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自由の客観的可能性と歴史の発展法則(一)

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八論 説

V

自由の客観的可能性と歴史の発展法則付

目 次 序 言 社 会 的 統 合 の 手 段 ( 以 上 本 号 ) 社 会 的 統 合 と 自 由 政 治 的 空 間 の 拡 大

仁1 周知の如く、ここ数年来、ソ連・東欧・中固などの社会主義諸国において激しい政治的変動ないしは政治的混乱が 起きている。そして、その基本的な原因と改革の方向(又は目的)には一定の共通性がある。むろん、そうした共通 性にはいくつかの側面があり、 いずれを重視するかは視点によって異なるが、 ともあれ、(少なくとも﹀一つの根本的 な共通性として(政治的・経済的・社会的な)﹁自由﹂ということを指摘することができるであろう。即ち、自由の欠如 又は不足ということが一連の出来事の基本的な原因であり、また、自由の獲得又は増大ということが改革運動の基本

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第4巻2号ー-42 的な方向であると考えられるのである。 このような事件、特にその規模の巨大さと変化の劇的性格が示しているように、現代の社会主義諸国において自由 というものが著しく制限され阻害されていることは、厳然たる事実であろう。もはや自由の概念の区別を云々する (﹁ブルジョア的・形式的自由﹂/﹀のも空しいほどに、自由という点でハ少なくとも中進国以上の)資本主義諸国に甚だし く立ち遅れていることは、誰も否定することができない。しかし、考えてみれば、これはまことにおかしなことでは ないか。不可解なことではないか。何故なら、本来、社会主義は(階級的な)支配や抑圧からの解放を、(真の豊かな﹀ 自由を、めざしていたからであり、しかも、国民的な普遍性をその眼目としていたからである。そもそもそのために こそ、多大の犠牲を払って革命がなされたからである。もちろん、そのような理念が現実によって完全に裏切られて し ま っ た 要 因 は 、 かなり明白であり、既に多くの説明が加えられてきた。即ちその要因として、例えば、プロレタリ ア独裁や前衛党といった理論上の欠陥、中央統制システムや官僚主義などの組織的な問題、利己主義や権力欲といっ た人間的な要素、政治における歴史的・伝統的な後進性、国際的な脅威や困難等々が指摘されてきた。それらはなる ほどそれぞれ合理的な説明理由である。しかし、果してそれだけであろうか。それらが本当に根本的・決定的な原因 な の で あ ろ う か 。 先程、社会主義の本来的目的が(むろん平等な﹀自由にあったと述べた。確かにそうである。革命の指導者もその後 の政治エリートも、そしてまた一般国民も、社会主義の理想に燃えていたはずであるし、その実現に努力しようとし たはずである。しかるに、現実の政治の姿は理想とは程遠いものとならざるをえなかった。主観的な意志や願望は客 観的な情況の前に阻喪し、挫折せざるをえなかったのである。このような事実は次のことを示唆しているように思わ れる。或は、立証しているように思われる。即ち、 いくら人々に自由への情熱があったとしても、それによってはど

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うにもならない現実というものが存在しているのではないかということである。逆に言えば、国民的な自由の体制を 一定の客観的な条件が備わっていなければならないのではあるまいか。社会主義諸国の 実際に可能にするためには、 悲劇、のみならずまた、今なお見られる、その他の強権的・専制的な国家の成立と存続には、根本的にそうした事情 が作用していると考えられる。そしてこのように、自由の可能性が現実的な制約をもち、客観的条件に相対的なもの であるとするならば、そのことは更に、歴史に関する考察へと発展していくであろう。そのような﹁事実﹂は、歴史 法則について新たな視点を提供するであろう。何故なら、歴史の趨勢が明らかに自由の拡大にある以上、自由の客観 的条件とは一定の歴史的段階を意味しているからである。従ってまた、それは当然歴史的に形成されるものだからで ある。自由と歴史がかくの如く何らかの相関性をもっているということは、自由の観点からする歴史哲学の可能性を 予想せしめるであろう。 つまり、自由というものを基軸として歴史の歩みの法則性を追求し、その構造を理解するこ とができるのではないかと、推量されるのである。 近年生じた、また生じつつある、社会主義諸国における体制崩壊現象は、(一つには)こうしたことを思索せしめる。 ただ、私がそのような観念を抱き始めたのは、そうした事件がきっかけではない。それはずっと以前より匹胎してい た考えであり、(社会主義諸国以外の国々も含めて﹀専制的或は独裁的な政治体制の事例を見聞するにつけ、いつも感じ ハ1 ﹀ ていたことであった。そしてかつて(と言っても、やっと最近になってであるが﹀、次のように記したことがある。 そ も そ も 、 自 由 と 権 力 は 基 本 的 に 相 対 立 す る 関 係 に あ る が 故 に 、 可 能 的 な 社 会 的 自 由 の 度 合 は 権 力 の 必 要 量 に 逆 比 例 す る 。 或 る 社 会 に お い て 必 要 と さ れ る 権 力 が 小 さ け れ ば 小 さ い ほ ど 、 ( 非 権 力 的 、 例 え ば 伝 統 的 ・ 慣 習 的 な 、 統 制 の 可 能 性 は さ て お き ﹀ そ の 社 会 に 可 能 な 自 由 は 大 き く な る の で あ り 、 例 え ば 愛 の 共 同 体 の よ う に 、 も し 微 小 な 権 力 し か な く と も 一 つ の 社 会 と し て 存 続 し て い け る よ う な 場 合 に は 、 最 大 限 の 自 由 が 可 能 と な る の で あ る 。 他 方 ま た 、 そ の よ う に 自 由 の 在 り 方 を 規 定 す る 権 力 の 必 要 量 と い う も の は 、 人 為 的 統 合 の 必 要 性 に 比 例 す る 。 即 ち 、 人 為 的 統 合 に 頼 ら ざ る を え な い 社 会 で あ れ ば あ る ほ ど 、 よ り

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第4巻2号一一44 強大な権力の存在が避けられないのである。そして更に、そのように権力の在り方を規定する人為的統合の必要性というもの は、今度は自然的統合の強さに逆比例する。つまり、社会の統合が既に自然的に成立していればいるほど、事の必然として人 為的に統合する必要性が減るのである。そこで以上の連鎖を約めてみると、結局、自由の可能な、従ってまた現実的に適正な、 度合は、自然的統合の状態如何によって基本的に規定されるということになる。後者を無視して大幅な自由を設定しても、そ れは社会生活そのものを危くすることによって、逆に自由の喪失を招くだけであろう。社会的生存の基礎たる統合が自然的に 成立していることによって初めて自由が可能になるのであり、前者の程度に比例する形で後者の可能性が増大するのである。 そして、そうした究極的な規定要因である自然的統合の在り方を決定づける一つの重要な要素が、(国土又は政治的単位の広 狭や自然的・地理的条件、それに民族的・言語的構成や歴史的・文化的様相などと共に﹀実は経済水準なのである。一つには、 しかし人為的・可変的には殆ど唯一且つ最も強力に、経済の状態が自然的統合のそれを規定する。自然的統合の強さは経済水 準の高さに比例するのである。何故なら、人間生活の基礎は経済にあるからである。つまりそのため

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低水準の経済は、人 々の生存そのものを脅したり物質的な不満や種々の困難を惹き起こしたりするが故に、また人々をして小さなパイの奪い合い へと駆り立てるが故に、不均衡や不平等、社会的緊張や対立抗争を生み出し、社会の分裂と崩壊をもたらしかねない(従って 強力な人為的統合を必要とする)が、より発展した経済においては、生活上の心配や不満が基本的に解消されているが故に、 人々はそのような社会的共存に原則的な利益を認めると共に精神的な余裕をもち、従って統合がより自然な形で可能となるか ら で あ る 。 自由の実現が客観的条件に依存しているとしても、その客観的条件が具体的に何を意味しているのかということが、 問題である。客観的なもののうち、 一体何が自由の実現に関っているのであろうか。それは当然一種類ではないし、 それほど単純なものでもあるまい。おそらく、様々の要素が複合していることであろう。しかし、それらは決して対 等ではなく、自由に対する影響力も異なっているに違いない。従って間わるべきは、その中で最も根本的なもの、本 質的なものとは何かということである。そこで私の見出したのが、上記の引用にあるように、統合という要素であり、 また自然的統合と人為的統合の区別ということなのである。私は、自由というものを社会的・国家的に実現し、人々 によるその享受を実際に可能にする上で、統合ということが死活的に重要であると考える。統合の如何が自由につい

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ての決定的な鍵を握っているのではあるまいか::::・。本稿は、これまで抱いてきたこのような根本思想を受け継い だものであり、それをより詳細に展開しようとするものである。 ところで、自由の実現が客観的条件に左右されるという認識そのものは、私の独創ではない。その基本的な思想は 古来より存在していた。即ち、各政体にはそれぞれその存立のための必須の或は適切な条件というものがあり、決し て気盛に選択できるものではないという思想が、それに当たる。例えば、政体と人口・風土・気質などとの相関性を 説く議論である。しかしそれは、経験的ではあるが、かなり主観的且つ非体系的なものであったと言わねばならない。 従って、私の目論見は、自由に関するその種の事実についてその根本的な因果関係をより体系的な形で明確にするこ と で あ る 。 一言でいえば、その︿できる限りの)理論化が本稿の第一の目的である。そして更には、既述の如く、その 理論を(単に自由の問題を超えて)歴史哲学的に発展させること、 つまり、それを歴史と結びつけることによって一定 の歴史法則を導き出すこと、これがもう一つの目的なのである。

社会的統合の手段

人聞は最も根源的には一個の生命であり、従って、何よりもまず生きなければならない。そうでなければ、 およそ 人間に関する全ての事柄はそもそも成り立たない。生存ということが、人間に関るあらゆる事象の基礎的条件であり、 それ故また、あらゆる判断の大前提なのである。むろん、或る特定の個人についてみれば、犠牲や献身や自殺などの ように、そうでない場合もありうる。 つまり、逆に死が選択され、それが価値をもっということも、ないわけではな ぃ。しかし、それはそのような個人にとってもその生涯からすれば一時的・部分的であるし、またそうした価値自体、 それを享受する人聞が存在しなければ無意味であろう。人間一般及び人生全体について言えば、生存ということは事

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第4巻2号一-46 実のレベルにおいても価値のレベルにおいても第一次的な目的なのである。 人聞にとって、生存とはそのような意味をもっているが、このことから直ちに社会の存在が導き出されてくる。即 ち、人間の生存とは社会的生存ということなのである。しばしば言われるように、人聞は一人で生きていくことはで きない。少なくとも、人間らしく生きていくことはできない。人聞を支える物質生活は、他人との何らかの共同を必 要とするからである。人間の生活は全面的に生産活動に依拠しており、そして後者は、必然的に社会的たらざるをえ ないのである。そればかりではない。人聞は単に肉体的な存在であるのみならず高度に精神的な存在でもあるが、精 神生活にとってもまた、他人の存在は不可欠である。そもそも、人間の感情や知性は社会的に形成され発展させられ るのであり、それらの活動や作用は社会的な刺激や交流なくしては極めて低いレベルに止まるであろう。従って、人 聞は社会においてのみ生きることができるというよりむしろ、社会において生きることによって初めて人聞になると 言うべきなのである。しかも、人聞の幸福の多くの部分、例えば愛・交誼・見開・成長・勝利・権勢・達成・獲得な どが、他人との関りに基づいていることは、言うまでもない。かくして、人間と社会との一体性は物質的なレベルに おいても精神的なレベルにおいても妥当する。人間の生存又は生活とは、限りなく深遠且つ広汎な意味において社会 的たらざるをえず、また社会的たるべきなのである。 ところで、こうした、人聞が本質的に社会的存在であるという認識は、その深さはともかくそのもの自体としては、 周知の如く古くからあった。しかも、それは思想史を通じての基本的な認識であった。そこで、参考のために若干立 ち入って検討してみると│││既にプラトンが、 ソクラテスを介してこう語っている。﹁八国家(社会)﹀というもの が発生するのは、思うに、我々は誰もてんでんばらばらでは自給自足できず、たくさんの入手を必要とすればこそな の だ 。 ( 中 略 ﹀ そういうことだとすると、我々の要求は様々であって、銘々がそれぞれの必要に応じて別々の人を仲

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聞に迎えるというわけで、たくさんの人タを共同者・助力者として一つの居住地に集めるということになる。こうい う 共 同 生 活 体 を 我 々 は ︿ ポ リ ス ( 画 家 社 会 ) ﹀ と 名 づ け る : : : 。 ﹂ 即ち、衣食住に関る生活必需品の調達のためには、 分業的生産と交換のシステムが不可欠であり、それが社会形成の根本原因だというのである。 そしてこのような基本的考えは、弟子のアリストテレスに引き継がれ、有名な﹁ポリス的動物﹂の思想へと発展し ﹁互に相手がいなくては存在しえないもの同士は、合して一対をなすというのが必然である﹂と て い く 。 彼 は ま ず 、 ﹁自分と同じようなものをもう一つ後に残そうとする欲求は、既に生 まれつき自然に定められている﹂し、また、主従の関係も両者の先天的能力からして自然であり互に有利だからであ る。そこで、この二つの共同からまず最初に﹁家族﹂が、 して、男性と女性、及び主人と奴隷を挙げる。 ﹁毎日の必要のために自然にできた共同体﹂として成立す る。そして、その集合が﹁村落﹂となり、更にそれが﹁最終の共同体﹂たる﹁国家(ポりスどを形づくる。﹁それは 言ってみればあらゆる自足の条件を極限的に満たしているのであって、それの生成理由は我々が生存するための必要 によるものであったが、今やそれの存在理由は我々の生活をよくすることにある。この故に、国家は全て自然の産物 なのであって、これはそれに至る最初の公共体(家族と村落)が既に自然によって生じたものであるとすれば、そうい う結論になるはずである。﹂ かくして、こう言われるのである。一人聞がその自然の本性において国家をもっ(ポリス ( 7 U 的)動物であることは、明らかである。﹂ 古代ギリシャの二大哲学者によって説かれたこのような観念は、以後思想界の根本的な共有財産となった。そして、 それは更に深められて、人間学的・社会論的思惟における当然の前提となったのである。近代に至って登場した個人 主義ですら、それが問題にしたのは、社会の存在そのものではなく、その形成であり様態であった。即ち、個人主義 と言っても、あくまで社会観としての、その一種としての、それなのである。ただ、そうした中にあって、 ル ソ l は

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第 4 巻 2 号一~48 その例外であるように見えるかもしれない。よく知られているように、啓蒙主義時代の異端児たる彼は、社会的な文 ﹁人間自身の本質に関るもの﹂を見出しているからである。そこで、ルソ i 明人にではなく孤独な未開人において、 について少し言及しておきたい。 まず、彼の言う﹁自然状態﹂とは、(ホップズやロックのそれとは違って)次のような﹁原始状態﹂である。 ﹁森の中を迷い歩き、生活技術もなく、言葉もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、同胞を少しも必要としないが、また 彼らに危害を加えることも少しも望まず、おそらくは同胞の誰かを個人的に覚えていることすらけっしてなく、未開人はごく ハ 9 ﹀ 僅 か な 情 念 に 従 う だ け で 、 自 分 だ け で 事 が 足 り 、 こ の 状 態 に 固 有 の 感 情 と 知 識 の 光 し か も っ て い な か っ た の で あ る 。 ﹂ そ し て 、 ルソーはなるほど、それが人聞の自然な在り方であるのみならず、﹁最も平和に適し人聞にふさわしい状態﹂ ﹁心が平静で身体が健康でいる自由な存在﹂である、と述べて自然状態を賛美して であり、またそのような人聞は、 いる。しかし、彼自身が予め強調しているように、そのような描写は﹁歴史的な真理ではなくて単に仮説的で条件的 な推理﹂として語られているのである。つまり、 ﹁ 自 然 状 態 ﹂ と は 、 ことのない、多分将来も決して存在しないような一つの状態﹂なのである。それは彼にとっても理想にすぎない。現 ﹁ も は や 存 在 せ ず 、 おそらくは少しも存在した 実の問題としては、彼もまた社会生活を認めているのである。 しかも、それに関して一つ付け加えておくべきことがある。それは、 ルソーが﹁哀れみ﹂を重視しているというこ とに関っている。彼は﹁人間の魂の最初の、そして最も単純な働き﹂、﹁理性に先立つ二つの原理﹂として、 存﹂又は﹁自己愛﹂と共に﹁哀れみ﹂を挙げているが、それについて更に次のように述べている。 ﹁ 自 己 保 ﹁それはいくつかの状況において人間の自尊心の激しさを和らげ、或は、この自尊心の発生以前には自己保存の欲求を和ら げるために、人聞に与えられた原理であって、同胞の苦しむのを見るのが生まれながらに嫌いなことから、人聞が自己の幸福 ( お ﹀ に 対 し て 抱 く 熱 情 を 緩 和 す る 原 理 で あ る 。 ﹂

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設 内 争 3 h 幸 弘 二 、 ﹂

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﹁ 哀 れ み は 自 然 の 感 情 で あ り 、 そ れ は 各 個 人 に お い て は 自 己 愛 の 活 動 を 和 ら げ 、 種 全 体 の 相 互 保 存 に 協 力 す る も の で あ る こ とは、確かである。我々が苦しむ人たちを見て、反省しないでもその救助に向かうのは、表れみのためである。また自然状態 において、法律や風俗や美徳の代わりをなすのもこれであり、しかも、どんな人もその優しい声に逆らう気が起こらないとい う 長 所 が あ る 。 ま た 全 て の 遣 し い 未 開 人 が 、 自 分 で 自 分 の 生 活 手 段 を よ そ で 見 つ け ら れ る と い う 希 望 を も っ た 場 ム 口 、 か 弱 い 子 ( 廿 即 ) 供 や 病 弱 な 老 人 か ら 、 そ の 苦 労 し て 手 に 入 れ た 生 活 手 段 を 奪 わ な い よ う に す る の は 、 こ の 表 れ み の 情 で あ る 。 ﹂ しかし、このような論述は、 ルソ!の自然状態が実際にはかなり社会的なものであったということを物語っているで あろう。何故なら、第一に、﹁自己保存の欲求を和らげる﹂とか﹁種全体の相互保存に協力する﹂、それに﹁法律や風 俗や美徳の代わりをなす﹂とか﹁生活手段を奪わないようにする﹂というような言葉は、自然状態においても社会的 共存ということが基本的な問題として存在していることを示しているからである。また第二に、 ル ソ i は ﹁ 哀 れ み ﹂ という社会的(対他的)感情を人間本性の二つの根本原理の一つとしているが、そのようなものとしての社会的感情 は、他人との恒常的な接触、 一定の確たる社会的関係の存在なくしては、明らかに生成されえないからである。彼は、 自然状態に社会的諸要素を持ち込んでいるという理由でホてフズやロックを非難している。だが、そうした見方の当 否はさておき、上述のように、彼の自然人もまた根本的には社会的存在であることに変わりはないのである。ルソ l においても、人間の本質的な社会性は否定されていないと言えるであろう o 以上、人聞の社会性の問題に関りのある代表的な思想家を取り上げてみた。そこからも伺われるように、社会的共 同生活というのが人間の唯一の存在形態であり、人聞にとって最も根本的な条件なのである。そうであるならば、次 に、そういった社会の成立ということが問題になるであろう。即ち、社会の成立とはどういうことか、また如何にし て成立しうるか、そのための条件とは何か、ということである。

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第 4巻2号一一50 そこでまず、社会の成立の意味についてであるが、それが単なる多数の人間の集合を意味するものでないことは、 言うまでもない。人々がただ寄り集まっただけでは、社会とは言えない。社会とは物質的及び精神的な相互性に基づ いて成り立つものであるから、社会であるためには、何らかの恒常的な人間関係がそこに形成されていなければなら ないのである。即ち、人間の生活に関る一定の公共的な組織やシステム、それに人間行動の基本的なパターンの存在 である。そして、それらは当然安定したものでなければならない。少なくとも、或る程度の安定性がなければならな 一定の関係や型としてのそれらの存在そのものが、安定ということを含意しているからである。もし ぃ 。 何 故 な ら 、 不安定であるならば、それらは無きに等しいであろう。そこで、社会の成立の仕方に関して、人間関係のそうした安 定性の確保ということが問題になる。そのために必要とされるものは何であろうか。何が安定をもたらすのであろう か。それは(ややト l トロジカルだが)平和と秩序であろう。少なくとも消極的な意味における、即ち争乱や混沌の対 概念としての、平和と秩序は、安定した人間関係の基礎である。かくして、それらが多少とも得られて初めて、社会 の存在そのものが可能になるということになる。約言すれば、それが社会の根本的な成立条件なのである。 このようにして、少なくとも原則的・基本的に平和であり秩序が保たれていなければ、社会は成立しえない、と言 うことができる。そして、平和にしろ秩序にしろ、要するに人間同士、が離反するのではなく結合することであるから、 それは統合、即ち社会的統合又は政治的統合という言葉で総括することができるであろう。統合を達成すること、物 質的にも精神的にも一つにまとまることが、社会にとっては必要なのである。但し、ふつう社会的統合、特に政治的 統 合 と は 、 一つの社会又は集団としての統一的な意志決定やその形成過程を意味しており、従って、ここでの使用法 は適確ではないかもしれない。しかし、平和と秩序の存在は統一的意志決定の基礎であると同時にその結果であり、 両者は相即的な関係にあると言えよう。それ故、そのような両者の一体性からして、平和と秩序、安定した共同的人

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間関係を、統合と呼んで差し支えないであろう o ともあれ、前述の如く、或る程度の統合の存在が社会の成立には不 可欠である。後者の可能性は前者の如何に決定的に依拠しているのである。 以上のように、人間の生存ということから出発して統合という条件に帰着した。統合による社会の成立によっての み、人間としての生存が可能となるのである。だとするならば、その当然の結果として││生存ということは既述の 如く人聞にとって最も根本的な事柄であるから、統合もまたそうだということになる。人聞にとって統合ということ のもつ意味は、生存のそれに匹敵するほど重要なのである。従って、統合の如何を問うことは、生存そのものを問う ことに等しいであろう。このようにして、生存という、'人間存在の抽象的な条件ないしは前提が、統合という概念に 言わば具体化されたことになる。即ちここに、生存に代わって統合ということが、根本的な問題として設定されたの で あ る 。 そうであるならば、今や問わるべきは、そのような統合が如何にして達成されるのかということである。 つ ま り 、 統合の在り方或は手段であり、その種類である。統合を可能にするものは何であり、それらはそれぞれどのような性 質をもっているのであろうか。多数の人間をして互に恒常的に結合せしめるものは、何であろうか。 かくて、統合の手段ないし統合を促進する要素についての考察が、求められる。まずその考察の仕方、即ち、どの ように推理してゆけばよいのか、何を手掛りとすればよいのか、ということが問題となるが、それは統合の概念から して単純に考えればよいであろう。統合とは、噛み砕いて言えば、人間と人間とを社会的スケールにおいて結びつけ ることであった。社会全体を一つにまとめることであった。従って、それを可能にするものを体系的な分類に基づい て具体的に想像してみればよいのである。その結果、統合の手段又は要因として次のような種類が想定されうるであ ろ う 。

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第4巻2号一一52 それは大きく二つに分けられる。その第一は、人間同士の聞に直接作用することによって両者を結びつける働きを するものである。そしてそのような、結合の直接的な媒介として、具体的には政治と経済を挙げることができる。そ れらは明らかに(その在り方によって幅があるが)人間同士を結びつける機能をもっているであろう。政治はまさにその ために存在し、その機能を意図的に果そうとするのであり、最悪の政治でさえ多少の統合機能をもっている。統合は 政治の最大の要諦であり、政治そのものなのである。また経済活動も、労働・経営・売買及びその他の協同や取引に 関して諸々の人間関係を創出し維持するが故に、強力な統合機能をもっ。ただ経済においては、それは副次的なもの で あ る が 、 しかしまた、経済のシステムそのものに内在するものであり、従って、人間の統合は経済活動の(体制によ る違いはあるが)必然的な帰結なのである。それは実生活に直接関っているだけに、また意図的でないだけに、逆にむ しろ政治より有効であろう。 次に第二の要因は、何らかの共通性や同質性の存在である。人聞は互に共通のものをもつことによっても結合する。 しかも、その結合の可能性は共通性の程度に比例すると言えよう。反対に、相違点が大きければ大きいほど、また多 ければ多いほど、当然のことながら人々は離反し易い。こうした、共通性や同質性に基づく結合は、先の政治や経清 とは違って、言わば間接的な媒介による結合である。そしてそのような結合形態としては、人聞の在り方からして二 つのレベル又は領域が考えられる。即ち一つは、人間自身に関るものであり、もう一つは、人間の置かれた環境や情 況に関るものである。そのうち前者としては、更に二分されて、人種・民族などの身体的なものと、宗教・道徳・価 値意識・気質などの精神的なものとが挙げられる。また後者としては、これもやはり二分されて、地理・風土などの 自然的なものと、言語・伝統・慣習・歴史などの文化的なものとが指摘されよう。これら諸々の具体的要素に関する 共通性ないし同質性の存在は、人々の聞に親近感や一体感・同胞感を生み出すことによって、明らかに統合を促進す

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る の で あ る 。 このようにして、統合の手一段(要因﹀についてのリストが形づくられた。それによって、統合手段の全容がほぼ明 白になったと言えるであろう。そして、手段の具体的項目については、 一応それで網羅されたように思われる。しか し、本稿の目的からして、それは分類体系としてはまだ十分ではない。即ち、それは更に別の観点から内部的に整理 し直す必要があろう。というのは、本稿は自由の客観的可能性について論究しようとしているが、 ﹁序言﹂から伺え るように、それは政治の問題、 一定の現実的情況下における政治の在り方の問題であり、従って、上述のリストにお いて﹁政治﹂とその他の事項とを区別すべきだからである。 つまり、ここでは政治による統合が問題なのであるから、 その観点から分類の仕方を変える必要があるということである。そしてその場合また、分類の中心となる﹁政治﹂に ついては、その概念を明確にするため、もう少し細分化しなければならないであろう。 かくして、新しい分類に着手することになるが、その根幹は、前述の如く、政治による統合とそれ以外のものとを 区別することである。従って、最初に両者の基本的な性質を規定する必要がある。そこで、上述のリストを点検して みると、政治は人為的なものとして、それ以外のものは自然的なものとして、特徴づけられることが判るであろう。 政治は確かに、統合を目的とする人為的・意識的な努力と見ることができるし、それ以外のものについては、その統 合の効果は本来の意味や機能に対して全て副次的・派生的であり、従って、それらは統合の手段・要因としては自然 的であると言えるからである。もちろん、両者は互に共通する部分があり、完全に分離することはできないが、基本 的にはそのように区別することができるであろう。 このように、統合の手段は大きく人為的なものと自然的なものとに分けることができる。そして、人為的なものと は政治的であり、自然的なものとは非政治的である。そこでまず政治的手段についてであるが、それは更にどのよう

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第4巻2号一一54 に区分されうるであろうか。政治が統合の機能を果す場合、むろんそのレベルやルlトは様々である。しかし、対象 となるのは人間であるから、統合機能は人間の属性によって規定される。従って、前者は後者に対応して分類するの が妥当であると考えられる。だとするならば、人聞は肉体と精神によって構成されていることからして、政治的統合 の手段は、大別すれば、物理的なものと精神的なものに分けることができるであろう。そうすると次に、両者の具体 的な内容が問題になるが、物理的なものとは言うまでもなく権力である。また精神的なものとしては、権威・法意識 政治意識・イデオロギーなどが挙げられるであろう。 では他方、自然的・非政治的な手段は如何に分類されるであろうか。これは、最初の分類において経済を政治と共 に直接的な媒介とし、間接的な他の手段とは区別したことからして、まず経済を基準に、即ち経済的なものと非経済 的なものに分けるのが適当であろう。そうであるならば、それに続いて非経済的な手段(要因)の分類を行なわねば ならないが、これは先のそれをそのまま採用することができる。そしてその場合、人間自身の共通性に関るものと、 人間の置かれた環境や情況の共通性に関るものという二つのレベル又は領域を区別する適当な名称が必要となるが、 前者を人間の内部に存在するという意味で内的なもの、後者を人間の外部に存在するという意味で外的なものとハあ まり適当でもないが)名づければよいであろう。 以上、統合手段の具体的な種類について考察してきたが、それを一覧表にすれば、次のようになる。

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自 然 的 非 政 治 的 〆・ー・』ーー/、一ーーー一、 非 経 経 済 済 的 的 : ,---.Aーー一一、 ・ 外 内 経 済 活 動 経 済 体 制 統 合 の 手 段 ( 要 因 ﹀ ﹁ 身 体 的 : : : 人 種 ・ 民 族 的 占 戸 精 神 的 : : : 宗 教 ・ 道 徳 ・ 価 値 観 ・ 気 質 ﹁ 自 然 的 : : : 地 理 ・ 風 土 的{ 戸 文 化 的 : : : 言 語 ・ 伝 統 ・ 慣 習 ・ 歴 史 ﹁ 物 理 的 : : : 権 力 人為的 H 政 治 的 { 戸 精 神 的 : : : 権 威 ・ 法 意 識 ・ 政 治 意 識 ・ イ デ オ ロ ギ ー これで本章の課題は果されたが、私はこの表が完全なものであると主張するつもりはない。分類の仕方については ほぼ妥当ではないかと考えているが、具体的な項目については、不適切な表現や思わぬ欠落などがあるかもしれない。 今後、考察を深めると共に諸賢の御教示を得て手直ししていく必要があるが、自由の客観的可能性の如何という本稿 結論としておきたい。 の主題にとっては、基本的におそらくこれで十分であろう。従って、ここでは一応これを、統合手段の内容に関する ( 1 ) 拙稿﹃平和の政治倫理学﹄付、﹁奈良法学会雑誌﹂第二巻二号(一九八九年九月)、六了二頁。 ( 2 ﹀ プ ラ ト ン ﹃ 国 家 ﹄ ( 田 中 美 知 太 郎 他 ・ 訳 ) 、 ﹁ 世 界 の 名 著 ﹂ 7 、中央公論社、一二八頁。なお、翻訳書からの引用にあたって は、表記法に関する限りにおいて、(まことに失礼ながら)私の流儀に変更させていただいた。以下同様である。 ( 3 ﹀同右、一二八 l 三 二 頁 。 ( 4 ) ア リ ス ト テ レ ス ﹃ 政 治 学 ﹄ ( 田 中 美 知 太 郎 他 ・ 訳 ) 、 ﹁ 世 界 の 名 著 ﹂ 8 、 中 央 公 論 社 、 六 六 頁 。 ( 5 ) 同右、六七 i 八 頁 。

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第4巻2号一一56 ( 6 ) 同 右 、 六 八 頁 。 ( 7 ﹀同右、六九頁。 ( 8 ) ルソ l ﹃ 人 間 不 平 等 起 源 論 ﹄ ( 小 林 善 彦 ・ 訳 ) 、 ﹁ 世 界 の 名 著 ﹂ 初 、 中 央 公 論 社 、 一 一 一 1 二 一 良 。 同 様 に 次 の よ う に も 表 現 さ れ て い る 。 ﹁ 人 間 の 現 在 の 性 質 の 中 に 最 初 か ら あ っ た も の ﹂ ( 一 一 三 頁 ﹀ 、 ﹁ 人 間 の 本 性 ﹂ ( 一 一 四 頁 ) 、 ﹁ 本 源 的 な 人 間 ﹂ ( 一 一 六 頁 ) 。 ( 9 ) 同 右 、 ( 叩 ) 同 右 、 ( U ) 同 右 、 ( ロ ) 同 右 、 ( 日 ﹀ 同 右 、 ( 叫 ) 同 右 、 ハ 日 ) 同 右 、 ( 日 山 ) 同 右 、 一 四 人 頁 。 同 一 一 二 三 頁 参 照 。 一 四 一 頁 。 一 四

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頁 。 一 一 九 頁 。 一 一 一 一 一 頁 。 一 一 五 i 六 頁 。 一 四 ニ 頁 。 一 四 四 l 五 頁 。

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ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ