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管理論としての経営経済学の基本的構造-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第66巻 第 3号 1993年 12月 99-137

管理論としての経営経済学の基本的構造

渡 辺 敏 雄

I 序 ドイツにおける経営学的研究は,その成立期には,特に国民経済学から分離 しようとした胎動の中から生まれて,私経済学

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次大戦後のドイツの経営学的研究を見ても,そこでは,グーテ ンベノレク

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つの大きな流れが形成されてきたと言 えよう。 ドイツ経営学においては管理論的研究は,こうして,主潮流的な存在ではな かったものの, ドイツ経営学においてもまた管理論的研究は存在したし,また (1) 成立期のドイツ経営学に関する研究については,例えば次の書物を参照のこと。 田島社幸, ドイツ経営学の成立(増補版),森山香J吉, 1979年。 (2 ) 第2次大戦後のドイツ経営学の発展に関しては,例えば次の論稿を参照のこと。 田島枇幸(稿),経営学の基礎1, 経 営 学 的 研 究 の 発 展 ド イ ツ に お け る 経 営 学 的 研 究の発展,税経セミナー,税務経理協会, 1981年 10月号。

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-100- 香川大学経済論叢 592 現 在 に お い て も 存 在 す る 。 管 理 論 の 代 表 的 な 研 究 者 と し て は , 例 え ば , 1950年 代 か ら 1960年 代 に か け て は , ザ ン デ ィ ッ ヒ (CSandig), メ レ ロ ヴ イ ツ ツ (KMellerowicz)の 名 前 が 直 ち に浮かぶし,また 1970年代に入ってからは,ウノレリツヒ ( HUlrich)の 名 前 が 浮 かび,最近では, Fuhrungな い し Managementを 標 題 の 一 部 に 掲 げ た 書 物 は , 枚 挙 に 暇 が な い ほ ど 多 数 に の ぽ り , も は や ド イ ツ 経 営 学 に お い て は 管 理 論 的 研 (3) 究 は 少 な く と も

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つ の 潮 流 に な り つ つ あ る と 言 っ て も 過 言 で は な い 。 (3 ) ドイツの経営学的研究における管理論的方向の学説の紹介と検討については,例えば 次の書物を参照のこと。 菅家正瑞,企業政策論の展開,千倉書房, 1988年。 同 ,企業管理論の構造,千倉書房, 1991年。 今野登,ドイツ企業管理論,千倉書房, 1978年。 間 ,現代経営経済学一一一多元論的展開一一,文民堂, 1991年。 因みに,今野教授のこの後者の書物に関するわれわれの見解については次の拙稿を参 照のこと。そこにドイツ企業管理論を研究する途上におけるわれわれの考える諸々の課 題が記されている。 渡辺敏雄(稿), ドイツ企業管理論の検討方法に関するノート一一今野 登教授の近著 を巡って , 香 川 大 学 経 済 論 叢 第 65巻 第 4号, 1993年 3月。 さらに,第2次大戦後のドイツ語圏の管理論の発展についての理解に関しては,われわ れは,これらの邦語文献以外に,次の書物に多くを負っている。 J -P Thommen, DぬLehreder Unternehmungsjuhru叩g-Eine wzssenschajtshis -torische Betrachtung im deutschsρrachψen Raum-, Bern u.. Stuttgart1983 トーメンのこの書物が取り上げた時期に後続する 1970年代から 1980代前半に重点を 置きつつドイツの管理論あるいは経営政策論の主だった研究を紹介ならびに検討した論 稿にドルーゴスの次のものがある。 G. Dlugos, Die Lehre von der Unternehmungspolitik-eine vergleichend巴Analyse der Konzeptionen, in: Dze Betriebsωirtschajt, 44..Jg., 1984, SS.287-305 また, トーメンならびにドルーゴスのこれらの研究における検討の対象となった時代 以後,つまり 1980年代中盤から今日に至る時期のドイツ語圏における管理論の成果とし て,われわれは例えば次のような書物を挙げることができるであろう。 G.J B. Probst und H Siegwart (Hrsg), lntegriertes Management-Baustein des systemorientzert仰, Managementー, Bern u Stuttgart1985

P Ulrich und E.Fluri, Management, 4.Auf,.lBern u.. Stuttgart1986

R Wunderer (Hrsg), Betriehsωzrtsc向ftslehreals Management-und Fuhrungslehre, 2巴rganzteAufL, Stuttgart1988

W H. Staehle, Management, 4.Aufl, Munchen 1989

J←P Thommen, Mana,否問叩entorientierte Betriebswirtschajtslehre, 2, uberarb Auf!, Bern u Stuttgart1990

日Steinmann und G. Schreyδgg, Management-Grundlagen der Unterneh押2ungs

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593 管理論としての経営経済学の基本的構造 4, AU 7i A 他方,アメリカの経営学的研究においては,管理論が主潮流をなし,それは 実践的研究であると言われてきた。われわれが見る限り,アメリカ経営学の主 潮流となっているのが実践的な管理論であるということの意味は,経営現象に 関する研究が営まれる場合には,実践的な効率変数が,明示的あるいは暗示的 に常に念頭に置かれ,さまざまな現象がこうした効率変数に対して持っている 効果が追求され,場合によっては,研究の最後に組織の効率的管理のための実 践的合意(practicalimplication)が触れられるということである。こうした形 の管理論的研究がアメリカ経営学の主潮流をなしていることについては疑いな いところである。 また,研究方法としては,現実に関する仮説(Hypothese;hypothesis)を形成 して,それを経験的テストによって,真偽に関して試していくという経験的研 究(empirischeForschung; empirical study)がアメリカ経営学の精神になっ ている。 以上のことを総合すると,アメリカの経営学的研究の主潮流は,最終的には 実践的な意義を重視する,経験的な研究方法による管理論的研究であるという ことができょう。 さて,確かにアメリカの経営学的研究においては,具体的な仮説あるいは命 題の形で,管理論の内容が充填してきていることは明らかである。ところが, われわれの自には,そこでの研究は,多くは側面的な現象に関する研究に終始 し,管理論の基本的特質ないし基本的構造を究明しようという意識は完全に希 薄である。 これとは対照的に, ドイツにおいても従来見られた管理論的研究は,場合に よっては,上記の意味で、管理論の基本的構造に対して十分な意識を払ってはい るものの,その際アメリカの管理論的研究の内容が殆ど参照されていないか, あるいは参照されていても現代から見れば参照された管理論的研究の内容が 少々古くなっているか,または,アメリカの管理論的研究の内容を同時代的に 積極的に取り入れている場合には,取り入れそのものに汲々として,今度は, 管理論の基礎的構造に立ち戻るということにまでは往々及んでいない。

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102ー 香川大学経済論議 594 アメリカの管理論的研究の最近の内容まで追いつつ,かつ,管理論の基礎的 議論も詳細に展開しているという希有な研究者に, ミュンヘン大学経営経済学 部 組 織 研 究 所

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教授のウェノレナー・キノレシュ

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, 1937-)がいる。 キルシュは,経営経済学を管理論

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として位置づけ,管理論の 基礎的議論の必要性を常に意識し,管理論の方法論的基礎に立ちかえって議論 するとともに,英米の管理論的研究の成果を積極的に導入して,管理論の内容 的枠組を示そうとしている。 われわれの見解では,科学的研究には,一方で具体的内容的研究の進捗が必 要とされるが,それのみでは十分ではなく,常に自らの展開している研究の意 味ないし意義に関する方法論的省察が要請されるはずなのである。そうした意 味で,現代管理論の内容的側面にのみならず,その基本的構造を巡る基礎的議 論に多大の関心を寄せるわれわれとしては,キルシュの学説に大きな関心と期 待を寄せざるを得ない。 キノレシュがかれの管理論に関する考えを初めて明らかにしたのは,その著書 『管理論としての経営経済学~ (Die Bet仰 bswirtschaftslehreals Fuhrungslehre -Erkenntni

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sagensysteme, wissenschaftlicher Standorl一,

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1977)によってであり,かれはその後も多数の書物を公刊している が,この書物において,かれの管理論の基本的構想ならびに方法論的立場が示 されたと考えられる。 ( 4 ) 本稿では,われわれはこの書物を

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と略記する。 (5 ) キノレシュの経営経済学説に関しては,本稿筆者の次のような論稿がある。 渡辺敏雄(稿),管理論としての経営経済学に関する考究(1トーウェルナー・キルシュ の見解を中心に一一,香川大学経済論議ー第59巻 第l号,昭和61年6月。 渡辺敏雄(稿),管理論としての経営経済学に関する考究(2・完)一一ーウエルナー・ キルシュの見解を中心に一一,香川大学経済論叢第59巻 第2号,昭和61年9月。

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,香川大学経済論叢第 65巻 第1号, 1992年6月。 さらに,キルシュの意思決定過程論を中心にした学説に関しては,次のような論稿があ

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595 管理論としての経営経済学の基本的構造 103 われわれは,この書物を中心にして,-管理論」として位置づけられたキルシュ の経営経済学の特徴を克明に描き出し,かれの考える体系で今後明確にされる べき若干の点をもあわせて析出したい。だが,その際,もとより管理論とし ての経営経済学』に盛られている内容全てに言及するわけにはいかないので, 本稿では,かれの考える管理論のもっとも基礎的な部分であるその骨格に関す る側面に論述を限定したい。 II 経済科学から管理論へ キ/レシュは,経営経済学が管理論(Fuhrungslehre,Managementlehre)とし て形成される方向に向かっていると考える (B, V F orwort)。 かれによれば,経営経済学は,国民経済学(Volkswirtschaftslehre)の端の方 で,微視経済的単位としてあらわれている経営(Betrieb)と家計(Haushalt)の 特殊「経済的諸側面J(spezifisch

konomischeSeite")に考察を集中する経済 科学(Wirtschaftswissenschaft)の部分学科(Teildisziplin)としてその科学的 立場を見いだしてきたのだが,約

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年来この立場に関する規定はますます疑問 視されつつある

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, V F orwort)。 つまり,経営経済学は経済科学の部分学科に志向しているのではない。「英米 流の管理論に向かうという新志向(Neuorientierungin Richtung auf die an -gelsachsische Managementlehre)がまぎれもなく見てとれるのである。J

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,F Vorwort) キノレシュは,この見方に与しながら上記の新志向に沿いつつ,経営経済学を 管理論(Fuhrungslehre)として規定するのである。 る。 渡辺敏雄(稿), *邸哉と組織的意思決定過程一一意思決定過程論における組織把握の構 想を巡って一一,香川大学経済論議‘第61巻 第3号,昭和63年12月。 渡辺敏雄(稿),組織における社会化と交渉一一意思決定前提の発生過程を巡って一一二 香 川 大 学 経 済 論 叢 第62巻 第2号, 1989年9月。 Toshio Watanabe, Zur Handhabung von Problemen in Organisationen-Gren舗 zen des Model1s der zwischenmenschlichen Einflusnahme一 , 香 川 大 学 経 済 論 叢 第 65巻 第3号, 1992年12月。

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104- 香川大学経済論叢 596 われわれは,キルシュの経営経済学説のいわば出発点をなす論述について, 既に 1つの確認をなすことができるのである。 すなわち,キJレシュが経営経済学を管理論として規定する場合には,経営経 済学はもはや経済科学の部分学科としてではなしそこから離れて営まれる, ということである。われわれは,キルシュの経営経済学説が,経済科学から, この場合には国民経済学から,離れようとしているということを確認できるの である。 キルシュは,まずドイツ経営経済学の歴史的経緯,就中第 2次大戦後のそれ を考察する。そして,その基本的特質の流れの中からかれの経営経済学説の進 むべき方向を見いだそうとするのである。 その際,第2次大戦後の斯学の歴史的経緯に当初見られた,経営経済学と国 民経済学 (1folkswktsdablehr(;)との密接な結びつきが,何を費したのかをキ ルシュは問う。 まず,キノレシュは, 1950年代の経営経済学の事情に関して,コジオール(E Kosiol)の見解によりつつ,いまだかれの学説には経営経済学と国民経済学と の結びつきが見られることを確認している (B, SF S.. 9-11)。コジオーノレの見解 には,経営経済学が科学的学科として長足の進歩を遂げてきたことが見られる ものの,かれの見解に同時に窺える,...国民経済学に対する密接な依存と, 国民経済学と経営経済学が分業的な様式で『特殊経済的問題』を扱わなければ ならない統一的経済科学 (einheitlicheWirtschaftswissenschaft)への要求は, (6 ) キルシュの管理論としての経営経済学の出発点をなす論述に対する疑問として,次の ようなことが考えられる。経営経済学が管理論の方向に向かっているとかれが考える際 に,管理論的な方向を採る代表的な経営経済学者を挙げている。ところがもとより必ずし もすべての経営経済学者が管理論の方向を採るわけではないにもかかわらず,かれは,経 営経済学が管理論の方向に向かっているとしている。事実,キルシュの管理論に関してこ のことを問題にする研究者もいる。 エルシェンの次の論稿を参照のこと。 R Elschen, Fuhrungslehre als betriebswirtschaftliche Fuhrungskonzeption?, in: W. F Fischer-Winkelmann (Hrsg), Paradigmawechsel in der Betriebswirtschafts -lehreそSpardorf1983, SS.242-243 (7) キルシュは国民経済学を表現するために, Nationalδkonomieなる言葉をも使用する。 Vgl BF, SS 10-11

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597 管理論としての経営経済学の基本的構造 105-(経営経済学の科学的学科としての長足の進歩が窺えるということとは一一渡 辺)また別様に判断されるべきである。J(BF, S..10) ここには,経営経済学が統一科学への要求に応じたことが粛すものについて, キノレシュが慎重に検討しようとしていることが窺える。われわれはかれの言う ところをさらに開きたい。 国民経済学に対する密接な依存と,統一的経済科学への要求は,確かに科学 としての経営経済学の承認を促進した。「学問的世界で承認されていた国民経済 学の『固い込み~ “(Umarmung")は,経営経済学の承認の過程(Prozes der Anerkennung der Betriebswirtschaftslehre)を促進した。特にグーテンベルク の微視経済学的業績(dasmikrookonomische Werk Gutenbergs)(1951)は,国 民経済学者を得心させ,また統一的経済科学的理論の理念を受け入れ可能に見 せる相応の科学的給付もまたこの『囲い込み戦略』に対応して出現することに 大いに貢献した。J(BF, S 10) さらに,微視経済学の導入はより具体的には経営経済学に何を粛したのかと いうことに関してキルシュは次のように考える。微視経済学の正確に数学的に 定式化された部分が支配的位置を占めること (Dominanzder exakt mathe-matisch formu日ertenTeile der mikrookonomischen Themrie)は,経営経済 学が正確な科学(exakteWissenschaft)として見られる道を聞き,経営経済学 の関心の射程の中にオペレーションズ・リサーチの定量化された方法の導入 (Einbeziehung der quantitativen Methoden des Operations Research)のため の領域を賛した (B, SF ..10)。 こうして,当時の経営経済学の国民経済学に対する関係には,一方では,承 認という包括的な側面と,他方では,承認に導く具体的な科学の営み方として の定量化された方法の導入というより具体的な側面が見られたのである。キノレ シュはこの点を巡っては次のように言う。 「そのかぎりで,経営経済学の展開は,全く肯定的に評価されなければなら ない。J(B,F SS.. 10-lL) だが,キノレシュは統一的経済科学という構想、には必ずしも肯定的側面のみが

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-106- 香川大学経済論叢 598 含まれているとは考えず,それどころか寧ろそうした構想に潜む否定的側面に 往日する。すなわち,かれによれば,統一的経済科学という構想のなんらかの 否定的帰結(g

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も見逃されてはならないのであ る(BF,S 11)

この場合の否定的帰結としては,-経営経済学が,そうすること(統一的経済 科学という構想に従い,国民経済学の認識に強度に影響を受けたこと一一渡辺) によって,認識進歩

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l1)という ことが考えられている。かれはそうした認識進歩を阻む可能性を持つ制約につ いて次のように考えている (BF,S..l1)。 キルシュは,認識進歩を重視し,この認識進歩にはパラダイム転換

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を国有の様式で限定するのであり,パラダイムの絶対 視ということは,服務規則の絶対視が行われることに通じる。キノレシュによれ ば,-経験によると,ある理論の服務規則は,その理論の構成

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l1)。この意味で,国民経 済学の微視理論を取り込んだ経営経済学には微視理論の服務規則が持ち込ま れ,-この学問(経営経済学一一渡辺)の科学構想において,国民経済学の古典 的微視経済学ならびに現代的微視経済学が,経営経済学内での(微視経済学の 目的と一一渡辺)相応の対をなすもの以外の目的(この場合,服務規則のこと 一一渡辺)に役に立たなくてもよいのかどうかがほとんど問われなかった。」 (BF,

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599 管理論としての経営経済学の基本的構造 -107-この場合の経営経済学に導入されることとなった国民経済学の微視理論の服 務規則とは,オペレーションズ・リサーチによってなされている,現象を数量 的に把握するための諸前提を置きつつ行われる企業にまつわる各種の経済計算 の展開をなすことを指し示すと考えられる。経営経済学においては,承認を得 ている国民経済学の微視理論が絶対視され,次に微視理論が各種の経済計算の 展開以外の目的に役立たなくてもよい,と確信されるにおよんで,それを通じ てその服務規則の絶対化が行われ,経営経済学の中で他の司能な服務規則が主 張され難くなったのである。 このように,服務規則を含んでト内容を大きく縛られるかたちで国民経済学に 対して密接に依存したということは,経営経済学が他の隣接諸学科(Nachbar -disziplinen)に対して自らを特に厳しく画定したという帰結を費した (B,F S 11)

われわれはここで,キノレシュの見解の中から,かれの主張に関してとりわけ 重要な次の点を確認しなければならない。 すなわち,まず,キルシュの経営経済学説においては,認識進歩の達成が重 視されているということである。そして,次に,認識進歩が達成されるために は,ある特定のパラダイムの絶対視は阻害要因であると考えられているという ことである。 これらの点をわれわれは確認できるのであるが,では,なにゆえ認識進歩が 重視されるのか。また,経営経済学が他の隣接諸学科に対して自らを特に厳し く画定するという帰結を粛したということがキJレシュの見解の中ではなにゆえ 否定的な響きを伴って評価されていて,かれはこれに対して隣接諸学科の取り 込みになにゆえ積極的なのであろうか。 また,国民経済学に従属することを通じて,その服務規則の絶対化が行われ, 経営経済学の中で他の可能な服務規則が主張され難くなったのだと言われてい るが,その際の経営経済学の中での他の可能な服務規則とは何であろうか。 われわれはこれらの疑問に関してはかなり明確にキルシュの見解を知ること ができる。そのために,われわれは,まず経営経済学研究者から見た国民経済

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-108- 香川大学経済論叢 600 学,特に微視経済学的企業理論(mikroakonomische Unternehmenstheorie) (BF, S..79)についてのかれの見解を見ょう。

微視経済学的企業理論においては,企業は技術経済的に志向した生産要素の 結 合(technischδkonomischorientierte Kombination von Produktionsfak -toreロ)と見なされていて,決して社会システム(sozialesSystem)としては見な されてはいないのである (BF,S..79)。そこでは r人間行動に関する諸々の基本 前提は隣接諸学科の構想とは無関連にかたちづくられ,部分的には極端に非現 実(extremunrealistisch)に見えるのである。J(B,F S.80) こうした方途の中では r人聞は『生産要素

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“Produktionsfaktor")であり, さもなければ経済人としてふるまう。J(BF, S..80)そしてこのような非現実的 な認識を含む理論構成は,一連の「他の条件につき等しければという条項」 ( “Ceteris-Paribus-Klauselつ に よ っ て 経 験 的 テ ス ト に 対 し て 免 疫 を 施 さ れ (immunisiert),経験的現実から隔離状態にされている (BF,S..80)。 これらの言葉からわれわれは,キルシュが企業の現実の姿から閉ざされた前 提を否定し,企業に関するより現実的な姿に近づこうということを少なくとも かれの

1

つの重大な目的にしているということを窺い知ることができる。それ 故 r,…この(微視経済学的企業理論の一一渡辺)パラダイムがその給付能力 の限界(Grenzeseiner Leistungsfahigkeit)に突き当たっているという証拠は ますます増えているようであるJ(B,F S..81)と言われる場合の給付能力も,企 業の現実的な姿を把握するという能力という意味で理解されなければならない のである。 それ故,なにゆえ認識進歩が重視され,なにゆえキノレシュは隣接諸学科の取 り込みに積極的なのであろうか,また経営経済学の中での他の可能な服務規則 とは何であろうか,という上記の一連の聞いには,キノレシュは,企業に関する より現実的な姿に近づこうとしているために,あるいは企業に関するより現実 的な姿に近づくことを可能な服務規則としている,と答えることができると, われわれは考えるのである。 企業に関するより現実的な姿に近づこうとしている,ということこそキル

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601 管理論としての経営経済学の基本的構造 109-シュの根底的意図の

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つであり,この意図からほとんどすべてのかれの態度が 出発す

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。いわく r認識進歩の重視J,r他の隣接諸学科に対する経営経済学の 特に厳しい画定の拒否とそれと表裏の関係をなす隣接諸学科の積極的な取り込 みJ,r経営経済学の中で、の他の可能な服務規則の強調」は,すべてこの意図に 端を発する。 企業に関するより現実的な姿に近づこうとしている,というキルシュの根底 (8 ) われわれが知る限り,キルシュと同じく企業に関するより現実的な認識を基礎に置き つつ自らの学説の展開を行うことを明言している日本の研究者に,土屋守章教授がいる。 教授はまた経済学からの企業像を批判的に取り扱う点でもキルシュと似る。研究目的が 経済学のそれとは異なるのに,経済学からの「借りものの企業概念」を盲信し,そうした 像を根拠に研究をする立場を,教授は批判する。(土屋守章,現代企業論,税務経理協会 出版, 1991年, 58頁。)ただし,教授は,こうした批判jに立脚しながら,管理論を展開し ようとしているのではなくて,むしろ教授の書物名が示すように,企業論」を展開しよ うとしている。ここに,教授の企業論は,われわれの社会において企業がもっている意味 を明らかにしようと企画されている。例えば,教授の議論の一例として,大企業が従業員 に対して行う福利厚生側面の並外れた充実が社会的には何を賛しているかの議論があ る。(上掲書,第3章参照。) また,企業の社会的責任論を支える理論の候補としては,教授は,バーナードに始まる 組織理論を考え 少なくとも私自身は,そこ(バーナード理論一一渡辺)から,人 間について,企業について,また社会についての新しい見方が出てくるという希望を失つ てはいない。J(上掲書, 155頁。)そして,バーナード,サイモン流の組織均衡理論が1章 を設けて論じられている。(上掲書,付論1,209頁以降。)この意味では教授は,そうし た理論に立脚して現実的な企業像を得ながら企業の社会的影響を考察することにより, かつての規範的提言に満ちた,題目を説くこと中心の企業の社会的責任論を客観化しよ うとしていると言うことができるであろう。 教授のこの企画が既に明確に示しているように,経済学の企業像から離れて現実的な 企業像を得ることを企画しつつもキルシュと土産教授は,全く違う方向に立論していく。 片や管理論を組み立てようとし,片や企業論を組み立てようとしているのである。 われわれにとって興味深い点は,この違いから,管理論の特徴がむしろ鮮明にされう る,ということである。つまり,企業論を鏡にした場合,同じく現実的な企業像を基礎に 置きながらも,管理論は,企業が持つ社会的影響を考察しようとはしないということが特 徴としてあり得るのではないかと考えられる。より限定して言えば,管理論と企業論と は,根底に置く科学観が異なると考えられる。 それではキルシュはかれの提唱する管理論の根底にどのような科学観を置こうとする のか。われわれがここで言う科学続の違いとは,理論的科学の展開を企画するのか,応用 的科学の展開を企画するのかということを意味している。つまり,キルシュは応用的科学 の展開を目指し,土屋教授は理論的科学の展開を目指しているのではないかと考えられ る。さらに,こうしてもしその根底に置かれる科学観が異なれば,またそれが支持しよう としている価値観も当然のように異なる。そうだとすれば,本稿との関連では,一体キル シュの支持しようとする価値とは何か,が当然われわれの問題になる。

(12)

-110ー 香川大学経済論叢 602 的意図がかれの学説の流れ出る源である。 さて,われわれは以上でキルシュの根底的意図がすぐ上で述べられた意味で の現実化というものにあることを窺い知ったのであるが,こうした意味での根 底的意図を実現していくために,かれが,国民経済学特に微視経済学的企業理 論のパラダイムに代えて, どのようなパラダイムを採用しようとしているのか を探る必要がある。なぜなら,それを探ることこそかれの経営経済学説が,実 質的にどのような認識で充填されようとしているのかをつきとめることを意味 するからである。 しかし,われわれはキルシュの経営経済学説の基本的特質を探るにあたって, こうしてかれがどのようなパラダイムを採用しようとしているのかを知るため には,かれの管理論の基本的構造のかれ自身による甑縮された表現である「管 理の学問に基づく管理のための学問J

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の意味を明らかにする必要がある。なぜな ら,そのようにして基本的構造を明らかにしてこそ,パラダイムに対するかれ の管理論の関係も明らかになってくるからである。 それ故,われわれは,キノレシュの言う「管理の学問」と「管理のための学問」 の意味を明らかにして,それに基づきつつ I管理の学問に基づく管理のための 学問」の意味を明確にしなければならないが,それに先だって,われわれは, かれが「管理の学問に基づく管理のための学問」の規定にいたる思考過程を跡 づけたい。なぜなら,こうすることによって,その規定の持つ意味がより明確 になると考えられるからである。 III 管理論としての経営経済学の認識観点 キノレシュによれば I管理論としての経営経済学」という規定

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(13)

-603 管理論としての経営経済学の基本的構造 111 frage)に関係を持たなければならない, というように把握することができるか も知れない。規定をそのように解釈する場合には,経営経済学は,経営経済の 管理「の」学問(Lehrevon der Fuhrung)であろう。 だが,管理論としての経営経済学という規定については, そうした解釈のみ がありうるのではなく,経営経済学が,経営経済組織の管理の「ための」の学 問(Lehrefur die Fuhrung betriebswirtschaftlicher Organisationen)として把 握されるという解釈もありうるのである。この把握の背後には I経営経済学の 『産物~ (経営経済学の言明と言明の体系)が応用され, ないしそれに従われる 限りで, そうした『産物』が経営経済の管理の『改良~ “(Verbesserung" der Fuhrung von Betriebswirtschaften)に貢献するJ(BF, S.27)という解釈があ るのである。 この解釈には,端的に,応用志向が看取されるのである。すなわち,管理論 のこの解釈の特徴のひとつは,単に認識をする理論的目的ではなく,認識の応 用を考えているということなのである。 さらに, キルシュは,経営経済学の規定ないし構想については少なくとも他 の2つの解釈があるとして, それらを解説しつつかれの上記の解釈,すなわち 管理論としての経営経済学という規定を「経営経済組織の管理の『ための』学 間」 とする解釈, との関係を明確にしていく (B,F SS..27-28)。 他の2つの解釈の一方は,経営経済学のlつの対象として家計 (Haushalt)が 考えられる場合に存在する経営経済学の解釈であり,他方は,労働志向的個別 経済学(arbeitsorientierteEinzelwirtschaftslehre)が主張される場合に存在す る経営経済学の解釈である。 (9 ) 管理の学問と管理のための学問に関するキルシュの見解については次を参照のこと。 BF, SS 22-35u..SS 279-286 (10) 管理論が応用志向であるというキルシュによる把握法が,経営経済学の歴史上に現れ た2つの構想,すなわちハイネン(EHeinen)の構想、とウJレリッヒ(HUlrich)の構想、の 根底にある,として (B,F S 27),キノレシュはかれの解釈を根拠づけようとする。 キノレシュは言う。「われわれが経営経済学が管理論の方向に向かっていると確認する場 合,われわれもこちらの(管理論は経営経済組織の管理のための学問であるという一一渡 辺)解釈をなしている。j (BF, S 27)

(14)

-112ー 香川大学経済論叢 604 まず,経営経済学の1つの対象として家計が考えられる場合,キノレシュは次 のような考察を施している。家計を対象とする経営経済学にも,一方には,家 計の需要行動

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。 われわれは,このことから,家計の観点から見た経営経済学説は,管理論と しての経営経済学たりえず,管理論としての経営経済学という解釈における家 計の位置づけは,家計は経営経済の管理の改良が行われるために必要な

1

つの 知識領域なのだということを知る。 次に,労働志向的個別経済学が主張される場合については,キルシュは,以 下のように述べる。 「労働者の利益に対してこの(経営経済の一一渡辺)組織の管理をより『敏感』 にしていく管理構想と体制設計を経営経済に対して展開していくために『労働 志向的個別経済学』を営む者は,最初は二律背反のように聞こえるかも知れな いが,等しく管理論としての経営経済学を営む。J

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この引用文には,労働者の利益に対して経営経済組織の管理を敏感にしてい く管理構想と体制設計,という表現がでできている。このうち,特に「敏感に していく」という言葉によって,キノレシュがかれ自らの提唱する「管理論とし ての経営経済学」の中で労働者の利益を取り上げようとし,そうした解釈をな すならば,労働志向的個別経済学もかれによる管理論の規定と整合的であると 主張しようとしていることが看取されるのであるが,かれが労働者の利益をど

(15)

605 管理論としての経営経済学の基本的構造 113 のような形でどれだけ取り入れていこうとするのかについては,われわれが一 層検討しなければならない。われわれはこのことをわれわれが追求するべき重 大な問題として意識し指摘することができるのである。 この問題はこの節で跡づけたキルシュの見解と関連づけながら詳しく言うと 次のようになるであろう。 キルシュの提唱する管理論としての経営経済学は,家計の観点は採りえない が,労働者の利益を取り込むことによって,かれらの観点を全面的にか部分的 にか採りうる。ここには,かれの管理論としての経営経済学と,誰の価値が採 用されるのかという問題との関連が論じられているのである。 ここ、で,経営経済組織の管理の「ための」学問という定式化には,経営経済 学の産物が応用され,ないしそれに従われる限りで,そうした産物が経営経済 の管理の改良に貢献するという意味があったということをわれわれは想起し, かれの管理論としての経営経済学のこの規定に価値という概念を織り込むと, 上述の問題は,管理の改良というのがいったい誰の価値から見ての改良である のかという問題であると見ることができる。 キJレシュもこのように見て,次のように言う。 「管理論としての経営経済学が経営経済の管理の『改良』に貢献するべきであ ると公準化しでも,経営経済学の『産物』の応用が事実上『改良的』効果をも つかどうかという問いの判断のための基礎としてだれの価値が利用されるべき なのか,ということに関する基礎意思決定

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(16)

-114- 香川大学経済論叢 606 figen Konfrontation)を解消しているので,管理論は,例えば労働志向的個別経 済学のような純粋な『反権力科学~ (reine“Gegenmacht-Wissenschaftつを余 計であるように見せる。j (BF, S..28) キルシュは,こうして, ,-

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壬意の価値体系j,,-支配者以外の他の利害関係者の 価値体系j,,-さまざまな利害立場」という言葉を次々に出し,かれの提唱する 経営経済学が広範な白利害に対応できるかのように表現している。 キルシュは, ,-

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壬意j,,-支配者以外の他の利害関係者j,,-さまざまな」という 言葉を出しながらも,-管理論は『労働志向的』であることもできるj,,-労働志 向的個別経済学のような純粋な『反権力科学』を余計で、あるように見せるj,な どという表現を使うことからも窺えるように,かれは,企業を巡る利害関係者 の中では他ならぬ労働者の利害の管理論による取り込みに注目している。 また,われわれが上記で跡づけたように,キルシュは,家計の観点から営ま れる経営経済学はかれの考える管理論ではないとしていた。ここで,なぜかれ が,家計の観点をさっそく捨て,労働者の観点、を取り上げようとするのか,と いう疑問がわれわれに湧いてくる。つまり広範な利害に対応できるような言葉 を出しながらも,かれはさっそく労働者の利害に注目の範囲を絞ったのではな いかともわれわれは指摘できる。 だが,われわれはこの段階で,労働者の利筈にキノレシユの注目の範囲が絞り 込まれているという断定をせずに,われわれは,キルシュが,労働者の利害の みならず企業を巡るより広い範囲で、の利害関係者の価値体系を取り込もうとす る企画を持っていることを確認し,果たしてそのような企画がかれの管理論の 中でどのような形で実現されるのかを見きわめたい。 たとえキJレシュが労働者の利害に注目の範囲を絞り込んで〉くるとしても,一 (11) キルシュの管理論の構想、における価値の問題を批判的に取り上げる研究者にフントと シュトッレがいる。次の書物ならびに論稿を参照のこと。 S.. Hundt, Beitγ'age zur Kritik der Betriebsμ'irtschajtslehre, Bremen 1981 E. Stoll, Betriebswirtschaftslehre als Gefuhrten-Lehre? Anmerkungen zu W Kirsch: Die Betriebswirtschaftslehre als Fuhrungslehre-neu betrachtet, in: W.. F Fischer-i九Tinkelmann (Hrsg), Paradigmawechsel in der Betriebswirtschajtslehre,?. Spardorf 1983, SS 264 ff

(17)

607 管理論としての経営経済学の基本的構造 -115-見したところ資本志向的ないし使用者志向的な科学のように見える管理論を, 管理論の他に労働志向的個別経済学を形作ることを余計だと見せるほどに「労 働志向的」に営むことが可能であると考えるかれの見解には,われわれは多大 な関心を寄せている。 前節でわれわれが確認したように,企業に関するより現実的な姿に近づこう としている,ということこそキルシュの根底的意図の

1

つであった。それ故, われわれはここまでで,かれの構想、は,企業に関するより現実的な姿に近づこ (12) 管理論としての経営経済学」なる定式化を巡っ、てわれわれは補論を展開しておこう。 キルシュは,この定式化においてもちろん経営経済学とは管理論のことであると明言し ているに等しい。われわれはまず管理論の定式化に際してその応用科学的特質を明記し ている若干の管理論の研究者の意見を記しておこう。 ウノレリッヒは,自ら展開する学(Lehre)に関して次のように言う。 “V on den heute ubligen Wissenschaftsgliederung her gesehen ist deshalb unsere Lehre eine "Angewandt巴Wissenschaft,“welche aus verschiedenen Theorien stam -mende Erkenntnisse verarbeitet"(H Ulrich, DieU:河terneh押2ung alsρroduktives sozzales Syst.em, 2, uberarbeitete Aufl, Bern u. Stuttgart 1970, S. 19.) かれはまた,別稿においてよりはっきりと経営経済学の応用志向性を主張する。次の論 稿を参照のこと。 H. Ulrich, Die Betriebswirtschaftslehre als anwendungsorientierte Sozialwissen -schaft, in: M. N Geist u.. R. Kδhler (Hrsg), Die Fuhrung des Betriebes, Stuttgart 1981 また,バイヤー(H-T Beyer)は次のように規定する。

“Es wurde davon ausgegangen, das die Fuhrungslehre sich um die Verbesserung der Effizienz des Entscheidungsprozesses bemuhen sollte, dieses Ziel aber nur realisierbar ist, wenn ihre Hypothesen mittelbare oder unmittelbare pragmatische Relevanz besitzen." (H明TBeyer, Die Lehre der Unte問 ehmensfuhrung Entwuてf eines Forschungstrogramms, Beriin 1970, S..82) この両者とも,企業管理論が,応用志向的であることを確認しているのである。さらに, 本邦にあっては,山本安次郎教授は,経営経済学説と経営管理学説とを比較して,それら には観点の相違があるとして次のように言う。 「これ(経営の経済学説を主張するならば,純粋理論科学を主張しなければ,論旨が徹 底しないということ一一ー渡辺)に反して管理学説は目的ある営みとしての経営行動ない し経営活動を研究対象として目的の達成の合理的方法を問題とするから,それは本来的 に実践科学ないし応用科学であり,或いは行動科学的であるといわねばならない。それは 科学的管理法以来の伝統といえるであろう。J(山本安次郎,経営学研究方法論,丸善,1975 年, 258頁。) われわれの見解によると,山本教授のこの見解に最も鮮明に管理論の特質づけが表現 されている。つまり,教授の言う観点とは誰の価値から経営現象を見るかということなの であり,管理論とは,管理者による企業目的の達成への関心を内容とする価値を取り上げ

(18)

116- 香川大学経済論叢 608 う と い う 意 図 を 伴 う 管 理 論 で あ る と い う こ と を 確 認 で き , こ の 確 認 事 項 を 本 節 に お け る 特 徴 の 指 摘 と 合 わ せ 考 え る と , わ れ わ れ は , キ Jレ シ コ の 学 説 は , 一 方 で の 企 業 に 関 す る よ り 現 実 的 な 姿 に 近 づ こ う と し て い る と い う 意 図 と , 他 方 で の 広 範 な 価 値 の 取 り 込 み へ の 意 図 と が , 応 用 科 学 た る 管 理 論 の 中 で 結 び つ い て い る 独 特 な 学 説 と 言 え る で あ ろ う 。 る研究であり,その限りで,管理論は,上記引用文にあるように目的ある営みとして の経営行動ないし経営活動を研究対象として目的の達成の合理的方法を問題とする」の である。 さて,われわれは以前から,経営学的研究には管理論しかないのか,それともその他に 何か研究方向があるのかという問題意識を持っていた。(次の前掲拙稿を参照のこと。渡 辺敏雄(稿),ドイツ企業管理論の検討方法に関するノート一一今野登教授の近著を 巡って一一,香川大学経済論叢第65巻 第4号, 1993年3月。) それ故,われわれはここで論を一歩進めて,この問題を取り上げたい。 管理論であるということが上述のような特質を持っとすれば,第1に 応 用 科 学 的 で ある」という特質,第2に企業目的の達成の合理的方法を問題にする」という特質の いずれかが欠如すれば,管理論ではなくなるのである。 このことをふまえて言うと管理論としての経営経済学」以外にはどのような研究が あるのかというと純粋理論科学としての経営学的研究」ならびに「応用科学的である が,企業目的の達成の合理的方法を問題にしない研究」がそれに相当する。 まず「純粋理論科学としての経営学的研究」についてであるが,われわれは,それが, 目的あるいは価値との関連がないように分類を進めてきたが,そうした研究方向は,目的 ないし価値の実現を支援するものではないが,やはり線底には価値観を基礎に置いてい る。根底に置く価値観については企業目的の達成の合理的方法を問題にしながらも純粋 理論的な研究方向とは,経営現象に関して成果変数と現象との関わりを理論的,経験的に 把握していく研究となるが,これはその境界内で営まれるとしたら,われわれの見解では やはり管理論ではないと言わざるをえない。企業目的の達成を根底の価値観として置く の‘ではなく,企業行動が企業において働く人々や企業の置かれた環境やより広い社会に 対してどのような影響を及ぼすのかということの究明を行うならば,そうした研究方向 も,もちろん「純粋理論科学としての経営学的研究」に含まれる。上記注 (8)で触れた, 土屋教授の研究は,企業がその置かれた環境やより広い社会に対してどのような影響を 及ぽすのかという関心から行われているという方向性を持つ故,その種類の研究に属す る。教授は,管理論的由来を持つ組織論的研究方向を土台にしながらも,必ずしも管理論 ではなく,企業の社会的意味を理論的に究明しようと試みているのである。 そしてそこに言った,企業百的の達成の合理的方法を問題にしないで,企業がそこにお いて働く人々やその置かれた環境やより広い社会に対してどのような影響を及ぽすのか ということの理論的,経験的究明をふまえながらも,この純粋理論的研究の一線を越え, そこで根底に置かれていると考えられる目的ないし価値の達成方法を応用科学的に問題 にする研究は,上記の管理論以外の研究のうちの「応用科学的であるが,企業目的の達成 の合理的方法を問題にしない研究」に相当する。

(19)

609 管理論としての経営経済学の基本的構造 -117-ところで,われわれは経営経済学の伝統的な議論から,選択原理

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を提唱して次のように (13) 経験対象と認識対象に関するキルシュの見解については次を参照のこと。 BF, SS. 29-31

(20)

-118 説く。

香川大学経済論叢 610

経営経済学の経験対象は I人が経営経済の管理を「改良」しようとすればそ

こに知識が存在すべきすべてのものJ(alles, woruber Wissen vorhanden sein

sollte, wenn man die Fuh耐runmgvonB江 et仕凶riぬebswirtおschaft匂enσド“‘‘1V刊erbesse釘ぽrn"

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2

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則)である。キ/ルレシユによれば,この言い回しは,明らかにいくらか漠 然としている。 そこでこの漠然とした言い回しを精微にしていくことが考えうるが,そうし た精撤化は次のような事態に導く (B,F

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2

9

)

。われわれは,どのような観点か ら管理の改良を論じるかというと,われわれは,常に,まずは「外部的な」利 害と価値(ausder Sicht zunachst“exogener" Interessen und Werte)から,管 理の「改良」を議論できてまた議論すべきである。いわば,研究者が外からの 観点を設定するという事情がある故なおさら,そうした漠然とした言い回しを 精搬にしていくことは,経営経済学の関心領域(Interessengebiet)があまりに 狭く限定され過ぎるという危険を直ちに費すのである。 経験対象のどの部分に視野が及ぶのかを限定しようとすると,なんらかの観 点の導入が必要になり,その際の観点とは,まずは「外部的な」利害と価値で あって,それらによっては経験対象からの選抜が厳しく行われ過ぎるという危 険があるというのがキルシュの考えなのである。 かれは経営経済学の経験対象を狭障に切り取る危険を指摘し,そうした態度 と一貫しつつ経営経済学の経験対象についてさらに次のように言う (B,F

S

2

9

)

「興味深い経験対象は,経営経済の管理ないし管理の形成の際に発生する問題 によって限定されるのである。J

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企業に関する非現実的な像の構成につながるような外部的な利害と価値の導 (14) キルシュによれば,ラフェーが既に経験対象志向をもっている。キルシュが参照を求め ているラフェーの書物は次のものである。 H..Raffee, GrundProbleme der Betriebswirtschajtslehre, Gδttingen1974 ただし,われわれの見解では,ラフェーは,単に経験対象志向の重要性を説くのみであ るが,キルシュは,実際に,経験対象志向を学説の中で具体的に展開している。

(21)

611 管理論としての経営経済学の基本的構造 7 o d i 7 i 入ではなくて,-経営経済の管理ないし管理の形成の際に発生する問題」を現実 に即して把握し,そうした問題の解決に必要な限りでさまざまな経験対象が照 ( 1由 らし出される, とキノレシュは考えている。 「経営経済の管理ないし管理の形成の際に発生する問題」は何であるかを知る ためには,-管理とは何であるか」ということの明確化すなわち管理の意味の明 確化こそが必要となり,それが経営経済学説の観点を与える研究の出発点であ る。そしてこの場合,管理の意味の明確化はかれの言う認識観点の形成を通じ てなされるとわれわれは解釈できるのである。 さて,キノレシュの考える管理はどのようなことを意味するのであろうか。わ れわれはかれの言うところを聞こう。 管理は管理論として理解される経営経済学の中においては経験対象の全体か ら特に強調されるのである。 u管理』という経験対象は,経営経済学にとって 重要な関連を持っている『改良される』べき実践 (furdie Betriebswirtschafts -lehre relevante Praxis, die“verbessert" werden soll)を構成するのである。」 (BF, S引30) つまり,かれによれば,管理という経験対象は,他の経験対象とは違った役 割を持っているが故に強調されるのである。 今われわれの言い方でこの役割を表現するならば,管理という経験対象は, 他の諸々の経験対象とは同列ではなく,比日前が許されるなら,それは,一段高 みの箇所に作られた燈台ないしサーチライト (Scheinwerfer)として他の諸々 の経験対象を見すえ,重要な関連を持つ認識を照らし出すという役割を果たす ( 1日 のである。 (15) われわれは,キルシュが管理論としての経営経済学」において,経営経済の管理な いし管理の形成の際に発生する問題の現実的理解ないしそうした問題の実践に即した理 解を再三にわたり強調するゆえんをここに知るのである。 (16) サーチライトという言葉については次を参照のこと。 B,FSS. 284-285 またかれは,かれの管理論の構成を称して,サーチライト模型(Scheinwerfermodell) と言っている。サーチライト模型という表現については次を参照のこと。 W Kirsch, Zur Konzeption der Betriebswirtschaftslehre als Fuhrungslehre, in: R Wunderer (Hrsg,)Betriebswirtschaftslehre als Management-und Fuhrungslehre, 2 erganzte Auflage, Stuttgart 1988, S.155

(22)

-120- 香川大学経済論叢 612 われわれはここで,管理という経験対象そのものが,一種の認識対象的な役 割を期待されているということを知る。つまり,キルシュは「経験対象」と称 しているが,その場合の管理という経験対象には,管理という経験対象をどの ように見るのかという意味がこめられている。 ところで,われわれは,一段高みの箇所に作られた燈台と言い,またサーチ ライトと言ったとしても,その表現によって確かに管理という経験対象の役割 を理解できるのであるが,さらに進んで考えると,われわれは,光線がどの範 囲にまで及ぶのかによって,燈台やサーチライトにも区別があることを知って いる。 それ故,具体的に,燈台やサーチライトによって照らし出された認識を知る ためには,その性能を定め,その後に光を灯し,それにまつわる重要な認識を 照らし出すという必要がある。 性能をこうして定める行為は,ただちに管理という経験対象をどのように見 るのかを定めることであって,管理という経験対象をどのように見るのかを定 めることが,キ/レシュの見解による管理論としての経営経済学の第1歩をなす 重要な出発点を構成することとなる。 キノレシュは管理という経験対象に重要な認識の照射という役割を期待してい るのであるが,そうした役割は,伝統的には選択原理の役割であると考えられ たものなのである。ところが,われわれが触れたように,かれは,伝統的な選 択原理に関して,それによってあまりに現実が狭隆に切り取られてしまうので, それをかれの学説に取り入れることを拒否していたのである。そこで,かれは, 管理という経験対象に認識対象的な役割を期待しているとはいえ,それと,伝 (17) このようにキルシュにおいて,経験対象が認識対象的に使用されてしまうに至るには 次のような事情がある。かれは,管理というものを何の先入観もなく分析しようとするあ まり,管理のどのような側面をもあるがままに把援できると考えているのではないだろ うか。この点に関しては,キルシュは,管理という認識観点は,経営経済学の重要な実践 を特徴づけ,それによってつの特別に強調された経験対象であり,それは「偏見なく 分析されるべき『管理』という経験対象J(das unvoreingenommen zu analysierende Erfahrungsobjekt“Fuhrung") (BF, S.. 31)であるとまで言う。 われわれの見解によるならば,いくら広く経験対象を抱握しようとしても,経験対象そ のものにいたることはできない。

(23)

613 管理論としての経営経済学の基本的構造 -121-統的な選択原理ないし認識対象とを慎重に区別しようとしているのである。 キJレシュは,かれ自らの考えによる管理と,伝統的な選択原理ないし認識対 象との区別について次のように言う。 「この(ある対象を『改良』しようとする人が,それについての経験的に維持 された知識を必要とする一一渡辺)対象の単に一部分あるいはー特殊側面のみ を重要なもののように見せ,またそれどころか他の科学的学科に由来するこの 対象に関する諸々の知識を先験的に関連のないものとして除外してしまう…山. なんらかの特質をもった認識対象によって定められた『選択原理』が先験的に 存在する必要はないのである。J(BF, S 3L) さらにかれはいっそう強く言う。 「われわれが管理を経営経済学の認識観点として特徴づけるのなら,このこと は認識対象という伝統的概念とはなんら関係ない。J(Wenn wir Fuhrung als Erkenntnisperspektive der Betriebswirtschaftslehre bezeichnen, so hat dies nichts mit dem klassischen Begriff des Erkenntnisobjektes zu tu孔 )(BF, S.. 3L) われわれはここで,かれは,管理という経験対象をどのように見るかを「認 識観点」と呼びならわし,それがかれの意図では,選択原理あるいは認識対象 とはなんら係わりのないものだということを窺い知るのである。 ここに管理という認識観点は,選択原理ないし認識対象との係わりをもたな いという言い方の真意は,前者が後者のもつ認識の狭降化の作用をもたないと いう意味であると解される。 われわれは,今までの検討で,キルシュが管理論としての経営経済学を構成 する際には,重要な認識を照射することができる一種の選択原理的な機能を果 たすものがやはり必要とされるが,その場合そうした機能を担うものとしてか れの学説に導入された認識観点としての管理は,機能こそ伝統的概念と類似的 ではあるものの,そこには,経験対象についての狭隆な側面的思考を積極的に 回避しようというかれの強い意欲がこめられていることをよく理解することが できたのである。

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