一缶湾糖業研究の現状と課屋亘
新福 大健 1はじめに 台湾において糖業は酒代からそれに続く日本統治時代に至るまで,米・樟脳と並んで最 も重要な産業の一つであった。特に日本統治時代に台湾の砂糖生産量は飛躍的な増加をみ た。この台湾糖業発展の背景には,第1に清代から砂糖の海外輸出も行うなど発展の素地 が既にできていたこと,第2に日本政府並びに台湾総督府の植民地経営費の財源を捻出し 台湾財政の独立を達成するため台湾の産業化を図る必要があったこと,第3に日清戦争前 後の時期に内地でも発頭してきていた近代的な精製糖業(白糖製造業)の原料供給地とし ようとしたことがあった(1)。これらの理由から総督府は直接的には製糖会社への補助金 支出等の面で,或いは間接的には関税引き上げによって外国糖の輸入を防いだり増刷建設 の面で,糖業を保護・奨励し近代的な製糖業を育成してきた。 この日本統治時代の台湾糖業に対しては,台湾の近代化に果たした役割を高く評価する 意見がある一方で(2),日本帝国主義による台湾農民に対する徹底的な搾取と捉える見解 もある(B)。そ土でこれまでの日本統治時代の台湾糖業に対する研究内容を検討し,今後 必要とされる課題について考えてみたい。 2戦前の台湾糖業研究 戦前の台湾糖業研究の最も優れたもの,そして現代に至るまでその業績が受け継がれて いるものとして挙げられるものが矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店,1929年) である。その分析は政治・経済問題にとどまらず,民族・教育間麿までも含む,総合的な 台湾研究書である。特に経済面については統計資料を多用して植民地台湾の社会構造まで 明らかにしている。糖業については第一部「帝国主義下の台湾」の第2章「台湾の資本主 義化」第3節「資本家的企業」の中で日本人経営の製糖会社がどのような過程を経て台湾 の砂糖産業を支配し,また総督府の保護によって成長したのかについて分析している。第 二部「台湾糖業帝国主義」ではまず各国の糖業の状況を見た上で,台湾糖業がどのように 日本人資本によって支配され,斎農が搾取されていたのかという実態を明らかにしている。 その煮農に対する支配については,製糖会社による庶農への前貸金が結果として斎農を源 作に縛り付け,庶農は自由に栽培する作物を選択し耕作をすることができなくなっている, と指摘した(4)。この製糖会社による東農の「前貸奴隷化」の指摘は,その後の台湾糖業 に関する研究でも注目された視点である。また総督府による糖業保護政策の変遷について は「製糖会社の資本的発展に伴ひ庶作の改良奨励も政府の直接的補助(即ち政治的手段) より会社の資本家的活動の手に移されたのである。(中略)国旗に伴はれて台湾糖業に投 ぜられし我資本は今や政府をも動かし得るの力となり,国家権力によりて補助奨励せられ し企業は今や資本的権力となった」(5)と指摘している。 しかし二度にわたる台湾の製糖会社の合同運動(合同運動は3次にわたるが筆者の執筆 一67一当時は第二次合同運動まで)については,原料確保の必要上から隣接する原料採取区域を 合併したことと,市場で独占的地位を確保するために大資本による中小資本の吸収・合併 が行われたと分析している(5)。 これに続き小野文英が『台湾糖業と糖業会社』(東洋経済新報社,1931年)と『製糖コ ンツェルン読本』(春秋社,1938年)を著している。このうち前者は東洋経済新報の記者 として主に製糖会社の経営について,実際に台湾糖業を視察した報告である。台湾・明治 ・大日本・塩水港・帝国の各製糖会社における原料採取区域内の耕地や甘庶の収穫高・製 糖高・利益を比較して各社の特徴を分析している。また嘉南大別については排水面が不十 分な問題と,庶作の早楯が一般的となったことから水が不要な時期に濯漑がなされること によって,却って庶作に悪影響を与えると予測している。後者は製糖会社の多角経営につ いて特に明治・塩水港・南洋輿発・赤司系の各製糖資本について分析を試みている。この 中で明治製糖について,矢内原は前掲書において三菱系の製糖会社と見ているが(7),小 野は経営陣の中に三菱とつながりのある人物はいるものの三菱によって株式の多くが支配 されている実態は無いとして,独立した「明糖コンツェルン」であると指摘している。ま た『台湾糖業と糖業会社』では明治製糖の経営を「消極的」と指摘していたが,7年後の 本書では明治製糖が進出した製紙業や乳業など多様な子会社の活動について分析をしてい る。また製糖会社の合同運動については「極めて少数の優越会社が統一併呑に依って自己 膨張を成し遂げた結果である」と述べつつも,「これには白からなる順序と地域関係のあ ったことを見逃してはなるまい」と述べ,生産力向上のためには原料採取区域の拡大が必 要であったことを示唆している(S)。 戦時中には台北帝国大学の根岸勉治が台湾農業・東南アジア農業についての研究である 『南方農業間超』(日本評論社,1942年)を著している。この第一部で台湾農業について 米・甘庶・鳳梨を中心に分析を行い,甘煮については製糖会社の経営に関する資料を活用 しながら米作・甘煮作・甘藷作の原料費や奨励金も含めた比較をし,甘煮作が最も利益が 大きいと分析している。しかし分析の多くは大正末から昭和初期にかけての比較的短期間 の資料を使った分析となっているため,長期的な糖業の分析はなされていないことが問題 点としてある。 3戦後の台湾糖業研究 戦後の台湾糖業研究では,まず糖業協会編『近代日本糖業史 上・下』(勤葦書房,上 1962年,下1997年)がある。中心となった筆者は横浜市立大学の服部一馬である。上巻で は江戸時代後期から日清戦争後の台湾製糖業に連出した時期までを,下巻では1910年の台 湾糖業聯合会成立から終戦によって台湾における日本資本の製糖業が終焉するまでを著し ている。特に明治中期以降日本の製糖会社は台湾を活動の中心としたことから,台湾にお ける糖業の動きを詳しく分析しており,中でも糖業聯合会に関する記述では,糖業協会に 残されていた糖業聯合会の会議録も活用しているため,その資料的価値は高い。但し近代 −68−
日本糖業の全体像を描こうとしているため,分析の中心は糖業聯合会と内地の精糖会社や 糖商との価格交渉,或いは海外への砂糖輸出など,砂糖流通に関する部分におかれている。 そのため製糖会社の合同運動や各製糖会社の経営についての分析は充分といえない。 また1970年代には冶照彦が『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会,1975年)を著 している。この中で筆者は統計等を駆使して台湾における日本の植民地支配を明らかにし ようとしている。その分析の前提には「日本帝国主義の下で台湾はいかに搾取されたのか」 という視点があるため,その方針にあった資料を活用し,公平な視点に立って資料を活用ノ していない傾向が見られる。筆者は糖業に関しては特に台湾総督府による製糖会社保護政 策と製糖会社による庶農支配を中心に分析しているが,製糖会社の搾取によって中小規模 経営の庶農が零細経営へと没落していった,と指摘している。また農民の収入については, 矢内原も指摘している(9)旧来の現物分前制二分糖法が領台後は原料取引制二甘庶買収法 となったことにより,貨幣経済が庶作農家に浸透し農民の窮迫化につながった,と主張し ている。しかし分糖法では確かに製糖利益に与ることはできるが,台湾における旧来の制 度では小作人は製糖高の約30%程度しか受け取れない場合が大半であった(10)ことが既に 1905年に指摘されている(11)。また筆者は台湾では貨幣経済が領台前から発達していたこ とも述べており,庶展が分糖法で手にした砂糖も売却していた可能性が高い。つまり農民 は領台前から既に貨幣経済に組み込まれていたことが考えられる。このようにその主張の 中には矛盾した点も見られる。 4最近の台湾糖業研究 最近10年間の台湾糖業に関する研究では,まず中島航一の『日本統治期台湾の産業開 発政策』(2000年)がある。筆者は台湾総督府で開かれた産業開発に関する会議の会議録 を活用して,総督府の産業政策についてどのような意見が交わされ政策が決定されたのか, その過程について分析をしている。従来の研究では主に各種の統計資料を活用する.ことで 糖業の分析を行ってきていたが,総督府の会議録という内部資料を活用することで,糖業 政策を直接分析しようとしている点に注目される。しかしその分析は,総督府の会議録の みで分析しているため糖業に関しては「総督府の会議録からは許農を抑圧しようとの政策 は見出すことができない」と結論づけてしまっている。 また黄紹恒による『近代日本製糖業の成立と日本の台湾統治政策との関係に関する研究』 (1994年)の研究も挙げられる。これは主には台湾日日新報の記事を活用した糖業政策の 分析である。主に1905∼1910年の台湾糖業勃興期という短期間の分析であるが,丁寧な分 析によって糖業の動向を明らかにしている。日露戦争時期の糖業奨励は台湾人の資本を対 象にしていたが,1910年頃には精糖業界の変動を受けて日本人資本を奨励の対象とするよ うになったと指摘している。また台湾製糖による大東製糖の設立とその合併は投機目的で あったと指摘するなど,新たな視点を打ち出している。このように新聞記事を多く用いて の糖業政策の分析の手法は注・目される。 ー691
最も新しい研究としては張宗漢『光復前台湾の工業化』(交流協会,2001年)がある。 筆者は台湾土地銀行勤務後,国立政治大学教授になった人物である。本書は日本統治時代 の台湾の工業化がどのように進んだかについて分析している。糖業については台湾の工業 化が始まる1930年代以前から非常に高度な発達をしていたことを指摘している。そして工 業化が進む中で台湾糖業が無水アルコールやパルプなどの甘庶化学工業として軍事産業に 位置づけられ,その方面で発達していく過程が述べられている。また製糖会社の第三次合 同運動(1937∼45年)については,合同による規模拡大で経営の効率化が図れるとの見方 があった一方で,経営規模があまりにも大きくなると経営管理が却って難しく_なるとの慎 重な意見もあり,なかなか進展しなかったことを指摘している。しかし台湾の工業化全体 について分析しているため,糖業についての分析は断片的なものになってしまっており, 台湾工業化の中での糖業が変容していく全体像を描ききっていない。 5台湾糖業研究の今後の課題 これまでの台湾糖業に関する研究では,矢内原の研究を上回るものは未だに出ていない ように思われる。矢内原の研究が優れている理由は総合的な広い視点に立っ−て長期的に分 折していることによるものと考えられる。先に述べたように従来の研究は総督府などの各 種機関によって作成された統計類を活用して分析する研究がほとんどであったが,最近の 研究では総督府の会議録などの内部資料や新聞記事を多く活用する研究が見られるように なった。また1999年に植民地期台湾産業・恕済関係史料マイクロ版集成として『糖業聯 合会関係史料』が公刊された8 この資料は1910年の台湾糖業聯合金成立から1948年の日本 糖業聯合会解散までの糖業聯合会の会議録である。この会議録には製糖会社から糖業聯合 会に寄せられた要望書,それを受けて糖業聯合食から台湾総督府へ提出された願書,また 内地の糖商で構成されていた糠南協議食や精製糖会社と糖業聯合会との価格交渉など,戦 前の台湾糖業の様々な動きが映し出されている。この会議録中には従来の「台湾総督府は 製糖会社を保護し,台湾人庶農を搾取した」という見方の変更を迫る可能性のある資料も 含まれている(12)。これらの各種資料を組み合わせ長期的な台湾糖業の分析をすることに よって,より具体的な台湾糖業の実像が明らかになることが予想される。このような手法 で台湾糖業の分析を進めていくことが今後の課題として求められるであろう。 (注) (1)日清戦争前後の日本の精糖業は外務省条約局編『外地法制誌5(日本統治下50年の 台湾)』(1990年,文生書院)によると「当時,我が国における砂糖の消費高は平均300 万ピクルで,その四分の三はこれを輸入に仰ぐ状態であり,その価格も二千数百万円に 達していた」(p416)−とされている(引用者注,1ピクル=約60kg)。 (2つ 前掲書,外務省条約局編『外地法制誌5』では日本統治時代の台湾糖業における成 果として「糖業は台湾の政治,経済,文化の発展に寄与するところまことに大きく,糖 ー70−
業経営によって流通する金額は数億円に達し,耕作資金,原料甘庶代,労銀となって島 民経済に至大の関係をもち,原料,需要品,製品等の運輸のために敷設した鉄道,軌道 は他の産業の交通並びに地方文化の発達に寄与し,更に製糖会社が巨額の費用を投じて 行った土地改良あるいは開墾事業は農業生産力を増進し,科学的工場経営は労資一体の 下に低生産費の多量優良製品産出に成功し,砂糖貿易は国富の増大に寄与し,台湾文化 発展の主軸をなした次第である」(p419)と述べている。 (3)代表的なものが冶照彦の『日本帝国主義下の台湾』(東京大学出版会,1975年)で あり,筆者はその中で「日本の植民地旛営=支配は,製糖会社をして一般庶作農家の旛 営零細化を促しながら,製糖工場における土着人の低賃金と一般甘煮作農家からの甘煮 買収価格の抑制を可能ならしめたのである。台湾の農村経済は,一方では甘庶買収方式 による現金取引形態に移行し,分業化と商品化が強められながら,他方では製糖工場の 低賃金と工業の未発達によって完全な貸労働者創出が妨げられていた。こうした半熟的 な商品経済の浸透形態は,まさに植民地としての台湾経済が日本の帝国主義支配によっ て強制された奇形的商業的農業の発展の一側面を,しかもきわめて重要な側面を示すも のである。」(p172)と述べている。 (4)矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』(岩波書店,1929年)p328∼p329 (5)矢内原,前掲書,p287 (6)矢内原,前掲書,p291 (7)矢内原,前掲書,p305 (8)小野文英『製糖コンツェルン読本』(春秋社,1938年)p13 (9)矢内原,前掲書では「ともかく庶農は或いは糖麻の組合員として,或いは分糎法に よる製糖委託者として,製糖利益に参加せるものであった。然るに新式製糖工場の出現 による旧式糖廊消滅の結果かくの如き生産関係は根本的に変革せられ,庶農は製糖場よ り「自由」にせられ,従って製糖利益より全然分離せるものとなった。」(p 333)と指 摘している。 (10)山根幸夫「台湾糖業政策と新渡戸稲造」(東京女子大学新渡戸稲造研究全編『新渡 戸稲造研究』春秋社1969年)では旧来の製糖方法として以下の四つを挙げている。 ①牛掛廊:庶農が集まり,甘庶圧搾用の牛を提供して共同で製糖 ②牛島廊:庶農が集まり,資金を出して糖麻を経営。自作甘煮の製造の他,委託製造も 行い牛掛麻よりやや規模が大 ③公家廊:一種の合資組織。出資した金額を株に分け引き受けた株に応じて出資額を定 める。庶農から甘醇を貿収して製糖し,委託も引き受けて製糖料を得る。 ④頭家廊:大地主・糖商が単独資本で設立。小作人又は耕作費を前貸した者から集めた 甘庶で製糖。 このうち台湾で最も多い製糖方法が農民の手取りが最も少ない④の頭家麻であった。 (11)竹越輿三郎『台湾統治史』(博文館,1905年)p395∼p396 一71−
(12)例えば第41回協議会(1911年6月26日)の会議録には総督府への要望項目の中 に「十一 糖廊取彿命令二関スル件」として 従来糖廊ノ貿収二関シテハ総督府ノ取締命令アリタル後貿収価格ノ査定ヲ受来リタル ニ不拘近来ハ常事者相方二於テ売貿価格ヲ協定シタル後二非ザレハ敢梯命令ノ発布ヲ 受クル能ハサルニ至リシバ不便不利紗ナカラサルヲ以テ従前ノ如ク取扱ハルル様総督 府ニニ陳情スルコト とあり,総督府が農民に有利な方向に制度を変えて製糖会社は不利益を被るので,糖業 聯合会は総督府に対して旧来の方法に戻すように求めていることが分かる。 −72−