1.は じ め に
ある個人的な経験から話を始めたい.一年ほど前,翻 訳会社でアメリカ製オンラインゲームを翻訳するアルバ イトをしていた私は,数時間後に迫った締切りに冷や汗 をかきながら翻訳校正用のソフトを操作していた. 翻訳を仕上げる際に必ず使うよう上司に指示されたそ のソフトは,私の作成した翻訳文に数百個のエラーがあ ると指摘している.だが,その大半は,数字が正しく訳 されていない(Ex.「10」をところどころ「十」と訳し ている),訳語が統一されていない(Ex.「order」を「注文」 と「順番」で訳し分けている),違う原語に同じ訳語が 使われている(Ex.「Objective」と「Objectives」をど ちらも「目的」と訳している)といった意味のない指摘 である. 文脈に応じて適切な訳語を選び自然な翻訳をつくろう としてきた私の努力が,文脈を考慮しないソフトによっ て打ち砕かれる.もちろん私が気付かなかったミスを指 摘している箇所もあるし,ソフトのエラー評価の少なさ が完成品の質を保証するため,すべての指摘を無視する わけにもいかない.十数個の有意な情報を得るために数 百のエラーリストに目を通し,ソフトがミスと認識でき ないように語彙ファイルを修正するといった姑息な手段 も使い,朦朧とする頭とマウスホイールをフル回転させ ながら私は作業を進めていった. 以上の経験が示しているように,より高度で複雑な知 的作業を担うようになってきた現代のコンピュータ(ソ フトウェア)は,便利な道具という範疇を超え,齟齬を 伴いながらも人間と協働するパートナーとしての存在感 を増しつつある.近年スマートフォンを有名俳優が演じ るテレビ CM が人気を博しているが,こうした擬人化に さほどの違和感がないのも,実際のスマートフォンが音 声言語の認識・出力や文字入力補助などの知的な機能を 備えてきたからだと考えられる.ネット上の検索やメー ルの作成において,私たちは自らの入力に対するソフト の反応(検索文字列候補や漢字変換候補の提案)を踏ま えて行為する(検索ワードを入力し,漢字変換を確定す る)ことに慣れ親しみつつある.最初に想定したものと は違う検索ワードを提案され興味をもつこともあれば, 入力補助機能によって自分の語彙になかった語り口の文 章がつくられることもある.このような一連の過程にお いて,機械は,自らの意図を実現するための道具である 以上に,齟齬やすれ違いを伴いながらも対話し協働する 相手として現れている. こうした協働型・対話型技術の一般的普及は,既存 のテクノロジー観に大きな変化を迫るものともなってい る.生活の隅々にさまざまな科学技術が浸透していった 20世紀において,テクノロジーをめぐる捉え方は主に 「人間の意思や欲望を実現するための便利な道具」とい う楽観的なイメージと「人間的な生活を圧迫し変容させ る自律的な機械」という悲観的なイメージに二分されて きた.人間に支配される単なる道具か,あるいは人間を 支配する自律的なモンスターか.対立する二つのイメー ジは,人文社会科学系の技術研究においてはテクノロ ジーの「社会構成主義(非自律説,道具説)」と「本質 主義(自律説,自立的存在説)」の共存という形で現れ [宮武 00],映画やマンガなどのフィクションにおいては, 技術の進歩が人間の生活を輝かしいものとするユートピ アの物語と,AI やロボットが人間に反逆し人間を支配 するディストピアの物語の共存という形で現れている. テクノロジーに対する支配・被支配の図式は,工場自 動化や産業ロボットなど,労働を代替する機械の普及に よっても支えられてきた.自動機械の浸透によって人間 が働く必要がなくなるという,チャペックの戯曲「ロボッ ト(R・U・R)」(1920 年)以来繰り返し提示されてき た未来予想図は,実際の自動化の進行においては実現さ れていない.むしろ,単純な労働を代替する機械によっ て,人々の労働はより複雑で知的な管理業務へと変化し てきた.労働を代替する機械は新たに登場した際には人人間と機械の不調和に満ちた未来に向けて
─将棋電王戦から考える─
For the Future of Man Machine Interferences
─ Consideration from Syogi Den-ousen ─
久保 明教
一橋大学大学院社会学研究科Akinori Kubo Faculty of Social Sciences, Hitotsubashi University. [email protected]
Keywords:
computer shogi, game with perfect information, frame problem, symbol grounding problem, narrative. 「人工知能技術が浸透する社会を考える」間の職を奪う存在となるが,両者が担当する作業の振分 けが完了した後では人間が操る単なる道具でしかなくな る.言い換えれば,通常は人間の制御下におかれる機械 が,あるタイミングでは人間を労働から排除する存在に なる.こうした長期的な担当作業の再編が,テクノロジー との関係を支配するか/されるかのいずれかで捉える見 方を支えてきたのである. しかしながら,21 世紀の現在,私たちの身の回りに あるさまざまな機械との関係は,長期的な担当作業の再 編という観点では捉えきれないものになっている.とり わけ,大半の知的な作業に関わるようになってきたコン ピュータとの関係において,機械はもはや私たちに完全 に支配されることもなければ,私たちを完全に支配する こともない. 機械による代替だけでなく機械との協働や対話によっ て織りなされる現代の日常生活に対して,支配・被支配 に基づく技術観は妥当性を失いつつある.むしろ,21 世紀を生きる人々にとってより重要となるのは,知的な 能力をもった種々の機械とともに日々を生きる状況にお いて,いかに「彼ら」と付き合っていけるのかであろう. 以下では,その先駆的なモデルケースとして,プロ棋 士と将棋ソフトが本格的に戦う初めての公開対局として 注目を集めた将棋電王戦を取り上げ,特にソフトが指す 将棋をプロ棋士達がどのように受け止めたのかに焦点を 当てて検討する.支配・被支配に基づく既存の図式がも はや機能し得ないのであれば,知的な能力において(部 分的にではあれ)人間に匹敵する機械と人々が織りなす 関係性をいかなる仕方で捉えることができるのか.この 問いを,電王戦を中心とする棋士とソフトの相互作用の 分析に基づいて考察することによって,人工知能研究の 成果を社会といかに接続できるのかに関する新たな視点 や語り口を提示することが本稿の目的である.
2.線の思考と点の思考
2011年の第 1 回(米長邦雄永世棋聖─ボンクラーズ戦) 以来,3 回にわたって行われてきた将棋電王戦は,トッ プ棋士に匹敵するソフトの実力(通算 8 勝 2 敗 1 分)を 知らしめただけでなく,棋士とソフトが将棋というゲー ムを異なる仕方で捉えていることを明らかにするものと なった.両者の違いについて阿久津主税八段は次のよう に述べている. 人間は前からの手を継承する「線」で考えます. だから「線」がつながらないときは,何か勘違いが あったと考えるし,予定変更を余儀なくされたのか なと考えて,次の一手を選びます.コンピュータは, 一手指すと,その局面で考えた新たな手を加えてく ることがあるので,二手先,三手先とで最善手が変 わるというか,人間ならこの流れにならないという 手が出てきます.その意味では「点」で考えている といえます.人間は,一手前とは違う人が指したよ うな手に対応しなければならないので,読みの量は 増えるし,疲労もたまるわけです*1. プロ棋士は個々の局面をつなぐ対局の流れをつかみ 取りながら一手一手を指していく.ある局面は,その時 点までの展開と将来予想されるさまざまな分岐のなかで 捉えられ,その膨大な可能性の中から終局に向かって有 機的な連関をなす一連の指し手が選び取られる.棋士に とって将来の指し手だけでなく過去の指し手も重要であ ることは,対局中の棋士の多くがこれまでの展開を記し た棋譜用紙をしばしば記録係から受け取って確認するこ とにも現れている.こうした「線の思考」は,一手ごと に局面を捉えて最善手を探るソフトの「点の思考」に比 べて,計算量の大幅な節約と,局面を狭く深く掘り下げ ることを可能にする.棋士の思考は,一局の将棋をさま ざまな文脈の連なりによって構成される一つの壮大な物 語として捉える能力に支えられているのであり,こうし た能力の一端は,20 歳前後の新人プロ棋士でさえ自局 を振り返る際には対局の機微を過不足なく捉える優れた 文章(自戦記)を著すことからも垣間見ることができる. これに対して将棋ソフトは局面ごとに計算する対象を 確定し,その範囲内で最善を探る.具体的には,ある局 面から N 手先までの分岐を計算し,N 手先に最も有利 な形勢が得られる指し手を選択する.だが,N+1 手目 の相手の好手によって当初の指し手が最善でなかったこ とが判明する可能性は常に残る.何手先まで読むかを局 面や探索の種類に応じて変化させることは可能だが,決 定された数を超えて読むことはできない [笠井 10]. 第 2 回電王戦第一局終盤で見られたように,こうした ソフトの特徴は,敗勢に陥った局面において単に敗北を 引き延ばす手を繰り返すことにもつながっている.N+ 1手先でより劣勢に立たされるものであっても N 手先の 評価値がより高い指し手が選ばれるためである.「水平 線までは見えてもその先は見えない」ことに例えて「水 平線効果」と呼ばれるこの問題が示しているのは,「線 の思考」と「点の思考」の差異が単に「局面を流れで捉 えるか・局面ごとに最善手を探すか」の違いに起因する だけではないということである.ソフトにおいては局面 が一手進むごとに考慮の対象となる要素の集合が更新さ れる.対して,棋士は局面の変化を連続的に捉え,相手 もそうしていることを前提に(相手の思考の流れを推測 しながら)考慮を深めていく.だからこそソフトと対戦 する棋士は「一手前とは違う人が指したような手に対応 しなければならない」のである. さらに,2006 年の世界コンピュータ将棋選手権で優 *1 『ドキュメント電王戦 その時,人は何を考えたのか』,p. 71, 徳間書店(2013)勝した「ボナンザ」の登場以降,大半の将棋ソフトが採 用するようになった全幅検索(ある局面で可能なすべて の手を読む手法)と膨大なプロ棋譜に基づく機械学習に よる評価関数パラメータの自動生成によって,「点の思 考」はその威力を増す.つまり局面ごとにすべての可能 性の中からソフトが選び取る指し手はしばしばプロの予 想を超え,それでもプロが「好手」と考えるものとなり 得る.過去の膨大な棋譜という共通のリソースを異なる 仕方で活用することで,将棋ソフトはトップ棋士に匹敵 する実力を備えるようになってきたといえるだろう.
3.破 綻 す る 物 語
では,ソフトの「点の思考」と棋士の「線の思考」は 具体的にどのような相互作用をなすのだろうか.以下で は,第 2 回電王戦第三局・船江恒平五段 vs ツツカナ戦 を取り上げてその詳細を検討していきたい*2. プロ同士の対局でも頻繁に現れる戦型(「角換わり」) に進んだ本局の序盤,ツツカナの無理ぎみの攻めをいな して船江が攻勢に出るが,ツツカナも粘り強く守りを固 める.それでも船江優勢で迎えた 94 手目,ツツカナは 奇妙な動きを見せる.銀をタダで捨てる☖ 6 六銀(図 1 参照).見守る人々を驚かせたこの一見して意味のわか らない手は,船江の感情を激しく揺り動かした.彼は自 戦記のなかで次のように振り返っている. 受け切った.そう思った次の瞬間,信じられない 手が飛んできた.6 六銀.終盤も終盤,ド急所の局 面で読みにない一手を指され,私は本能的にやられ たと思った.緊張,不安,焦り,色んな感情が心の 中で激しく渦巻いている.私は暴れる心を押さえつ け,局面に向かう.すると不思議なことが起こった. いくら考えても☖ 6 六銀はタダにしか見えない.何 度も何度も確認し,私は☗ 6 六同龍と取った*3. 船江の判断は正しく,6 六銀は本当に「タダ」だった. ツツカナの読み筋は,銀を犠牲に自玉を安全にして相手 玉を寄せる狙いだったが,実際には寄せに入った時点で 自分の玉が詰んでしまうのである.船江が☗ 6 六同龍と 指した後で再計算したツツカナは詰み筋に気付き,一転 して☖ 4 二歩と守りを固めた.対局後の検討では「☗ 6 六同龍と銀を取るのではなく,☗ 2 七角☖ 5 五銀☗ 5 七 角で明確に先手が勝つ」という結論が出ている.☖ 6 六 銀という「信じられない手」に激しく動揺した船江は, 結果的に☗ 6 六同龍というやや安全策ともいえる手を選 んだのだ.再び終盤の入り口に戻った局面において船江 は攻撃陣を立て直し,急所の端攻めに出る.だが,この ときすでに船江の思考には微妙な狂いが生じていた.彼 は次のように語る. 思えばこの辺りから私の精神は不安定な状態に なっていたのかもしれない.[……] 手番が回り☗ 1 六歩.待ちにまった☗ 1 六歩.そして私は思ってし まった.勝ちになったんじゃないか.いや間違いな く勝てる.遂に私はパンドラの箱を開けてしまった. 実際にこの局面は本局で私が最も勝ちに近づいたと ころだったと思う.だが私の精神のタガは外れてし まった [……] 早く勝って,楽になりたい.その誘惑 に私は負けてしまったのだ*4. 決着を焦った船江は悪手の連鎖に絡み取られていく. 優勢だったはずの局面はもはや収拾がつかなくなり, 184手の長手数に及んだ戦いは,船江の敗北に終わった. ツツカナが指した「☖ 6 六銀」は,それ単体では局面 ごとに考慮する要素の全体を確定する限りにおいて機能 する「点の思考」の弱点をさらけ出した悪手にほかなら ない.☖ 6 六銀を指す時点でツツカナが読んだ N 手先 までの分岐群には存在しなかった自玉が詰む分岐を,ツ ツカナは二手後の段階で初めて捉えた.これは,もしプ ロ棋士が指せば明らかなミス(「読み抜け」)であり,気 付いた時点で大きな心理的ダメージを受けただろう.だ が,局面ごとに最善手を探るツツカナは二手先の時点で 再計算し,何事もなかったように☖ 4 二歩と固めた.こ の手もまた,棋士が指したのであればミスを認めて「謝っ た」と表現される手である.だが,「読み抜け」を「謝っ た」というこの局面を捉える筋書きは船江の側には存在 しても,ツツカナの計算過程には存在しない.こうした 両者の齟齬がしだいに船江の思考を狂わし,彼が終局に *3 日本将棋連盟 『第二回電王戦のすべて』マイナビ,pp. 120-121 (2013) *4 前掲書,p. 122-124. *2 第 2 回電王戦全五局にて棋士とソフトの間にいかなる相互作 用が見られたのかに関しては拙稿(久保明教「計算する知性と いかにつきあうか─将棋電王戦からみる人間とコンピュータの 近未来」http://synodos.jp/science/7549)を参照. 図 1 第 2 回電王戦第三局 94 手目☖ 6 六銀向けて描いた物語を破綻させていったのである.
4.実践的フレーム問題と記号離床問題
次に,以上で見てきた船江─ツツカナ戦終盤の攻防が 知能機械と人間の相互作用という観点においていかなる 含意をもつかについて考察する. 第一に,ツツカナが指した「☖ 6 六銀→☖ 4 二歩」が 示しているように,考慮する要素の集合(フレーム)を 確定してから動作を決定するコンピュータの振舞いは, 確定したフレームの外部にある未知の要素(前述した例 では二手後に発見された詰み筋)が関係してくることに よって,人間にとって違和感のあるものとなり,当初の 予想とは異なる結果をもたらすことがある. 人工知能研究では,開かれた環境において行為に関係 する要素を確定することの難しさ,すなわち「フレーム 問題」が最大の難問とされてきたが,ここで生じている のは,フレームを確定したうえで動作するソフトが人間 と相互作用する実践的な場で生じる問題である.二人完 全情報確定的ゼロ和ゲームである将棋においては,行為 に関連する情報はすべてアクセス可能でありフレームが 設定できないという問題は理論的には生じない.だが, 限られた計算力と時間的制約の中で動作せざるを得ない 人間との具体的な相互作用の局面においては,確定され たフレームの外部にある要素が現れることでソフトの動 作の意味が変化し,行為のフレームを厳密に確定せずに 行為する人間との齟齬が顕在化する可能性が常に存在 する.冒頭で紹介した翻訳校正ソフトの例においても, 私が 10 をところどころ「十」と訳したのは前後の文脈 を踏まえて漢数字のほうが適切だと判断したからだが, 「十」と訳すことが適切な文脈を明確に確定したうえで 訳出しているわけではない.その結果,翻訳ミスを検出 するはずのソフトの振舞いは,日本語文における漢数字 と英数字の使い分けの曖昧さ(そして,上司やクライア ントに対して自らの訳し分けの適切さをいかに保証する かという難問)を訳者に突き付けるものへと変化する. こうした問題を,通常の(理論的な)フレーム問題と区 別して,本稿では「実践的フレーム問題」と呼ぶ. 第二に,ソフトとの相互作用は,人間にとって自明な 意味作用を不安定化させる契機となり得る.前述したよ うに,ツツカナの指した「☖ 6 六銀→☖ 4 二歩」は,通 常の棋士同士の対局では「読み抜けによって悪手を指 し,後にそれに気付いて『謝った』」という意味をおび る.☖ 6 六銀という予想外の指し手は船江を激しく動揺 させたが,棋士相手の対局であれば,☖ 6 六銀がタダで あると確信した瞬間に彼の動揺は対局相手がいずれ心理 的ダメージを受けることからくる余裕へと変化しただろ う.だが,☖ 4 二歩以降のツツカナの指し回しは,船江 が意識せざるを得ない「読み抜けによる動揺」という筋 書きをはねつけるものであった.自分にとって自明な局 面の意味を共有してくれないツツカナとのやり取りを通 じて,船江の描く物語はしだいに独りよがりなものへと 変化していき,「精神のタガ」が外れて悪手の連鎖に絡 み取られていくことになったのである. フレーム問題と並ぶ人工知能研究の難問に「記号接 地問題」があるが,ここで生じているのはその反対の困 難,「記号離床問題」とでも呼ぶべきものである.前者が, 統語論的な記号操作を実世界の事物と意味論的に関係付 けることの困難を指すのに対して,後者は,機械が統語 論的に操作する記号(☖ 4 二歩などの指し手)を共有し ながら相互行為を行う過程で人間にとって自明な意味が 流動化してしまうことを指す.例えば,電王戦を通じて, 既存の将棋界においては一般に有利とされる飛車先の歩 交換をソフトの多くが評価しないという傾向が明らかに なった.この傾向は,当初は局面の流れを総体的に捉え ることのできないソフトの弱点の現れではないかと考え られていたが,トップ棋士に匹敵するソフトの実力が明 らかになった現在では,将棋界の常識(「飛車先交換三 つの得あり」)のほうが誤っている可能性も否定できな くなりつつある. 重要なのは,相互作用における人間と機械の齟齬や不 調和を示す「実践的フレーム問題」や「記号離床問題」は, 人間にとって必ずしもネガティブな効果をもつわけでは ないということである.実際,劣勢に立っても最善手を 指し続け,全幅検索によって広く浅く局面を捉えるソフ トの将棋は,対戦したプロ棋士に大きな感銘を与えるも のであった.第 2 回第一局で勝利をあげた阿部光瑠四段 は次のように語っている. 人間は,自分が不利になりそうな変化は怖くて,読 みたくないから,もっと安全な道を行こうとしますよ ね.でも,コンピュータは怖がらずにちゃんと読んで, 踏み込んでくる.強いはずですよ.怖がらない,疲れ ない,勝ちたいと思わない,ボコボコにされても最後 まであきらめない.これはみんな,本当は人間の棋士 にとって必要なことなのだとわかりました*5. ツツカナの指した「☖ 4 二歩」のように,劣勢に立た されても変わらず最善を探るソフトの指し手を,阿部は 「最後まであきらめない」姿勢の現れとして受け取って いる.もちろんそうした姿勢がソフトに実装されている わけではない.だが,局面を流れで捉える棋士にとって, 一手ごとに最善を探るソフトの指し手は,局面の流れが 急変し「線の思考」が破壊されても動じることなく「最 後まであきらめない」姿勢を意味するものとして現れる. *5 山岸浩史:「人間対コンピュータ将棋」頂上決戦の真実【後編】 一手も悪手を指さなかった三浦八段は,なぜ敗れたのか,現 代ビジネス,2013 年 5 月 15 日記事,p. 4(2013),http:// gendai.ismedia.jp/articles/-/35787?page=4を中心とする 1970 年前後に生まれた棋士達が台頭した 1990年代を境に大きく変化した.それまでは過去の大 名人の権威や「これが将棋の王道である」といった漠然 とした価値観に守られながら狭い幅の戦型の中で戦われ てきたトップ棋士同士の対局は,膨大な事前研究に基づ いて過去の常識から外れた指し手や新たな戦法を開発す る彼ら「羽生世代」の活躍によって様変わりしたのである. 例えば,史上初の七冠制覇を成し遂げた翌年(1997 年) に羽生が月刊誌に連載を始めた『変わりゆく現代将棋』 では,相矢倉と呼ばれる代表的な戦型において初手から わずか五手先までの主な三つの分岐を分析するのに三年 以上の歳月が費やされている.「今日は相矢倉で」とい う両対局者の暗黙の了解によって 20 ∼ 30 手の応酬がな され相矢倉の基本形が出来上がった後で駆け引きが始ま るという従来の常識に対して,羽生が考察したのは基本 形に至る前に後手が逸脱して急戦を仕掛ければ主な三つ の分岐においてどちらが有利になるのか,であった [ 梅 田 13].いわば羽生は,慣習に基づく選択的探索によっ て固定化していた序盤戦術に,戦型単位の全幅探索(戦 型内部の主な分岐点や戦型間の分岐点において可能なす べての手を考慮する)を導入することで大きな自由を与 えようと試みたのである. 羽生世代が大半のタイトルを独占した 1990 年代から 2000年代にかけて,序盤の自由な発想は現代将棋の基 礎をなすものとなった.だがそれは,対局時にすべての 指し手をその場で自由に考えることを意味したわけでは ない.むしろ,慣例に基づきパターン化されてきた序盤 の分岐点において新たな指し手や戦法が次々と登場し, それらの是非が対局後の研究(プロ棋士同士の練習対局 や各棋士による分析)によって解析されるという傾向が 一般化する.対局と研究を通して従来の常識から外れた 無数の棋譜が生み出され,それらの分析を介して,以前 は「居玉は避けよ」や「穴熊は邪道」といった慣習的な 言い回しによって固定されていた局面を捉える基準(ソ フトにおける「評価関数」)も大きく変化していった. 棋譜データベースや PC による局面検索が多くのプロ棋 士にとって必要不可欠なものとなっていった背景には, こうした将棋の内容自体の変化が存在したのである. このように,羽生世代を中心にプロ将棋が遂げた革新 は,ボナンザ以降の将棋ソフトが推進してきた(指し手 単位の)全幅探索と膨大な棋譜解析に基づく評価関数の 自動生成による棋力の向上を部分的に先取りするものと なっている.慣習的な指し手の制約が解除されたからこ そ,コンピュータ・アルゴリズムによる局面検索やデー タベースの活用が有効になってきたのである.だが,そ こには重要な差異も存在する.というのも,羽生世代の 棋士達の高い棋力は序盤の自由な探索を通じてより豊か なものとなった「線の思考」によって支えられているか らだ.言い換えれば,戦型単位の全幅探索の導入によっ て彼らが手にしたのは,戦型ごとに豊穣な物語を生みだ 実践的フレーム問題において顕在化する機械と人間の齟 齬は,前者の振舞いをアナロジカルに把握することを通 して後者が新たな行為の在り方をつかみ取っていく契機 となり得るのである. また,船江─ツツカナ戦に先立って第二局を戦った佐 藤慎一四段は,終局後に次のように述べている. ソフトが意外な手を指してきて,自分の将棋が広 がった感覚がありました.[……]「それはない」と思 う筋が,考えると有力とわかってくる.将棋には無限 の可能性があると教えられました.将棋を 20 年以上 やってきて,いつのまにかこびりついていた先入観と いう垢を落とせた気がする*6. 流れを捉えることで考慮の範囲をしぼりこむ棋士の 「線の思考」は,局面の流れを考慮しないソフトの指し 手に対応しきれず,全幅検索によって広く浅く局面を捉 えるソフトのほうが結果的に最善を探り当てることもあ る.そう考えれば,ソフトでは実現できない棋士の最大 の強みとされてきた「大局観」(一手の価値を盤面全体 における働きと長期的な局面の変化において捉える力) は,彼らの思考を特定の枠内に抑え込む「先入観」と区 別できなくなる.電王戦が将棋界に与えた最大のインパ クトの一つは,これまで棋士の能力の源泉として半ば神 聖化されてきた「大局観」という概念の意味を流動化さ せ,「将棋の無限の可能性」においてそれを捉え直して いく必要性を強く喚起したことだろう.実際,3 回にわ たる電王戦の開催前後において,ソフトが指したいくつ かの新手は改良を加えられて棋士同士の対局に現れ,各 戦型の定跡に新たな道筋を生みだすだけでなく,現代将 棋を支える思考法の全体に影響を及ぼしつつある.
5.アルゴリズムと物語の相互作用
電王戦におけるコンピュータと人間の相互作用が不調 和と齟齬をはらみながらポジティブな効果を生み出して きたことの含意を総体的につかむためには,電王戦だけ でなくより長い時間的スパンにおいて考察する必要があ る.というのも,コンピュータ技術は電王戦が開催され る以前から棋譜のデータベース化と PC による局面検索 の普及という形で将棋界にすでに影響を与えてきたから である.ただし,コンピュータによる棋譜の処理が一方 向的にプロ棋士に影響を与えてきたわけではない.むし ろコンピュータ技術の浸透は 20 世紀末から生じてきた 現代将棋の変容と密接な関係をもっている. 『ウェブ進化論』で著名な梅田望夫氏が IT 産業と将 棋における革新を重ね合わせて考察する一連の著作で論 じてきたように,プロ将棋の基本的な発想は,羽生善治 *6 日本将棋連盟:将棋世界(2013 年 7 月号),p. 56(2013)す力,構想の豊富なバリエーションによって相手を圧倒 する力であった. これに対して,局面の流れがリセットされた際に強さ を発揮するソフトの「点の思考」に親和性が高いのは, 現在羽生世代に唯一対抗し得る勢力となっている 20 代 前後の若手棋士達であろう.彼らは,羽生世代が開拓し た序盤の自由を前提として成長し,データベースに基づ く精緻な研究による定跡生成の高速化を推進してきた世 代であり,対局の流れを豊穣な物語としてよりもある種 のアルゴリズムの束として捉える力に秀でている. 事前研究の精度が高まり続ける現代将棋では,戦型に よっては最終盤までお互い決まった手を(形勢を損ねな いためには)指し続けるしかないことさえある(ex. 矢 倉 91 手組).羽生世代が切り開いた自由な将棋は,それ が可能にした徹底的な解析によって絶えざる(慣習に基 づかない)パターン化を免れ得ないようになり,各パター ンに即した効率的な解法が日々案出される状況が現れた のである.最新研究へのキャッチアップを怠ってすでに 結論の出た局面に誘導されてしまえば,実績のあるトッ プ棋士でも簡単に圧殺されてしまう.こうした将棋戦術 のアルゴリズム化を推進してきた若手棋士達は,局面を 流れで捉える力だけでなく,事前研究の漏れや想定外の 応手によって局面が一変した際に構想を切り換え手持ち の情報を当てはめ直して有利を築き得る力をより重視し ているように思われる.例えば千日手による引分け再戦 をいとわずに高い勝率を上げた永瀬拓矢六段など,若手 棋士が育みつつあるのは,局面の流れが何度でもリセッ トされてしまうゲームを戦い抜く力であり,アルゴリズ ムの束に基づきながら新たな物語を生成する能力である だろう. 対局総数の少なさから確言はできないが,電王戦に出 場した羽生世代近辺の実力者達(三浦弘行,森下 卓,屋 敷伸之)が全敗に終わったのに対して,勝利をあげたの がいずれも 20 代前後の若手(阿部光瑠,豊島将之)で あったことは,「点の思考」との親和性の差異を表して いるように思われる.ソフトとの戦いが鮮明に示した「何 度でもリセットされ得るゲームをあきらめずに戦う」こ との重要性は,具体的には羽生世代と若手棋士の対抗関 係を通して,プロ棋士の「線の思考」,その物語生成能 力の在り方に今度とも大きな変化を迫っていくことが予 想される. 以上の検討が示しているのは,アルゴリズムと物語と いう対比を単純に将棋ソフトとプロ棋士に振り分ける理 解は不十分だということである.むしろ,現代の将棋界 はアルゴリズムと物語のあいだに生じる齟齬や相互干渉 を受け止めながらいかに両者を有意に関係付け得るのか という問いを探究する先端的な実験の場として捉えるこ とができる.例えば,医療やヘルスケアの分野に今後の 人工知能研究の成果を導入することを構想する際にも, アルゴリズムに基づいてソフトが提供する情報やサービ スを病気や健康に関わる人々の理解や語り口といかに有 意に接続し得るかが問題になるだろう.医療人類学者が 強調してきたように,病をめぐる経験は医者による診断 や治療だけでなく病を自らの生活の中に位置付ける人々 の語り(narrative)によっても組織化されているから である [クラインマン 96].現代将棋の軌跡が示してい るように,コンピュータ技術を介した行為のアルゴリズ ム化は物語によって世界を捉える人々の営為を無効化す るわけでもなければ,それと全く別個に働くわけでもな い.むしろ,アルゴリズムと物語の相互作用を通じて両 者の在り方がいかに変容していくのかに焦点を当て,よ り良い相互作用の在り方を構想し,デザインしていくこ とが重要となるだろう.
6.不調和に基づくデザイン
最後に,以上の分析を踏まえたうえで,知的な能力に おいて人間に匹敵しつつある機械と人々が織りなす関係 性をいかなる仕方で捉えることができるのか,という冒 頭に掲げた問いを考察したい. 前述したように,20 世紀におけるテクノロジーをめ ぐる語り口は,「人間の意思や欲望を実現するための便 利な道具」というイメージと「人間的な生活を圧迫し変 容させる自律的な機械」というイメージの共存,支配と 被支配の二項対立によって支えられてきた.ただし,こ の二つのイメージは単に対立するだけでなく,相補的に 働くものでもある.どんなに革新的な技術であっても人 間に従属する単なる道具にすぎないと語ることでそれが 人々を脅かし圧迫する可能性が喚起され,そうした可能 性が喚起されるからこそ単なる道具にすぎないという語 り口が意味をもつ.さらに,両者の相補的な対立を乗り 越えるものとしてロボット工学や人工知能に関わる人々 が提示してきたのが,人々の生活の中に滑らかに入り込 むことのできる高度な知能機械をつくり出すことで「人 間と機械の調和に満ちた未来社会」が実現するというイ メージである. 支配・被支配の図式とそれを乗り越える「調和」とい う理想.この三項からなる語り口は,しかしながら,21 世紀初頭の現在において妥当性を失いつつある.冒頭に あげた翻訳ソフトやスマートフォンの例が示すように, 現在の知能機械は単なる便利な道具でも自律的なモンス ターでもなく,齟齬やすれ違いを伴いながら協働し対話 する相手となってきている.さらに,電王戦前後におけ るプロ棋士とコンピュータの関係性の軌跡が示している ように,機械との不調和に満ちた相互作用は,人々が慣 れ親しんできた自明な行為や意味の在り方を揺るがすと 同時に,新たな行為の形や意味作用が生み出される契機 となり得る. こうした現状においてより重要になるのは,知的な能 力において人間に匹敵する機械と人間が相互に作用する具体的な局面において,両者の齟齬や不調和,いわば人 間─機械間の相互干渉(Man Machine Interferences)が より良い効果をもたらすように相互作用を技術的かつ社 会的にデザインしていくことであろう.本稿で提示した 「実践的フレーム問題」,「記号離床問題」,「アルゴリズ ムと物語の相互作用」といった少なからず奇異に思われ るだろう概念は,社会にとって理想的な人工知能の在り 方を構想するためではなく,動的な実世界の実践的な状 況において人間と知能機械が織りなす具体的な関係性を 捉え,そこに生じる問題や可能性を探りだすために案出 されている.これらの概念が人工知能研究の成果を社会 といかに接続できるのかに関する新たな視点や語り口と して使い勝手の良いツールであるとは言い切れないが, 近未来における知能機械と人間のより魅力的な関係性を 構想するうえで何らかの刺激となれば,著者としてこれ に勝る喜びはない.