化政期仙台藩医学館の創設と蘭方の導入
著者
王 一兵
雑誌名
文化
巻
84
号
3,4
ページ
68-84
発行年
2021-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131307
令和 3 年 3 月 31 日発行
化政期仙台藩医学館の創設と蘭方の導入
化政期仙台藩医学館の創設と蘭方の導入
王 一 兵
はじめに 蘭学の研究史において、公権力との関係は蘭学の性格規定にもかかわる大き な問題である。蘭学の役割が医者を担い手とした生民救済の学問から、化政期 を経て幕末期になると武士層が担う封建制補強的な軍事科学技術へと転換した という見解はほぼ定着した1。以来、軍事技術化は幕末の蘭学(洋学)の主要 な位相として焦点に当てられ、幕府や特定の諸藩を重点に考察されてきた2。 このような研究状況に対し、近年は、幕末期における「在村蘭学」をめぐる実 証研究が盛んに行われ、軍事科学化と並行して地域蘭学の広がりが解明されつ つある3。 一方、通史的視点からみると、幕末期に関する膨大な研究の蓄積に対し、蘭 学が公権力へ接近し始めた化政期(1804 ∼ 1830)については、見過ごされが ちのように思われる。先行研究では、化政期の蘭学に「権力隷属化」という傾 向が指摘され、そして幕府蘭書翻訳機関の設置と蘭学者の登用がその公学化し た象徴であるとみなされた4。結果として蘭学と公儀をめぐる議論は幕府の政 策の枠内に始末された。しかしながら、蘭学の問題を藩権力との関わりで捉え る視点が欠落しており、化政期の蘭学は如何に藩政に取り込まれたのかについ て、依然として未解明な部分が残されている。 とりわけ、教育史における観点から、19 世紀初頭に「医師子弟育成のプロ セスについて、公儀とりわけ藩レベルにおいて、専門教育機関を整備し、医学 教育を制度化していくことの必要性が主張される時代へと突入した」5という 現実と相俟って、蘭学の中心をなす西洋医学が、自らの実用性を証明すること さえできなかった段階において、いかに藩の教育政策の枠組みに取り入れられ るのかに関する考察が、蘭学が体制内の学問として安定した過程を解明するに は必要とされる。その場合、公的な役についた医師=「藩医」に関して、彼ら の私的営為の代わりに、藩レベルで果たした役割への注目が求められよう。上述のような問題意識と研究状況に基づき、仙台藩という藩権力が化政期に 創設した医学館を取り上げる。逸早く発足した仙台藩の蘭学に注目し、その拠 点である藩校や医学館をめぐる山形敝一氏による先行的論考がある6。また、 『宮城県史』(11「教育」、1959 年)に仙台藩の医学教育に関する通史的整理や、 『仙台市史』(通史篇 5 近世 3、2004 年)に医学館の創設と充実に関する記載 などがみられるほか、大藤修氏『仙台藩の学問と教育』(大崎八幡宮、2009 年) や、張基善氏による仙台藩の医師研究に関する研究成果が挙げられる7。しか し医学館を対象とした研究が少なく、蘭学科の開設に関する藩儒の意見的対立 については鵜飼幸子氏の論文及び小島康敬氏による論述があるに留まる8。本 論は先学の成果を踏まえながら、今まで取り上げてこなかった仙台藩の教育政 策や藩医の役割を中心に、実証的蘭方医学を思弁的漢方医界へと導入される実 態と影響を考察したい。さらに、江戸や京都など蘭学界の動向と関連づけて検 討することによって、仙台藩を蘭学史の流れにおいて、再定位することが可能 であると考えられる。 一.医学館の改革案と外科重視 ― 大槻玄沢の建言を中心に 文化 7 年(1810)に、仙台藩の学制改革に際し、藩医を務めた大槻玄沢は 「御医師育才呈案」9(以下「呈案」と略す)において、医師を育成するため の専門教育制度を中心とした医学改革案を藩に提言している。この近世の医学 教育に関する重要な提案に注目した海原亮氏は、医業に存在する師弟関係によ る秘伝性に対して問題提起し、学問伝承の閉鎖性を打破した「呈案」に見られ る遊学制度について論述されている10。 本節では玄沢の「呈案」に現れるもう一つの重点である医学諸科ことに外科 に関する意見を中心に検討し、それが医学館に与えた影響を明らかにしたい。 「呈案」において、幕府の医学館を手本とした玄沢はまず、独立した医学教 育機関を設置し、薬園も付属させる。そのほか、「本道、外科、針治、本草者 等」11の講釈を毎月定日に行い、医学館の教育内容の多様性を掲げる。そし て、玄沢は狭隘な医学観に対し、医学諸科を平等に取り扱うことを主張する。 医業は何科にても学業勤候が基本に御座候。外科・針・眼・口科にても文 盲にては、志も不相立見識もしかと開け不申、其業も自ら手覚計りにて、 不慥之事御座候て、世に弘め人には難伝歟と奉存候。右何れも公義医学館
同様に医学館へも罷出、本道附合も仕り、業事之儀は談論融通仕度奉存 候。此雑科之輩は別て旧法家法を守り詰め、他と弘く交り芸術之論議も不 仕候故、別て片意地偏屈歟之様に相見得申候。12(句読点は筆者、下同) とあるように、外科、針治、口科、眼科は世に「雑科」と軽視される傾向に あるが、しかし玄沢はこのような偏狭の見地に反して、「医業は何科にても学 業勤候が基本」であるという開放的姿勢を取るべきであるという。また、雑科 の医師にひたすら古い家法を守る旧弊を指摘し、知見を広め議論を行うことを 求めている。周知のように中国医学を受容し形成された漢方は、「望聞問切」 の四診法を用い、外面の症状より内面の病変を察するというアプローチであ る。従来医学の本道とみなされる内科に対して、外科(「瘍科」)は「きたなき 業故」に、あまり評価されてはいなかった。内科ばかりを重んじる医学観が打 破されない限り、外科をはじめとする諸科目は十分な重視を得られないまま、 偏った医学教育が続く、というわけである。 18 世紀以降、オランダ外科書や外科医が中心の蘭館医から得られた西洋医 学の知識・情報は、長崎より江戸に伝えられ、漢方に対する解剖術などの和蘭 流外科の優位性が認識されるようになった。ここには、この時代に日進月歩し 始めていきつつあった西洋医学への認識を踏まえた議論が必要だが、この経緯 については本研究の枠組みを離れてしまうので、ここでは扱わない。ただし玄 沢が外科を重要視したのは、彼の医学修業から考えれば明白である。というの は、そもそも玄沢の地元の師建部清庵13は紅毛流外科医であり、彼の知的熱意 を受け継いだ玄沢は、後に江戸に出て「日本一流の外科建立可致」(『和蘭医事 問答』)14という蘭学者杉田玄白に入門した。蘭医学の修業の一環として、オラ ンダ外科書の翻訳・編纂に従事する経験を積み重ねていった。外科について、 玄沢は彼の訳著『瘍医新書』(寛政2年、1790)の中で以下のように述べている。 医宜ク三等ノ救治調護ノ方法ヲ施シ行フベシ。第一ハ調摂ノ良法、第二ハ 内服ノ主方、第三ハ外科ノ手術是ナリ。(中略)患人ハ恒ニ能ク其調摂ノ 良法ヲ守リ、医ハ内ヨリ妥当ノ主方ヲ用テコレヲ救ントスドモ、唯此二法 ノミニテ決シテ相及フ可タサルコトアリ。故ニ亦外科ノ巧術手法ノ補助ア リテ。ソノ加功ヲ以テセザレハ全効ヲ領シ得ヘカラサルコト尤多シ。15
とあるように、医療において手術としての外科は調摂法と内服方のつぎに利用 される補助の手段にすぎないが、「人身諸般の外患を救療するの業」16である 外科をなくして、回復の全功を遂げることが不可能であると、外科治療の不可 欠性を強調しているのである。さらに「(外科)最も貴ふべきは彼行軍陣営の 際に在」る17と述べたように、玄沢は外科の技術が行軍の場面に大いに役立 つという特徴を認識しており、文化初年の日露紛争を仙台藩と共に経験した彼 は、今後の対露軍事警衛にいかに備えるかという喫緊の課題に応えるために も、まずもって外科を習得すべきであると考えたのではなかろうか。 上述のように、玄沢は医学館の改革案に、医学諸分科に対する開明的姿勢 をとり、医学の「本道」にこだわらずに、雑科とみられる諸科も同様に敎育す るという目配りの利いた医学観をアピールしているのである。とりわけ、漢方 では忌避された刃物を用いる外科を重要視した。要するに、玄沢の「呈案」の 段階では、蘭学に関する具体的な措置が、未だ提起されていないにもかかわら ず、内・外の医道を兼修する開放的な修学環境が整えられ、蘭学の先頭を走る 解剖学が導入される前提としての第一歩が記されていたと考えられるのである。 二.医学館における蘭方の導入 ― 佐々木中沢の女体解剖例 18 世紀なかばから 19 世紀初期にかけてのロシアの南下政策の影響で、とく に露寇事件以来仙台藩は北方問題に直面せざるを得ない危機的状況に追い込ま れた。そのようななかで、すでに見てきたように仙台藩では海外情勢に目を向 けた経世家、蘭学者を輩出し、蘭学に肯定的思想環境が構築され、逸早く蘭学 を導入する下地が整えられたということができる。文化年間の学制改革時を皮 切りに、文政 4、5 年(1821、22)藩校に蘭学方を設置する運びとなった。そ れと同時に、学制改革の延長線上にある医学館の革新も、同様に蘭方の導入を 実現したのである。医学館の初代学頭渡部道可(1772-1824)は、それが設立 された当初について以下のように述べている。 歳乙亥余 承 乏藩医学督学、奉教改革学政、諸科各置教諭焉、又欲新建西 学教諭、俾之勧督瘍科事、而難其人矣、支封医官佐々木中沢、嘗游大府、 研究西学、刻苦多年、其名夙成、遂建白召中沢、授西学教諭、方今医学雖 盛乎天下、達于医校、則以吾藩為嚆矢矣、18
「乙亥」の年、すなわち文化 12 年(1815)、医学館の藩校からの独立が実現 され、運営に関する教員の任命や教育内容の決定が議題となる。初代医学頭 に任じられた道可は漢方医でありながら、蘭学に深い理解を示し、医学館に おける西洋医学の講釈を企画していた。しかし西洋医学の担当に務める適任 者はなかなかおらず、そこで、蘭学者佐々木中沢(1790-1846)が師大槻玄沢 と奥医師桂川甫賢(国寧)との推薦によって一関藩から抜擢された。文政 5 年(1822)、中沢が仙台藩に赴任するにあたって、玄沢の長男で同じく蘭学を 学ぶ玄幹が送別の序文を寄せている(「送佐々木中沢序」)。玄幹の叙述による と、中沢は同 12 年より玄沢の蘭学塾である芝蘭堂に入り、当時一流の蘭社・ 儒流と広く交友し、数多くの蘭書の翻訳・校正に務めていた。仙台藩に抜擢さ れるまで、7 年間の蘭学修業を経て優れた業績を積み上げたゆえに、「中沢之名、 籍々馳於我党中、人有数都下西洋学生者、必先屈指於中沢云」19ほど、江戸蘭 学界においてよく知られる存在となったのである20。 時に、蘭学者杉田玄白・前野良沢らによって翻訳された西洋解剖書『解体新 書』(安永 3 年、1774)の刊行を契機に興隆した蘭学は、化政期になると全国 的に普及してきたが、公的医学教育においては伝統的漢方が主導的地位を手放 さずにいた。臨床上で蘭方の優位性を実証できなかった蘭学者たちは、彼らの 学問を専門外の人々に、とりわけ漢方医界へと浸透させるために、まず解剖学 の説明力と視覚力21を借りてそれをアピールしようとした。 仙台藩では逸早く西洋解剖に取り掛かった例が見られる。それは寛政 10 年 (1800)に蘭方医木村寿禎によって行われたのである。この実践は「我が邦に て和蘭医方を以て解剖を為す者は、杉田玄白を以て嚆矢と為す。之に次ぐ者は 先生なり」と後世まで伝わっており、そして刑死者のために建てた蘭語の供養 碑が残されている22。 それに次いで、中沢が着任したこの年の 6 月に、学頭道可の指揮のもとに仙 台藩北郊で女体解剖が行われた。中沢は女尸の解剖を観察した記録を『存真図 腋』(文政 5 年、1822)一書としてまとめた。以下、『存真図腋』の内容に基づ いて、解剖の意図や実態を明らかにする。まず中沢の記述によって婦人治療の 必要性とその現状をみてみよう。 原夫婦人内景本與男子無異。其異於男子者、惟陰具連属諸器及乳不相同 耳。夫形器既有所不同、則疾病亦有所異。不可不明辨焉。(中略)親徴于
解剖十餘度、得略識性命存活之常機、而暁百病変動之所由焉。但婦人刑屍 絶少、未得親徴於其真、故其操術臨病、亦未免隔一層存疑費思者、不翅数 年矣。23 とあるように、婦人の身体と男子のそれと異なる部分について、それぞれ患う 病気も異なってくることを理解したうえで、婦人科治療の前提としてその相 違を解明しなければならないと、中沢は考える。しかし、圧倒的に多く行われ た男屍体の解剖に比べ、女刑屍のそれはごく希少である。自ら十数回の解剖に 参加した中沢でさえ、女性の身体構造を解明する機会に恵まれず、それが故に 婦人の治療に臨んだときの疑問が解けないまま、数年間も経ってしまった遺憾 を、述懐している。 その頃、淀藩の藩医南小柿寧一(1785-1825)による『解剖存真図』(文政 2 年、1819、以下『存真図』と略す)という、40 体以上の男、女屍体の解剖例に 基づいて、一臓一腑を写実的に描かれた 87 図からなる解剖図が蘭学界に知られ ている。中沢は師玄沢とともに、『存真図』の精巧緻密を激賞して跋文を寄せて いた。しかしながら、中沢は『存真図』にまだ不完備であった婦人の解剖図を より明確にすることを期し、自らまとめた解剖記録を『存真図腋』と名付けた のである。 この解剖が実践された時期は真夏の 6 月であるゆえ、「方今溽暑若燬屍之不 敗僅可保一日」と、蒸し暑い天気で屍体の保存に懸念を抱いた道可は、「如欲 解観全躯一物詳悉恐不可得」「宜専究盡其異於男子者而止尓」と、完全なる解 剖は無理があるから男女の異なる部分にのみ集中して解剖を施すように、中沢 にアドバイスしたのである24。道可にはかつて解剖に参与した記録が見当たら ないが、ここまで考慮できたことは、今回の解剖実践に先立つ研鑽があったこ との現れではなかろうか。記録によると、解剖に当たった参加者には、剖手 6 人(篤好細心の者を選んで)、磨刀手 2 人、写真手 2 人、照図譜者 1 人、徴訳 説者 1 人となる。また、下の表に示されたように使われる用具は十数種類に数 える。それぞれの用途については、以下の表にまとめられた通りである。まだ 系統性に欠けているといわざるを得ないが、竹管や水銃、また消息子、顕微鏡 などの用具が揃えられているところから、個々の臓器を観察(=「観臓」)す ることが解剖実践の主な目的であろう。 中沢による実践の独自性は、解剖されたのが女屍体であったからではなく、
はじめて男女の身体構造の区別を意図的に究明することで、婦人のための医療 に更なる進歩を促すことを目的とする点にあるのである。これまでの解剖学に 不十分だった知識、すなわち婦人の生殖器構造を究明したのみならず、従来の 蘭学者に見られる書物にたよる実証方法を打破し、実際の解剖実験に踏み切っ たことに重要な意味を持つ。中沢はこの解剖例を通じて、「前之存疑費思以為 隔一層者、乃今而後了然可知」25と述べ、医学の一大出来事であると評価する のである。しかしこの解剖の成果である『存真図腋』に対して、仙台藩の漢方 医師たちから反対の声が上がったのである26。 三.解剖の術をめぐる漢蘭の論争 ― 仙台藩から江戸へ 学頭の渡部道可は『存真図腋』に寄せた序文に、人身解剖の正当性を論じて いる。道可によれば「西洋医家以究人身内景為先務」と述べながら、漢方の 経典たる『黄帝内経霊枢』にある「若夫八尺之士皮肉在此。外可度量切循而得 之。其死可解剖而視之」という典拠を取り上げ、解剖学は本来中国に由来した ものであり、ただ後世陰陽五行説の盛行により失われたと、解剖術の正統性を 根拠づけている。 しかし、道可の序文を目にして、その論説を強く批判した人物に漢方藩医で ある河野杏庵27(1794-1849)がいた。杏庵は道可の主張に賛同できず、道可 表 文政 5 年仙台藩北郊女体解剖用具一覧 用具名 用途説明 盤 載屍 剃刀 大小数種、割皮截肉断筋決膜一切用之極便 屠刀、剪刀、鉗 以上三種其用頗愽 鋸 截骨 竹管 大小数種、為吹膀胱及脈管者 水銃 大小数種、為注射各色水液於脈管 消息子 導脈管 楮皮紙 拭乾水湿揩浄汚物 尺 測諸器之長短 顕微鏡 照其質極繊微肉眼不可辨者 筒袖厰衣 剖手衣上着之以防膏血汚点 石脂、砥 磨浄刀 澡盤 記載なし 自餘器具係解析頭胸者、今皆欠之 佐々木中沢『存真図腋』により作成
宛の手紙を書いて、所謂解剖正統論を断固として否定している(「与本藩医学 総督確斎渡辺先生論解剖存真図腋序書」)。手紙の中で杏庵はまず「霊枢が云う ところの如し、蓋し一時の仮説の言なり。西洋の解剖と大いに異な」28ると、 西洋の解剖術と漢医学のそれとはまったく別物であり、両者を混同してはなら ないことを指摘する。さらに「解剖これ漢土より出づるにあらず」という反対 意見を何度も繰り返した。以下、その持論を摘出して引用する。 吾医之道果在解剖。則初学之士当先講究者。莫急於此。尤宜首揭其法而昭 示之。而内経之言如此。其為假設也亦何疑焉。由此而言。解剖之不出乎漢 土亦明矣。況雖古之名医如和緩扁鵲倉公仲景之流。未嘗講解剖乎。不唯未 嘗講。又未嘗一語及此乎。又矧解剖者仁人君子之所不忍為。而謂聖如黄岐 而敢為之乎。29 引用文から杏庵の論点をまとめてみると、第一に、(漢方の)医学者が具体 的に解剖を講究して後世に対して明示した記録は見当たらない。第二に、古代 の名医(和緩・扁鵲・倉公・仲景―筆者注)は誰ひとり解剖について言及し ていない。その第三に、人体の解剖という残酷な行為は仁人君子の耐え難いこ とであり、黄帝・岐伯のような聖人に認められるはずがないと、三つの理由が 挙げられる。さらに手紙の続きを読むと、「医論人身藏脈之理亦皆莫不由於五 行」30とあるように、杏庵は医師として人身の原理を論じるには五行説によら ないものはないとし、古代の名医たちも五行説によって医業を行ったことを強 調する。よって医学の根本をなしたこの五行説を否定しようとする道可一派を 猛烈に非難したのである。 この論争は後にさらなる拡大をみせ、仙台藩地域を越えて、江戸の漢学者ま で論争に加わった。たとえば儒学者である松崎慊堂(1771-1844)は、かつて 中沢に漢学を教えた師の一人ではあったが、同じく漢学派の河野杏庵に同意し た。「古之神医誠仁」31と考える慊堂によると、古代から伝えられてきた望、 聞、問、切の四診という伝統的診断法を伝承・活用させ、それで人体を解剖す るような残酷なやりかたを回避すべきであると論じる。また、慊堂の交遊日記 『慊堂日暦』(弘化元年、1844)の文政 8 年(1825)5 月 24 日条には、この論 争について以下のような記述が残されている。
余は杏菴が洋医解剖を弁ずる書を読み、以為えらく、持論は醇正にして、 弁鋒は甚だ鋭し。(中略)この学識を用いて以て医術を御せば、その道の 行なわるることは孰か禦がん。然れども世はまさに糞壌をとって以て幃に 充て、申椒それ芳しからずと謂う。すなわち杏菴が他日学のなる時、また 我が起卿の如く、才を抱いて隠れんこと、未だ知るべからざるなり。32 ここでいう「洋医解剖を弁ずる書」とは、つまり前述した杏庵の反論書を指 す。慊堂によれば、杏庵の持論は鋭く純正なる朱子学に基づいた意見であると 評価すべきであり、その学識をもって医術を操れば、誰もその医道を妨げるこ とができないのに、当時の世間に認めてもらえないと、不遇の心境を感嘆する のである。しかしその反面には、蘭学が勢いよく医学界に普及したことが窺え るのである。 そのほか、幕府医官を務めた漢方医多紀元堅(1795-1857)も杏庵の論説に賛 成し、蘭方に否定的意見を表した。元堅は、当今に医道が西洋にあるというよう な「異説」が盛んになったが、それは医者が真理を極めることに専念しないから 生じた問題であり、医者として惑わされてはならないと戒めた。結局『存真図 腋』は公表されず、版下のみで保管されたのは、幕府多紀家の排斥に関連すると 思われる。 解剖に対する非難の声を概していえば、主に「謬妄不仁」あるいは「按図索 驥」といった点に向けられ、すなわち「医は仁術」「医者意也」という漢方医の いだく伝統的倫理観によって裏付けられている。例をあげるまでもないが、江戸 後期の日本において、これらのフレーズは漢方医の間にかなり広まっていたの である。新しい学問として、蘭学は化政期になると全盛期を迎えたとはいえ、 伝統的漢方が主導した公的医学敎育機関へと浸透する際には、漢方を基軸として 自らを位置づけようと模索していたのである。昌平黌を通じて儒学と洋学の関係 を考察した梅澤秀夫氏は、蘭学によって得られた新知見を「その世界観の内に取 り込み、またその学問の現実の政治に対する有効性を高めようとする流れが存在 する」一方、「蘭学による新知見に反感を持つものもいる」から、両者は共存し ているように見えると論じたように33、仙台藩医学館において、蘭学を伝統医学 のさらなる進展へとつながるものとして認識したものもいるし、従来の学問を破 壊する異学とみて排斥しようとしたものもいる。ただ人命を扱う医学の分野だけ に、その拮抗はさらなる激しさを見せたわけである。仙台藩医学館の論争よりわ
ずか 2 年後に、学頭道可が没し、医学館の教授らが離職し、仙台藩における西洋 医学隆盛の気運は一時的に衰退してきたのである。これは、蘭学が公教育の枠組 みに取り入れるには、時期尚早であったのだと考えられる。 勿論、漢・蘭を見分ける根拠としての処方・用薬に関して、両者の混在がみ られる34。漢方医の中にも西洋解剖学の重要性に理解を示した者もいるから、 漢方と蘭方との間に明確な一線を書くには困難がある。しかし、そこには、医 理に拠るか否か、という根本的な違いが存在すると考えられる。次節では、玄 白より玄沢、中沢への学統を追い、「内景は医道の根元」という論理は如何に 展開されたのかを明らかにする。 四.「内景」をめぐる蘭学者の医理説 周知のように、日本の蘭学の「事始」は医学の分野であり、杉田玄白、前野 良沢らによる西洋の解剖書『解体新書』(安永 3 年、1774)の訳出を嚆矢とす る。同書の翻訳が企画された契機は、周知のように彼らが明和 8 年 (1771) に 小塚原での腑分けに立ち会い、手元の西洋医学書の精確さ(実証性)からイン パクトを受け、伝統の漢方医学に対する西洋医学の優位性を認識したことであ る。それが故に、杉田玄白は「内景は医道の根元」35という結論を提示し、そ の学統を通じて、弟子大槻玄沢をはじめ蘭学者たちに継承された。『解体新書』 の流布と相まって、江戸は翻訳医学のメッカとなった。しかし、日本初の人体 解剖は、京都の古方派医師である山脇東洋が、従来の五臓六腑説を検証するた めに行っていたのである。江戸と比べ保守的な京都が先に「近代医学の中核、 <解剖>を解禁した」背景には、異文化受容の態度と方法が指摘される36。「観 臓」を通して蘭書の正確性を実証しえた杉田玄白は、山脇東洋の試みを「唯茫 洋として見分給ず」37といい、内臓を一つ一つ正確に弁別しない軽率さを批判 している。 杉本つとむ氏は解剖と実証について、玄白ら蘭学者の志とは「西書の解剖図 と実物との一致を確認すること」ひいては蘭学の正しさ=自分たちの正統性を 傍証することであり、一方で山脇東洋ら古方医の意図は「解剖により病気の原 因をつきとめること」であったと示唆し、蘭書の先進的成果を借用した玄白に は、東洋を批判する資格がないと論じている38。勿論、当初から「訳」の学問 として興隆した蘭学は、親試実験よりも蘭書に依存する学問的性格がゆえに、 既存した成果にとらわれ、そこにあった誤りや不足を見逃してしまう可能性が
否めない。そのため、彼らは西洋解剖学をもって実測窮理の精神を通貫させた のである。玄白は医学の基礎に解剖学があるという階層構造を看破し、そして まだ解剖学の実用性を証明することのできない当時の状況において、その認識 が研究プログラムとしての有効性を機能させた39と評価されたように、玄白は 現実的制限を超えた論理的認識を彼の学統を通じて広めたのである。思うに、 玄白による東洋への批判はその解剖が皮相だったからではなく、人身の構造を (通じて医理を)究めることを怠ったところにあり、東洋の窮理的精神の浅薄 さに遺憾を抱いていると考えられる。それについて以下に見てゆきたい。 (一)杉田玄白の「方法説」 玄白は『狂医之言』(安永 4 年、1775)において漢方の欠点を以下のように 指摘している。 支那の書に方ありて法なきなり。法なきにあらざるも、法となす所以のも の明らかならず。その法たるや、人々の好むところに阿り、説を設け論を なし、立てて以て法となすなり。40 というのは、漢方医書において「方」のみが重視され、「法」が成り立って いないのである。にもかかわらず、都合よくこじつけて「法」を立てようとす る。「方」と「法」とは何か。玄白によれば「その症を明らかにするものは法 (医理)」であり、「その病を治するものは方(処方)」である。「方」「法」は 両立しなくてはならない。医理不明によってもたらされた弊害とは、医学経典 に対する疑問を解決できない窮境や、患者に病名を明確に伝えず治療法を特定 できないようなことであり、医者にとって極めて致命的な問題である。故に、 「法方明らかならざれば、医と称するに足らざるなり」41と、玄白は医理の不 可欠さを明言している。 さらに、玄白は『形影夜話』(享和 2 年、1802)に、漢・蘭医学の相違を理 解した上で、医理を軍理にたとえてその重要性を強調する。肝心な議論である から以下で引用する。 予め形体を究るは所謂兵家の孫呉と同じ事なるべし。孫呉を知らざれば軍 理は立ぬものと聞き及べり。医も形体に詳ならざれば、医理は立ざる事と
知らる。(中略)漢土の医者、悉く治療の拙にはあらず。又其書悉く廃す べきにはあらず。蓋漢医は孫呉を知らざる軍師の如くにて、(中略)戦闘 は能くなせども軍理に疎きがゆえ、勝事ありても毎に危き勝軍といふべき に似たり。42 医者が人身を究明することは、兵家が孫呉を知ることと同様であり、孫呉を 知らないと軍理は立たないし、人身を知らないと医理も立たないのである。漢 方は経験的事実の上に成り立つ医学である。医理に疎ましい漢方医は軍理を知 らない軍師のように、安定した結果を得ることができない。したがって、医者 は人身を究めることこそ医理を立てる前提であると断言するのである。 (二)大槻玄沢の「知理説」 師玄白の医学思想を継承した玄沢は、医学館の教育改革に際し、外科を技術 のみならず「知理学」の一つとみなし重要視すべきであると主張する。では、 玄沢にとって「知理学」とは何か、外科が知理学に属すると判断した根拠は何 か、以下の史料から検討する。 又此科ヲ一箇の技術ノ学、一箇ノ知理ノ学ト名ツク。(中略)先ツ何ニヲ 以テ、コレヲ一箇ノ知理学ト為ストナレハ、凡ソ此業ハ従来、唯技巧手術 ノミヲ以テ、大約ヲ領シテ、時宜ノ便用トナスト雖モ、抑其科ノ由テ起ル 所ノ究理格知ノ本原ニ就テ、善ク其淵源スル所ヲ考ヘ、漸ク精熟明審スル ニ非レハ、其閫奥ニ入リ難キノ要術ナルヲ以テ、斯ク(「知理学」と)称 スルナリ。43 注に示したように玄沢の用いる「知 理 学44」という言葉は、オランダ語 wetenschapの訳語であり、本来は「学問」を意味する。玄沢があえてそれを 「窮理格知」として解釈したことは、その科学としての性格を強調するために 他ならない。科学の本原について究めなければ、真理に達することができない と玄沢は考えているのである。 もしも知理学の講究を怠ると如何なることが生じるのかについて、玄沢は 「事ニ臨メル時、毎トニ自ラ窮窘シ動モスレハ、患者ヲシテ更ニ一患ヲ受ケ、 誤治セシムルニ至ル」45と論じる。つまり外科の本原(医理)をよく知らない者
は、救治に臨んで種々さまざまな病症に対応しきれず、過ちを犯すことが多い と述べているのである。医理は「常」であり、病症は「変」である。常の医理 を用いて病の多変に応じることこそ、真の医道であるという考えが窺えよう。 (三)佐々木中沢の「得法説」 さらに、玄沢の弟子佐々木中沢について、『大槻玄幹文集』に収録された一 編「解剖存真図序」(文政 2 年、1819)を用いて、彼の考える医理を知ること の意味をみてみよう。中沢は、「夫天下之事、得其法則不数年而成。苟不得其 法。則雖百世不成也。凡術莫不然。如解剖之学又其尤者也」46という論点を明 言している。ここにいう「法」は「理」、即ち本原、医理と解して間違いなか ろう。つまり、全ての物事について、その理を明白にすれば到達できるが、そ の理が不明なままではいくら時間を費やしても無益なのである。 そして、中沢は「得其法」「不得其法」の事例として、それぞれ山脇東洋の 解剖と、玄白の蘭書の訳業を挙げて論じている。東洋の解剖実践は結局旧説に 囚われ、真理の解明に達していない「隔靴掻痒」47のため、「不得其法」の事 例といわざるを得ないと非難する一方で、西洋解剖の図譜を訳出し、「世始得 聞実測之説」48と、西洋の解剖学の成果を普及させる玄白の果たした役割を評 価している。 このように蘭学者杉田玄白―大槻玄沢―佐々木中沢の師弟関係の線に沿って 考察すれば、蘭学の発達にともない、「医理」の思想的伝承及び段階的特徴が みられる。 以上に検討してきたように、解剖をめぐる論争をそれぞれの側で裏付ける思 想的根拠として、漢方は「医意」を重視するのに対して、蘭方は「医理」を前 提とみることがある。無論、医学の進歩につれ病因中心の西洋医学に対する漢 方の病状観察による治療本位の利点が客観的に評価されるようになったが、当 時の状況において、医理不明のまま治療に取り組むことのもたらす弊害が明ら かに大きかったと考えられる。これが玄白とその後継人が全力を尽くして解剖 学の必要不可欠さを論じた所以である。 結 び 以上、本論では医学教育が制度化される中で、仙台藩の医学館における蘭学 の導入をめぐる藩の敎育政策や漢方・蘭方藩医の働きに着目し考察することに
よって、近世の公教育において、実証的蘭方医学を思弁的漢方医界の中へと投 げ込んだ実態の一端を描出することを試みた。 学問としての蘭学が地域的・階層的・内容的に成熟した化政期において、仙 台藩は蘭学の受容に熱意をみせ、幕府・諸藩に先んじて日本の蘭学普及の流れ に乗ることを試みたのである。正式に蘭方を取り入れる前提として、江戸蘭学 界の中心的人物かつ仙台藩医大槻玄沢が学制改革に際して行った、内科にこだ わらずに外科・雑科を同様に教育すべきという提言によって、医学館は開明的 な修業環境が整えられたと考えられる。殊に蘭方と緊密に関わる外科が重要視 されていた。蘭学の才に恵まれた玄沢の高弟、佐々木中沢が新たに設置された 医学館の教授に登用され、講座の開設や解剖の実践などによって、蘭医学教育 を本格的に取り入れたことがわかる。 しかし医学館にこれほど大きな変化が及ぶにあたって、ここでも大きな抵抗 が生じたことはいうまでもない。とりわけオランダ解剖学をめぐる反論が相 次いだのである。漢方のいう「内景」「内相」を外側に出す、すなわち「内か ら外へ」の西洋解剖学の普及によって、従来外の症状を診察することを通じて 内側の病因を察するという「外から内へ」の伝統的な漢方の治療法に衝撃が与 えられた。「医意」を唱えた漢方医からみれば、医理を心で体得し、病気を四 診法で対処するのが当たり前のことであり、体を切り開くことはその念頭にな かったのである。これに対し、蘭学者は実証・窮理を不可欠と認識し、医学の 本源を究めるには人身を解剖することがよほど直截的であると気づいていた。 蘭学を草創した玄白より隆興、爛熟期に生きた玄沢、そして中沢へ、蘭学の世 界観に内蔵された実証・窮理の精神が伝えられたのである。 西洋の解剖図譜の精確さによるインパクトから、解剖学における蘭方の優位 性を先駆的に認識しえた杉田玄白が「内景は医道の根源」と唱えて以来、解 剖することこそ医業の第一歩であるという方法論は蘭学者の間で共有されてい た。玄白の学統を継受した玄沢・中沢は、解剖学に根拠つけられた蘭学の実証 性をもって、漢方の狭隘的学問観、伝統的倫理観へ挑戦し、蘭方を思弁的漢方 医界へと浸透させるあり様を提示した。これは今まで十分に検討されてこな かった、解剖学の蘭方家以外の人々への浸透問題に対する一つの答えになろ う。さらに、教育史的視野から蘭学の受容を考える際、軍事科学化の特徴を顕 した幕末の洋学に注目が集まる研究の現状に対し、仙台藩の蘭学導入を明らか にすることによって、化政期における蘭学の動向の提示、および蘭学教育史の
全体像への解明に寄与することができよう。 数多くの人体解剖がされた時代にあって、仙台藩で行われた女体の解剖は過 小に評価されがちである。しかし、この解剖を契機として江戸における解剖 学上の知識がより完備されたのみならず、実証的蘭学が思弁的漢方に立ち向か うことで、仙台藩内においては、藩主の蘭学趣味や藩士の蘭学修業など個人的 レベルの受容を超えた、本格的な公教育への蘭学導入が現実に移されたのであ る。これは、安永 3 年(1774)『解体新書』の刊行による蘭学の興隆と、文化 8 年(1811)幕府における蘭学翻訳機関の設立と蘭学者の登用に比肩する蘭学 史におけるもう一つの里程標になる出来事であるということができるのではあ るまいか。 ただし、かつて玄沢は「即匹夫而有志者、亦非託公侯之力、則不能自達也」 (『遠西草木譜』序)と明言したように、蘭学の志を果たすには、それに対し 理解のある権力者の後援がどうしても必要とされる。仙台藩の場合、蘭学勃興 期から人的・知的伝統があったが、藩校に蘭学敎育を実現するにはやはり開明 的な後ろ盾を欠けてはなるまい。そのことに関する詳しい論述は別稿に譲りた い。 注 1 佐藤昌介「国際的環境と洋学の軍事科学化」(中山茂編『幕末の洋学』ミネルヴァ 書房、1984 年)、15-50 頁。 2 岩本和恵「幕末維新期の盛岡藩と大島惣左衛門―「御国益」をめぐる洋学の歴史的 位置―」(浪川健治、小島康敬編『近世日本の言説と「知」―地域社会の変容をめ ぐる思想と意識』清文堂、2013 年)、171-202 頁、小川亜弥子『幕末期長州藩洋学 史の研究』(思文閣、1998 年)、同「松島剛蔵と洋学−長州藩洋学者が歩んだ尊皇攘 夷派への道−」(『洋学』23、2016 年)、27-57 頁、竹本知行『幕末・維新の西洋兵 学と近代軍制―大村益次郎とその継承者』(思文閣、2014 年)など。 3 田崎哲郎『在村の蘭学』(名著出版、1985 年)、同編『在村蘭学の展開』(思文閣、 1992 年)、青木歳幸『在村蘭学の研究』(思文閣、1998 年)、同「蘭学における中央 と地方」(荒野泰典他編『近世的世界の成熟』吉川弘文館、2010 年)、251-262 頁など。 4 佐藤昌介『洋学史研究序説』(岩波書店、1964 年)、117-123 頁。 5 海原亮「江戸時代の医学教育」(坂井建雄編『日本医学教育史』東北大学出版会、 2012 年)、9 頁を参照。 6 山形敝一氏によって、仙台郷土研究会編雑誌『仙台郷土研究』に掲載された諸論文 に、「養賢堂の沿革とその洋学の発達一・二」(15-10、1946 年)14-18 頁、21-31 頁、
「仙台藩医学館における洋学上・下」(『仙台郷土研究』16-3、1947 年)、3-10 頁、(『仙 台郷土研究』16-4、同年)、7-13 頁などがある。 7 張基善「仙台藩における諸医師とその把握・動員」『歴史』109、2007 年、79-108 頁。 8 鵜飼幸子「養賢堂の学制改革について―桜田欽斎・志村篤治の反論を中心に」(『仙 台市博物館調査研究報告』2、1981 年)、1-9 頁。小島康敬「桜田虎門の思想―時勢・ 学問・学校論を中心に」(前掲書『近世日本の言説と「知」』、2013 年)、136-170 頁。 9 大槻玄沢「御医師育才呈案」(大槻茂雄『磐水存響』坤、大槻茂雄刊、1912 年)、 1-19 頁。 10 海原「江戸時代の医学教育」、16 頁。 11 諸科目のテキストとして、「(内科は)内経、難経、傷寒論等之諸書、外科は瘍科準 縄、外科正宗、針治は十四経並経引の会、又本草者は本草綱目」と記載される。 12 大槻『磐水存響』坤、13 頁。 13 建部清庵は外科を含むオランダ医学に対する深い関心が、蘭学者杉田玄白との往復 書簡の中から現れてくる。それらの書簡は後に『和蘭医事問答』としてまとめら れ、寛政7年(1795)に刊行された。 14 沼田次郎、他校注『洋学』上(日本思想大系 64、岩波書店、1976 年)、203 頁。 15 大槻玄沢『瘍医新書』(文政 8 年、1825 刊)、京都大学附属図書館所蔵富士川文庫 ヨ/14、巻之一、1 丁ウ-2 丁ウ。 16 同上、4 丁オ 17 同上、3 丁オ。 18 大槻玄沢訳・佐佐木中沢増訳・鳥田通奐参校『増訳八刺精要』(文政 8 年、1825)、 京都大学吉田南総合図書館蔵、3 丁オ。 19 大槻文彦編『大槻玄幹文集』(成立年不詳)、早稲田大学図書館所蔵、9 丁オ。 20 幕府の若年寄であり仙台藩の後見人である堀田正敦の命によって玄沢らが翻訳に当 たった『厚生新編』は、仙台藩に秘かに送られ、『生計纂要』の名を付して秘蔵さ れた。その葡萄酒の製造にかかる部分には異常なほどの手沢が見られるが、それは 中沢がワインの製造を試みたことによる。 21 吉田忠「蘭学と解剖」(『日本思想史学』18、1986 年)、64-65 頁を参照。「記述科学 としての解剖学は、コミュニケーションの場では、解剖図のもつ視覚的パワーによ り、補強されている」と指摘されたように、解剖学のもつ説明力と視覚力こそ、解 剖学における伝統医学に対する西洋医学の圧倒的優位という認識へ導いたのであ る、と考えられる。 22 阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』(丸善出版サービスセ ンター、2010 年)、3-5 頁を参照。 23 佐々木中沢『存真図腋』(文政 5 年、1822)、東北大学附属図書館医学分館所蔵、13 丁ウ。
24 同上、14 丁オ。 25 同上、15 丁ウ‒16 丁オ。 26 この論争の関連史料に渡部道可の子孫道甫によってまとめられた『五大家医論』は 東北大学付属図書館医学分館の所蔵となっている。 27 文政 7 年(1824)、河野杏庵は医学館二代学頭奥村玄安の任命と同時に副学頭とな り、さらに天保 4 年(1833)玄安の辞任後に三代学頭となった。 28 河野杏庵『先君子遺稿』(文政 5 年、1822)、東北大学附属図書館狩野文庫蔵、2 丁オ。 29 同上、4 丁ウ。 30 同上、3 丁オ。 31 渡部『五大家医論』、11 丁オ−ウ。 32 松崎慊堂著・山田琢訳『慊堂日暦』1(平凡社、1970 年)、230 頁。 33 梅澤秀夫「昌平黌の朱子学と洋学についての一考察」(『洋学』19・20、2011 年)、 133-145 頁。 34 吉田忠「「在村蘭学」再考」(『洋学』21、2013 年)、53-57 頁を参照。 35 沼田、他校注『洋学』上、206 頁。 36 杉本つとむ『江戸の阿蘭陀流医師』(早稲田大学出版部、2002年)、349-351頁を参照。 37 沼田、他校注『洋学』上、262 頁。 38 杉本『江戸の阿蘭陀流医師』、40-41 頁。 39 吉田忠「蘭学と伝統科学」(『伝統と異端―天皇・天・神―』角川書店、1991 年)、 452 頁、同「近世日本の科学思想」(『日本思想史講座』3、ぺりかん社、2012 年)、 312 頁。 40 沼田、他校注『洋学』上、234 頁。 41 同上、236 頁。 42 同上、264 頁。 43 大槻『瘍医新書』1、5 丁オ−ウ。 44 蘭語のwetenschapまたはドイツ語のWissenschaftにあたり、科学や学問を指す。 45 同上、5 丁ウ− 6 丁オ。 46 大槻編『大槻玄幹文集』、5 丁オ。 47 同上、5 丁ウ。 48 同上、6 丁オ。
The Establish of Sendai Domain Medical School and
Introduction of Western Medicine
Yibing WANG
The main subject in this paper is to clarify the facts of practical Western Medicine thrown into Empirical Chinese Medicine within public education in late Edo Period, focusing on Introduction of Western Medicine of Sendai Domain Medical School.
In the processes of Rangaku prospering, including the military force in the North, Sendai Domain intended to intraduct Western Medicine with enthusiasm. As a premise for the separation of Medical School, the famous Rangakusha (scholars of Dutch studies), Ōstuki Gentaku proposed a new plan for Medical Education, which including surgery and other fields. It turns to be an important step leading to an enlightened environment. Besides, Sasaki Tyutaku, an apprentice of Gentaku was promoted to be the professor of Dutch Medicine. Sasaki put a western anatomy of a female corpse into practice, with Principal Watanabe in charge, which made an impact to the traditional medicine world. Because it seemed to be totally against the Truth of Medicine (医意) advocated in Chinese medical treatment, which always care from outside to treat inside. Which is, the main arguing point of the argument arose between Chinese and Dutch physician, not only in Sendai Domain, but also in the capital city, Edo.
The superiority in Dutch anatomy has been realized by Sugita Genpaku, the primer of translation western anatomy book named , which is passed from generation to generation. The practice of western anatomy in Sendai Domain Medical School is conducted by those who followed the instruction of Genpaku, showed defiance toward tradition. It could be evaluated as a milestone in the process of introduction of Western Medicine into public education.