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集団主義教育の諸問題

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Academic year: 2021

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(1)Title. 集団主義教育の諸問題. Author(s). 広川, 正治. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 15(1): 1-12. Issue Date. 1964-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3884. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 5巻 第1号 C 第1. 昭和39年8月. 北海道学芸大学紀要(第一部). 集. 団. 主. 義. 教. 育. 広. 川. 正. の. 諸. 問. 題. 治. 北海道学芸大学函館分校教育学教室 l i HIROKAWA: The Problems of Col Sh6 i i ion t i ect v sm in 取iuca. 次. 目. 2. ま え お き. 3. 1 . 全面的発達と集団主義教育 ま. え. お. 教育の目的と見通し路線 第一次集団の問題 き. 教育における 「集団主義」 とは何を意味するだろうか。 マカレソコに従えば, それは 「人間と, ) 仕事および他人の利益との現実的な連帯性, 社会全体の利益との現実的な連帯性1 」 で あ る。 日 教 組の全国教育研究集会の 「生活指導」 分科会に結集された十年来のわが国の教育実践のなかでは, それは単的に 「ひとりはみんなのために, みんなはひとりのために」 と感じ, 考え, 行動できる子 どもたちに形成し, 学級・学校をそういう 「集団」 に組織することを中核とする教育である, と理 ) 解 さ れ て 来た2 。. 要するに集団主義教育とは, 内容的には, 集団との強い連帯の感情, 自分を集団の一員と して 個人の利益より, 集団全体の利益をより上におく自覚, 集団の仕合せに対立する自分だけ孤立した. 仕合せなどありえないという信念を形式的には, 集団の全員が共通の目的に向っ て, あだかも一人 こ活動できる民主的に平等な組織体を, 形成する教育であるといえ が意志し, 行動するかの ごとく; ・ る で あ ろ う。. 戦後・ 日本のいわゆる 「新教育」 はアメリカ的民主主義教育にならっ て全体主義的国家主義教育 を否定し, 民主化の名のもとに特に個人の自由, 個性の伸長を強調する教育を推進 して来た。 しか. し資本主義体制下のデモクラシーを原理とする新教育は, 資本主義体制の復活・強化が進むに従っ て, 民主的な社会的連帯性は徐々に否定せられ, 個々バラバラな個人の自由, 現実の社会に位置づ けられない抽象的な個性の伸長に陥ら ざるをえなくなっ た。 しかも日米安保条約以後は年毎に教育 の機会均等という, 民主的な平等の原則はつぎつ ぎと破壊されて来た。 そ していまや, 経済の高度 成長政策における技術革新に見合う 「人づくり」 政策は, 単線型の学校制度を複線型にきり崩 しな. がら, 学校教育のなかに多面的に差別教育を導入して来ているのである。 その結果は人間を現実的 「人」 に に生きて存在する 「人間」 ではなくて, 抽象的な 「人」 に, 人間なら ざる個々バラ バラの,. 分裂させつつある。 人間を人間たらしめるものは語義的に いっても, 社会そのものでもなければな らない0 それは 「世の中」 世間」 にある人としてはじめて 「人間」 な の で あ る。 「な かま」 と 「共 ) 個性 にある世界」 としての世間に, 「互にかかわりあう」 ことな しに, 人間たりえないのである3 。 の伸長はやがて適性指導の名のもとに, 進学組と就職組の差別へ, 一流校, 二流校の差別へと発展. しつつある。 男生徒は技術科, 女生徒は家庭科へと 差別されつつある。 かくして社会的連帯性をこ - 1 -.

(3) . 広 川 正. 治. そ育成しなければならない道徳教育は, 深い深い海の底の貝になりたいと願わずにおれないような 仲間を信頼しえ ない内面的心▽情を強調する道徳教育へとかえられつつある。 また産業合理化の名の. もとに, 人間を機械の部品化する科学 技術教育が進められつつある。 全体的な一貫性・関連性をも たないここだけの科学性というようなものは, 少くとも現代はすでに科学性とはいえないもの, む. しろ偽科学性にほかならないものであろう。 人間社会のた めに幸福の条件をつくりだしてくれるは ずの科学技術教育は, むしろ逆に人間を疎外する結果となり, 結核病棟よりは精神病棟の不足をな げかせる現状に移り変っ て来ている。 以上要約してのべたような日本社会の現実こそ, 社会的連帯性を育成し, 人間疎外を克服する. 集団主義教育が真撃な教育実践家た ちによっ てとりあげられ ざるをえない必然的な理由になっ てい ) る で あ ろ う4. 1 . 全面的発達と集団主義教育 わが国の戦後の学校教育は一般に, 主と して教科を通しての学習指導と, 主と して教科外の生 活指導の両面を担当していると見てよいであろう。 そ して集団主義教育は今まで主と してその生活 指導面において考えられ, 実践されて来た。 戦前の教師中心の 「教授」 に対して, 戦後の 「新 教育」. における学習指導は, 児童生徒を主体とみる立場から, まず児童生徒の学習を前提し, その自主的 な学習に応じて, 教師が助言者として指導するところに 「学習指導」 といいかえられた理由があっ たであろう。 同様に戦前の 「訓育」 にかわっ て 「生活指導」 といわれるようになっ たゆえんも, ま. ず, 児童生徒の自主的活動としての生活を前提し, その自主活動を教師が助言者と して指導すると ころにあっ たであろう。 さらにそうした児童の興味や関心を前提とした教科の指導の結果は, いわ ゆ る 「フ ・三制, 野球ば かりがうまくなり」 と世間からも批判さ れる面を否定できなかっ た。 この 点の反省は, 未成熟な 子どもの一時的・偶然的・主観的興味に重点をおくのではなくて, 子どもが. 教育的に発達するために不可欠な教科の内容, すなわち客観的な科学性をこそ大切にしなければな らないことに気 づかせるに至っ た。 しかも再び児童生徒の自主性を無視し, 抑圧する結果になりが ちな 「教授」 に逆戻りしないような指導と して, 「学習指導」 は 「教科指導」 と呼びかえられ る よ うに転化発展 して来たのである。 少くとも日教組の教育研究集会や民間教育団体に結集されて来た. 学校教師の実践と理論は大きくそのような方向を進みつつあるのであり, 授業の科学的分析研究が 最近問題にされ出して来ているのもその中心的現われといえるであろう。. かかる教科の指導と平行して, いやそれよりむしろ先行しながら, 生活指導は個性伸長のいわ ゆるガイ ダンス的個別指導から子どもたちの生活の現実に対処しようとすればするほど, 次第にガ. r oupguidance) を 副 と して イ ダンス的生 活指導のなかにあっ て, 個別指導を主として, 集団指導 ( g いたものが, やがて集団指導が主となるにいたり, ついには質的に転化して, 「集団 づくり」 生活指 導に変ら ざるをえなかっ たのである。 この過程で注意 しなければならないのは, 戦前からの 教育遺 産と しての生活綴方的教育方法による生活指導と, 1950年末から発行され出した A・S マ カ レ ン コ. の集団主義 教育の実践と理論である。 前者をいわば媒介と して, 社会主義ソ連における教育実践と. 理論がわが国に理解され実践さ れるにいたっ たのである。 形としてはマカレンコ的な 「集団」 , 質と しては, 自覚的な規律をわが国の民間 教育団体のなか. では認 め, め ざしながら, なおいまだ学校教育の生活指導面に限定しているところに, 一般的了解 としては, 集団主義教育とはいいえずに, 「集団づくり」 と しての生活指導, あるいは集団主義的教. 育といわれる不徹底さ を残 している。. - 2 -.

(4) . 集団主義教育の諸問題. わが国戦後の学校教育のかかる発展のいきさつから, 「集団づくり」 はただ生活 指導 と いう側 面においてだけ問題にされる危険性を, いまなおもっ ている。 つまり学校教育全体の総合性・一貫 ・ 生活指導の側面, たとえば学級 (H・R) 活動・生徒会活動およびクラ ブ 性を考慮することなしに, 活動の指導に限定 して, 集団 づくりを問題にし実践して来た傾向が多かっ たといえるだろう。 その. ためにいままではかなり急速にその効果を発揮し, 進展して来ていたの であるが, その指導実践が 今改 めて大きな壁にぶつかっ て来ているとすれば, 学校教育全体のなかでの指導の関連においてで あろう。 すなわち, 特に教科の指導との関連において, 集団主義をめ ざすはずの 「集団 づくり」 生 活指導は, 学校教育全体のなかでどう統一されるのか。 「ひとりはみんなのために, みんなはひとり のた めに」 と指導 しながら, 教科の面では, たとえば相対的五 段階評価や一面的なテス トなどによ っ て, 差別や分裂を生起させていないかどうか。 集団主義が要請する科学的一貫性にもとづく 総合 的組織性が, 教 科 指導の面で保証されているかどうか。 このへんに現在の集団 づくり生活指導 の進 展 を 妨 げ て い る 大 き な 壁 が 横 た わ っ て い る と い え る。. 以上のことから当然, 学校教育全体の方針・計画が問題になる.であろう。 今まですでに教育史のなかで, 教育の目的として一 般的に 確認されて来たことは, 「円 満 なる. 人 格」 と か, 「人 格 の 完 成」 と い う こ と ば が 示 す 通 り, 古 く は プ ラ トンや ペ ス タ ロ ッ チ - に 中 心 的. に示されるように, 「調和的発展」 ということであっ た。 改めて説明するまでもなく プラ トン に お C ける 「理性」 ・ 「 ・意」 ・ 「欲望」 の三機能, 「知恵」 ・ 「勇気」 ・ 「節制」 の三徳の調和が 強調 さ れ ′ た。 そ して 近 世 ル ネ ッ サ ンス に お い て 再 生 した 人 間 性 (Humani sm) は 古 代 ギ リ シ ャ の 「善 に して )の humani tas で あ っ た お い て は ペ ス タ ロ ッ チ - が教 育 の 美」 なる調和的に発達した人間5 近 代 に 。 l i i 目 的 と して め ざ した 人 間 性 (Mensch t ) は, 頭 (Haupt chke ) ) ) の三 H の調和 z , 胸 (Her , 手 (Hand. 的発展であっ た。 この調和的発展を一般的に究極の教育目的とすることは今日と い え ど も 変 ら な い。 しかしながら, 今までのかかる調和的発展は, 結局するところ, 神話にもとづく不死なるイ デ. アの世界への調和(理性に対する欲望の服従)であっ たり, 宗教的信にもとづく道徳的愛による調和 (統一) であっ て, それらはひと しく空想的性格のものにすぎなかっ た。 何より大切なことは, 調和 すべき客観的科学性の根拠をもたないものであり, 具体的な歴史的諸条件とは関係なく, 人間に固 有な 理 想 的 状 態 と して 心 に 描 い て み た に す ぎな い も の で し かな か っ た であ ろ う。 一 般 に ペ ス タ ロ ッ. l t th ) ク ラ ブ 的 調 和 と い う と き は, 単 に 平 行 チ - 的 に 三 H の調 和 と か, 四 H (head,hear ,hand ,hea. 的・共存的な調和ではなく, また宗教的な上からの統一によるのでないかぎり, 「 C ・情」 に 統 一さ ノ れるものであっ た。 何を学び(頭) 何を作る( ともにかか 手 ) かも てその人の願求( 胸)にもとづ っ , , ,. くものと考えられたからであろう。 このことは要するに個人の主観的な心情の願望による統一であ り, その願望は, 社会的必然性としては, 結局するところまたその時代, その社会を支配する階級 の願望への統一という結果にならざるをえなかっ た。 つまりかかる 「調和的発展」 はつまるところ. 支配階級の青少年に対する教育観への反映であっ たのであり, 働く国民大衆のための教育観から出 た教育目的ではありえなかっ たゆえんである。 ペスタロ ッチ-的三 H にしても, 心情的願いが彼岸. 的神秘な権威を笠にきた支配権力のおしつけでなく, 人民たちの, 何より未成熟な子どもたちの願 求であるならば, きわめて狭い, 主観的で未熟な内容・質のものであることを否定しえない。 かか る未熟さ, 主観的一面性を克服していくものが客観的 科学性によっ て, 教えられて発達する 「頭」. に よ っ て, 「手」 が 活 動 して み て, 逆 に 「手」 が 働 く こ と に よ っ て 「頭」 がま た 育 て ら れ, こ の 両 者. の弁証法的相互作用の結果によっ てこそ, 何をいかに感じ, 意志するかという 「胸」 もまた育っ て い く 性 質 の も の で あ る。 した が っ て む しろ 始 めに 「胸」 に よ っ て 統 一 す る 調 和 で は な く て, 「頭」 ー 3 ー.

(5) . 広 川 正. 治. や 「手」 が育てられ, 育っ ていく過程で 「胸」,も正しく育っ ていくのでなければならないだろう。 どう統一するかは問題であると しても, 人間の諸能力を調和的に, 全面的に発達させることな しに は人間の正 しい成長はありえないし, したがっ てまた社会の真の発展はありえない。,そこで空想的 なものでなく, 科学的に実質的に, 調和的発展をな しとげることを保証する教育が 「全面的発達」 と し て め ざさ れ る に い た っ た。. 働く人民大衆の幸福な成長を問題にせ ざるをえない社会主義国では, 当然ながら人間性の全面 的発達を教育の目的 と している。 たとえば 「ソ ビエ ト学校の教育の基本的目的は人格の 全面的発達 )」 そ してこの生徒の全面的な教育の本質的 であり, 共産主義社会の積極的な建設者の養成である6 。 ) な側面をなすものが総合技術教育である? 。 前述 したわが国の生活指導と しての集団 づくりが今後集団主義教育と し進展しうるためには, 学校教育全体のなかに矛盾なく位置づけられ, 特に教科指導との一貫性を確保しえていなければな. らない。 その意味から, 教科指導が 「集団 づくり」 と一貫性を保ちうるた めには, どのような条件 が必要であろうか。 この点を考える場合社会 主義国ソ ビエトの学校教育を参考にすることが適切と. 思われる。 全面的発達を めざす教育の本質的側面をなすといわ れる総合技術教育とはいかなるものであろ うか。 人間を動物 から区別できる 「最後的・本質的な差異」 は 「人間はみず から, その変化によっ 8 そして て自然を彼の目的に利用し, 自然を支配する」 点にあり, 帰するところ 「労働」 にある) 。 この労働によっ て, 人間 が自然に働きかけていく過程で, 人間の感覚を始め, 心理的機能が形成さ. れ発達 して来たのであり, また人間生活に必要な財を共同で生産 していく必要から, 言語が発達 し, ) さ ら に 生産技術の進歩発達に従っ て, マニファ クチ 言語を媒介に して, 人間の意識 が発達 した9 。 l o ) ュ アは手工業をその一つ一つの部分作業に分解 し , 機械は労働者そのものを機械の部分に転化さ ) それゆえ 正 しく人間の意識(心)と身体(手)とを全面的に発 達 さ せ る た め に せるにいたっ た” , 。 も, 資本主義的に人間 が分裂させられ, 疎外さ せられた状態を克服 して, 本来の人間性を回復する ためにも人間生活に 有用な生産労働が, そしてそのための技術が総合的に獲得されねばならないの である。 「近代的工業の技術的基礎は革命的である」 といわれる通り, 「近代的工業は機械・化学的 処置・その他の方法によっ て, 生産の技術的基礎とともに, 労働者の機能 および労働過程の社会的 結合を 変革する。 かく してそれはま た社会内分業をたえず変革 し, 一生産部門から他の生産部門へ 多量の資本 および労働者を間断なく移動させる。 したがっ て大工業の本性は, 労働の転変・機能の. 流動・労働者の全面的可動性を条件 づける。 」 また 「大工業は資本の転 変する 搾取欲のために 予 備 と して保有され自由に利用されうる窮乏 した労働者人口 という奇怪事に置きかえるに, 転変する労. 働需要のた めの人間の絶対的利用可能性をもっ てすることを, すなわち, 一つの社会的細目機能の 担い手たる部分個人に置きかえるに, その者にとっ ては種々の社会的諸機能があい交替する活動様 2 )」 かく し 式であるような全体的に発達 した個人をもっ てすることを,一つの死活問題たらしめる1 。 て大工業の基礎の上に自然発生的に発達 したこの変革過程が総合技術教育を要請するのである し かもまた, あまりにも当然のことながら, そ の技術は科学的 でなければならない。 労働の発展は技 術の発展であり, 技術の発展は科学の発展に もとづき, 科学は総合的に一貫性をもっ ていなければ ならない。 時間的・空間的に限定された部分においてだけ真理であるような真理は,まさに一面的・ 主観的であっ て, 客観的科学的真理とはいいえない。 実験・実践によっ て実証されねばならず, そ の実証もまた一面的でなく総合的でなければならない。 ここに科学的真理の客観性は当然, それを 実証する集団的組織性を要請する。 集団的組織性に支えら れて, 科学的真理の客 観性は保証されて 一 4 ー.

(6) . 集団主義教育の諸問題. 来たのである。 労働者を人間と して教育することを要求するがゆえに, 労働者が機械の部品にされ ることを否定する教育は, その同じ理由のゆえに, 生産の主体者として機械を支配する主人である べき人間の教育でなければならない。 したがっ て, そのような教育は部分的科学性というようなこ とを認めない。 「東の精神, 西の科学」 という科学, 宗教をもっ て道徳にかえうるような 「道徳」 教 育と同居できる科学教育の 「科学」 をそれは否定する。 それはまさに総合的 一貫性をもつ総合科学 技術教育でなければならない。 したがっ て全面的発達の教育には, 頭と手の労働による統 一の教育,. 知的労働と肉体労働との結合にもと づく教育が必要である。 それは総合技術教育を本質的側面とし て, それに知育・労働教育・徳育・体育・美育が科学的な一貫性をもっ て, 総合統一されるので あ る。 わが国の学校教育にあてはめていえば, これらが全体として教科の指導に課 せ ら れ ね ば な ら な い。. 以上がいわば内容面の教育であると すれば, それの形式面の教育が児童生徒の群的集団 を自覚 的規律のある集団に組織するという集団主義教育である。 両者は相互にそれぞれを不可 欠の条件と 3 ) 社会の発展の歴史が事実として示しているように, 人間社 して統一されていなければならない1 。 会の発展は社会的財の生産のための労働によっ てであっ たが, その労働は集団的に実践され, 共通 の目的を協力 して実現する必要 から言語が発達 して来たのであり, それを媒介として, 人間が自然. に働きかける過程で科学が発達し, それがまた生産技術を発展させた。 集団的に一つの生産労働が 統一的に協力されるための客観的根拠はまた科学的客観性でなければならなかった。 多くの異なる. 主観的願望をもつかも知れない人びとが, 一つに協力できるためには, この科学的客観性によりど ころを求め ざるをえないのであり, それがまた生産技術を高めていっ たものでもある。 かく して社 会の進歩発展の原動力で ある生産労働は一面においては科学的真理を, 他面においては集団的 規律. を要請する。 これがまた学校教育の中核的機能ともなるのである。 科学性を育成する教科指導は, 科学の総合的一貫性の実践的要請として集団を必要とする。 集団的協力・規律性を育成する生活指 導は集団を組織するよ‘りどころとして, 客観的な科学性を要請する。 このように教科指導 と生活指 導とは, 学校教育全体のなかで総合統一されていなければならないのであり, 両者がそれぞれ独自 的に, 教育的成果をあげるためにも, 相互に不可欠の条件として要請しあうのである。 その全体の 結果として全面的発達の教育はな しとげら れていくのである。 現在の日本の集団づくりの生活指導が, 集団主義教育と して正しく発展しうるためには, この. 意- 床での教科指導の再検討を不可欠の条件とするであろう。. 1 1 . 教育の目的と見通し路線 前項でとりあげた全面的発達は大きくは教育の目的でありながら,それはいわば 「人格の完成」 というにひとしく, 目的であるよりは教育の理想であり, 理念的なもの, 方向を指し示すものであ る。 その意味では, 時間と空間とを問わず妥当する性 質のものであろう。 ついでながら, 一応概念 を規定すれば 「理念」 は教育の方向なり, 方針を指し示すところの星であり, 歴史的・社会的な限 定を越えて, いやしくも教育といわれるかぎり, その方向に進まねばならず, それをはずれてはも はや教育ではなくなる, そういう方向が理念である。 「理想」 は理念の方向において,教育的に願わ れているもの, 国家社会における教育的願望の一般的な 全体像である。 その理想の, 実践的に限定 されたものが 「目的」 といわれる。 したがっ て目的というときには, 教育実践の主体が歴史的・社. 会的に限定されていなければならないし, 原則と して目的はつねにただ一つである。 その唯一の目. 的が実践上, 段階的・過程的に分析されたもの, また内容的・要素的に分析されたものが, その目 一 5 ー.

(7) . 広. 川 正. 治. 的に対する 「目標」 といわれる。 目的をどう限定するかによっ て, 目標もまた異なるし, 唯一の目 的を実現するための目標は, 段階的にも, 要素的にも多数でありうる。. 教育実践の現場である学校において, 「集団 づくり」 の指導上, いまぶつかっ ている重要 な 問 題の一つが教育目 的の問題であろう。 根源的には前項の全面的発達の理解と共通 す る 問 題 で あ る が, 「集団 づくり」 の指導面では, 集団の質の向上として自覚的規律がめ ざさ れる。 この規律は, マ. カレンコ的にはかっ ての全体主義的国家主義の教育における規律が, 教育の他律的手段であっ たの とは反対に, 自律的結果である。 したがっ てわが国の 「集団 づくり」 においては, 戦前の他律的規 律と区別する意味で, あえて自覚的または自律的規律といっ て来ているのであるが, この, 結果で ある規律, したがっ てまた教育実践の立場からすれば, 目的である規律の手段・方法になるものは. 4 ) した が っ て 集 団 づ く り の 実践 的 努 力 は 当 然 こ の 指導 の て だ て と して の 「き ま り」 と い わ れ る1 , 。 ,. 「きまり」 の設定と, その実践に向けられることになる。 学級集団 づくりは, 学級全員の共通の目的 を民主的平等の原則に従っ て設定し, その共通の目的を共同で実 現していくた めには, どうしても . 学級全員がみんなで守らねばならない 「きまり」 を必要とする。 このきまりを みんなで確実に守り 守らせていくなかで, 目的が実現されるのであり, 集団としては, 自覚的な規律がおのずから形成. されるという結果になるのである。 自覚的規律がおのずから形成されるために, あえて指導しなけ ればならないのが, きまりの設定とその遵守なのである。 ところが集団主義教育への熱意のあまり, 指導の直接的努力がこの点に集中せられ, いわゆるきびしさがここに局限される危険性があり, 現 に 出 て 来て い る の で あ る。 一 般 に 集 団 づ く り の 実践 的 努 力 が こ こ に 向 け ら れ, マ カ レ ンコ の 具 体 的. な教育実践も実にこの点に集中されているため, わが国でも彼のその実践から多くを学びとること 「きまり」 が設定され, それを誰がどう になっ た。 そして小・中学校の学級のなかで, この生活の . 守らせるかが, 当然また問題になる。 その場合マカ レンコに学びながら, 多くは子どもたちの自治 的な組織に位置 づけながら, 日直・週番制が採用される。 学級づくりに限定していえば, 日直は学. 級総会から委託をうけて, 学級全員(具体的には ・学級内小集団としての班)に対して, 学級のきまり を点 検するのであり, その点検をよりどころにして学級集団内に競争を呼び起しつつ, 学級集団の 規律性を高めていこうとするのである。 ところが 「きびしさ」 はこの点検活動を媒介にして, いわ ゆる 「つるしあげ」 や学級集団による処罰ということまで問題になるにいたっ た。 集団主義教育そ. のものには好意的であり, 賛意を表しているものでも, 現実日本社会での, 現在の教育制度のなか での集団主義教育には批判的であるのは, 一つにはこの点の問題にあると思う。 つまり, 善意とし ては反動的な教育政策に対抗して, 民主化の教育を実践的にかちとっ ていこうとしても, 結果的に は, かかるきびしさは戦前的な他律的規律に, 現代では国家権力が喜 び迎える性質のものになっ て い な い か, と い う こ と で あ ろ う。. かかるわが国の集団 づくりの実践上の問題に関連してわれわれは改めて集団主義教育における 教育目的を再検討する 必要があると思う。. 教育理想と しては, 前述の全面的発達をめ ざすべきであり, そのかぎり, 集団主義教育と して の生 活指導は, 総合科学技術教育, つまり教科における科学性の指導と一貫的な関連をもちつつ推. 進されねばならない。 そう した学校教育全体の関連性のなかで, 集団主義教育をめざす集団づくり の指導の目的はどうなのか。 この点の不明確 さがなかっ たかどうか。 わが国学校教育のおかれてい. る現状をふまえた教育目的が自覚的に確認された上で, その実現のてだてと してのきまりの遵守, 日直の点検のきび しさが問題になら ざるをえなかっ たというのかどうか。 ただ形式的に集団主義教. 育の実践のてだてが, 型と して模倣されていたという危険性がなかっ たかどうかは反省されねばな - 6 -.

(8) ▼ 〕 . r .. . ・ 1. 集団主義教育の諸問題 ら な い だ ろ う。. 5 ) 学校 教 育 の 諸問 題は 社 会生 活およ びそ の 国 の 政 治 マ カ レ ンコ も 強く 指 摘 して い る よ う に1 , ,. 史とは無関係な命題から引き出されてはならない し, いかなる教育学的手段も, 任意の科学の命題 から三段論法的に引き出されるわけにはいかないのである。 そうでない場合には, もっ ともよい場. 合でも, 非政治的な帰結となるであろうし, 非常にしば しば政治的に有害な帰結となるであろう。 現在のわが国の憲法や教育基本法の立場からすれば, ここでマカレンコのいう 「政治的」 という概 念は, 「日本社会の今日的課題にどうこたえるかという観点から」 という意味で 理解されるべ き で. ある。 いや しくも集団主義教育の立場で考える場合, われわれはつねにこの意味での政治性を自覚 しているのでなければならない。 そもそもわれわれが 「新教育」 を批判するなかで, あえて集団づ くりに踏みきっ て来た事情を再確認することが大切である。 それは安保体制への切りかえにそい つ. つ, 実質的には修身科復活になりかねない 「道徳教育」 に対決する必要 からであっ た。 そ して今は どうか。 ますます強化促進されつつあると しか判断せ ざるをえない差別教育の根源を, 科学的に見 き つめる教科指導とあいまっ て, 集団 づくり生活指導は, その推進を阻止 し, 克服しなければなら 6 ) 集団 づくりの目的は かかる政治的観点から確認されていなければならない もし ないだろう1 。 , 。 そうであるならば, 現時点における集団主義の重点は, いわば 「ひとりはみんなのために」 という. 点にあるよりは, む しろ 「みんなはひとりのた めに」 という点にこそおかれなければならないだろ う。 マカレンコの教育は表面的にはつねに生徒に対する断固たる要求で あっ た。 そこにはき びしさ 7 ) が痛感されるのではあるが, しかしその裏面には, 生徒に対する出来るだけ大きな尊敬があっ た1 。 われわれが集団主義的に生徒に要求する場合には, わが国の児童憲章 が示 しているその精神をもっ た深い尊敬と信頼と愛情とが, それを裏づけていなければならない。 いま要求 されるべき子どもた. ちは, いわゆる・「学力」 の弱い子であり, 「非行」 青少年である。そう した子どもたちに対 して, い わゆる道徳的善意の立場からでもなく, いわゆる宗教的愛情の立場からでもなく, まさに現実日本 B ); こおいての尊敬が裏づけられてい 社会の政治的・経済的矛盾の科学的分析にもとづく人間的関係I 教育の 「きびし さきほどのわが国集団主義 なければならない。 この点が保証されていないならば, さ」 に対する批判が正当性をもつことになるであろう。 さらにこのさいわれわれは教育目的との関連において集団主義教育でいう 「見通し路線」 を再 検討しておくことが有意義であると思う。 わが国の集団づくりが, ややもすると教師の善意にも かかわらず, その熱意のあまり, その性 急さのゆえに, 結果的には子どもたちをしめつけ, 学級のめあてやきま りにしても, 子どもたちの 気持を暗くせつないものにする重荷になっ ている場合がないとは断言できないようである。 それは もちろん, 何よりも今日の現実社会の生活の暗さ・苦しさに起因する面の重大性を決して 軽視 し,. 無視するものではないが, 学校教育の場に限定 してみても, 以上の心配 が多いように思われる。 そ のこともあっ て, さきほどの批判の対象としての 「きびしさ」 には, 形式的には自主的・自覚的な ものでありながら, 子 どもたちの受ける心理的な面では, 外からの他律的抑圧として感じとられて い る場合 が 多 い の で は な か ろ う か。. マカ レ ンコ は 見 通 しを, 「近 い 見 通 し」 「中 間 の 見 通 し」 「遠い 見 通 し」 の 三 つ に 区 別 して い る。. このうち 「遠い見通し」 はいわばその国の教育目的を規定する理念的な意味をもっ た内容のもので あ る が, 「中間 の 見 通 し」 と 「近 い 見 通 し」 と は, 一 つ の 学 校 の 教 育 の な か で 問 題 に して よ い 性 質. のものでもある。 彼に従えば, 見通しの教育的意義は, 児童生徒の 「明日の喜び」 を組織 し, それ を徐々に教育目的にそっ て育成していくところにある。 人間生活の本当の刺戟となっているもの が - 7 ー. ・ r r . ● ・ ● 」 r . ● ● . . ・ ● 1 ● ー . . ・ . ・ ● ● . ・ ● ・ ● ● ● 1 1 ・ . . 1 . .. ’ 1. ・. . 1 .. 1 1 ●. . ・ 1 ・ ●.

(9) . 広 川 正 治 こ の 「明 日 の 喜 び」 だ か ら で あ る。 した が っ て 教 育 技 術 に あ っ て は, こ の 明 日 の 喜 び は 活 動 の も っ. とも重要な対 象の一つでな ければならない。 そ して 「はじめは喜びそのものを組織 し, それに生命. を与え, 現実的なものと して提起することが必要であり, 第二には, 喜びのはるかに簡単なものを, 9 ) いっ そう複雑な, 人間的に意義のあるものに根気強くつくり変えていくことが必要である1 」 とい. われる。 ここでわれわれが考えてみなければならないことは, 子どもたちにとっ てきまりが本当に 自分たちのためのものと して, 真に自覚的に守られ, 大切にさ れるためには, マカレンコが指摘 し て い る よ う に, ま ず 子 ども た ち の 生 活 の な か で の, か れ ら の 「喜 び そ の も の」 を 理 解 し, と ら え て. それを組織することが 必要なのである。 性急に道徳的に子どもの現実を批判 し, 否定することはき. わめて危険であり, 少なくとも批判は慎重でなければならない。 一般的に意識が特に政治的に発達 している成人においては, 遠い見通 しがあるだけでたいてい十分であるけれども, いまだ自分の欲 求や興味を遠いさきまで関連させて理解する力をもっ ていない児童 集団にとっては, 目標は近いと こ ろに設定されていなければならない。 遠い理想のた めに, 一日一日が, 重荷を堪え忍んでいかね. ばならな いものであっ てはならない。 今日の実践的努力はつねに間近い明日の ,喜びと興味に強く支 えられているのでなければ, 児童の活動の張りが崩れゆく危 険をもつ。 マカ レソコの指摘は, 遠い. 見通 しの自覚もさることながら, 特に子どもたちの指導の現実的問題と しては, 見通 し路線にそい つつどのように子どもたちの明日の喜びを近い目標と して設定し, 組織するかという問題の重要性. をわれわれに注意 しているものと考える。 組織するというとき, 子どもたち個々人の欲求・興味を どのように見通 し路線にのせるか。 さらに集団的な願求をどう調和 し, それを見通 し路線に位置づ. け, 両者をどう調節 し統一するか。 それがわれわれの課題である。 この課題にこたえうるためには 児童生徒についての生理的・心理的理解とその環境である現実生活の社会的組織とを, 科学的歴史. 観にそっ た発展の方向で統一して把握出来なければならないだろう。 そのときにこそ, 明日の目標 が, それを実現 しようとする児童生 徒にとっ て, まさ しく, 近い見通 しと して, 明日の喜びとなる 可能性をもつのである。 「たとえ愉快ということのなかに有益な要素があると しても, 愉快と い う つ ) 原則 に 基 づ い て 近 い 見 通 しを た て る こ と は,大 き な 誤 ま り で あ ろ う2 」 と い わ れ る よ う に,た だ 「愉 ● 「 快 と い う 原 則 だ け」 で は, こ こ で 強 調 さ れ て い る 喜 び」 と 無 縁 で あ る。 そ う で は な く て, 子 ど も. の欲求や興味 が心理主義的に現実社会から切り離されたものであっ たり, 前述の 「政治的」 な観点 からの, 何より科学的な社会発展の見通 しから遊離したものであっ てはならない。 集団主義的な喜 びは, 科学的世界観に もと づく確信 から生ずる楽天主義にほかならない。 集団主義的見通 し路線に. そっ た指導ができるた めには, 教 師のかかる科学的認識 が不可欠的に要請されるのである。 きまり. の組織化は, かかる近い見通しの組織化と の関連で考えられねばならない。 きまりの点検のきびし さも, 子どもたちにとっ て魅力ある近い見通 しに支えられて, 現実的障害が克服されていくのであ り, またそのなかで新た に明日への計画が生まれていくのである。 かかる近い見通 しは, 集団的努 力と集団的成功とにみちている明日という日への共通の欲求 にほかならないが, この学級の近い見 通しが, より大きな学校集団の, さらにはより総合的な学校教育の目的に正 しく発展 していくため. にも, 教師の側での集団的に, 科学的に確かめられた発展の路線が見通されていなければならない。 中間の見通 しは, 時間的に一定期間離れている行事的計画をいうのであっ て, それは 「ただそ. の日のた めにずっ と前から準備さ れている場合,.それに特別な意義が与えられている場合, その基 本的な内容に種々さま ざまなテーマ (たとえば報告・来賓接待・受賞・新 しい住居や設備・年間競 争の成果) が結合されている場合にのみ, はじめて意義をもつ」 ものであり, それが 「あらゆる近 1 ) い見通しを強化し, 美化していく場合にのみ, 教育的に有益なものとなる」 であろう2 。 - 8 -.

(10) . 集団主義教育の諸問題. 今までのわれわれの集団づくりにはかかる 「喜びを組織する」 という見通 し路線についての考 慮 が 欠 け て い な かっ た で あ ろ う か。 こ の 点 は, マ カ レ ン コ が 集 団 の 活 動 ス タイ ルに お け る 正 常 な 一. 2 ) 般的調子の第一特徴と してあげている明瞭な 「長調性2 」 ということとあわせて, 今後われわれの 実践的検討を必要とする点といわなければならない。 111 . 第 一 次 集 団 の 問 題. 「生活指導」 ( 「明治図書」出版) を機関誌とする 全国生活指導研究協議会のなかで, 最近問題にな. っ た マ カ レ ン コ の 「第 一 次 集 団」 を, わ が 国 学 校 教 育 に お い て は, 実 践 的に ど う と ら え る べ き か と い う 問 題 に つ い て, こ こ で私 見 を ま と め て お き た い と 思 う。 こ の 問 題 も 上 の 二 つ の 問 題 と 結局 は 同 一 の 問 題 に 起 因 す る と い っ て よ い で あ ろ う 。. ガイ ダンス的生活指導が次第に形式化し, 児童生徒の自治活動も教師の下請的なものになら ざ. るをえない安保体制下の学校教育のなかで, 真に民主的な国民のた めの教育を推進しようとするな らば, いま現には無知・無力な個々の小国民が, 国の主人としての見識と政治的な力をもちうるよ うになるためには, 団結以外に道のないことを, 教育実践のなか で徐々に自覚 しながら, 「仲間 づく り」 が主張され, 一対一の個別指導から, 学級を 「集団」 に組織 しようとする 「学級づくり」 が問 題 に な っ て い っ た。 そ れ へ の 実 践 に 心 あ る 多 く の 教 師 を 刺 戟 して い っ た も の は 「山 び こ 学 校」 に 始. まる生活澱方的教育方法による一連の実践記録運動であっ たと思う。 その教育実践は子どもたちの なかに現実生活に対する客観的な眼を育て, 子どもたちの生活に対する願求を掘り起したこと, そ の個 々人 の 願 求 が と も に 共 通 な 「生 活 台」 に 根 ざ した も の で あ る こ と に 気 づ か せ て い っ た こ と, そ の こ と に よ っ て 「一 人 の 喜 び, 悲 しみ が み ん な の も の で あ る」 こ と を さ と ら せ て い っ た こ と は 事実. である し, すぐれた功績と して認めなければならない。 だがそれがただちに 「一人はみんなのため. に, みんなは一人のために」 という集団主義に発展したも のかどうかのつぎの段階の評価が意見の わかれるところであり, 幸か不幸かこの時点で, 前述した通りマカレンコの集団主義教育が紹介さ れ, 両者があるいは肯定的に, あるいは否定的に影響 しあいながら, その後の生活指導を, わが国 の 「集団 づくり」 として発展させたわけである。 したがっ て純粋な形で生活綴方的教育方法の生活. 指導面での評価を, その実践的成果の上では, いま簡単に確かめえないのであるが, それは学級を 集団と して活用する実践でありながら, 児童生徒の個々人を大切にするという点に努力が集中され. ているといえるだろう。 それに対 して集団主義教育にあっ ては, 「集団の利益は個人の利益に 優 先 する」 という原則に従っ て, マカレンコ的に 「断固たる要求」 が強調されるところ から, 集団全体. の組織化に指導の重点が指向される。 この両者のからみあいの問題は, したがっ て児童生徒の個々 人とその学級集団全体との関係の問題である。 これはさらにその起因するところの問題としては, 抽象的には個人が大切か, 全体が大切かという通俗的な関心とも関連 して, いわゆる自由主義か全 体主義か, というような誤っ た問題提起にまで発展する危険性をはらんでいる問題である。. 3 ) 公 式 的 に は 集 団 (部 隊 = 第 一 次 集 マ カ レ ンコ の 実 践 に お い て は, 彼 自 身 語・っ て い る よ う に2 ,. 団) だけを問題にして個人を問題にしない態度でありながら, 本質的には個人への集団の影響・指 導ということを問題に していくという公式, それが彼のいうところの 「平行的教育作用」 である。 「集団の利益は個人の利益に優先する」 という集団主義の原則も, 決して単に 「全体」 の名に お い て 「個」 を滅却するということを意味するものでは毛頭ない。 それとは反対に, 集団の全員が真に 自 由 で あ る た め に, 一 人 の ボ ス の わ が ま ま を 許 さ な い こ と に ほ か な らな い。 した が っ て, 公 式 的 に. は集団の規律をこそ問題に して, きまりの遵守・点検をあえてきびしく指導するけれども, 本質的 - 9 -.

(11) . 広 川. 正. 治. に は, そ の こ と が 成 員 個 々 人 の 自 由 を 大 切 に し, 尊 重 して い く こと に な る の で あ る し, ま た お の ず. 4 ) からそうなるのでなければならない。 それが彼のいう平行的教育作用であっ た2 。 平行するものは何か。 それは一般的には個と集 団, 生徒(集団)と教師(集団), 小集団と大集団. である。 すべて弁証法的矛盾には, 主要なる側面があるが, 平行的教育作用における弁証法的相互 作用の主要なる側面は, 一般には個に対して集団である。 集団の個人への影響の問題では, 「全集団から個人へ の直接的な移行という ものはない。 教 育 5 ) 学的な目的をもっ て特別に組織 された第一次集団の媒介を通しての移行があるだけ2 」 で あ ると い わ れ る。 マ カ レ ン コ に と っ て は そ れ は 正 しく は 「隊」 で あ っ た。 第一 次 集 団 は 彼 の 理 論 から す れば. 教育活動を発展させるための有効な場である。 つまり弁証法的な矛盾の原則に従え ば, 対立する契 機の闘争と統一 とがもっ とも有効に行なわれる場が第一次集団と しての隊であっ た。 第一次集団は. 「そ れ の 個 々 のメ ン バ ー が 実 務 的 に も, 友 情 的 に も, 日 常 的 に も, イ デオ ロ ギ ー 的 に も, 不 変な 統 一. 5 ) を保っ ているような集団2 」 と規定 し, 学校では一般にそれは学級であるという。 しかし彼は自分 の実践的確かめのなかで, 学級は個人と全体集団を結ぶ環にならない, という欠点を指摘している。 彼 の 始 め の 実 践 は ゴ リ キ ー 名 称 ゴ ロ ← ニ ヤ で あ り, 後 の 実 践 は ジ ェ ル ジ ン ス キ ー 名 称 コ ム ー ナ で あ. るが, 前者は農場併設学校, 後者は工場併設学校で, ともに生産の場と学習の場とを結合した教育 施設である。 ところが第一次集団の本質的性格である平行作用の両側面の媒介という点からして,. 学校での学級は学習というきずな, 工場での生産班は生産というきずなが強力なために, 教育施設 の 「全集団の利益 から離れて孤立しようとする傾向をもっ ているから, 第一次集団は第一次集団と. しての自分の価値を失っ て, 全集団からの利益を飲みつくすものとなり, 全集団の利益への移行は 6 ) 困難になっ ていくから2 」 両者はともに第一次集団と しては欠点をもつものと考えられる。 そこで 彼は 「第一次集団が学級や学校の 利益を, また生産の利益を包みかくすようにするのでなくて, 学 校 の 利 益 も, 生 産 の 利 益 も, そ の な か の い ろ い ろ の グル ー プか ら で て く る よ う な, そ う い う 細 胞 と. 6 ) なるようにする2 」 ために, 寄宿舎を生活の本拠とする 「隊」 を第一次集団として編成したのであ る。 第一次集団の人数については, 七名から十五名と限定している。 彼の経験からすれば 「七名よ. り少いときは仲よ しグルー プとなり, 十五名より多いときはいつも二つの集団に分かれようとする 傾向をもち, いつでもそのけはいがあるわ」 からだという。 しかもその場合, 彼は隊=第一次集団. は同一年齢の子どもたち からなるものでなく, 異年齢の子どもたちからできている集団であるべき 8 )点 に 注 意 す る 必 要 が あ る こ と を 論 じ て い る2 。. つれわれが第一次集団を問題にせ ざるをえない重要性は, このようにそれが単位集団として, 個と集団との両極 につねに動揺する性格をもちながら, しかもどちらかに固定しないところに, い わば動的に平衡を保ちながら弁証法的に緊張しているところに, 生命ある 「細胞」 と して発展する. 意 義をもっ という点にある。 集団がかかる細胞的単位集団によっ て構成組織されている か否かが, 集団主義的集団として個々の 成員を真に生かしつつ, 発展する集団になるか, あるいは全体主義的. 集団と して個々の成員を圧殺し, 集団自身も自滅せ ざるをえなくなる集団になるかのかなめになる の で あ る。. 一応マカレンコの第一次集団についての性格づ けを以上のようにおさえた上で, さてわが国の 現在の学校を考えてみよう。 学校におけ る第一次集団は何か。 マカレンコの場合, すでにのべた 通 9 ) り, 一船的にはそれは学級である。 現在のソ連の学校教育にあっ ても 「学級集団=第一次集団2 」 と 考 え ら れ て い る し, グム ← ル マ ンに よ っ て も, 学 級 を 第一 次 集 団 と して と ら え て い る。 しか も 学 0 ) 級 が 単 一 な 全 体 集 団 の 細 胞 に な る こ と を 要 求 して い る の で あ る3 。 - lo -.

(12) 1 1 一 ! ] . l. . j l. 集団主義教育の諸問題 ところがわが国の学級はどうか。 何よりも五十名をこえるすし詰め学級であることのほうが多 い現状で, 「第一次集団」 を学級と理解することにはかなりの問題がある。 そもそも第一次 集 団 を 問題にする理由はどこにあるのか。 前述の通り, 集団 づくりのかなめが第一次集団だから であり, そのかなめの性格は, マカレンコが指摘するように, 平行的教育作用における個と集団の媒介 の働. きをするところにある。 それが全集団として 「細胞」 の役割を果たす性質のものであり, それが生 きて働くかいなかは, 集団が集団主義的集団として個を真に自由に生かすものとして発展するか, かっ ての全体主義的集団として個を滅却して, その犠牲の上に成り立つ形だけの抑圧集団となるか のわ か れ め に な る か ら であ る。. 学級がいま現に学校全体の集団を形成する単位 集団であることは自明のことであるが, この現. 実的には単位集団である学級が, マカレンコ的な第一次集団としてとらえられるかどう か, そうす ることが集団 づくりのために プラスであるかどうかが問題にされねばならな い。 まず形式的・組織. 的には, 第一次集団=単位集団であるべきである。 その意味ではやはり単位集団である学級が第一 次集団でなければならない。 もしかりに学級内にさらに小集団を第一次集団として設定するとすれ ば, その小集団が学校の組織面からも公認された単位集団としておさえられているのでなければな らない。 そうなれば当然, その小集団がまた 「学級」 ということになるだろう。 学級定員数が問題 にされるのもこと点にある。 五十名を越えるす し詰め学級は二分されねばならないし, 千名を越え る学校は二分されねばならないということは, 現在わが国の一般常識にさえなりつつある。 とすれ. ば, すし詰め学級をそのままにしておいて学級内小集団を第一次集団コ単位集団とおさえることは すし詰めを晴に肯定することにもなりかねない。 マカレンコはその十六年間を第一次集団というもっともむずか しい問題の解決に捧げて来たの. であるが, その結果到達 しえた確信の一つにつぎの原則がある。 それは 「第一次集団の先頭には必 ず一人の単独責任 者, それは権力のタイ プからすれば独裁者ではなくて, 集団の全権委員であるよ 1 ) うな単独責任者がいなければならない3 」 ということである。 マカレンコの原則をも しわが国の場 合にあてはめて考えるならば, かかる単独責任者を, 集団 づくりの当初における学級内小集団の児. 童生徒代表というようには考えられないのではなかろうか。 どう してもそれはまず教師であること を必要とするであろう。 さらにマカ レンコはもう一つの条件を提起している。 それは第一次集団の 継続の問題である。 彼は 「第一次集団を七,八年も, 変化な しに維持した」 といい, 「その集団の質 を 七, 八年 も た も ち, しかも そ の 変 化 は せ い ぜ い 二 五 パ ー セ ン ト ぐら い, つ ま り十 二 名 の う ち, 八. 1 ) 年間に三名変る程度3 」 であるわけである。 以上のような第一次集団の諸条件を勘案するとき, やはり学級担任教師一人が, 全校集団の単 位集団と しての一学級を第一次集団と して指導するということになら ざるをえないのではなかろう か。 たとえ教育的処置と してではあれ, 全校教師に公認された規定な しに, その意味では私的に, 任意に, 一教師がその担当学級内に小集団を形成 したと しても, それをただちにマカレ ンコのい う 意味での第一次集団とはいいえないのではなかろうか。 た しかに現在日本の学級は単位集団=第一. 次集団というには一般に余りにも一学 級の児童生徒数が多すぎる。 しかし, とはいっ てもやはり第 一次集団は組織的・形式的には学級と しておさえておくべきであると考える。 現実に学級は学校の 単位集団である。 形式的には単位集団=第一次集団である。 しか し単位集団=学級が本来の第一次. 集団と して, 集団 づくりに生きて働きうるものであるためにはなお多くの検討すべき問題がある。. 何よりもまずその定員数を大きく減じな ければならない。 この問題はなお, 異年齢集団の問題, そ れと関連 して, 社会主義国におけるピオネールやゴムソモールの組織に相当する校外の子ども集団 - 11 -. . t .. ・ - ÷.

(13) . 広 川 正. 治. の問題が論じられねばならないけれども, それについては別の機会にゆずることにする。 参. 考. 文. 献. 958年. 第四巻 1 ) ロシヤ・ソビエト連邦社会主義共和国, 教育科学アカデミャ 「ァ・エス・マカレンコン全集」1 394 頁。. 2 ) 国土社 「日本の教育」 のなかの 「生活指導」 の部参照。 3 ) 和辻哲郎 「倫理学」 上巻, 序論, 第一節参照。 4 ) この項については明治図書出版 「現代教育科学」 No .50 .58の拙稿参照。 , 同じく 「生活指導」 No 5 ) この人間はオリンピアにおける競技に表現せられるような, 身体的に健康で調和的に発達した人間でもある こ と を 注 意 す べ き で あ る。. 6 ) ロシヤ・ソビエト連邦社会主義共和国, 教育科学アカデミャ, カイーロフ主監, ソビエトの教科書 「教育学」 モ スク ワ, 1956 年, 21 頁。. 4頁参照。 7 ) 同上, 2 l l i l i k der Na 8 t t z Ver ag Ber n. S.190。 a ur e s: Di ekt ) F. Engel . Di. 9 ) Si ehe ebenda .S .183 ,184。 l l l i 10 D i F E l A i t n ) . nges: nt‐ u・ r ng e z Ver ag Ber . S.363。 . 1953 . Di k 1 2 l M E L l i M 9 3 i K D K 11 ) . Ma rx: as apta: . ,. nsttut . S.443。 . os au . .工 12 ) Si eheebenda S.512 . ,513. 13 3章参照。 ) 前提ソビエトの教科書 「教育学」 第1 14 ) 前提 「マカレンコ全集」 第五巻, 134頁参照。 15 ) 同上, 103頁参照。 58 16 ) その経済的, 政治的根源について, いまここではふれない。 この点については, 明治図書 「生活指導」 No . 1 7 ) 18 ) 19 ) 20 ) 21 ). の拙稿参照。 前提 「マカレンコ全集」 第五巻, 148頁参照。 マルクスが 「経済学と哲学とに関する第三手稿」 でいう類的存在としての 「人間としての人間」 の関係。 前提 「マカレンコ」 全集」 第五巻, 74頁。 同上, 76頁。 同上, 79頁。. 22 ) 同 上, 82 頁。 尚,マ カ レ ンコ の 「見 通 し」 に つ い て は 74~81 頁 参 照。. 9頁参照。 23 ) 同上, 16 24 ) この指導が効果的に働くためには, 児童生徒の真に自主的な参加が不可欠の条件になる。 この点については 13頁参照。 70頁, 前提 「教育学」3 前提 「マカレンコ全集」 第五巻, 1 25 ) 前提 「マカレンコ全集」 第五巻, 164頁。 26 ) 2 7 ) 28 ) 29 ) 2 7 ). 同上, 165頁。 同上, 256頁。 6頁。 同上, 16. 9頁。 前提ソビエトの教科書 「教育学」32 5 9年, グムールマン 「学校における規律」 ロシヤ・ソビエト連邦社会主義共和国, 教育科学アカデミャ, 19 30 5 0頁参照 。 , 57頁。 1 3 ) 前提 「マカレンコ全集」 第五巻, 2. - 12 -.

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・ 教育、文化、コミュニケーション、など、具体的に形のない、容易に形骸化する対 策ではなく、⑤のように、システム的に機械的に防止できる設備が必要。.. 質問 質問内容

○安井会長 ありがとうございました。.

● 生徒のキリスト教に関する理解の向上を目的とした活動を今年度も引き続き

 履修できる科目は、所属学部で開講する、教育職員免許状取得のために必要な『教科及び

 履修できる科目は、所属学部で開講する、教育職員免許状取得のために必要な『教科及び