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明代の経済政策について : 「明史食貨志」のマクロ的考察

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明代の経済政策について

「明史食貨志」のマクロ的考察一

乗  田  幸  三

 明朝は下品洪武帝の建国(1368)から,毅宗崇禎帝の自殺・滅亡に至るまで, 約280年間継続した。創業から成祀永楽帝の頃までは,モンゴルの元朝を覆し て漢民族の手に政権を取り戻し,民族王朝の基礎を輩固にした。守成の明主と 称えられた仁宗・宣宗の島島も永くは続かず,15世紀中頃から,内には窟官によ る専権や帝室の内紛が続き,外には南下したオイラトに皇帝が捕虜となる(土 木の変)など,早くも衰退の兆が認められる。16世紀の世宗以降は内憂外患こ もごも至り,国家の財政も国民の経済生活も窮迫するうちに,清朝が興起し再 び異民族の手に政権を奪われた。  明代経済の基調は,「食貨志」冒頭の次の一旬に端的に示されている。いわ く   富国の本は農桑に在り と。また,明代の経済・財政政策の基本は,同じく次の一旬に盛られている。 いわく   夫れ本を藤め用を節するは理財の要と為す と。以下,おおむね「食賃志」の展開に従い,市場経済の盛衰に関心を寄せな がら,明朝一代の経済政策を概観してみよう。明代の政治上の大事件を簡略に 表示しておく。(表1)  このような政治の消長に従って経済政策の流れを把えるのであるが,総需要 を構成する基本的エレメントとしての戸口の動態から始めるのが妥当なところ であろう。食貨志の原文は,商務印書館の百柄本二十四史『明史』に拠り,和

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表1 明代政治略年表 1368一 1400一 1500一 1600一 1644一 太  祖 恵  帝 成  祖 洪  武 建  文 文  楽

洪宣正景天成弘

宗三部宗宗宗宗

仁宣英景英憲客

亭宗 武世 宗宗 穆神

煕徳統泰順化治

正  徳 嘉  靖 隆  慶 万  暦

年天盛

宗宗宗

光全室

昌啓禎

民族国家復興 皇帝独裁確立 北京莫都  蒙古・安南征服 鄭和西航 土木の変  宙官専横 帝室内紛 北面

}国麟

失政 大礼の儀  道教 宰相専権      南倭 一條話法 張居正執政 朝鮮出兵  東南ア擾乱 東林党 鉱山開採 滅亡 田清『明史食貨志訳註』上下二巻を参照した。図表の類は食貨志の本文に基づ いて作成したものである。 1 戸 口・田 制 〔戸口〕  太租は天下の戸口を登録させて,戸籍を戸部(六部の一,大蔵省にあたる官 署)に管理させた。洪武14年(1381)に「賦役黄冊」を編成させた。110戸を 1里とし,丁糧(労働力と生産高)の多い者10戸を長とし,余りの100戸を10

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表2 明代の里甲州 行政系統  県:一一一一里一甲一戸    1里=10甲      1甲=10戸 明代の経済政策について  3 表3 明代の戸の分類

区分1

種 類 民 戸 軍 戸

匠戸

儒・医・陰陽 校尉・力士・弓兵・舗兵 厨役・裁縫・馬船

脚・僧・道士

甲に編成した。(表2参照)地方行政単位である県の下に里甲制度を設けたわ けで,農村の自治的な組織を行政組織の末端に編入したものといえよう。「賦 役黄冊」には籍別,丁口の数,田土の量,税糧の数などが記載され,幽鬼徴収 と径役賦課の基礎資料とされた。10年ごとに役人が改訂し,丁糧の増減を織り 込んだ。明代を通じ,農業所得の把握,課税の確保に重要な役割を果した。  明代の戸は表3の通り,3等に分けられた。このうち匠戸は職業的な特殊技 術を持つ者で,工部(六部の一,営造工作の事を掌る)に管轄され,壮丁が輪 番で役所の仕事に従事させられた。  雨戸(他州・県に逃げ出した者),流民(一定の居所なく流浪する民),移徒 (いし,移転)等の施策が行なわれ,養済院(老人・孤児・施療のことを兼ね る),漏陰徳(貧民を葬る)隠家(ぎちょう,民間の慈善による埋葬地)等の 制度化も進められた。一方,富民を京師に移してその充実を計ったり,富民を 抑え貧民を済う社会政策も実施された。  このような戸口政策のもとに把握された明代入口の動態は表4のごとくであ る。  こうして見ると,約200年間に人口の増加は殆んど認められない。戸口の条

       表4明代戸口の動態

年次西副 戸

数 口 数 洪武 26 弘治 4 万暦 6 1393 1491 1578

 万戸

1, 605  911 1, 062  o/0 100 57 66

 万人

6,054 5,328 6,609  o/0 100 88 100

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の末尾に   之を要するに戸口の増減は,政令の張弛(緊張と弛緩)に由る とし,宣宗の言葉として   其の盛んなるや,休養・生息に本づき,其の衰うるや,土木・兵戎に由る と記している。中国における,戸口問題に関する伝統的な発想を見る思いがす る。  〔田制〕  明代の土地制度は官田と民田の二種に大別される。官田は国家の所有に属しr 耕作農民は小作料納付の義務を負う。民田は人民の所有にかかる田土である。  洪武20年(1387)に土地台帳を整備して「魚鱗図冊」と称し,一筆ごとの土 田の形状・所有主・公課負担額等を明らかにした。田土の入質・売却等を登記 させ,所有権が無くなっても納税義務が残存する様な不:合理を防がせた。中書 省に天下墾田の数量を報告させた。その一端を表5に示す。  明代の屯田には軍将と民屯の別がある。民屯は流亡・色面などの農民を屯田 させたものである。軍屯は辺地では防衛3分・屯種7分,内地では防衛2分・ 三種8分,という様に任務を定めていた。  15世紀中頃から顕著になったのは,内監(富岳)や軍官(武官)による占奪 の問題である。激化の頃(15世紀後半)には,屯田収入は従来に比べ1/10に も当らなくなったという。永楽期(15世紀初頭)には常備軍19万の食糧を屯軍 4万が供給していたのが,100年位の間に屯軍の多くが逃死し,常備軍8万が 皆な国庫から支給を受ける,という風であった。

表5全国の耕地面積

年次酪陣地面積

備 考

建武26

弘治15

万暦 6 1393 1502 1578  万頃 850 422 701  o/0 100 50 82 官田は民田の1/7 屯田64万頃

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      明代の経済政策について  5 表6 15世紀宋畿内の荘田 区 分 件 数 面 積 皇荘 勲戚・中宙の荘田  5 332 % −←9

 9

  頃12, 800 33, OOO %

89μ

ウ臼7馴 計 337 i 100 45,800 j 100  明初には指診を各面に募って開中法を行なわせた。辺境駐屯軍隊の糧草を商 人に納入させ,その代償として産塩地で塩を支給し,一定の行塩地(販塩指定 区域)での販売を許したのである。この制度も15世紀末葉に崩壊し,商人たち は両出産塩地に退き,辺地の糧食が欠乏し,米1石が銀5両の高値を呼ぶに至 った。  明代には開墾にも努力が払われたが,表5に見る通り,耕地(民田の)面積 が増大せず,逆に減少の趨勢を見せている。その主要な理由の一つは荘田の形 成にある。とくに,皇荘とか諸王・勲戚・雪盲の荘田の増大が著るしく,農業 生産の発展を抑圧することとなった。弘治2年(1489)における畿内の面心等 は表6の通りである。食貨志には,荘田管理に当る小役人たちが農民を搾取す る状況がリアルに描かれている。「奏献」・「乞請」と称し,土地を王府等に寄 進したり,権力者が土地を強要・奪取することが頻繁で,荘田のシェア増大を 促したことが推察できる。時代により抑止力の働く時期もあったが,概して言 えば濡々たる兼併の大勢は止めるべくもなく,とくに宙官や外戚たちの中間搾 取は著るしいものがあった。食貨一巻末の一句を記してこの項を終る。   蓋し中葉以後荘田民業を侵奪し,国と相終うと云う。

H 賦

役 明代の賦役制度は唐の両税法をモデルとする。その概要は表7の通りである。 洪武9年(1376),天下の税糧を銀・鋤・銭・絹で折納(代替納税)させる こととした。その際の換算率は表8の通りである。 永楽中期(1410年代),天下の本色の税糧は3千余万石,綜・三等は2千余

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表7明初の賦役制度

翻対象障の配陣位1納矧備

考 丁 田 役 租 甲 役

樒役

雑役

税糧

夏秋

戸丁

臨時

月月

89臼

課税資料  黄f冊 免除  16歳未納と60歳云上 野

紗絹

銭鋤

麦銭

米米

表8 代替納税の換算率 1376年

本色i折

色 備考 米 1石 筆 6斗 (麦 7斗) 米 4斗 (麦 5斗) 銀銭

 1両

1,000文

 1貫

   棉苧  ︵

1疋

麻布

1疋

小麦は

それぞれ

20%減

表9 明初の税率

(畝当り)

区分障率

備 考 官 田 民 田 重租田 没官田 5升3合 3 3 8 5.5 12 官に没収され,もとの小 作料と同額を徴される。 犯罪者から没収した田地 万計であり,宇内富商,税金は有 り余り,府・県の倉庫には蓄積甚 だ豊かであったという。  15世紀末ごろから,砂法崩壊し 銀流通の禁が解かれるに伴い,江 南諸省で集めた米麦を北京に送っ て官僚の俸給に充てるよりは,む しろ銀で折納させ官俸を銀で支給 する方が合理的だということにな り,漕運税糧(後出)以外は米麦 4石を銀1両に折し,銀100万余 両が北送されることになった。  明初における税率は表9の通り である。額面通りの課税で済めば よいのだが,実際にはいろいろな 過重賦課の事例がある。たとえば, 1 中国の穀倉とされる長江デルタ地帯の蘇州・松江・嘉興・湖州の一三は, 明朝興起の際に非協力的であったことを省められて,懲罰的な重三を課せら れた。 2 仁和・論証・毘山の三州では,海水を冠って収穫が無くなって十余年経て

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 も,課税だけが残存している。 等々。このようにして実施された結 果としての徴税実績として表10のよ うなデータがある。  これによって見れば,長期的に観 察した徴税の成績は芳しくない。 明代の経済政策について  7 表10 田賦の徴収実績 \洪武・・(・393)匪靖・(・523)

麦米

  万石  470 2, 470  o/0 100 100   万石  462 2, 220 o/a 98 90 計2,・94・1…12・・682 91 130年を隔てて増額を見ないのみでなく,却って約9%の減少一歳入減を示 しているのである。  明代における徴税メカニズムの非能率,不合理性は,根本的には実物納税に 由来するところが大であると考えられる。ところが,都市を拠点とする市場経 済の発展は,実物経済から貨幣経済への転換を要求し,財政上にも貨幣とくに 銀のシェア増大の趨勢が反映される。たとえば,嘉靖末年(16世紀中葉)にお ける天下の歳入は200万両余,歳出は300∼500万両であって,ここに財政赤字 の問題が出てくる。  各種の増税策が練られ,「額外の提編」と称し,税金の予徴(まえ取り)ま で行なわれた。16世紀後半から17世紀初頭にかけて,際限ない程,次々に税や 役が加徴され,納税者側の節税・脱税の手段も次第に手が込んでくる。折しも 北虜・南倭の外患を蒙り,これに対応する軍費の捻出に迫られる。ここに「一 条語法」の登場をみる。万暦末年(1620)の軍事支出は520万両にはね上り, これが歳額となった(恒常化した)という。 〔役法〕  明初の役法は表11の通りである。  時代が降るにつれ,中央・地方の統治機構が複雑・大規模化し,従って適役 の負担が加重された。15世紀中頃,「一霞法」を制度化し,揺役の合理化が行 なわれた。16世紀初頭には樒役の銀納化が進められ,やがて「一条忍法」の中 に統合されていく。  都市の商人に対しても,抵応(官庁や官吏の使役〉,三子(獄卒),弓兵(巡

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8 彦根論叢第242号

表11明初の役法

区到対

象 基  準・内  容

里甲役嚇戸を除く全刺・・年に颯賑・甲首の役に服する

雑役

土地所有民乱 丁糧・財産の多少を基準とする ①中央・地方官鷹の使役 ②官用の交通・通信 ・運輸の作業 ③地方の警防 ④租税の徴収・ 輸送など。 崎零は零細な農民のこと 査)の雑役が課された。   市民二丁の家,殼足にして田産無き者は,自ら占し(申告し)て以って銀  差を佐(たす)くるを聴(ゆる)さん と見られるように,富商大弓からは恐恐を認めていたのである。  里国の役も,やがて銀納化されて「里甲銀」と呼ぶようになり,一条鞭法施 行後も実質的な負担は軽減されることなく,   民の患苦する所は,差役に如くは莫し と言われた。明朝末期の状況は次の一文によく表現されている。   万暦以後,営建・織造は二二に溢(す)ぐること数倍にして,加うるに征  調(軍費調達)・開採(砿税)を以ってし,民は少しも休むを得ず。闊人(宙  官)政を乱るに造(およ)び,建第・菅墳は暦越ひとしきものなく,功徳の  私桐は天下に遍し。蓋し二百余年,民力琿残すること久し。  賦税の燭免(けんめん),すなわち国家の慶事や水害・旱害・蛭害等の天災 に遭った場合の賦税の減免についても,明初には手厚い愚典や救済・保護の手 が差しのべられたのが,時代が降るにつれて薄弱化する。それだけ人民の抵抗 能力,社会的なフレキシビリティーを弱めることとなる。 皿 漕 運・倉 庫  次第に大規模化する官僚機構や防衛軍隊を擁する首都は大消費地であり,南 方の穀倉地帯から食糧を輸送し供給することは,歴代以来の大問題であった。

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 明の太租洪武帝は長江 中流下流大平原に位置す る南京に建都したので, 長江の水運によって近在 各地から豊富な食糧供給 を確保することができた。 畑島永楽帝が北京に首都 すると,俄然,首都の糧 食供給確保の問題が重大 化してきた。  舌触元年(1368)北伐 に当り,直江・江西およ び蘇州等9府に命じ,食 糧300万石を沐梁(開封) に運ばせたのが始まりで, 図1       明代め経済政策について  9 明初略図;箭内亘『東洋歴史地図』1925参照

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兀良登」眞

e、 ・/遼塩

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轄諜 難

     !     広日江西

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      1 ・・ム

_ρ 耀

         ヲミ 一一.一  、女 北方の防衛拠点大同には,慨・厚・代など山西5州から運ばせた。山東方面か ら京師北京や遼東へは海運を利用した。西北辺境は開封から陳西を経て寧夏・ 河州に運ばせた。西南の四川や貴州では納米中塩(前出;開中法)の制度を採 用し,遠距離輸送の不便を回避している。  運送方法にも変遷がある。「支運」と呼ばれるものは,農民に気安・徐州・ 廓清・霊迎の各水面倉(漕運のため大運河沿いに建てた倉庫)に持込み納付さ せ,それ以後は官軍が京師まで輸送する。(表12参照)「兎(だ)運」は農民の運 送距離を短縮して准安または瓜州で官軍に納める。その際,運賃と耗米(運送 ・保管中の減耗に充当する米)を支給する。(表13参照)「改編」は更に軍運距 離が長く,運軍が空船を以って蘇州等の産地まで出向いて受渡をなし,余分の 禄米・脚米を受け取る。このあたり,現代の国際的売買契約の取り決めに用い られるFOBとCIFの違いを見るようで興味がある。要するに政府管理米の 輸送・保管サービスを官民で分担する方法について変遷が見られるわけである。

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10 彦根論叢第242号    表12 明代盛運法 1429ころ

穀物産矧鑓納入鮮*獺

江西・湖広・漸江 蘇松等 応天等 山東・河南・直隷 河南の一部 河南の一部  万石 150 270 220

安州清

准徐臨

師野州

京臨徳

1/10 1/13 1/15 *抽費は農民が官軍に納める運送手数料 表13 党運の加耗

交n茎短当&)

広江隷隷安

 漸

 ・直直

 西

湖江南北濫

  *

87ρOFD4

三軍兇運民糧加浸出例(1429) による *南直隷は江蘇・安徽 ともあれ,混晶(税糧輸送の責任者)を中心とする民運組織の母体である農民 の負担が次第に加重され,官吏の圧制と農民の怨嵯の板挟みとなる糧長の役を 忌避する風潮を招くに至ったのである。  漕運に当る軍隊は,「軽素謡」(けいせいぎん)と称し,洪(岩石陰顕して河 流を阻む難所)・聞(落差調節の間門)を航行する特別経費の支給を受け,さ らに私貨の附載を認められたので,皆な楽しんで事に従ったという。  農民の立場では,「支運」の法によって指定された水次倉まで持ち込むと往 復に1年もかかり農事の妨げとなる。運送途中の難難・費用を考えると「兇 運」なり「改兇」の方が得策かということになる。ところが,交兇の際に軍隊 は強権を持んで種々の要求を持ちかける。その弊害が重大化して,中央で対応 策が練られる,という風であった。  国家危急の際には軍隊は防衛任務に専従するため,山高は民謡に委さざるを 得ないが,平時における常備軍隊の重要任務の一つとなったのである。二軍12 万,船舶1万2千が動員され,毎年500万石の糧食の長距離輸送に当るのであ るから,いわば最大の国家プロジェクトである。その管理・監察の体制も複雑 化し,のちには運軍に対する管理者の中飽が表面化してくる。造船・往来・金 銭の貸借等々に絡んで様々な苛取・需索が行なわれた。概して言えば上級管理 者から中・下級の管理者へ,さらに末端の官吏・軍士へ,そして最終的には農 民の方へ負担が転嫁されためである。

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         明代の経済政策について  11

表14漕運の概況

正統初年 (1436ころ)

区分聡叡指数

        o/o

兎支

運運

 万石 280 170

28

63

…巨・・

成化8年(1472)

区分隊量蘭織地三障到垂旨数

        e/ell [ fiJffT e/o

窟政

運山

 万石 330 70

2881

計 400 i IOO 北(山東・河南) 南(江口以南)  万石 76 324

Qり1

18

400 1 ioo  明代中期における漕運の状況・変遷は表14に示す通りである。成化8年の 漕糧合計は400万石となっているが,耗米を加え,京師の倉庫に入った数量は 519万石で,天津・葡州・密雲・昌平(いずれも北辺防衛の要地)には各々64 万石を交付した。臨清・塵藻2倉には19万石の予備:米を置いて調節に充てた。 〔倉庫〕  明初の目鼻倉庫の概況は,表15の通りである。この後,正統中に京衛倉7を 増置し,党運の進展と併行して京師の倉庫を増設し,京倉56,通倉(通は通州 治,北京東郊にあり)16に達した。直省の府・州・県,藩府・辺隣・保靖・衛 所・屯並等にそれぞれ倉庫を設置した。  倉庫に関する弊害の第一は「副官」のそれである。   内府諸庫の監呈する者,横索厭く無し。諸倉,初め中耳を設けず。宣徳の  末,京通二倉,始めて総督に中藍1人を置く。後,准・徐・臨・徳の諸士も

表15明朝初期の倉庫設置概況

年代所倒緻1醐・額など

洪 武 1368 京 衛 臨清・臨濠 各行省

辺境

州 県 −り自 6 運糧,600万石 歩運 官吏の俸給 屯田 救荒,米価調節

1咽所在勝

目的・容量など 永 楽 1403 宣 徳 1426 天津・通州 北 京 徐・准・光 臨 清 ;』ヒ京●通少卜[

7り0

3

置”

増 漕糧 衛倉 転運,水次子 300万石  1/

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亦た監督を置き,漕韓の軍民,其の害を被る という。 IV 塩 法・茶 法  〔塩法〕   製塩の利益は,政府が之を独占する というのが,中国における伝統的な財政思想となっている。前漢武帝の時代に 塩の専売が行なわれて以来,専売制か徴税制かどちらかが採用され,政府の重 要財源の一つとなって来た。  明の太祖は,初め商塩に対する課税の部局を置き,20分の1の現物課税を徴 した。主要産立地たる両准・両漸はじめ,長芦・山東・福建・河東の6か所に 都転運塩使を置き,広東以下7か所に塩課提挙司を置き,陳西の災州に塩課司 を置いた。これらの官署の管轄の下に実施された塩の生産・流通の状況は表16 の通りである。

表16塩の生産・流通状況

塩運司 両 准 両 漸

芦品建東東川南州

長山福河広四雲霊

塩 引 数 洪武1弘治 万暦 (大)1(小) (小)    万引        万万引 35       70    70 22  6 14 10 (小) 30  7  3  2  1 44

881

87AU

ーワθ−Qり  一 1 44

89188526

1  11 =U 販 売 範 囲 直tW 9府,源・和,江西 湖広,河南3府,陳州 漸江,直隷5府,江西 北直隷,河南2府 山東,直隷,河南 境内 陳西,河南,山西 境内,湖広,広西 境内 境内 陳西

面愚亭霜先

甘粛,三夏,宣府 大同,遼東など 甘粛,延着,寧夏 日原,三池 宣府,大同,葡州 遼東,神地 余塩銀 万両 60 14

25291744

1←    − *大引は400斤,小引は200斤。

(13)

       明代の経済政策について  13  明代の三法で特徴的なものは「開中」の法である。これは,北辺防衛の重鎮 である大同に始まる。大同の軍糧は山東から輸送していたが,「路遠く費煩し」 いので,「商人をして大同倉に於いて米1石を入れ,太原倉には米1石3斗を 入れしめ,准塩1小引を給し,商人講(ひさ)ぎ終らば即ち原給の引目を以っ て所在の官司に赴き之を緻(かえ)さしめん。旧くの如くせば則ち転回費は省 け辺儲は充たん」との献言を採用したのである。その後,各行省辺境に多く商 人を召して中塩し,以って軍糧を貯え,「三法辺計,相い輔(たす)けて」行 なわれた。乱雲4年(1371)にこれが制度化され,米を開封・大同・太原・北 平・北通州等の倉庫に入れさせ,三里の遠近に応じ5石∼1石の間で,需給状 況,価格の高下,中三者の利否などを参酌して交換比率を定めた。  三戸(そうご,製塩業者)について見ると,  1 草場を給して二七(煎塩の燃料用の草を採る)に供せしめる。  2 耕に堪える者は開墾を許す。  3 雑役を免除する。  4 工本米(塩山の代償としての米穀)として1引につき1石を給する。ま   た1引ごとに鋤2貫∼2貫5百文を給する。  5 雑犯死罪以上はただ杖を予え,日を計り塩を煎じて贈わせる。 等の優遇措置がとられた。  竈戸の中から「総催」が選任されたが,その多くは三戸を搾取することに なった。正統6年(1442)の記事に「二戸貧困にして二二(税金滞納のまま逃 亡)する者多し」とあるところを見ると三戸の生活は必らずしも保障されてい なかったと見える。  このころ,商人の中に20年近くも塩の支給を候(ま)たされ,租孫二代って も得られない者がある,というので妙を給して償い,猶も塩の支給を願う者は 聴した。また,商人の守支(守旧)することが余りに長いため,開中(塩・米 の交換比率)を低減しても,上納する者が少ししか無かった,という。すなわ ち,制度的欠陥を露呈し,開三法の運営に支障を来すようになったのである。  15世紀後半に,旱害・水害が続き北京の糧食が不足した際に,商人に准・徐

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・徳の水次倉に米穀を納めさせ,塩引を支給した。これに権門勢家や宙官が介 入し,塩法はかれらの私服を肥やす手段と化した。商人は利益を失い,私塩が はびこる形勢を招いた。16世紀初頭,塩法崩壊に伴う弊害として次の指摘があ る。

19臼Qり4﹁Dρ0

忌中が不時に行なわれ,米価の騰貴を招く 出血大家が利権を専らにする 役人・吏膏による賄賂の横行 塩を受取るのを待つ守候の長期化 引の価格が昂騰し採算が合わない 紙塩四出し,官塩行なわれず 〔一法〕  青蔵高原方面の異民族は栄養バランスを保つ上で茶を必要とし,漢民族は国 防上多数の軍馬を必要とする。ここに,唐宋以来茶と馬の交易が成立し,明代 にも継続して制度化され,兼ねて異民族制御の手段となったのである。明代に は,官邸と商茶とに区分し,皆な辺境地帯に貯えて交易に充てた。(表17参照)  官茶には,茶の生産者から現物納税の形で政府に納めたもの,民聞から買上 げたもの,民間から没収したもの,民問から上供として貢納したもの等が含ま れる。茶の生産者は,八面として上納した残りの茶を政府の統制の下で商人 に販運させた。その際,政府は販売許可証たる茶引(1引100斤)または茶由 (1由60斤)を発給し,商人に茶課を納めさせた。  茶馬貿易の管理には「当馬司」を,茶税・茶課の徴収管理の為に「茶課司」 を枢要の地に設置した。茶油実施の弊害として

表17明初の茶法

地 域  茶園面積

平門陣釧

茶(斤)馬(匹)交換比率 陳 西 漢 中 四 川   巴  頃45 315  軽軽 86 238   千斤  26 1, OOO   万斤 万匹 茶300 ==馬3 上馬=120斤,中馬=70斤,駒=50斤

(15)

      明代の経済政策について  15  1 民間の茶の消費を圧迫する  2 役所の統制がマンネリ化し,実効が上っていない 等の指摘がある。茶法の運用宜しきを得ないと,私販が次第に勢を得るように なる。とくに,異民族の手に安価な湖南の私茶が入るに及んで,茶馬交易は頓 挫することとなる。こうして   番入(異民族)の馬匹の上等なものは尽く姦商に入り,茶司の買う所の者  は乃ちその中・下なり。番,茶を得れば叛服自由にして,三二また弓馬を以  って番馬に混入し,上茶を支給する。茶法・馬政・迫防ここに於てか倶(と  も)に壊る。 という始末となる。 V 銭 紗・坑 冶 〔銭i沙〕  明朝初期においては,元代における紗本位制三下のインフレーションに懲り        てか,中国古来の銅貨本位制を確立すべく,種々の施策が行なわれた。しかし, 計画は失敗に帰し,砂すなわち紙幣の発行に踏み切らざるを得なかった。その 原因としては  1 商人は,元の時代に妙の使用に慣れており,銅銭の使用を不便とした。  2 銅貨鋳造のために民間の銅器を供出させねばならない程,銅の埋蔵・産   出が限られており,経済界の必要とする通貨量の供給が困難であった。  3 唐の飛銭,宋の交会,金の交紗,元の鋤というように,紙幣の発行・流   通について相当の経験を積んだ後に,銅貨単独本位制に戻すことは大きな   退歩であって,入民一般,経済界などの共鳴・支持を得られなかった。 等のことが考えられる。こうして,洪武7年に宝紗提挙司が設けられ,大明宝 紗が発行された。その図柄は図2の通りであり,その交換比率は表18の通りで ある。妙の額面は1貫から100文まで6種類あり,100文以下の小額の鋳貨が  *大祖即位前の大中通宝銭の鋳造,即位後の洪武通宝銭の発行,各行省における通貨  当局の設置,私鋳禁止,改鋳,銅器徴発など。

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  図2 明初の紗

紗寳行通明大

天下通行

貫  壼 銭貫 の図

大明寳

 戸 部 奏准印造 大明寳紗與銅銭通行  使用偽造者斬告捕  者賞銀弐値伍拾両  傍給犯人財産 洪武 年月 日 実物 約34回目×22cm 穂積文雄博士所蔵による 表18大明宝紗の交換比率 紗 1貫=銭1,000文    =銀 1両 紗 4貫;金 1両 洪武8年目1375) 別途に発行された。100文以下の小額 取引には銅銭を使用させたわけで,商 税(後出)などの徴収に当っては,銭 3紗7の割合で回収させた。在外三所 の軍士の月俸は皆な紗で支給し,各塩 場の竈戸に米で支給していた労賃も妙 で支給し,「工本妙」と称した。天下 の有司百官の禄米も皆な紗で支給した。 その場合の換算率は(洪武18年)

  米1石=紗2貫500文

  ∴米4斗=砂1貫 であった。発行後歳月を経て転々流通 する間に損欠を生じた紙幣を新しいも のと取り換える「倒妙法」も施行され た。ところが,   時に両漸,江西,閾,広の民,銭  を重んじ紗を軽んじ,銭160文を以  って紗1貫に噛する者あり。是に由  り物価翔貴し,銭法益々壊れて行な  われず。 と述べられている様に,「交換に金・ 銀を用うるの禁」を更新しても効果な

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      明代の経済政策について  17 く,民間経済界が政府の紗本位通貨政策に不適応,反擬を示し始めたことが推 察される。  永楽期に入ってからも,「鋤害」問題は益々重大化し,政策の争点となった。 下記の意見は此の問題の本質に迫るものと言えよう。   比歳(このごろ),紗法を通ぜざるは,皆な朝廷砂を出すこと太(はなは)         だ多くして,収敏するに法無く,以って物重く砂軽きを致すに縁る これを一言にして表現すれば           紗の弊は多に在り と言うことに帰する。  官民に塩を配給し代価を紗で納めさせたり,税糧・課程唄藏罰を鋤で納めさ せたり,政府は砂価維持に務めるが,当時,鋤の価値は    米1石=紗30貫 すなわち,前出洪武18年の比価    米1石=s)j 2貫500文 と比較すると,25年間で12分の1に低落したことになる。この後も,次々とイ ンフレ対策が実施されるが,「民,卒(つい)に妙を軽んじ」宣徳初年(1426 ころ)には    米1石=紗50貫 という始末である。かくして通貨政策の転換が必至となる。まず納税に充てる 米麦を銀に折せしめ,諸税公課についても鋤を減じて米・銀・銭に代えしめた。 妙本位から銀本位への実質的転換と見てよいであろう、妙価はいよいよ低落し, 紗1貫は銭1文にも値せず.Jしかも諸税公課の徴収には.

   砂1貫=銀2分5厘

の比率で銀を納めさせたのであるから,実質的には諸税公課は25倍以上の大増 徴で,   民,以って大いに困(くる)しむ  *食貨志五,都御史陳瑛の上言 ** 苣マ文雄「支那貨幣考」丘溶の貨幣思想

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とあるのも道理である。  16世紀に入ってからも「鋤は久しく行なわれず,銭もまた大いに墾(ふさ が)っていたが,諸税公課の徴収に当って,    鋤1貫=銀3董    銭7文=銀1分 の比価とし,大いに「嘉靖銭」を鋳造した。この銅銭は良質であったが,   良質の銅貨を鋳造すれば銅の不足に苦しむは支那銭幣史上の常例        ネと穂積博士が説かれる通り・たちまた「民・銭少きを患うる」こととなる・そ こで又,百方対策が講じられるが,このような事態となっては「影の形に添う 如く」私鋳銭が横行し,          ネホ   銭の弊は偽に在る ことを実証する。  政府の通貨政策も宜敷きを得ず,とかく朝令暮改的で人民の信認を失うばか りである。例えば,官俸を支給するのに,銭の新・旧・美・悪を論ぜず,悉く 銭7文=銀1分の比価で折算させたり,諸々の俸銭を以って市易する者にも悉 くこの比価を押し付ける,という風で,「民,亦た騒然たり」ということにな る。こうして,16世紀後半,?いに鋳銭が停止され,銀本位の通貨体制が確立 される。  万暦年間(1573−1619)にはまた銅貨を鋳造して天下に流通せしめ,馬糧は       ホ ネ銀・銭兼給とした。この万暦通宝は漢武の五鉄銭をモデルとし,金手銭・火漆       ホホネホ 銭・鑑辺銭と称した。時に戸部の上言に   初め記し時,金背の10文は銀1分に直(あたい)せるも,今,万暦の金背  5文,嘉靖の金手4文は,各々銀1分に直す。・…・・僅かに10年を喩(こ)え  るに,しかも軽重蕾(ただ)に相半ばするのみならず,銭重くして物価騰踊  * 穂積文雄「明代貨幣放」東亜人文学報1−2  **丘溶「大学宿義補」 ***銅貨の背面を金色に鍍金したもの **** 万暦13年(1585)

(19)

       明代の経済政策について  19  す。宜しく庫貯を発して以って其の直を平かにすべし とある。ここに言う「銭重」および「物価騰踊」二つの現象の同時平行的顕現         については,以前に些か考証を加えた通り,明朝末期における洋銀の流入によ って惹起された銀価低落によるものと考えている。 〔二心〕  明朝は重要な鉱山を政府の管理下に置き,その生産物に対して税を賦課した。 それには,金・銀・銅・鉄・鉛・蒙(水銀)・殊砂(水銀の原鉱石,硫化水銀) ・青緑(コバルト)等があったが,最も三民の害となったのは金・銀の鉱山で あった。管理の衝に当る中央や現場の官吏・吏膏・中宙らによる私利追求のた めの鉱民詠求は甚だしいものがあった。  16世紀末から,財政の急を救うべく,急激に各地砿山が開採された。河北・ 河南・山東・山西・南直隷・三二・漸江・三二・江西・福建・雲南と,殆んど 全国各地に中使(中世)が口出し,       ぷネ    皆な給するに関防を以ってし,井に原(も)と奏したる官と僧(とも)に  往かしむ。二三微細にして得る所無ければ,民を勒(おさ)えて之を償わし  む と言う風であった。中気陳奉の如きは   富家・鍾族あれば則ち誕(し)うるに三三を以ってし,良田・美宅あれば  則ち指して以って下に鉱脈有りと為し,役を率いて園証す。辱,婦女に及び,  入の手足を断って之を江に投ずるに至る という残酷ぶりであった。こうして掻き集めた鉱税銀が9年間で300万両に達 し,財政に寄与したという。  *拙稿「明代における華僑発生の経済的要因」彦根論叢145号(1970) **@皇帝から支給される官印 ***原奏官とは,ある地の開鉱を奏請した官吏のこと

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VI商税・市舶・馬市

〔商税〕  門市の税すなわち商税についても,明初は簡約を旨としたが,その後次第に 増置された。商旅の関門通過,入市興販すべてを対象とした。田宅・頭匹の売 買に税を課し,それらの売買契約書にも別に徴税した。北京・南京の諸城門は じめ,各府・州・県・市に凡そ400の税務官署が設けられ,商入の貨物を対象 とした。山林の竹・木・柴・薪や湖・池・河・海の漁業,市場の店舗にも営業 税が課された。凡そ三三は30分の1とし,北京では度量衡器の検査や仲買商の 物価評定の監督等も行なった。船舶往来する内河水路の要衝の地には下関が置 かれ,収税に当った。  明朝中期以降,商税の上にも中宙の介入が始まり,次第に二丁の勢を増して いった。また,釣による徴税は次第に銀に代替されていく。万暦11年(1583) の次の記事によって商税の概況を推察し得よう。   天下私設の無名の税課を革(あらた)む。(廃止した)然れども隆慶より  以来,凡そ橋梁・道路・関津にて私かに丁壮を疽(ほしいまま)にし,利を          岡(あみ)し,民を病するあり。累詔三三すと錐も去る能わざるなり。三宮    ネ  三殿災あるに迫(およ)び,営建の費,貨(はか)られず。始めて砿を開き  税を増す。而して天津の店租(商店・倉庫などの地代),広州の三権(真珠  の専売),両准の余塩(ノルマを超えて生産した塩),京ロ(鎮江)の供用,   (上供用品),三江の三三(外国貿易船),成都の塩茶(塩引・茶引による課  税),重慶の名木,湖口・長江の船税,三州の店税,宝低の魚葦より,下灘  ・商税・油布(油紙・青布・夏布など各地の特産物)の雑税に及ぶまで,中  官,天下に遍し。税を領するに非んば即ち砿を領し,官吏を駆脅し弓削(せ  んさく)に務む。 と。徴税の機構が整備されると,次には監査・監督の機構が構築される。膨脹 * しばしば詔を下して私設の税所を取調べ,廃止した **北京の乾清宮・坤寧宮および皇極・中極・建極の三殿

(21)

       明代の経済政策について  21 する宮廷費を賂うための財源漁りを好機として数多の官話が全国各地に派遣さ れ,苛敏i沫求に輪をかけるのである。次に一・二の事例を掲げてこの節を終る。  例1 南京より通話(京師の)に至るに,潅安・済寧・徐州・臨清を経る。    温湯高息(貨物100石)に紗百貫を納めしむ。    これは宣徳4年(1429)の記事で,南京から北京に至る間に5回も通過   税を徴収された。  例2 島民,賄を中山に納むれば,すなわち指揮・千戸(どちらも武官の名    称)の割(任命の辞令)を給し,用って爪牙と為す。水陸行数十里ごと    に即ち旗を樹て廠(仮小屋)を建て,二二の儒なる者を視れば,蝉(ほ    しいまま)に擁奪を為して其の全貨(貨物全部)を没し,行李を負織す    るものも亦た捜索せらる。    これは万暦26年(1598)の記事である。 〔市舶〕  明初の貿易は,東北に馬市(後出)があり,西に茶市(前出)があり,皆な 辺方異民族の要求に対応しつつ操縦し,同時に貿易の税収入で以って辺防経費 の節減を図ったのである。  海外諸国の入貢するものには,土産物を附載して交易する一いわゆる朝貢 貿易を許した。その管理には二二司を設置して処理させた。それによって  1 外国の情報を入手すること  2 民間商人の貿易活動を抑制すること  3 四海通蕃の禁,すなわち軍宮民の出航・貿易の禁令,の徹底を期するこ   と 等が可能となり,高点安定に資することができた。  洪武期の市舶提挙司の概況は表19の通りである。  永楽の初め(15世紀初頭)インド方面のイスラムが来朝し,胡椒を附載して 交易した。引続き西洋方面からの来貢者が多いので,高館を福建・漸江・広東 の3市舶司に置いて管理させた。さらに交阯にも増設した。この頃から宙官を

(22)

        表19洪武初年(1370ころ)市舶司の概況

所在地1賜相手国

概 況

波州州

寧泉十

日 本 方 球 占城・選羅・西洋 叛服不常,期限10年,200人,2艘に限定 琉 球    恭順,時に至り入貢に任す 占 城 市舶司に任命することが始まった。        ホ       ホ  嘉靖2年(1523)寧波の乱に際し「一三は市舶より起る」として,市舶が廃 止され,朝貢貿易は中絶されたが,日本の民間貿易商が頻繁に来航し,中国商 人との密貿易が旺盛となった。 〔馬市〕  永楽期(15世紀初頭)に,東北の満蒙諸民族との間に馬市が開設された。そ の概況は表20に示す通りである。  正統3年(1438)大同に馬市が開かれた。軍民をして価を平にして駝馬(モ ンゴルの酪駝や馬)と交易させる趣意であった。オイラート部のエセンとの間        ネ にトラブルが生じ,土木の変を起した。

       表20永楽期馬市の概況

設置箇所 貿易相手 交  易  比  率

関東寧

南城 原原

開開広

海西女直

}納顔三衛

(ウリャンハ)

馬馬馬馬

上上中下駒

絹8匹,布12疋  4   6  3   5  2   4  1   3  *大内氏の推す遣明使宗設と,細川氏の推す瑞佐が寧波に入貢し,互いに真偽を争い,  市島司も収賄して介入した事件 **@一事中夏言の意見 ***1449年,中宮王振が元価を裁(値切)つたことから,エセンの大同侵攻を招き,英  宗親征するも土木墨(河北・懐来県)において明輝数十万が潰滅し,英宗は捕虜とな  って北方に連れ去られた。翌年,英宗が送還され和議が成立した。

(23)

      明代の経済政策について  23  時化14年(1470)には東北馬市でトラブルを生じたが,開原は月に1回,広 寧は.月2回馬市を開くこととした。  嘉靖30年(1551)には宣府(河北・二化県)と大同に馬市を開いたが, 輕        ホ 部のアルタンとの問にトラブルが絶えなかった。 結 語  明代は基本的に農業社会であり,その農業は相対的にも絶対的にも生産性が 低く,経済的資源の大部分を農業に投入せざるを得ない状況にあった。しかも, 農業社会に密着した封建的な政治支配から発する諸々の経済・財政政策は,封 鎖的・固定的であって,国民経済の発展を制約する手枷・足枷となって,拡大 再生産を抑止する要因となった。この様な状況の下で,自由な市場経済は著る しく其の範囲を制限された。重要物資の生産・流通や運輸・保管などのサービ ス部門まで国営化され,非能率な官僚統制の下に立たされた。その上,官僚・ 得吏そして宙官たちが,甘きに群る蟻のように,寄生虫か癌細胞かのように国 民経済の要所要所の組織・機構を喰い荒して其のバイタリティーを減殺したの である。マクロ的に観察すれば,これでは到底,国民経済発展の契機は芽生え       お てこないし,況して経済的離陸(take off)のための条件を整備することは期 待できない。  人口の大部分を占める農民は土地に緊縛せられて移動・職業選択の自由を欠 き,工業化の際の労働力需要に対応することが不可能な状態にあった。所得の 面では,低い水準の所得から其の大きな部分を税課や地代に取られた残余の可 処分所得は,当然低い水準にある。従って其の消費性向は大きくならざるを得 ない。もともと農民の生活は自給自足的である上に,消費支出の大部分を必需 的・基礎的消費が占めるのであるから,選択的消費に充てるべき余裕は極めて 僅少である。これでは,工場制大量生産が実現しても,その製晶市場に出動す べき購買力,有効需要が:不足することとなる。 *明代の馬市については,谷光隆教授「明代国政の研究」1972なる大著がある。 ** W.W. Rostow, The Stages of Economic Growth 1960.

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 都市の商工業者について見ると,その本来の活動分野の大「きな部分を政府の 手中に掌握せられ,行政指導の細かい網をかぶせられ,士農工商的な封建的階 層秩序の中に組み込まれて逼塞状態に陥っていた。ヨーロッパ近世の市民社会 に見られる自由潤達な零囲気,citizen shipないしventure business的なバ イタリティーの盛り上りは到底望めない状況であった。  政府の財政は如何? まず,財政支出の大きな部分が軍事費によって占めら れていることが注目される。漢民族の宿命とも言うべき,北方の遊牧・狩猟民 族との対立・抗争に備え,長城の修復や国境・首都防衛軍隊の配備・維持に要 する経費は莫大であり,北虜曾和の外患はそれに輪をかけるもめであった。親 旧支出に占める軍事費のシェアが大きい上に,君主専政の中央集権的政治体制 に伴って複雑・大規模化した官僚制度の維持や,奢修的な土木営建などへの支 出も少なくない。これでは,公共投資的な,有効需要増大に刺激を与えるよう な財政活動は期待できない。また,医療・医薬・公衆衛生など,人口増加を促 す厚生的な支出も望み難い。  その上,国都愚息の結果として智慮北送の恒常的な巨大プロジェクトを余儀 なくされ,官民ともに莫大なエネルギーを消耗したが,財政上の負担も看過で きない.ものがある。  通貨政策について吟味するに,明初の銅銭本位制採用は,元代の鋤本位制失        キ 敗に鑑みた政策と認められる。やがで,経済活動が活発化すると,もともと銅 資源が乏しいという事情もあり,経済界の貨幣需要を充たすことが出来ず,鋤 本位に切り換える。ところが,通賃当局として,砂価維持に関ずる責任観念が 無.く,適切な手段・装置を持たなかったことから,          *   覚め弊は多に在り と言われる通り,紗の濫発に陥り鋤価暴落を招く。遂にi妙・銭兼用の基本方針 を崩し,銀の流通を求める経済界の要請に窟服することとなる.。16世紀には再 び銅貨を鋳造するが持続することが出来ず,徒らに私銭の横行,貨幣制度の混 *丘溶『大学街義補』

(25)

       明代の経済政策について  25 乱を招く。こうして,漸く銀本位の通貨体制に移行する。この様に,明一代の 通貨政策は一貫性・安定性を欠き,とくに各種公定歩合の操作一金・銀・銭 ・紗と米麦・塩・茶等との交換比率および各種通貨相互間の比価の朝令暮改的 な変更は,高級官僚・大地主・大商人の結合一体化によって形成された支配層 の利益に大きく寄与したが,一般人民の蒙った直接・間接の被害,経済価値の 収奪は著しいものがあったことと推察できる。  先に見た通り,明代経済政策の基本は   彊本節用為理財之要 にありと言う。司馬遷は          彊本節用則家給人足之道也 と説く。遷の思想には,厚生経済的な視点がしっかりと据えられている。明代 においては,同じ「宮本節用」が理財之要,国家財政管理の為に必要と考えら れている。即ち経済政策は人民大衆の経済的厚生の為ではなく,政治権力の維 持強化の手段と化していることが明らかである。この様な政治的,社会的,思 想的な構造の下において,農業の近代化,商工業の近代化あるいは市民社会的 自由の息吹きが期待できなかったことは,怪しむに足りない所であろう。        (1986  11  29) * 『史記』太史公自序

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