弘化@嘉永初期における長崎警備の一考察
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佐賀落・福間藩と幕府l
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はじめに 第長
野
佐賀繕の勤き 佐 川 災 藩 と 一 稲 岡 藩 と の 交 渉 鍋島高正と阿部正弘 むすびにかへてはじめに
遅
アへン戦争によって清閣が敗北したとの情報が日本に伝わってから、商欧列強に対する危機意識が強まり、長崎 容舗を担当していた佐賀藩は防備体制の強化をめざした。高島流砲舗の習得に努め、夫仰何十一一年(一八回二に番 所の香焼島に藩士を常駐する体制をとっM
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防備体制を強化する必要性を強く認識したのが天保十五年(一八泊四) 七月のオランダ家離パレンパンの来港であった。問洋列強の対外進出に触れて開悶を勧告し の使節佐賀大学経済論集気~38巻tíD 勾一 コープスは提出した。佐賀務と福山内務にその内容が伝達された。弘化ニ年( 開国を拒否する返需を出した。佐賀蒋と福岡藩に対しては、長崎笠舗のあり方について詰問した。 ( 2 ) 長 崎 警 備 の 転 換 が 必 要 な こ と を 強 く 認 識 し た の が 、 で あ っ た 。 に お い て 、 八間五)
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一 / ' r E ノ に対して のオラン の米潜と開国の勧告は、海紡体制の強化を迫るものとなった。幕府の諮問 問務は長崎の瞥備について協議を重ねた。長崎港外いわゆる外自の防縮強化在日指す佐賀藩に対して、 初難色を示したが、折衝の結果、佐賀落の方針に同意した。これに基づき幕府に外自の防縮強化を申請した。しか オ フ 37、
し 寸 佐賀落と補 福間滞は当 し、幕府の本認をえられなかった。 の長崎啓備を巡る動きは対外危機に対処する姿勢の違いが現れていた。強烈な危機意識を も っ た 佐 賀 揺 は 、 議 府 の 承 認 を 得 て 、 海 で 隔 て ら れ て い た 神 之 品 と 四 郎 島 に 桜 堤 を 税 問 郎 島 に 砲 台 を配備した。配備する大砲が必要なことから反射炉を築造した。これらはまさしく一 幕末期には海防論義が蟻んに行なわれたが、 強化を巡る佐賀落、福間棒、 佐 賀 藩 、 一 指 悶 落 、 い て 連 結 し 、 っ た 。 に先駆けたものであった。長崎の防備 牢 品 々 C l u の対応の違いは、対外危機にたいする認識 本稿では、佐賀滞における反射炉築造と神之島と四郎品連結 の台場築設が決意される時期な検討するという視点で考察してみよう。 であった。この折衝の過程につい および四郎 ては、色々と検討されてき 託 。 : ) 2 1 吋 州 制 & 仏 政 正 公 伝 第 三 編 川 ( 役 時 抑 制 桝 向 い 川 家 編 怨 所 、 一 九 二O
年 八 月 ) 一 一i
⋮ 閥 、 二 九1
一 ニ 側 双 。 捌 稿 ﹁ 門 市 米 間 州 依 引 税 の ⋮ い た 的 役 俄 と 対 外 危 機 な 織 ﹂ ( 門 佐 賀 大 学 絞 済 論 集 い 第 一 一 一 一 一 ⋮ 谷 五 ・ ム ハ 合 併 M 行 、 一 ⋮00
⋮ 年 三 月 ) 0 前 掲 以 州 島 直 正 公 伝 第 一 ⋮ ⋮ ⋮ 制 ご 一 二 五i
⋮ 一 一 問 。 夜 、 秀 九 州 成 忠 一 総 務 引 れ 針 縫 銃 約 沿 然 史 ト ( 肥 泌 出 火 談 会 、 ⋮ 九 一 一 一 四 年 ) 一1
一 二 八 一 災 、 氷 原 油 業 吋 終 末 佼 賀 川 悦 の 議 政 史 研 究 い ( 九 州 火 学 出 版 会 、 一 九 九 七 年 一 一 月 ) 七 一 〆 ¥ ' 一 九 二 浪 。。
第一章
佐賀藩の勤き
( 1 ) ( 2 ) ﹁内外台場改築始末﹂と題する資料がある。これは長森敬斐が諮記録を編纂したものである。以下﹁内外台場改築 始 末 ﹂ に 依 り な が ら 検 一 封 し よ う 。 弘化二年 月十日のこととして、番方から向怖い帝国が提出された。以下のようである。 当湊御備向ノ儀、去ル文化度異船渡来後新規御台場御築立、其外如形御手当増相成賠中義一一ハ繰へ共、 陀本国仕立ノ船渡来註琉球表ノ触合併一すヲ以テハ何持異変出来ノ程難計 ( 3 ) と、文化五年のブエ 1 トン号事件以後における長崎の台場増築に触れ、さらに﹁何時異変出来ノ程難計﹂と何時間比( 変が起こるか予測できなとしている。天保十四年(八四一ニ)十月のイギリス 秘説、天保十五年ご八四回)七月のオランダ軍般の長崎米航、弘化元年(一八四四) ( i ) ヌ号が那覇に寄港し通交を求めたことなどが影響していたとみられる。 5,ム化.3ì't;7k初期におりる;長崎努樹立の-~然 前文に続けて、以下のように記している。 マ 一 ブ ン でのフランス船アルクメi
総テ西洋ノ義、火術一向一リラニテ迫年窮理経験ヲ以テ益大砲等相用銀趣彼是不容易風説等モ有之鍛芳ニ付テハ御儲向 ノ犠獄此上ニモ和用ノ計ハ有之間敷哉、役人共一一モ重々遂吟味鮫へ共、平常ノ場ニテ格別僻備向等棺増候儀行々 連続ノ程モ難計候へハ、何分其溜リニモ取計兼、然共当折柄ニ付テハ蹄二千期猶又弁利宜キ通リニハ取計器度、 依之於此方在寄ノ大国臼不関別紙館書差進申候、於其僻許様御考設ノ筋モ可有御践候へハ得ト御打合仕度御﹂住候条、 翻存寄ノ程無御用捨為御知被下度、此段先以御御自分様迄宜及御談候様国元ヨリゆ越候 と、間洋における科学の発展に触れ、大砲等が国用いられており、容易でない になっているので、防備を強 める必要があるが、従来の場所では増強も難しいので、住促(藩側の築を一本すとして、 その検討を求めている。アへン戦争では大砲の威力によって清悶が敗れたとの高島秋帆の認識があるように、大砲の重要性が認識されて 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第38宅主総1号 き て い た 。 佐賀落は長崎の防備強化策をとった。弘化一一一月には非番の折の体制を強めるために、これまに諌竿・深堀 ( 5 ) から皆殺山の者が出されていたのを、石火矢顕人・番方付役・武具方付役などを深堀一詰とすることが検討されている。 四月二十九日には本庄江で香焼詰の檎手と火術方の船打砲術を鍋島直正は検分している。五月には西洋製の剣付 ( 7 ) 筒 一
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挺・ヤ!ゲル銃一九挺、勝馬銃五挺の購入を願い出ている。防縮体制を整えるために、五月には非番中に 外国船が俄かに到来した折に、八二人の筒打と番頭・石火矢頭人・物顕を出動さすことが検討されている。六月二 ( 8 ) 日には火薬の誠逮を国産方に指示している。 弘化一一年六月一日付けで幕府はオランダ国王あてに関閣を指否する回答をした。オランダ国王の間者によって、 幕府は防備体制を強化することを迫まられ、それが長崎山首備強化策の佐賀藩と福岡藩へ諮問となった。 七月一一一日には軍用金蓄積のために体制を整えている。このことが重視されたことは、﹁軍用金之儀ニ付申度候上意 有之、御書物被遊御渡﹂とあり、年寄には御座間、親類・親類向格・家老は小説悶院で書物を読み伝達していること ( 日 ) に も 出 て い る 。 (MW) 七月五日にはイギリス船が長崎に来航し、湾内を州開設して八日に出潜している。このイギリス船は許可を得ずに 勝手に測量したが、日本側は攻撃していない。異居船打払令にかわって天保十三年に外国船に対する薪炭供給令が 出されたことに基づく鵠置であった。 九月には幕府から長崎警備について存寄があれば申し出るようにとの指示があった。これは弘化一一一年九月十七日 の 黒 国 長 薄 か ら の 世 帯 状 で 去年九月間関陀船帰帆ノ閥、拙者儀御番所為見廻其許可罷越、伊津美律守殿面会ノ節、問所僻錨向是迄御厳粛一一ノニハ候へ共於両家猶存知等有之候ハ不盟申上続様御内密安部伊勢守殿ヨリ美作守へ被相逮候趣内分被中間 とあり、阿部弘正から長崎奉行に指示があった日が記されていることから窺える。この指示に対応するために、十 月五日には番方から長崎で一福岡落と協議する者の任命が申諮された。 訂 VZT 干 J コ J 4 ︿ ︿ 間五日、長崎表御備向御潤仏]一件、御双方怒リ役 t 於彼地致出会鍛ニ付、右御示談方、田中半右衛門 M M M M U 開 2 p ・ 品 L ふ 小 t d 1 J 1 サ 高木権太夫目付役兼帯・立(外伺之通被仰付 ( ロ ) と あ る 。 弘化・五{永初期における長│崎将備の一二号祭 佐賀滞はこのころ既に伊賞'品と神之島に台場を増強すことが計脱されていた。﹁伊王島・神之島放(外大御台場御築 ( ね ) 立ニ付、筑前御示談御取掛不相成内、地所御手前限被決誼候ハテ不相叶﹂とある。福間務と協議する前に、伊王島 や神之島などの台場築造の場所を決定する必要があるとしている。外自にある伊王島と神之島の防備を強化する方 針はあるが、台場増強の場所はまだ定まっていないことが窺える。場所を定めるために﹁前断御示談前、 外大台場地所為見積鍋島志摩出品鍋島孫六部立会相談候様﹂と鍋島志障と鍋島孫六郎が派波さ 山 守 み u J -体制を強めていた。 佐賀藩は軍備の ( 日 ) 十月二日には鬼丸調練屋敷で火術方の調続行なわれている。 このように位賀藩は軍備体制を強化し、対外的危機に対処する準錆を進めた。これを恭礎として福陥落との協議 を 行 な っ た 。 日には江戸経費のうちから五千冊を大砲の鋳造と -能筒の購入費用として番方に支出するように ( 日 ) な っ た 。 ( 口 ) ( M m ) 一月四日に甲南調練が始められ、また、一日には家中の保持する武器類の調査が行なわれるようになった。 (山山) 十二月二日には、長崎警備について協議する人物として石火矢役頭人が任命された。福間務との協議が開始され
る こ と に な り 、 一月一一一日には番方から福岡藩との協議について数項自にわたって鰐いが出された。そのなかに 佐賀大学絞i'ff論集長?;38巻第Iサ 此節可被杷増御倍数相尋候ハ¥凡百挺位ニテモ可有之哉ニ相心得候相答可然哉 ( 叩 ) とあり、大砲一
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門 ほ ど の 増 強 が 見 込 ま れ て い る 。 ま た 相 尋 鍛 ハ ¥ 外 日 遠 矢 ノ 場 所 一 一 付 、 貿 回 以 上 ( 幻 ) ノ 僻 簡 ニ 無 之 テ ハ 棉 叶 間 敷 ﹂ と い う の が あ る 。 防 備 で れ て い る 。 大 砲 の 効 果について検討していることが出ている。 貫目以上の大砲が必要なことが 弘 北 一 一 一 日 に は 、 福 岡 藩 と 協 議 し た 剖 中 半 お 衛 門 と 高 木 犠 太 夫 か ら ﹁ 御 番 方 御 備 向 筑 前 御 示 談 筋 、 於役方者伊王島御街錨・外自持分之両条何分間話相成兼鍛由ニ市﹂と佐賀藩の﹃茶に福間藩が同窓しなくて協議が整っ ていないことに触れ、さらに﹁対馬守殿内 t 掲出之掠合を以此御此方御趣意通之御取扱可相成哉甚タ正恥ぶ﹂と長 月 崎奉行の動向に危倶を示してい このため﹁何れ江戸表御役人衆御趣意之程等能 t 御落合有之関候週前を以中砕被器候半荷不叶一一 ( お ) で関係筋に説明するために問中学右衛門と高木権太夫を派遣することにしている。 六月六日にフランス船が長崎に来航し、このため佐賀耀から一五OO
人ほどが出動している。 九月五日には、鍋島韮正の御側から諮役所に対して指示が出された。それは﹁制御備向打追ノ通ニテハ侍分御安心 難相成、殊ニ従公遊御問問合ノ旨有之﹂と長崎警備はこれまでのようでは党東なく、特に幕府から問い合わせもある として、﹁当今江戸表ノ都合有之、持レ制御霞ニ被砕候ハテハ御趣旨芯被御行届間数甚被遊御掛念候ニ付、明年御番代ノ ( お ) 上、御引上劉参府﹂と鍋 ι 防 車 正 自 ' 殺 が 江 戸 に 行 き 、 べ る こ と に な っ た 。 として、江 ︿ 町 四 ) 九丹七日には岩田での砲術訓練を鍋島政正は観閲し、 ( 幻 ) 訓練を検分している。 月四日には鍋島主水組。鍋島孫六部組の で の詑 ( l ) 内外ム口場改築始米﹂のほかに﹁内外会場改終始米分類﹂がある。 ( 2 ) 長 森 敬 姿 は 明 治 一 ⋮ 一 十 五 年 に ﹁ 大 小 銃 製 巡 総 ﹂ を 一 総 げ 御 し て い る こ と か ら 、 叶 内 外 ム ロ 場 始 末 ﹂ も 明 治 一 一 一 十 年 代 に 縦 終 さ れ た も の と 同 ん ら れ る 。 ( 3 ) 二月十日の史料について、長森敬姿は以下のように注おきしている。 絞スルニム川場改築ノコトアノ務投ニ慾テ之ヲ党レパ、老中ノ内命二議院ス、此心針案ハ光之半年余ナリ、苅シテ此二泊二止 リ、川北(縦士氷ヲ知ルニ出ナシ、次項以下即チ十月以後ノ書類ト関係アルモノヤ夜他日ノ阿部ヲ夜ス ( 4 ) これら務総にたいする佐川以務の情報収集については、拍杭﹁弘化前半期における琉球問題と長約告側の一考祭い(佐賀大学 経 済 学 会 叶 佐 賀 大 学 経 一 次 論 集 い 第 一 ⋮ 一 五 巻 五 ・ ム ハ 合 併 月 、 二
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三 年 一 二 月 ) 。 ( 5 ) ﹁ 疏 正 公 務 ﹂ 、 三 川 正 公 御 年 議 地 取 ﹂ 弘 化 二 年 三 月 十 七 日 、 町 佐 賀 県 近 佼 史 料 判 明 別 ご 制 第 十 一 議 い ( 佐 賀 県 立 川 阿 部 日 館 、 二OO
一 一 ⋮ 年 三 月 ) 二 ⋮ 一 九 、 ム ハ ⋮ 一 ⋮ 七 支 。 ( 6 ) 向 、 弘 化 二 年 四 月 二 ト 九 日 、 問 浪 、 ⋮ ⋮ ⋮ 九 、 六 一 一 ⋮ 七 賞 。 ( 7 ) 問、弘化二年五月二十六日、間百二二九1
一 問 。 、 六 一 ⋮ 一 七1
ム ハ 一 ⋮ 一 八 区 。 ( 8 ) 問、弘化二年六月二日、同ポピ問。、六三八夜。 ( 9 ) 向 、 弘 化 一 一 年 七 月 一 二 日 、 閥 次 三 間 一 、 ム ハ ⋮ 一 一 九 賞 。 ( 印 ) 閥 、 弘 化 二 年 七 月 五 段 、 同 市 ⋮ M 一 四 一1
一 四 二 、 六 四O
点 。 ( 日 ) ぺ 内 外 合 判 明 改 築 始 末 い 弘 化 三 年 九 月 十 七 川 口 、 ぷ 削 ぬ 夜 正 公 伝 第 三 紛 い ( 役 閉 山 鍋 ' U 削 家 編 げ 紘 一 州 、 大 京 九 勾 八 月 ) 二 七 六 資 。 ( 刊 μ ) ﹁ 夜 託 公 務 ﹂ 弘 化 一 ⋮ 一 伐 lJi 月五日、前掲吋佐賀県近世史料第一編第十一滋い一山間資。 (お)﹁内外合場改築始末﹂弘化二年十月七日。 ( M H ) ﹁ 波 立 公 諮73
限 定 公 制 御 年 勤 州 地 取 ﹂ 弘 化 三 年 十 月 七 日 、 前 仰 向 山 氏 対 応 近 附 一 史 料 ( 日 ) 問 、 弘 化 二 年 十 月 一 一 日 、 開 設 一 問 問 問 、 六 山 口 一 ⋮ ⋮ 賞 。 ( 凶 ) ﹁ 政 正 公 判 的 ﹂ 弘 化 二 年 十 月 十 沢 口 、 防 止 は 一 間 側 、 ム ハ 問 一 ふ ヌ 。 (げ)河、弘化二年十一月間町、問。 ( 刊 日 ) 問 、 弘 化 一 一 年 十 ⋮ 月 十 三 日 、 向 。 (円)同、弘化⋮一年十二月二日、同役一四五、六回汽真。 ( 初 ) ﹁ 内 外 会 場 改 築 始 末 ﹂ 弘 化 二 年 十 二 バ ⋮ ⋮ 一 日 。 弘イ七.:t:\7Ì(初期におけるよI2llf~H:守備の一万策 気3 問 問 資 。 -4 5 d M V 白 羽 只 1 1 5盗佐賀大学絞済論集第38'怒2おーいラ ( 幻 ) 向 。 ( 幻 ) ﹁ 政 正 公 諮 ﹂ ・ ﹁ 波 正 公 御 村 小 説 地 問 引 い 弘 化 一 ⋮ 一 年 間 五 月 二 卜 一 二 日 、 前 拘 ぺ 佐 川 バ 県 近 此 史 料
、 ﹂
1 U 4 A コ 弓 J、 。 J ノ コ t ム 一 二 一 日 夕 ( お ) 問 。 ( M ) 閥、弘化三年六月六日、阿波一四九、六五開放。 ( お ) 問 問 、 弘 化 ⋮ ⋮ 一 年 九 月 五 日 、 問 治 一 双 O 、 六 五 八 賞 。 ( お ) 問 、 弘 化 ⋮ 一 一 年 九 月 七 臼 、 河 れ ハ ⋮ 五 O 、六五八i
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ハ 五 九 頁 。 ( 幻 ) 問 、 弘 化 一 一 一 年 十 一 月 間 日 、 阿 古 一 五 一 、 六 六 O 真 。 会い一四八 ' t J ⋮ 凶 九 話Iri 第 ノヤ',,' .btj 第性質藩と福間藩との交渉
黒田長博と鍋島直正から帯状が長崎奉行に出された。 の対処方について走があったことがこれら 状から窺うことができる。 黒田長湾の害状は弘化 八四六)九月十七日に出されている。党永年中から長崎啓舗を担当してきたこと を記し、台場増築については倒的力の聞から閤難である旨を述べ、 士 山 ) 然所一幹奥田魁防禦最善トハ振合柏替、 さらに ハ異悶船港内へ引請競一アノ防方ニ抑 J M は 候 処 、 入様一一トノ御趣意ニ有之、立ハ近年西洋諸州弥砲摘発明イタシ、中平に長シ候哉ニ付、長崎表ハ翼船渡米ノ淡、 猶又御厳粛一一被仰付度、就右時勢ニ路実用利分ノ儀得ト勘弁仕処、日肝要ノ場所へ別段御台場数ケ所御築立、場 所ニヨリ候テハ、矢印問ノ土居ヲモ被相設、制御石火矢御備付相成、 ( i ) と、従来は奥田掛か}撲内に入れないようにす ハ 抑 制 ニ 撲 内 一 一 不 乗 ノ御台場ヘモ見込ヲ以相応御石火矢杷仕 てであつが、外国の装備がよくなってきたと指摘し、新しい台場を数笛所築造することを求めている。築造の場所については﹁家来共肥前守家来申合専取調罷在儀ニ制御感候﹂と 佐賀藩と協議中であるとしている。 佐賀藩主一鍋島直正の害状は、次のようであった。先ず 長崎御番ノ儀、寛永十八年松平美濃守先祖布需門佐忠被仰付、時十九年先祖信濃守勝茂蒙台命、 両家へ被仰付置武門ノ冥加無此上難有仕合泰存候 と、佐繋藩が長崎警備を担当するようになった経緯を述べ、、警備は﹁堅閤ニ棺整置﹂と堅固にしてきたとし、さら に﹁文化ノ度、異船渡来ノ後ハ専内田不乗入通ノ御手配ニ相成居﹂と文化五年のフエ
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トン号事件以後に防備体制 が長崎港内に外国船を入れないようにする体制になったことを指揺して、強化すベ体制について、以下のように記 一 日 年 来 不 相 変 し て い る 。 弘化・嘉永初期における長崎怒備の一考察 当ム寸前備ノ要地ハ全外目ノ事ニ有此、其上外国ノ儀軍器追年益精巧ヲ棟、種 t 利用ノ大銃戦艦等相用候由奔当時 ノ所ニテハ制御備筋一際御注意相成度奉候 (川一、防備では長崎港外を中心にすべきと前備笛所を明確に述べている。そして外国の武器が精巧になり、色々な大 砲や戦艦が用いられるよういなっていると、諸外国の装備が発達している状況にあることを指摘している。関備増 強の手立てとしては、 湊笈入ノ所ヨリ異船乗入候船既ニ随海浜切所 1 1 地 ニ 於 テ 今 又 厳 重 ノ 御 ム ロ 場 被 御 筑 増 、 一鉢ノ形ニ被相成、夫々矢留ノ土手ヲモ被栢設( U
、外国船が来航してくる場所に台場を増築して、長崎構内の防備体制と一体の体制にすることを提案している。 続いて従来の台場についても﹁当時ノ利不利ニ依小 t 締酪酌を被加﹂と従来の台場についても、時代の状況に対応 して整備する必要性を説いている。 内自御台場ニ取続首尾次いで 佐 賀 大 学 経 済 論 集 第38巻、第 I号 御石火矢ノ儀モ玉目太キ方ヨリ成丈外信重ニ配合、其上今又凡百挺程モ被椙増、箇所 t t 御箆数ニ依平日相応ノ 人数配付置候ハ弥締厳重ニ棺成、何時不意ノ変有之候共即時ノ訪禦行届可申 と、大きい大砲は主に外自に配合し、一
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門程増強して配分し、平常の折も棺応の人数を配備すれば防禦が出来 るとしている。増築する台場については﹁美濃守家来エ家来共申合取調子候様申付置候﹂と増築の場所については、 福岡藩と協議し、後ほど報告するとしている。 以上のように、佐賀藩と揺悶藩では、長崎警備のあり方について相違があった。福岡藩は台場の増築が必要なこ とを述べている程度であった。これに対して鍋島夜正は、西洋の武器の性能が良くなっていることを誼視し、それ に対する防備策としては外自の警備体制の強化が肝要であり、そこに大型大砲を配備し、警備人数も増強する必要 性を強調している。穣極的に対処する姿勢であった。﹁御石火矢ノ儀モ五日太キ方ヨリ﹂と大型の大砲の鋳造に触れ ている。鍋島直正は既に大型大砲の鋳造が決意されていたと見られる。外回の防備強化と大型大砲鋳造は一体のも のであった。オランダ軍離パレンパン号への乗艦は、直正に外国船の装備の強大性を認識させたと解せられる。 同年九月に揺悶藩関役が台場増築費の支給を幕府に願いでることを佐賀藩に通知してきた。 右御普請等仕整可道上儀ニ候へトモ、常 t 異国船渡来ノ手当旦渡来ノ度 t ニ莫大ノ物入有之、其上近年ノ都合一一 テハ此先渡来ノ程合モ難計防禦筋厳重仕置儀ニ候へハ限リ有之、国賠ニテ前段仕整方迄何分難行属心痛仕儀一一御 鹿候 とあり、外国船が来航したおりには莫大な支出になるとし、外国船渡来の程度が予想できず、厳重に警備するには 薄財政上困難であるとしている。防禦のために幕府からの支援を要諾して t 泰恐入候へトモ明潜ノ御例ヲ以御台場御仕渡御お火矢御玉薬等モ御渡下候義ハ被為協間敷哉、此等ノ趣奉願候儀別テ奉恐入候へトモ、前ニモ市上候通限リ御箆候爵財ニテタトヒ此節ハ兎哉角仕相整候共、此先防禦ノ手当 相整兼、不束ノ筋等御座候テハ無此上奉恐入候間不得止事 と、大砲と火薬の支給を幕府に求めている。藩の財力では、これからの前禦は困難であるとしている。増築するム口 場に備える大砲などについては﹁御台場笛所関数ヲ初メ御石火矢挺数等ハ追テ可申上候﹂と後日報告するとしてい ヲ 匂 。 福岡藩の害状では、藩財政力を理由に自藩で積極的に台場を増築する計画がないことが窺え、幕府への資金要請 が主体になっている。 弘化・嘉永初期における長崎警備の一考察 鍋島誼正は出府に先立って老中阿部正弘に書翰を提出した。 和関詑由主占口玉虫百井彼国へ被選候御室百翰之写等拝見被仰付且又長崎表御備向之犠ニ付、存寄脊之繰ハ、申上候様 御内達之趣、伊津美作守長崎表在勤中相違之次第承知之難有奉存候 と、オランダ国王の開国を勧告した書簡とそれに対する幕府回答の書状を拝見したことにふれ、さらに長崎警備に ついての見解が求められていることをまず最初に述べている。オランダ閤王の害額によって危機意識が強まってい ることは﹁此節和髄陀国王占景品霞之趣を以者誠二天下之一大患ニ荷、甚以不容易時節いと害状に記していることか らも窺える。前文に続いて福岡藩主と相談の上、長崎奉行に長崎前備についての見解を提示したことに触れ、さら 中 t 紙上筆端杯ニ雨分明相弁候儀ニ無之、殊ニ色々持論も有之儀ニ候得者委曲思直ニ棺伺度候、依之参勤之儀明 年御番代之上引揚奉願度奉存候得共、表立候商者余リ吃度立候故其通難奉腰、惣市去秋参勤之義用捨暫御目見も 不仕候ニ付、早 t 御機嫌奉伺度立病気療養をも仕度 と、持論もあり色々と見解を述べたいので出府したいけれども、表立ってはよくないので、参勤が暫く猶予されて
佐 賀 大 学 経 済 論 集 第38巻 第I号 いたので、ご機嫌侍いと病気療養として参上したいと述べている。出府し老中安部正弘との商談を求めている。鍋 島産正は長崎警備の増強について、かなりの決心でいることが窺える。 佐賀藩は箪舗をさらに整えている。弘化三年十二丹二十八日には御備方から長崎で購入したオランダ製の鉄砲一
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挺 、 佐 賀 藩 で 製 造 し た 鉄 砲 一 一 一 五O
挺を僻徒歩四組に配分した。 鍋島商正の江戸滞在は、﹁御留守も当節ハ一年ニも棺及﹂と一年ほどが予定され、そのために留守中の手配が弘化 四年五月六日に取られた。そのなかで﹁郷内農商僻引分ニ付﹂と農商分離政策がとられ、﹁僻領中略帳相指候様﹂と 趨帳の整備方針が出された。 五月五日に福岡藩主鹿市町長薄が長崎伊王島を巡覧した。これに基づいて福岡藩から佐賀藩に伊王島の防備計回に ついて同意する旨の害状が届られた。害状には弘化二年冬から長崎防備について協議がなされ、大体のことは長崎 奉行に報告されたが、伊王島の防備については協議が継続していたことを述べ、 解 を 述 べ て い た 。 の防備に関する福悶藩の見 一体向島ノ儀於此方致懸念候ハ追々申述候通沖立候鳥ニテ御番所ヨリノ駈引不宜、設︿許様一一テハ向島ヲ初向 寄御領分ノ儀一一有之、諸事御都合モ可然候へ共、此方ニテハ右様ノ場所モ無之、査テ不能利ニ有之、其外水ノ手 船繋等ノ都合彼是何分難見通、御同意一一移兼、是迄僻再答モ及延引 と、⋮福岡藩にとっては、伊王島の防備は不都合な場所であり、船の繋留なども不便利であるので同意してこなかっ たとしている。伊王島は佐賀審領であることから、一指向藩にとっては何かと不便であった。しかし、長崎警備につ いて佐賀藩と福岡藩の意見が一致しないのでは幕府に対して支障をきたすことになるとして、次のように記してい る 伊王島一条一一一全御両家ノ御見込致飽離、此先御示談ノ趣ニヨリテハ自然御整方ノ鰐存念夫々被仰立候様ニモ可棺ハ御間柄御不慣姿ニモ棺響キ不容易儀ニテ伺分難被相済 成哉、在候テハ被対公辺候テモ甚被恐入候儀ニ有之、 事故、向島ノ儀任御談致御同意儀御産候 と、佐賀薄の計聞に同意すると伝えてきた。其の上で﹁御含ノ処被 m m 知度﹂と佐賀藩が検討している内容の通知を 求めた。福岡藩と協議のために、佐賀藩は犬塚理兵衛・高木権太夫など西名を任命した。協議の主な内容は、 島の増強場所、台場での大砲配備の事、外自受け持ち配分のことなどであった。 弘化・五五永初期における;長崎慾備の一考察 設 ( l ) ﹁ 内 外 ム 口 場 改 築 始 末 ﹂ 弘 化 一 一 一 年 九 月 十 七 日 、 ﹁ 鍋 島 蕊 正 公 伝 ( 2 ) 1 ( 7 ) 向、弘化三年九月。向努二七九 1 二 八
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賞 。 ( 8 ) 問 、 ﹁ 世 間 旧 正 公 諮 ﹂ 弘 化 三 年 十 二 月 、 ﹁ 直 正 公 制 御 年 譜 地 取 ﹂ 弘 化 一 一 一 年 十 二 月 二 十 二 日 、 吋 佐 賀 燦 近 世 史 料 第 一 編 第 十 一 巻 い ( 佼 賀県立図設館、二OO
一 二 年 一 一 一 月 ) 一 五 一1
一疋二、六六二氏、前掲泌総滋夜立公伝第一一一線い二八四1
一 一 八 五 賞 。 ( 9 ) 肉 。 ( 印 ) ﹁ 康 正 公 譜 ﹂ ・ ﹁ 直 一 広 公 御 年 譜 地 取 ﹂ 弘 化 三 年 十 二 月 二 十 八 日 、 同 議 ( 日 ) 問 問 、 弘 化 四 年 五 月 六 日 、 問 盟 主 五 六 、 六 六 九 頁 。 (ロ)﹁内外台場改築始末﹂弘化四年五月六日。 ( 日 ) 問 。 第 三 例 闘 い ( 侯 爵 鍋 島 家 編 a 総 所 、 大 正 九 年 八 月 ) 二 七 九 百 見 。 五 二 、 六 六 一 文 。第 一
一 一
章
鍋島直正の交渉
いた。佐賀藩と福関藩との間で 鍋島産正は参府のために弘化四年五月七日に佐賀を出立し、六月十日に江戸 は協議が続けられたていたが、八丹に鍋島直正は﹁長崎御備向ノ義、所詮筑前御示談御一致ノ場ニ歪ルマシ、 所天下ノ為メ自分ニテ台場築立へシトノ御沙汰﹂と佐賀藩単独で長崎警備の増強を行なう決心であることが示され lレ( 2 ) て い る 。 佐 資 大 学 経 済 論 集 第38巻 第I号 幕府町奉行である鍋島直孝が九月十日に老中阿部正弘に会った折に、長崎警備のことで、安部正弘が向題にし ている事項とそれにたいする対処方についての錦島産孝の意見が佐賀に伝られた。それには警備場所などについて の報告が﹁今以無其義﹂と指擁されたとし、対策として 惣而異闇防禦之儀者於公辺御懸念之筋ニ有之、最前被相違誼候次第も候処、如閏疋遅緩ニ及候次第如何之訳ニ候哉、 甚不都合之事ニ候条、現細之儀等ハ追 i 可被仰立、先以御台場御築造・御築足等僻存念之次第を卒 t 僻届出相成 候様 と、台場の増築などについて早急に報告することが必要であるとしていた。しかし、﹁右御届之儀、是迄遅延之末ニ 者候得共、夫 i 取約候様ニ者急ニ難被相運都合も候間﹂と急にとまとめることが菌難であるだろうとして、﹁霊立候 要呂之処さへ相決候ハ¥筑州任示談先御同意之御属書被葉出候事ニ可相成﹂と肝要なことがまとまれば、それに ついて報告するようにと指摘した。 九月二十八日には番方から福岡藩の長崎奉行宛の偲警が﹁漸去ル八日御奉行所差出相成﹂と差し出された旨の連 絡あった。しかし、この折は﹁絵図面倍又御台場御築立其外御入居筋凡積之書付をも被棺部筈之処、此節間ニ合兼 候﹂と台場の増強場所の絵臨簡と工事に必要な経費の見積書が提出できなかった。 十丹十一日に安部正弘に鍋島直正の害状が出された。長崎泰行伊沢政義から長崎防備について意見があれば申し 出るように伝達があったので、申しあげるとして見解を述べている。 見解の大筋は弘化三年に長崎奉行に出したのと基本的には変われないが、外自の駒備が肝要なことが詳述されて い る 。 総雨近年西洋之諾虜航海之術益極精錬、大関海路、所 E 頻致往来、依京本儀以軍艦相襲候儀も有之趣、既ニ鷹山間
件争乱風説之次第も有之、第一去ル民年以来本邦へも和前使館船・諾厄利船・仏朗商船等渡来、内実深意差 合候儀共ニ者無之哉、英一一天下之大患、海防之儀猶吏被加厳密候半開不相叶 と、西洋の航海術が精撤になり、窓越で来襲することもあり、間片戦争以後はオランダ使節船・イギリス船・フラ ンス船が渡来し、﹁天下之大患﹂になっており、海開を強める必要があるとしている。 一体西洋之儀、専研究火術種 t 利用之大銃等相用候趣者、唐山戦争之振合ニ龍も被推度、眼前使節船等一一も大銃 数拾挺儲付、立全鉢之船制海域とも相唱候程厳重之結構ニ候得者、中 i 費目以下之石火矢共ニ間者、船腹打貿候 儀無党束 と、使節船でさえ大砲数十門を備え、厳重な装備になっているので、貫目以下の大砲では船腹を打ち抜くことが出 片 来ないとしている。 虫、化・霊長永初期における長崎怒備の一考察 文化以後者専内自不乗入通之御手配ニ相成候、勿論異議を謹含渡来船ニ候半者、軽易ニ内港乗入侠犠者有之間数、 左候得者防禦之要地全外目之事ニ可有之 と長崎での関備はフエ 1 トン号事件以後は内自に入港させない手配になり、また意闘をもって来航する船はすぐに 長崎港内に入港することはしないから、防禦の中心は外目であると指摘している。フエ 1 トン号事件以後の状況変 化に対する認識が明確に出ている。しかし、来航する船は﹁進退告在之船ニ候得者内外何処を戦地と難差極﹂ので、 ﹁当港咽喉之地占首尾一一騨之形連続之備棺立候方可然﹂と長崎港の内毘から外自問での連続した防備体制の構築が肝 要であるとしている。 総雨右様進退自在之上、堅城間然之結構ニ市専用火術候得者、防禦之指先ハ石火矢之業前ニ相限儀ニ付、乗入候 海路ニ随、切所 1 1 之地ニ於謂厳重之大台場被取建、大貫目之大銃今又百挺程も被相備置度 と述べている。進退が自由である上に堅固な備えになっている船に対する訪禦策は大砲の配備にあり、そのために
佼 賀 大 学 経 済 論 集 第38巻第1号 船が乗り入れる海路にしたがって堅固な抱台を建設し、大型の大砲一
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門ほど備え付けたいとしている。続けて 数鰻之賊船何時襲来候共守衛之者共逸居待受、乗寄候半者一勢ニ打挫、乗離候半者其侭差置、及数日候荷も台峠料 開様之備立を以栢助、猶又槌右兼国債宜之施設或者臨機之計策も可有之候得者、仮令其場遁去候とも本邦厳粛之 武威自然と外盟へも栴振除後窓口候通可相主 と記している。乗り入れた外国船に対しては一斉砲撃をし、離れればそのままにしておき、数日間この体制で防禦 する。この体制を基に臨機応変に対処すればよいとし、逃れ去る事が出来ても、この防備体制が外国に伝わり、後 世一口を除くことが出来るとしている。このような防備体制を必要とする認識は、強烈な危機意識に由来する。 前件海防之義者実ニ天下之大事、家職之急務、殊ニ不容易当今之時勢ニ候得者何時不意之変事出来可仕哉難計片 時も安心不相成 と、海防が天下の大事になっており、長崎警備を担当する佐賀藩にとっても急務なことであり、容易でない当今の 時勢ではいつ不慮の変が起こるかも知れないとしている。ここに強烈な危機意識を見出すことができる。 鍋島直正は十月十一日に老中安部正弘に対して、長崎警備では外自の強化が肝要であることを進言した害状を出 したが、幕府からはその後退答がなかった。このこともあって佐賀藩は独自の強化策を講じていった。 弘化四年十二月晦日に国許に対して指示が出された。 御備増一件既公辺御願被置候得共、未為何御沙汰も無之ニ付而者、御手前線一一f
、 要 官 官 之 場 所 t t 大小銃等御備 増被置可然得候共 と、幕府から何の連絡も無いことについて触れ、﹁去連打追之御備ニ問者片時も御安心難被遊﹂ので、落独自で防備 体 制 を 強 め る 必 要 が と し て 、 ﹁ 撃 四 一 由 銃 凡 二 十 挺 程 御 鋳 立 相 成 、 兼 国 深 堀 表 蓋 組 閣 飽 ﹂ と 四 賀 ⋮ 一OO
自の大砲をニO
門 ほ ど鋳造し、これを、深堀に配備することが命じられている。は嘉永光年三月二十一日に安部正弘に会い、前年に海防について願いを出したことについて、幕府から 弘化・2芸永初期における長崎警備の一考察 返答が無いことから、指示を竿く出すことをも求めた。 私儀今般長崎表当御番蒙仰御暇被下候処、右相違置候筋未何連共御指園無御座 と、長崎警備で任地に赴くのに、願い出たことについて何等の指示が無いことに触れ、さらに 海防之儀者実一一天下之安危相係、別而震キ事柄、殊ニ近年洋夷之挙動を以椙考候ニ何時不慮之変出来候哉難計、 職任ニおいて片時も猶予不相成、 と、海防は天下の安危にかかる重大なことであり、とりわけ西洋の動向からすれば、いつ異変がおこるかもしれず、 長崎警備に於いては片時も猶予がならない状況にあるとして、 昨年参府之儀専右之一条ニ寵引揚罷越候処、至此節御一左右不奉承知候而者誠二不本意之至ニ御鹿候問、持卒速 ニ御琵函有僻座度奉存候 と、参府したのは、長崎警備増強の件であったのに、何等の指示がないのは不本意であるので、速やかに指示を出 すようにとしている。 藩主が幕府の老中に対して指示を促していることから、幕藩関係の変化が見られる。対外危機の進行が幕藩関係 に変動をもたらしていることが窺える。 鏑 島 高 正 は 嘉 永 元 年 三 月 二 の 途 に つ き 、 五 月 一 日 に 佐 賀 城 に 着 城 し た 。 同 年 五 月 二 十 七 日 に は 懸 硯 方に対して﹁当秋、
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向日秋迄十ヶ年之内、十万金相備候様可取計﹂と一0
年 間 に 一O
万両を蓄積する指示がださ れた。特別会計としての懸硯方に資金を蓄積することが目指されている。海防体制を強化する上でも肝要なことで あ っ た 。 日 五月三十一日には撃雷銃の活用が目指されている。﹁自然長崎表異間船渡来之刻、撃雷大銃船載迅速之間ニ合候佐 賀 大 学 経 済 論 集 第38巻第1号 哉、当菱自帆註進之節、載組儀相試候様被仰出﹂と指示されている。撃雷銃は四寅二
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自の大砲で、弾の内部に 散弾を内臓し、着弾して破裂した折にちり離れる仕組みのものであった。この大砲を早船に積込んで攻撃すること の効果について検討がされるようになった。 七月に老中阿部正弘へ再度長崎防備について醤簡を鍋島商正は出した。 長崎表御備一件ニ付而者段 E 預御厚配、発程前御盤取を以被相違先以難有存候、右ニ付御取調之儀其後如何之御 容子ニ候哉日夜夫罰日懸念期間在候 と、長崎防備についての提言に対する幕府側の検討を﹁日夜夫而己懸念﹂と気にしていることを先ず述べている。 つ い で 、 対州表若干之異船地方近乗等、其内ニ者大銃も放候船も有之趣立又奥州辺江も異船数般渡来之趣棺関鏡、近年種 :之風説も有之候処、眼前右之次第甚不容易、惣市海紡之儀者天下之安危ニ相係就中長崎表之儀者外国を被御引 受候要港候得者、何時不慮出来候哉難計虜組を驚候程之御厳備無之市不杷叶 と、近年の外国船の接近に触れ、長崎が外国船を引き受ける要港なので、厳重の防備が欠かせないとしている。 殊ニ伊王島之義者第一明喉之地二市、和蘭入津之目印之旗をも此辺ニ棺立雷、兎角洋中ニ突出、外夷之探的と相 成候島ニ御鹿候故、非常之節者坊禦方至極枢要之切所ニ御座候処、自然従来之通一一被差置候得者、縦令内目之処 ハ如何程厳重之御備有之候共、不露之節此島ニ冊一支も不出来容易ニ乗寄候通有之候得者、先以本邦之鏡、そ被偲、 彼カ為受侮候様可相成哉難計、実不堪切詣 と、防備では長崎港の外目が肝要であるとしている。内自の防備をどのように強化しても、港内に乗りれることを 防ぐことが出来ないとし、﹁彼ヵ為受侮﹂事態になる恐れがあり、﹁実不堪切歯﹂と表現している。防備の中心を外 自に於いていることが明確に出ている。続けて僕等方隅之寄を奉受候荷者片時も安心不相成、万一顧立之儀全分御吟味急ニ相付兼候半者、先以伊王島等極要之 所 i 為天下急ニ御決算有御座度奉願候 と、幕府の方針が出ないときは片時も安心できないとし、願い出の総てについて吟味ができない持は、伊王島の件 だけでも阜く決定することを求めている。対外的危機に対する防備強化に意を注いでいる。 鍋島直正がこのころ大型の大砲を鋳造することを意留していたことは、﹁戯題南極星回﹂と題する漢詩からも窺う こ と が で き る 。 欲鋳巨砲威万里 仰見趨星照戦抱 未能大舶製千般梨、窓一喪征南夢 とある。これは嘉永元年秋ごろの作と見られている。巨砲を鋳造する意士山が出ている。 弘化・姦永初期における長崎慾備の一考祭 詮 ( 1 ) ﹁ 直 正 公 譜 ﹂ ・ ﹁ 直 立 公 所 年 譜 地 取 ﹂ 弘 化 四 年 五 月 七 日 、 十
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二 年 一 一 一 月 ) 一 五 七1
一 五 八 、 六 七 ア よ ハ 七 一 一 資 。 ( 2 ) ﹁ 内 外 ム 口 場 改 築 始 末 ﹂ 弘 化 四 年 八 月 。 ( 3 ) ﹁直正公諮﹂・﹁道正公御年譜地取﹂弘化四年九月十一日、問書一五九1
一 六O
、六七支1
六 七 六 頁 。 ( 4 ) 隠 。 ( 5 ) 向、弘化四年九月二十八日、同替、一六O
、 六 七 七 頁 。 ( 6 ) ﹁ 内 外 ム ロ 場 改 築 始 米 ﹂ ・ ﹁ 直 正 公 設 ﹂ ・ ﹁ 直 正 公 御 年 譜 地 取 ﹂ 弘 化 剖 年 十 月 十 ( 7 ) 1 ( 日)向、河惑。 (ロ)問、弘化四年十二月三十一日、同議一六三1
一 六 一 二 、 六 八 閲 覧 。 ( 日 ) 同 。 ( 弘) i
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日 ) ( げ ) 同 窓 ( 刊 日 ) 伺 警 日 、 内 佐 賀 県 近 世 史 料 第 一 一 線 第 十 一 巻 い ( 佐 賀 際 立 図 書 錦 、 一 一 日 、 悶 詩 一 六 一 ( ) 一 六 ニ 、 六 七 七 変 。 ﹁ 市 内 外 ム ロ 場 改 築 始 末 ﹂ ・ ﹁ 直 正 公 諮 ﹂ ・ ﹁ 直 疋 公 御 年 設 地 取 ﹂ 訪 中 氷 一 冗 年 一 二 月 二 十 一 日 、 間 設 七 一 、 六 九 三 真 。 七 一 、 六 九 郎 頁 。 七01
一七て六九二賞。佐賀大学経済論集第38巻第l号 ( m w ) 向 。 (初)吋鏑闘一同士限立公伝第一ニ篇い(侯爵鍋島家編纂所、大正九年八月)八
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一 一 二 九 一 員 。 ( 幻) 1
(
お ) ﹁ 内 外 ム 口 場 改 築 始 末 ﹂ ・ ﹁ 薩 正 公 諮 ﹂ ・ 2 山 県 立 公 御 年 譜 地 取 ﹂ 嘉 永 元 年 七 月 、 前 掲 ﹁ 佐 賀 関 町 近 隆 史 料 一 七 六 、 七OO
資 。 (Mm) 幕府側の状況については三谷博﹁ペリ l 来航﹂(皆川弘文館、二OO
一 一 一 年 十 月 ) 一0
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一 一 一 頁 。 ( 幻 ) 前 掲 お 紛 鼠 認 腹 立 公 伝 第 一 一 一 筋 い 一 一 一 三 一 一 一 頁 、 中 村 郁 一n m
島照受い(大正六年四月)四六五頁。 巻 い 第 一 一 編 第 十むすびにかへて
佐賀藩は諸藩に先駆けて反射炉を築設し、鉄製大砲を鋳造した。皮射炉の築設が何時ごろ方針化されたにかは、 幕末期における海訪問題を検討するうえでも肝要なことであろう。このために、弘北期と嘉永初期における長崎警 備をめぐる動きを、佐賀藩、福岡藩、幕府について考察してきた。 佐賀藩は長崎港外自の訪備強化を主張した。これは西欧列強の軍事力の進展を認識したことからくるものであっ た。この認識はアへン戦争にける清閣の敗北、 のオランダ軍艦パレンパン号への乗艦が大きく影響したと み ら れ る 。 福岡藩は当初は外自の防備強化に賛同しなかった。外自の地が主に佐賀藩領であり距離も遠くなることから、福 岡藩にとっては負担が増えるからであった。しかし、外告の巡視などから、防備では外目が欠かせないとの認識と なり、佐賀藩の主張に賛同するようになった。佐賀藩と福岡藩は外自の防備強化の方針を出した。とりわけ、鍋島 は老中阿部正弘に外目強化のことを強く申しでた。反射炉の築造が方向づけられる時期の検討ということから すれば、嘉永初年には大型大砲の鋳造が認識されていたとみなすことができるであろう。この点からすれば、弘化四年の鍋島直正の出府と江戸での長期滞在は大きな意味をもっ。は老中安部正弘と直接交渉をした。外様
の藩主が老中と直接交渉するという事態に幕藩関係の大きな転換がみられる。
本稿は文部科学省科学研究費補助金特定領域研究﹁我が匿の科学技傭繋明期資料の体系化に関する調査・研究﹂
による研究成果の一部である。