一八 ●
購斌備酬中国植民地的経済循環の形成
石
田興
平
階 県城経済−地方的経済循環一の形成
鴨 清朝時代の展開と共に、満洲の各地方に都市が形成されて行った。それは始め主に南満地方に展開したが、その多くは 遼東湾沿岸、遼河の本支流、濃緑江本支流および大懸河、小凌河等に沿う交通の要衝にあたり、また、ここに駐防八旗の 諸城も設けられたため、交通上、軍政上および経済上の中心地となって行った。その後、康煕二十年代になって、ロシヤ の南下に備えるため、吉林地方および黒龍江地方の黒龍江、松花江、蒲江の沿岸の要衝に軍事都市が建設されたことは、 かって述べたところである。ところが馬入の対満植民が進展し、漸次、南満から中満へ、そして後には北満へと拡がり、 その人n[も増加し、農業経済も発達するにつれ、これらの地方諸都市に漢民人統治の民政機関たる州県が設けられ、ま た、ここに商業資本が盤無して雑貨商、盲窓︵殻物商︶或は謹聴︵質店︶等を営み更に焼鍋︵焼酒製造所︶、磨坊︵製粉所︶ない し油坊︵製油所︶等を兼営して行った。されば、これら諸都市の背後地たる農村1・各屯、各鎮から出廻った農産物はここ の糧桟の手に蒐集され、一部はこの糧穫と兼営関係ないし、聯号関係にある焼鍋とか油坊とか磨坊とかいう手工業的工場 の原料となり、 一部はこの都市の住民の消費に向けられるが、更に水運や馬車で大集散地に集中して移出されるものも少 くない。焼酒とか豆油とか豆粕とかいう加工品は、一部は農村に流れこみ、一部はこの都市の消費に向けられ、他はやはり大集散地を経て移出に向けられるαまた中国本土から移入された雑貨は中心地からここに齎らされいここから農産加工 品と共に各鎮の定期市を通じて、或は近傍農村では直接に、農民に配給されて行く。さればこれらの地方諸都市を中心に その背後地たる諸農村との間に一つの半開放的な再生産的経済圏が形成されていることが窺われる。 満洲において皇城といわれるのは、このような地方諸都市である。さればこの県城が﹁農村土着資本の拠点として﹂も 考えられ、また﹁蒐荷と配給並に金融の諸機構を擁した農村流通の最も集約的な中心市場として、農村支配者軒並にその 鼠取機構の絶好な拠点であり、農村半封鎖の中心である﹂ともいうことが出来るのである。またこの県城はマジャールが ﹁行政の中心であり、地主の所在地であり、市場開催地であって、 一定の地方、手工業地のための商業的中心地である。 これらの諸都市は一定の地方の農業的、手工業的生産階級の上に牧取の網を張って生存している﹂という旧い中国式都市 の類型の中に入れられる性質のものである。 満洲における土着資本の拠点として貴顕を問題にし、玉城経済に関する労作を発表された門馬鏡氏はこの点について次の如く述べてい る。 ﹁これらの商業資本、商業資本的機能に多く依拠する手工業的生産資本並に当舗等の金融業資本は耕地の拡大と相履って農産物の商 品化を高め、満洲からの農産物及びその加工品と支那の必需手工業品−旗人、地主等に対しては奢需品をも一との不等価交換により、ま たそれに随伴する高刹貸により、土着資本としての原始的蓄積を営んだ。そして雑貨舗や生意の企業軒数は増加し経営規模もそれぞれ拡 大され、また各手工業者の業種目の増加とマニュファクチュア化などをも見るに到った。更に彼等は前資本主義的な商業資本の通則とし て、次第に土地をも購入又は担保流れにより取得し地主性を具有するに到った。県城は農民とこうした関係をもつ土着商業資本と不在地 主らの本拠として形成され、従って地方の集中的市場が発展し、やがて地方の全流通経済の、また引いては農業生産の死命を制する場所 となった、﹂ これらの県城とか街ないし鎮等の地方諸都市の比較的に大きい臨席、雑貨舗および油坊ないし焼鍋磨坊等は、大半兼営 であったといわれる。このように農産物の蒐集部面の糧桟と雑貨配給部面の雑貨舗の癒着、従って直接間接の結合と更に 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 一九
二〇 農産物加工業たる油坊、焼鍋等との結合のうちに満洲の商業資本の特殊な存在様式が見られ、ここに又やがて述べるが如 き満洲の植民地的経済循環との内的連関の必然性も窺われる。そして右の如ぎ地方諸都市こそがその具現する拠点となっ たわけである。 かって述べた如く、漢民人の植民の進展につれて渡来した中国の商業資本は漸次これらの地方諸都市に進出し、先ず設 けたのは、これらの諸都市の住民および背後地農村の農民の必要とする中国産の移入雑貨の店舗であったといわれる。と ころで、これらの雑貨商の宋端には鎮屯の零細な雑貨店と行商人が連なって、農民との接触が行われているわけであるが この際、農家の牧野の季節的関係から、秋の牧穫を目当ての掛売がなされる。掛買代金がかさむと秋の牧穫を牧穫前に安 く売渡すこともなされる。 ﹁青田取引﹂とか﹁批糧取引﹂というのは、このような売買をいうのである。農家に対する小 売雑貨商のこのような信用売は、資金上の関係から、後者と県営の雑貨商の間にも伝播せざるを得ない。これが秋の牧穫 時になれば、夫々の雑貨商が穀物蒐集商になって来る第一の機縁であるということが出来る。しかし、かって述べた如く 満洲の農産物は、対中国本土との関係から、また軍事的、備荒的必要からして、始めより商品化して行き、その相場の地 方的差も、また時間的変動差も大ぎかったので、利に敏感な商業資本はやがて糧穀の蒐集、販売を積極的に営む糧淺を兼 営の形で或は聯号の形で経営するようになるのは当然といわねばならない。 当時、商業資本が穀物価格の時間的地方的変動差に如何に敏活に動いたかを実証する資料を二、三拾って見ると次の如くである。 乾隆三年︵一七三八年︶八月に直隷の各州県の米価が騰賢したため、奉天山東二処.の販選出洋の禁をとき商価を通ぜしめた。従って臓 隷商人の奉農夫を販運するものが多かったといわれる。また、この年切隆帝は直隷商的が海城蓋平等において糧米を米差して牧興し春に 装運せんとするを聞き、此年十一月に明年麦熟の後を侯って海運を禁止することと定めたという。 すっと後の乾隆六十年︵︸七九五年︶の例をとって見ると、この年の十月目奉天の黒豆は山東、直隷の価に比して三銭、八銭導く、粟 ⑫ 、 米は五、六銭賎かったため商人は利を得んとし、此等の商船が奉天海口に雲集したといわ繋る。
この雑貨商と糧淺の兼営は資金の効率的な運用からいうても有利であること即ち雑貨の掛売代金の回牧がそのまま糧穀 の牧買に向けられ、心々の中央市場での売上代金がそこでの雑貨の仕入代金に向けられうるという点からも行われるわけ ㊥ である。更に牧心した穀物が相場の不利な変動のため、販売を不利にするときは焼鍋とか油坊とかいう農産加工業を営ん でおれば、これに原料として廻わし、右の如ぎ不利な立場を有利に転じうる。こうしたところに、このような農産物加工 業を兼営ないし聯号で経営する傾向を生じたと見ることが出来よう。満洲の地方諸都市に非常に多く見られる雑貨商と糧 ⑭ 桟と焼鍋とか磨坊とか油坊とかの加工業との兼営ないし聯号関係は以上の如ぎ経済的根拠から形成されて行ったと考えて ⑮ 大過ないであろう。 ①天海謙三郎氏﹁満洲国土地制度の理解に関する一関鍵﹂満鉄調査課満洲土地問題関係文献目録附四〇頁。 ②天海氏右論文四〇頁、台湾総督府編﹁清国行政法﹂第一巻二七三頁以下。 ③門馬験氏﹁戦時下農村土着資本の課題とその基調﹂満鉄、満洲経済研究年報昭和十六年版二四六頁。 ④門馬氏右論文二四六∼二四七頁。 ⑤ マジャール著、安藤英夫訳﹁支那経済概論﹂第二分冊 三七八頁、田中、安藤訳﹁支那問題概論﹂四二一頁以下、なお藤原定価﹁清 代における,民本思想と庶民の地位﹂満鉄 調査月報 第二十巻十一号 一四頁参照。 ⑥門馬氏右論文二五〇頁。 ⑦門馬氏右論文二五二頁、二八五頁以下。 ③稲葉岩吉著﹁増訂満洲発達史﹂三八五頁。 ⑨満洲経済実態研究班﹁満洲大豆の研究﹂︵建国大学研究院研究期報五三五頁︶青田取引というのは一定耕地の一定面積よむ牧穫さ るべき糧穀を青苗の時に一定の価格で取引するものであり、批糧取引というのは、玉出後に受渡す約定で確定数量の糧穀を牧穫前に取 引し契約を締結するものである。いずれも対農民の先物取引である。 ⑲周藤吉之氏﹁酒代の満洲に於ける糧米の謡扇に就いて﹂東亜論叢第三輯.一四五、一四六、一四九、一五〇、一五一、一五二、一 五三頁参照。 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 二一
二二 ⑪ 高宗実録 巻八一、周藤氏 右論文 一四九∼一五〇頁。 ⑫高宗実録巻一四八八、周藤氏右論丈一五三頁。 ⑬ 門馬氏 右論文 二八五頁。 ⑭門馬氏右論文二五二頁、二七二頁以下。 ⑮なお、斎藤日征生氏の﹁事変後に於ける糧桟の変革﹂︵満鉄経済調査資料第一一二編︶に於ける論述参照︵右論文二頁、三頁︶。ただ 斉藤氏は対農民先物取引の一つを﹁先銭期豆﹂と呼んでいるが、これは、成傭取引即ち商人間の取引における先物取引で、対農民取引 すなわち、毛傭取引においては批糧取引というのである。前掲﹁満洲大豆の研究﹂五三二頁以下参照。なお問題の記述を含む第五章満 洲大豆の取引および第六章は筆者の担当執筆せる部分である。
こ中国植民地的経済循環の形成
これまで縷々述べて来た.歴史過程の進展のうちに、満洲の中国植民地的な再生産的経済循環が形成されていった。それ は、第一に農業的再生産を根幹とし、農産物加工業を従とするものであった。第二に、中国よりの雑貨の移入と農村への その配給を媒介とし、他方、農産物および農産物加工品の商品化とその対中国移出を中心として、再生産的経済循環が形 成されたのである。この循環のうちに、中国植民地的性格が現われている。第三に、この中国植民地的循環および農産物 加工業を担当するものは、対中国貿易から、農村の末端に至るまで中国系の商業資本であり、而もこの商業資本に中国官 僚資本が抱合し、更にこれが土地投資によって地主化し、農村の蝿取を遂げて行く点にも、中国植民地的性格が見られ る。第四に、以上の叙述からして当然のことであるが、この再生産的経済循環は、支配的には、商品再生産的な循環であ り従って貨幣経済的な再生産循環であるということが出来る。勿論、かかる経済循環は、漢民族による満洲農業の植民的 形成が進み、従って、これを媒介する商業資本の国内的滲透および対中国貿易の展開が増進し、更にこれによる加エ業の 移植が顕著となるにつれて、次第に明確な姿にまで形成されて行ったと考えられる。 ︹大都、山巾 .‘ ところでこのような性 格をもつ当時の満洲の再 戸生産的経済循環は大体に 土 ﹁ ’ . おいて圭の如く図表化す
本 . ・ , 、 ることが出来よう。
国 . 地主が農村と地方都市の中・中間に描かれたのは相当多
くの地主が地方都市に居住 するが故である。いま問題 にしている時代より遥かに 一9一・一 これで囲まれた最底の三角形は農村経済圏を示す・ 後の時代だが、北満の呼蘭 その上の、即ち真中の円は県城を含む地方都市の経済圏を示す。 県、孟家屯の例を見ると、 μ.肛・酢 これで囲まれた最上部の円は奉天の如き大都市または、対中国輸出港都市 屯内の耕地の六六%f七〇 の経済圏を示す。 %までが不在地主で殆ど県 一1−7 満洲農産物の流れ ..・,.?農産加工品の流れ 城其他の都市に居住してい \ ① 受口轟厨▼ 移入商品の流れ 董⋮7貨幣の流れ ることが報告されている。 ② また康徳元年︵一九三四年︶度・農村実態調査の綜括的報告を見ても農村在住地主に対する不在地主の割合は五六%に達している。いま 問題にしている時代に、これを直ちに適用することは許されないが、この傾向は官僚ないし商業資本の土地資本化の歴史的傾向の現われ と見ることが出来る点、やはりこの時代にも当然に考えられることであろう。 いま、ここに便宜上右の経済循環図式に眼を注ぎつつ、この時代における満洲の再生産的経済循環の特性を説明するこ とにする。 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 二三 蝦二四 先ず第一に注意すべきことは、漢民族によって植民的に形成されて行った満洲農業経済において、在住地主ないし、不 在地主による直接的農民牧取機構と中国商業資本による農産物牧買移出機構および、中国産の雑貨ないし都市の加工品の 配給機構︵従って、﹂それらの不等価交換に基づく商業資本的牧取機構︶ は、農業再生産を中核とし都市加工業的再生産を従とし て統一的に把握されねばならず、また、ここに貨幣金融流通の地盤も見出すことが出来るということである。この統一的 な観点に導かれて、先ず図式の最下底の農業的再生産から説明して行こう。 中国より移住した農民は、鎮の定期市、または行商人、県城を含む地方都市に近い所では直接そこの雑貨商を通じて、 購入し或は借入れた所の中国産の移入雑貨および都市加工品と自己の前年度の農産物を以て生活を持続し再生産を行う。 かくして秋に生産された農産物は半分以上も地代として地主に客取され、残りは前に借入れた雑貨の代価として、或は売 却によって、商業資本に蒐集される。入手した貨幣所得の一部は、図表では略されているが、賦税として官に生直され、 その残りは前記の雑貨、農産加工品の購入に向けられて、商業資本の手に帰する。早稲の最後の残存部分は自給的に彼等 の生活資料となり、かくて彼等の生活の維持と再生産が行われる。地代が金納である場合は、それだけ農産物が商業資本 に売却されて、その代金から地代が金納される。 次に、現地主によって地代として牧取された農産物の販売一貨幣化およびその貨幣による中国産の雑貨ないし土着加工 品の購入、従って彼等の生活維持も同様に商業資本の媒介と乱取、の下に行われる。この際、なお地主に所得余剰が生ずると き、それは或は高利貸資本となり、或は言霊出資または商号預金 ︵中国系の商店は縁故者から利附の預金を預った。これを商号 預金という︶を通じて商業資本の営利に参加する。また商業資本が同時に地主化している場合は、この過程はより直接的で あることはいうまでもない。官荘ないし王公荘園および旗人の荘園等にあっては荘頭によって地代が言納されて、商業資 本に売却され、その代価は在京地主に対して山西票荘ないし銭荘或は一般の聯号を通じて送金されるが、これらの王公、旗
人が商業資本或は黒頭より前借している場合、この分の元利が差引かれるのはいうまでもない。この過程において荘頭等 が商業資本との抱合によって中飽︵中田嫁取︶ をなし蓄積を遂げて行くことは、かって述べた如くである。また、これら 旗人地主の地代所得と消費支出の増大の不均衡化︵これは消費生活の膨脹と商業資本の中間牧取によって促進される︶は、商業資 本ないし銀笛よりの前借の機会をつくり、彼等旗人の牧支の不調と商業資本ないし冒頭の蓄積の加速度化を来す。かくて ここにかって述べた旗地の典売と商業資本および荘頭の地主化が進化し、旗地制度の実質的解体が進む。而して、この歴 史的過程は中国的商業資本の媒介的支配化による前述の満洲経済循環の歴史的形成と表裏をなして進行したと見られる。 上述のような農業的再生産を中核とし、商業資本を媒介とする中国植民地的経済循環の形成は、そのうちに、農産加工 業の商業資本による移植とその再生産的参加を含みつつ進んでいった。すなわち、中国より移入される雑貨等生活資料と の不等価交換によって農民および地主より蒐集される農産物は一部商業資本によって中国に移出されたが、他の一部は中 国より移植された加工業によって加工され、現地および中国の需要に向けられたのである。その歴霊的経済的根拠は次の 点に存すると考えられる。すなわち満洲族の中国への大移住と漢民族の満蒙流人および在満蒙領主、地主、官僚等の生活 の中国化は、中満問に生活様式の交流を惹起し、これが一方中毒間に物資の交流を生ぜしむると共に、他方中国量器工業 の対満移植による満洲農産物加工とその対中国移出および満革嚢供給を促がしたということが出来る。蓋し、かさ高な原 料農産物を中国に移出して、そこで加工し、これを一方中国内に供給し、他方満洲に逆移入するよりは、満洲の現地にそ れらの加工業を移植し、ここで蒐集した農産物の加工を行い、一方現地の需要に応ずると共に他方、中国に移出する方が 輸送費の関係上遙かに有利であり、また農産物の相場変動と睨み合した採算からも有利なためと考えられるからである。 ところで、かかる農産物加工業は、雑貨商および糧桟を兼業する商業資本によって、兼営として、また聯号関係におい て、営まれたことは既に述べたが、その中小規模のものは、中小資本によって地方諸都市を拠点として営まれ、より規模 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 二五
二六 の大きいものは、大資本によって、大都市または貿易都市を拠点として営まれて行ったのである。そして地方都市の加工 業は、その地方の需要に応ずることを主とし、貿易都市および大都市におけるものは、その都市の需要に応ずる外、対中 国移出に向けられるのであった。 すでに述べた如く、商業資本の地方的拠点としての県城とその周辺たる農村との間に半開放的な半封鎖的な再生産的循 環が形成されたと述べたが、 それは前掲図式では下城︵中央の一・1・1線の円︶と下の農村︵一・・一で囲まれた下の三角形︶ との関係の循環として示されている。半開放的というのは、この地方的経済循環が中央都市との間の循環につながってお り、更に後者は中国に対して移出入を媒介として開放されているがためである。すなわち、地方諸都市の選民で蒐集され た農産物︵その都市で消費される分および加工業に原料として向けられる分を除き︶は大都市の大身淺に集中し、ここでその都市 の消費分と加工業に原料として向けられる分を除いて、中国に向けられ、またこの地の農産物加工品もこの地で消費され る分を除いて中国に移出される。中国からその代価で移入された雑貨その他の生活資料は、この都市の雑貨問屋に集中 し、ここから地方都市の雑貨商に配給され、また、ここから更に農村に分散する。 かくて大都市および貿易都市等の中心都市は、各地方都市の商業資本を市場的に依存せしめる中心点であると共に、対 中国貿易の中心拠点として、在満中国資本の集中的拠点をなし、従って、これに関連して対中国移出および対内向の加工 業の集中化せる地点であるということが出来る。勿論、この中心都市が、その周辺農村に対しては、恰も県単がその周辺 に対して有する地位と略々同様な機能的地位を占めることはいうまでもない。 かくて、われわれは満洲の再生産的経済循環を中心として農村、県城︵または地方都市︶および中心都市︵大都市および貿 易都市︶ の占むる機能的関係は、中心都市と各地県城との間に多角的に形成されていると同時に、各県城とその周辺の無 数の農村との問にも、やはり、多角的に形成されてかることに注意しなければならない。これを図表化すれば次の如くな
るであろう。 この図表においては、前掲の経済循環図表において農村、県城、中 中国 心都市の機能的地位をぱ夫々1・1・1線の三角、↓重円馬二重円を以 て示したのにならって、小さな三角、一重円、二重円を用いて表わし
○ その経済簾上の関係は璽化のため、単線で示しているが、理論的
に夫々に前掲循環図表の該当部部面を右の図表に代入すれば、当然多 角的な経済循環図式を得る筈である。◎ と.﹂ろで、嘗開港前の繍経済循環を渠的に醤附ける
ものは、旧時代的な商業資本的意味において中国植民地的なる 性格であり、而もその中心をなすものは、中国商業資本の媒介と 支配である。されば、対中国依存の根拠であり、対中国貿易ル ートであり、従って中国商業資本の最大の拠点をなすところの 謂ゆる中心都市の満洲経済循環における機能的地位が決定的に 重要であることはいうまでもない。この中心都市が史実的に如 何なる地点であり、それが如何に変遷したかは、歴史家の厳密な研究に侯たねばならないが、その最大の一つはなんとし ても満洲の首都である盛京︵後の奉天ないし藩陽︶であったと考えられる。盛京は清朝入関前の首府であり、入関後も清朝 発祥の地の首府として特に重視し、盛京官制を見てもとくに中央官制に準じて盛京五部︵戸部、礼部、兵部、刑部、工部︶を 設けるなど、清朝国家としてここに力点を置くことが大きかった、また対露防衛を始め満洲の軍事的政治的なことがここ を中心としてなされ、従って軍無上、備荒上および糧穀需給調節従って釜山調節上の買⊥、売却もここを中心としてなさ 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 二七二八 ⑤ れ、これに関連する対中国移出の許可、不許可もここでなされた。また在満の軍隊および官庁の必要とする中国産の雑貨 の買付もここを中心としてなされたであろう。されば、これらを取扱う中国の商業資本はここに集中し、盛京の官僚との 取引ないし抱合によって、商売を行ったと考えられる。盛京が遼河の支流渾河に沿うて水運の便のよかったことも注意し なければならない。 乾隆年間では錦.州、送還、海城、蓋平、佐州等と天津との間を商船が往復しているところを見ると、これらが貿易港を なしていることがわかる。いつれも遼河湾に注ぐ面河支流、小面河、その他の河に沿うている。当時の商船たる戎克の淀 泊にとっては、このように余り大ぎくない河が都合よかったと考えられる。当時まだ牛当意が貿易港として重要性をもっ ておらず、その奥の面河に沿うて海城が重要性をもっている。 ﹁乾熱元年版﹂の﹁定心通志﹂の地図を見ると、今日営口 から九〇清里︵端粛〇粁︶奥の牛荘は遼東湾の延長たる海に面している如く描かれている。後に汽船が牛缶まで遼河を航行 出来た点を考え、また煙出の河口が土砂のため年と共に南下したことから見れば、当時は牛荘は戎克にとっては寧ろ淀泊 しにくく、その四十清里︵約二十六粁︶沙河を遡った海城が貿易港として栄えたことであろう。 上述の貿易港のうち、錦州は錦州府の所在地として遼西の中心でもあったせいもあり、年と共に隆盛となったようであ る。 周藤吉之氏が﹁皇朝経世史編﹂巻四八、漕運下に見える海商謝某の海運提要序の中の古今海運異宣に﹁自従康熈年間、大開海運、始有 頂賞経過登州海面、直趨天津・奉天・万商副鞍之盛、上古未有⋮⋮是立直十年前江漸商船、赴奉天貿易、歳止両次、近則一年行運四回、 凡北方所産糧豆聚梨、新来江准、毎年不下一千万石。﹂ とあるのを引用し、次いで﹁乾隆・嘉慶以後には江漸の商船の奉天に行くものが ヘ ヘ ヘ へ 多くなり、北方の糧豆棄梨が盛に江准に還ばれている。従って乾隆末年には錦州一帯の地方には匠人が居住して村落をなし、多きは万余 戸に至るといわれている﹂と孟宗実録巻一三七六乾隆五十六年四月によって述べているところを見ても、先に述べたことが首肯つかれる であろう。なお、一八三一年Oβ誌ド欺が中国沿岸に沿うて満洲に冒険航海を試みたとき、この錦州は二二および金面と共に遼東湾の大
港であったと述べているところがら見てもその繁栄が想像される。 かくて錦州もまた一つの中心都市だったといいうるであろう。 ヘ ヘ ヘ へ も ヘ へ なほ雍正十三年︵ 七三五年︶に奉天州県採買廉売例が定められ、其儲積の額米が決定されたが、それによると、 ﹁錦県、寧遠州は戸 ヘ ヘ ヘ モ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ エ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 口が手塩、且つ沿海地方にて据膳を接触すべきにより各十万石を貯ふ、蓋平・復州・海城等の処は浜海潮湿にて久慰し難きにより各四万 石を存す。金州は現存米六千懐石を増すことなし、海に沿はざる承徳・鉄嶺・開元三県は各四万石、逢妻州・広寧県は各五万石を存し、 永吉州の倉儲一万石は旧に傍る、義州は新設により後に之を議し、また長本県は五千石以上を貯ふ﹂とある。 右の奉天州県採買羅売例による貯糧と糧穀の需給調整のことを考えれば、右の地方諸都市の貯糧額は略ζ夫々の都市の 経済的重要度の比重を反映する指標と見て大過ないであろう。 更に乾隆五十二年︵一七八七年︶には、奉天における常平の数が議定されたが、これによると、奉天府属の承徳県は米四万石、遼陽州 は五万石、復興・海城・蓋平三県は各四万石、開原・鉄嶺二県は各三万石、寧海県・一塁城は各二万石、新民懸盤民同知は三万石、錦州 府属の錦県寧遠州は各五万石、義州・広寧県は各四万石となっている。 また嘉慶十七年︵一八一二年︶六月には、中州、牛上等の処の現存高梁三十万石の申十五万月半登・莱等の州県に商人の聖運するのを 聴したという。道光十三年︵一八三三年︶三月には、慮隷の米価が騰貴したので、商人をして三号・蓋平および復州・咄以上処の海口に 圃積された米糧を買運せしめ、また各州県翼翼の粟米六万石を直隷に擾慰せしめたとある。 このようにして見ると、この時代の満洲ことに南満地方の経済の中心をなした地方諸都市および、貿易港が浮び出て来 る。そして年と共に変遷があるのは、後に重要性を加えて来た牛荘とか新民屯とかが、後代になって現われて来たことか らも知られる。 なお、右の諸都市のほか、対露軍備に関連して発達した松花江本支流の寧古塔、吉林、伯都訥、斉翼賛爾、布特恰、墨 髭根、呼蘭、三姓および国境の黒龍江等が移民の北上と開拓の進展と共に夫々の地方の中核となって、前掲経済循環の地 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ 二九
方経済的循環を形成したと考えられる。なお軍事都市ではないが、 済の中心となった所もある。 長春とか、 三〇 評言とかのように植民の発展と共に地方経 ここに銘記しなければならないのは、前述の満洲経済循環で中心大都市ないし貿易都市と地方諸都市間を結ぶ流通路と して遼洞の本支流および其他の河川のもつ重要性である。ここに遼河◎本支流が交通路としてもつ重要性は後に松花江の ⑯ 本支流が演じた役割と共に軽視することは許されない。このことは、偶語、海城、遼陽、盛京、撫順、鉄嶺、開原、新民 需等の重要都市は凡て遼寧の本支流の水運路に沿うており、中北満の諸都市が松花江の本支流に沿うていることを見ても わかる。河川交通で注意しなければならないことは、海運用の大戎克の淀泊の限界地点たる貿易都市の推移の問題であ る。何故ならばこの地点が海運商船の集中的淀泊地たると同時に河川戎克の集中的淀泊地ともなり、従って満洲の対中国 貿易の中心地となって来るからである。このことは具体的には上述の如き南満の重要都市を連らねる遼河の下流におい て、かかる地点たる貿易都市が如何にして終局的に営口に落付いたかという問題に集中する。 この点に答えるものとして、われわれは二つの重要な資料を挙げることか出来る。一つは満鉄調査課編纂の﹁営口の現勢﹂ ︵管内情勢 調査第壱輯大正十四年︶であり、他の一つはイギリスの海関十年報告2①≦。げ碧σq”U①8巳巴力①唱。昼一。。露一一〇〇一である。 先ず﹁鯉口の現勢﹂の沿革を記した箇所には、右の点に関して次の如く叙述している。すなわち﹁今より一百余年前当地は無名の大葦 原にして外洋より来航せる戒克は北は牛荘城に南は蓋平の西方二十支里なる西河口に淀糊したり。当時潮の干満により出没したりし葦原 も漸次泥土推稜したりしが、道光の初年始めて小漁村として一部落をなすに至れり。 当時遼河の貿易は野里最も盛なりしが、年々遼河の搬出する土砂により出身游退し、航行不便を来し、其の結果民船取引は遂に田荘台 に奪われしが、西暦一八三〇年︵道光一〇年︶以後に於ては形勢更に営口に転ぜり。 道光の中葉︵約九十年前後頃︶営口の商勢は新に商賞を招来し、漸次面目を一新し、商民の増加と共に牛荘及び田荘台の商業は悉く此 ⑰ の地に移れり﹂という。 また右の海関十年報告は次の如く報じている。すなわち﹁営口は一八三〇年代より以前には貿易は殆ど全くと云っていい程行われなか
つた。その後、遼河の上流鳶職〇哩の処にある田荘台一今なお重要な取引の中心地である一にとって代った。田荘台も同じく十八世紀の 後半暫くの間ではあったが、牛.荘城︵20≦。げきσq箕。勺臼、、︶にとって代っていたのであった。此の変化は二つとも河が浅くなった結果で あり、河もまた近年著しく其水路を変えている。これについて一例を挙げれば、一八六五年には田荘台は港から四〇哩の上流にあったが 現在では二〇哩に過ぎない。一八五八年に結ばれた天津条約︵臣①㌍三。。丁摩Φ曽¢︶により鶴翼の解放が宣言された時は、海岸から箆っ ていた牛荘の町はこの様な次策でとつくの昔、貿易の中心ではなくなっていた。⋮⋮条約作成者は実に無謀にも何も知らすに、遼河河口 に最も近く地図上に記された大きな町を条約港と宣言したに過ぎない。メドウ氏︵ζい目●円■ζ①⇔伍。芝ω英国の初代領事︶は其処に到着 してみて、蛇口が貿易港であり、且且は重要ならざる一村落に顛落してしまっていたことを発見した。そこで、此処に英国の領事館が開 設され、外国商人が居留することとなった。現実がどうであるかということはとんと考えないで、其処がZ①詰開きσq︵牛荘︶と命名され たのである。しと述べている。 このようにして見ると前記の如き貿易の中心地点が中学から田荘台に移りそして最後に営口に落付いた如くである。牛 荘以前は前に述べたように海城が中心であったようである。そして、このように貿易の中心地が推移したのは遼河のもた らす泥土で漸次河床が高くなり海洋戎克が淀泊し切れなくなることと、海洋戎克が漸次大型となり船足が深くなったこと から生じた結果と考えられる。このように営口が漸次対中国貿易の中心となって行き、 一八三五年以後は大豆・豆粕の輸 出は蓋平、錦州の諸港を凌ぐようになったが、 一八五八年の天津条約によって開港場と指定され、一八六〇年より愈々満 洲の経済は営口を通じて世界経済に開放されるに至ったのである。 ①満鉄調査部編﹁北満農業機構動態調査報告﹂第一編浜江省呼錦江孟家村孟灘区昭和十七年五八頁、これは石田精一氏の﹁北満農 村の動態的考察﹂1呼蘭県第二区孟家屯の例︵満鉄調査月報一九巻一日号︶が掲載されたものである。 ② 産調資料㈲ツ②小作関係並に慣行篇−承徳元年度農村実態調査報告書一二四頁。 ③門馬驕氏﹁満洲土着資本の企業的特質﹂満洲経済康徳七年第一巻第六号五八頁及び守晴一氏﹁土着資本と資金動員﹂満洲経済研 究年報︵昭和十六年版︶三三七頁以下参照。 ④台湾総督府編﹁清国行政法﹂第一巻二八一頁以下参照。 清代満洲における中国植民地的経済循環の形成︵石田︶ コニ
三二 ⑤周藤吉之氏﹁清代の満洲に於ける糧米の団団について﹂東亜論叢第三輯一四四頁以下参照。 ⑥周藤氏右論文・一四九頁参照。 ⑦乾隆元年版﹁盛京通志﹂盛京輿地全図、奉天特軍所属形勢図。 ⑧周藤氏右論丈一六二頁。 ⑨O口巨下めOげ貯①ω①園Φ℃oの凶ε同ざく。押Hこ℃℃.這OIお悼﹁営口開港前後﹂︵今井東吾訳︶﹁満鉄資料彙報﹂昭和十六年七、八、十月 号抜刷三頁に引用された所による。なお後者は史観書O霞pa日ず①霞勉ユ前腎ΦO坦ω8ヨ。。一UΦo①三巴菊Φ℃o目お。⇒跨①日円pαρZ⇔︿剛σQ国口。ロー 田均ω艮Φω−象pも臨爵・℃。諄。℃2汁。喝9鉱αq昌Oo8初霞8ぼO匡墨b巳8酔ΦO。注三。昌蝉巳∪Φ︿2。℃B窪汁oh曄Φ日巴Φ四¢勺。碁 ノ 勺δ<畔8ω=c。露1一8一一芝津ゲ日巷99p。σqN§。・帥巳コ薗冨.げ団○巳20︷ひΦ冒。・℃88目OΦ口霞巴。出O器8旨。。”ωげきσq訂一●一8幽も℃● 一−臨乞①毛。訂昌σq嚇∪①oΦ巳巴園①℃o昌一。。OPl一〇9の全訳である。なお満鉄調査課の南満洲経済調査資料第六 言口 明治四十三年井 阪秀雄調査一〇頁にO=訂訂欺の著書の上掲箇所の内容に言及しているが、恐らくこのU①oΦ三巴幻Φ℃o答︵一。っO悼1一〇〇一︶によったもの であろう。 ⑩周藤氏前掲論文一四七−一四八頁。 ⑪周藤氏右論文一五五頁。 ⑫周藤氏右論文、一五九頁。 ⑬周藤氏右論交一六〇頁 ⑭周藤民﹁清代満洲土地政策の研究﹂四〇四頁以下参照。 ⑮﹁満洲旧慣行調査報告書﹂蒙地九五頁以下参照。 ⑯ ウィルヘルム・クラッセン﹁鉄道敷設以前に於ける満洲の交通及経済地理的状態﹂東亜経済研究 第十八巻第三号八六頁以下参照。 満洲事情案内所編﹁満洲河川誌﹂一七九頁−二五二頁遼河の部分参照。 ⑰ 満鉄調査課編纂﹁営口の現勢﹂︵管内情勢調査書壱輯大正十四年︶ニー三頁。 ⑱前掲訳﹁営口開港前後﹂満鉄資料彙報昭和十六年号、八、十月号抜刷ニー三頁。 ⑲上掲﹁南満洲経済調査資料第六営口﹂一〇頁。