Ⅰ はじめに
高等学校国語においてすべての生徒が履修する科目が「国語総合」である。今回扱う芥 川龍之介「羅生門」は、すべての「国語総合」の教科書に長年に渡って採用されている定 番教材で、実質的にも高等学校の多くの生徒が教室でこの小説を学ぶことになっている。 「国語総合」は、周知のごとく「A話すこと・聞くこと」、「B書くこと」、「C読むこと」 に「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」とから内容を構成する。このうち「C 読むこと」の指導事項には、内容に即して的確に読み取ること、表現に即して(人物・情 景・心情など)読み味わうことといった事項の他に、内容や表現の仕方について評価する ことが目指されている。「様々な種類の文章に触れ、内容や表現の仕方について、その価 値・優劣・是非などを判じること」( 1 )も、指導の中での必要事項として挙げられている。 「国語の授業で学ぶべき「読み」の本質」を「批評」とし、その過程を示した山下航正 によると、①学習者が文学作品の内容を把握する過程 ②読者が自身の「読み」を認識す る過程 ③自己の「読み」を相対化する過程として三過程に整理される。( 2 )①は多くの国 語科の授業で既に目指されていることで、この過程はゆるがせにできない基礎となる。③ も(多くは②を飛ばした形で)学習後のそれぞれの感想文の発表など、試みがなされてい るだろう。この過程で現在重要なのが②である。今後殊に国語(小説教材)の授業で目指 される過程であると考えられるが、その考察の手がかりとなるのが「物語の媒介者として の語り手」(山下)である。「語り」・「語り手」をめぐる問題は、このところの国語科の実 践の中でも重要視されてきたし、今後、実際の授業でどのようにより活用していくかを課 題としたさまざまな試行もなされている。 本稿では、「羅生門」の語りの問題に接続する発展的学習として、同じ中世の説話を元 とした芥川の小説「地獄変」を挟んだ授業実践を報告する。この二つの小説は、作者や題 材(中世説話)を同じくするのみではなく、語りの問題を考えるのに好対照をなしてい る。「羅生門」は隔たった二重の時空間(平安朝と近代)が設定されており、千年後の時「地獄変」の語りをとらえる授業実践とその理論的支柱
─「羅生門」の語りの問題に接続する発展的学習として─
斉 藤 昭 子
キーワード:国語総合、「読むこと」、批評、語り、物語論空間から語られた世界であることを語る語り手(「作者」を自称している)の存在がある。 「地獄変」の方は語り手は物語世界内(後述、ジュネット)におり、内容を実際に見聞し た「私」としてある。これらがどのように、「読み」に関わってくるか。これまで国語の 学習では内容を掴むことに終始していた生徒が、「どのように語られているか」に目を開 くのにこの二つの小説の対照はよいきっかけとなると考えられる。 また、先に述べた「国語総合」の「C読むこと」の指導事項は古典にも該当し、古文・ 漢文の文法事項や現代語訳のみに終始することは廃すべきとされる。この点から、教材と して古典に関する近代以降の文章を取り上げるような工夫が推奨されている。このことも 踏まえ、今回の実践報告では、「国語総合」で最初に古文に触れる「古文入門」の単元に 並ぶ説話である「絵仏師良秀」(「地獄変」の題材となった説話)とをつなぐ試みとしても 位置づけておきたい。
Ⅱ 全体の流れ(各小説・説話の扱い順)
「羅生門」で芥川が元とした中世の説話は『今昔物語集』「羅城門の上層に登りて死人を 見る盗人の語こと」である。この説話との比較は、「羅生門」を扱う授業の中でよくなされて いる。教科書によっては、比較のために「羅生門」の後にこの説話が掲載されていること もある。そして、この説話と近代小説である「羅生門」との違いを考える学習活動が設定 されている。 国語総合で最初に古文に触れる「古文入門」の単元(東京書籍「精選国語総合」、筑摩 書房「国語総合」など)に並ぶ「絵仏師良秀」は、『宇治拾遺物語』(元の題は「絵仏師良 秀、家の焼くるを見て悦ぶ事」)から取られた説話である。仏を描く絵師である良秀とい う男、家が火事になり、中に妻子のいるのを顧みずその勢いある火を眺めて「もうけもの をした」と笑っている。その良秀の描いた仏画「よぢり不動」は今も高く評価されてい る、という内容で、「地獄変」の元となった説話である。 古文入門として触れる説話であるから、まず古語など基本事項を確認する。その上で、 この説話の内容をまとめる活動などをすると、妻子を見殺しにする良秀のあり方に混乱を 覚えている生徒が見受けられる(当然ありうる反応である)。また、「そののちにや、良秀 がよぢり不動とて、今に人々愛で合へり。」という最後に置かれている語り手の評につい て、なぜこんな人間の描いた絵を賞賛するのか、ととらえにくいと感じる生徒も見受けら れた。この「絵を描くこと」に対する良秀の姿勢・その達成(とその問題)を、近代小説 にしたものとして『地獄変』があることをまず紹介し、課題などと組み合わせながら簡単 に内容に触れる程度の活動も可能であろう。 ここでは、「絵仏師良秀」(古文・説話)→「地獄変」(小説)→「羅城門の上層に登り て死人を見る盗人の語」(古文・説話)→「羅生門」(小説)という全体の流れを想定して いる。「地獄変」の内容を学び、同じ「説話をモデルにした小説」として「羅城門の上層に登りて死人を見る盗人の語」を読んだ後に「羅生門」を扱い、それぞれの違いを考える という流れである。以下、特に「羅生門」の語りの理解につなげる「地獄変」の授業実践 例とポイントに絞って述べる。
Ⅲ 授業実践例(『地獄変』の語りをとらえる)
①小説の構造(場面)・あらすじを確認する 「地獄変」を配布、通読する。難しい語彙などは付録の注の他、補うこともある。 一〜二〇の場面を各段(あるいは数段)の内容をまとめる。場合によっては補助的な学 習シート(末尾資料)を配布し、作業を取り組みやすくする。(その際、印象に残った場 面や、理解の助けがいる場面などをメモするなど、初読の感想をまとめる補助、小説の読 み方の初歩を学ぶ取りかかりとなる部分を付与することもある。) ②説話と小説の人物構成を確認する 全体の構造を確認した後、「絵仏師良秀」と「地獄変」の人物構成を整理する。具体的 には、元の説話には存在しなかったものが「地獄変」で新たに創出されたものに注目する。 →消されたもの─妻 創出されたもの─ 1 堀川家の家臣(語り手) 2 猿の良秀 など ③語り手への注視を促す 語り手がどのような存在なのか、分かる情報を本文から探し出す活動を組み込む。 →「地獄変」では「堀川の大殿」に「二十年来御奉公」してきたという、物語世界内の 語り手を設定している(作品内の登場人物が語り手となっている)。堀川に仕える(主従 関係のある)語り手である。この語り手が地獄変屏風に纏わるエピソードを、自ら体験・ 見聞した話を語るという形式を取っている。この語り手が、地獄変屏風完成から数十年と いう時点から物語を語っている体裁を取っていることを確認する。 (ここまでを必須の項目とし、以下④〜は授業時間との兼ね合いなどで調整する項目と する。) ④新たに創出された存在( 2 )「猿の良秀」に注目する 堀川家の家臣(語り手)以外に、新たに作り出された存在に「猿の良秀」がいる。猿に ついて語られているところを整理し、猿はどのような存在かを考える。 →猿を「良秀」と呼び、良秀を「猿秀」と呼ぶことから、この二つの存在は端的に言え ば表裏一体の関係であることが分かる。猿の良秀は娘と深く交流し、娘を身をもって守ろ うとする存在(一三、一八)であり、「子煩悩」な良秀の父性・人間性の側面を象徴することなどを確認する。 さらに、 その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、──何と云ふ不思議 な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云 ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べなが ら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではござい ませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやう なのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心 を悦ばせる──さう云ふ景色に見えました。(一九) というまさにクライマクスというべき場面の理解を猿の存在を媒介にしてもよいだろう。 これ以前には良秀は牛車の中にいましめられた娘の姿を見て 良秀のその時の顔つきは、今でも私は忘れません。思はず知らず車の方へ駆け寄らう としたあの男は、…中略…その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたり と云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ、良秀の心に交々/″\往 来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。首を刎ねられる前の盗人 でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔 を致しますまい。(一八) という苦しみの表情を浮かべていた。それから「さながら恍惚とした法悦の輝き」への変 化の間に、猿の死という出来事が差し挟まれて語られていることを踏まえて考える。猿が 表象していた「父としての良秀」は死に、「芸術家としての良秀」がここにあると考える ことができるだろう。 また、ここから、「堀川の大殿様」が「まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめ て、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫の膝を両手にしつかり御つかみになつて、 丁度喉の渇いた獣のやうに喘ぎつゞけていらつしやいました。……」(一九)という様子 を呈していたのかを考える活動も可能である。いろいろな考えが出てくることが予想され るが、一九の新たな良秀のありようが堀川の生きてきた世界にある価値観を根底から揺さ ぶるものであったというところを踏まえ、それぞれのグループで討議させることもでき る。( 3 ) ⑤語り手の特質と表現上の効果を考える ③で行った語り手の確認からもう少し踏み込んだ考察を進めてみる。物語世界内にお り、堀川と主従関係にある語り手の語りとはどのような性質を持つか。 →この語り手は、堀川のありようを表だって否定することができない立場にある。まず 物語世界内に語り手を設定し、そうした限定を敢えてつけていることを確認する。さら に、これまでも指摘されている語りの二面性について確認していく。つとに芥川自身が
「あの小説の中の説明」になると私にも云ひ分がありますと云ふのはあのナレエシヨ ンでは二つの説明が互にからみ合つてゐてそれが表と裏になつてゐるのですその一つ は日向の説明でそれはあなたが例に挙げた中の多くですもう一つは陰の説明でそれは 大殿と良秀の娘の関係を恋愛ではないと否定して行く(その実それを肯定してゆく) 説明ですこの二つの説明はあのナレエシヨンをくみ上げる上に於いてお互にアクテユ エエトし合う性質のものだからどつちも差し抜きがつきませんそれで諄々しいがああ 云ふ事になつたのです(小島政二郎宛書簡) と説明しているように、家臣の語り手の語りには「日向の説明」と「陰の説明」の二面性 がある。表には「権者の再来」、「大腹中の御器量」(一)などの文言で堀川の「御威光」 を忠実な家臣として言い立てている。しかし裏ではその暗部を否定しつつ肯定する、つま り見せ消ちのような形で読者に印象づけていく方法を採っていることである。 大殿様が良秀の娘を御贔屓になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を 御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳で はございません。尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございます が、それは又後になつて、ゆつくり御話し致しませう。こゝでは唯大殿様が、如何に 美しいにした所で、絵師風情の娘などに、想ひを御懸けになる方ではないと云ふ事 を、申し上げて置けば、よろしうございます。(三) 私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を御下げにならなかつたのは、全く娘の 身の上を哀れに思召したからで、あのやうに頑な親の側へやるよりは御邸に置いて、 何の不自由なく暮させてやらうと云ふ難有い御考へだつたやうでございます。それは 元より気立ての優しいあの娘を、御贔屓になつたのには間違ひございません。が、色 を御好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附会の説でございませう。いや、跡方 もない嘘と申した方が、宜しい位でございます。(五) など、所々に堀川の暗い欲望を見せ消ちしつつ示す。このような二面性をしつらえた結 果、どのような効果を生み出すことになったかを考える。堀川の暗部を示しながら、人々 からの崇敬・世俗的な地位の高さを示すことで、良秀の対峙し、乗り越えるべき(強度の ある)存在として造型されていることを踏まえたい。 ⑥語り手による「まとめ度」の違い、その効果を考える さらに時間を割くことが許される場合、語りへの注視を進めるために、語り手による介 入の度合いの大小を測定してみる。出来事をそのまま語っている(ように語る)か、出来 事を語り手がまとめて語っているかという違いである。このことは物語論の基礎から見る と、ジェラール・ジュネット『物語のディスクール──方法論の試み』(水声社、 一九八五年)での説明で、Ⅱ叙法における「距離」にあたる。プラトン、アリストテレス 以来、ミメーシス(模倣による物語言説)/ディエゲーシス(叙述的な物語言説)の対比 として説明されてきた事柄である。人物の行為や出来事を語る場合、完全なミメーシスは
あり得ないが、語り手の介入度(物語化の程度)のさまざまな度合いが想定される。 →『地獄変』では、一二〜一三の事件当夜の語りについて考えるときに、この視座が役 立つだろう。 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。良秀はさもさももどかしさう に、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで咽を絞められたやう な声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。私は思はず 頸を反らせて、その爪にかけられまいとする、猿は又水干の袖にかじりついて、私の 体から辷り落ちまいとする、──その拍子に、私はわれ知らず二足三足よろめいて、 その遣り戸へ後ざまに、したゝか私の体を打ちつけました。(一三) 一三の始まり部分であるが、かなりミメーシス度を高く、「実況中継的」に語っている (さらに言えば、ここでは「語り手=証人のタイプ」(前出、ジュネット)から逸脱し、当 事者としての語りである)。それに比して例えば一では、堀川の逸話を「御誕生」から「御 一代」を見通して語る。かなりディエゲーシス的、語り手の介入度が高い語りを採ってい る。例として一と一二、一三を比較し、このような介入の度合いの操作で、事件当夜の語 りとその効果を考えてみる。 それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。が、 その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々/\と私の眼に映りました。眼 は大きくかゞやいて居ります。頬も赤く燃えて居りましたらう。そこへしどけなく乱 れた袴や袿が、何時もの幼さとは打つて変つた艶めかしささへも添へてをります。こ れが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。──私は遣 り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のい て行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねま した。(一三) ここでは、意図的に自らの語りの介入(まとめ)を控え、そのままの情報を語る、という 体裁によっている。このことで、主人の罪深さを自らの口からは示さず、しかし生々しく 読者に看取させるという方法を採っていることを確認したい。 以上、授業の流れとポイントを時間数の猶予などによる増減を見つつ示してきた。適宜 ワークシートなどで補助する場合もあり、またペアワークでの確認作業などを挟みなが ら、語りの基礎を学ぶ流れとして全体を説明事項として扱うこともあった。
Ⅳ 「羅生門」の語りへと接続する
「羅生門」の語りのありようと「地獄変」の語りのありようとはそのテクストの成立か らしても実のところ深く関わっている。「羅生門」の授業のまとめ、発展的学習にも末尾 の一文「下人の行方は、誰も知らない。」への変化(初出(『帝国文学』に発表)では「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」を「急いでゐた。」 に、さらに現行の一文へ(『鼻』収録時)と変更)を扱うことがあるが、この間には「地 獄変」執筆があり、地獄変の語りの仕組みを組み上げたことが、再稿「羅生門」を完成さ せたと言われる。 前節に見たような「語り」への注視の仕方を踏まえた生徒は、「羅生門」の語りの仕組 みを次々に見いだすことが多い。まずは、「「作者はさっき、雨やみを待っていた。と書い た。」から始まる形式段落 5 の「その上、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人 の Sentimentalisme に影響した。」に注目する。この語り手は平安朝の世界とは隔たった 地点から語っており、フランス語を用いる近代の知識人であることを知る。ここから提起 されていくのは、まずもって近代の、私たちの問題であることを語りからとらえることに なる。 「羅生門」の語りに注視する授業について、細部を報告することは今回はできない(「羅 生門」の授業実践は多数報告されている)。重要な点は多くあるが、以下、いくつかのポ イントのみに絞って示しておきたい。 ⃝語りの介入度。 1 「ある日の暮れ方のことである。」の段と 2 「広い門の下には……」 の段と 3 「なぜかというと……」の段を比較し、2 はミメーシス的(中継的)であり、 3 はディエゲーシス的(まとめ的)であることを確認する( 1 は中間)。この語り手 は介入の度合いをそれぞれの場面で細かく切り替えていることを踏まえる。 ⃝焦点化の有無。例えば、形式段落10「それから、何分かの後である。」で、「一人の 男」ととらえ直された下人が羅生門の上層の様子をうかがっている。この「引き」か らすばやく視点が下人に寄り添い(前出、ジュネット、Ⅱ叙法「焦点化」)、同化的な 語りとなる。この段からしばらく、情報を絞って羅生門の不気味さ、老婆との邂逅の 衝撃が作り出されている。 ⃝最終部〜末尾の一文の意味。焦点化する時には下人に添っていた語り手が、最終部は 老婆に焦点化した語りを展開している(「そうして、そこから、短い白髪をさかさま にして、門の下をのぞきこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりであ る。」)。そうして決定稿の「下人に行方は、誰も知らない。」に続く。この近代知識人 によって(も)とらえられない「認識の闇」に向かって、ここまでの語りがしつらえ られている。「羅生門」は「語ることそのもの」の問題を浮かび上がらせていると言 えるだろう。このことについては以前「暗闇の領域の前で──「羅生門」末尾に問わ れること」で短く述べたので、参照していただけたらと思う。( 4 )
Ⅴ 終わりに
現在、生徒たちはSNSや好みのニュースアプリなど、個別にフィルタリングされた安 逸な情報に浸されながら時間を過ごすことに慣れている。「異質なもの」、「分からなさ」への耐性を年々弱らせ、文学を学ぶことの動機は教室の中の何割かが控える大学入試(セ ンター入試の大問 2 など)で得点するという「終着点」に向けて辛うじて保たれるのみと いうことも決してめずらしいことではない。その中で授業者の側にある「正解」、それを 何とか伝えさえすれば文学教材の授業は終わり、という型が文学の授業につきまとってい ないだろうか。学校での文学の授業こそが、今求められている読む力、言葉について思考 する力を削ぎ、むしろリテラシーを低下させるようなことになっているという危惧も提出 されている。( 5 ) 今後目指すべき国語の授業で学ぶ「読み」の本質である「批評」、その過程において必 要な、読者が自身の「読み」を認識し、さらには自己の「読み」を相対化するという流れ を挙げた。考察の手がかりとなるのが物語を媒介する「語り手」であったが、「語り」・「語 り手」をめぐる問題は、今後、実際の授業でどのように落とし込んでいくのかが課題に挙 げられている。本稿ではその始めの一歩として物語論の基礎的な知識と結びつけつつ、 「地獄変」の語りを考える授業とその具体的なポイントを挙げ、定番教材「羅生門」の語 りをとらえるための発展教材、また古文教材と架橋する試みとして報告した。 注 ( 1 )『高等学校学習指導要領解説 国語編』(文部科学省、2010年 6 月) ( 2 )「「読み」を意識させる授業──中島敦「山月記」の実践から──」(『広島商船高等専門学校紀 要』34、2012年 3 月) ( 3 ) 生徒からの意見として「良秀の姿を見て、自分のやってしまった事の大きさに気づき、自分が 地獄へ落ちることが分かったから」・「「何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに 似た、怪しげな厳さ」を持つに至った良秀を見て、このような絵師に描かれる地獄変の中で生 きる娘に永遠に苛まれることを恐れたから」などが出された。 ( 4 )『日本文学』2016年 4 月。特集「定番教材を問い直す──芥川龍之介『羅生門』」に寄せた小文。 「羅生門」について文学研究と国語教育の論者がそろったシンポジウムを元とした論考が掲載 されているので、合わせてご参照いただきたい。 ( 5 ) 千田洋幸『テクストと教育──「読むこと」の変革のために──』(溪水社、2009年 6 月)の「学 ぶことと読むことの間」など。 *本文引用について、「地獄変」は『芥川龍之介全集』(岩波書店新版)、「羅生門」は筑摩書房「国語 総合」にそれぞれよる。
1場面 堀河の大殿様の紹介、豪放な逸話の数々 2 3 愛される小猿の良秀と娘、嫌われる良秀(猿秀) 4 5 良秀の大変な子煩悩ぶり 娘を下げさせたい良秀と堀川の大殿との対立 6 恐ろしい地獄変の屏風の描写 7 ~ 11 良秀がスケッチを取るためにしたこと ・ ・ ・ ・ 12・13 娘の異変 事件 14・15 良秀の大殿への頼み 〔 16~19 車の焼けるところを写す 場所( ) 20 結末 「絵仏師良秀」 「地獄変」(オリジナルキャラクターに○) 説話「絵仏師良秀」との登場人物の比較 小説の構造(場面)・あらすじを正確につかむ 資料