佐藤信淵の南濃管理論
′ 忠本 田
−緒 論 佐藤信淵は徳川時代末期の経済聾者として其該博なる智識と透徹せる理論と数多き著述把依って有名であるが 其経消政策に於ても頗る出色の議論をした人である。其商業管用論の如きは眞に猫自の大主張であつたのである 勿論信淵は農政。農業。天文。地理等に於ても自ら家箪として即ち秘法として頗る自負してゐる如く農塾に於ても 亦宮崎安貞以後の犬単著に相違ない。然し選挙に於る信淵の功績よりも所謂経世由良の単としての経済軍史上に 於る彼の功蹟は造に大きい。信淵亦経済研究を以て自己の本領として農螢の如きは其枝菓と見てゐたのである。 然し彼の経世番戻の議論たるや共著逓を通じて門生を動かし或は多少の馬政審に影響を典へたであらうが惜しむ らくは徳川幕府に於ても又諸藩に於ても彼を採用する寄が出席なかつた。信淵は之を以七執政豪の器字鋏小に在 りとし自ら武州の片肘舎に引範って著述を寄としたより考へて白石。辞山。鱒徳の如き襟行家と埋を異にして比較 的珊想主義的聾者肌の人であつた梯である。 信淵は薇通約態度をきらつて徹底せすんぼ止ます虚の人であつたが故に彼の啓開は一大膿系を持って居り、彼 佐藤信淵の南光管理論 二ニー︶一九︼r= ︵一こ二︶ 二〇
第四食 滞こ鱗
の総ての諸政策が正にこの商柴管理論を枢軸として動いて屠る。故に彼の商業管坪論は他の挺臍政策の根本であ って彼の生命は玄に宿ってゐる。信淵自らも此政欝の番忙朴る1を以て快として門人の息骨を斥けてまで時の執 政水野忠邦に上寄せんとしたほどである。信淵がカメラサストと見られるのも叉融合主義者と思はれるのも仙に 係って此政策に嬢るのである。 然し商業管珊諭は彼の猫創ではなく租父より覆して父を経て所謂三代相鴇の秘法であつて彼が幾寅したのも其 年齢が八十に近づいてからである。諾し封建時代政治の改革論議は容易ならぬ寄であつたからである。叉信淵自 分ケクワホ・ワ ら埠復古法或は稚貨法と呼び叉莞二商質一とも云ってゐる。復古法とは斯法が大雨に始まり伊芦之を用ひ、殿の博 詮周の大公望及び舛の管仲亦耕法に依って艮躊を撃げたるに魔み、此の聖人の法に復露するの意味である。 ︵添木誠−應編﹁佐藤信淵家鬱金盟︹中食三六九貰往昔法の申︶ ﹁恐が家ほ出羽の閲の郷土にて甘阿親父敵庵以殊、腎ミ物産経済の撃み修め温く四韓み遊歴して萬物北菅の数理料推し考へ、勤 めて物産綴折の撃を講明ぜり、漑父不掟軒に登って.篤く究締り遺ね信じ、金妓開墾み構発し、世上の溺怨む熟視し、商異の み皆大に家を興亡、武家寸−官妊ほ痛く貧窮に通りたるね悲て、彼の伊デ●博貌等の国家ね項集し、四海の困窮を酒ひたる古 代を仰ぎ、併謂ろ財用の湧き出ろ淵源ね開き、蒼絃を安葦するの法あ明かlこぜんこミを欲し、番慕。周甘●管手筈ね熱演し、 敬†年りエ夫を果て衆訣を参政し、其哉に沈潜して、埼季の世にこ上下二級困窮に障りたるを挽回し、古代の大富有に恢復す べ与の貰法私鞘明†石=ミみ待上り三方ふ、倍叉元締。雷永の援より必読lこ大なる御散財の番数々訂稽ぎ、享保中に至て尚 ほ御閲用の本給み愛ひ給ふミ閃き、徳廟︵篭恕日、.八代吉宗也︶の和明君み以て萬埋の機食み失ひ姶ふ革l‡あるよじけれどもOLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
恐れ乍ら上沓し奉んミ欲し、復古論一巻ね作りて、出羽の圃エリ出府しけれざも.接の鰊さ故障鹿り、遂に上輩せすLて止 拍。此ほ事保十一年の轟なり、其後父玄明嵩も亦一問の諦候に塘ぜられて、英領分申下々の貧窮右洒たんこミか講ひ給ふに 就て、窃に復古論な筆L此な懐中して新政の大夫に両説し、先づ其趣な諺訴ぜしに、執政の大夫肴批ハなろ望りみる人物lこて 下々土民の困窮な救ふべきの仁心なし、故に此啓を出さやして其団ね辞し去れり、⋮⋮中略主⋮由々園恩の萬側に報ぜん= ミみ所て書ね著すミ稚ざも、知らろゝこモカく皆空く材料するほ欺息†べきり串なり、今愚八十歳にこ及び死期の通りたるを 知ろ、因つて是れまで先租の御観亜を工夫したろ事件り骨悉く腐朽Lて空く滅ぜしむろ寄り惜さが故に、此の復古法な筆記 L、恐れな.針ら上沓ぜんビ欲すれピも、天に造花きわ寮んせん。﹂
〓 高菜管理法
信淵が斯法を最も簡潔に明瞭に書き硯はしてゐるのは復古法概言である。これは時の執政水野忠邦が信淵の経 済問答を閲読して苔中に復古法と云へるに付英詳細を尋ねられたに依り、門人岩川知平に浄書せしめて奉答の積 りであつたのが、水野忠邦の解職に依って番止みとなつた封書である。其他校苫法及膵貨法の苔も亦之と大同小 異であるが、如何なみ動機に依り如何なる目的を以て苦かれたか詳かでない。故に主として復古淡概冨に依って 共大腰を摘出して見やう。 て近来日用諸品高値に何士民二杭難儀に及ペり、之が御救の焉改革の旨燭れ出して新に奉行を任命して江戸 克郡、大阪に置くこと。奉行所既に備はれば令を天下に俸へて水陸桝生の産物全部に付共三郡に集る物を官 敬すること。其奉行所に集りたる諸物産を捌く方法は各物産を取扱ふ商人年寄を呼出し入札せしめて其落札 佐藤信潤の商発管理論 ︵︼こ三︶ 二一 一..ぷiFと 者に共品物を欝捌かす。 二、年寄は共晶物を引取って此を仲買に渡し、仲買ば叉此を小商人に渡し、小商人より一般消費者に受渡すこ と。其代金は小商人は日々仲買に納め、仲買は十四日。晦日に年寄に約め、年寄は六十日を眼と/して奉行夙 に上約す。 取扱商人に就ては相常の利潤を蹴ハへる革。其方法として年寄の中より取締頭取役を選んで諸寄を支配せしめ 之には故も優遇の意味で扶持を輿へ年寄以下の商人には共品物に應じて利潤を預め官鼓し、その定式帳を作 って之を版本として全部仲川貝等に賜はり、之以上高利を貪る者は績窮すること。共他大エ◎泥匠等の職人か ら車力・馬方に至るまで賃餞を定めて之を守らしむること。 三、かくして産物を撃捌きたる代金の級高の三十分の仙を釧て奉行所に積琶き之を弘臍の施し金と備荒資金と すること。之に依って詳述上上納金課役を止め尚又助郷の梯り物等を減ずること。 以上が復古法の骨子とする三ケ催であつて、伊野管仲の苗法を復活する寄が最も正しく且容易に苦行し得ると 信じ、 ﹁以上専ら組父不味軒のエ夫を論ぜり﹂と信淵自ら註してある事より正に佐藤家三代二百年の秘法なりと糾する 所以が分るのである。 然し乍ら此鮭臍仕法の故も困難なるは天下の産物を歩行用に集めて代金も遺さず、之を如何にして官牧するか 第四各 界二躾 ︵一二四︶ 二二
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
の問題である。此軍について其門人帯川知卒の質問に剖し答へて日く、︵佐藤倍淵家歩合灸申警義三軍往古洋間答怨 £り︶ ﹁無慣助こ探托、公租●私領の差別もなく・貧富盈厳私論ぜサ、絶て常置来の荷重ミ沓例り如く軍ね取故ひ、少しも疑托しむ るこミなく、至誠ね以て此み諭し、多日ならず其慣ゎ融通し遺すが故に、経て荷主に心配りぁろこごなし、此等の取破1こ任 愚老にこ榛て妙な旦艮法ぁり、然れども此法任観家の政賓 併謂民可レ使レ供、不レ可レ使レ知¢機密なろわ以て、世1こ漏泄すべ き革に非サミ知るべし。﹂ 註に斯法の大難蘭が横はつてゐる。故に水戸轡昭侠信淵の著述に係る物償飴諭を見て、此復古法を許して日く ﹁英人存則其政撃云々ドて、如何なる文法ぁりても英人無ければ堰港にて、賄願の拡ミなろこミ必ぜり﹂ とある如く殊に最初の仙年乃至数年問は至誠資明の人を得ざれば不可能で信淵自ら斯法を以て、人物を待ざれば 其事大なる啓を認あて﹁予は常せの時務を蹴りて一時を臍ふの槽由扇行はんと欲す﹂と明言して必ずしも永鎖は期 待してゐなかった様である。
三 園庫充蜜論
信淵の後竃法の原理となつてゐる第仙は問掩充箆諭である。彼は汲畢の影響を多分に受け其組父以釆の商柴管 理論ですら其此ハ接を重恩周雷管子等の苗書に求め依って之を復竃法と稲したほどであるに係らす、他の鉄拳者 の如く徒者本也、財者末也より出で乗った財末論に拘はれなかったのは卓越せる識見と云はなければならぬ。勿 佐藤信淵の商業管理論 ︵]こ五︶ こ三 j東四金 筋二城
︵︼二六︶ こ異 論彼以外にも熊繹蕃山、山鹿素行、新井白石、窒鳩奥、荻生粗雑、太宰客室の如き幕府申せの経済単音にして理 財問題に妥きを置いた潜もあるが彼の如く眞向から朱子笹沢等の唯心論を打破した者は稀なのである。彼は孔子 の足レ定足レ兵横倍レ之の語、管子の衣食足相知=機甲。の語を引用して、天下闊家を治むるの大道は財利より出 発すべきものとし、孔孟の徒にして只修身道徳のみを唱へて、財利を賎しむ笥の誤りを指摘し、之を以て四海困 窮の原因なりとし、管仲の富開発を最も王道に叶へるものとして、管子を擁謹して日く、︵佐藤信淵家撃全集中萱二 七六質︶ ﹁管仰料覇者の準ミ名けて此を難ミし総て興利の邸料云ふ者和語て常人に比す、唯潜徳石像るのみね仲尼り造己心得、天下 の艮む安集すべき仁政ね行ふこごをげ外串ミす、孟子の大賢を以て猶管仲粗慢機す、況や狗吠町知音読者に於てをやし。 更に大螢の格物致知を解絆して日く、︵佐藤信淵家撃全集申攣一義三富複首法中より︶ ﹁後者法み施し行ふ1こ1‡、其御謝りの辞役人に驚くべさほど多分なろ御役料ね陽て、先づ英文心み致さLむべし、大単品に日 0000000 く、欲レ彗其心−軍宛誠妄ハ琴、欲レ誠二其夢者、尭撃英知l、致レ知在レ格レ物ミ絡も亦致†怒りゝ物ざ笹財物なり、 音節に日,、人骨則鈎、文日く食則盗ミ凡そ入り官許に通り無レ寮に臨みて利欲の念の生ぜざろ者托肇稀なり。﹂ 之を以て信淵は財利を蚤んぜざるべからすとの信念から政治の要道は富国忙ありとし、天下に主たる老の滅亡 するに至るは畢寛財用の手詰りにありとし白喜の式囲も之に依り、鎌倉豊町開府の滅亡も漠番長是晃。明○膚 亦之に掠るとしてゐる。此蓼詮は頗るマルクスの唯物史観と似通へる歴史観で央張経済的條件が歴史的進化の根 本條件をなすものとしてゐる。然し之を以て信淵が道徳を無税した唯物論者或は覇道論者となすのは早計であつOLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
て現資の敢禽はかくの如く財用の多寡に依って隆替しっ1ある梯を科挙的に認識してさてこの物質的條件は人馬 を以て任意に欒更し得るものとし固を治むるの要道は、困君の恭倹の二徳にありとし日く、︵佐津信淵家野合鶉中巻 ・二六六貰経開業略申より︶ 国家を隆にするの政托、発づ其圃君平日の身行を本ミ解ろこミlこて、君傍白ら葦ミ俊富の二徳年僚むろに非れば、決して成 就ぜざる=ミなり、閻君恭倹なるは固象富盛板紙本なり﹂ 是に依って観るに信淵に於ては道徳と財物は二にしてて ︼にして二となり即ち徳と碓も物を離れす物と雅も 浸りに人民より奪ふに非ず彼の三十分一校の如きも之の根掠を周穐に求め、周紹の二十分Wよりも軽しとし、﹁天 地に建て惇らザ、聖経に概して謬らや閑寂に宰たる者の勤めて行ふべき良法也﹂︵復古法概言︶としてゐる、而も 三十分の血税に依って得る金額を大約河馬弼と算定し内七拾馬術を弘臍資金とし後三拾馬術を積立てすれぼ年々 国庫の充賓は思るべきものにて二十年の後には府踵頗る充賛し五十年目には江戸大阪の倉庫金銀満ち溢れて記桝 なきに至るべし︵復古法概言︶と楽観して年々長の如く財が集るを以て此意味にて之を泉漁法と名づけてゐる。即 ち彼は経世臍屈の最党決問題として囲庫の発雷を必要とし、其永繊的財源を商業管理法に求めたのである。彼が カメラリストと云はるゝ所以はこの国庫発寒諭にあるのである。 この泉源法としての商業管理論は信淵の最も得意とした朗であつて、共著物傾飴論は松平定信侠の粧臍仕法が 永摸せすしてすぐ原の貧窮に返った所以を指摘して、この泉源法に依るペしとの議論を梯てたのである。 佐藤信淵の南米管理論 ︵一二七︶ 二五 _ 』
彼は政治の要諦は財を足し府庫を発雷せしめる窃にありと原則的に断定はして見たがさて硯賛に於ては英反封 に官庫は窮乏し武士と農民共に貧乏のドン底に終り、幕府は貨幣改鋳に依って急婁を凌ぎ、諸侯は役人の役料を 減じ、武士の俸祓を借り上げ、武士の知行は年滅されて所謂牛知となり、幕府及諸侯財政の源たる農民は永年の 苛政に伐つ七疲弊し、一旦磯饉洪水等の災害至れぼ、餓死する者頻々たる有様で、惨憺たる状態にあつたのであ る。而るに表面賢人として汲も卑しめられてゐる商人階級は幕府の中世以後貨幣の流通盛となをと共に次第に富 裕となり、仙般が賓移に趣くと共に物償騰貴して商人は益々冨盛へ、諸侯さへも内々は大阪等の大商人に低頭し て金銀の融通を受けてゐたのである。︵滝本誠一氏編佐藤信淵家鬱金集中撃二五九貰寝台注疏編申︶ ﹁今時の値段ね以て事保年中に比ろ亡きほ、昔望一倍五倍に至りたるもの者委し、且つ誇職人並にせ屈人足等の傭餞までも此 に従ひ皆歌倍に及べり、故に以前ほ一年三十両の金にて暮カの出来たろ家も、今時は六十企も七†食も没すに非ざれば年ね 捗る︰ミ能はぎるlこ至れり、故に商人に非ざる者li、武士も富雄も賓窮lこ通らざる托無し、即是大患望の冨余る如く、天下 の財用皆悉く蔚賢¢家に繁り㍗るにて奈んミも不レ可レ角なり、畳替lこ土民一間質lこ通りたろのみならんや、軒君ミ蜂も散財 の甚だ多く固用の不足に囲み、富商大賢lこ低飯して給ね仰ぐ者多し﹂ 此の現象を以て最も不自然とし、国家の負窮に陥れるは、貧富片落にありとなし韮に商人階級の利得を官牧し て、之を以て士農階級の救済費金に甘てんとしたのは見易い道理である。玄に彼の貧富平均諭が生れて来る。﹁朋 第四食 滞二兢
四 貧富卒拘論
︵一二八︶ 二六OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
治復古法は、有無移通して貧富平均するの法なり。故に外形は厳しく商質を発し財用を栄放するに似たりと碓ど
も、内嘗は移しく士民に施して金銭を分散する政事なるが故に、毀誘家も塀を容るペきの啓発なかるべき乎﹂。ハ佐
藤信淵家撃全集中空一空自復古法問答讐所謂満々たる他の水を基虚の他に移すが如く、塘視力の多き研に税漁を求
め之を以て一大敢脅政策を賛施せんとしたのである。故に信淵は斯法を以て伊野の通移開聞の淡とも呼んでゐる
之即ち彼が幕末の敢禽主義者と呼ぼれる所以であつて商人抑踵諭は二間感情論となつて商人を囲盛祓してゐる。
︵佐藤信淵家撃全集中谷︼一貫︶ ﹁観家に=虫余ろ者の深く慮ろべ号⋮丘、下艮に豪富なろ沓の出来ろ一事なり巌−こ商人ミ撲貿人ミ債主望轟豪富にして光シネヤトヅンマリ 併典常ね串ミサる着ねば、置く胆管寧ずんげぁろべからず∵⋮⋮感覚些三種の民ね図鑑ミ名けて窺に此ね罵ろ。皇観托中
世以来囲蕊も制御するの沈なきみ以て豪家甚多く、天下の餞財通年1‡彼圃敦が看ミなつて、帝大名ミ雉も給ね債壷−こ仰がざるみ持ざろに至れり、愚老此串隠ね憤り思て稀に役音論三ごふ苔ね響ぜしかざも電視の畢を憾て焼拾たり、大夫著聞簸り愈
盛なろね慮らlで速に裳策ね街て費蒋の施政わ精密にし、托を抑へ鰐ね助け、国家ね平準して、小官姓ね冨しめ、且官厚み充 写る・.真率警すべし︵農政本論︶ 風韻馴謂娼酎錮欄射㌍L︶然し乍ら常時の政治の嘗椎を捏れるものは却って貧窮に隋れる士段階放であつて財を成しみ商人を軽んするの
思想がこの貧富片落ちの政令状態を現出せしめたのであるから商人から財を奪って士農に施すことは必すしも難
寄でなかったのである∩即ち共問被搾取階級の囲結に依る階級間寧の磯生すペき理由なく、彼も孔子の朗謂寡き
を患へす、均しからざるを患ふと云ふ倫理思想から択覆して只為政者の政令政業でこの偏傾なる祀愈状態を匡正
佐藤信淵の開発管理論 _ デカガイ ︵一二九︶ こ七「 ︵二ニ○︶ 二八 第四餐 第 こ窮 し得べしと云ふにあつたのであるっ況や彼の目的は商人階級の絶域に非すして寧ろ互市交財は国家の大事に七て 有無相通じて国内を発寒し其所謂﹁仰ぎて父母を孝養し、僻して安子を愛育し、且つ其部類谷族を撫御する料の 利潤は商人の所得とし、只大利を食り一、物惜を左右するの大商人は厳に統括せざるべからず﹂と主張したるものに て云はゞ敵昏の調和を目的としたものであり、敢合主義者と云はんよりは配合政策聾者或は敢忽改良主菜者と云 ふ方が常ってゐる。
玉 均′慣卒選論
商業管理論のもーつの原理ともなつてゐるのは物偵平準論である。兎釆物低調箇の車たるや東洋革者侍水の思 想であつて信淵に始まつたわけ甘ないが其物偶の調懲箕として徹底せるもの彼の商業管理論の右に出るものはな い。支部の管仲に始り漢の秋詩呂の蜜碓に依って有名なる常平倉の如きも他方に於て備荒の 本来米債平準法として徳川時代の単著は多く之を唱導したものである。太宰春台は経済録に於て、文中井竹山、藤 森天山等の著書にも明かである。然し乍ら億川末期に至っては所謂米迫ひの経済が崩れて貨幣経済が確立し、萬 物が貨幣に依って交易されるに苦って四民の生活を左右するものは貸懲となつたのである。 其磨で信淵生別述復古法概冨の努頭に於て、﹁近来日用諸品高値に付士民叫琉難儀に及ペり﹂と述べてゐる如く 彼は日用品全部の物慣胎寛を以て庶民困窮の因とした。而も常時は諸物の交換未だ充分ならや、苗場と錐も諸侯OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
の領地に依って制限されて、其範囲狭小なるが焉大阪の大商人等は自由に物憤の騰落を左右することが出来たの である。而も其迫り方極めて悪辣で物偶安けれぽ益々之を撃崩し高けれぽ愈々買煽ると云ふ有様で物偵の騰落は 寛に激しかった模様である。此寄を信淵埠物憤輿論に述べて日く︵佐藤信淵字整合集中懇望ハ入貢︶ ﹁抑々近来耐人り利ね倉るの仕力甚だ険悪lこなりて、凡品物の直段位与み見ろ時ほ、各其所持すろ庭を出して悉く票鏑ふ故に 股上品物多き上に叉多きな加へて直段鹿外に下落す、曹長れ産物の仕切ね安くするの計策にて、文物償を高くぜん革み欲す ろ時ほ、但贈ね浄申に止め監て物切れの故障を起L、千曝萬仕り節計ね用ひて四韓の寓を中間に支へる故lこ、士農工聖二民 シチイレ 管財用に事穿て家相共†ろ革能ほず、或ほ典思し、或l三高別の企み借り、或托直段に拘らす下位に貿桝ふみ以で、利潤ほ悉 ナイ∴丁・・ く商人に得られて手を空しくするに至ろ。是故に官姓等皆大に意ね失ひ耕作な避退にL、凪登料も存.分に周ろ事も叶托すし て前座物み興すこざな賭ず、是日用諦品の不足なろ所以なり﹂。 即ち信淵は商人の別利を以て物償平準の病種となL、この商人の自由を奪はすんぼ物偶の平準を得ないと断定 した。此鮎アダム、スミスの富国論と封比し、双方共富図を以て目的としながら恰も正反封の結論に到達してゐ る。此相違を来した珊由は、常時の暗合事情が反映してゐると云ふ事を雄掛に物語ってゐる。 かくして彼は物情平準法を述べて日く、︵佐藤信淵字撃粂集中怒四七一貫︶ ﹁天下の畜産物ね一里卒準璃に統括し、然して後lこ尾道の如く問屋共に抜して賛捌せ、品物の多き時ほ時惜甚だ下落†るミ韓 も作る贋の困窮するに至らサ、又物の少くして時偶の甚だ貸しヾ﹂雉ビも、東ふ者の姓儀ぜざろね廊盲し、御損金の有無に拘 スか りtまふ串なく物臓ね沸膏亮らしめ、四海の兆戌ねLて上の御折箱の除既に規りて安㌍に渡世し、天年ね保んずる轟を得ぜ 佐藤信淵の蔚光管壇論 ︵鵬三こ 二九
以上に於て信淵の商業管珊論が如何なるものであるか及びこの経消仕法の伏線となり原理となつてゐるものほ 何であるかに就て柳か鰭系的に余の思ふ例を述べて見た。勿論彼が復古法を唱導するに至った思想系統は上述の 三に止まらすして喋る後難雄大を極め、加之其背景たる常時の経済状態を詳にせざれぼ到底其尿を掴む寄は不可 能であつて定めて地下の信淵は微苦笑を禁じ得ないであらうが其柳かにても信淵の思想を紹介研究せる努に勤し ては感謝してゐる寄であらう。両も余の水文を草した目的は商柴管理論共物よりも其原理となつてゐる国庫充資∴ 論、貧富率均論、物償平準諭に於て信淵の虞慣を認めんと欲するが放である。 商業管理論の如きは現代せ界経済時代に於ては仙願の偶侶無しと雑も共闘庫充嘗論と云ひ貧富平均諭と云ひ物 偵平準諭の如きは今庸財政拳、政令政策笹、経済政覚車上の重大問題であつて、赦愈の欒遷に腋じて應用の致方 は異るペきも、共精紳に於ては確固不動の哲坪を有してゐると考へらるゝのである。只信淵は常時の封建的の敢 食事情㌻診断して、この三原素を調合して商業管理論を塑上げしたに過ぎないもので、信淵をして硯時に生れし しめたよほゞ、四海皆太平の恩汲にこ浴L、銀波して歓楽し、永く磯死の忠無るベLご 即ち彼は復古迭を以て又物偵平準法とも粥し、其最も徹底した物像平準法として商業管嬰論に到達したのであ る○ ● 第四谷 第二兢 六 結 諭 ︵一三一こ 三〇
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めば米穀法と云ひ肥料管理童と云ひ或は銀行官僚論と云ひ、定めて巧妙なる理論と方策を積出するであらうと思 はれる。 瀧本訴山博士は我国経済取研究の大家であるが信淵英他の徳川時代経済畢者の諸政策を以て悉く封建社命維持 政党と解し、去息識的或は無意識的に士農中心制度の目的に出づと共著日本紋所史に於て断定を下づれてゐる。余 を以て観るに博士の議論は形に拘はれて共精神を過せるやに考へらる。形式に於ては封建配合維持策の如く見ゆ むも其賓信淵の尿意は経国愛民の大至誠心に出づるものにて此患昧に於て彼は封建勅命を超越し偶々封建配合に 生れたるを以て封建敢昏に適應すべき政策を横てたるに過ぎず﹁其精神共原理は移して以て現在及び未確永劫に 共隼命む有するものと余は信す。故に︵踵臍論叢攣黍撃一騎二六九貞︶博士は信淵を以てカメラリストに類し就中 エスチと共思想甚だ相似たりとするも、信淵は官庫充筐策は手段にして、常民弘臍が其本意たりしなり。此鮎エ スチがフレデリック大王の御用箪薯として其特権取入を摺謹せると雲泥の差なりと云はぎるべからす。信淵自ら 誇明して日く、︵佐藤信淵家聾全集中巻五六五貢経掛提要より︶ ﹁経済の遺を街て観ね笛サミ方ふ托、百飽か富す、主なり、然ろに財用を積祭るね膵渾ミ謂ふ人ちり、最大なろ誤なり。凡そ固 家に立たろ老¢身分にて、宗廟証稜の祭な省き、親類縁者の交を薄くし、家中轟士の傍線を減じ、山林田畑の税を増し、古 来定式の儀式み糊ぎ、種々郡番の政箪を街て、界劣下関なろ幾を勒て異欽を励む亡きlて、金銀の山ねなすべきは諭するにも及 ばず、然れども右梯即答の政審み行ふざきほ、紳恵も人情も共に離ろ1のみならす六艮悉く困窮し、終に稲ミなるこミ多し﹂。 叉日く︵佐藤信淵家学会熱中巻三三二常在音法棍雷エり︶ 佐醸信淵の圏光管理論 ︵一三三︶ 三一