教育における「出会い」について : 本居宣長と賀茂真淵の「対面」を中心に
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(2) 74. 教育 における「出会い」について. 学 を終 え て ,宝 暦 7(1757)年 10月 松坂 に帰 り,小 児科医を開業 した頃 ,偶 然 , 江戸 か ら来 た人 よ り,刊 行 して間 もな い真淵 の 著. :]冠 辞考. │」. (宝 暦. 7年 刊 ). を見せ られた こ とには じま る。 この 時 ,は じめて宣長 は真淵 の名 を知 った と記 してい るか ら,当 時 ,か れ は真 淵 の学風 につ いて ,ま った く無知 であ った。 したが って宣 長 は 『 冠辞考』 に述 べ られて い る見解 を ,最 初 は全 く思 い もか けぬ こ とと して ,「 さ らに信 ず る心 はあ らざ りし」 とい う状態 であ った。 しか し,そ れ に書 き示 して い る よ うな こ と もあ るか も知れ ない と,思 い直 して ,繰 り返 し確 めて い く間 に. ,. 成程 と思 うと ころが多 くな って ,「 つ いに,い に しへ ぶ りの こころ こ とば の. ,. ま こ とに然 る事 を さとりぬ 」 とい う心境 にな った。 宣 長 は宝暦 2(1752)年 3月 か ら同 7年 10月 にか けての京都遊学 中 ,国 学 に興味を もって研究 したが ,適 当な研究者 にめ ぐり会えなか っ た ら し く. ,. トク. (痛. ) (違. ). 「 世 に神道者 といふ ものの説 お もむ きは,み ないた くたが へ り」 と思 うよ う にな り,次 第 に 自分 の 師 と頼 るべ き人 はない もの と思 い込み ,当 時 ,そ の研 究 を どのよ うに推進す べ きか と悩 んで いた。あたか もそ の時 に,『 冠辞考』 を得 て ,幾 度 も「 よみあぢはあ、ほ どに,い よいよ心 ざ し応、か くな り」 「 此大人 (慕 ). を した ふ 心 ,日 にそ へ て 」深 くな って い た。 は じめて「 冠 辞 考 [1を 読 ん で か ら 6年 後 ,い よ い よ真 淵 を慕 う心 が つ の っ (嬉 ). て いた宝暦 13年 ,真 淵 が松坂 に一夜 宿泊す る こ とを聞 き,「 い とい とうれ し く,い そ ぎや どりにま うでて ,は じめて 見え奉 りた りき」 と,真 淵 に対面 で きた喜 びを記 して い る。 ` に して和歌 に傾斜 してい と その「 対面」 の 後 ,こ れ まで『 源氏物語』 を中ノ た宣長 の研究が ,わ が 国 の古代 人の「 こころ こ とば」を求 めて ,『 古事記』 の研究 に転 じ,そ の年 の12月 に真 淵 の許 に入 門を願 い 出 た。同月28日 入 門許. 3),翌 年 正 月 ,誓 詞 を真淵 に送 ってい る。. 可 の書状 を うけ. その後 ,宣 長 は明和 6(1769)年 10月 真淵が段 す るまでの約 6年 間 ,文 通 に よ る指導 を受 け る こ とにな った。なお ,真 淵 に入 門を願 い 出た頃 に,宣 長 が 起草 を決意 した『 古事記伝』 は三十余年 の研鑽 の末 ,寛 政 10(1798)年 完成 し.
(3) 75. た こ とは周知 の と ころで あ る。 したが って この「 対面」 は,宣 長 の非連続 的発達 の機縁 にな ってい ると考 え られ るが ,ボ ル ノウの「 出会 い」 の概念 に照 して ,ど のよ うな特色 を もつ もので あろ うか。 まず ,ボ ル ノウの「 出会 い」 の概念を瞥見す る こ ととす る。. 3.ボ. ル ノ ウの 教 育 にお け る「 出会 い 」. ボル ノウは「 実存哲学 と教育学』 のは じめ の部分 において ,従 来 の 教育観 を論 じてい る。すなわち従来 の数多 く存在 す る教育観 を伝統 的教育観 と総括 し,そ れを次 の特徴 によ って二 人別 した4)。 第 1は ,職 人 が適 当な道具 を使 って ,あ る素材 を希 望 す る品物 につ くりあ げ るよ うに,教 師が 心 に描 く理 想 的人 間 に,生 徒 をつ くりあげ るとい うよ う な教育観 であ る。いわゆ る教 師中心主義教育 とか ,外 的注入主 義教育 の概念 に相 当す る もので あ る。 第 2は ,教 育 の対象 と しての人 間 は1思 い のまま に形 づ くられ る素材 で はな く,そ れぞれ の人 間生来 の 内部 に もつ 固有 の 法則 に したが って成長発達す る もの とい う視点 に立 って ,そ の 法則 に則 して ,生 徒 を育 て よ うとす る教 育観 で あ る。いわゆ る 自然主義教育 とか ,内 的開発主義教育 の概念 に相 当す る も ので あ る。 この よ うにボル ノウは,伝 統 的教育観 を二 人別 したが ,そ れ らは ともに 人 間 の生活事象 (Lebensvorgange)も 教育事象 (Erziehungsvorgange)も 5),. 続 的な もの と してお り. ,. ,連. 人 間 の発展 の根本形式を連続性 と漸進的改造 とに. おいて論を進 めて い ると した。 それ に対 して ,実 存哲学 において は,ま ず生活事象 の連続性 を否定す ると した。すなわ ち人 間 には,究 極 の , しか も最 も内な るひとつ の核心(Kern)が あ る。それ は実存 哲学 において ,特 有 な概念 を付与 されて ,実 存 (Existenz) と呼 ばれ る。それが ,一 瞬 の うちにお いて 現実化 し,一 瞬 の うち に再 び消滅.
(4) 教育 における「 出会い」について. 76 6)。. する. ボル ノウの主張 によ ると. 「 実存的 な領域 においては ,原 則 と して ,生 活事象 の連続性 はな く,し た が って ,ま たひ とたび達 せ られ た ものを ,そ の瞬 間を こえて保持す る こ と もな い。それ故 ,ま して連続 的 な進歩 とい うもの もあ り得 ない。 ま さに. ,. あ るのは,集 中 した力 によ って瞬 間 に成就す る個 々の飛躍 と,そ れ に続 い て 再 びおちい る,非 本来 的な無 為 な生活状態 へ の転落 のみで あ る。 もっと も,次 の瞬 間 に,と きによ り,そ こか ら,新 しい飛躍が起 こるこ ともあ り 7)」. 得 るけれ ど も. と述 べ てい る。実 存 の 本来性 は瞬間 において生起 し,そ れ はたちまち現存 在 の非本来性 に転落す る。 このよ うに生の過 程 は非連続性 にあ る故 ,教 育 事 象 も非連続性 にあ るとす る。 このよ うな人 間観 に立 つ とき,人 間 の連続 的発達 を前提 に した伝統 的教育 学 は根本的に批判 を受 け ざるを得 ない。 ボル ノウによ ると,身 体 的精神 的発達 にお け る非連続性 は,病 気 の危 機. ,. 信仰 の危 機 ,道 徳上 の危機 ,結 婚上 の危機 ,国 民生活上 の危機 ,経 済上 の危 機等 の場 合 に見 られ ,さ らに覚醒 ,訓 誠 ,出 会 い等 の場合 に も見 られ ると し た。 ここで は,と くに「 出会 い」 につ いて ボ ル ノウの見解 を瞥見す る。. (1)ま ず「 出会 い」 とは,航 行す る船が燈台 に会 うよ うな場 合 で はな くし て ,航 行す る船が他 の航行す る船 と,い わば対等 の立 場 の船 が ,偶 然 ,遜 遁 8)。. す るよ うな場合を い うとす る. したが って ,人 間 にお け る「 出会 い」 も. ,. 対等 の人 と人 との対 峙 において成立す る こ とにな る。 この意味 で「 対等性 」 (対 等 性 ). は「 出会 い」の第一要件 であ る。. (2)そ のよ うな遜遁 によ って ,そ の 当事者 た る人 間 の 内な る核心 の人格 に 深 い感動 を生ぜ じめ,か れがいままで進 めて来 た発展 の道筋 を断念 して ,ま 9)。. った く新 しい何 ものか へ 転換す る高度 な非連続 的発達 を展開す る. (実 存 におけ る感動 と非連続的発達 ). (3)陶 冶 (Bildung)と 「 出会 い」 との 関係 につ いては,陶 冶 は人間 の諸能.
(5) 松 浦 伯 夫. 力 の調和 的発達 を 目指 し,連 続 的発達 をな さ じめ るもので あ る。「 出会 い」 は,人 間が本来 の人 間 (実 存 )に 立 ちかえ り,新 しい人格 の道を辿 らしめ る 非連続 的発達 をな さ じめ るもの と した。 このよ うに両者 は異 った機能 を もつ が ,人 間形成 の上 か ら見 て ,両 者 は補 1の. 足 関係 にあると見 な してい る. 。. (4)し たが って 教育 にお け る「 出会 い」の具有す べ き要件 を列 挙す ると. ,. a.ま ず ,教 育 に関係 した事象で あ る こ とが あげ られ る。 この場合 の教育 は学校教 育 のみで はな く,広 く人 間形成 の事象を包合 して い ると解 して よい。 (教 育性 ). b.前 述 の如 く,真 の「 出会 い」 は対等せ る者 の対 峙を原則 とす る。 した が って 教育 にお け る「 出会 い」 も対等性 を原 則 とす る。 この こ とか ら教 師 と教師 ,生 徒 と生徒 とい う対等 の 関係 において,「 出会 い」が成立す る可能性 が多 い こ とにな る。それ に対 して教 師 と生徒 とい う上 下 関係 において は,真 の「 出会 い」 にな り難 い. 11)。. も し教 師 と生徒 の 間 に「 出会 い」が生 じるとすれば,一 時的 に もせ よ,何 らか の理 由で両者 が対 峙す る こ とがなければな らない。そ の異 常な対 峙 にお いて ,当 事者 がその内な る人 間 において 感動 を促が され るな らば,「 出会 い」 の現象 を生ず る こ とにな ると言 え る。 その意 味 で 教育 にお け る「 出会 い」 において も対等性 は重 要 な要件 といえ. (対. る。. c.. 等性 ). で きない宿命 的偶然性 を もつ もので あ る。 「 出会 い」 は,本 来 ,予 沢」. したが って 教師 が あ らか じめ仕組 んだ り,強 制 して は得 られ ない。教 師 が教 育 手段 を もって 強制 したので は,意 図的教育計画 の もた らした もので ,偶 然 の「 出会 い」 とは言 えない。 ブーバ ー は「 出会 い」を恩 寵 (Gnade)と さえい 12)。. ぅ. 教師がかれ の対象 であ る個 々の生徒 を十分 に配慮 して ,教 材 を厳 正 に研究 して ,授 業 に心 を砕 いて専念 して い るときに,偶 然 ,真 正 な「 出会 い」が生 じる と して い る。. (偶 然性 ).
(6) 78. 教育 における「 出会い」について. d.「 出会 い」 において経験 され る内容 は不確定であ る. 13)。. た とぇ同様 な. 「 出会 い」の現象 であ って も,そ れぞれ の「 出会 い」 にお け る経験 内容 はそ れぞれ異 な り,独 自性 を もつ 。. (独 自性 ). e.「 出会 い」は一 つ の もの にのみ結合 して生 じ,同 時 に別 の もの と出会 う こ とはない。 た とえば,あ る人 が ヘ ーゲ ル とキ ル ケ ゴール とに同時 に「 出会 う」 こ とは ない。 どち らか一方 に「 出会 う」 のみで あ る。 したが って他 の方 は排 除 され るので ,「 出会 い」 は一種 の排他性 を もつ. f.. (排. 14)。. 他性 ). 「 出会 い」 は精神的世界 にとって決定的な もので あ るが ,そ れ は瞬間. に生 じる稀れな出来 事 であ って ,授 業全体 を幅広 く規定 し得 ない。いわば授 1つ. 業 の単元 の一 部分 において生 じるのみであ る. (瞬. 。. ge「 出会 い」 によ って ,人 間 は内な る核心 の人 間. 時性 ). (実 存 )に おいて感動. して ,そ の結果 ,そ の人 間 が非連続 的発達 を展開す る。 これ は ボル ノウの教 育 におけ る「 出会 い」 の最重要要件 とい うべ きで あろ う。 (実 存 にお ける感動 と非連続 的発達 ). h.「 出会 い」を受 け入れ るには,能 力が必要 で あ る。 あ る芸術作品 との「 出会 い」 によ って ,あ る人 が今 まで もって いた芸術観 を根底 か ら転換す る こ とがあ った とすれば,そ れ は,そ の人 が以前 に芸術 的教 16)。. 育 を十分 に受 けて ,そ の方面 の能力 を有 して いたか ら転換で きた ので あ る. その意 味 で ,「 出会 い」 は学級 の全 生徒 に生 じる ものではない。生徒 の能 力 の様態 によ って ,「 出会 い」を経験 す る生徒 とそ うで ない生徒 がで きる。 したが って ボル ノウは「 出会 い」の閃光があ る一人 の生徒 に生 じた とき,教 師 は慎重 に支 え とな る場 をあけ るよ う心掛 け,十 分 に「 出会 い」を とげ られ るよ う配慮 しなが ら,所 定 の授業 を進 める こ とを求 めて い る. 17)。. (能 力性 ). 以上 は,ボ ル ノウの挙 げる教育 にお ける「 出会 い」の要件 で あ る。 その 中 で もg.の 人間 の 内な る核心 と して の人 間 にお け る感動 とそれ によ る非連続 的 発達 とは,最 も重要 な要件 で あ る。 その他 の要 件 は ,そ れぞれ の「 出会 い」 に とって軽重が あ ると考 え られ る。.
(7) 松 浦 伯 夫. 79. それ は具体 的事例 に当って 検討 して明 らか にす べ き こ とであろ う。. 4。. 宣 長 と真 淵 の 「 対 面 」 の 特 色. 宣 長 と真 淵 の「 対面」は,ボ ル ノウの教育 にお ける「 出会 い」の要件 に照 して ,ど のよ うな特色 を もつ ので あろ うか。. (1)(教 育性 )宣 長 は前述 の ごと く偶然『 冠辞考』 を紹 介 され ,そ れを味 読す る うちに,真 淵 か ら教 えを うけ る立 場 にな った。 およそ『 冠辞考』 は ,何 を内容 と し,ど のよ うな特色 を もつ 著作 であ ろ う 18)』 か。 に も「 冠辞」 の項 に「 枕詞 (ま くら こ とば)に 同 じ」 と して 『 広辞苑. い るよ うに,こ の書 は枕詞 の研究書 であ る。 当時 ,枕 詞 の研究 で は下河辺長流 (1624-1686)の 『 枕詞燭明抄 沖 (1640二 1701)の 『 万葉代匠記 』惣釈. 2の. 19)』. や契. の「 枕詞」等 が 有名 であ る。 しか. し,そ れ らはいずれ も枕詞 それぞれ の語 義 の解 明 に力 を入れて考察す る研究 で あ った。 それ に対 して『 冠辞考』 は言語現象 その ものの意味か ら考察 し,わ が国 の 古代人 の思考法 に迫 る こ とによ って ,枕 詞 を解 明 しよ うとす るもので あ った。 21),宣 長 は『 冠辞考』を一読 して ,そ の所説 に 『 玉 勝間』 の記述 によ ると (事 ). 対 して ,は じめは「 さ らに思 ひ もか けぬ」ことと反 攪 した り,「 あま りに こ と (遠 ). とほ く,あ や しきや う にお ぼえ て 」 と疑 念 を いだ い た り,「 さ らに信 ず る心 は あ らざ り し」 と拒 否 的心 境 に もな った。 しか し,あ るい は ,そ の よ うな考 え もあ るか も知 れ な い と思 いな お して. ,. (節 々 ). 繰 り返 え して確 めて い く間 に ,「 まれ まれ に ,げ に さ もや とお ぼ ゆ る ふ しぶ し (出 )(来 ). もいで きければ」次第 に共鳴す ると ころが見 出 され ,や がて「 見 るたびに信. ず る心 の 出来 つつ ,つ いにいに しへ ぶ りの こころ こ とば」 は真淵 の言 う通 り で あ るとい う境地 に到達 した。 その後 ,今 まで高 く評価 して いた契沖 の『 万葉集』 につ いての説 も「 なほ (未 ). いまだ しき こ とのみぞ 多 か りけ る」 と評す るまで にな った と記 して い る。.
(8) 80. 教育 における「 出会い」について. この場合 の「 こころ こ とば」 は『 冠辞考』の序文 22)に も,真 淵 の『 万葉考』 の「 万葉集大考 23)」 に も見 られ る。それ は文 明全体 を集約 した語 であ って. ,. 真淵 は心 と言葉が相 関関係 にあ るとす る考 えか ら,両 者 を並列 して一語 のよ うな言 い方 を した。 それを宣 長 も『 玉 勝間』 に用 いたのであ る。いわば宣 長 は「 冠辞考』 の字 面 の背 後 にあ る古 代 人 の「 こころ こ とば」 の真諦 に迫 る真淵 の精神を ,漸 次. ,. 鮮 明 に理 解 して い くので あ るが ,そ れ にやや 時間 を要 した 旨を ,わ れわれ に 示す ために,『 玉勝間』 に楼 々述 べ て いると考 え られ る。 この よ うに,は じめは真淵 の見解 に反 撓 した り,疑 念 を持 った りもしたが. ,. 漸次 ,真 淵 の所論 に同調 す るよ うにな る。 ここに は教育過程 があ る。 したが って教育 にお ける出来事 であ る こ とは否定で きない。. (2)(偶 然性 )『 冠辞考』が機縁 にな って宣 長 と真淵 の「 対面」 にな るが. ,. そ こに は多 くの偶然が介在 して い る。 第 1に 宣長が京都遊学 を終 え ,郷 里松坂 に帰 った時 ,偶 然 ,江 戸か ら来 た 人 か ら近刊書 と して『 冠辞考』 を紹介 され た。江 戸 の近刊書 はいち早 く京都 に送 られ ,在 京 中 の宣長 の眼 につ いた と思 われ るが ,何 らか の偶然 で 松坂 に 帰 った直後 に,し か も,い よいよ医を生業 に して ,京 都 以来 の和歌 と古典 の 研究 を如何 に続 け るべ きか ,悩 んで いた ときに宣長 の手 に入 ったので あ る。 (皆 ). 第 2に 当時 ,宣 長 は「 世 に神 道者 といふ ものの説 お もむ きは ,み ないた く たが へ り24)」 と,ゃ や偏 見 に陥入 り,古 典 の研究 に信頼 す べ き師はない と思 (考 ). ` 己 を い こみ ,ど のよ うに して古代人 の「 ま こ との むねを,か むか へ 出む」 とノ 砕 いて いた。そのよ うな時 に宣長 の求 め る思想 を含 む『 冠辞考 ]に 接 した と い う偶然があ る。 第 3に 宝暦 13年 ,真 淵 が主君 の田安宗武 の命 を受 けて ,大 和 の古跡調査 の ため,門 人 の村 田春郷 0春 海兄弟 を と もない 2月 末江戸 を出発 した。 ― 行 は往路 に松坂 に宿泊 したが ,宣 長 の知 ると ころにな らず ,帰 路 の松坂 再泊 が ,宣 長 の耳 に入 る こ とにな り,辛 うじて前述 の ごと く 5月 25日「 対面」.
(9) 松 浦 伯 夫. を果 した。 もし,真 淵 の大和旅行 を田安氏が認 めない場合 や ,真 淵 が帰路 を 松坂経 由の道筋 を と らない場合 は,宣 長 との対面 は成立 し得 なか ったか も知 れ ない。 この意味 で ,こ の「 対面」 は多 くの宿命 的 と もい うべ き偶然が重 な って成 立 した と言 い得 る。. (3)(対 等性 )ボ ル ノウは,原 則 と して対等 の人 と人 との対 峙 を も っ て 「 出会 い」 と して い る。 宣長 と真淵 の松坂 にお け る「 対面」 は,対 等 の人 と人 との「 出会 い」の性 格 を もっていた。 面会 の 日,宝 暦 13年 5月 25日 の宣長 の 日記 には 新上屋. 「 廿五 日 曇天 ,嶺 松院会也 ,岡 部衛士 当所一宿 ,始 対面. 25)」. (原 文 ,タ. テ書 キ,新 上屋 ハ ー 宿 ノワキ ニ小文字 ニ テ記 ス(筆 者注 )) とあ る。 この 日は曇であ る。 日頃 ,医 師 と して勤 めて い るが,そ れは記 して ない。嶺松院 の会 な りとは,そ こで歌 の会 を もった こ とを記 してい る。そ の 会 のあ とで ,松 坂 の新上屋 とい う宿所 で宣 長 は真淵 に対面 した ことを,「 始 メテ対面 ス」 と記 して いる。 また同年 12月 28日 の 日記 には 「 朝曇 ,雨 天 ,去 五 月 ,江 戸 岡部衛士賀茂縣 主真淵 当所一宿之節 ,始 対面 其 後状通 (手 紙 ヲ送付 シテ …筆者注 )今 日有許諾之返事. ,. 26)」. とあ る。宣長 が真淵 に入 門を 申出て ,許 諾 の返 事を受 取 った こ とを記 して い る。 ここで も 5月 の面会を「 対 面」 と記 して い る。 およそ「 対面」 とは上下 関係 にお ける面会 ではな く,対 等 の ものが一 対 一 の 関係 におけ る会 い方 をい う。宣 長 は真淵 と 5月 25日. ,は じめて会 い,帰 宅. 後 ,日 記 を記す ときの真淵 に対 す る気持 は師 とい うよ りは ,研 究者 と しての 対等 の立 場 で「 対面」 した心境で あ った こ とを示 して い る。 これ はボル ノウ の「 出会 い」 にお ける対等者 の一 対 一 に該 当す る。 宣長 は『 冠 辞考 』を通 じて真淵 に対 して ,す で に深 い敬服 の心を もって い た筈であ るに拘 らず ,何 故 ,対 等者 の面会 を示す「 対面」 と記 した ので あろ.
(10) 82. 教育 における「 出会い」について. うか。それ につ いて は後 で述 べ るが ,宣 長 は決 して無意識 に「 対面」 と記 し たのでない こ とは,次 にあ げ る宝暦 2年 3月 16日. ,京 都 の堀景 山 の家 を尋ね. た ときの 日記 をみ ると明白であ る。 (吸. ). 「 二 月十六 日 先生 ノ許 二行 テ始 メテ謁 ス,酒 汲物 出 ル,藤 重藤俊老 同道. ,. 先生 ハ 堀禎助 ,琥 景 山先生 ,綾 小路室町西町南方 二住 ス,同 子息禎治殿 ニ モ始 テ対面 27)」 宣長 は京都遊学 の 折 ,漢 学 を堀景 山 に師事 した。景 山 の家 を訪れ ,面 会 し た折 の 日記 には先生 に「 謁 ス」 とあ る。 これ は上下 関係 の 間柄 を意識 して記 して い る。そ して同 時 に会 った景 山 の次男 の禎治 との面会 につ いては「 始 メ テ対面 ス」 と記 して い る。禎治 は享保 7(1722)年 10月 20日 生れ で あるか ら. ,. 宣 長 よ り 8歳 年長 で あ る。宝暦 6年 芸州侯 (浅 野宗恒 )の 儒官 とな り20石 3 人扶持 を受 け る学究 であ る。 宣長 は真 淵 に対 して宝暦 13年 の段階 では「 対面」 とい う対等 の 関係 にお け る面会 を示す語 を使用 してい るが ,そ れは 5月 25日 に会談 した話題 と深 く関 係 して い ると考 え られ る。それ につ いては次節 に述 べ る こ ととす る。. (4)(独 自性 )宣 長が真淵 に会 った時 の経験 内容 は特異 な独 自な もので あ った。 その時 の話題 は,従 来 ,『 玉勝 間』 の記載 に もとづ いて ,『 古事記』 の注釈 に 関す る もののみ と考 え られ ていた。 しか し昭和53年 の大野晋氏 の論考. 28)に. よ って『 源氏物語』 に も言及 されて いた こ とが論証 され た。そ うだ とすれば. ,. 宣長 は特異 な経験 を した こ とと察せ られ る。 まず前者か ら瞥見 したい。 (県 居 ). (大. 人). 第一 の話題 の 中 心 は『 玉勝間』 の「 あがた ゐの う しの御 さと し言. 29)」. によ. ると,「 古事記 の注釈」 で あ る。 その 内容 は,こ の大事業 の完遂 には,古 言 の理 解 を必要 とす るので ,ま ず 『 万葉集 』 の古言 を明確 にす る こ と。真淵 自身 は万葉 の古言 の解 明 だ けで老 (怠 ). 年 に達 したが ,今 ,壮 年 の宣 長 な らば「 今 よ りお こた る こ とな く,い そ しみ (遂 ). 学 びなば,其 心 ざ しと ぐる こ と有 べ し」 と激励 した こ と。一般 の学者 は基礎.
(11) 松. 浦. 伯. 夫. の学問を疎か に して高度 な学 問 に進 みたが るが ,そ れで は成 功 しがたい こ と。 学 問 の発展を主 と して ,研 究す るために,と きに師 の説 といえ ども,訂 正 す べ き こ とがあ る こ と,等 で あ った。 第 二 の話題 は『 源氏物語 』 で あ る。前述 の ごと く,こ の話題 は大野晋氏 に よ って は じめて 注 目され た もので あ る。 大野氏 がそれ に注 目され た経 緯 は氏 の論文 に詳 しいが ,こ こで はそ の概 客 にとどめ る。 宣長 は, 5月 25日 真淵 に「 対面」 して 2週 間後 の 6月 7日 『 紫文要領』 の 後書 をか いて い る。「 紫文 」 とは紫式部 の文章 ,つ ま り『 源氏物語』 で あ る。 その『 源氏物語 』 の概論 と もい うべ きものが『 紫文要 領』 であ る。そ の後書 に 「 右紫文要領 上下 三 巻 は,と しごろ丸が心 に思 ひよ りて ,此 物語 を くりか へ し心をひ そめて よみつつ かむかへ いだせ る所 に して全 く師伝 のお もむ き にあ らず ,又 諸抄 (諸 注釈書 …筆者注 )の 説 と雲 泥 の相違也 ,見 む人 あや しむ事 なかれ ,よ くよ く心をつ けて物語 の本 意をあぢは ひ,此 草子 (私 ノ 書 イタ文章 …筆者注 )と ひ き合せ かむが へ て ,丸 が いふ 所 の是非 を さだむ へ し,必 人 を もて言 をす つ る事 なかれ ,か つ 文章 昴碕 ざまはなはだみだ り 也 ,草 稿 な る故 にポ贄 りみ ざる故也 ,か さねて繕篤す るをましへ し,是 又 言 を もて人 をす つ る事なか らん 事をあふ ぐ,と きに宝暦十 三 年六月七 日 舜. 奄. 本居 宣長 (花 押 )3の 」. とあ るさ 大野氏 は この文 を次 のよ うに平易 に現 代語 に直 して ,宣 長 の心 情 を紹介 さ れた。 (こ. 宣長〕の意見 なのだ。 これ は先生 か ら習 った意見 れ 〔 紫文要領〕は私 〔. で はない。私 が 自分 で この物語 を一所懸命 に読 んで考 え得 て 書 いた こ とな の だ。 この物語 をよ く読 んでその本 旨を味わ い,私 がい うと ころとつ き合 わせ て ,間 違 って い るか合 ってい るかを決 めて ほ しい。私 のよ うな名 もな い人 間 が言 ったか らとて ,こ の言葉 を捨 てないで ほ しい。 この文章 はたいへ ん下手.
(12) 84. 教育における「出会い」について. で 乱雑 だが ,草 稿 で ,私 が文 章 の こ とを省 みないか らで あ る。そ の う ち 直 す。)(文 章 が下 手 だか らとい って ,お れをだめな人 間 だ と思 わないで いただ 31)。. きたぃ. 」. 日頃 ,平 静 な文 章 を 書 く宣 長 と して は,甚 だ激 しい文 章 で あ り,そ れが真 淵 との「 対面」 の二 週 間後 の文章 であ る点 に大野氏 が注 目され た。 す なわ ち大 野氏 によれば,宣 長 は青年時代か ら『 源氏物語』を読 み ,「 対 面」 の 頃 には『 源氏物語」 に対す る独 自の見解 を有 していた。 そ して宣 長 は 」を「 ものの あわれ」 につ いて 書 いた もので あ るとす る。「 もの 『 源氏物語こ のあ われ」 とは 日本 の春夏秋冬 の季節 の変化 に感ず る味わ いや 男女間 の愛情 ない し恋情 であ って ,そ の実相 を追求 して形象化 した ものが『 源氏物語』 で あ る。そ のよ うな趣 旨を『 紫文要領』 に記 して い るとされて い る32)。 この考 えを宣長 は真 淵 に話 したが ,真 淵 は「 それ に響 き合 い,応 じ合 う こ とを しなか ったに違 いない」そのために,前 記 のよ うな「 激 しい跛文 を書 い たのではないか」 とされてい る33)。 さ らに大野氏 は宣長 の『 排芦小船』 (1756年 成稿. ?)を 検討 された。 この. 書 は「 狙裸学 派 の堀景 山 の説 いた と ころが大 幅 に取入れ られて い る34)」 とぃ う説 もあ るが ,大 野氏 は宣長独 自の見解 を見 出 して論 考 されてい る。 宣長 は和歌 の本質 か ら見て ,政 治 ,道 徳 に反 す る ことを も当然 と し35),仏 36),許 されぬ人 へ の 懸想 の歌 も37),歌 と してよいな ら 戒 を犯 かす僧 の恋歌 妻 ば賞美 され ,認 め られ るべ きだ と記 してい る。 大野氏 は,こ れ らの宣長 の文言 は書物 か ら得 た知 識 で はな く,「 彼みずか ら この思想 に到達す るよ うな何 かを持 った. 38)」. に違 いない との疑間を もたれ ,. 宣長 の青年時代 の 日記 ,交 友記録 ,寺 の過 去帳等 を通 じて ,か れ の恋愛 ,結 婚 ,離 婚 ,再 婚等 の経緯 を精細 に調 査 された。 それ によ ると,宣 長 の二 度 目の妻 タ ミは,宣 長 と京 都 で と もに医学 を学 ん だ津在住 の友人 ,草 深 玄周 の妹 で あ る。宣長 は宝 暦 6年 4月 20日 と 5月 10日 に草深家 を訪れて い る。宣長26歳 ,タ ミ16歳 であ った。記録 では翌 7年 春 タ ミは津 の材木商藤枝 九重郎 と結婚 した。. ,.
(13) 松. 浦. 伯. 夫. 宣 長 は 7年 10月 京都 か ら松坂 に帰 り医業 を開 いたが ,タ ミは既 に結婚 して いた こ とにな る。宣 長 は松坂 に帰 って も二 年 間結婚 して いない。 しか し,よ うや く10年 4月 8日 村 田 フ ミと結納 , 9月 14日 結婚 した。時 に宣長31歳 で. ,. 当時 と して はやや晩婚 であ る。 他方 ,タ ミの夫九重郎 は10年 4月 26日 死亡 した 8宣 長 は フ ミと結納 をかわ した後であ ったので ,成 り行 きのまま結婚 したよ うで あ る。 しか し人妻 にな った タ ミヘ の思慕 の情 に宣 長 は苦悩 しなか ったか。「 ワガ妻 ナ ラ ヌ女 二 心 ハ (如何 ). (止. ). 掛 クマ ジキモ ノ トハ 聖賢 ノ人 ハ サ ルベ ケ レ ド,オ ヨソ凡人 イカデ トドメア ヘ. (昔 ) (難 ) (世 ) ハ 制 シ ガ タキ ハ ヨノツネ 也 ,サ レバ 克 己 卜云 事 ム カ シ ヨ リ ン。我 心 ニ モ ,ノ 己` (左 様 ). ナ リガ タキ事也 (中 客 )タ ダ歌 ハ ,サ ヤ ウノ議 論 ニハー 向 カカハ ラヌ事 ニ テ 歌 ノス グ レタル ヲ賞 シ美 スル 事也. 39)」. ,. と『 排芦小船』 に,思 いを和歌で は ら. せ ると書 いて い る。 しか し結婚 間 もない10年 12月 宣長 は フ ミを離婚 し,翌 11年 7月 タ ミに結婚 を 申 し入れ ,11月 結納 ,12年 1月 17日 結婚 し終生 ともに暮 す。 この よ うな若 い頃 の「 経験 が宣 長 に『 源氏物語』を読 み取 る目を与 えた」4の と,大 野氏 は述 べ てお られ る。 真淵 は宣 長 との「 対面」 よ り 5年 前 ,『 源氏物語新釈』(宝 暦 8(1758)年 刊 ) を出 してい る。その「 惣考. 41)」. をみ ると,真 淵 は従来 の『 源氏物語 』 の読 み. 方 の踏襲 であ る。遠 江 の神 官 の 出で ,田 安家 に仕 え る武士 の真淵 にとっては, 町人育 ちの京都風 の文 化 に憧 れ る宣 長 のいだ く『 源氏物語』 の本質観 を簡単 には得 心で きなか ったので はなか ろ うか。 宣 長 は,真 淵 の『 古事記 』 の研究上 の助言 を得 たが ,真 淵が宣 長 の『 源氏 物語』観 に共 鳴 しなか った対談 か ら,真 淵 に対 して度 し難 い感 情があ って. ,. 日記 に「 対面 ス」 と記 し,そ れか ら 2週 間後 に,そ の感情 の わだか ま りが前 記 の激 しい跛文 を書か しめた と考 え られ る。 そ うであ るとすれ ば宣長 と真淵 の会談 は,ボ ル ノウのい う対等者 と しての 一 対一 の「 出会 い」の要件 を満 たす もの と言 え る。 もちろん ,そ の後 ,宣 長が真淵 の 門 に入 り約 6年 間 ,文 通 による指導 を う.
(14) 86. 教育 における「 出会い」について. けて い る間 に,真 淵 の古典研究者 と して の真価 に触れ ,宣 長 の真淵 へ の度 し 難 い とい う,心 のわだか ま りは氷解 して,真 淵 の段 した報せ を うけた 日の 日 記 には,一 対 一 の対面 の 相手 で はな く,師 と して記 して い る。 「 明和六年 己丑十 二 月大 四 日 師賀茂縣 主去十月晦 日酉刻卒去之 由,自 同門揖取魚 彦告之。其状今 日到来 ,不 堪哀惜. 4υ. 」. (5)(排 他性 )宣 長 は『 冠辞考』 を宝暦 7年 ,偶 然 ,読 む こ とにな るが 最初 は「 思 ひが け ぬ 」 内容 であ るので 信 じなか ったが. ,. ,. 「 猶 あ るや うあ るべ しと思 ひて ,立 かへ り今一 たび見れ ば,ま れ まれ には. ,. げ に さ もや とお ぼ ゆ るふ しぶ しもいで きければ,又 立 かへ り見 るに,い よ いよ げ にとおぼゆ る こ とおほ くな りて,見 るたびに信ず る心 の 出来 つつ. 43)」. とい う『 玉 勝間』 の記 す と ころでは,『 冠辞考』 にかかれた真淵 の独特 な考 え に把 らわれ ,そ れを思索す る生活が続 いた こ とがわか る。真淵 の考 えが宣 長 の精神活動 に絶対 的優 位 を 占 めて い るときに宝暦 13年 ,松 坂 に真淵が宿泊 し,は じめ の宿泊 の折を逸 して ,二 度 目の宿泊 に「 対面」 した こ とに関す る 『 玉勝 間』 の文 に, 宣 長 の心 中 は真 淵 で 独 占 されていた こ とが 如実 に 窺 え る。 「 かの冠辞考 を得 て ,か へ すかへ す よみあぢはあ、ほ どに,い よいよ心 ざ し 宝 ふか くな りつつ ,此 大人 を したふ心 ,日 にそへ てせ ちな りしに,一 年 〔 暦 13年 〕此 うし,田 安 の殿 の仰 事 を うけ給 は り給 ひて ,此 いせ の国 よ り. ,. 大和 山城 な ど,こ こか しこ と尋ね め ぐられ し事 の有 しを り,此 松坂 の里 に も,二 日三 日とどま り給 へ りしを ,さ る こ とつ ゆ しらで ,後 に ききて ,い み じ くくちを しか り しを,か へ るさまに も,又 一夜や どり給 へ るを,う か が ひまちて ,い とい と うれ し く,い そぎや ど りにま うでて ,は じめて見 え 44)」. 奉 りた りき. したが って宣 長 と真淵 との「 出会 い」 において ,宣 長 の思念 は真淵 の考 え 方 で 独 占 された観 があ る。いわば真淵 の考 えが ,他 の思惟 を排 除す る作用 を.
(15) 松 浦 伯 夫. 87. して い る。. (6)(瞬 時性 )宣 長 は真淵 の『 冠辞考』 を宝暦 7年 には じめて読 み,次 第 に真 淵 の考 えに魅せ られ ,宝 暦 13年 5月 25日 によ うや く真淵 に対面 した。 そ の時 ,非 常 に感動 した と思 うが ,当 日の 日記 は前掲 の ごと く,簡 単 な文 で. ,. 宣 長 の感動 の程度 はわか らない。 それか ら半年 後 の12月 に真淵 に宣長が入 門 の手続 きを とってい る こ とを考 え ると,宣 長 の心 中 に徐 々に感 動が昂 か ま り. ,. 『 冠辞考』 と出会 って 7年 目に,真 淵 に対面 して半年 後 に,よ うや く具体 的 行動 を起 した こ とにな る。 したが って ボル ノウが「 出会 い」の要件 に示 した瞬時性 と異 った「 出会 い」 であ った こ とにな る。. {7)(感 動 と非連続 的発達 )上 述 の ごと く宣長 は,か な り長時間 にわた っ て ,徐 々に感 動 が深 ま り,つ いに「 いに しへ ぶ りの こころ こ とば のま こ とに 45)」 と記 して ,古 語 につ いて ,真 淵 と同 じ境地 に到達 した 然 る事を さと りぬ. こ とを表 明 して い る。 しか も,こ の頃 にな ると,今 まで高 く評価 して いた契 沖 の「 万葉 の説 」 も「 なほ,い まだ しき こ とのみぞ多 か りけ る」 と評 し得 る まで にな って いた. 46)。. さらに この契 沖 へ の評 に引 き続 き,自 分 の歌 の研究 に. つ いて も「 おのが歌 まなびの有 〔り〕しや う,大 かたか くの ごと くな りき」 と 47)。. 深 く反省す るほ どに学 問的 に向上 していた. その結果 ,宣 長 は,従 来『 源氏物語』を中心 に進 めて いた和歌 の研 究を一 歩進 めて ,わ が 国古代人 の「 道」を求 めて『 古事記』 の研究 へ ,一 大転換 を こころみ る こ とにな った。 したが って この転換 へ の心 の動 きは,宣 長が『 冠辞考』 をは じめて読 んだ ときや ,真 淵 に「 対面」 した とき等 に も生 じつ つ あ った と して も,そ れ らの とき には,決 断 に至 り得ず ,や がて真淵 へ 入 門 の願 い 出を した 13年 12月 か ら. ,. 翌年 (明 和元年 )正 月真淵 へ 誓詞 を送 付 した頃 に決定 的具体 的な転換 を示 し た と考 え られ る。.
(16) 88. 教育における「出会い」について. それ は,そ の時期 に,宣 長 の上代 に関す る文 献 の購入 が急増 してお り,さ らに宣 長 自身 ,『 古事記伝 二 御代 の 明和元年. 48)」. r』. に「 お ほけな く宣 長此伝 を著 し初む る今 の大. と記 して起稿 の意志 のかた ま りつつ あ った こ とを述懐 し. て い るか らであ る。 この よ うなわ けで宣 長 の場合 は,長 い問 ,醸 成 された心 の核心 にお け る感 動 によ って,ボ ル ノウのい う非連続 的発達 を展 開 した もの と見 る ことがで き る。. (81(能 力性 )人 間が「 出会 い」 によって非連続的発達 の展開をな し得 る ためには,そ の人 間が ,そ の発達 を展 開 し得 る能力 を,す で にあ る程度有 し て いな ければな らない。 コ 宣 長 の場合 は,宝 暦 13年 5月 真淵 との「 対面」 以前 に 『古事記 」をは じめ. ,. 上代文献 へ の深 い 関 心を もって いたのであ る。 まず宣長 の著『 石上私淑言 』 の成稿 は宝 暦 13年 とされてい るが ,も し真淵 との「 対面」 以前 の成稿 な らば ,宣 長 は『 古事記』重視 の思想 を「 対面」 よ り前 に,明 らか に有 していた こ とにな る。す なわ ち『 石上私淑言』巻 1に 「 古事記 は文 章 にかかは らず ,古 語 を主 と してか ける物也。然 るに末 の代 には,た だ文 章 の うるは しき方 にのみな づ みて ,古 語 を考 る こ とな し。 こ の ゆへ に もは ら日本紀 を のみ 用 ひて ,古 事記 あ る事を しらず。 よ りて 古語 は 日々 うしな ひゆ く也. 49)。. 」. と『 古事記 ]を 重視す べ き こ とを指摘 してい るか らであ る。 50)』. さ らに『 宝暦 二 年 以後購求謄写書籍附書 目. によ ると,宣 長 は京都遊学. 中 に『 古事記」を は じめ『 日本書紀 』『 万葉集』等 の上代 の文献を盛 ん に購 入 0書 写 して い る こ とがわか る。 なお前記 の ごと く,「 対面」後 の13年 12月 の真淵 へ 入 門直後 か ら,宣 長 は 一 段 と目覚 し く上代関係 の文献 を購入 してい るので あ る。 いわば ,真 淵 との「 出会 い」とい う契機を得 て ,潜 在 的 にあ った『 古事記』 へ の研 究 の転換 を可能 にす る能力 が ,に わか に顕在 化 した と見 るべ きで あろ.
(17) 松 浦 伯 夫 つO. したが って「 出会 い」 によ る,あ る人 間 の非連続 的発達 は,す で にあ る程 度 の能力 が ,そ の人 間 にな ければ生 じ得 ない とい う こ とがで きる。. 5。. あ. が. (1)ボ ル ノウの『 実存主 義 と教育学』 は昭和34(1959)年 刊行 された。 そ の後 ,か れ の見解 に関連 して数多 くの翻訳 ,研 究論文 が発表 された こ とは周 知 の と ころで あ る。 当時 ,筆 者 も宣長 と真淵 の対談 は教育史上 ,有 名 な出来事であ るので ,そ れ を早速 ,ボ ル ノウの「 出会 い」論で もって考察 しよ うと した こ とが あ った。 しか し,当 時 の宣 長 に関す る資料 では不 明な点 があ って ,途 中で筆 を欄か ざるを得 なか った。 と くに宣 長が京都 の堀景 山 に会 った ときの 日記 には「 謁 ス」 と記 して い るに拘 わ らず ,何 故 ,学 者 と してすで に名声高 い真淵 に会 っ た とき,若 い宣 長が「 対面 ス」 と記 したか ,そ の点 ,当 時 の資料 では分 か ら なか った。 しか るに昭和 53(1978)年 ,前 述 のご と く大野晋氏 が ,宣 長 の青年時代 の 生活を綿密 に調 査 されて ,真 淵 に会 った 頃 の宣 長 の心 的状況 を明 らか に され た。 それ によ って ,最 大 の疑間が氷解 した ので ,こ の稿 をま とめる こ とが で きた。 ここに大野氏 に深 く謝 意を表 したい。. (2)ボ ル ノウは「 出会 い」 の要件 と して ,種 々の要件 を挙 げている。 その 中 に,「 出会 い」 は精 神 的世界 にとって ,決 定 的衝撃 的出来事 で ,瞬 時 に生 じるもの と して ,「 瞬時性 」をあげてい る。 しか し宣 長 の場 合 は,真 淵 の『 冠辞考』を読 んで感動 し(宝 暦 7.10),そ の. 6年 後 に真淵 に「 対面」 して新 しい感激 を もち(宝 暦 13.5),そ れか ら半年 後 真 淵 に入 門を 中 し出で (宝 暦 13.12),そ の頃 に『 古事記伝』起草 とい う研究 上 の大転換 を具体 的 に起 し始 めて い る こ と等 を考 え合 せ ると,「 瞬時性 」を 適用 しがたい。宣 長 の場合 は,む しろ真 淵 とのかかわ りが進む につ れて ,漸. ,.
(18) 90. 教育 における「出会い」について. 次 ,感 動 が深 ま って,つ いに非連 続 的発達 に展 開 した と解 され る。 その意 味 で ,「 出会 い」の要 件 と して「 漸次性 」 とも言 うべ きもの を加 え るべ きか も知 れ ない。 なお ,ボ ル ノウの「 出会 い」 の要件 と して列 挙 した ものは,そ れぞれ相対 的 に軽重があ ると考 え られ るので ,そ れ も合 めて ,「 漸次性 」 につ いて ,事 例研究を重ね て 検証す べ きで あろ う。. (31「 出会 い」 の要件 と して,ボ ル ノウは対等 せ るものの一 対 一 の遜 遁 を 求 めてい る。 その意 味 で 教育 の場 において は,教 師対教師 ,生 徒対生徒 の場合等 は対等 の ものの間 の 関係 であ るか ら,そ こには「 出会 い」が生 じると考 え られ る。 しか し教師対生徒 とい う上下 関係 においては,対 等 の一 対 一 の 関係 は生 じ難 いので はなか ろ うか。 したが って ,教 師 と生徒 の間 において「 出会 い」が生 じるためには,教 育 関係 を逸脱 した異常 な事態 において発生す ると考 え られ る。 た とえば,教 師 と生徒 が共 同作業 していて ,そ の間 に何等 かの事情 で 相互 に上 下 関係 の意識 を消失 した場 合 とか ,あ るいは,新 しい問題 に直面 して生 徒 が教師 との コ ミュニ ケ ー シ ョンによ って教 師を凌駕す るにいた った場合等 に生 じるので はなか ろ うか。 もちろん教 師 と生徒 間 の上下 関係 が永久 に消失 しな くて も,た とえば学 問 研 究 の熱 した場 において一 時 的 に生 徒 が 自分 の立 場 を忘れ て ,一 人 の人 間 と して教 師 に対 峙す る場合 とか ,教 師が 自分 の立 場 を忘れて ,生 徒 に対決す る よ うな場 合 に生ず るのではなか ろ うか。 これ も,今 後 ,具 体 的事例 に則 して検討 して確 め るべ きで あろ う。. (4)ボ ル ノウは「 出会 い」はあ くまで も偶然 の 出来事 であ る こ とを必須 の 要 件 と して,教 師 が教育計画 にあ らか じめ「 出会 い」を仕組 む こ とを認 めて いない。 したが って 教 師 は「 出会 い」を 予定 して ,思 いのままに教育 活動 に利用す る こ とは不可能 であ る。.
(19) 松 浦 伯 夫. しか し有能 な教師 であれば,教 育計画 にあ らか じめ巧 み に,偶 然 の 出来事 の よ うに「 出会 い」を組 み入 れ ,授 業 の展 開 の過程で ,生 徒 が「 出会 い」 に 遭遇 したよ うに,仕 組 む こ とは可能 であ ると考 え る。 この場合 ,そ の「 出会 い」 は,教 師 にとっては予定 の出来事 であ るが ,生 徒 に とって は偶然 の 出来事であ る。 しか も,そ のよ うな「 出会 い」で も,生 徒 が 本来 の「 出会 い」が もた らす非連続 的発達 の展開を示す か も知れ ない。 そ うなれば教 師 は「 出会 い」を意 図的計画 的 に仕組 み,教 育 活動 の領域 を 大 な らしめ る こ とにな る。 はた して ,教 師 の手 で授業 の計画 に「 出会 い」をあ らか じめ仕組む こ とが 可能 であ るか。 もし仕組む とすれ ば,ど のよ うな場合 か。 そ して仕組 んだ場 合 の留意点 は何 か ,等 々につ いて ,教 育実践 を通 じて検討 す る必要があ る。 (5)い. か に精級 な教 育 理 論 で も,そ れが教育 の実践 において矛盾 を生 じた り. ,. 有効 に機能 しない場合 は,教 育 理 論 と して ,欠 陥 のそ しりを免れがたい。 かつ て 柳沢政太郎 (1865-1927)や 篠原助市 (1876-1957)は 学校 や保育 園 の教育実 践 を対象 と して教育研究 をすす めた こ とが あ った。J.デ ュ ー イ. (1859-1952)は 実験学校 において教育 理 論 の検証 を こころみ る努力 を した。 いずれ も教育理論 が実践 に対 して適 合性 と有効性 を もつ こ とを確 実 に しよ う とす る努力 の あ らわれであ ると考 え る。 明治初期以来 ,わ が国へ 欧米 の教育 理 論 が数多 紹介 された。 その場合 ,そ れ らを教育 実践 にか けて科学 的 に検証す る こ とは,必 ず しも盛 んで はなか っ た。 ま して ,そ の検証 によ って ,そ の教育 理 論 に欠落 した所 を見 出 し,補 正 して ,よ り高度 な理論 を構築 す る研究 は皆 無 に等 しい。 戦 後 ,学 校教育担 当者 は戦前 と異 な り,い ずれ も大学卒業者 で研究経験者 も多 い。今後 ,教 育実践 の場 に活躍す る研究者 による教育 理 論 の検証 を希求 してや まない。 注 1)Bonnow, otto Friedrich:Existenzphilosophie und PadagOgik, 1959。. 2)日 本思想大系40,岩 波書店 1978,68-70頁 。.
(20) 92. 教育 におけ る「 出会 い」につ いて. 3)本 居宣長全集第 16巻 ,筑 摩書房 ,1974,214頁 。 4)B01lnOw,0.F。. ,a.a.0。. So S.16∼ 8。. 5)ao a.O.S.19。. 6)7)ao a.0.S.15. 8)a.a.0。. S.S。. 98∼ 9.. 9)a.a.Oo S。 99. 10)a.ao o.so S.122∼ 3. 11)a.a.oo so S.130∼ 1. 12)ao a。. 0。. S.124.. 13)17)a.a.0。. S.126.. 14)a.a.O.S.122,S.126. 15)ao ao Oo S.119。. 16)a.a.0.S。 123. 18)広 辞 苑 ,岩 波書店 ,1981,491頁 o 19)契 沖全集附巻 ,長 流全集上巻 ,朝 日新 聞社 1927,367∼ 417頁 。 20)契 沖全集第 1巻 ,岩 波書店 ,1973,69∼ 159頁 。. 21)24)前 掲書 2),69頁 。 22)賀 茂真淵全集第 8巻 ,続 群書類従完成会 ,1978, 5頁 。 23)同 上 ,第 1巻 ,1977,2頁 o 25)本 居宣長全集第 16巻 ,202頁 。 26)同 _L, 214頁 。 27)同 上 , 29頁 0 28)大 野晋 ,「 語学 と文学 の 間一一 本居宣長 の場合」,『 図書』第346号 所収 ,岩 波書店 1978,45∼ 63頁 。. 29)前 掲書 2),70頁 。 30)本 居宣長全集第 4巻 ,1969,113頁 。 31)前 掲書 28),53頁 。 32)同 上 , 54∼ 5頁 。 33)同 上 , 55頁 。 34)前 掲書 2),570頁 。 35)本 居宣長全集第 2巻 , 3頁 o 36)同 上 , 28∼ 9頁 。. 37)39)同 上 , 31頁 。 38)前 掲書 28),56∼ 7頁 ○ 40)同 上 , 61頁 。 41)賀 茂真淵全 集第 13巻 ,1979,23∼ 31頁 。. ,.
(21) 松 浦 伯 夫. 93. 42)前 掲書 25), 314頁 。. 43)45)46)47)前 掲書 2),69頁 。 44)同 上, 70頁 。 48)本 居宣長全集第 9巻 ,75頁 。なお,第 9巻 附録『月報』2,(1968年 7月 ),9∼ 10頁 に,倉 野憲司氏は『 古事記伝』の起稿 の年 につ いて,は じめ明和元年説をとられた が,後 に明和 4年 説を正論 とされるにいたった経緯を記 されて いる。しか し本稿で は明和元年は,宣 長が『古事記伝』を起稿 しなかったとして も,起 稿 しようとす る 意志が固まりつつ あった年 と見な した。. 49)前 掲書 35),92頁 。 50)本 居宣長全集第20巻 ,393∼ 409頁 。.
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