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スイスから見たアルメニア問題-香川大学学術情報リポジトリ

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スイスから見たアルメニア問題

金 澤 忠 信

2009年10月10日,スイスのチューリヒで,アメリカのクリントン国務長 官,ロシアのラブロフ外相,欧州連合のソラナ共通外交・安全保障上級代表ら 立ち会いのもと,トルコのダウトオール外相とアルメニアのナルバンジャン外 相が国交樹立の合意文書に調印した。約1世紀におよぶ民族対立の解消へ向け て文字通り歴史的な一歩を踏み出したわけだが,両国間には未解決の問題が山 積しており,今後の成り行きは不透明である。実際,今回の調印式で両国外相 が読み上げるはずの声明は事前調整の段階で難航し,クリントン国務長官が調 停に入って,3時間以上遅れてなんとか調印式にこぎつけたが,結局声明文の 読み上げは中止された。両国間の歴史認識の相違や領土問題の根深さを象徴す る出来事だったと言える。 この歴史認識の相違というのは,具体的にはオスマン・トルコの時代に起 こったとされる「アルメニア人虐殺」にたいする双方の主張の喰い違いのこと である。アルメニア側は,第一次大戦中,特に1915年から1916年にかけて, オスマン帝国による強制移送の過程で約150万人のアルメニア人が虐殺された り病死したりしたと主張している。これに対しトルコ側は,当時オスマン・ト ルコ帝国領内に居住しながらロシア側に加担したアルメニア人の「反乱」を鎮 圧し,その戦闘の過程で双方に30万人程度の「犠牲者」が出たと主張し,「虐 殺」を否定している。トルコは現在もなお国内および隣接諸地域に複雑な民族 問題を抱えており,容易には「アルメニア人虐殺」を公認・謝罪できない状況 にあると言われる。そしてそのことは,トルコの欧州連合加盟にとって大きな 障害になっている。 香 川 大 学 経 済 論 叢 第82巻 第4号 2010年3月 231−245

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ところで,「アルメニア人虐殺」と言えばふつう1915年から1916年にかけ ての一連の虐殺のことを指すが,それ以前にも,特に1894年から1896年にか けて,オスマン・トルコ領内のアルメニア人居住区や首都コンスタンティノー プルで大規模な殺戮が行われている。この最初の虐殺は現在では言及されるこ とすらほとんどなく,歴史から葬り去られた感があるが,虐殺の事実自体は当 時主要なメディアであった新聞によってヨーロッパに広く知られていた。こう した新聞報道は,東方のイスラム圏のなかで孤軍奮闘するキリスト教徒の存在 を知らしめ,アルメニア人への同情を煽るかたちで世論に訴えかけた。

1.アルメニア問題

1878年1月にロシアの勝利で露土戦争が終結し,同年3月にサン・ステ ファノ条約が調印される。その第16項には,オスマン・トルコ政府がアルメ ニア人居住地域の改革を早急に実施すること,そしてクルド人の襲撃に曝され ているアルメニア人の安全が保障されない限りロシア軍はエルズルムから撤退 しないことが記されていた。さらに同年6月から7月にかけて開催されたベル リン会議では,アルメニア人の代表団が覚書を提出し,それがベルリン条約の 61項として盛り込まれた。こうして,いわゆるアルメニア問題が国際的に認 知されるようになったのだが,その後アルメニア問題はヨーロッパ列強がオス マン帝国の政策に干渉するための口実として利用されたという側面があること は否めない。

2.ジュネーヴのフンチャク革命党

1885年,トルコ領内で,アルメニア人による最初の政党であるアルメナカ ン党がヴァンに創設され,比較的穏健な政治活動を行っていた。アルメナカン 党 の 党 員 の 多 く は,メ ケ ル テ ィ ッ チ・ポ ル ト ゥ ガ リ ア ン(Mekertitch Portugalian)の薫陶を受けていた。ポルトゥガリアンはマルセイユで『アルメ ニア』という民族色の強い刊行物の編集を手がけ,アルメナカン党の前身とも 言うべきアルメニア祖国同盟の創設にも携わった人物である。アルメニア祖国 −232− 香川大学経済論叢 676

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同盟の目的は主に教育および人材育成であり,トルコ領内の若いアルメニア人 をヨーロッパ各地に留学させ,トルコでのアルメニア人の地位改善に寄与する というものだった。こうした穏健路線はアルメナカン党の基本方針にも引き継 がれていた。 一方,ロシアのアルメニア人富裕層の子弟で,モンペリエ,パリ,ジュネー ヴなどに留学していた若いアルメニア人たちは,ポルトゥガリアンの『アルメ ニア』に啓発されつつ,各都市で革命運動の組織化を画策していた。1886年 夏,『アルメニア』に寄稿していたアヴェティス・ナザルベキアン(Avetis Nazarbekian)と彼の婚約者マリアム・ヴァルダニアン(Mariam Vardanian)が 留学先であるパリからジュネーヴにやって来て,現地で活動していたルーベ ン・カン=アザト(Ruben Khan-Azat),ガブリエル・カフィアン(Gabriel Kafian) らと合流する。彼らはポルトゥガリアンにたいして,ヨーロッパで新たにアル メニア人政党を創設し,リーダーシップをとるよう要請したが,ポルトゥガリ アンは重い腰を上げなかった。結局ナザルベキアンらは独自に革命運動を組織 することになるのだが,そもそも彼らの政治理念は,ポルトゥガリアンの息の かかったアルメニア祖国同盟やアルメナカン党とは相容れないものだった。 ヴァン周辺で比較的小規模な活動を展開し,教育に重点を置いていたアルメニ ア祖国同盟に対して,ナザルベキアンらの活動計画は,トルコ領アルメニア全 域を視野に入れ,革命によって現状を打破し,トルコからの政治的独立を目指 すという,かなり過激な内容のものだった。 1887年8月,ナザルベキアンらはジュネーヴでフンチャク革命党を結成 し,同年11月に機関紙『フンチャク』を創刊する(この機関紙名は1890年に なって党の正式名称として採用される)。「フンチャク(Hunchak)」はアルメ ニア語で「鐘」を意味するが,これはロシア社会主義の父と言われるアレクサ ンドル・ゲルツェン(Alexander Herzen)が創刊した Kolokol(ロシア語で「鐘」, すなわち「警鐘を鳴らす」)にちなんでつけられたものである。『フンチャク』 創刊号では,アルメニアの解放・独立を達成するためには,ヨーロッパ列強の 介入を期待するだけでなく,トルコ領アルメニア内外のアルメニア人が一致協

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力して民族運動を推進する必要があると唱われている。 『フンチャク』は極秘裡に出版され,編集部の住所も偽装されていた。当時 まだ学生の身分だった党員らはトルコおよびロシアに容易に帰国することがで きず,そもそも合法的に入国することができなかったため,それぞれパリ,モ ンペリエ,ジュネーヴでコピーを作成し,さらにそれをパリ,ジュネーヴ,ラ イプツィヒからトルコ領内のアルメニア人居住地域に宛てて発送した。 ジュネーヴのアルメニア人留学生たちは当時ジュネーヴに滞在していたロシ アの社会主義者プレハーノフ(Georgij Valentinovich Plekhanov)やヴェラ・ザ スーリチ(Vera Zasulich)らと親交があり,彼らからマルクス主義を吸収して いた。ナザルベキアンらの活動計画はのちにフンチャク革命党の綱領としてま とめられたが,マルクス主義の影響が強く,ナショナリズムと社会主義が共存 したかたちのものだった。彼らは『フンチャク』で『共産党宣言』をアルメニ ア語に翻訳するなど,マルクス主義の浸透を図ったが,トルコ領内のアルメニ ア人たちは社会主義思想よりもむしろトルコからの独立という現実的な要求か ら党員になるケースが多かったようである。 フンチャク党はトルコのムスリムにたいしても賛同を呼びかけたが,オスマ ン・トルコ皇帝アブデュル・ハミト二世の主導する汎トルコ主義と対立し,キ リスト教徒のアルメニア人とムスリムのトルコ人との溝は深まるばかりだっ た。さらに,フンチャク党の社会主義的・革命的な思想はトルコおよびロシア のアルメニア人居住区には浸透せず,反発を買うことすらあった。フンチャク 党はトルコでの活動拠点を首都コンスタンティノープルに移し,ジュネーヴお よびコンスタンティノープルの指導者をトルコ各地のアルメニア人居住地域に 派遣するという方法をとった。 1890年夏にアルメニア人のすべての政治団体を結集すべく,ロシアのティ フリスでアルメニア革命家同盟が設立された。だが,マルクス主義を基本理念 に掲げ,アルメニア人による独立国家建設を目指すフンチャク党と,他の党の 代表者たちとのあいだの合意は困難だった。フンチャク党は翌1891年にアル メニア革命家同盟を脱退した。フンチャク党の抜けたあとの同盟はダシナク党 −234− 香川大学経済論叢 678

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を名乗り,両者は別々に活動するようになる。ヴァンのアルメナカン党は,社 会主義を標榜しない点ではダシナク党と一致していたが,テロリズムなど暴力 的手段を認めない点ではフンチャク党およびダシナク党と一線を画していた。 アルメニア人の政治団体は一致団結してオスマン・トルコに抵抗することがで きず,特にフンチャク党とダシナク党の対立はアルメニアの独立・革命運動全 体にとって大きな痛手となった。 こうしたアルメニア人政党どうしの反目・対立により,散発的な活動を余儀 なくされていたフンチャク党の革命家の一部は1893年頃から戦術の転換を 図っていた。トルコ政府に改革の履行を迫るためには,たとえ同胞に多大な犠 牲が出ることになっても,武力行使やテロ行為によってマス・メディア(新聞) の関心を引きつけ,世論に訴えて,ヨーロッパ列強をアルメニア問題に巻き込 む必要があった。

3.1894−1896年の大虐殺

1894年の夏,トルコ領内ビトリス州サスーン地区でアルメニア人とクルド 人のあいだに衝突が起こる。当時アルメニア人はクルド人による不当な租税徴 収に苦しめられていた。現地に派遣されたフンチャク党の革命家は租税の納入 を拒否するよう指導し,さらに襲撃してきたクルド人を撃退するにあたって指 揮を執った。トルコ政府はこうしたアルメニア人の行動を反逆行為とみなし, 軍隊を動員して大量殺戮を行った。虐殺事件の報を受けてすぐにイギリス公使 がトルコ政府に抗議し,トルコ政府は調査を検討すると回答している。しかし それが「アルメニア人の犯罪行為」についての調査であると知ったイギリス, フランス,ロシアの領事は共同調査団の派遣を要求し,トルコ政府はこれを容 認するが,現地での調査は大幅に制限された。 フンチャク革命党は,新聞を通じてこの事件を世に知らしめ,ヨーロッパ列 強にアルメニア問題の切迫さを認識させたという点で,政治活動としては成功 とみなした。しかしその後の展開はフンチャク党が楽観したようにはならず, この事件はむしろ一連の大虐殺を引き起こすきっかけになった。このときたし 679 スイスから見たアルメニア問題 −235−

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かに本国の世論を受けてヨーロッパの各国大使がトルコ政府にたいする抗議を 取りまとめようとしたのだが,かえってヨーロッパ列強相互の利害対立が表面 化してしまったのも事実である。ヨーロッパ列強は1895年1月に共同でアナ トリア東部の行政改革案を作成し,同年5月にはアブデュル・ハミト二世にた いしてトルコ領アルメニア6州の改革に関する覚書を提出したが,結局トルコ 政府に改革実行を迫るまでにはいたらなかった。その間もアルメニア人にたい する迫害・殺戮は続いていた。 改革を実行に移さないトルコ政府に業を煮やしたフンチャク革命党は,コン スタンティノープルで大規模な抗議デモを計画した。当時コンスタンティノー プルには党の幹部会と執行委員会が存在し,前者はジュネーヴ本部の指令を後 者に伝えるかたちでトルコ領内の革命活動を統括していた。執行委員会はカ ロ・サハキアン(Karo Sahakian)という人物にデモを先導する役割を与えた。 デモの計画を聞きつけた総司教マテオス・イスミルリアン(Mettheos Ismirlian) はカロを呼び,デモは平和裏に行われるべきだと主張した。カロ自身もそれに 賛同したが,執行委員会のメンバーの何人かは同意しなかった。結論は幹部会 に委ねられ,最終的にデモは平和裏に行われることになり,各国領事館および トルコ政府にたいしても文書でその旨伝えられた。 1895年9月18日,トルコ警察が厳戒態勢を敷くなかでデモは決行された。 カロ・サハキアンは,フンチャク党の幹部会によって起草された皇帝への直訴 状を携え,官邸に入ろうとしたが,入口でトルコ警察に捕らえられ,投獄され てしまう。そのあとすぐにデモ隊とトルコ軍のあいだに衝突が起こり,事態は コンスタンティノープルのトルコ市民も巻き込んで大規模な殺戮へと発展し た。フンチャク党の革命家の指示でデモ隊の一部が武装していたという情報も ある。 その後しばらくのあいだ多数のアルメニア人が投獄され,拷問されたり,殺 害されたりした。そして10月に入るとトラブゾン,アヒサル,エルジンジャ ン,ビトゥリス,グムシュ・ハナ,バイブルト,エルズルムなどの町でも大規 模な殺戮が展開された。殺戮はトルコ東部のアルメニア人居住区全域で3ヶ月 −236− 香川大学経済論叢 680

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にわたって続けられ,ディアルベキル,アラプキル,マラティア,ハルプト, シヴァス,ゼイトゥン,ワン,ウルファのアルメニア人たちも犠牲になった。 アルメニア人政党間に政治理念や活動方針の相違から摩擦・軋轢があったと はいえ,トルコ東部で本格的な虐殺が始まった1895年10月以降,アルメナカ ン党,フンチャク党,ダシナク党が結集していたヴァンや,籠城戦が展開され たゼイトゥンなどで,現地のアルメニア人たちは果敢に抵抗した。ヨーロッパ 列強もこうしたアルメニア人の抵抗に注目せざるをえず,本格的に干渉に乗り 出し,1895年10月17日,アブデュル・ハミト二世に改革案を合意させた。 フンチャク党はこれを「勝利」と解釈したが,改革案はまたしてもオスマン・ トルコ皇帝によって反故にされ,イギリスの干渉によって1895年12月以降か ろうじて中断されていた虐殺は1896年に入って再開された。 1894年から1896年にかけて虐殺されたアルメニア人の数は5万人とも10 万人とも言われる。ヨーロッパ各国による現地調査から判断しても大量殺戮が トルコ政府によって計画的に行われたことは明らかだが,トルコ政府はアルメ ニア人殺害を実行したクルド族に責任があると主張した。

4.ジュネーヴの救済活動家(レオポルト・ファーヴル)

1896年にフンチャク革命党の内部で不和が生じ,ナザルベキアンをはじめ とする社会主義に固執する派と,社会主義を捨ててアルメニアの政治的独立の みを目指す派とに分裂した。この分裂でフンチャク革命党は弱体化し,これ以 降トルコ,ロシア,ペルシアのいくつかの町やアメリカのアルメニア人コミュ ニティーでは活動を継続したものの,明らかに求心力を低下させていった。代 わって,ロシアで結成されたアルメニア革命家同盟(ダシナク党)が勢力を増 し,トルコ領アルメニアにも強い影響力をもつようになる。 1896年7月,ヴァン,トレビゾンド,エルズルム,ビトゥリス,シヴァ ス,アンゴラで再びアルメニア人にたいして大規模な殺戮が行われた。さらに 1896年8月26日,大量の爆弾で武装したダシナク党員26人がコンスタン ティノープルのオスマン銀行を襲撃し,人質を取って立て籠もるというテロ事 681 スイスから見たアルメニア問題 −237−

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件が起こった。テロリストたちは,アルメニア総主教の復帰,アルメニア6州 の改善,租税制度改革などを要求する声明を出した。オスマン銀行はイギリス とフランスの出資で設立された銀行であり,このテロ行為はヨーロッパの関心 を引くために周到に計算されたものだった。ヨーロッパの公使代表との交渉の 末,立て籠もっていたダシナク党員は生命の安全と引き換えに撤退に応じた。 しかしその直後,コンスタンティノープルのムスリムたちは憤激して暴徒化 し,アルメニア人を襲撃した。このとき犠牲になったアルメニア人は7,000人 とも8,000人とも言われる。アブデュル=ハミト二世はダシナク党員の計画を 事前に察知しており,虐殺の際には秘密警察がトルコ人の群集の手引きをした という説もある。いずれにせよ,ヨーロッパ列強の公使たちの目の前で展開さ れた大虐殺はただちに報道され,世界中の注目を浴びた。 スイスでは,アルベール・ボナール(Albert Bonnard)が『ガゼット・ド・ ローザンヌ』紙で,マルク・ドゥブリが(Marc Debrit)が『ジュルナル・ド・ ジュネーヴ』紙で,アルメニア人たちの惨状を伝えた。ヌーシャテル,ローザ ンヌ,ジュネーヴ,ベルン,バーゼルに救済委員会が創設され,アルメニア問 題への介入要請に関する連邦議会宛ての署名が40万人分集まった。 ローザンヌで開催された第一回救済委員会代表集会の出席者としてレオポル ト・ファーヴル(Léopold Favre)という人物が名を連ねている。彼は1896年 8月15日に開かれたベルンでの会合でスイス・アルメニア人救済委員会の三 人の代表の一人に選ばれている。 レオポルト・ファーヴルは1846年にジュネーヴに生まれた。ファーヴル家 はジュネーヴに400年以上続く名門で,特に宗教改革以降の騒乱の時代には重 要な役割を演じた。レオポルトの祖父ギヨームはギリシア独立戦争の際,オス マン・トルコ帝国からの独立を目指すギリシアにたいして支援活動をしたこと もある。父と兄は地質学者,弟のエドゥアール・ファーヴル(Édouard Favre) は歴史学者で,他にも多くの学者を輩出している。 レオポルト・ファーヴルはまずジュネーヴ学士院(現ジュネーヴ大学の前身) で,そしてパリに開設されたばかりの高等研究実習学院(École Pratique des

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Hautes Études)で学んだ。当初はサンスクリット語の研究に励み,ミシェル・ ブレアル(Michel Bréal),アベル・ベルゲーニュ(Abel Bergaigne)ら言語学 者と親交を結んだ。その関係で,のちにフェルディナン・ド・ソシュール (Ferdinand de Saussure)がパリ言語学会に入会する際に,仲介役を果たしてい る。 1870年の普仏戦争の折にはスイス軍で中尉として国境警備にあたった。1871 年にイギリスへ渡り,ロンドンでテオドール・ゴルトシュトゥッカー(Theodor Goldstücker)と,1872年 に は ゲ ッ テ ィ ン ゲ ン で テ オ ド ー ル・ベ ン フ ァ イ (Theodor Benfey)と共同で研究をしている。1888年にベルゲーニュが亡くなっ てからしばらくはポール・オルトラマール(Paul Oltramare)と共同で研究を 続けたが,その後サンスクリット語の研究は断念した。この他に文学に関する 業績として,1913年にルソー『エミール』の未公刊手稿の出版を手がけてい る。また自身ピアニストでもあり,1901年から1920年までジュネーヴ音楽院 の委員会の副委員長を務めている。 レオポルト・ファーヴルの妻は敬虔なキリスト教徒だったが,1875年3 月,息子を産んだ数日後に亡くなった。そのすぐあと,アルメニアでの救済活 動を組織していたヌーシャテルのジョルジュ・ゴデ(Georges Godet)が1896 年のジュネーヴ万国博覧会の折にファーヴルを誘って正式にこの活動に引き入 れたという。 1896年9月15日に,スイス各都市の委員会の代表がベルンに集まり,スイ ス・アルメニア人救済委員会の大会が開催された。会長はジョルジュ・ゴデ で,ヌーシャテルに委員会本部が設置されることになった。9月29日にロー ザンヌでも会合が開かれ,委員会としてトルコ領アルメニアで孤児保護活動を することが決議された。1897年2月,ジュネーヴ支部の委員長だったレオポル ト・ファーヴルは,視察のためにコンスタンティノープルに赴いた。彼は現地 でアメリカのキリスト教使節団によって設立された孤児院を訪れ,実際に被害 にあったアルメニア人の惨状を目の当たりにした。またファーヴルは欧米諸国 の活動家たちとも密接な関係を築き,のちに人権同盟の総裁となるフランシ 683 スイスから見たアルメニア問題 −239−

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ス・ド・プレサンセ(Francis de Préssensé)や,詩人で活動家のピエール・キ ヤール(Pierre Quillard)らと親交を結んだ。 ファーヴルはアルメニアには自身6回訪れている。彼のアルメニア訪問の足 跡を簡単にたどると,まず1903年,アメリカ人使節とともにマルセイユから 海路で向かった。8月29日にシヴァスに到着し,4週間滞在。シヴァスにはス イス人が運営していた孤児院があった。その後各地を転々とし,12月中旬に ジュネーヴに帰還。翌年第2回目のアルメニア訪問は,1904年8月12日に出 発し,12月23日ジュネーヴ帰還。1905年10月に第3回目の訪問。このとき はジョルジュ・ゴデも同行した。1906年に第4回目の訪問。シヴァスに3週 間滞在するなどして,8月末ジュネーヴに帰還。1908年に青年トルコ党革命が 起こる。アブデュル・ハミト二世は立憲君主制を受け入れ,アルメニア人たち は新体制を歓迎するが,発足後一月にも満たない1909年4月(アブデュル・ ハミト退位後),アダナおよびキリキア全土で再び大虐殺が行われる。レオポ ルト・ファーヴルは大虐殺が勃発する直前の4月5日に,5回目の訪問のため にスイスを出発していた。革命が起こったとき彼はコンスタンティノープルに いた。キリキアでの虐殺をまだ知らずに彼を含めスイスの活動家たちはシヴァ スへ向かい,4月25日に現地に到着するが,ジュネーヴからの電報で虐殺事 件を知り,コンスタンティノープルに引き返す。5月20日までコンスタンティ ノープルにいたが,キリキアへ再び入ることは断念した。1909年8月15日頃 にコンスタンティノープルで数日過ごし,その後9月22日にキリキアへ出 発。これは現地のアルメニア人たちの状況と救済委員会による救済活動がどの ように行われているのか個人的に確認するためだった。これが最後の第6回目 の訪問となった。 レオポルト・ファーヴルの活動は,思想的には人道主義とキリスト教精神に 基づいていた。私財を投げ打って,特に孤児院創設のために奔走した。現地は 道路も鉄道も寸断された状態で,馬に跨って駆け回った。訪れた先の学校や教 会に寄付もしている。また現地からの報告を公刊するなど,支援の拡大に努め た。 −240− 香川大学経済論叢 684

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5.国際親アルメニア同盟

レオポルト・ファーヴルはその後もジュネーヴで救済活動を継続した。この 間トルコでは青年トルコ党がアルメニア人絶滅計画を準備していた。1915年 4月から5月にかけて計画は実行に移された。同年秋にも大規模な虐殺が行わ れた。これが冒頭で触れたいわゆる「アルメニア人虐殺」だが,ファーヴルが 訪れたスイスやアメリカの団体の孤児院で保護されていたアルメニア人の大多 数も虐殺されたり強制移送の過程で亡くなったという。このときスイスでは新 たに「アルメニア人救済1915年委員会」が組織された。もちろんファーヴル も同委員会の創設に携わっている 1918年11月,大戦が終結し,ようやくアルメニア人にも希望が見えるかと 思われたが,疎開先から戻ってくるアルメニア人のなかには住居を失った人も 多く,引き続きアルメニア人にたいする援助は必要だった。1918年12月にス イスであらためて救済活動が組織される。レオポルト・ファーヴルは中央委員 会の委員長に任命され,シヴァスにある孤児院の存続を決議した。国際平和へ の歩みは着実に進んでいるかに見えたが,アルメニア問題は,再開されたとい うよりむしろ,なお継続していたと言うほうが正確であるような状況だった。 1920年7月,パリで親アルメニア国際会議が開催された。これはレオポル ト・ファーヴルはじめジュネーヴの代表が,全世界へ向けてアルメニア人救済 活動への参加を呼びかけたものである。会議では議案として国際親アルメニア 同盟(Ligue Internationale Philarménienne)の発足が取りあげられ,全会一致で 採択された。レオポルト・ファーヴルはジュネーヴに本部を置くことを選ん だ。中東地域での事件に対処するにあたって,政治的中立という意味でも,財 政上の観点からもそう判断した。また,一つの国際同盟に政治的権限を集約さ せる必要があると考え,実質的に彼自身がジュネーヴで中心的な役割を果たす ことになるということも想定していた。1920年9月に国際親アルメニア同盟 はジュネーヴで正式に発足し,レオポルト・ファーヴルは名誉会長に任命され た。しかし彼はその後まもなく健康を損ねてしまう。1922年の2月22日に彼 685 スイスから見たアルメニア問題 −241−

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の自宅で行われた会合では,コンスタンティノープルに再び孤児院を創設する ことが決まった。彼は「この活動は,私がいなくても遂行されねばならない」 と言い残し,同年4月4日に亡くなった。 1924年9月1日,ジュネーヴで国際親アルメニア同盟の第一回会議(「親ア ルメニア派とアルメニア人の会議」)が開催された。会議に先立って,同盟は パリでアルメニア人救済活動を展開していたある団体にも参加を呼びかけてい たが,その代表は7月23日付けの手紙でこの申し出を断っている。その理由 は,同盟の秘書アントニー・クラフト=ボナール(Antony Krafft-Bonnard)が 前年の11月にパリを訪れた際,文書および口頭で再三注意した点を,会議の プログラムは踏襲していないというものだった。 また,やはり参加を呼びかけられていたパリ・トランスカフカス委員会 (Comité Trancaucasien de Paris)は,9月1日にジュネーヴで開催される会議へ の招集に応じるかどうかを8月19日の会合で審議し,次のような結論を出し た。!プログラムに記載されたようなかたちでの会議はアルメニア人の要望や 関心を代弁するものにはなりえない。「アルメニア」という国の名で発言する 権利があるのは唯一アルメニア政府だけである。"国際親アルメニア同盟は, 政界の山師たちに唆されて,当方とはかけ離れた道を進んでしまっている。同 盟は取り返しのつかない事態に陥る前に,そのことを理解されたい。#アルメ ニア人はこの4年間平和に暮らしている。彼らは働き,立ち直り,自らの国を 再興している。外国人たちもそのことを認識している。会議のプログラムはこ の復興の勢いを間接的に損ねてしまいかねない。$難民問題はアルメニア政府 の協力をもってはじめて解決される。この協力を排除するような企画はどれも 失敗する運命にある。悲惨な目にあっている何万人もの人々にどうにもならな い幻想を抱かせるのは重大な誤りである。以上から,国際親アルメニア同盟が 当方の忠告を無視し,アルメニア人を不幸のどん底に突き落とした自称「代表 者」ないし「代理人」の踏み台になりさがってしまうなら,当方はしかるべき 措置をとる。 このように,パリ・トランスカフカス委員会からの返信はかなり厳しい批判 −242− 香川大学経済論叢 686

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を含んでいた。同委員会との現状認識の相違は,ジュネーヴ・国際親アルメニ ア同盟が予想していたよりはるかに大きかったと言える。また,同盟がパリで 行った集会に二度出席したことのある活動家もやはり国際親アルメニア同盟の 呼びかけにたいして懐疑的な態度を示している。この活動家は主にキリキア地 方で救済活動に従事し,アルメニア人たちが実際に避難するのを目の当たりに して,パリに戻ってきたばかりであった。彼によれば,アルメニア人たち自身 が,検討を重ねたうえで,この種の会議の開催を放棄している。その背景に は,選挙や財政など技術的な問題もあるが,それ以上に,在外のアルメニア人 たちが,正規のアルメニア政府にたいして,自ら「政府」を名乗ることができ ないという本質的な問題がある。このいわば二重政府状態にアルメニア人たち は苦しめられてきたのであって,そこへ逆戻りして自らの要求や利益を損なわ れるのはアルメニア人たちの望むところではない。それゆえ,国際親アルメニ ア同盟の呼びかけは,アルメニア人たち自身のあいだにも驚きと不快感をもた らした。全体的な印象として,同盟の執行部は一政党に影響をうけ,アルメニ ア政府と対立しているように見える。これでは,たとえ善意からであっても, アルメニア人たちにさらに大きな災いをもらたしかねない。すでにいくつかの 新聞記事もそのような趣旨で執行部を批判している。アルメニア人諸政党の外 部で活動している同盟が,一つの政党だけに肩入れするのは適切でない。 パリの活動家たちが異口同音に違和感を覚えた会議のプログラムには,亡命 アルメニア人の保護・救済が国際親アルメニア同盟の主要な活動内容であり, 今回の会議では,5万人の避難民の帰国や,欧米諸国家で避難所生活を余儀な くされているアルメニア人の将来について議論される,とある。さらに,個別 的な問題として,難民受け入れ先の政府とのいくつかの外交的な問題が言及さ れている。具体的には,!身分証明書,パスポート,滞在許可証,保障に関す る国際連盟および各国政府との国際関係。"アルメニア人難民が置かれている 特殊な状況を踏まえた大規模かつ寛大な収容への呼びかけ。#各国の救済委員 会との関係。$孤児・少女・母子家庭の保護。%病人・結核患者の救済および 養護施設の設置。&孤児・難民のための国民教育・倫理教育センターの創設。 687 スイスから見たアルメニア問題 −243−

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!国民精神の発達とアルメニア文化の保護。"中東地域にたいする国際的連 携。#離散したアルメニア人たちどうしの国民的絆を強化するためのアルメニ アの報道機関にたいする支援。$アルメニア人の青少年団体の創設と発展。 1924年7月に発行されたこの会議のプログラムには名誉総裁として故レオ ポルト・ファーヴルの名前もあった。レオポルト・ファーヴルはヨーロッパ列 強の利己的な外交政策にアルメニア人虐殺の責任があると考えており,だから こそヨーロッパ各国政府に救済を呼びかけた。彼の活動は,思想的には人道主 義やキリスト教精神に基づいていたが,本質的に政治的なものであった。国際 親アルメニア同盟の,国レベル,政府レベルでの政治的な働きかけは,レオポ ルト・ファーヴルのこうした考え方を踏まえたものであったと言える。 9月1日の会議開催後に総裁エドゥアール・ナヴィル(Édouard Naville)と 秘書アントニー・クラフト=ボナールを差出人として参加者宛てに送付された 公開書簡には,この同盟の活動の趣旨がじゅうぶん理解されておらず,むしろ 誤解されていることにたいするいら立ちが読み取れる。同盟は一つのアルメニ ア人政党だけに肩入れし,そしてその政党に裏切られたのだと言われていた が,この公開書簡のなかでナヴィルとクラフト=ボナールらはそうした風評は 事実無根であるとして,同盟はアルメニアの内政に干渉する団体ではなく,私 利私欲のない,公平な精神で活動しているということを強調している。 上で見たように,アルメニア内外で活動していたアルメニア人諸政党のあい だには,思想信条の相違や,政治的理念の実現に向けた手段の点で齟齬・軋轢 があり,決裂・分裂したりして,民族自決へ向けた運動はけっして統一がとれ ているわけではなかった。国際親アルメニア同盟による呼びかけの「失敗」は, アルメニア問題における被害者であるアルメニア人と同様に,第三者の立場で 介入する救済活動家の側にも,共同・団結するには困難がつきまとうことを露 呈させてしまった。今後,善意に基づく人的連携を形成するにあたって,歴史 的教訓にしなければならない事例と言えるだろう。 −244− 香川大学経済論叢 688

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参 考 文 献

Alem, Jean-Pierre(1959), L’Arménie, Paris, PUF.〔ジ ャ ン=ピ エ ー ル・ア レ ム,『ア ル メ ニ ア』,藤野幸雄訳,白水社,1986。〕

Favre, Léopold(1923), Léopold Favre, Albert Kundig, Genève. 藤野幸雄(1991):『悲劇のアルメニア』,新潮選書。

中島偉晴(2007):『アルメニア人ジェノサイド――民族4000年の歴史と文化』,明石書店。 Nalbandian, Louise(1967), The Armenian Revolutionary Movement, Berkeley and Los Angeles,

University of California Press.

Pasdermadjian, H.(1949), Histoire de l’Arménie, Paris, Librairie orientale H. Samuelian. Saussure, Ferdinand de(1960), Cahiers Ferndinand de Saussure, n°17, Librairie Droz, Genève.

※パリの救済活動家の書簡および国際親アルメニア同盟のプログラム等は,ジュネ ーヴ・アルメニア・センター(Centre Arménien de Genève)の書庫に保管されてい る未整理資料を参照した。

参照

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