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「漢胊忍令景君碑」(初拓本)に見る景雲とその周辺 利用統計を見る

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全文

(1)

「漢?忍令景君碑」(初拓本)に見る景雲とその周辺

著者

飯塚 勝重

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

49

ページ

1-18

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007386/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

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1

 

 

はじめに 二〇〇四年三月、中国長江の三峡ダム工事が進む中、吉林省文物考古研 究 所 三 峡 考 古 隊 が、 重 慶 市 雲 陽 旧 県 坪( 今、 重 慶 市 雲 陽 県 双 行 鎮 建 民 村 ) に お け る 漢・ 晋 胊 忍 県 古 城 遺 跡 か ら、 後 漢 時 代、 巴 の 胊 忍 県 令 に 就 任 し た景君の功績をたたえる石碑を発掘した。 「漢巴郡 胊 忍令広漢景雲叔于碑」 と称されるものであり、二〇〇六年五月『中国書法』に初拓本写真と共に 碑文の紹介が公刊された。さらに、改めてその初拓本が、二〇〇八年、中 国・ 河 南 美 術 出 版 社 に よ っ て 刊 行 さ れ た( 以 下 初 拓 本 と い う 1 )( 本 論 は こ の 初 拓 本 に よ る )。 ま た、 こ の 間、 『 重 慶 三 峡 博 物 館 ・ 重 慶 博 物 館 』( 文 物 出版社二〇〇五年六月刊 ・ 本文四頁参照)が碑の前面と両側のみであるが、 明瞭な図版を掲載、公刊された。さらに、これに関するつぎのような研究 報告が相次いで発表され、中国でも稀に見る石刻遺品として国宝級である と報道されるようになっている。 (1)  『漢 晋 胊 忍 県 城 多 年 発 掘 屡 結 碩 果   専 家 談 重 慶 市 雲 陽 県 旧 県 坪 遺 址 発 掘 的 意 義( 重 慶 市 文 物 局 吉 林 省 文 物 考 古 研 究 所 )』 ( 中 国 文 物 報 二〇〇五年三月第四版) (以下中国文物報という) (2)  魏敬鵬「読三峡新出東漢景雲碑」 (「四川文物」二〇〇六年二期) (以 下魏敬鵬という) 。 (3)  程地宇「 《漢巴郡 胊 忍令景雲碑》考釈」 (「三峽大学学報(人文社会学 版) 」第二八巻第五期二〇〇六年九月) (以下程地宇という) (4)  李 喬「 従《 景 雲 碑 》 看 景 氏 起 源 及 漢 代 以 前 的 遷 徙 」( 中 原 文 物 二〇〇九年四期) (以下李喬という) (5)  蒙 黙「 「 禹 生 石 紐 」 続 弁 」( 「 西 華 大 学 報 」( 哲 学 社 会 科 学 版 ) 第 二 九 巻第四期二〇一〇年八月) (以下蒙黙という) 以下、この石碑について碑形 ・碑文を紹介しつつ、この碑がもつ歴史的 背景及び意義について言及していきたい。   碑形 碑文の紹介 この石碑の概容については、初拓本に吉林大学教授・叢文俊の解説(以 下 叢 文 俊 と い う ) が 付 さ れ て お り、 序 文 に 続 い て「 一、 碑 文 簡 釈 」、 「 二、 書法考略」と二段に分けて碑文の形成・碑面の書体などを考察し、楷書に

 

 

 

 

 

 

「漢

忍令景君碑」

(初拓本)に見る景雲とその周辺

(3)

「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 よる碑文全文の紹介とともに、前面および両側の碑影を一頁に、碑文局部 を二五頁にわたって収載している。碑文の主人公、景雲叔于(諱は雲、字 は叔于)の事績等を追究する前に、 碑刻全体の構成及び碑面の特徴などを、 叢 文 俊 の 解 説 に 随 い 紹 介 し て 置 き た い( 以 下 単 に 景 君 碑 と い う )。 な お、 本論においては、本論中の引用資料等は、原則として、常用漢字で表記す る事をお断りしておきたい。 まず、叢文俊の序文にみる碑全体の構成は次の通り紹介される。 「 碑 は 二 つ に 断 裂 し て お り、 割 れ て い る 部 分 の 文 字 一 〇 余 字 が 損 壊 し て いる以外は、完全で新しい物のようである。およそ一三行、三六七字、八 部隷書(後述)である。この碑の横は八一㎝、縦一八二㎝、四周は花紋の 図 案 が 彫 刻 さ れ、 有 穿( 碑 面 上 部 の 真 ん 中 に は 丸 い 穴 が 穿 た れ て い る 2 。 碑は上部が暈(かさ)状(円首碑形)になっており、 (碑の)題銘は無く、 左側に朱雀〔金烏〕が彫られ、右側には玉兎が彫られ、日月を象徴してい る 3 。 真 ん 中 に 婦 人( 冠 を 被 っ た 婦 人 ) が 門 を 掩( ふ さ い ) で お り、 四 川 蘆 山 出 土 の( 後 ) 漢・ 献 帝、 建 安 一 七 年〔 紀 元 二 一 二 年 〕 「 王 暉 石 棺 銘 」 に、 門 を ふ さ い で い る 婦 人 が 彫 ら れ て い る の と 同 工 異 曲 の 妙 が あ る 4 。 碑 の側面に青龍・白虎が浮かし彫りされ、造形はすこぶる生き生きとしてい る 5 。 こ の 碑 の 形 式 は き わ め て 特 色 を 備 え て お り、 正 に 巴 蜀 文 化 よ り 出 で たもので、碑についてなお追求すべきものがあると雖も、見えるところの 彫刻や書法には、中原と拮抗するもので、漢代西南第一位の碑というべき ものである。 」(   )内は筆者補筆。 以 上 の 序 文 紹 介 に よ れ ば 、 こ の 碑 は 後 漢 代 、 益 州 ・ 巴 郡 胊 忍 県 令 景 君 、 諱 は 雲 、 字 は 叔 于 を 追 悼 す る 碑 刻 で あ り ( 程 地 宇 は 神 道 碑 と す る 6 。) 、 時 代 に 叶 っ た 書 法 ( 八 部 隷 書 )( 後 述 ) と 、 現 地 巴 郡 に 共 通 す る 装 飾 彫 刻 で 縁 取 ら れ て い る 様 子 が 伺 わ れ る 。 但 し 、 碑 面 両 横 に 彫 ら れ た 白 虎 ・ 青 竜 の そ れ ぞ れ の 頭 上 に 墨 色 ・ 円 形 の 模 様 が 彫 ら れ 、 常 識 的 に は 日 ・ 月 を 思 わ せ る が 、 僅 か に 線 刻 が う か が え る も の の 、 い か な る 文 様 が 彫 ら れ て い た か 、 判 明 で き な い の は 遺 憾 で あ る 。 な お 、 叢 文 俊 は 碑 文 紹 介 の 末 尾 で 次 の よ う に 云 う 。 「 こ の 碑 文 の 書 式 と こ れ ま で 見 て き た 漢 碑 の 体 裁 と は 異 な る 物 が あ り、 例えば、 碑題を額に記さず、 且つすぐに卒年を記し、 卒年の次に正文を続け、 『君諱は謀、字は謀謀』の叙述習慣に依らず、 『景雲叔于』に作るなどなど である。この碑には、いくつかの別字に頗る特色があり、衛の字は『艹』 、 况字は『兄』の上に点を加えており、艾字は『艹』に従い、 『叉』に従い、 遐 字 は『 假 』 と な る な ど、 字 に 古 形 を 保 留 し て 居 り、 楚 字 の 如 き は『 林 』 に従い、 『足』に従い、 中字の下部に二点を加え、 野字は『田』に従い、 『予』 に従い、 『土』に従うなどである。 」 以上のような指摘を考慮しつつ、原則として初拓本 ・ 叢文俊釈文に従い、 全文を次に掲出し、碑文に使用された原字との比較は誌面の都合上、別掲 の写真版を参照されたい。特に叢文俊の解字および(   )内に他の論著者 が指摘する解字の異同のみ末尾に掲げることとしたい。 訳文は筆者である。 1漢巴郡 胊 忍令廣漢景雲叔于以永元十五年季夏中旬己亥卒君帝高陽之 2苗裔封茲 熊氏以國別高祖龍興婁敬畫計遷諸關東豪族英傑都于咸陽 3攘竟蕃衛大業既定鎮安海内先人伯況匪志慷慨術禹石紐汶川之會幃屋 4甲帳龜車留 遰 家于梓 湩 六族布列裳 絻 相襲名右冠盖君其始仕天 明哲

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 3 5典牧二城朱紫有別彊不淩弱威不猛害政化如神烝民乃厲州郡竝表當亨 6符艾大命顛覆中年徂 殁 如喪考妣三載泣怛遏勿八音百姓流涙魂霊既載 7農夫 結行路撫涕織婦 喑 咽吏民懐慕戸有祠祭煙火相望四時不絶深墅 8曠澤哀聲忉切追歌遺風嘆績億世刻石紀號永永不滅嗚呼哀哉嗚呼哀哉 9讃曰皇霊炳璧郢令名矣作民父母化洽平矣百工維時品流刑矣善勸惡懼 10物咸寧矣三考 絀勑 陟幽明矣振華處實暢遐聲矣 11重曰皇霊禀氣卓有純兮惟汶降神挺斯君兮未升卿尹中失年兮流名後載 12久而榮矣勒銘金石表績勳兮冀勉來嗣示後昆兮 13熹平二年仲春上旬 胊 忍令梓 湩 雍君諱陟字伯曼為景君刊斯銘兮   ― 楚   竟 ― 境   況 ― 沇 ( 魏 敬 鵬 = 碑 文 は 沇 で あ る が、 沇 と 杼 は「 二 字読音更為近似」 であるから杼とすべきであるとする。 程地宇は况とする。 )   湩 ― 潼   六 ―( 魏 敬 鵬 = 九 7 )  浚 ―( 魏 敬 鵬 = 碑 面 は 淩 と 読 め る が 凌 と す る )  亨 ―( 程 地 宇 は 享 と す る )  徂 ―( 魏 敬 鵬 = 殂 と す る )  遏 ―( 魏 敬鵬=退とする)   ― (魏敬鵬 ・ 程地宇は惻とする)   曼― (魏敬鵬=寧、 程地宇= (曼 8 )) ( 後 ) 漢・ 巴 郡 胊 忍 の 令、 廣 漢 の 景 雲・ 叔 于 は 永 元 十 五( 一 〇 三 ) 年・ 季 夏 中 旬 の 己 亥 を 以 て 卒 す。 君、 帝・ 高 陽 の 苗 裔、 茲( こ こ ) ( 楚 ) の 熊に封じられ、氏以て国と別にす。高祖龍興し、婁敬、計劃して諸關東の 豪族英傑を遷し、 咸陽を都とす。竟(境)を攘(はら)い蕃より衛(まも) る。 大 業 既 に 定 ま り、 海 内 鎮 安 す。 先 人 伯 況( 沇 )、 匪( 彼 ) の 志、 慷 慨 するあり、禹の石紐・汶川の会に、幃屋甲帳もて、龜車、留 遰 (往来)を 術(述)ぶ。梓 湩 (潼)に家して、九族布き列べ、裳 ・ 絻 (冕)相い襲う。 名 右・ 冠 盖 あ り。 君( 景 君 )、 其 の 始 め て 仕 え る や、 天 ( 性 ) 明 哲、 二 城を典牧し、朱紫別有り。彊きに弱きを淩(おか)さず。威あるも猛き害 をせず。政、 化(教え) すること神の如し。烝民乃りて州郡に厲 (はげまし) て、 竝び(上)表し、 當に符艾を亨くるべしと。大命顛覆、 中年にて徂没す。 考妣を喪う如く、 三載、 泣き怛(かな)しみ、 遏(退) (や)めて八音勿し。 百 姓、 涙 を 流 す も、 ( 景 雲 の ) 魂 霊 既 に( 籍 に ) 載 せ ら れ、 農 夫 は ( い た)み結び、 行路に涕撫(おさ)え、 織婦は 喑 咽 (すすりむせ)ぶ。吏民、 懐しみ慕いて、戸ごとに祠祭煙火有り。相望むに四時絶え不(ず) 。深墅 ・ 曠 澤 ま で、 哀 し み の 聲、 忉( う れ う こ と ) 切 に、 遺 風 を 追 歌 し、 ( 功 ) 績 を嘆(たた)えること億世、石に刻み號を紀し、永永として滅びず(不) 。 嗚呼、哀しい哉   嗚呼、哀しい哉。 讃に曰く、皇(きみが)霊、炳(かがやける)璧ぞ、郢(楚)の令名あ り(矣) 。民を作(おこ)し、父母に洽平を化(おし)う(矣) 。百工、維 時 (これとき) に品流 (家柄) に刑 (のっとる) (矣) 。善を勸め惡を懼れ、 物、咸な寧かなり(矣) 。三考 絀勑 あり、幽明に陟(のぼ)す(矣) 。振華 の處實あり、遐(はるか)なる聲を暢(の)ばす(矣) 。 重ねて曰く、 皇霊氣を禀 (う) け、 卓(すぐれ) て純 (まこと) 有り (兮) 。惟、 汶 に 神 降( く だ ) り、 斯 る 君 を 挺( ぬ き ん ) ず る も( 兮 )、 未 だ 卿 尹 に 升 (のぼせ)ずして、中にして年を失なう(兮) 。流名あること後載に久しく して(而)榮(かがやけ)り(矣) 。銘を金石に勒し、績勳を(兮)表す。 冀くば來嗣に勉めて、後昆に示さん(兮) 。 熹平二(一七三)年、仲春・上旬、 胊 忍令梓 湩 (潼)雍君、諱は陟字は

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 巴郡 胊 忍令景雲碑( 『重慶中国三峡博物館・重慶博物館』文物出版社刊所収)

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 5 伯曼( か) 、景君が為に斯かる銘を刊す(兮) 。  叢 文 俊 の 「 二 、 書 法 考 略 」 に は 八 分 隷 書 に 関 わ る 考 察 と 書 法 史 に 関 す る 詳 細 な 解 説 が 加 え ら れ て い る が 、 八 分 の 解 釈 自 体 に 諸 家 の 説 が あ り 、 一 定 し て い な い と い う 。 秦 の 小 篆 を 改 良 し て 隷 書 体 が 始 ま る が 、 前 漢 代 中 期 、 簡 牘 に 書 き 付 け る 便 冝 上 を 機 に 発 展 し た と い わ れ る 。 し か し 、 八 分 隷 書 と は 、 楷 書 に 達 す る 前 段 階 の 八 分 か 、 書 法 ・ 書 体 の 部 分 が 八 分 に 止 ま る の か 、 現 在 で も 流 派 に よ っ て 意 見 が 異 な り 、 定 説 は 無 い と 云 わ れ る 。 叢 文 俊 は 景 君 碑 の 字 体 の 特 徴 か ら 八 分 隷 書 で あ る と い う の は 、 王 羲 之 「 蘭 亭 帖 」 の 近 の 字 の 特 徴 か ら 「 近 字 雁 尾 波 」 と い わ れ 、 「 缺 波 」 別 名 「 撃 石 波 」 と い う 戈 守 智 ( 清 ・ 平 湖 の 人 、 字 は 達 夫 )『 漢 谿 書 法 通 解 ・ 運 筆 第 四 ・ 磔 法 異 勢 』 の 説 を 次 の よ う に 引 い て い る 。「 撃 石 波 の 勢 い 、 原 本 は 章 草 ( 筆 者 注 ・ 草 書 の 一 体 )、 状 は 水 の 泉 よ り 流 れ 出 し 、 そ の 下 石 に 遇 い 、 激 し て 上 を 過 ぎ る な り 。 『 書 法 三 昧 』 は こ れ を 「 近 字 雁 尾 波 」 と 言 い 、則 ち 『 蘭 亭 』「 欣 」 字 な り 。 ま た 、 唐 人 分 法 毎 に こ の 勢 を 作 り 、 而 し て 体 に 肥 重 を 加 え る 、 い わ ゆ る 「 開 元 式 」 で あ る 」 と 。 筆 者 は 書 道 史 に 暗 く 、 具 体 的 な 説 明 も 覚 束 な い が 、 初 拓 本 の 写 真 に よ り 字 体 を 一 覧 い た だ き た い 。 現 段 階 で は 叢 文 俊 の 解 説 は 最 も 妥 当 な も の と 理 解 す る 。 な お 、 碑 刻 に は 工 人 の 名 を 刻 み こ ま れ る も の が 多 く あ る が 、 景 君 碑 に は そ の 名 が 見 ら れ な い 。 県 令 雍 伯 曼 の 染 筆 に よ る か 、 県 令 の 下 に 仕 え る 能 筆 の 工 人 の 手 に よ る も の で は な い だ ろ う か 。    なお、同じ後漢代に建碑されてその後多くの拓本があり、書道史上様々 に 研 究 さ れ て い る『 北 海 相 景 君 碑 』( 永 嘉 元〈 一 四 五 〉 年 ) が あ る。 原 碑 は山東省斉寧に建てられ、景君碑の重慶市とは東西遠く離れているが全体 は八分隷と言われる。ただし、文字はやや縦長気味である。原碑の文字に 欠落等あり、 拓本では多くの文字が読み取りにくいが、 なお多分に「篆意」 が 残 っ て い る と い う 9 。 景 君 碑 と 同 字 が 少 な く 比 較 は 困 難 で あ る が 景 君 碑 は全体として隙無く優雅な八分隷を保っているといえよう。   北海相景君碑(部分)     程 地 宇 の 本 注 6 の 指 摘 は 景 君 碑 を 神 道 碑 と す る こ と を 最 も 適 当 と す る が、ただし、この碑が墓地、墓石とどのように関わるか、入手した写真や 説明に碑の底(下部)に関わる説明等がなく、 碑の安定を図るため趺(台) 座に差し込む挿 榫 (ほぞ)がついているが、差し込む先の台座そのものの 存在(例えば龜型に刻むとか)が全く不明確である。 後 漢 時 代、 県 令 等 の 任 用 は 本 貫 地 以 外 と さ れ る か ら 10 、 景 雲 の 本 籍 地 は 益州・広漢郡梓潼県であり、遺体は本籍地に搬送され葬儀が行われたはず であり、景君碑は墓地と関わりなく建碑されたと思われる。常 璩 撰『華陽 国 志 』 巻 一・ 巴 郡 の 条 に、 「 巴 郡 厳 王 思、 為 揚 州 刺 史、 惠 愛 在 民、 毎 當 遷 官、吏民塞路攀轅、詔遂留之、 居官十八年卒 、百姓若喪考妣、 義送者 賷 銭 百万、欲以贍王思家、其子徐州刺史不受、 送吏義崇 不忍持還、乃散以為食

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 行客」 とあるのが (―線筆者) 一例で任地に墓所が無かったことを意味する。   景君の出自 後 漢 の 胊 忍 県( 後 述 ) 令、 益 州・ 広 漢 郡 梓 潼 県 出 身 の 景 雲 は 永 元 一 五 ( 一 〇 五 ) 年 夏、 亡 く な っ た。 原 因 は 不 明 で あ る。 碑 面 の 最 初 に は、 景 雲 の先祖の由来が示されている。伝説の時代はともかく高陽氏(帝顓頊)の 苗裔というから、 『史記』 巻四〇 ・ 楚世家に 「 楚先祖出自帝顓頊高陽、 高陽者、 黄帝之孫、昌意之子也、 (略)呉回生陸終、陸終生六人、 (略)其長一曰昆 吾、二曰参胡、三曰彭祖、四曰会人、五曰曹姓、六曰季連、 羋 姓、楚其後 也 」 とあり、 これらに基づき祖先は楚の出自とされる。ただし、 碑面の「封 茲楚熊氏以国別」については、叢文俊は、 「封茲楚熊氏」と読み、魏敬鵬、 程地宇、李喬は共に「封茲楚熊」 「氏以国別」とする。 『史記』楚世家には 「周文王之時、季連之苗裔曰鬻熊、 (中略)熊繹当周成王之時、擧文 ・武勤 労之後嗣、而封熊繹於楚蛮、封以子男之田、姓 羋 氏、居丹陽」と周の異姓 諸 侯 と な っ た と さ れ、 以 後 代 々、 羋 姓 熊 氏 の 王 が 継 承 さ れ て い く が、 『 戦 国策』 「西周策、 雍氏之役」昭應の臧励龢注に「昭應楚將、 昭屈景皆楚族姓」 と あ り、 ま た「 楚 策・ 楚 辛 謂 楚 襄 王 」 の 同 注 に、 「 楚 辛、 楚 荘 王 之 後、 以 諡為氏」とあるように、楚王の族子が諡を以て氏を立てることが認められ ていたことが伺われ、景氏は直接の王の諡ではなくも、公族の一人に景氏 を名乗る者がでて、その諡を以て熊氏から離れたのではないかと推測され る 11 。それが既に宇都木章が指摘されたように 12 、屈原『楚辞』 「漁夫」の「子 非三閭大夫與」に対する同文を掲げた『史記』巻八四 ・ 屈原賈生列伝(與 は歟とする)集解注に「離騒序曰、三閭之職、掌王族三姓、曰昭屈景、序 其譜属、率其賢良以厲国士」と王逸序をあげており、既に歴史的に有名と なっていた三世族の一つである景氏の出自であると碑は主張している。そ こで、戦国・楚国における景氏の動きをできる限り拾い集めて行きたい。 景舍   景氏の個人名が最初に出るのは、 『戦国策』 「楚策 ・ 邯鄲之難」に、 昭溪恤が楚の宣王に、趙が魏に攻められようとも、楚は趙を救うことなく 共倒れになるのを待てば良いと進言したのに対し、景舍は「不然、昭溪恤 不知也、 ・・ 」と進言して「楚因使景舍起兵救趙、 邯鄲抜」とあり、 さらに、 『水経注』巻三〇 ・ 淮水篇に「 『竹書紀年』梁恵成王一八(周顕王一六)年、 恵 成 王 以 韓 師 敗 諸 侯 師 於 襄 陵、 斉 侯 使 楚 景 舍 来 求 成、 即 于 此 也 」 と あ り、 楚宣王一七(前三五三)年のことである。 景翠   楚の威王(前三三九―前三二九)の時であるが、既に呉を亡ぼし た後の越が、王無彊の時、 『史記』巻四一・越王勾践世家に、 「越興師、北 伐斉、西伐楚、与中国争疆、当楚威王時、 (中略)楚三大夫張九軍(中略) 景翠之軍、北聚魯 ・ 斉 ・ 南陽、分有大此者乎、 (中略)於是越遂釈斉而伐楚、 楚威王興兵而伐之、 大敗越、 殺王無彊、 尽取故呉地、 至浙江、 北破斉於徐州」 とあり、斉の威王の死去年代と関わり、六国年表も威王七(前三三三)年 と す る が、 そ れ 以 降 と す る 注 釈 も あ る。 ま た、 『 戦 国 策・ 東 周 』( 高 誘 注・ 四 部 備 要 本 ) に は、 「 秦 攻 冝 陽、 周 君 謂 趙 累 曰、 子 以 為 何 如、 対 曰、 冝 陽 必抜也、君曰、冝陽城方八里、材士十万、粟支数年、公仲之軍二十万、景 翠以楚之衆臨山而救之、秦必無功、 (中略) 、謂君景翠曰、公爵為執圭、官 為柱国、 戦而勝則無加焉也、 不勝即死、 (中略) 、 景翠得城於秦、 受宝於韓、 而徳東周」とあり、 『史記』六国年表では、周 ・ 顕王三四年、楚 ・ 夷王五年、

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 7 前三三五年のこととし、その後も周は景翠を用いようとした記事が見られ るが、年代は不詳である。 景鯉   懐王即位の年(前三二八) 、『戦国策・楚策』によれば、斉の使い が 楚 の 西 北 の 土 地 五 〇 〇 里 を 求 め て 来 た と き、 懐 王 は 上 柱 国 子 良、 昭 常、 景 鯉 ら の 意 見 を 聞 き、 「 王 以 三 大 夫 計 」 を 巧 み に 使 い、 結 局 は 斉 に 断 念 さ せ る の で あ る が、 景 鯉 の 意 見 は、 「 不 可 与、 雖 然 楚 不 能 独 守( 中 略 ) 臣 請 西索救於秦」と答え、王命により秦に赴き、秦師の斉への派遣に成功、斉 はこれらを見て断念した、とある。 景缺 (或いは景快と同一人か)   『史記』 巻四〇 ・ 楚世家に、 「懐王二九 (前 三 〇 〇 ) 年、 秦 復 攻 楚、 大 破 楚、 楚 軍 死 者 二 万( 秦 本 紀 三 万 )、 殺 我 将 軍 景缺」 (同巻一五 ・ 六国年表も同一)とあるが、同巻四一・秦本紀、昭襄王 六(前三〇〇)年には、ただ「庶長奐伐楚、斬首二万」とあるのみで景缺 の記事はない。しかし、同昭襄王九(前二九八)年に「奐攻楚取八城、殺 景快」とあり、景缺と同一人か別人か或いは錯簡か、議論のあるところで あるが結論は困難である。 景陽   『史記』巻四〇・楚世家、考烈王六(前二五七)年に「秦囲邯鄲、 趙 告 急 楚、 楚 遣 将 軍 景 陽 救 趙 」( た だ し、 こ の 時 の 楚 は 春 申 君 を 遣 わ し た もので、景陽の派遣は一五年ほど前のことであるとの『史記会注考證』の 指摘もある) 。 こ の ほ か 景 氏 と し て は 屈 原 以 降 に 出 た、 宋 玉 ら と 並 ん で 詞・ 賦 に 優 れ た (『 史 記 』 巻 八 四・ 屈 原、 賈 生 伝 )、 秦・ 漢 交 替 の 際、 陳 渉 興 起 の 間 隙 を 縫 っ て 広 陵 の 人 秦 嘉 が 楚 人 の を 楚 王 に 立 て、 反 乱 を 起 こ し た が 間 も な く 項 梁 に 滅 ぼ さ れ た( 『 史 記 』 巻 七・ 項 羽 本 紀 ほ か ) と あ 姓・名     有記事年代    地位・職掌     出   典         関連事項 景   氏     戦国・楚     三閭大夫    史記八四屈原    楚辞・王逸・離騒序         賈生列伝     掌王族三姓昭屈景 景   舍     楚宣王元           戦国策・楚策   趙救出、昭溪恤と対立、            前三六九         使景舍起兵救趙 景   鯉     楚懐王元     三大夫     戦国策・楚策   斉土地要求、景鯉西索救        前三二八         於秦 景   差     屈 原 死 ( 前 二   詞・賦大家   史記八四屈    景瑳ともする        七 八 ? ) 以 降         原賈生列伝 景   陽     楚考烈王六    将軍      史記四〇 ・楚    秦囲邯鄲趙告急楚、楚遣           前二五七           世家       将軍景陽 春申君説あり 景   伯     楚 考 烈 王 一 二   柱国      史記一五・六    柱国景伯死        前二五一死          国年表 景   駒     秦二世元 ―    楚王      史記七・項羽   当是時秦嘉已立景駒為           前二〇九死         本紀       楚王 ( 楚の人 ) 、項梁討 景   快?    秦昭王九?    將       史記五秦本紀    庶長奐攻楚取八城殺其        前二九八         將景快   缺と同一人か 景   缺     懐王二九     将軍      史記四〇 ・楚    秦復攻楚殺我将軍        前三〇〇死          世家        六国年表同じ 景   翠     楚威王七?    三大夫    史記四一越王   楚大破越、史記六国年表        前三三三?          勾践世家     同とするも年代諸説有り        前三三五?    柱国      戦国策・東周     戦国・楚国景氏一覧

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 る。以上のような楚における景氏の位置は景君碑で記すよう、 『史記』 巻八 ・ 高祖本紀、高祖九(前一九八)年に「是歳徙貴族楚昭・屈・景・懐、斉田 氏関中」とあるのが、景氏の出自を端的に示しているといえよう。   関中・巴・蜀における景氏   前漢・関中における景氏   既に見てきたように戦国楚の貴族景氏は、漢 の 建 国 と 都 咸 陽 の 建 設 に 伴 い、 関 中 盆 地 開 発 の 役 割 を 背 負 っ て 他 の 貴 族・ 豪 族 と 共 に 前 一 九 八 年、 一 族 を 挙 げ て 移 動 し た。 『 史 記 』 巻 九 九・ 劉 敬 伝 に お い て、 劉 邦 は 当 初 都 を 洛 陽 に と 考 え て い た が、 婁 敬( 後 劉 敬 と な る ) の進言により咸陽とすることを決した。婁敬は「且夫秦地被山帯河、四塞 以為固卒然有急、百万之衆可具也、因秦之故、資甚美、膏腴之地、此所謂 天府者也」と上言した。この間北方に勢力を固めた匈奴冒頓単于の侵入と 高祖劉邦が単于にとらえられる事件が起こったが、婁敬の画策により無事 脱 出 す る。 こ の 事 件 に よ り、 婁 敬 は さ ら に 上 言 す る。 「 今 陛 下 雖 都 関 中、 実少人、北近胡寇、六国之族宗疆、一日夕変、陛下亦未得高枕而臥也、臣 願陛下、徙斉諸田、楚昭屈景、燕趙韓魏後及豪族名家居関中、無事可以備 胡 ・ 諸侯有変、 亦足卒以東伐、 此彊本弱末之術也」と。これに対し「上曰善、 迺 使 劉 敬 徙 所 言 関 中 十 余 万 口 」 と あ り、 「 索 陰 曰 案 小 顔 云、 今 高 陵・ 櫟 陽 諸田、 華陰 ・ 好畤諸景、 及三輔諸屈 ・ 諸懐、 尚多此時所徙也」と注がある。 『漢 書』高帝紀第一下・九(一九八)年一一月に「徙斉楚大族昭氏屈氏景氏懐 氏田氏五姓関中、 与利田宅 (師古曰利謂便好) 」 とある。都長安 (高祖五年) が築かれると共に、秦の滅亡により混乱した関中平原の治安を図り、北方 から進入を伺っていた匈奴の蛮からの防衛や旧戦国六国勢力の反抗にも備 える為であったろう。なお、華陰は関中平原への東の入り口に当たり、好 畤 は 咸 陽 の 西 に 当 た る。 景 氏 一 族 は 東 西 二 個 所( 『 漢 書 』 地 理 志 は 長 陵 に も徙すとある ― 後述)に移されたのであるが、建国当初の前漢王朝の基礎 を築く先導役を担わされていたと思われる。しかし、その後、景氏は前漢 一代を通じて特別に有力な官僚・軍人が出た記録も見えない。その上、後 に 一 族 挙 げ て 蜀 の 梓 潼 に 移 り 住 む の で あ る が、 そ の 時 期 は 明 瞭 で は な い。 今、碑文にそってその時期を考察してみよう。 梓潼移住の景氏   碑文は景雲直接の祖先の記述となるが、頭初の先人伯 況 ( 沇 = 杼 ) と は い つ の 時 代 、 ど の よ う な 地 位 に あ っ た か 不 明 で あ る 。「 大 業 既 定 鎮 安 海 内 。 先 人 伯 況 匪 志 慷 慨 術 、禹 石 紐 汶 川 之 会 、幃 屋 甲 帳 、龜 車 留 遰 、 家 于 梓 湩 、 九 族 布 列 、 裳 絻 相 襲 、 名 右 冠 盖 」 と あ り 、 魏 敬 鵬 と 程 地 宇 は 「 先 人 伯 況 」 よ り 景 雲 の 直 接 の 祖 に 関 わ る 記 述 の 初 め と す る が 、 蒙 黙 は 「 大 業 既 定 鎮 安 海 内 、 匪 志 慷 慨 術 」 と 先 人 伯 況 を 抜 い て 説 明 す る 。 魏 敬 鵬 は 、 嘗 て 景 氏 は 伯 禹 の 佑 ( 助 ) に よ り 禹 の 会 同 に 列 し 、 夏 の 礼 装 を 継 ぐ 家 柄 と し て 「 伯 沇 ( 杼 ) 的 英 明 保 佑 后 人 世 為 宦 官 、 冠 蓋 服 飾 和 車 上 、 又 指 仕 宦 、 貴 官 或 宦 官 世 家 」 と い う も 、 梓 潼 へ の 移 住 時 期 に は 触 れ て い な い 。 程 地 宇 は 本 文 を 「 先 人 伯 況 匪 志 慷 慨 」 と 切 り 、「 術 禹 石 紐 」「 汶 川 之 会 」 と つ な ぎ 景 氏 は 聖 禹 の 後 を 承 け 、 幃 屋 甲 帳 、 龜 車 を 連 ね る 家 柄 で あ っ た が 、 前 漢 初 め 移 住 さ せ ら れ 、 今 、 禹 の 聖 地 汶 川 に き て 車 か ら 見 る と 、 東 北 方 が 移 住 し た 聖 地 に 当 た る と し て 、「 先 人 伯 況 在 汶 川 朝 聖 帰 来 、 所 乗 之 車 、 留 滞 于 途 中 、 于 是 就 在 梓 潼 定 居 下 來 」 と あ り 、 名 右 冠 蓋 の 家 柄 と し て 、 以 下 梓 潼 に 定 着 し た と す る 。 一 方 蒙 黙 は 、 先 ず 、 有 名 な 前 漢 末 、 揚 雄 『 蜀 王 本 紀 』 の 「 禹

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 9 本 汶 山 広 柔 県 人 、生 石 紐 、其 地 名 痢 儿 畔 」( 譙 周 『 蜀 本 紀 』 は 「 刳 儿 坪 」 と す る ) を 引 き 、「 禹 生 石 紐 」 に つ い て 詳 細 な 注 釈 を 加 え 、 漢 代 の 汶 川 県 は 綿 虒 県 と 言 い 、 故 広 柔 県 に あ た り 、 唐 代 の 茂 州 汶 川 県 の 西 七 二 里 に あ た る 。 今 の 汶 川 県 で あ る が 、 漢 代 に は 汶 川 県 は な か っ た 。 漢 代 に あ る 汶 江 県 と す る と 広 柔 県 は 汶 江 と 綿 虒 の 西 に あ り 、 汶 と 岷 が 二 字 通 用 と す る と 今 の 岷 江 が 汶 江 であり、 其の西に刳儿坪則ち石紐があり、 会同に適する土地がある、 とする。 しかし、 ここで蒙黙は、 元来、 禹が石紐に生まれたとする伝説は「禹生石」 であるとして、碑文通り、禹の会同説に則り、景伯況が禹と石紐の関係を 語ったのは前漢早期であり、揚雄説は紀元一〇〇年代、すでに二〇〇年の 差 が あ る と 結 論 す る。 結 局 梓 潼 移 住 と は 何 ら 関 わ り な く 論 を 終 え て い る。 なお、叢文俊は武帝期から宣帝期ではないかとする。 漢・   先 学 の 研 究 に 尋 ね た と こ ろ、 先 人 景 伯 況 は、 前漢初期の人、或いは、宦官の家系になって威勢を張っているとの見解も 示めされた。それでは景氏一族はだれが、いつ、どのようにして蜀への移 住を図ったのか。程地于のみ、豪奢な車列は過去のこととして、ただし世 襲官吏に相応しく偉容を示して梓潼入りを果たしたとする。以上を踏まえ てここで筆者の見解を加え行きたい。 景君碑はもちろん景雲個人を讃えたものであるが、通常、この時代の碑 文には、遠い祖先はともかく、当人に繋がる直接の家系(高祖以来)が刻 まれるのが通例である。しかし、景君碑には、楚の祖先以降、前漢代の系 譜が明瞭でなく突然の如く、先人景伯況とある。しかも、彼の事績は、漢 以前の輝かしい前歴を回顧する一幕を含めて、聖人禹の諸侯会同を偲ぶ遺 跡訪問となる。 その結果が景雲とどう繋がるのか、 いくつかの問題点を探っ 巴郡胊忍県・胊忍夷関係図(後漢)

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 てみたい。 先 ず 第 一 に、 「 大 業 既 定 鎮 安 海 内 」 の 結 果、 景 氏 は 堂 々 と 蜀 に 移 住 で き たであろうか。この一文は、前漢始め劉敬の豪族徙民策が実って、漢中平 原 が 蛮 や 残 留 諸 侯 の 攻 撃 を 受 け ず 安 定 し た と い う こ と を 示 し た も の で あ り、王朝基盤が安定したばかりで、早速自主的に移住ができたという事に は な ら な い で あ ろ う。 『 漢 書 』 巻 一 八・ 地 理 志 巻 末 に「 漢 興 立 都 長 安、 徙 斉諸田・楚昭屈景及諸功臣家於長陵、後世世徙二千石高氏 訾富 人及豪傑并 兼之家於諸陵」とあって監視の目は厳しかったであろう。しかし、碑文は 敬伯況が「家于梓 湩 」と読めるのである。 古 来( 後 漢 以 前 か ら )、 蜀 の 汶 江 県 近 辺 は 禹 に 関 わ る 伝 説 が あ っ た。 そ の一つは揚雄『蜀王本紀』などにある「禹生石紐」説であり、もう一つは 本景君碑にある「禹石紐汶川之会」についてである。すでに前項で触れた とおり、揚雄の説は前漢末である(揚雄の死は王莽・天鵬四(一七)年で あ る。 ) し か も、 王 莽 一 族 の 政 治 は 破 綻 に 向 か い、 紀 元 二 四 年、 新 は 滅 亡 する。これに伴って関中も正に天下動乱の中に巻き込まれ、都も東の洛陽 に移されそうである。この時を狙って行動をおこしたのが、景氏を背負う 景伯況ではなかったか。 蜀の地に禹の聖地があると知った伯況は、禹の諸侯会同伝説を本に、か つて楚の公族として、諸侯会盟に加わった謂われを標榜して、聖地巡礼を 実行したのではないか。 幃屋甲帳を張り、 車に龜蛇の旗を掲げて留 遰(往来)  し た の も 13 、 嘗 て 楚 の 世 族 で あ っ た 誇 り を も っ て 九 族 を 従 え、 冠 蓋 を 連 ね、 地元へ威容を示したものと言えないであろうか。 後 漢 代 に お け る 景 氏 の 活 躍 は、 王 莽 新 の 滅 亡 と 後 漢・ 劉 秀 建 国 時 期 に 活 躍 し 驃 騎 大 将 軍・ 櫟 陽 侯 と な っ た 景 丹 が い る。 た だ し、 『 後 漢 書 』 巻 五二・景丹伝では「馮翊・櫟陽人」とある。戦国楚の景氏が二〇〇年後に は櫟陽に本貫を移した者が出たのでなければ、華陰・好畤に徙民した係累 と断定することはできないであろう。   前 漢 代 か ら 後 漢 中 期 に か け て、 景 伯 況( 沇 )・ 景 丹 以 外、 景 氏 に 関 わ る 活 動 は 中 央 の 政 官 界 は 無 論 地 方 に おいても、景雲まで現れてこない。戦国楚における三公を維持した姓族と しての存在はどこに行ったのであろうか。 ここで後漢一代を通じ、梓潼に根を下ろしたと思われる景氏一族と他氏 族との関係にも注目しておきたい。そのことにより景君碑建立に関わる意 外な事実も浮き上がってくるのである。 『華陽国志』巻二 ・ 漢中志、 梓潼郡の条に、 「本広漢属県也、 (中略) (建安) 二二(二一七)年、 (先主)分広漢置梓潼郡、 (中略)属県六、梓潼県、郡 治 有 五 婦 山( 中 略 )、 四 姓 文・ 景・ 雍・ 鄧 者 也 」 と あ り、 後 漢 末、 益 州 牧 劉璋から蜀劉備に政権が移る頃の記事であるが、四姓の一つ、文氏は、文 斉が王莽の時益州大守となり、後、公孫術につかず、後漢になって、功に より鎭遠将軍・成義侯となり、その子純が北海太守となって後継が続いて いる。 次に景氏であるが、ここでは景毅・景顧父子の活躍がみられる。景雲活 動の理解にも通じるため少し長い引用になるが、次に紹介しておきたい。 『後漢書』巻一一六 ・ 西南夷伝に「熹平五(一七七)年、諸夷反、 (中略)  (益州刺史李顒)卒後、 以広漢景毅為太守、 討定之、 毅初到郡、 米斛万銭、 漸以仁恩少年之間、 米至数十云」 とあり、 『華陽国史』 巻一〇下 ・ 漢中人士に、

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 11 「 文 堅 亟 哉 南 面 懐 民   景 毅 字 文 堅、 梓 潼 人 也、 太 守 丁 羽 察 擧 孝 廉、 司 徒 擧 治劇、 沇 陽侯・相高陵令、立文学、以礼譲化民、遷太守上計吏、守闕請之 三年不絶、 以子顧師事小府李膺、 膺誅、 自免、 久之拝武都令、 遷益州太守、 上事吏民、 涕泣送之、 至沮者七百人白水県者三百人、 値益州乱後米 千銭、 毅至恩化暢洽、 比去、 米 八銭、 鳩鳥聴事、 孕而去、 三府表薦、 徴拝議郎、 自免帰、州牧劉焉表拝都尉、為人廉正、疾淫祀、 勑 子孫、修善為寿、仁義 為福、年八十一而卒」とあり、侍御史となっていた子の景顧は、有名な党 錮 の 禁 の 李 膺 に 師 事 し て い た が、 『 後 漢 書 』 巻 九 七・ 李 膺 伝 に よ れ ば、 李 膺刑死の際、 侍御史であった景顧は門徒登録牒に漏れていたことが判明し、 危うく刑を免れると共に景毅も連座を免れるのであるが、景顧はあえてこ のことを公表し、 世の人々はこれを義としたと伝えられている。このほか、 同じ梓潼出身で、七州に出かけ経学を学び、月令章句など五〇万言の著述 をして、有道博士に挙げられるも官につかず一生を節倹に努め天寿を全う した景鸞字漢伯がいる。 ところで、この景毅が益州太守となるについて先に引いた『後漢書』巻 一一六・西南夷伝、熹平五(一七六)年に「諸夷反、執太守雍陟、遣御史 中 丞 朱 亀 討 之 不 能 剋、 ( 中 略 ) 大 尉 掾 巴 郡 李 顒 建 策 討 伐 乃 拝 顒 益 州 太 守、 与刺史龐芝発板楯蛮撃破平之、還得雍陟、顒卒後夷人復反、以広漢景毅為 太守、討定之」とあり、ここに四姓の一つ雍氏が出ると共に、この雍陟こ そ熹平二 (一七三) 年景君碑を建立した本人であり、 景氏も共に蛮夷と戦っ ていたのである。ただし、雍陟が益州太守になったのは、 胊 忍県令として 碑 を 建 て た の ち、 わ ず か 三 年 の 間 の こ と で あ る。 清 厳 可 均 輯『 前 後 漢 文 』 巻一〇六「趙相雍勧闕碑」に次の記事がある 14 。 「高祖父諱竇、 字伯著、 孝廉、 河南令、 侍御史、 九江太守(缺三字)君子望、 字伯桓、 右校令、 望之子陟、 孝廉、 胊 忍令、 (缺五字)陟弟朗、 字仲曼、 孝廉、 弘 農 令、 武 都 太 守、 朗 弟 勧、 字 叔( 缺 ) 孝 廉、 成 皋 令、 趙 国 相、 勧 子 煜、 字稚(缺)孝廉、資中長江令、 (缺三字)都尉、 (略) 」( 『隷釈』一二)   ここから次の三点が読み取れる。 1   右校令雍望の長子が雍陟である。 2    雍陟 胊 忍令の下文(五字缺)には、 (益州太守、 )と刻字されるべき で は な か っ た か。 一 族 が 多 く 孝 廉 の 次 に 県 令 相 当 に 就 官、 そ の 後、 郡太守相当に就任していることからその可能性は大きい。 3   雍陟の次弟朗の字が仲曼であれば、長子陟は字伯曼である。 こ の よ う な 大 姓 の 活 躍 は 後 漢 末 も 続 き 在 地 の 板 楯 蛮 を 用 兵 に 使 っ て い る。 所 で、 中 村 威 也 は「 中 国 古 代 地 域 の 異 民 族 に つ い て 15 」 に お い て 秦 以 来の蜀と巴の夷人対策の相違を述べた後、特に後漢巴郡における「民」と 「夷」 の関係について、 石刻史料、 (一) は、 (『隷續』 巻五) 『巴郡太守張衲碑』 、 その(二)は( 『隷續』巻一六) 「繁長張禪等題名」の二方を以て、碑陰に お け る 立 碑 者 の 分 析 を 行 い、 ( 一 ) の 筆 頭 者 郡 掾 李 氏 は 宕 渠 の 異 民 族・ 賨 人であり、他の多くも郡掾の職務を持ち国家の下部官僚として、巴におけ る秩序維持に貢献していたという。また、 (二)においては漢人層に混じっ て 多 く 夷 姓 が 加 わ っ て お り、 『 夷 』 が「 民 」 に 変 わ る 可 能 性 を 以 て、 在 地 における夷人が豪族化して、この豪族集団が巴の治安を守る可能性があっ たと述べられる。 敬服に値する所論であるが、 最終末尾に 「一例を挙げれば、 板楯蛮が巴蜀の地域的な不安(周辺の反乱や動乱)に際して、巴蜀豪族の 要請を受けて協力したことは、巴郡の豪族が多く異民族であったことを前

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 提として成り立つものであると言える。 」とされた。しかし、 (一)は宕渠 蛮すなわち廩君蛮が主体、氏は(二)の夷について族名を明らかにしてい ないが、地域から見れば宕渠蛮が主体ではないか。白虎伝説は 胊 忍の夷た る 廩 君 蛮 が 主 体 に な っ て 始 ま っ た( 「 華 陽 国 志 」 は そ の よ う に 書 か れ て い る )。 そ れ が い つ の 間 に か 板 楯 蛮 主 体 の 説 話 に 変 化 し て い る。 白 虎 夷 王 の 語は廩君蛮すなわち宕渠蛮でも唱える可能性があると思われ、このことは 更に後述で補いたい。また、 『華陽国志』一には「順桓(一二五―一四四) 之世、 板楯数反、 蜀郡趙温恩信降服、 於宕渠出九穂之禾、 胊 忍有連理之木、 光和二 (一七九) 板楯復攻害三蜀 ・ 漢中」 とある。 実はこの間、 建和二 (一四八) 年には羌の広漢属国への侵入があったが、板楯の力により完膚無きまでに 羌を破っている。宕渠蛮の李特も集団を率いて漢中に転進し、曹魏の支配 下に服することになる。巴・蜀における蛮夷の服従と背反は在地豪族化と どのように関わるのか。 『華陽国志』などに依れば、広漢郡には多くの大姓人士が輩出しており、 筆者が取りあげた雍氏・景氏など後漢末でも梓潼大姓として板楯蛮を率い て活躍しており、蛮夷が目差すものが豪族化か独立化か、後漢末混乱期以 降の推移も考えておくべきではないか、 筆者としても改めて考えてみたい。     碑面よりみた景君の事績   これまで見てきたとおり、梓潼景氏は後漢一代を通しても名望士族であ り続けたようであるが、一面、外戚・宦官の争いや清濁官僚の闘争など中 央宮廷内の紛争には一線を画していたしたたかさをも保持していたように みえる。その一面は雍氏一族にも共通に見え、中央から離れた益州の地に おいて自存をはかる後漢時代における地方豪族の一面が表されていたので はないか。そのような背景を見ながら、景雲自身は 胊 忍令としてどのよう な業績を挙げたのであろうか。 後漢霊帝の熹平二(一七三)年、同じ梓潼出身 胊 忍令・雍陟は、七〇年 前の先輩を追悼するため、県城内に碑を建てた。碑文は、景雲の施政が如 何に優れたものであったか、県令と民の関係を称揚する。 景雲は、天資(性)明哲であり、 胊 忍令の前に既に他県令(相当?)を 経由し、二所に渡るが、治政は善悪・正邪明らかであり、民に対しては清 廉潔白、慈愛に満ちた教父の如くであったが、遺憾ながら任期途中で早没 した。いずれ卿尹に上るは必然と思われていたのだが。しかも、民の願い は州郡を動かし、特別な彰勲を朝廷に申請した。しかし、時の朝廷は、和 帝(在位八九―一〇四)の末年にあたり、それ迄、若い帝の力により外戚 を追放したが、これを頼った宦官の横暴の前に、後漢の政治はここから大 きく揺らぎ始めた時であった。その上和帝の薨去もあり、上表は沙汰止み となってしまった。民は故県令を偲んで三年の喪に服し、歌舞音曲も鳴り を潜め、各所に祈りの声を上げた。 熹 平 二 ( 一 七 三 ) 年 、 梓 潼 出 身 の 雍 陟 に よ る 功 徳 碑 は 、 景 雲 が い か な る 政 治 的 実 績 を 上 げ た の か 、 具 体 的 な 事 例 を 挙 げ て い な い 。 先 に 景 毅 が 益 州 太 守 と し て 短 期 間 に 米 価 を 下 げ 、 地 元 民 の 賞 賛 を 浴 び た な ど の 例 が 景 雲 に は 無 か っ た の か 。 た だ し 、 管 轄 す る 県 政 が 破 綻 無 く 収 ま っ て い た と す れ ば 、 そ れ も 一 つ の 実 績 で あ ろ う か 。 程 地 宇 が 神 道 碑 と 指 摘 す る よ う に 、 雍 陟 が ひ た す ら 賛 辞 を 捧 げ る 意 味 を ど う 理 解 す べ き か 。 次 の 二 点 を 考 え て お き た い 。

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 13 その一は、景雲が没するまでの約一〇〇年間、人口の増加、周辺民族を 押えた領土維持拡張、学術・文芸の発展など、王朝草創期の緊張関係は四 代和帝前半まで何とか持ちこたえてきた。しかし、宮廷における外戚の権 力拡張、それを阻止する宦官を引き入れての皇帝側の実力排除などによる 中央政治の混乱は、次第に地方統治の弛緩に繋がっていった。正にその直 前、比較的平穏な治政のうちに景雲は命を閉じたのである。 その二に、雍陟が 胊 忍令として就任している間は、すでに後漢の統治は 引き続く幼帝の就位などによる外戚・宦官・清流官僚群の深刻な対立のは てに、 地方政治は州牧独裁の方向に進もうとする時であった。 さらに、 西北 ・ 西南地方蛮夷の反乱も中央は地方有力士族の力に頼らざるを得なくなって きた。益州においても、広漢郡梓潼地方には、伝説的に漢民族政権に協力 してきた板楯蛮がおり、その助け無しには西南諸蛮夷の反乱は排除できな く な っ て い た。 す で に 見 て き た よ う に、 梓 潼 の 有 力 氏 族、 景 氏 や 雍 氏 は、 在地に抱える板楯蛮を引き入れ、反乱を起こさぬよう、豪族同士の協力は 欠かせない。そのようなとき 胊 忍令に就任した雍陟は、七〇年前、在地の 少数蛮族をも無事納めていたであろう景雲の手腕を追懐していたのではな いか。また、郢の都以来の楚の公族であった景氏一族を賞賛して、来る困 難を共同で防衛する保証を取り付ける目的もあったのではないか。 ここで、 後漢時代の 胊 忍県を概観して置きたい。  忍県の歴史と後漢時代の忍県 最初に 胊 忍県は現在のどこかに触れておきたい。中国・長江中流域の三 峡ダム工事はすでに完成しているが、ダムの少し上流に、重慶市雲陽県が ある。その三〇キロほど西に 胊 忍県の旧県城があった事が発掘作業の結果 判明し、本論で扱う景君碑が出現したのである。現雲陽県は三峡ダム工事 による埋没地の移民を多数受け入れ一二〇万人を越える大都市である 16 。 胊 忍 県 は 秦 代 か ら 知 ら れ る 県 で あ っ た。 『 漢 書 』 巻 二 八、 巴 郡 に「 秦 置 属益州」とあり、統県一一の中に、 「 胊 忍   容母水所出南、有橘官・塩官。 師 古 曰 胊 音 劬 」 と あ る。 劬 は「 ク 」 で あ る。 た だ し、 王 先 謙『 漢 書 補 注 』 はクジンと読むほか「 闞駰 十三州志乃云、 胊 音春、忍音潤、其地下湿、多 胊 䏰 虫、 因 以 名 県 ( 以 下 略 ) 」 と シ ュ ン ジ ュ ン と も 読 み、 湿 地 に お け る 胊 䏰 虫(蚯蚓=ミミズか)によるという。ただし、秦昭襄王の時、巴・蜀に 白虎がでて群虎を従え、荒らし回ったため、この時『華陽国志』巻一・巴 郡の条に「秦王乃重募国中、有能 煞 虎者、邑万家、金帛稱之、於是夷 胊 忍 廖 仲・ 薬 何、 射 虎、 秦 精 等 乃 作 白 竹 弩、 於 高 楼 上 射 虎、 中 頭 三 節( 中 略 ) 煞 群虎大咆而死」とある。この後、前漢高祖と板楯蛮の白虎復夷説話に転 換する有名な説話であり、これ以上には立ち入らないが、この中で「夷の 胊 忍廖仲・薬何・・」とある。 胊 忍が夷の総名なのか、夷人のいる所なの か議論のあるところであるが、いずれにせよ夷に関わる土地として、後人 が蔑称を加えたものではなかったか。ともかく 胊 忍県の歴史を続けよう。 『後漢書』巻二三 ・郡国志、巴郡には、 「秦置、雒陽西三千七百里(劉昭 注 1 = 後 述 )、 十 四 城、 戸 三 十 一 万 六 百 九 十 一、 口 百 八 万 六 千 四 十 九 」 と あり、 「江州(注略) 、宕渠有鉄、 胊 忍(劉昭注   巴漢志曰、山有大小石城 勢 )、 ( 閬 中 県 以 下 略 )」 と あ る。 劉 昭 注 1 は 後 漢 末、 巴 郡 の 領 域 が 広 大 で あり、治安を維持するには数々の困難が伴い、年末の中央官署への郡吏の

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 雲陽県古城・対岸桓帝廟あり 国璋著『川行必読峽江図巧』(光緒 15(1882)年) 長江流域の雲陽県〈2014,10,13Googleearth から〉(人口 129 万人)

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 15 諸報告も纏めきれない内に期限を過ごし、怠慢の罪をもって処罰すら受け かねないと、郡を分ける議論がやかましくなってきていた。そこで「 譙 周 巴記曰、初平元(一九〇)年、趙潁分巴為二郡、欲得巴旧名、故郡以 墊 江 為治、安漢以下為永寧郡、建安六(二〇一)年、劉璋分巴、以永寧為巴東 郡、以 墊 江為巴西郡、 (以下略) 」となる。もちろん 胊 忍も分郡の議の対象 で、永寧郡、巴東郡と郡名・郡治の変更があったが、後漢後半、蛮夷の反 乱、 長 江 を 利 用 し た 盗 賊( 『 華 陽 国 志 』 巴 郡 に 記 載 あ り ) の 跋 扈 な ど 次 第 に治安が懸念される県でもあった。   次の『晋書』巻一四・地理志、巴東郡に「 胊 忍県」があり、 「華陽国志」 巻一に「巴東郡、先主入益州改為江関都尉、建安二十一(二一六)年以 胊 忍・ 魚 復( 空 格 = 漢 豊 )・ 羊 渠・ 及 冝 都 之 巫・ 北 井 六 県 為 固 陵 郡、 武 陵 康 立為太守、章武元(二二一)年、 胊 忍の徐惠、魚復の蹇機、以失巴名、上 表自訟、 先主聴復為巴東」とあり、 その同郡 胊 忍県には「郡西二百九十里、 水道有東洋 ・ 下瞿数灘、山有大小石城 ・ 勢霊寿木 ・(当有橘圃二字)塩井 ・ 霊 亀、 咸 熙 元( 二 六 四 ) 年 献 霊 亀 於 相 府、 大 姓 扶・ 先・ 徐 氏、 漢 時 有 扶・ 徐、 荊州著石(名?)楚訪(記?)有弜頭白虎復夷也(注略) 」とあり、 『水 経注疏』巻三三に「彭溪水又南逕 胊 忍県西六〇里、南流注于江、謂之彭溪 口、 江水又東左逕 胊 忍県故城南、 常 璩 曰、 県在巴東郡西二九〇里、 県治故城、 跨 其 山 阪、 南 臨 大 江、 ( 中 略 ) 江 水 又 東 逕 瞿 巫 攤、 即 下 瞿 攤 也、 又 謂 博 望 攤、左則湯溪水注之、水源出県北六百余里上庸界、翼帯 塩井一百所、巴川 資以自給 、粒大者方寸、中央隆起、形如張傘、 故因名之曰傘子塩 、有不成 者、形亦必方、異于常塩也、王陰《晋書地道記》曰、入湯口四十三里、有 石、煮以為塩、石大者如升、小者如拳、煮之、水竭塩成、蓋蜀火之倫、水 火 相 得 乃 佳 也 」( 傍 線 筆 者 ) と あ り、 胊 忍 県 管 轄 に 塩 井 が 有 り、 巴 一 郡 の 経費を稼ぎ出すという。 胊 忍はこのほか特産物に柑橘類もある富裕な県で あった。 因みに雲陽県の製塩産業は、遅からず漢代以降現代まで欠かさず続けら れ 、 考 古 学 的 発 掘 の 結 果 か ら 見 て も 「 雲 陽 県 の 支 柱 産 業 で あ っ た 」 と い う 17 。 後漢における忍県の管轄範囲   この 胊 忍県も晋代には 胊 䏰 と文字が改 まり、北周時代に雲安県、宋代に雲安軍から安義県、元代雲安軍から雲安 州、 明 代 以 降、 雲 陽 県 と 名 称 変 更 が あ り、 現 在 に 至 っ て い る。 明『 正 徳 夔 州 府 志 18 』 雲 陽 県 の 条 に、 「 府 城( 奉 節 県 ) 西 一 百 七 十 里 ・・ 万 県 府 城 西 四 百 五 十 里 本 漢 胊 䏰 県 属 巴 郡 」 と あ り、 更 に、 「 梁 山 県 府 城 西 六 百 里、 本 漢 胊 䏰 県 地 」「 開 県 在 府 城 西 四 百 七 十 里、 本 漢 巴 郡 胊 䏰 県 地 」 と あ り、 胊 忍県令は、 胊 忍県 ・万県 ・ 開県 ・梁山県(現梁平県)の四県を合わせた地 域を管轄しなければならなかった。現在の重慶市配下の県別面積で合計が 一二,九五五平方キロメートルの広大な地域である。日本では新潟県にほ ぼ匹敵する。しかもこの地域は長江流域を東西に行動できる蛮夷の居住す る地域でもある。 胊 忍県と蛮夷   すでに本論でも、巴郡において板楯蛮が活躍することに ついて触れてきた。この地域の蛮夷についての史料は『後漢書』南蛮伝を 中心とする。范曄『後漢書』は宋代の成書であるが、南蛮伝は西晋・司馬 彪『続漢書』に依っている。この南蛮伝(巻一一六)の主体は、廩君蛮と 板楯蛮である。廩君蛮は武落鍾離山(清江沿という)から発し、夷城に止 まり、死ぬと白虎と化したという。秦恵王が巴中を併せ、巴氏を以て統率 させ、君長に対する安い銭と夷民に対する布と鶏の羽を租賦として課した

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 と い う。 漢 代 も 秦 の 故 事 に 倣 っ た が、 後 漢 の 始 め、 初 め て 反 乱 を 起 こ し、 その種人七千人を 沔 中(湖北省、江漢平原)に遷し、江夏蛮と言った。し かし、廩君蛮は巴郡にも残り、宕渠蛮とも言われ、更に長江三峡沿い山麓 の狭隘な土地(坪壩)に散居する巫蛮も廩君蛮と言われる 19 。 同じ南蛮伝で巴の 閬 中中心に住む板楯蛮は秦・昭王の時、巴蜀を荒らし 回る白虎を射殺しその功により殆どの租を免じ、漢高祖の時も関中に従軍 してその功により中心の七姓には賦租を免じ、その余も安い税すなわち 賨 を 払 う 賨 民 と な り、 漢 の 支 配 に 従 っ て い た と す る。 た だ し、 『 華 陽 国 志 』 とではその内容が異なる面が多く有り、これら南郡蛮についての詳しい研 究 に 谷 口 房 男 の 研 究 が 有 る 20 。 谷 口 は 言 う。 「 こ う し た 板 楯 蛮・ 白 虎 復 夷・ 弜頭虎子・ 賨 人・巴氐・廩君種を同一種族の別称とする見解は、後漢書巻 一一六南蛮伝に、巴郡南郡蛮である廩君が死し、その魂魄が化して白虎と な り、 ( 一 方 ) そ の 白 虎 を 優 れ た 武 器 で あ る 白 竹 の 弩( 板 楯 蛮 名 の 由 来 ) を用いて討ったとし、さらにこうした功により用役を負担したが免除され (莫傜の由来) 、きわめて軽い租税( 賨 人の由来)を負担したとするところ から生じたのである。こうした来歴より、板楯蛮が、廩君種と同一と見な されるようになり、 それ故に南北朝時代において、 板楯蛮が見られなくなっ たのではなかろうか。なお、伝説の成立時期とその背景、更にその内容を 検討すれば、もともと廩君種と板楯蛮とが同一種族ではなく、両種の居地 が近似し、また、両種の種族上の変化が見られる南北朝時代に出来上がっ た後漢書の蛮伝が、 両種の来歴を関連的な伝説としてまとめたものであり、 その後に成立した諸書が板楯蛮について殆どふれず、廩君種に一括してし まったのではなかろうか。 」という 21 。 ところで、景雲が 胊 忍令在任中、 胊 忍の夷すなわち廩君蛮の反乱はあっ たのだろうか、谷口房男によれば、後漢創設以来南郡蛮の反乱は二回のみ で、 そ の 一 回 は 和 帝 の 時 で、 『 後 漢 書 』 巻 四・ 和 帝 永 元 一 三( 一 〇 一 ) 年 一二月に「巫蛮反、寇南郡」と有り、同書巻一一六・南蛮伝に「和帝永元 一三年、巫蛮許聖等以郡収税不均、懐怨恨、遂屯聚反叛」とあり、可なり 大規模であったようで、 同書 ・ 同伝に「明年夏、 遣使者督荊州諸郡兵万余人、 討之、聖等衣憑阻隘、久不破、諸軍乃分道並進、或自巴郡 ・ 魚復数路攻之、 蛮乃散走、斬其渠帥、乗勝追之、大破聖等、聖等乞降、復悉徙置江夏」と あり、 若し、 景雲が県令であったら放っておけない大事件であった。幸い、 事件は 胊 忍の東、魚復県以東で起こり、処置された。その後、後漢の中央 の政治が乱れると共に、江夏蛮を含んだ南郡蛮の反乱は後漢末にかけ、特 に桓帝の時代(一四七―一六七)は大きな反乱が九回起きている。雍陟が 建碑した熹平二(一七三)年は、霊帝(一六八―一八八)在位中で板楯蛮 の 反 乱 も 四 回 起 こ さ れ て い る 22 。 ま た、 中 平 五( 一 八 八 ) 年 三 月 に 建 て ら れた「巴郡太守張衲碑」に「刑無斧鉞之害、行無拘紲之人、 胊 忍蛮夷、滔 天蠢動、 乗虚唐突(五字缺)忿(缺)斯怒、 爰整干戈、 (以下略) 」とあり、 碑 陰 に「 中 平 五 年 三 月 上 旬 書、 君 升 台 祚 」 と あ る 23 。 雍 陟 は 足 下 の 胊 忍 夷 の動向にも気を配らなければならなくなっていたのである。 おわりに 碑刻に慣れない筆者は、中国において国宝級と言われる出土品をどう扱 うべきか、初拓本を見て長い間ためらっていた。しかし、長江・雲陽県は

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 17 船からであるが四度ほど眺めたことでもあり、そこに住む人々の歴史を是 非知りたいと思う気持ちが大胆にもわき上がってきた。紙数の関係もあり どの節も十分に趣旨を尽すことが出来ず、その責は今後自分自身が負わな ければならないと自覚している。ただし、今回は、東洋大学史学科高橋継 男教授の石刻史料研究法に啓発されること多く、例えば 「 近五十年来出版 の 中 国 石 刻 関 係 図 書 目 録( 稿 )」 (『 唐 代 史 研 究 』 第 四 号 二 〇 〇 一 年 六 月 ) ほ か の 諸 目 録、 「 洛 陽 出 土 唐 代 墓 誌 四 方 の 紹 介 と 若 干 の 考 察 」 ( 東 洋 大 学 文学部紀要・第五二集史学科第二四号』等々により多くの示唆を与えられ 感謝申し上げたい。史料収集でお世話になった東洋大学アジア文化研究所 の佐藤三千夫客員研究員、東方書店大橋隆一君にも感謝する次第である。   < > 1   本碑の紹介は、 中国鄭州 ・ 河南美術出版社『近年新出歴代碑誌精選系列』 (周 俊 傑 主 編 ) に「 漢 胊 忍 令 景 君 碑 」( 薛 海 洋・ 陳 輝 編・ 二 〇 〇 八 年 六 月 ) と し て 出版されたものである。 2   程地宇説については注6参照。 3   こ の 碑 の 紹 介 に あ る 上 部 暈 形 に 刻 ま れ た 朱 雀・ 玉 兎 は、 前 漢 中 半 以 降、 墓 碑 銘 或 い は 墓 室 の 画 像 石・ 画 像 磚 に 見 ら れ る モ チ ー フ と 共 通 で あ る が、 後 漢 時 代 の 巴・ 蜀 地 方 に お い て 盛 ん に 描 か れ た も の で あ る。 程 地 宇 論 の「 三、 《 景 雲 碑 》 石 雕 探 秘 」、 龔 廷 万・ 龔 玉、 戴 嘉 陵 編 著『 巴 蜀 漢 代 画 像 集 』( 文 物 出 版 社 一 九 九 八 年 二 月 刊 )、 拙 稿「 三 足 烏 原 像 試 探 」( ア ジ ア 文 化 研 究 所 研 究 年 報 四八号二〇一四年二月)参照 4   高 澤 浩 一 「 何 君 閣 道 摩 崖 の 書 ― 四 川 省 刻 石 に 見 る 一 形 態 ― 」 ( 書 学 書 道 史 研 究 』 一 七 号・ 二 〇 〇 七 年 ) は、 四 川・ 漢 代 刻 石 の 二 大 特 徴 を 挙 げ ら れ、 「 そ の 一 点 目 が 他 地 域 に 例 を 見 な い 大 字 書 の 存 在 で あ り、 今 ひ と つ が、 刻 ま れ た 文字の周囲を溝を掘って、 枠をつくるという形態が成されていることである。 」 ( こ こ で 八 個 の 字 蹟 と そ れ ら が 枠 の 中 に 見 事 に 収 ま っ て い る 例 を 示 し、 そ の 他 の 出 土 例 か ら 見 て も )「 四 川 省 固 有 の 枠 様 式 の 一 例 と い え よ う。 ( 中 略 ) ひ き つづいて、 一九四一年四川省廬山県石羊村から出土した 〈王暉石棺銘〉 である。 こ の 石 棺 の 四 周 に は 大 き く 神 獣 が レ リ ー フ さ れ、 上 側 に 墓 主 の 王 暉 を 弔 う 銘 文 が、 八 部 隷 で 三 五 字 刻 ま れ る。 こ の 銘 文 に も 四 周 が 溝 で 彫 ら れ る 枠 を し つ ら え て あ る。 た だ し、 こ の 枠 は レ リ ー フ さ れ た 建 物 の 扉 を 模 し て 描 写( 仙 童 と呼ぶ人物が扉を半ば開く様子を描く) されている点で、 他例と相違する。 」と、 漢 代・ 四 川 に お け る 刻 石 の 選 別 を 指 摘 さ れ て い る。 一 方、 景 君 碑 も 解 説 に 指 摘 の 通 り 銘 文 の 四 周 が 枠 線 で 彫 ら れ て い る ば か り で な く、 そ の 外 側 花 紋 の レ リ ー フ の 四 周 も 枠 線 で 囲 っ て い る。 た だ し 円 頂 部 と 碑 文 枠 と は 明 瞭 に 断 線 が 彫 ら れ て お り、 円 頂 部 は 三 個 の 山 中 を 象 る よ う な 曲 線 で 分 か れ て お り、 後 漢 代他の碑に見られる銘題はなく、 その真ん中は入り口を示す枠線が彫られ、 「扉 を 押 え た( 掩 ) 婦 人 と、 左 に 朱 雀( 鳳 凰 か )、 右 に 玉 兎 が 彫 ら れ て い る。 こ の 婦人が扉を「掩」していると解説するが、 掩には遮蔽、 蔵匿或いは関閉といっ た、 ふ さ ぐ、 し め る 意 味 合 い が 強 く、 高 澤 説 の「 扉 を 中 半 開 く 」 と は 異 な る よ う で あ る。 ま た、 王 暉 石 棺 の 仙 童 に た い し て は 西 王 母 な ど も 考 え ら れ る の で は な い か。 い ず れ に し て も レ リ ー フ は 景 君 を 悼 ん で 仙 界 に 迎 え よ う と し て いる構図ではないか。 5   側 面 の 青 竜・ 白 虎 の 上 部 に 描 か れ た 円 形 の 模 様 は 拓 本 で は 全 面 黒 色 で そ こ に 描 か れ た も の が 何 か、 判 じ よ う が な い の で あ る が、 あ え て 憶 測 す れ ば、 青 龍 の 上 は 金 烏 或 い は 三 足 烏 で あ り、 白 虎 の 上 は、 ヒ キ ガ エ ル 或 い は 兎 と ヒ キ ガ エ ル が 彫 ら れ て い た の で は な い か。 実 物 を 眺 め る 機 会 を 得 て 居 ら ず 残 念 で ある。 6   叢 文 俊 は 景 君 碑 を 功 徳 碑 と 位 置 付 け る が、 程 地 宇 は こ れ を 神 道 碑 で あ る と し、 漢以降後漢にいたる神道碑の系譜を示し、 「則ち、 神道の名は漢に既にあり、 これらの説では、 神道碑の最初は墓道入り口(隊口)にあり、 後、 墓の兆(し る し ) を 東 南 方 に 立 て, 再 び 後 に 墓 前 に 神 道 を 開 き 石 柱 を 立 て 標 識 と し、 石 碑 を 道 の 傍 ら に 立 て る 」 と し、 景 君 碑 に つ い て は、 次 の 四 点 か ら 神 道 碑 で あ るとする。則ち 一、  暈 と 穿 が あ り、 暈 が 三 重 で 穿 が 一 つ で あ る こ と は、 厳 然 た る 神 道 形 式 で、 漢 代 神 道 碑 は 通 常 穿 が あ る も の で あ り、 ( 多 く の 碑 例 を 挙 げ ) 碑 は 墓 前、 墓 側, 或 い は 枕 道 に あ り、 穿 は 犠 牲 を か け る 碑 に 由 来 し、 下 の 柩 の 縁( ふ ち ) にある碑である。

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「漢 胊 忍令景君碑」 (初拓本)に見る景雲とその周辺 二、  神 道 碑 の 初 め は、 必 ず 其 の 世 系 を 詳 し く し、 そ の 出 で る 所 を 重 ん じ、 一 〇 字~六字、 その殆どに銘文があり、 多くて七〇〇字少なくて三〇〇字である。 三、  後 漢 の 功 徳 碑 の 殆 ど に は、 碑 額 が あ り、 或 い は 首 行 に 勲 功 銘、 功 徳 次 第 が 記 さ れ、 ま た そ の 銘 の 末 尾 に 頌 の 字 が 付 さ れ る の が 普 通 で あ る が、 景 君 碑 にはその功徳、功績或いは頌が無い。 四、  功 徳 碑 の 類 は 碑 主 の 功 績 を 称 揚 す る 事 が 主 で あ り、 余 さ ず 誇 張 美 化 す る も の で あ る が、 景 君 碑 は、 景 君 頌 徳 を 歌 う 辞 が あ る も、 非 常 に 抽 象 的 で あ り、 永 永 不 滅 の 語 や、 嗚 呼 哀 哉 を 繰 り 返 す な ど, 功 徳 碑 の 形 式 に 異 な る も の で ある。 7   次 注8 の 八 分 隷 書 の 書 体 お よ び 九 族 は 同 姓 直 系 を い い、 九 族 が 妥 当 と 思 わ れる。 8   注 14により曼とするのが妥当である。 9   『漢北海相景君碑』解説者=松井如流(二玄社刊、 一九六一年一〇月)参照。 10  浜 口 重 国「 漢 代 に お け る 地 方 官 任 用 の 本 籍 地 と の 関 係 」( 『 歴 史 学 研 究 』 一〇一 ・ 一九四二) 。 11  李喬は王逸 『楚辞   離騒序』 の 「三閭之職、 掌王族三姓、 曰昭 ・ 屈 ・ 景」 を引き、 程 地 宇 な ど の 所 論 を 元 に「 蓋 以 所 出 君 之 諡 為 氏 」 と し、 最 近 の 考 古 学 的 成 果 に よ り、 楚 文 字 躬 = 景 と み ら れ、 平 王 の 本 来 の 諡 は 躬 坪( 平 ) の 双 字 諡 で 景 氏 は 平 王 か ら で あ る と す る。 そ の ほ か、 徐 中 舒 に よ る 頃 襄 王 説 な ど を 紹 介 し ている。 12   宇 都 木 章「 戦 国 時 代 の 楚 の 世 族 」( 『 宇 都 木 章 著 作 集 二   春 秋 戦 国 時 代 の 貴 族と政治』歴史学叢書:宇都木章著作集   名著刊行会   二〇一二)   13   この段の幃屋甲帳、龜車の解説は魏敬鵬に詳細があり本論では省略する。 14   清厳可均輯許振生審訂『全後漢文下』 (商務印書館一九九九)による。 15  中村威也 「中国古代西南地域の異民族―特に後漢巴郡における 「民」 と 「夷」 についてー」 (『中国史学』第十巻   二〇〇〇年一二月二五日) 16  『長江大辞典』 (武漢出版社一九九七年) 17  『 中 国 塩 業 考 古・ 第 三 集   長 江 上 游 古 代 塩 業 与 中 壩 遺 跡 的 考 古 研 究 』( 科 学 出版社二〇一三年九月)文及び図版参照 18  明呉潜修、 傅汝船纂明正徳刻本「 夔 州府志十二巻」 (天一閣蔵明代方志撰刊) 19  中 国 に お い て、 板 楯 蛮 と 廩 君 蛮 の 位 置 関 係 な ど 未 だ に 議 論 が あ る が、 例 え ば 徐 中 舒 は「 巴 蜀 文 化 初 論 」( 四 川 大 学 報 一 九 五 九 第 二 期 ) 「 三、 巴 地 所 在 及 其 歴 史 」 に お い て、 世 本 に よ る 廩 君 蛮 記 事 を 引 い て、 廩 君 蛮 の 後 が 板 楯 蛮 で あ る と し た。 繆 鉞「 《 巴 蜀 文 化 初 論 》 商 榷 」( 四 川 大 学 学 報 一 九 五 九, 第 四 期 ) は 「 三、 板 楯 蛮 与 廩 君 蛮 族 属 異 同 的 問 題 」 に お い て、 板 楯 蛮 と 廩 君 蛮 は 同 族 ではないとした。 中国側の最近の考古学的成果 (紙数の関係で詳細は避けるが) は、 廩 君 蛮 は 三 峡 地 区 巫 ・ 巴 山 系 を 中 心 に 長 江 沿 岸 地 帯 中 心 に 居 住 し た と す る説が多い。 20   谷口房男『華南民族史研究』 (緑陰書房一九六九) な お 近 着 の 周 勇 主 編『 重 慶 通 史 』 第 一 冊、 第 一 巻 古 代 史・ 第 二 章 第 二 節 二、 賨 人( 板 楯 蛮 ) に お い て、 全 面 的 に 板 楯 蛮 の 別 称 が 賨 人 で あ る と し、 居 住 地 も 白 虎 復 夷 伝 説 も 全 て 板 楯 蛮 の も の と し て い る が、 宕 渠 蛮 乃 ち 廩 君 蛮 が 白 虎 伝 説 を 持 つ こ と、 そ の 後 賨 人 と し て の 李 特 集 団 が 漢 中 に 出 た こ と な ど に つ い て は ふ れ て 居 ら ず、 ま た、 「 四、 蜑 人 」 の 項 で 蜑 人 が 廩 君 で あ る こ と、 湖 北 省 清 江 に 発 す る 伝 説 を 持 つ こ と な ど を 挙 げ、 巫 ・ 山 地 帯 一 帯 に 住 む、 僕 人 種 であるという。 (二〇一四年四月・重慶出版社) 21  注 20 書「第四章   蛮族の伝承をめぐって」八九―九〇頁 22  注 20 書・第一章後漢時代の武陵蛮一七頁表2。 23  清 ・ 厳可均輯 『全後漢文』 巻一〇五 「巴郡太守張衲碑」 (『隷釈』 五) による。 (客員研究員) 

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