3 両界曼茶羅︵甲本︶ 両界曼茶羅︵乙本︶ 両界曼茶羅︵永仁本︶ 両界曼茶羅︵元禄本︶ 敷曼茶羅 伝真言院曼茶羅 現図金剛界曼茶羅 現図胎蔵曼茶羅 転写本の歴史 はじめに
東寺所蔵の曼茶羅
石黒淳
4 空海の請来品のなかでわが国の平安期以降の仏教美術に測り知れない大きな影響を与えたのは胎蔵、金剛界の二 種の曼茶羅であろう。周知のように、空海の師であった長安青竜寺の恵果和尚は空海の帰朝にあたり、宮廷の仏画 あじやりえい 師季真らに五種の曼茶羅をはじめ﹁阿闇梨の影﹂と呼ばれる真言密教の祖師五人の肖像画を描かせ、空海に与えた。 ﹃御請来目録﹄には曼茶羅を与えた経緯について恵果和尚の言葉として次のように記されている。 ﹁真言秘蔵は経疏に隠密にして、図画を仮らざれぱ相伝すること能はず﹂と。 また、空海も同じ意味のことを次のように記している。 ﹁密蔵深玄にして翰墨に載せ難し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す。種々の威儀、種々の印契、大悲より出 でて一韻に成仏す。経疏に秘略にして、これを図像に載せたり。密蔵の要、実にここに鑿れり。伝法受法、これを 棄てて誰ぞ。会海の根源、これすなはちこれに当れり﹂と︵﹃御請来目録﹄︶。 、、 こうした恵果和尚l空海の言葉からも明らかなように、密教を理解する上で図画は極めて重要な位置を占めて おり、経疏と図画はまさに密教という車の両輪の関係にある。図画とはいうまでもなく胎蔵、金剛界二種の曼茶羅 を指す。﹃御請来目録﹄には次の五種の曼茶羅が載せられている。 大砒盧遮那大悲胎蔵大曼茶羅一鋪七幅一丈六尺
大悲胎蔵法曼茶羅一鋪三幅
はじめに東寺所蔵の曼茶羅 う
大悲胎蔵三昧耶略曼茶羅一鋪三幅
金剛界九会曼茶羅一鋪七幅一丈六尺
金剛界八十一尊大曼茶羅一鋪三幅
︵一鋪とは一幅を、七幅とは画絹を縦に七枚継いだものを意味する。一丈六尺は約四・八燭︶ これら五種の曼茶羅のうち最も大きな大砒盧遮那大悲胎蔵大曼茶羅と金剛界九会曼茶羅が胎蔵、金剛界として知 られている二種の曼茶羅である。これら二種の曼茶羅は後述するように、その転写本が重要文化財として三本、東寺 に伝存している。ところで、わが国では一般に胎蔵、金剛界二種の曼茶羅を一対とし、伝統的に両界曼茶羅と呼ん でいるが、胎蔵には本来〃界〃という語句は付かず、注意が必要である。次に、二種の大曼茶羅を除く一二種のうち 大悲胎蔵法曼茶羅は、尊形の代りに各尊を梵字一字で表象した︵種字と呼ばれる︶胎蔵種字曼茶羅であったとみら れる。また、大悲胎蔵三昧耶略曼茶羅は、諸尊を印契と持物で表象して︵三昧耶形と呼ばれる︶描いた胎蔵三昧耶 曼茶羅であったとみられる。最後の金剛界八十一尊大曼茶羅は、金剛界曼茶羅の中心をなす成身会︵渇磨会︶のみ で一図をなす曼茶羅である。この系統に属する曼茶羅の最大の特色は大日如来︵獅子︶をはじめ仏、菩薩が鳥獣に 乗って描かれている点で、金剛界曼茶羅とは系統を異にしている。金剛界八十一尊大曼茶羅は慈覚大師円仁︵七九 四∼八六四︶によっても請来されており、その転写本とされる鎌倉時代の優れた作品が重要文化財として根津美術 館に所蔵されている。いずれにしても空海の請来したこれら三種の曼茶羅は原存せず、その転写本と伝えられる作 品も存するがその真偽は今後の研究に俟たればならない。 さて、空海が請来した胎蔵、金剛界二種の曼茶羅は既述したように、その転写本が東寺に伝存しており、それら6によって原本を偲ぶことができる。はじめに転写本の歴史を概観してみよう。 最初に原本の転写本が描かれたのは請来後十八年を経た弘仁十二年︵八一二︶のことで﹁絹破彩落尊容欲化﹂の いた 状態になったためであるとされる。従って、比較的短期間のうちに原本が傷んだようである。﹃性霊集﹄巻七には胎 蔵八幅、金剛界九幅と記されており、その幅数が原本と異なっているが、それは唐絹と和絹との幅員の差によると される。しかしながら、この最初の転写本は失われ現存していない。次に転写本が作られたのは、その後約三七○ 年を経た建久二年︵二九二のことで、俊證が東寺長者︵長官︶のとき、当時有名な法橋宅間勝賀が描いたとさ れる︵﹃東寺長者補任﹄巻二及び﹃東宝記﹄巻三。この転写本は一般に﹁甲本﹂または﹁建久本﹂と呼ばれている。 さらに﹁永仁本﹂と呼ばれる第一二の転写本が、約百年後の永仁年中︵三一九一二∼九九︶、願行大人憲静の大勧進の 折、寒典主によって描かれている︵﹃東宝記﹄巻三。第四の転写本は現在東寺で使用されている元禄本と呼ばれる 作品で、元禄六年︵ニハ九三︶、仁和寺真乗院孝源が柱昌院を檀越として曼茶羅の修復を発願し、久修園院宗覚に描 かせたものである︵﹃久修園続集﹄上巻︶。 以上、四度描かれた転写本のうち、最初の転写本は失われたものの、﹁甲本﹂または﹁建久本﹂と呼ばれる第二転 写本をはじめ永仁本、元禄本が東寺に重要文化財として伝存しており、原本の姿を今に伝えている。 ところで九世紀に﹃諸説不動記﹄を著した法三宮真寂は同書において、当時良く知られた空海、円珍穴一四∼九
転写本の歴史
東寺所蔵の曼茶羅 7 胎蔵曼茶羅は﹃大日経﹄︵正しくは﹃大毘盧遮那成仏神変加持経﹄︶に説かれる教えの内容を視覚化した絵図で、 くわしくは大悲胎蔵生曼茶羅と呼ばれる。現在﹃大日経﹄のサンスクリット原典は発見されておらず、漢訳とチベ ット訳がある。漢訳は七巻からなり、唐の開元十二年︵七一一四︶に善無畏が一行の援助を得て訳したもので、原典 は七世紀中葉頃、インドで成立したと考えられている。 わが国の胎蔵曼茶羅のなかで最も古い形式を保持しているとされるのが、善無畏系の﹁胎蔵図像﹂︵﹃大日経疏﹄ を典拠︶で、これに続くのが非善無畏系とされる﹁胎蔵旧図様﹂であり、不空l恵果系の空海請来の現図胎蔵曼茶 羅が最も新しいとされる。前二者は円珍の請来である。 さて、現図胎蔵曼茶羅の胎蔵とは梵語ガルバの訳であり、ガルバとは母体の子のやどるところ、すなわち子宮を では次に、胎蔵、金剛界二種の曼茶羅の構成について現図曼茶羅に基づきその概略を述べてみたい。 それ以降、周知のように現図曼茶羅といえば一般に空海が請来した曼茶羅を指すようになった。 いることである。これは当時既に空海が請来した曼茶羅が正系の作であると認められていたことを暗示している。 三種の現図曼茶羅のうち空海のそれを﹁現図﹂と呼び、円珍、宗叡のそれを現図と呼ばず﹁山図﹂﹁或図﹂と呼んで っている。各図の同異を明かすこうした比較考証は初期の図像研究としても注目に値するが、興味深い点は真寂が 二、宗叡︵八○九∼八四︶の請来した三種の原図の胎蔵曼茶羅について空海のそれを底本にして比較考証をおこな