アジ研ワールド・トレンド No.240(2015. 10)
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●
カ
ー
ル
・
R
・
ポ
パ
ー
『
フ
レ
ー
ム
ワ
ー
ク
の
神
話
――
科
学
と
合
理
性
の
擁
護
』
未
来
社
、
一
九
九
八
年
本書は、科学哲学者カール・ポ
パーの一九五〇年代から七〇年代
までの論文や講演録をまとめたも
のであり、彼の比較的初期の論考
に触れることができる。ポパーに
つ
い
て
は、
「
反
証
主
義
」
と
い
う
科
学の方法論をめぐるヴィトゲンシ
ュタインやハーバーマスら論敵と
の間の論争が有名であるが、本書
では科学の方法論や彼が唱えた批
判的合理主義といった哲学上の主
張に関する論考よりも、知の追求
における基本姿勢といったような、
いささか規範的な議論が中心的に
展開されている。
ポパーは、各々の依って立つデ
ィシプリンや学問的な立場、すな
わち「フレームワーク」を共有し
「
地
域
研
究
者
」
と
名
乗
り
禄
を
食
は
むことはや十余年。職業人として
の折り返し地点も過ぎ、来し方行
く末に思いをめぐらせるモードに
入りつつある。中年を迎えた地域
研究者は不安である。記憶力をは
じめとするさまざまな能力は衰え
はじめ、好奇心も枯れ気味だ。怠
け心も歳とともに増すばかり。そ
れなのに、激しく変化する途上国
の経済社会状況は地域研究者がモ
ットーとする「丸ごと理解する」
にはますます手強くなっていき、
その断片を切り取って分析しよう
にも、次々に出てくる最新の理論
は複雑化、先鋭化する一方である。
そんな時は現実逃避。本の森に
立ち寄り、思考とか思想といった
抽象度の高い議論に触れて、研究
者としての初心にかえれば心の平
安が得られるかもしれない。
ていなければ、あるいはそれに関
する合意がなければ議論が成立し
な
い
と
い
う
姿
勢
を、
「
神
話
」
で
あ
ると批判する。学問的なフレーム
ワークは教会や政治的・芸術的信
条が行うのと同様に、その信奉者
を互いに結びつける心理的・社会
的実在に過ぎないと喝破する。
さらにポパーは、西洋中心主義
やマルクス主義までフレームワー
クへの過度の信奉の例として批判
する。特にマルクス主義者に対し
ては手厳しい。マルクス主義者は
彼らのフレームワークに対するど
んな反論も、自らのフレームワー
クと一致すると解釈してみせ、そ
れが困難な場合は、その反対論者
の階級的偏見から来る劣等感情の
代償だと決め付ける、と批判して
いる。
ポパーのこの主張は、論敵たち
とのあの(少なくとも本稿筆者に
は)退屈な論争の当事者のものと
しては意外に感じるが、ポパーは、
討論に勝利すること自体に意味は
なく、自分や反対者の立場につい
ての明晰な理解を得られなければ
討論に意味はないとまで述べてい
る。この信念ゆえにポパーは知の
巨人になり得たのだろう。ポパー
が本書で明示的に「寛容」という
言葉を使ってはいないが、われわ
れ地域研究者もさまざまなディシ
プリンに対してこの寛容さを常に
備えているべきなのであろう。
●
イ
リ
ヤ
・
プ
リ
ゴ
ジ
ン
/
イ
ザ
ベ
ラ
・
ス
タ
ン
ジ
ェ
ー
ル
『
混
沌
か
ら
の
秩
序
』
み
す
ず
書
房
、
一
九
八
七
年
物理学者だけでなく、中年地域
研究者にとってもプリゴジンはあ
こがれであった。現実社会の混沌
のなかに秩序のパターンを見出し
理論化することこそが、社会科学
の徒にとっても究極の仕事だなど
と夢想するからである。しかし、
正直に告白すれば、何度チャレン
ジしても、筆者は本書を最後まで
読み通せたためしがない。世界中
でベストセラーになった一般向け
の書とはいえ、非線形熱力学とい
う分野は手に余る。
●
特
●
集
本の森への道案内
中
年
地
域
研
究
者
は
本
の
森
に
迷
う
坂田
正三
[地域研究(ベトナム)
]
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アジ研ワールド・トレンド No.240(2015. 10)
し
か
し、
ア
ル
ビ
ン・
ト
フ
ラ
ー
(『第三の波』の著者)による本書
のまえがき(
「科学と変化」
)なら
何度か読み返している。それは、
お手軽に本書のエッセンスを理解
することができるから(というだ
け)ではない。このまえがきが、
プリゴジンのもたらした科学思想
における歴史的な転換の意味を分
かりやすく解説してくれるからで
ある。
トフラーの解説によると、一八
世
紀
に
完
成
し
た「
ニ
ュ
ー
ト
ン
主
義」科学の体系は、初期条件によ
ってあらゆる事象が決定され、す
べての事象は機械の歯車のように
組み合わされているという世界観
を持つ。この、世界が時計仕掛け
であり、安定、秩序、均衡の構造
を分析することが科学であるとす
る思想を覆したのがプリゴジンの
新しいパラダイムである。
「
プ
リ
ゴ
ジ
ン
主
義
」
で
は、
実
在
の事象のほとんどは無秩序、不安
定、多様性、非線形(小さな入力
が大きな結果の引き金になりうる
こと)からなる「ゆらいで」いる
部分系を持っているとされる。そ
して、このゆらぎはある閾値を境
にカオス、すなわち系の分解に向
かうかもしれないし、より分化し
た高い秩序の部分系の形成に向か
う(自己組織化)こともありうる。
この「部分」と「全体」のダイナ
ミックな関係の精緻な理論化は、
熱力学という特殊な学問世界にと
どまらず、人間の経済活動、たと
えば人口と食料の問題や集団によ
る協調行動の分析にも新たな光を
与えるものである。
トフラーはさらに、プリゴジン
の理論を、エネルギー、資本、労
働力の投入を基礎とした産業社会
から情報と技術革新を資源とする
高度技術社会への移行、すなわち
「
第
三
の
波
」
の
社
会
の
興
隆
が
起
き
ているという自らの主張に重ね合
わせている。
●
三
中
信
宏
『
分
類
思
考
の
世
界
』
講
談
社
現
代
新
書
、
二
〇
〇
九
年
現役で活躍中の生物学者による
歴史書である。本書の著者自身の
主張は他の著書にまとめられてい
るようであるが、本書は近代分類
学の父カール・フォン・リンネ以
来三〇〇年の歴史を持つ生物体系
学すなわち「分類学」の歴史のな
かの先人たちの功績をつむぎ、生
物学の枠を超えて「分類する」と
いう行為自体の意味の変遷を綴っ
ている。
さまざまな自然物を蒐集し博物
館に陳列することが学問とされて
いた時代は一八世紀の啓蒙主義時
代
に
終
わ
り、
「
記
載
の
科
学
」
は
「
分
類
の
科
学
」
に
転
換
し
た
と
い
う
(
二
一
世
紀
の
地
域
研
究
者
が
直
面
し
ている転換とよく似ているではな
い
か
)。
以
来、
目
の
前
の
も
の
の
構
造的パターンを発見して整理する
ことが、自然を理解することと同
義となった。
しかしよく知られるように、生
物における分類は厄介な作業であ
る。その集合に属すための必要十
分条件を挙げるやり方で定義して
いては、カモノハシのような想定
外の生物(卵から生まれるが母乳
で育つそうだ)が「発見」される
と、とたんに混乱に陥る。また、
時空を超えてその生物が生物的に
「
同
じ
」
と
み
な
せ
る
の
か(
細
胞
レ
ベルでは昨日の私と今日の私は同
一ではない)という問題も議論の
種となる。このように、生物学に
も自然科学を超えた論理学的ある
いは哲学的な問いが常に付きまと
っている点がおもしろい。
本書の重要な指摘は、分類する
側の認知バイアスである。科学者
たちといえども中立的かつ客観的
に物事をみているとは限らない。
だからこそ歴史を学ぶことが重要
だという。科学史を学ぶというこ
とは、現在主流派の学説がどのよ
うな文脈で生み出されてきたのか
を知ることであり、一方、忘却の
かなたに置き去りにされた学説に
ついて知ることもまた重要である。
本書では、旧ソ連時代にいかに誤
った学説が政治力を背景に主流化
されていたかが描かれていて興味
深いが、学説が時に研究者コミュ
ニティのダイナミズムや政治・社
会的背景により規定されたりもす
るという事実は常に注意しておか
ねばならない。
自然科学の思考・思想からは多
くの刺激を受け、啓蒙されたよう
な気にもなる。しかし、当たりま
えのことだが、抽象度の高い議論
は具体的に役立つアドバイスは与
えてくれない。どうしたらポパー
の寛容性が身に付くのか。どうし
たらトフラーのように図々しくノ
ーベル賞学者と自分の説が同じだ
と主張できるようになるのか。結
局、中年地域研究者は本の森のな
かで迷うのである。
(
さ
か
た
し
ょ
う
ぞ
う
/
ア
ジ
ア
経
済研究
東南アジアⅡ研究グルー
プ)