者が談話形式 で 見解 を発表す る「 問題 となれ る. 中心 で あ るのが ,こ のキ ャ ンペ ー ン企画の特色 だ。 こ. 野球 」 を計 16回 連載 して い る ものの ,談 話 主 の 言 説. れ は,こ の種 の企 画記事 では異夕1で あ る。 しか し,談. も比較 的淡 白な うえ,前 半 と後半 は連 日掲載 で ない た. 話 を掲載 した人たちは「教育 に関係 あ る先達 の公 平 な. め,東 京 日日の企画記事 「学 生 と野球」 に比 べ て迫 力. る意 見 」 と初 回 の 前 文 で 明記 して い る に もか か わ ら. 不足 ,印 象 の 薄 さは否定 で きない 。 しか し,ほ とん ど. ず ,野 球 は害毒 との立 場 が ほ とん どで ,公 平 な人選 と. が擁護派 で あ る弁士 を集 めた講演 会 を開 き,内 容 を紙. は とて も思 えない。 しか も,談 話 には信憑性 が乏 しか. 面 で完全収録 した手法 は見事 で ,東 京 生 え抜 きの各紙. った り,明 らか に事実誤認ではない か と思 われ る部分. の なかで は存在感 を示 した とい える。 ちなみ に,読 売. が散見 され る。談話 の 内容 を確 かめた り,本 人 に問 い. は大 正 末期 か ら昭和 にか け て ,ラ ジオ面 の創設や米大. 合 わせ た よ うな感 じがせず ,本 人の言 った こ とをその. リー グチ ーム の招請 で飛躍 的 に部数 を伸 ば したが ,朝. まま載せ て い るの は明 白で あ る。 事前 の確認作業 が行. 日や毎 日の よ うな全 国紙 態 勢 に な るの は ,戦 後 の 52. なわれて い ない な らば,現 在 な らば,ま ず掲載不 能 で. (昭 和. 27)年 に大阪へ 進 出 してか らであ る。. あ る。 ジ ャー ナ リズ ム と して の基本 を逸脱 して い る と い言 わ ざるを得 ない 。. 5。. 「 野 球 と其 害 毒 」 の 問 題 点. 具体 的 に指摘 す る と,2回 目に登 場 した東京府 立一 中 (現 東京都 立 日比谷 高 )の 川 田正激校 長 は,「 野 球. それでは,論 争 の火付 け役 となった朝 日の「野球 と. 選手が実際 出来 ぬ と云ふ 今 一 つ の証拠 は慶應 の神吉 と. 其害毒」について考えてみ よう。 このキャンペー ンに. 云ふ選手 です。彼 の選手 は選手 と して私が知 ってか ら.
(4) 甲南女子大学研究紀要 第 47号. 文学 。文化編. (20H年 3月. ). 既 に十年 になる。毎年落 第 して居 る と思 はれ る」 と断. 「小生 が記者 に対 して云 い た る事 と相 違 し居 る」 と し. 言 して い る。 ところが ,日 日紙 上 で 野 球 擁 護 派 の 作. て ,「 野 球 に 対 す る 余 の 意 見」 の タ イ トル で 投 稿 し. 家 ,押 川春 浪か ら「氏 は慶應幼稚 舎 よ りの純慶應 出身. た。内容 は,朝 日の記者が 「早稲 田なぞ に入 らず高等. に して選手 として約十年 間其名 を知 られたるは彼が運. 商業 に入 った な らば今頃 は もっ と幸福 で した ら うね」. 動 家 と して優秀 な りしが為 のみ ,学 業 に於 て も常 に中. と言 つたので ,「 人間 の幸不幸 は六 ヶ敷 (注 難 しい ). 位 以 上 を 占 め (以 下 略 )」 と反 論 され る 有 様 で ,結. 問題 で或 は御説 の 通 りか も しれん。思 ひや うに よって. 局 ,川 田校 長 は全 文 の 取 り消 しを朝 日に 申 し出 て い. は さう思 へ ぬで もない が」 と返 答 したが ,都 合 の 良 い. る。 この取 り消 し文 は「川 田氏 の 談 中神吉選手 に関す. 部分 だけ を取 り出 して脚色 された と強調 して い る。 ま. る分 は相違 の 点あ る由川 田氏 よ り申越 あ りた るを以 て. さに業 界 で「引 っ掛 ける」 と称す る手法 を使 ったわ け. 川 田氏 の 談 と しては全部之 を取消す」 とあ り,間 違 え. で ,河 野 は嵌 め られた ことになる。. た川 田氏が悪 い とい った ニ ュア ンスが感 じられ ,現 代 で は とて も考 え られ な い 文言 だ。 また ,「 知 名 の 選 手. 6。. 「 学 生 と野球 」 ,. 「 問題 となれ る野球 」 の 問題 点. の性行経歴 に関 しては別 に本社 に於 て詳細 に取調 べ あ るを以て他 日掲載 の機会あ るべ し」 とも記 し,事 態 を 深刻 に受 け止めて い る様子が伺 える。 しか し,不 確実. それで は,反 朝 日の急先鋒 だった 日日と読売 の記事. な談話 を掲載 した とい う事実 は残 るわけで ,朝 日の責. には,問 題点が ないの だろ うか。 ともに野球擁護 の立. 任が軽減 された こ とにはな らない 。. 場 を鮮 明 に してお り,と くに 日日は,朝 日の記事 の矛. 第二 は,談 話 の都 合 の 良 い部分 だけ を取 り出 して脚. 盾点 を突 く攻 め 方 は的 を射 て い ただけに面 白 く,読 者. 点だ。 この 問題 は現在 で も談話記事 の 中 で 色 して い る′. の共感 を得た。作 家 の押川春浪 が慶応大 ・神吉選手 ヘ. 指摘 され る ことが 多 く,ジ ャー ナ リズム に とつては永. の誤解 を指摘 した部分 では,朝 日も全文取 り消 しをせ. 年 の 課題 とい つて も良 い だろ う。害毒論 で は ,「 奮選. ざるを得 なか った し,早 稲 田大 ・河野講師 に対す る朝. 手 の懺悔」 との タイ トルで登場 した早稲 田大学講 師 ・. 日の取材態度 な どを難詰 して ,朝 日紙上 に河野 の 反論. 河野安通志氏 の 談話が問題視 された。河野氏 は,か つ. を掲載 させ た。 しか し,問 題点探 しが 一段 落す る と. て早稲 田大学野球部 の主 将 をつ とめ ,当 時 は母校 の 講. 押 川 の論調 も,枝 葉末節 に拘 った揚 げ足取 り,難 癖付. 師 を しなが ら野球部 の 面任1も みて い た。球 界全体 に も. けが多 くな り,そ の筆鋒 が感情論 に傾斜す る よ うにな. 広 く顔が売 れてお り,代 表的 な人物 だった。 そ の河野 氏が紙 上 で発 した談話 は,自 らの立場 を全否定す る強. ,. る。 このため ,最 後 は説得力 を欠 い た きらいが あ り 「 贔贋 の 引 き倒 し」 と他紙 に酷評 され るあ りさまつで ,. ,. ただ反対 のための 反対 に収敏 されて しま った。. 烈 な ものだった。 つ ま り,河 野氏 は ,「 後悔 して い る」 と大 見 出 しの. 読売 の 連載 は ,日 日に次 ぐ 16回 に及 んだ もの の. ,. 文 中 ,「 早稲 田なぞへ 入 らず に高等 商業 へ で も入 った. 前半 と後半 に休載が重 な り,盛 り上が りに欠 け た きら. らば ,と 時 々思 は ぬ で もな い 」,「 獅子 内君“は 自分 で. い が あ る。 嘉納 治 五 郎 (東 京高等 師範学校 長 ),三 土. も云 って居 るが全 く早稲 田 の野球 の 為 に犠牲 になった. 忠 造 (代 議士 )と い った 異 色 の 人材 を起 用 した り. 人」 と言 い 切 り,「 選 手 を買収 す 」 の 見 出 しで は. ,. ,. 「 野 球 は 普 及 しな い 」 との 意 見 も掲 載 して い る もの. 「 (野 球 を学校が広告 に遣 う との指摘 に対 し)如 何 に も. の ,日 日の よ うな記事量 もな く迫力が感 じられ ない。. 明治 は私 も非度 い と思 って居 る早稲 田 の 第二 選手 の投 手 であ った山下 な どは明治 へ 買収 されて行 った形辺が. 反対 に,講 演会 の 詳報 は,ほ とん どが一方 的 な朝 日糾 弾 の うえ,歯 切 れの良 い言説 ばか りとあ つて ,面 白か. あ る」 と語 った。 も し,こ の 発言 内容が本当な らば. った。 しか し,講 演者 の 内容 は大 同小異 のため ,一 気. ,. 河野氏 は相 当な覚悟 を しなければな らない はず だ。講. に大量 の 反害毒論 を読 まされた読者 は,辟 易 した に違. 師 は辞 さなければな らない し,大 学野球部 とも完全 に. い ない 。記事が多 けれ ば よい とい うもので はない か ら. 縁 を切 つて しまわなけれ ばな らな い だろ う。 そ の 後 の. だ。. 人生 を変 える ぐらいの衝撃的 な発言 で ,朝 日の紙面 を み た野 球部長 の安倍磯 雄教授が河野氏 の も とに駆 けつ. 7.部 数 な どへ の 影 響. け ,真 意 を質 したの も当然 の 動 きだ った 。 そ れ くら い ,イ ンパ ク トの あ る談話 だったのだ。 あ わてた河野氏 は,す ぐに反撃 した。 まず ,日 日に. ではいったい,こ の害毒論争 は,各 紙 ,と りわけ朝 日,毎 日,読 売の部数 にどんな影響 を与えたのだろ う.
(5) 玉置 通夫 :野 球害毒論争研究. か。明治末期 か ら大正 にか け ての発行部数 をみてみ る. 57. と言 うべ きだろ う。. と,害 毒論争 の流 れ を反映 して い る こ とが鮮 明 に分 か. 一 方 ,害 毒論争 で野球擁護派 の牙城 となって部数増. 11(明 治 44)年 の東京 にお け る元 日部数 は,朝. に結 びつ け た 日日 =大 毎 は,中 等学校 野球 へ の 関心 を. 日 12万 余 に対 し,日 日は 7万 6千 余 ,読 売 は 3万. 持 ちなが らも,主 催 して い た中等学校 のテ ニ ス大会が. 余"。 読売 は低迷期 だった こ と もあ り,12年 以 降 もそ. 盛況 だつた こと もあ って,野 球大会 開催 には様子見 を. れほ どの伸 びは見 られず ,害 毒論争 の恩恵 に浴 した と. 決 め込 んだ。 しか し,近 畿勢 の相 次 ぐ優勝 もあ って大. は, とて もい えるJ犬 況 で はなか った。 しか し, 日日は. 会 人気 は沸騰 し,大 毎 には焦 りが生 じた。 このため. 社説 も動員 した徹底 的 な反朝 日キ ャ ンペ ー ンが ,見 事. 20(大 正 9)年 ,「 球 界 の正 常 化 」 を ス ロー ガ ンに慶. 45)年 は朝 日の 12万 5千 余 に対 し,10万 3千 余 と 2万 余 まで迫 った 。 13(大 正 2)年 には約 1万 まで差 を縮 め ,つ い に 13(同 3) 年 には約 2千 の差 で朝 日を追 い越 した。. 応大 や明治大 な どで活躍 した選手 を入社 させ ,大 毎野. こ う してみ る と,や は り害毒論争 は朝 日に とって大. な野球 を介 した ライバ ル争 い は,複 雑 な始原 の 糸 を手. きな傷跡 を残 した とい えるだろ う。 と くに朝 日に とっ. 繰 って行 け ば,明 治末年 の害毒論争が源流 となって い. て痛手 だったのは,日 日紙上 で健筆 を振 るった押川春. るこ とを,如 実 に物語 って い る。. 9。. る. に功 を奏 した形 だ。 12(同. 球 団 を結 成 して各 地 で 試 合 を行 っ た (同. H)。. ,. さ らに ,24. 13)年 に選抜 中等学校 野球大会 を開催 して ,中 等. 球界 に参入 した。朝 日よ り遅 れ る こ と 9年 ,こ の よ う. 浪 ら野球擁護派が読 売 とは別個 の演説会 を開 き,朝 日 の不買運動 を仕掛 け た り,広 告 を出稿 しない よ うに企. 業へ働 きかける決議 をしたことだ。実際に,ど のよう な働 きかけがなされたのかは資料や証言 も残 ってお ら ず不明 だが,当 時,朝 日は 1面 を全面広告 にする大胆. )王. 1)新 聞紙 面 は ,発 刊 地域 に よって 大 き く異 な る。 大 阪 紙 面 で一 面 トップ記 事 が東 京 で は一 行 もの って い な い 現 象 もあ るほ どだ。. なページ取 りが売 り物 だっただけに,広 告 の質の劣化. 2)1914(大 正 3)年 に中等学校 野球 の三 高大 会 へ の支援 要 請 に対 し,大 阪朝 日新 聞 の 村 山龍 平社 長 は即 座 に こ. は直接経営 に響 く重大事であ り,こ の広告不掲載 を呼. とわ ってい るが ,そ の理 由 は害毒論 だ とみ られて い る。. びか ける攻勢 は相当応 えたようだ。朝 日の社史. 日. (朝. ││ら 野球擁護派は)朝 新聞百年史 ・明治編 )は 「 (押 り. 日の競争紙 である東 日 (東 京 日日)の 紙上 をか りて反 撃 し,(中 略)演 説会 をひらいて 『東朝不買』『広告不 掲載』 を決議 した。問題が深刻化 したので,東 朝 も (中. 略 )二 十 二 回で打 ち切 り,よ うや く妥協 が なっ. た」 と総括 してお り,「 妥協 がなった」 との表現 に. ,. 苦境 を逃れるために収拾 策 を模索 した ことを窺がわせ. 3)各 紙 の掲載 一 覧 は,別 紙 資料① 参照。 4)運 動 面 が登 場 す るの は,各 紙 が増 ペ ー ジ態 勢 とな る 昭和 に入 って か ら。 朝 日,毎 日が 1931(昭 和 6)年 に 創 設 し,読 売 は 29年 に運動欄 を新設。. 5)1908(明 治 41)年 6月 15日 ,作 家 の川上 眉 山が 自殺 した際 ,朝 日は ,短 い 通信社 の 記 事 で お茶 を濁 し,大 き く報 じる他 紙 に遅 れ を取 った 。 この ため ,渋 川 は川 上 の 家計 を徹 底 的 に洗 い ,預 金 通 帳 まで入 手 して調 べ た。 この手法 は,辱 愛 を買 った。. てい る。具体的なや り取 りな どは不明だが,朝 日は深. 6)早 大 出身で京浜電鉄社員 ,獅 子 内謹 一 郎。 7)9月 24日 読売 の「 問題 となれ る野 球 」 第 十 六. 刻に受け止め,と りあえず企画の掲載 を終了すること. 回 =筆 者注 )中 ,内 務書記官 ・潮恵之助 の言。. (最 終. なった。害毒論 を仕掛 けた東朝社会部長 ・渋川玄耳に. 8)別 紙 資料② 参照。 9)当 時 は ,元 日の 発 行 部 数 を内務 省 に届 け る こ とが 義 務 づ け られ て い た。 部 数 は ,朝 日 =朝 日新 聞百 年 史 ・ 明治編 ,日 日 =毎 日の 3世 紀 に依 ったが ,読 売 新 開発. 対す る大朝側 のアレルギーは拡幅 され,今 後ギクシャ. 展 史 に は明 治 32年 か ら大 正 12年 まで の 読 売 の 部 数 が. にした もの と考えてよいだろ う。 さらに,朝 日社内では,東 西本社間の対立が顕著に. クした関係が続 くことになる。害毒論 の紙面掲載 に与 しなかった大朝は,4年 後 ,大 毎 との部数競争 を意識 し,時 期尚早 とみ られていた中等学校野球 の全 国大会 開催に踏み込 んだ。全 くの賭 けだ ったが,回 を重なる. 省略 されてお り,読 売 の 部数 は推 定数。. 10)第 1回 中等 学校 優 勝 野球 大 会. (現 夏 の 大 会 )の 開催. 社 告 は ,東 京 紙 面 に掲 載 されず ,試 合 内容 も短 くお ざ な りだ った。. 11)プ ロ野 球 が なか った 当時 ,最 強 の チ ー ム とい われ. ,. たびに観客が増 え,夏 の高校野球 として定着す る「当. 米 国遠征 の 際 に は ホ ワ イ トハ ウ ス に も招 か れ ,大 統 領. た り事業」 とな り,当 初 は非協力的 だった東朝 Dも 巻. と記念写真 を写す ほ どの歓迎ぶ りだ つた。. き込んで社内融和 の原動力になったのは,皮 肉な展開.
(6) 文学 ・文化編. 甲南女子大学研 究紀 要 第 47号. 58. (20H年 3月. ). 資料① (各 紙掲載一覧〉 H月 25日. 記事. 8月 20日. 企画. 企画 2. 22日. 企画 3. 23日. 企画 4. 29日. 企画. 30日. 企画 2. 31目. 企画 3. 9月 1日. 企画 4. 企画. 企画 5. 企画 2. 卜画 6. 企画 3. 企画 7. 企画 4. 企画 8. 企画 5. 企画 9. 企画 6. 企画 lo. 企画 7. 13日. 日本. 万朝報. 二六新報. 報知. 国民. 中央. 海 国 日報 中外 商業. 1. 21日. 10日. や まと 時事新報. 東京 日日. 朝 日. 1. コ ラム. 広告. 広告. l. 記事 企画. 1. 企画 2 企画 企画 3. 企画. ll. 企画 8. 企画 4. 企画. 12. 企画 9. 企画 5. 企画. 13. 企画 10. 企画 6. H. 社説. 1. 企画. 企画 2. 投書. 社説. 社説. 企画. 企画 2. 企画 4. 企画 2. 企画 3. 企画. 企画 3. 企画 4. 3. 5. 企画 5. 企画 6. 企画 14. 企画. 企画. 企画 12. 企画 7. 企画 16. 企画. 企画. 企画. 企画 14. 企画 9. 企画 8. 企 画 15. 企画 10. 企画 9. 企画. 15. 18. 社告. 13. 16日. 企画 19 ※企画. 17日. 企画 20 ※企画. 企画 6 コ ラム. 8. l. 企画. 1. 企画 12. ll. 記事. 己事. 企画 7. 社説. 企画 10. 記事. 企画. 企画 22. H. コ ラム. 企画 21 19日. 1. 1. 企画. 企画. 18. 20日. 企画 19. 己事. 21日. 企 画 20. 企 画 13. 22日. 企画 21. 企画 14. 23日. 企画 22. 企画. 24日. 企画 23. 企画 16. 記事. 記事. 15. 記事. 談話記事. 記事. 短信. 社説. 短信. ※名称 としての新聞 は省略Э H月 25日 は明治 43年 ,以 後 は明治 44年 。 ※ (朝 日企画〉「野球 の興行化」 (11月 25日 )▽ 「野球界の諸問題」 (8月 20日 -23日 )▽ 「野球 と其害毒」 (8月 29日 か ら22回 )(東 京 日日 企画〉「学生 と野球」 (9月 1日 から23回 )〈 読売企画〉「問題 となれる野球」 (9月 3日 か ら 16回 )(国 民企画〉「野球の利害」 (9月 6日 か ら 6 回)(海 国企画〉「現代学生論」 (9月 8日 か ら3回 )(中 外企画〉「野球界春秋戦国」 (9月 7日 か ら H回 ) ※東京 日日の 16,17両 日は社説 と企画「野球が与ふる偉大な教訓」上下 も掲載 ※読売 の 8日 は コラムもあ り,10日 は社告 も。20日 の記事 は主催演説会詳報 (8ペ ージ). 資料②. 朝 日と毎 日の部数〉 〈 (明 治 43年 〉. 東京. 〈 明治 44年 〉. (明 治 45年 〉. 大正 2年 〉 〈. 朝 日. 毎 日. 朝 日. 毎 日. 朝 日. 毎 日. 朝 日. 111292. 96161. 120422. 76398. 125630. 103186. 134394. (大 正. 3年 〉. 毎日. 朝 日. 毎 日. 124321. 148495. 150014. 大阪. 166100. 166684. 182900. 269260. 190800. 293497. 198700. 307130. 241800. 321454. 合計. 277392. 262845. 303322. 345658. 336430. 386683. 333094. 431451. 396295. 471468. ※部数 は元 日調 査 した もの 。明治 44年 の毎 日 。東京 のみ 東京 日日との 合併 のため 3月 1日 調査 の 数字。 出典 は両社 史。.
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