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オランダにおける陪審制の導入と廃止

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67 5 3 99212 八 論 説

V

オランダにむける陪審制の導入と廃止

お 六 五 四 三 二 ー は じ め に 陪 審 制 導 入 以 前 の 議 論 陪 審 制 導 入 の 経 緯 と 制 度 運 用 状 況 陪 審 制 廃 止 の 経 緯 陪 審 制 廃 止 後 の 状 況 現 在 の 状 況 わ り に

は じ め tこ オランダにおいて陪審制がどのような経緯で導入され、また、どのような経緯で廃止されたのかを紹介・検討する ことが本稿の目的である。現在、オランダでは、刑事裁判おいて陪審制も参審制も採用していない。 一 日 制 一 陪 審 制 を 導

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第5巻3号一一68 入したにもかかわらず廃止(但し、わが国の場合は廃止ではなく停止)したという点ではわが国の状況と同様である が、その導入および廃止(停止)の時期および理由は両国において全く異なる。オランダで陪審制が実施されていた の は 、 一八一一年一一一月一日から一八一三年二一月一一日までの約三年間にすぎない。オランダにおける当時の議論に つ い て は 、 一方では時代背景の影響を受けた部分、他方では今日の議論と共通する部分があり、それらの議論の中に は、現在のわが国でも参考にできるものがあると思われる。もっとも、オランダにおいて近時、陪審制について論じ た文献はほとんどみられない。以下には主として、この分野についての最近出版された重要な著作である G ・ ボ ッ サ ( 1 ﹀ ハ 2 ﹀ l スの所説に従って、オランダにおける陪審制の導入と廃止について紹介・検討することにしたい。

陪審制導入以前の議論

ハプスブルク家の支配下にあったネIデルランドは、 ハプスブルク帝国の分裂により一五五六年以降スペインの統 治下に入った。 一五六八年に始まった八

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年戦争(オランダ独立戦争)の過程で、あくまでもスペインからの独立を 目指す北部七州とブランドル、ブラパントの諸都市は一五七九年にユトレヒト同盟を結び、同盟側は一五八一年に独 立を宣言した。 ユトレヒト同盟に結集した北部七州は独立を達成し、 一五八八年にネ l デルラント連邦共和国が成立 した。南部諸州はスペイン治下に残り、ここにネ I デルラントは北部(現オランダ)と南部(現ベルギー) に分裂す るに至った。南部はその後約二

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年間ハプスブルク領(スペイン領ネ l デルラント)として残り、後年ほぼ現在の ベルギーを形成することになる。 一六四八年のウエストフアリア条約で、ネ l デルラント共和国はスペインおよび列 国によって独立を承認された。この頃、共和国は政治的・経済的・文化的な繁栄の絶頂期であった。その後四次に及 ぶ英蘭戦争を経て、 一七九五年に、前年からのフランス草命軍の侵入により、ネ l デルラント共和国は崩壊し、 ブ 一 フ

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γ ス共和国の影響でバダヴィア共和国となった。この年すでに、ベルギー諸州はフランス共和国に併合された。その ナポレオンは、バダヴィア共和国をオランダ王国と改め、その弟ルイを国王とし、 フランス帝国に併合した。 一 八 一

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年 に は 、 後 一 八

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六 年 、 右 の と お り 、 一七九四年にフランス革命軍はオランダに侵入し、オランダにおけるいっさいの旧制度を廃止し、 七九五年には、革命フランスの政治原理にのっとって、オランダに新たにバダヴィア共和国が建設された。翌年に憲 フランスにおけるように人権規定を有する憲法制定が目指された。その年の三月一五日に 国民会議が設置され、最初の会議が六月一八日に開催された。そこでは、行政の改革と同時に刑事司法の改革が必要 不可欠とされ、オランダに陪審制が必要か否かが議論されることとなった。これが、オラ γ ダにおける陪審制につい 法制定委員会が設置され、 ての最初の議論であった。 一七九六年六月二九日から七月一日までの三日間にその会議において陪審制についての議論がなされたのであるが、 それは以下に叙述するようなものであった。 まず、倍審制に賛同する見解の根拠としては、陪審制はより民主主義的であり、国民にとってより信用性があり、 裁判官に対する威嚇になること、すなわち、裁判官の専断が許されなくなること、公判が国民に聞かれたものとなり、 札問手続ではなくより弾劾的な手続となること、陪審員の判断は裁判官のそれよりもより中立的であること、すなわ ち、陪審員は事件ごとに変わるので、政治機関の影響を受けないこと等が挙げられた。 陪審制に反対する見解の根拠としては、以下のものが挙げられた。すなわち、オランダの制度である札問手続とイ ギリスの制度である弾劾手続のいずれが犯罪を減少させるかという観点から見れば、札問手続の方が犯罪減少に繋が ること、事件ごとに交代する陪審員は裁判に関して経験を積んでおらず、その点職業裁判官は裁判の経験によって訓

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第5巻 3号一一70 一般市民は法律問題について知識がないこと、教育が不充分であり有能な市民が少ないこと、そ 練されていくこと、 のような状況下で適切な教育を受けた裁判官に判断を行わせないのは疑問であること等であった。また、どのように 陪審員を選ぶか、すなわち陪審員を選任するのは誰かということも問題になるという指摘や、陪審制は政治犯罪のみ に必要であるとする見解も出された。 これらの議論の後にも結論は出されなかった。その後、憲法制定委員会が新たに設置され、再び陪審制についても 議論された。陪審制は刑事事件および民事事件について必要であるか、刑事事件についてのみ必要であるか、政治犯 罪についてのみ必要とされるか、大陪審および小陪審が必要か等が議論されたのである。 一七九七年二月二四日の国 民会議において憲法草案が提出されたが、この草案では、陪審制は採用されていなかった。もっとも、憲法上理論的 には事後に導入する可能性は残されていた。しかし、周年八月八日の会議で本草案は否決された。 翌年に憲法草案が再び作成されたが、ここでも陪審制は採用されなかった。さらにこの翌年に憲法草案が作成され たが、結局憲法の中にはフランス憲法のような陪審制採用の規定は設けられなかった。 エ ベ ル ト ・ レ イ ン ・ フ ァ ン ・ ネ ス ( 開 ぐ 巾 ユ 刃 包 ロ ぐ 田 口 Z 冊 目 ﹀ は 、 一 八

O

四年に発表した博士論文において、陪審制が どのように機能してきたかを歴史的に検証した。本論文は、オランダの判例は他のヨーロッパ諸国の判例よりもかな り良質であるとし、結論として、陪審制に反対する立場を採った。 ボッサlスによれば、オランダでは、賠審制はこの時まで憲法制定委員会とこの博士論文においてのみ議論された ハ 7 ﹀ にすぎないとされている。

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陪審制導入の経緯と制度

一 八

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六年にオランダはナポレオンの弟ルイの王国となり、 一 八 一

O

年にはフランスに併合された。翌年の一八 一年にフランスの法律がそのままオランダにも施行され、その結果、前述のように、陪審制は一八一一年三月一日に 導入されることになったのである。 フランスの支配が終わる一八一三年に陪審制の存否が逸早く議論の対象とされ、 同年二一月一一日の法律によって廃止された。陪審制が導入されていた時期は、 オランダがフランスの支配下に置か れ、フランスの法が適用されていた時期だけなのである。 ナポレオンの弟ルイがオランダの王であった時期である、 一 八

O

九年に施行された刑法は、犯罪を二つに分類して い た 。 す な わ ち 、

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ユス(重罪および軽罪)と

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可 巾 丸 山 口 問 ( 違 瞳 一 一 酉 罪 ) と で あ る 。 そ れ 以 前 、 た と え ば 一 八

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四 年 の 刑法草案(これは結局制定に至らなかった) 犯罪の分類はなかった。 す な わ ち 、

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犯罪)のみであ で は 、 っ た 。 一 八

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九年の刑法典はニ年閣のみ適用され、 一八一一年にフランスの刑法が適用されると犯罪は三分類となる。 このことに対応して、刑事手続において三種類の犯罪に添ってその管轄を構成することが要請され、陪審制がオラン ( 8 ) ダに導入されることとなった。 導入されたフランスの犯罪の分類および管轄は次のとおりである︿括弧内はフランス語、 オ ラ ン ダ 語 の 順 ) 。

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重罪

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日 刊

ES--重罪法院(重罪裁判所、重罪院とも訳される

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!ー陪審による B 軽 罪

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合議制による

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第5巻3号一一7z 違 警 罪 ( 円

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﹀!│単独裁判官 C に よ る 導入された陪審制度の概略は、以下のとおりである o 陪審裁判が行われるのは刑事事件についてのみであり、民事事件は陪審の管轄ではない。前述のように、重罪は重 罪法院、すなわち陪審の管轄であり、陪審裁判所は、五名の裁判官と一一一名の陪審員によって構成される o 陪審員は 一一ヲ月ごとに交代するが、これは、中立性を確保するためである。また、陪審員は事件ごとに新しく選任される。選 任手続は次のとおりである。すなわち、裁判区ごとにまた事件ごとに三六名のリストが作成されるが、このリストは 一一一ヵ月間のみ有効である。法廷において壷の中に入れられた名前のカ l ドから無作為に選ばれる。検察側及び被告人 -弁護人側はそれぞれ選ばれた陪審員を一定数忌避することができ、その理由を述べる必要はない。 その後の公判手続は、以下のように行われる。 陪審員は宣誓義務があり、外部者とコンタクトをとることは許されない。法廷で質問権があり、被告人にも質問す ることができる。しかし、法廷ではフランス語を使用しなければならず、このことがオランダ国民にとってフランス の支配を通じて導入された訴訟制度を理解し難いものとし、良くない手続であると思わせた。法廷におけるフランス 語使用義務は陪審員にとっても困難な問題となった。書面は常に朗読されなければならないし、法廷ではすべて口頭 で手続が進められ、公開されなければならない。証人尋問は陪審にとって非常に重要な手続である。体憩以外には中 断はなく、もし中断があった場合、例えば証人が出廷しなかった時等は、当該事件全体を最初から審理し直さなけれ ばならない。このことは、手続が煩雑となるために大きな問題となった。

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審理の最後に、裁判長は陪審に対して、被告人に有利な証拠および不利な証拠等、事件の整理を行う。陪審は、過 半 数 で 、 つまり七対五で無罪か有罪かを評決することができる。そして、有罪を評決するにあたって、陪審は、事実 として認定したすべての状況を述べる場合もある。陪審の評決事項は、有罪か無罪かということのみであって、処罰 ・不処罰は評決事項ではない。その後に裁判官が処罰・不処罰および刑の適用について判断し、判決を下村山 運

状 況 一八一一年から一八一三年までの陪審制存置の聞に、九三四件の刑事事件が重罪法院の面前に提出された。このう ち、八二八件が実際に陪審によって審理された。残りの一

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六件は、被告人が逃走していたこと(五三件)、当該重 罪が一定の者によって犯された(群衆犯罪など)かまたは一定の重罪であったこと(軍事犯罪など)によって当時の 特別裁判所の管轄に属していたこと(一ニ八件)により、陪審による審理は行われなかった o 右の八二八件のうち、評 決に至った件数は八

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七件であり、一二件は主要な証人の不出廷や一八一三年二一月の陪審廃止による打ち切り等に

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評決に至らなかった o 八

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七件で一一九二名の被告人が陪審による評決を受けたが、その内訳は次のとおりであ る 。 無罪評決を受けた者 二 五 三 名 合 二 % ) 有罪評決を受けた者 九三九名(七九劣) ( 内 数 ) 処罰された者 八八九名 不処罰の者 五

O

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第5巻3号一一74 (内数・不処罰の理由) 処罰阻却事由 一 四 名 責任無能力 二 名 正当防衛 名 刑事未成年(一六歳未満) 三一名 陪審の評決に対しては控訴できないが、法律の規定自体が問題とされる時は例外的に破棄院に控訴することができ る。また、評決が無罪であっても有罪であっても七対五の場合にのみ、裁判所がその評決を変更しうる。有罪評決が 出された時のみ、裁判官は新しい陪審を構成することが可能である。 この間の陪審がどのように機能したかについては、ボッサ I ス に よ れ ば 、 ﹁評価し難い﹂とされる。というのは、 資料が僅かしかないからであり、それは当時の判決はオランダではごく簡単な結果以外は公刊されなかったことによ る。また、当時のフランスの法律書においても、陪審による評決は批判的には叙述されないので、現在、当時の陪審 ハ ロ ) の実態は把握し難くなっている。 後述の一八二九年の議会で陪審制に関する議論が行われた擦に、当時陪審にかかわった人々が証人として個人的経 験を話したのだが、そのことのみが、当時の陪審がどのように機能していたかを知る唯一の資料である。彼らは、当 時陪審員としての経験を持つ者や重罪法院の裁判官であった者である。ボッサ l スによれば、彼らの証言から得られ る結論として言えることは、 陪審制に対しては全体としてそれほど肯定的というわけではなかったということである。 その証言は次のようなものであった。 実際には、裕福な者や高額納税者、大学で法律や医学を学んだ者等、社会的地位の高い者から陪審員のリストが作

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成され、結局裁判官と同じ社会に属する人々によって陪審が構成されており、しかも、このリストは政府側によって 作成された。証人の中には、これは民主主義的ではなく信用性がないと述べた者と、その反対に、裁判官と同様の社 会に属する人達の判断だから信用しうるとする者があった。また、何人かの証人は、陪審は主観的感情に流され、客 観的な判断が困難であること、陪審員は判断を論証し難いことを指摘した。陪審員の中に法律家がいる場合には、他 の陪審員たちはその法律家を信頼し、その意見に左右されやすい、これは、彼らは法律的に理論も主義も持たず、訓 練もしていないことによるという証言もあった。陪審が有罪評決をする場合、 フランス刑法では裁判官の量刑の裁量 範囲(法定刑の幅)が狭く、重罪の重い刑罰を被告人が受けることはほぼ確実となる。陪審員は重い刑罰を回避した ハ

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いために、無罪評決をする傾向があり、そのこともあってオランダでは陪審が普及しなかったとする証言もあった。

陪審制廃止の経緯

一八一三年にナポレオンがライプチヅヒの戦いで敗れると、オラシダ国民は圏内に駐留するフランス軍を追放し、 イギリスに亡命していた総督オラニエ公ウィレム六世を君主として独立を宣言した。ただちに新憲法の起草に着手し、 この憲法は翌一四年に制定され、これによってオランダは立憲君主国となった。 一入一五年、ウィーン会議の決議に よ っ て 、 一五七九年以来分割されていたネ 1 デルラントは統一され、ここにネ 1 デルラント(オランダ)王国が成立 し、ウィレム六世が国王ウィレム一世として即位した。ウィーン会議の決議は、彼にルタセンブルク太公をも兼ねさ せ る こ と と し た 。 フランスの支配が終わった一八三年、即座に同年二一月一一日の法前伊一六条によって、重罪法院には以後は陪 審が設置されないことが規定された。第一六条は次のような規定である。 ﹁重罪法院は、以後は、陪審なしに行われ

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第 5巻 3号一一76 るものとし、重罪法院における裁判官は、法の適用のみならず犯罪の存否も判断するものとする。﹂ すなわち、裁判 官が事実認定と法の適用(刑の量定)との両方を行うことになったのである。裁判制度は元のように民衆参加のない 札間的な手続に戻り、今日まで陪審制は再導入されてはいない。 多くのフランスの法律はフランスの支配終結後もすぐには廃止されなかったにもかかわらず、何故陪審制は即座に 廃止されたのであろうか。 ま ず 、 フランスによって新しく導入されたものを排除しようとするオランダ国民の意識が強かったことが挙げられ る 0 フランスの支配終結後一週間のうちにフランス語の名前等が全部廃止変更されたことからも、フランスの制度に 対する反発感がオランダ国民の間にあったことが窺える。したがって、以前にオランダに存在せず、オランダになじ まない制度が廃止されることとなった。その象徴的なものの一つがギロチンによる処刑であり、今一つが陪審制であ ( 時 ) る。その二つのフランスの制度は、とりわけオランダ国民になじまないものであると思われたことが指摘されている。 その他に、陪審制存置期間が二年余にしか達しておらず、陪審制は国民には依然として新奇なものであったこと、 国民は、裁判官の客観性を信頼し、陪審は感情に流されやすいと考えていること等の論拠が挙げられている。 ボ ッ サ i スが最も重大な点であると述べているのは、当時の裁判官の特権階級意識である。陪審制は民主主義的制 度であるがゆえに、特権階級意識を持つ裁判官は陪審存続には反対したのであった。すなわち、裁判官は、陪審制の 存在は裁判官への国民の信頼がないことの証であり、陪審制は裁判官に対する監視制度であると解釈し、訴訟が民衆 ( 路 ) に聞かれたものとなることを拒んだのである。 一八一三年二一月一一日の法律の前文によると、 フランス法を継受した法制のうち、とくに刑事司法において﹁一 般的に存在する難点﹂は三つあり、 いずれも﹁何らの支障なく﹂除去されうるものとされた。その一つが陪審であり

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(第一六条により廃止)、他の二つは特別裁判所の制度(第一七条により廃止)と審理の公開(第一八条により廃止。 但し、冒頭手続と判決宣告は公開)とであった。この法律に関して問題となるのは、この法律案を作成したのは非常 ( 四 ) 一人は検事総長であったということである。したがって、こ に高名な三人の法律家、そのうち二人は裁判官であり、 の法律が国民の見解を真に反映していたかどうかは明らかではない。

陪審制廃止後の状況

フ ラ ン ス で は 、 一八一八年および一八一九年に出版関係の犯罪に関して陪審制が議論され、 一八一九年法律で陪審 制が出版関係の犯罪に再び導入された。 一 方 プ ロ イ セ ン で は 、 一八一八年の委員会において、最も重要な報告は陪審 77 制と口頭による公開の裁判についてであった。そして陪審制は維持され、陪審による裁判は国民の自由の最良の保障 ハ 却 ﹀ であり、あらゆる洛意に対する最良の保護であると見なされた。 これらの動きについての情報がオランダにもたらされると、陪審制に関して、研究者間で再び議論されることにな オランダの証拠法は陪審制になじまないこと、 ハ 泊 ) パッハの見解が支配的となったこと等によって、陪審制導入に反対する見解が多数を占めたのである。 った。その結果は、憲法は陪審制を許容していないこと、 フォイエル 当時オランダは、後にベルギーおよびルクセンブルクとなる地域を含み、それら全域に亘る新しい統一刑事訴訟法 典を求める数多くの努力がなされたが、 オランダとベルギー、 ルグセンブルグとの聞には、根本的な見解の相違があ っ た 。 一八二八年には、統一刑事訴訟法典の準備委員会が設けられ、 一八一三年に廃止された陪審制についても審議 が行われた。翌年の一八二九年に、委員会は以下のような三つの質問事項を議会に提出し、決議を求めた。第一に、 陪審制はすべての重罪事件について導入されるべきか、第二に、出版関係の犯罪についてのみ陪審制が導入されるべ

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第5巻3号一一78 きか、第三に、大陪審のみが導入されるべきか、というのが委員会から提出された質問事項である。第二の質問は、 フランスにおける一八一九年の議論の影響である。第一の質問に対しては六六対一一一一で、第二の質問に対しては五七 対四

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で、第三の質問に対しては六五対三一で、いずれも反対の決議に至った。結局、議会では陪審制導入はその形 態を問わず否定的結果に終わったのである。これ以後しばらくは、議会では陪審制に関してもはや議論されることは なかった。それは次の理由による。すなわち、後にベルギーとなる南部オランダは、陪審制に対して強い関心を示し て お り 、 一八二九年から翌年に一旦る議会での陪審制の議論も南部オランダの代表者による導入への積極的意見による ものであった。したがって、ベルギー独立後のオランダでは、陪審制はもはや関心の対象ではなくなったのである。 一 八 三

O

年にベルギーは独立し、 フランス式の陪審制が導入され、現在も存置されている。そこでは、重罪および政 治・出版に関する軽罪について陪審の管轄が認められている。 ベルギー独立までの経緯についてここで略述しておきたい。ウィーン会議の結果、南部ネlデルラント、すなわち 現ベルギーの地がネ l デルラント王国に吸収されたことは、南部ネ l デルラントの住民に苦難を負わせることになっ た。北部と南部とではもともと人種・言語・宗教・経済など、種々の点で著しく事情を異にしていた。また、 一 五 七 九年の北部七州によるユトレヒト同盟以来の分裂によってますますその差異は顕著となり、しかも南東部の資本主義 的先進地域の住民はフランス語を使用し、 フランス文化と草命の影響を受け親仏的立場を採り、自由と進歩を求めた。 しかし国王ウィレム一世は、総じて南部の立場を顧みず、常に北部、すなわち旧オランダ本位の政治を行っていた。 南部の不満はやがてオランダからの分離を目指す政治運動へと発展していったのである。 と こ ろ で 、 一人二九年の議会のメンバーであったりュ 1 ザ ッ ク

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によると、議会で挙げられた陪審制 導入拒否の論拠は次のようなものであった。第一に、陪審制に肯定的な南部オランダと否定的な北部オランダとは、

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歴史的・文化的・社会的差異が大きいことである。南部オランダはフランスの影響がもともと強く、フランス語やフ ランス的教育がなされていたのである。第二に、出版に関する犯罪については陪審は無罪評決する傾向がある、つま り、公衆は国家に批判的な記事にも接したいという希望を有しているからである。第三に、憲法は事件ごとに任命さ れる素人裁判官を設けないと規定している。これらの論拠の他に、 ( お ﹀ 会においても指摘された。 一 八 一 一 一 一 年 に 倍 審 制 が 廃 止 さ れ た 諸 理 由 が こ の 議 一八一三年にフランスの統治が終結した後、 八三六年には新しい刑事訴訟法典が制定され、 (制此﹀ オランダではオランダ自身による新しい法典の編纂努力がなされ、 一八三八年に施行された。 一 八 八 六 一八八一年には刑法が制定され、 年に施行された(現行刑法)。ここでは、犯罪は二分類とされた。重罪と軽罪とを含む自由白広三百と違警罪。

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とである。この結果、重罪法院は、第一審裁判所としての管轄を有さなくなり、上訴裁判所としての管轄のみを有す る こ と に な っ た 。 一八一三年法律で既に陪審制が廃止された結果、重罪法院においても職業裁判官のみによる審理と なったにもかかわらず、重罪の場合は控訴の機会がないという不都合な状態となっていたので、軽罪との手続上の区 別をなくすために、重罪と軽罪の区別をなくしたのであった。前述のように、 オランダにとって新奇であったギロチ ンによる処刑は既に一八一一一一年法律によって廃止されていたが、その他の多くの点では、この新刑法の施行以前には フランス刑法が効力を有していたので、右のような不都合な状況が続いていたのである。 刑事訴訟法についても一八三六年の制定以降、改正の動きがあり、陪審制が再び議会で審議された。 フランス式の 陪審制の問題点の一つは、陪審の評決に対して上訴できないことにあったので、オランダ独自の陪審制導入が論じら 一八六一年に刑事訴訟法の草案が作成され、 れた。しかし、この案も一八六

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年に議会で否決された。 一八六三年に 一九世紀になってオランダにはドイツの制度が大きな影響を及ぼしつつあり、 一八六三年にはフ 議会に提出された。

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第5巻3号一-80 ランスやベルギー式の陪審制はオランダの議会ではもはや議論されなかった。それに代わって、参審制が議論の対象 と な っ た が 、 一 九

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八年のオランダ法曹会での結果は参審制についても、多数意見は否定的なものであった。それ以 一八八二年から翌年のオランダ法曹会で、陪審制については既に議論がなされており、陪審制は憲法が規定し ていないこと、事後的にもこの憲法の下では陪審制導入が不可能であることを確認していた。現行刑事訴訟法は一九 ( お ﹀ ついに陪審制も参審制も採用されなかった。 前 一 の 、 二一年に至ってようやく制定され、 一九二六年に施行されたが、 __.__. ノ、

現 在 、 ( お ﹀ オランダでは刑事事件については陪審制も参審制も実施されていない。 一九八三年に憲法が全面的に改正さ れたのだが、改正憲法もまた、陪審制を設けなかった。改正憲法第一一六条の規定は次のとおりである。 オランダ憲法第一一六条 ( 一 ) 法律は、裁判所が裁判機構に属することを規定する。 ( 一 一 ) 法律は、裁判機構の組織、構成および権限を定める。 法律は、裁判機構における裁判を、裁判機構に属さない者の関与のもとにおいても行うことができる旨を規 ( ゴ 一 ) 定することができる。 ( 四 ) 法律は、司法に従事する裁判機構の構成員および第三項に挙げた者の監督を規定するものとする。 ( 訂 ) 右の条文にいう﹁法律﹂とは、裁判所組織に関する法律を指している。また、第三項の﹁裁判機構に属さない者の

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関与のもとにおいても﹂では、 E H H M E m ョという語が用いられているが、この語は、 ﹁ ー と と も に

1

も﹂という意味を 表すので、ここでは、裁判官とともに他の者も裁判を行うことができるということを規定したものであって、素人の 門 沼 ﹀ みの裁判すなわち陪審制は認められないと解釈されている。 したがって、第三項の規定によれば、参審制は許容されるが、素人のみで裁判を行う陪審制は許容されないのであ る。これに基づいて、他の分野、例えば民事事件において、経済・不動産問題、また、軍事関係の事件等では、参審 制が導入されている。裁判官は特殊な問題について専門知識に欠けているので、それを補充するための専門家裁判官 の必要性によって、参審員が選任される。このように、参審制は専門家の必要性から導入されているので、刑事事件 の場合も、通常の事件については参審制は不必要だと考えられている。しかし、特殊な分野で専門家が必要な場合に 限って、今後、参審制が導入される可能性は生じるだろうという予測もある o 刑事事件について、陪審制導入を求める議論はオランダにおいて現在ほとんど存在しないのだが、その根拠は次の ことによると考えられている。すなわち、第一に、検察官の起訴便宜主義が重要な機能を有し、検挙件数のうち約四 ( 怨 ﹀ や賦課っきの手続打ち切り等の処分として処理される。第一一に、

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が検察官の下でトランザクティ ( 同 , 円 m wロ由同門伸一巾) オランダでは、十一二、十四世紀には参審制が採用されていたが、十五世紀に札問手続になり、その後約五百年間に一旦 って少なくとも公判においては札間的な手続が存続している。オランダの公判手続は書面主義的公判審理と言われ、 職権主義的な手続であって当事者の交互尋問は補充的にしか行われていない。手続の多くは次のように行われる。す なわち、捜査裁判官の書面が公判に提出され、その後の手続の基礎におかれる。公判は、量刑に関する審理に重点が おかれている。公判時間は平均数分間であり、重大事件でも一日程度で終結する。 右のように進行する刑事手続において、陪審制の必要性は何ら議論の対象とされないのである。

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第5巻3号一-82 わ り お 第一に、陪審制採用期間中の無罪率が高いことが注目される。もっともその理由が刑罰が重すぎる(法定刑が重く かっその範囲が狭い)ことによる場合もありうるが、それでもやはり、無罪率が高いことは注目に値する。日本にお いて戦前に陪審制が採用されていた際の無罪率も、現在に比較すると極めて高いのである。 第二に、陪審制がフランスの支配とともに、しかも、ギロチンと陪審という組み合わせで導入されたのはオランダ にとって不幸であったといえよう。逆に言うと、このことが、 オランダに陪審制が定着しなかった理由といえるかも し れ な い 。 第 三 に 、 オランダで陪審制導入の議論が現在なされていない理由は、主として右のような歴史的な事情によるもの であって、必ずしも陪審制自体に欠陥があることを理由とするものではないように思われる。 第 四 に 、 オランダの公判手続の現状については、 ﹁調書裁判﹂が維持されているという点で問題があるように思わ 一八一三年の法律は陪審制の廃止と同時に審理経過の公聞をも排除した。たしかに、現行法は 公判審理について公開主義を採用し、旦頭主義・直接主義も規定しているが、実際の運用は必ずしもそれに添ったも れる。前述のとおり、 のではないようである。これらの主義は、陪審制・参審制の場合には不可欠のものである。 第 五 に 、 オランダの刑事手続において、公判前の手続に重点が置かれ、公判手続が﹁調書裁判﹂に近くなっている 点は、わが国の刑事手続の現状と共通している。しかし、 オランダにおいては、 トランザグティの制度を中心に、捜 査段階で被疑者の意思がかなり尊重されているようである。したがって、 ハ 羽 ) は、この点を含めたトータルな検討が必要と思われる。 オランダの刑事手続を評価するにあたって

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オ ラ ン ダ の 刑 事 手 続 に つ い て は 、 現 在 ま で に わ が 国 で 紹 介 し た も の は ご く 少 数 に と ど ま る 。 わ が 国 と オ ラ ン ダ と は 歴 史 的 に 見 れ ば 緊 密 な 関 係 を 有 し て い る の で あ り 、 今 後 オ ラ ン ダ の 刑 事 手 続 自 体 へ の 関 心 が さ ら に 高 ま る こ と を 期 待 し た い 。 83-ーーオランタ}こおける陪審制lの導入と廃止 ( 1 ) の

2

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回 O 回 出 向 門 ♂ 垣 市 民 巾 巾 口 巾 ロ 白 昨 日 巾 ・ 2 叩 島 町 宮 門 戸 ︺ 間 各 白 色 宮 町 止

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∞ 叶 ・ ( 2 ) 筆者は、ドイツ留学中の一九八九年十月に、オランダのテイルブルグ(寸ロ σ ミ巴にある、ブラバンド・カトリック大学 ( 同 三

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教授を訪問し、オランダにおける 陪審制の概要について教示していただいた。以下の叙述は、主としてボッサ l スの著書およびカルムトハウト教授の教示を 参考にしたものである。紙面を借りて、ここに教授に感謝の意を表する。 ( 3 ﹀オランダの歴史につき、今来陸郎編﹃中欧史(新版﹀世界各国史 7 ﹄(山川出版社、一九七一年﹀など、オランダの可法制 度の歴史につき、細川清﹁オランダの可法制度見聞記﹂法の支配五二号(一九八二年)五四頁以下など参照。 ( 4 ﹀ 切 O 凹 田 町

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・ ( 切 O 凹 印 巾 円 P V 目 N -M ∞からの引用に よ る ) ( 7 ) 図 。 白 血 2 ・ PEN-M ∞ m -J 1 ・ ( 8 ) 回 。 白 血 巾 門 田 W E N -ω N 巾 ・ 4 ・ ( 9 ) 出 。 凹 印 2 ・ P E N -ω m w 巾 -J 1 ( 山 山 ) 切 O 白 血 m H ・ ♂ Z N -A 匹 、 吋 0 ・ 4 ・ ( 日 ﹀ 回 。

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六年刑法によっても、後の一八八一年制定の現行刑法もそ

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第5巻3号一一84 の法定刑の幅は比較的広いのである。なお、 G ・ステファニ他によれば、現在フランスでは、重罪として重罪法院の陪審裁 判に付せられるべき事件にもかかわらず陪審が(重罪では重すぎるので)無罪にするだろうと思われる場合、検事または予 審判事は、事件を軽罪裁判所に係属させ、法の予定する処罰より軽くはなるが少なくとも無罪にはならないようにする司法 慣行が存在する︹裁判による軽罪化︺。このような司法慣行は、被害者、被告人および事件を処理する軽罪裁判所の一致し た合意によってのみ実施される。但し、破棄院は今日ではこれに批判的な傾向を示している ( G ・ステフアニ他著(津登俊 雄他訳﹀﹃フランス刑事法︹刑法総論︺﹄(成文堂、一九人一)一九三頁)。 ハM)mg 釦 仲 立 主

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・ (日)たとえば、フランスの刑事訴訟法典は、オランダにおいて一八三八年まで効力を有していた。 (日山)ギロチンによる処刑も前述の一八一三年一二月一一日の法律で廃止され、絞首刑などが導入された。第五条は、﹁死刑を フランス法の方法に従って執行することはこれを廃止する。以後、死刑は絞首および万剣による斬首の二方法によるものと する﹂と規定している。なお、通常犯罪に対する死刑は一八七

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年制定法によって廃止され、一九八三年の新憲法第一一四 条も﹁死刑はこれを科してならない﹂と規定する(また、オランダ刑法第九条も参照)。 ハ ロ ) 切 O 白 血 刊 H・P F H N ・ N 巾 ・ ︿ ・ ( m m ) 切 O 白 血 2 ・P E N -∞ 品 ・ ( m w ) 回 。 白 血 2 1 印-E N ・ 由 ( ) ・ ( 却 ) 切 O 白 血 相 円 印 ・ 2 N - u m -( 幻 ﹀ 図 。 臼 田 町 円 凹 -E N -s e m ・ 4 ・ ( 担 ) 切 。 印 印 叩 円 P E N -H c r u -4 ・なお、一人二九年における委員会の質問事項と議会の決議、および審議内容については、﹄・ゎ・ ︿ 。 。 ﹃ 己 ロ 円 P の m R F 庁 内 同 町 同 回 目 的 合 同 σ 巾 m 口 白 色 町 ロ 門 凶 R Z E 一 巾 ユ 町 民 丘 町 n y 自宅 n H σ o m r m p 同 ∞ ω u ・ σ 日 N -巴 ∞ ! 日 ω C に 詳 し い 。 ( お ﹀ 切

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豆 N -H H O 巾 ・ 4 ・ (剖)細川・前掲注 ( 3 ﹀ 五 六 頁 参 照 。 ハ お ﹀ 切 C E 2 ・P E N -H M 叶 巾 ・ 4 ・ (部)オランダの可法制度一般につき、細川・前掲注 ( 3 ) 五六頁以下、野村二郎﹁ヨーロッパの司法 ( 2 ) 1 1 1 オランダの裁判所

(19)

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九号(一九八三年)九一貝以下、塚本重頼﹁ベルギーおよびオランダの裁判制度﹂法の支配四五号(一九八一 年 ) 一

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・によれば、オランダにおけ る刑事事件(交通事犯を除く)の処理状況は、次のとおりである。なお、トランザグティ(寸

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巴町﹀は、検察官によ る過料言い渡しの手続であり、一九八四年に、それまで秩序違反のみに認められていたのが、長期六年を越える犯罪を除く すべての犯罪に拡大されて、これによる処理件数が大幅に増加した。 人 実 有 手 検 知庁察検受 逮 認 十 罪 過料 続 捕 イ牛 万 ( 打 数 人 あ 件 ラ ト 占 り 理 件 挙 〈ホ た 刑 数 γ切一件数 数 通 り ザ り 率 事 の ク 犯 受 テ を 刑ヰ乙 イ 除 数骨 ) 〉く 一 一 」ノ、 ← ー一 一 七 八 二 一 九 五 九 二 九 五 人 。 、 、 、

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一 七 一 四 四 九 六 四 六 四 一 入、 、 、 八 , 四 一 一 三 九 五 一 四 年 二四一九五四三%O%六七三九% 七 検察官の起訴便宜主義については、他に、細川・前掲注 ( 3 ) 六二頁、森下忠﹁海外刑法だより(η)││オランダ刑事訴 訟法の歩み││﹂判時一コ一六九号(一九九一年﹀一七頁以下、野村二郎﹁海外点描││オランダの裁判所││﹂六一貝以下、 出 向 円

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参 照 。 (初)なお、オランダでは、被疑者が捜査機関によって拘束された時点から、プロベイション・オフィサ

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が被疑者とコンタグトをとり、家族や弁護士との連絡など種々の援助を行うことができるとされている(冨・同冨・切門出口︽半 開 。 。

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また、団藤重光﹃刑法紀行﹄(一九七七年)一八六頁も、オランダに特徴的な制度と して﹁公判前調査﹂に言及している。 (剖)筆者が参照できた最近の文献として、細川・前掲注 ( 3 1 野 村 ・ 前 掲 注 ( お ﹀ ︿ 却 ) 、 塚 本 ・ 前 掲 注 ( m m )、森下・前掲注(却) のほか、大出良知﹁世界の刑事再審法

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オ ラ ン ダ 1 1 ﹂ 判 タ 一 一 一 六 六 号 ( 一 九 七 八 年 ) 七 九 頁 以 下 、 須 網 隆 夫 ﹁ E C 各国に おける弁護士の専門化の現状﹂自由と正義四二巻七号(一九九一年﹀六七頁以下、七一頁がある。

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