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Hirofumi KAWAKAMI / Blaise Pascal, Les Provinciales, Pensées et opuscules divers, textes édités par G. Ferreyrolles et Ph. Sellier, Librairie Générale

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─アルノー,ジャンセニウスと比較して─ 川 上 紘 史   Hirofumi KAWAKAMI 「この世にあるどんなものも,肉の欲望か目の欲望か生活のおごりである」.「感覚欲,知 識欲,生活のおごり」1). これはブレーズ・パスカルの『パンセ』に引用された,「ヨハネによる第一 の手紙」の一節及びそのアウグスティヌスによる敷衍である.ここにみられ る三つの邪欲という考えは,パスカルの思想の基本的な枠組みである三つの 秩序と深く関与している.このテーマの研究が数多くある2)ことからもわかる ように,三つの秩序/邪欲は第一に押さえておかねばならないテーマである. だが,三邪欲の一つ,好奇心を単体で取り扱ったパスカル研究は少ない3). 筆者の研究上の関心はパスカルにおける視覚認識,すなわち目による認識の 意味付けにある.視覚による認識はパスカルにおいて重要な意味を担ってい た.例えば『パンセ』において見るという語はしばしば特徴的に用いられて おり,盲目状態は同書における重要なトポスの一つである.この観点からす ると,「目の欲望」と呼ばれる「好奇心」概念に対するパスカルの認識は非常 に興味深い.

1)Blaise Pascal, Les Provinciales, Pensées et opuscules divers, textes édités par G. Ferreyrolles et Ph. Sellier, Librairie Générale Française, « La Pochotèque », 2004, S460-L545(以下『パンセ』か らの引用はこのテクストに従う.なお出典箇所はセリエ版,ラフュマ版の断章番号をそれぞれ 記号S,Lに続けて記す.断章が長い場合,本テクストのページ数を断章番号の後に付す.日本 語訳は筆者による).

2)例えばJean Mesnard, «  Le thème des trois ordres dans l’organisation des pensées  », in La

Culture du XVIIe siècle. Enquêtes et synthèses, PUF, 1992, pp. 462-484. Gérard Ferreyrolles,

«  Augustinisme et concupiscence  : les chemins de la réconciliation  », in Littérature et séduction.

Mélanges en l’honneur de Laurent Versini, édités par R. Marchal et F. Moureau, avec la

collaboration de M. Crogiez, Klincksieck, 1997, pp. 171-182. 山上浩嗣『パスカルと身体の生』, 大阪,大阪大学出版会,2014年.

3)以下の研究では,アウグスティヌスとの比較研究の中で,三つの邪欲の一つとしてのパスカ ルの好奇心概念を包括的にとらえている.Philippe Sellier, Pascal et saint Augustin, Paris, Armand Colin, 1970 ; Paris, Albin Michel, « Bibliothèque de l’Évolution de l’Humanité », 1995.

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本論ではとりわけ『パンセ』における好奇心の意味を明らかにすることを目 指す.とはいえ,先述の通り好奇心のテーマはさほど強く打ち出されてはい ない.「好奇心curiosité」の語の使用回数でいえば,『パンセ』全体で9回しか ない4).そこで,パスカルが間違いなく目にしているジャンセニストの著作(具 体的には,ジャンセニスムの祖であるジャンセニウスによって書かれた『内 的人間の改造』,後にジャンセニストのマニフェストとも形容される,アント ワーヌ・アルノーの『頻繁なる聖体拝領』)5)に現れる好奇心概念との比較を通 じて,パスカル『パンセ』における好奇心概念の特徴を検討したい. I 十七世紀オランダの神学者であるジャンセニウスはサン=シラン神父を経由 してポール・ロワイヤル修道院に深い影響を与えた.1642年にアルノー・ダ ンディイによってフランス語に訳された彼の『内的人間の改造』において, 原罪から発生した三つの邪欲の詳細な解説が行われている.パスカルはこの 書を,いわゆる最初の回心の際に読んだと推定されており,その影響は『パ ンセ』A.P.R.の断章6)などに見て取ることができる.この『内的人間の改造』 において,三つの邪欲の一つ,知識欲と同一視される好奇心は次のように定 義される. なぜなら,罪は魂のうちに移り気で,無分別で,知りたがる情念を刻んだからだ〔…〕. そして,この情念は知るという欲望にあり,視覚は認識することに関係するすべての感 覚の中で第一のものであるだけに,聖霊はこの情念を「目の欲望」と呼んだのだ7). 好奇心は知る欲望として示される.この欲望は,ものの認識に関わる感覚の 最たるものが「視覚」であることから,「目の欲望」と呼ばれる.この欲望は 学問と密接に関係している. 4)形容詞 « curieux »は『パンセ』において3度用いられている. 5)Michel Le Guern, Pascal et Arnauld, Paris, Honoré Champion, 2003, p. 19. 6)S182-L149, pp. 919-920.

7)Cornelius Jansénius, Discours de la réformation de l’homme intérieur, d’après la traduction en français établie par Robert Arnauld d’Andilly et éditée en 1642, Paris, Éditions Manucius, «  Le Philosophe », 2004, p 24. 以下,同書からの引用は記号RHIと略記し,続けて頁数を付す.なお, 日本語訳は筆者による.

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この魂の病は健全なベール,すなわち学問というベールの下に滑り込むだけに一層人々 はこの病によって堕落させられている.(RHI, p. 24) 学問そのものは健全だが,好奇心,知りたいという欲望がその動機となるこ とは否定される.なぜなら対象である真理,知識自体の有用性(客観的価値) が問われなくなるからだ.この価値は,探求の時点で理解されるものであり, 将来なんらかの役に立つという見込み,可能性では不十分である.そのため, 自然学さえも,「わたしたちには関係なく,知ったところで無益であり,人間 はただ知るために自然の秘密を知ろうとしている」(RHI, p. 24)と非難される. 有用性を無視する8)好奇心は,好悪(主観的価値)も無視して知ることを求め る. 〔…〕肉的な欲望は快いものだけを目指す.これに対し,好奇心は快くないものにさえ向 かうのだ.好奇心は,好奇心が知らないものごとすべてを試み,試し,知ることを好む. (RHI, p. 24) 好奇心は認識対象の価値を無視し,知ることに伴う快楽だけを求める.この 時好奇心は,対象が認識主体にとって新しいか否か,という価値基準を生み だす. しかし,誰が説明しうるであろうか.どんなに多くの事柄へ,それらがどんなにつまら なく軽 されていようとも,わたしたちの好奇心が常に引き付けられているかを.そし て,私たちの目と耳が,何らかの対象―例えば走るノウサギ,巣にハエをとらえたクモ, 似たようなことがらとの出会い―の新しさに驚かされ,刺激された時,どんなに私たち の記憶に焼き付くか,どんなにわたしたちの精神はそうした事柄に強力に刺激され,奪 われてしまうのかを.(RHI, p. 25) ここでいう新しさはそれまでなかった刺激という意味だ.ウサギが駆ける, クモが をとる,それ自体は一般的に言ってありふれたことである.しかし, 8)ジャンセニウスは人間の究極の目的である神の探究と,自分の仕事に必要なことの調査,探 究は好奇心によるものではないとしている.RHI, pp. 26-27.

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主体がそれまで見ていたものとは違うという理由によって,好奇心は価値を 見出し,人は心をそちらに向け変える.この時,対象そのものの価値は無視 されている. 以上のジャンセニウスによる好奇心の説明をまとめると,好奇心には次の三 つの特徴があるといえる.1/知ること自体の快楽の希求.2/対象の主観的/客 観的価値に対する無関心.3/認識主体である人にとっての新しさという興味 関心の基準の設定. 新しく知ることで快楽を得られるならば,対象が何であっても心をそちらに 向け変えてしまう.好奇心は,キリスト教的文脈の中で,このような悪しき 欲望であると指摘されてきたのだ. II 1643年に出版された神学的論争文書『頻繁なる聖体拝領』における好奇心の 用法を確認する.この文書はむやみに聖体拝領を進めるセメゾン神父に反論 することを目的としており,好奇心概念はその論拠の一つとして用いられる. そのため取り扱いには注意を要する.とはいえ,アルノーは好奇心を,説明 のための原理として,ほとんど議論することなく用いている.裏を返すと, ここで示されているものは好奇心の一般的な性質,常識的に受け入れられる 側面だということになる.『頻繫なる聖体拝領』にみられるアルノーの好奇心 の用例は,本論の目的となるパスカルの好奇心観理解のための補助線として の資格を有するのは間違いない. さて,『頻繁なる聖体拝領』は,イエズス会のセメゾン神父が著した批判論 文「問題―聖体拝領はまれにしかしないよりしばしば行う方がよいか」に応 答する形で書かれた.カトリックの七つの秘跡の一つ,聖体拝領の参加の頻 度,及びその際の態度を主題の一つとする.アルノーは聖体拝領に参加する 際の信者の心のありようを重視し,聖体を受け入れるに値する状態に心が整 うまで,聖体拝領を延期し,悔悛を行うべきだと主張する.これに対しセメ ゾン神父は恩寵を欠いているからこそ一層聖体拝領に頻繁に参加すべきだと 主張する. あなた[セメゾン神父]はおっしゃっていますね.「より一層人々の過ち,不完全さを知

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るだけに,人々の間の親しさが軽 を生む.しかし神との日常的な交際は尊敬を生む, これは本当のことだ.神により近づくほど人は神をよりよく知り,神をよく知るほど人 は一層神を尊敬し,一層心から神を愛するのだ.」と9). 交際が頻繁になると,人は相手の欠点を目にし,それゆえに相手を侮る.し かし,神が相手の場合は異なる.神は欠点を持たない存在だから,親しくな ればなるほど素晴らしさだけを目にし,人間は一層神に愛をささげる.この セメゾン神父の主張は,人間の態度は対象の長所,短所の認識に由来する, という考えに基づいている.この考えの正しさを認めながらも,アルノーは セメゾン神父に反論する.人間のもつ邪欲の一つ,好奇心が考慮されていな いからだ. ゆえに知ってもらいたい.何故ものへの親しさが私たちにそれらのものへの尊敬を減少 させるのか,その理由は,それらのものが後に,最初に見えたよりも不完全に見えるか らというばかりではない.むしろ,私たちがそれらを,特に霊的な事柄の場合,不完全 に認識しているということ,加えて好奇心,私たちの魂の第三の傷であり,私たちの内 に宿り,聖パウロが邪欲と呼んでいるあの罪の第三の部分であるあの好奇心が私たちを 常に新たな対象の探究へと向かわせることで,私たちに,ありふれたものとなった物事 への熱意を失わせてしまうからなのだ.(FC, p. 613) 人であれ,ものであれ,親しくなることで尊敬の念は減少する.その原因と してアルノーは,人間の持つ三邪欲の一つ,好奇心が,常に新しいものの探 究へと人間を向かわせ,見慣れてしまったものへの興味を失わせている点を 指摘する.新しさという判断基準によって,慣れ親しんだものを人間は侮る のだ10).

9)Antoine Arnauld, De la Fréquente Communion, où les sentiments des Peres, des Papes & des

Conciles, touchant l’usage des Sacrements de Pénitence et d’Eucharistie, sont fidellement exposés, pour servir d’adresse aux personnes qui pensent sérieusement à se convertir à Dieu ; aux Pasteurs & Confesseurs zélés pour le bien des ames in Œuvres de Messire Antoine Arnauld, Docteur de la Maison et Société de Sorbonne [p. p. G.  Dupec de Bellegarde et J.  Hautefage][désormais ARN], Paris et

Lausanne, S. d’Arnay, 1775-1783, 43 vol. in-4o, Impression anastatique par Culture et Civilisation, Bruxelles, 1964-1967, t. XXVII, pp. 71-673(reproduit la 5e éd., Paris, A. Vitré, 1646), p. 611.(以下, 同書からの引用は記号FCと略記し,続けて頁数を付す.なお,日本語訳は筆者による). 10)好奇心が人間を新しさへ向かわせる欲望である点はアウグスティヌスが『真の宗教』におい て 指 摘 し て い る. な お『 真 の 宗 教 』 は ア ル ノ ー 訳 が1647年 に 出 版 さ れ て い る.Antoine

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好奇心のこの性質は人間の行動を左右する重要なものとみなされる.事実, アルノーは神が奇跡を行う理由にも好奇心のこの性質を結びつけている11).こ れらの『頻繁なる聖体拝領』の記述から,好奇心という邪欲に次の二つの性 質を見て取ることができる.1/人間への,主観的な「新しさ」という判断基 準の付加.2/人間の行為,とりわけ習慣と好奇心の間の密接な関係. 新しさ,慣れそして習慣といった主観的な判断基準を設け,対象そのものの 価値を無視させる.好奇心のこの性質は人間の判断に直接関わっている. III ここまで,『内的人間の改造』を通じて邪欲としての好奇心の基本的な性質 を確認し,『頻繁なる聖体拝領』から判断基準の付加という形で,好奇心が人 間の行為に直接影響を及ぼしていることを確認した.以上を踏まえてパスカ ル『パンセ』における好奇心理解を考察しよう. パスカルは好奇心という邪欲を三つの秩序と関連させて位置づける. 肉の欲望,目の欲望,傲慢,などなど. ものには三つの秩序がある.肉,精神,意志.〔…〕 好奇心に富んだ学者たち.彼らは精神を対象とする.〔…〕 精神的なことは主に好奇心が支配する.(S761-L933) ここで言われている秩序は独自の原理や目的をそなえ,他とは独立した領域 のことである12).この断章において,パスカルは「肉」,「精神」,「知恵」の三 つの秩序が存在することを指摘する.「肉」の秩序は金銭,権力が価値基準と なる世俗的世界のことをさす.「精神」の秩序は,学殖,知識が基準となる学 問的世界,「知恵」(別の断章での表現を用いれば「慈愛」13))の秩序において

Arnauld, Le Livre de S. Augustin De la véritable religion. Traduit en françois par M. Antoine

Arnauld, Prêtre, Docteur en Théologie de la Maison de Sorbonne, ARN, t. XI, pp. 659-764(reproduit

la seconde édition, Paris, Pierre le Petit, 1656), p. 756.

11)神が尋常ならざる奇跡を行うのは人間の関心を引くためである,とアルノーはアウグスティ ヌスの著作(『真の宗教』,『神の国』)の引用から主張する.この議論から新しさへの傾倒とい う好奇心の性質が導出される.FC, pp. 612-613. ただし,引用されたアウグスティヌスの文章は 元々好奇心と直接関連してはいない.

12)山上浩嗣,前掲書,p. 12 sq.

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は至高善であり正義であるところの神へとむけられる愛が基準となっている. この時,三つの秩序は「肉」「精神」「知恵」の順で価値的に上昇してゆく階 層構造をとっている.そしてそれぞれの秩序に「邪欲」「好奇心」「傲慢」の 三つの邪欲が割り当てられる.精神の秩序と結び付けられた好奇心は病に例 えられる. あるものの真理を知らないとき,人間の精神を固定する共通の誤りがあるほうがよい. 例えば季節の変化,病の進行を月のせいにするように,等々.〔…〕なぜなら人間の主要 な病は知りえないものへのあくなき好奇心であるからだ.(S618-L744) 好奇心は「知りえないもの」を知ることを際限なく望む.その例として季節 の変化,病の進行が挙げられることから,ここでの「知りえないもの」とは 日常的な形而下の出来事の真理,大きく言えば宇宙全体の真理ということに なるだろう.パスカルは「人間の不釣り合い」と題された二つの無限につい て語る有名な断章においても,人間が宇宙全体の真理を知りえないと指摘す る. ものの中間の何かしらのうわべを認めること以外のなにをするというのだろうか.もの の原則も目的も知ることができないという永遠の絶望のうちにあるというのに.あらゆ るものは無から出て無限へと向かう.誰がこの驚くべき歩みについてゆくだろうか.こ れらの驚異の作り手だけがこの歩みを理解する.それ以外の誰もこれをなしえない. (S230-L199, p. 944) 有限な存在である人間は無と無限の二つの無限の中間に位置し,どちらの極 も認識できない.故にすべてを知ることはできない.にもかかわらず人間は 全てを知りたがる.このような人間の立場をしれば,好奇心は感嘆へと変わ る. 自分をこのように認める人は自身を恐れ,無限と無という二つの深淵の間で自然が自分 に与えた塊のうちに自らが支えられているのを認めてこれらの驚異の視覚のうちに震え ることだろう.そして,その人の好奇心が感嘆へと変わり,これらの深淵を思い上がり

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とともに探求するのではなく,黙って熟視することに向かうだろうとわたしは思う. (S230-L199, pp. 943-944) この状態を裏返したものが好奇心にとらわれている人間の姿だ.人間は自分 の立場をわきまえず,好奇心にとらわれ,自らが真理に直接向き合うには不 釣り合いだということに思い至ることなく,知りえないことを探求し続ける. 以上からわかるように,パスカルは,有限な人間には不釣り合いな無限の真 理を追い求める,際限のない知識欲として好奇心を問題視する.だが,これ だけではない.好奇心の自己愛との関係もパスカルは指摘する. 好奇心はたいていの場合虚栄でしかない.それについて語るためだけに人は知りたが る.(S112-L77) 好奇心は知る快楽だけでなく,知識を他人に語る快楽の側面もある.この時, 好奇心は自己愛の現れの一形態といえる.学問的知識を他者に語ることで他 者よりも自己を上に置き,自己愛を満たすのだ. このように,パスカルは好奇心の二つの問題点を指摘する.だが,アルノー の指摘していた,好奇心と,判断基準としての新しさの関係は『パンセ』に おいて言及されない.『パンセ』では,新しさ,古さが誤 を生み出す判断基 準となることが,好奇心の議論とは別に指摘される. 古い印象だけが私たちを誤らせることができるのではない.新しさの魅力もまた同じ力 を持つ.ここから人々のあらゆる議論が生まれる.彼らは「子供の頃の間違った印象に 従っている」とか「軽率に新しいものの尻を追いかけている」と非難しあう.誰がぴっ たり中間を維持できるだろうか.姿を見せて,証明するがいい.子供のころからどれほ ど自然なものに見えようとも,教育の,または感覚の,誤った印象としてみなされない 原則はないのだ.(S78-L44, p. 859) このテクストは「想像力」の断章の後半部からの引用である.新しさの魅力 と古い印象は想像力,病と並ぶ誤 の源泉として示される.ここで意識的に 新旧の時間的対比が用いられているのは明白だ.この対比は学問の領域と関 連付けられている.真空をめぐる議論を例に用いていることからそれがうか

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がわれる. ある人は言う.「君は子供のころから,箱の中に何も見ないとき箱は空  «  vide  »だと思っ ていたから,君は真空 «  vide  »があり得ると思ったのだ.それは習慣から来る君の感覚の 幻想であって,学問が矯正しなくちゃならない」.また別の人はこう言う.「学校で君は 『真空はない』と教わって,君の常識はだめになったのだ.そんな悪い印象の前には,君 の常識は真空を理解していたのに.君の第一本性に助けてもらって,この常識を矯正し なくちゃならない」.さて,どっちが間違っているのか.感覚か,教育か.(S78-L44, pp. 859-860) 感覚に基づいて真空の存在を主張する者,教育に基づいて真空の不在を主張 する者,二人の人物の仮想的な議論が提示されている.実験によって真空嫌 悪の現象の原因を大気圧だと示すパスカルの視点からすれば,どちらも誤っ ている.前者は真空が可能であるという結論は正しいが,そこに至る議論が 誤っているし,後者は前者の議論の誤りを指摘するのは正しいが,真空が不 可能であるという結論が誤っているからである.この誤 の原因は,昔から 慣れ親しんだ感覚による印象と新しく学んだ教え,どちらかを優先させるこ とにある.ここには,好奇心の性質であった判断基準としての新旧をさらに 推し進めた考えが現れている.新しいこと,古くから慣れ親しんでいること, どちらも真理そのものとは無縁の主観的認識でありながら判断の基準となり, 誤りへと人を導く. 『頻繁なる聖体拝領』で新しさへの欲望は好奇心の性質とみなされていた. しかし,『パンセ』において新しさへの欲望と好奇心との関係は指摘されず, それぞれ別の欲望として提示されている.なぜか.好奇心が支配する領域と してパスカルが設定した学問という領域は,パスカル自身にも非常に身近な ものであった.この領域に含まれる自然学において,パスカルは新しい実験 を用いて,可視的に自然の真空嫌悪といわれる現象を解き明かした.好奇心 に,「新しいものを追い求め,慣れ親しんだものを軽視する」という性質があ るのなら,パスカルの提示した新発見は好意的に受け取られるはずである. しかし,そうはならないとパスカルは思っていた. 古代人に向けられる尊敬は,今日,そこまでの力を持つべきではない分野においても実

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に高まっているので,古代人の考えはみな神託とみなされ,彼らのあいまいな点は神秘 とみなされてしまっている.そして,もはや危険を冒さずに新しいことを主張すること はできず,最も強固な論拠さえ一人の著者のテクストだけで破壊されてしまうほどであ る14). 自然学のような人間の理性にかかわる分野,進歩発展がある分野においても 古代への尊敬が優先される.そのため新発見は受け入れられない.学界がそ のような状況にあるとパスカルは見ていた.計算機発明の際にもパスカルは 同様に述べている15).その考えに基づくと思われる断章が『パンセ』に残され ている. これは力の現象であり習慣の現象ではない.なぜなら,発明のできる人はめったにいな いからだ.数の上で強い人たちは従うことしか望んでおらず,発明によって栄光を求め る発明家たちに栄光を拒む.そして,仮に発明家たちが栄光を手にすることを望み,発 明しない人たちを軽 するよう頑固に言い続けるなら,ほかの人々は彼らを馬鹿者と呼 んで,棒でぶったたくことだろう.だから,この繊細さを誇らずにおくか,自分だけで 満足しておくのがいい.(S122-L88) 「発明する」というのは極めて知的,学問的な能力である.精神の秩序の王と パスカルがみなすアルキメデスは「目に見える戦果を挙げなかった.だが, 彼はあらゆる精神に彼の発明を与えた」.アルキメデスは彼の発明ゆえに「精 神に輝いていた」のだ(S339-L308).新しいものを発見する,生み出すところ に精神の秩序は価値を見出す.しかし,発明家は,ただ従うことだけを望む もの,すなわち古い考えを優先するもの(学者も含まれる),発明の栄光を発 明者に与えることを拒むものによって,学問の領域においても不当な扱いを 受けるのだ. 学問的世界において,新しいものの発見それ自体は栄光である.しかしなが ら,それを理解しようとしない人たちによって,不当に貶められるのだ.こ

14)Préface sur le traité du vide, in Œuvres complètes (désormais ŒC), tomes I-IV, éd. J. Mesnard, Desclée de Brouwer, 1964-1992, t. II, p. 777. 日本語訳は筆者による.

15)Lettre dédicatoire à Monseigneur le Chancelier sur le sujet de la machine nouvellement inventée

par le sieur B.P. pour faire toutes sortes d’opérations d’arithmétique par un mouvement réglé sans plume ni jetons, in ŒC, t. II, p. 333.

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れは見慣れたものを軽視し,そのものの価値とは関係なく新しいものを追い 求めるというアルノーの用いた好奇心の性質の逆である.好奇心を学問的世 界の主要な邪欲と定義するパスカルには,新しいものを求め,古いもの,見 慣れたものを軽視する傾向をそのまま認めるのが困難だったのではないか. パスカルは好奇心という邪欲を精神の秩序と結びつけた.彼はこの邪欲の二 つの側面を指摘する.1/有限な存在である人間が,無際限に知ることを望む 欲望.2/得た知識を他者に伝えることで自己愛を満たす欲望.2はパスカル独 自の見解である.また,アルノーの用法と比べることで,「新しいものを追い 求め,見慣れたものを軽視する」という好奇心の性質を好奇心と切り離して とらえていることが確認された.本論ではその理由を,パスカルの科学領域 での経験と関連づけて考察するにとどまったが,この問題自体には更なる広 がりがある.ジャンセニウスは新しいものとしてノウサギなどのスペクタキュ レールなものを例に挙げていた.アルノーにおいて神の奇跡も好奇心のこの 性質と関連付けられた.興味関心を引き寄せる新しさという観点はパスカル において別のテーマ,「気晴らし」「想像力」にも存する.パスカルは新しさ の探究という人間の性質をどう位置付けたのか.これが今後の課題である. (大阪大学大学院博士後期課程)

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La « curiosité » chez Pascal

à la lumière de sa définition par Arnauld et Jansénius

La présente étude est consacrée à l’examen de la notion de curiosité chez Pascal, qui la définit comme une forme de concupiscence régnant sur l’ordre des esprits, celui des «  trois ordres  », qui recouvre le domaine de la science. Cette définition présente des différences significatives avec celles que proposent respectivement Jansénius et Antoine Arnauld.

Pascal attribue à la curiosité les trois caractéristiques suivantes. 1  /  Elle exprime un désir infini de savoir, qui s’étend à la totalité de l’univers, pourtant inconnaissable par nature, puisque le sujet de cette connaissance est fini et que son objet est infini. 2  / Elle prend sa source dans l’amour-propre. C’est là que Pascal se sépare de Jansénius, lequel réduit la curiosité à un pur désir de savoir, tandis que notre philosophe lui prête comme origine un désir distinct, qui pousse l’homme à se vanter de son savoir auprès d’autrui afin de satisfaire son amour-propre. 3 / Elle ignore l’attrait pour la nouveauté. Alors qu’Arnauld et Jansénius établissent un lien entre ces deux notions, Pascal est conduit par sa pratique de la science à les distinguer rigoureusement.

Hirofumi KAWAKAMI

Étudiant en 3e année de doctorat à l’Université d’Osaka

参照

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