アジ研ワールド・トレンド No.237(2015. 7)
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●
サ
ッ
カ
ー
人
気
サッカーのワールドカップは、
オリンピックをしのぐ数の人々が
楽しんでいるといわれるが、イラ
ンも例外ではない。映画「桜桃の
味」で、地震で家をなくした人々
が、テント暮らしの避難所でなん
とかサッカーを観戦しようとアン
テナを立てている様子が描かれて
いることからも、その人気のほど
が推し量られる。人気の理由とし
ては、サッカーという競技そのも
のの魅力に加え、政治・経済的に
は「封じ込め」の対象とされがち
なイランが、アジア代表枠を勝ち
取
り、
「
世
界
」
的
に
そ
の
プ
レ
ゼ
ン
スを示し、国民的に溜飲を下げる
ことができることにもあるだろう。
一九九八年のフランスワールド
カップにイラン代表が出場できる
と決まった時、テヘランの街角で
はたいへんなお祭り騒ぎが沸き起
こり、そのなかには旗を振って喜
イラン
急
成
長
す
る
女
子
サ
ッ
カ
ー
山岸
智子
❖特集❖
途上国・新興国のスポーツ
びを全身で示す若い女性たちも含
ま
れ
て
い
た。
そ
し
て
同
年、
女
子
サッカーが国のレベルで公認競技
になったのである。
●
イ
ラ
ン
の
女
性
ア
ス
リ
ー
ト
イ
ラ
ン
で
は、
レ
ザ
ー・
パ
フ
ラ
ヴィー国王(在位一九二五~四一
年)による近代化政策の一環とし
て、さまざまなスポーツ振興策が
とられ、学校教育で女子にも体育
の
教
科
が
導
入
さ
れ
た。
女
性
ア
ス
リートの育成は、さらにモハンマ
ド=レザー・パフラヴィー国王に
継承され、一九六四年には東京オ
リンピックに女子選手を送るまで
になった。
一九七九年イラン・イスラーム
共和国の樹立により、すべての法
がイスラームの諸基準に適わなく
てはいけない体制になって、男女
隔離が厳格化され、セクシーな部
分を覆うべしという服装規定も公
共の場で課されるようになった。
「
文
化
革
命
」
と
い
う
名
目
で
大
学
が
一時的に閉鎖され、折からのイラ
ン・イラク戦争のための諸々の統
制も相まって、スポーツを楽しむ
余地は極めて限られたものとなっ
た。当時、欧米の識者の多くは、
イランの権威主義体制の下で女性
の権利や平等の進捗は到底望めな
いだろう、と考えた。ところがイ
スラーム共和国樹立から二〇年も
経ってみると、研究者が「イラン
のパラドクス」と呼ぶような現象
が進行していたことがわかる。女
子の進学率は飛躍的に伸び、一〇
代の女の子たちが選挙のためのN
GO活動にいそしみ、少数ながら
女性の政治家が存在感を示すよう
になり、女流文学者や映画監督な
どは、国王時代よりも数多く活躍
するようになっていたのである。
男女別学の学校で女子児童・生
徒たちは、体育の一環としてバス
ケットボールやバレーボールなど
をしている。私設の空手教室やテ
コンドークラスなども人気がある
ようだ。女性のためのスポーツク
ラブは、一九九八年から二〇〇五
年の間に倍増したとの報告もある。
とはいえ、女性の方がスポーツ施
設
や
国
か
ら
の
補
助
金
が
少
な
い、
ニュースなどにとりあげてもらえ
ない、という問題も指摘されてお
り、まだまだ発展の余地は大きい。
異性の試合を観戦できないことへ
の不満を表明する若者もいる。
女性スポーツの公式な諸団体は
体育協会副会長のもとで統括され
て
い
る。
「
女
性
と
家
族
の
文
化
社
会
協議会」ウェブサイトによると、
イラン暦一三八九年(西暦二〇一
〇~一一年)にイランが公認する
スポーツ団体に所属する女性アス
リートは、多い順に、バレーボー
ル六万八三六三人、空手五万三九
一三人、テコンドー五万三三六七
人、体操五万二五七六人、水泳五
万三二四三人、バスケットボール
二万六五三九人、サッカー一万九
七一八人、二年前に比べて一一・
五%の増加と発表されている。こ
の数値が競技人口そのものである
とはいえないだろうが、国家的に
こうしたレベルで女性アスリート
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が把握されていることは一定の指
標となるだろう。
二〇一四年に仁川で開催された
ア
ジ
ア
オ
リ
ン
ピ
ッ
ク・
パ
ラ
リ
ン
ピックでは、空手六八キロ超級で
イランの女子選手が金メダルに輝
いたのみならず、テコンドーやエ
アライフルなどさまざまな競技で
多数のメダルを獲得した。
●
女
子
サ
ッ
カ
ー
の
台
頭
イランで女子サッカーが始まっ
たのは一九七〇年代とされるが、
国際的な場で活躍することなくイ
スラーム革命後の困難な時期とな
り、公式に国のスポーツ競技と認
められるようになったのが一九九
八年である。男性のトレーナーや
監督を招くことが難しいという不
利な条件を抱えつつも、女子代表
チームは二〇〇五年、二〇〇七年
の西アジア杯でファイナルまで進
み、一八歳以下のチームは二〇一
〇年のユースオリンピックで四位
となった。イランの若者向けの雑
誌なども、男子選手と比べると控
えめながら、女子サッカー選手の
インタビュー記事を掲載するよう
になった。
彼女らの目覚ましい活躍は、B
BCなど国外のメディアでもとり
あ
げ
ら
れ
た。
二
〇
〇
八
年
に
は
ド
キ
ュ
メ
ン
タ
リ
ー
「
Veil of Dreams
」
が制作されて、日本のBS放送で
も放映され、彼女らの苦闘と成長
は広く知られるところとなった。
二〇一一年に西アジア杯で優勝
した女子サッカーチームは、二〇
一二年のロンドン・オリンピック
出場をめざした。ところが、ヘッ
ドスカーフ問題が彼女らの行く手
を阻んだのである。
●
ヘ
ッ
ド
ス
カ
ー
フ
問
題
イランの女子選手は、特に不特
定多数の男性が観るかも知れない
国際試合では、長袖シャツ、長い
パンツに、髪や首筋を完全に覆う
ユニフォームを身に着ける。それ
がイスラームの基準に従った服装
であるとの国家的な見解を反映し
ているのだ。他方、国際サッカー
連盟(FIFA)は、二〇〇七年
か
ら
ヘ
ッ
ド
ス
カ
ー
フ
を
着
用
し
て
サッカーの試合をすることには難
があるとして、イランサッカー協
会にユニフォームについての勧告
を行うようになった。イラン側も
その都度、頭髪を覆うもののデザ
インを変更して対応した。
二〇一一年六月、ロンドン・オ
リンピックの予選のためにヨルダ
ンに赴いたイラン女子サッカー代
表
は、
試
合
直
前
に
な
っ
て、
ユ
ニ
フォームが不適切だとして試合放
棄を余儀なくされた。六カ月にわ
たってトレーニングを積んできた
選手たちはフィールドで泣き崩れ、
胸が張り裂ける思いである、これ
でイランの女子サッカーはおしま
いだ、と語った。
ところが二〇一二年六月、FI
FAは、安全性が認められたから
と、ヘッドスカーフを着用して公
式試合に出場してよいと発表した。
この背景には、サッカーの振興に
熱心なヨルダン王族アリー・イブ
ン=アル・フセインがFIFAの
副総裁となって尽力したことがあ
るといわれる。
国際試合に出られなくなったイ
ランの女子サッカー選手たちは、
フットサルに転じ、二〇一三年の
アジア室内競技大会では、日本の
なでしこチームに次ぐ二位となり、
主
力
の
フ
ェ
レ
シ
ュ
テ・
キ
ャ
リ
ー
ミー選手は、世界の一〇人の女子
フットサル選手に数えられた。
●
期
待
二〇一五年三月、リオデジャネ
イ
ロ
オ
リ
ン
ピ
ッ
ク
予
選
の
チ
ャ
イ
ニーズ・タイペイ戦に敗れたため、
残念ながら次のオリンピック出場
はならないが、彼女らはワールド
カップ出場を夢みながらトレーニ
ングに励んでいる。二〇一四年八
月、
日
本
サ
ッ
カ
ー
協
会
と
イ
ラ
ン
サッカー協会はパートナーシップ
協定を結び、女子サッカーの活性
化についても協力し合うことを約
束した。イラン女子サッカーチー
ムがなでしこジャパンと競い合い
ながら世界的な舞台で活躍する日
は決して遠くはないだろう。
(
や
ま
ぎ
し
と
も
こ
/
明
治
大
学
政
治経済学部教授)
イラン・サッカー協会にて(筆者撮影)