工場における研修を背景として
著者 吉田 健一
雑誌名 鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要
巻 5
ページ 2‑20
別言語のタイトル Educational philosophy in KYOCERA : A
background to training at the Kokubu plant
URL http://hdl.handle.net/10232/23106
Educational philosophy in KYOCERA
- A background to training at the Kokubu plant -
キーワード:京セラフィロソフィ、アメーバ経営、経営理念、企業文化、社内教育
YOSHIDA Ken’ichi 〔Associate Professor, Kagoshima University, Inamori Academy〕
はじめに―本稿の性格と目的―
1:京セラ国分工場及び隼人工場の概要 2:研修の概要
2-1(1):「感謝」をテーマとした研修 2-1(2):アメーバ経営について
2-1(3):見学したフィロソフィ研修についての考察 2-2(1):「ドキュメントアメーバ経営」について 2-2(2):考察
2-3:月末の朝礼見学
3:フィロソフィ教育のもつ意味
4:なぜ、従業員にフィロソフィ教育が受容されるのか おわりに―今後の課題―
【参考文献】
京セラにおけるフィロソフィ教育について
―国分工場における研修を背景として―
吉田 健一〔鹿児島大学稲盛アカデミー 准教授〕
はじめに―本稿の性格と目的―
本稿は京セラにおけるフィロソフィ教育についての考察を複数の視点から行うものであ る。本稿の執筆にあたり、筆者は鹿児島県霧島市にある京セラ国分工場でフィールドワーク を行った。本稿は第一義的には、参加観察のレポートの性格を有している。本稿は一つの仮 説を提示し、その仮説の正しさを導くために検証を行い、結論を導く(仮説の証明)という 形を採るものではない。記述の前半は参加観察の報告とそこで見聞したことへの考察が中心 である。
本稿の中心は、事実の報告部分ではなく筆者の考察部分である。考察は新たな問いを含む ものともなっている。従って、本稿においては、今後の課題も視野に入れ、考察から得られ た問いとその問いに対する仮説の提示までを行いたいと考えている。
本稿の構成は以下の通りである。1 節においては筆者が実際に行った鹿児島国分工場と隼 人工場の概要を記している。2 節は筆者が通って見聞した内容の紹介である。基本的に参加 観察のレポートの性格が強いが、それぞれの日ごとにテーマを設定して考察を加えた。3 節 が全体を通じての考察部分である。京セラにおけるフィロソフィ教育のもつ意味について考
察を行っている。
4 節は 3 節を受けて、何ゆえにフィロソフィ教育が広く京セラの従業員に受容されるのか について考察し、仮説を提示した。すなわち、本稿においては、今後の調査によって証明を 試みることを想定している仮説の提示が結論部分に相当する。
フィロソフィ教育が従業員にどのよう内的な変化を起こさせているかなど、全体像を明確 に検証するには、教育担当者へのヒアリングや従業員へのアンケート調査が必要になるが、
本稿ではそこまでは扱わない。本稿では、筆者が実際に京セラで研修を行ったなかで確認さ れた事実を報告するとともに、「フィロソフィ教育」が京セラの従業員にとっていかなる意 味をもつのか、またなぜ、その「フィロソフィ教育」が従業員に受容されているのか-仮に 受容されているとしてだが-について考察を加え、仮説を提示するところまでを行う。
本稿では「京セラフィロソフィ」と「アメーバ経営」という言葉をこの後、特段の断りな く使用していくが、京セラの会社案内には以下のように短く説明されているので、最初に意 味の確認をしておく。
京セラフィロソフィとは、「『人間として何が正しいか』をものごとの判断基準におき、す べての行動において、公明正大でまじめに一生懸命努力していくことの大切さを示す人生哲 学、経営哲学」1であり、アメーバ経営は「組織を小集団に分け、市場に直結した独立採算制 により運営し、経営者意識を持ったリーダーを育成し、全従業員が経営に参画する『全員参 加経営』を実現する経営手法」2のことである。この両者は不可分の関係にある。
筆者からみて京セラのフィロソフィ教育は、充分に従業員に受容されていると思われるも のであった。また、フィロソフィ教育と京セラの経営の間には切っても切れない関係がある ことも、改めて理解できた。京セラのフィロソフィ教育は一般的な企業の社員教育や社員研 修とは、著しく性格を異にするものである。勿論、様々な企業で行われている社員教育や社 員研修はそれぞれに特徴のあるものではあろうし、一言で一般化できるものではないのかも 知れない。だが、そのことを充分に考慮しても、京セラのフィロソフィ教育は極めて異彩を 放っているものである。
京セラの経営管理手法である「アメーバ経営」と「京セラフィロソフィ」は車の両輪で切っ ても切れないものである以上、京セラの従業員に対して「フィロソフィ」が教育によって浸 透しなければアメーバ経営も機能しない。これが、京セラのフィロソフィ教育が、一般的な 企業の社員教育や社員研修とは性格を異にするものである最大の理由であると考えられる。
つまり、京セラにおいて「アメーバ経営」を機能させるためのものが「京セラフィロソフィ」
であり、このフィロソフィを従業員に浸透させるための教育が「フィロソフィ教育」なので ある。
だが、本稿自体の結論が上述したことというわけではない。今、述べたことは、いわば最 初から分かっていたことを実際に確認したということに過ぎない。筆者の関心は、その京セ ラの「フィロソフィ教育」そのものが、なぜ、従業員に広く受容されるのかである。このこ とについての筆者の見解はここでは述べずに後の考察部分で述べたい。そして、本稿におい ては参加観察に対する考察による仮説の提示を一通りの結論としたいと考える。
本稿はタイトルを「京セラにおけるフィロソフィ教育について―国分工場における研修を
1 京セラ株式会社『CORPORATE PROFILE』2013 年 4 月版 p.5 参照。
2 同上。
背景として―」とした。当初はタイトルを「京セラ国分工場におけるフィロソフィ教育の実 践について」としようと考えていた。具体的に国分工場で見聞したことのみを考察の対象と しようと考えていたからである。だが、フィールドワークを行ったのは国分工場であるが、
本稿は全体として、京セラのフィロソフィ教育について考察する内容となったので、このよ うなタイトルとした。
1.京セラ国分工場及び隼人工場の概要
筆者は本稿の執筆にあたって、平成 25 年 9 月 25 日から 30 日に実際に国分工場で研修を 行った。工場に通ったのは 4 日間であり、そのうち 27 日と 30 日は隼人工場にも行った。
研修の目的は「京セラアメーバ経営、京セラフィロソフィ教育」に関する論文執筆にあたっ て、実際の工場現場での実践の姿をフィールドワークとして確認するためであった。本稿で は、ここで見聞したフィロソフィ教育の一端とアメーバ経営について、まず研修内容をレポー トした上で考察を加えていきたい。
筆者の対応責任者となっていただいたのは、国分工場の九州フィロソフィ教育推進部責任 者園田博昭氏である。また、九州フィロソフィ教育推進部副責任者兼川内フィロソフィ教育 推進課責任者の中村俊彦氏にもお世話になった。
最初に京セラ国分工場の概要について確認しておく。京セラ国分工場は、鹿児島県霧島市 国分山下町 1-1 にあり、1972 年(昭和 47 年)に設立された。現在の工場長は野元浩一郎氏で、
従業員は 2009 年に公表されている数字では 4753 人である。主にファインセラミック部品、
半導体部品、自動車部品、電子部品を生産している3。
2009 年(平成 21 年)に一般に公開されている情報によると、ファインセラミックの優 れた電気特性を活かしたコンデンサ、高周波モジュール、高純度な人工水晶を応用した水晶 関連製品などを製造して水晶関連製品などを製造している。特に、小型・高容量・高機能化 を推進した「積層セラミックコンデンサ」は、携帯電話、PC をはじめとするデジタル家電 などの需要に伴い生産を増強しているとのことである4。
国分工場は、鹿児島県出身の創業者稲盛和夫名誉会長が鹿児島に立てた工場の中でも、
1969 年(昭和 44 年)設立の川内工場につづいて二番目に古い。
また、隼人工場にも行ったので、隼人工場の概要も確認しておく。隼人工場は、鹿児島県 霧島市隼人町内 999-3 にあり、1983 年(昭和 58 年)に設立された。現在の工場長は和田 幸男氏で、2009 年に公表されている情報では従業員数は 680 人である。隼人工場では、薄 膜技術を応用した各種先端 OA 機器等の開発・製造を行っており、主要製品はサーマルプリ ントヘッド、インクジェットヘッド、イメージセンサー、液晶ディスプレイである5。
同じく 2009 年に公表されている情報によれば、インクジェットヘッドは、本格量産を開 始し、世界最速の印刷速度を実現した新製品の開発にも成功したとのことである。また、
3 鹿児島県庁 HP「産業労働」の中の京セラ国分工場の紹介を参照。http://www.pref.kagoshima.jp/af03/
sangyo-rodo/syoko/genkiokoshi/gyousyu/denki_denshi/documents/78_kyoukokubu.pdf。 最 終 ア ク セス日、2013 年 12 月 20 日。
4 同上
5 鹿児島県庁 HP「産業労働」の中の京セラ隼人工場の紹介を参照。http://www.pref.kagoshima.jp/af03/
sangyo-rodo/syoko/genkiokoshi/gyousyu/denki_denshi/documents/80_kyouhayato.pdf
http://www.pref.kagoshima.jp/af03/sangyo-rodo/syoko/genkiokoshi/gyousyu/denki_denshi/docume
LED をバックライトの光源として採用し、低消費電力化と完全水銀フリーを実現した液晶 ディスプレイ等、地球環境にも配慮した製品の開発も行っているとのことである。また、走 査側と本体側の両基盤にガラスを用いて、視認性と耐久性に優れたガラス/ガラス構造の タッチパネルの供給も始めているとのことである6。
本稿の執筆にあたって筆者は、国分工場及び隼人工場の現在(2013 年 10 月)の従業員数、
またその従業員の年代の分布、職階ごとの分布、正社員とパートの比率、男女比、事業部ご との従業員数について質問した。だが、これらの情報は会社の機密情報にあたるという理由 で公開されなかった。上述した従業員数は、現在は多少変動があると思われる。
2.研修の概要
2-1(1):「感謝」をテーマとした研修
本節では筆者が実際に見学したことを中心に記述していく。そして、事実の記述の後に一 日単位で、見聞した京セラの経営、社内教育についての考察を記していく。
平成 25 年 9 月 25 日(水曜日)、第 1 日目。職員の挨拶を受けた後、自己紹介。S 氏に連 れられて、月末の工場内の様子を見に行った。国分工場では半導体、自動車部品を製造して いるということを知る。
13 時から 15 時 30 分までは、新しく始まったばかりのフィロソフィ研修を見学した。こ れは、今年の 10 月に始まったばかりの研修で園田氏の話しでは非常に「ソフトな」な研修 であるとのことだった。研修の参加対象者は 50 人から 60 人とのことだったが、実際の参 加者は 45 人くらいだった。
班が 9 つに分かれており、5 人で 1 つの班ができていた。研修担当者 N 氏の挨拶の後、
研修が開始された。この日の研修のテーマは「感謝の気持ちをもつ」であった。最初の課題 は研修担当者に促されて、「24 時間以内に起きた良いこと」を班のメンバーに話しながら自 己紹介をするというものだった。
S 氏の話しではこの担当者の N 氏は 1 年少し前に担当者になったとのことであった。元の 職場は製造現場であったこと、また工場での教育担当の人は製造出身の人ばかりだと後に聞 いた。つまり、フィロソフィ教育を専門にする人を社内で育成しているのではなく、自ら製 造現場で働いていた人の中から適性があると見なされた社員が、教育担当に任命されるとい うことであった。自己紹介は 13 時 35 分くらいまでだった。
その後、2 時間程度、研修が続いた。研修は自分で考える時間と班のメンバーに話して自 己開示していく時間が交互に取られていた。研修の目的は単に研修を受けて、日常では考え ないことを考えるというものではなく、その研修での気付きを日常の仕事での実践に活かす というものだった。「感謝の気持ちをもつ」というテーマの研修は「第 1 部:感謝について 考える」、「第 2 部:感謝に気付く」、「第 3 部:感謝をあらわす」の 3 部から構成されていた。
2-1(2):アメーバ経営について
この日は続いて、アメーバ経営について S 氏にレクチャーして頂いた。アメーバ経営は 元々、稲盛和夫氏によって経営者意識をもった社員を育成するために作られたシステムであ
nts/80_kyouhayato.pdf。最終アクセス日、2013 年 12 月 20 日。
6 同上
る。アメーバ経営については既に専門的な研究書が出ているので、本稿では必要以上の詳細 な言及は行わない。詳細は参考文献に挙げている、三矢裕『アメーバ経営論―ミニ・プロフィッ トセンターのメカニズムと導入―』東洋経済新報社(2003 年)を参照されたい。
2-1(3):見学したフィロソフィ研修についての考察
ここでは、この日に見学した研修全体を通じての筆者の印象と考察を述べたい。「見学し た」と断ったのは、私の見学したものは多くのタイプのフィロソフィ研修の中の一つにすぎ ないからである。
全体の印象は非常に穏やかなものであった。午前中、S 氏から説明を受けていたが「議論 からトークへ」、「考える研修から感じる研修へ」というコンセプトで考えられた研修である ということが理解できた。S 氏の話しではこれまでのフィロソフィ研修は、議論が中心で、
また感じるというよりは考えることが中心のものが多かったとのことだった。また、過去に はそのことによって、ギスギスした雰囲気になることもしばしばあったとのことであった。
筆者はこの研修の様子を見学し、研修の目的は、社員間でのお互いの信頼感を高めること と同時に一人一人が職場や自分を取り巻く環境に感謝の気持ちを持つようになるきっかけを 与えることであるという印象をもった。研修の第一義的な目的は「感謝の気持ちをもつ」こ とであったであろうが、全体の話し合いも重視されているところから、社員相互の信頼感の 醸成にも役立つ研修でもあるとの印象をもった。
全体を通じての筆者の感想は、京セラでは社を挙げて従業員が「感謝行」というべきもの を実行しているのだろうかというものだった。「感謝行」とは、自分の周囲のものやこと、
自分に起こる全てのできごとに感謝をするというものである。最近、よく聞くものである。
これは、ただの素朴な人生論ではなく、昨今のスピリチュアルブームとも密接な関係のある ものである。感謝をすることによって、精神レベルが上がる、自分の精神の次元が上昇する、
幸運を手に入れるためには感謝行の習慣が必要であるというようなこともよくいわれる。団 体として行っているところもあるし、この種の本は隠れたブームである。
勿論、常識のレベルで考えても―何も宗教的な事柄に言及しなくても―不平不満を常に抱 いて生きている人よりも、周囲と自分に起こることに感謝をして生きている人の方が、良い 雰囲気を醸し出し、その結果、周囲から受け入れられ、人間関係も好転し、幸運に恵まれて 行くという正のスパイラルが生まれるというのは理解できよう。こういうことは、ことさら、
大がかりな調査をして証明する問題ではない。普通の常識的な感覚で話を進めるべき事柄で ある。余程の唯物論者や心の持ち方と人生の相関関係というものへの一切の興味を持たない 人物、または闘争的な思考しかできない人物を除いて、極めて常識的な意味で「感謝」の念 をもつことの人生における重要性は誰しもがどこかでは理解していることであろう。
だが、その甚だ素朴な意味での感謝の重要性の認識を超えて、昨今の日本では過剰なまで の「感謝行」が一部でブームになっているような気もする。筆者はその現象を必ずしも批判 的に見ているわけでもないのだが、この「感謝行」は「ありがとうと 100 回いうと運が開ける」
とか「いつも感謝をしていれば人生で成功する」といったような言説とともに流布される。
経営者や社会的な指導者層を主たる読者として対象にしている雑誌にも必ずこの種類の記事
が出ている7。隠れたベストセラーにもこの種の本は多い。著名人によるこの手の本も繰り 返し出版されている。
また「感謝」は宗教的な分野のみならず、自己啓発の分野とも親和性がある。名刺に大き く「感謝」、「ありがとう」などと書いている人にも、筆者はここ数年よく出会う。礼状に細 かな文章は書かずに筆で「感謝」などと大きな文字で書いて送ってくる人も筆者が知る限り でも何人かいた。経験的にいえば―甚だ非科学的な表現であるが―中小企業の経営者やいわ ゆる「やり手のビジネスマン」タイプの人に好んで「感謝」や「ありがとう」という言葉を 使う人が多い。
端的にいえば、人々の支持や良好な人間関係があってこそ、その職で成功するという職業 の人々の中に、このような言葉を好んで使う人が多い傾向があるように感じる。また、最近 ではオリンピック選手やサッカー選手などでも、優等生的な発言をするものは、よく周囲へ の感謝を口にする。いずれにせよ、この思想―といえば大袈裟だが―の特徴は、現世での「成 功」、「幸福」、「充実した人生」と「感謝」がセットになっていることである。筆者自身は、
今日までの人生での経験からも、日常で感謝の念をもって生きることと、現実世界で起きる 現象には相関関係があると考えている側の人間ではある。だが、現実の「成功」、「幸福」と「感 謝」の念を持つこととに相関関係を見出せない人々にとっては、他人から「感謝しなさい」
といわれることは、内面への他者からの介入と映るだろうとも考えられる。
本稿では「感謝行」の是非には言及しないし、昨今のこのブームの背景を探るということ は主題ではない。だが、この研修を見学して、京セラは社員研修の中に自然と従業員が「感 謝行」を行う仕組みを入れているのではないかと感じた。これは別に悪いことだということ をいいたいのではない。「周囲の人々に感謝する」、「自分の境遇に感謝する」、「仕事に感謝 する」、「上司(部下)に感謝する」という極めて個人の内面レベルのことを、会社の研修 を通じて自然に従業員に意識させていくことが、会社全体の中の人間関係を柔和なものとし て、社外の人にも京セラ社員が良い印象を与えることに資するのであろうと思われた。他の 企業ではなかなか日常的にこのような社員研修をしてはいないであろうと考えられるから、
精神性を重視する稲盛和夫氏が創業した京セラらしい研修であると感じた。
また、もう一つ別の感想ももった。結論からいえば、これは筆者の考え過ぎであった。こ の研修が、そこまで意図したものでないことは、その日の夜の S 氏、N 氏との懇親の席での 話しで分かった。だが、この感想についても述べておく。この研修は考える時間(自分の心 を深く掘る時間)と周囲に自己開示する時間が交互に繰り返されて行ったのであるが、これ は何か既にその分野で有用性を認められているメソッドを応用したものかもしれないと筆者 は考えた。感謝する人を思い出して紙に書き出していくというところに、内観の手法が取り 入れられているのか、と筆者は考えたのである。
だが、これはそこまで考えられているわけではないとのことであった。内観にも様々な流 派があるが、共通しているのは自分の意識を深くまで掘っていくものである。元々は「身調 べ」という真宗の修行方法であったが、今日では宗教色を抜いた心理療法としても積極的に 行われている。流派による違いはあるが、身近な人に自分が今日までしてもらったこと、自 分がその人にしたことなどを思い出して紙に書きだしていくというようなことがなされる。
7 例えば、経営者や組織の指導者層を主たる読者として想定している、致知出版社の月刊誌『致知』などには、
このような記事が多く掲載されている。
対象は主に親など身近な人で行うのが一般的であるようだ。
筆者は最初、社員の研修のなかで、それとは気付かないうちに、部分的に内観の手法が取 り入れられ、参加者が、いつの間にか自分の意識の深い部分に入っていって、今日までの人 生で周囲の人にしてもらったことへの感謝の念を沸きださせることまで想定して組みたてら れた研修かと考えた。だが、それは考えすぎであったようで、特に既存のメソッドは取り入 れていないとのことであった。もし、ここまで考えられているならば京セラのフィロソフィ 教育に、ある種の脅威を感じるところであったが、特にそれは意識されていないということ であった。
2-2(1):「ドキュメントアメーバ経営」について
2 日目の 9 月 26 日は「ドキュメントアメーバ経営」という DVD を視聴した。前日、園 田氏から大まかなひと月のサイクルについてお話を伺っていたが、社内社員研修用の DVD でその流れを学んだ。
続いて、午後からは伊藤謙介顧問(第 5 代目社長で元会長、元相談役)の講演の DVD も 視聴した。伊藤顧問は京セラの創業時からのメンバーで、稲盛氏とともに半世紀以上仕事を して来られた。
その後、川村相談役(第 7 代目社長で前会長)の「現場トーク」の様子の DVD を視聴した。
現在、川村相談役は全国の工場現場をまわって若手社員との交流を積極的に進めておられる とのことであった。筆者が視聴したのは、9 月 6 日に国分工場に来られた時の様子であった。
この中では 39 歳、社歴 15 年(97 年、中途入社)の班責任者の社員の発表があった。
2-2(2):考察
ここでは 2 日目の考察を記しておく。この日は企業文化と経営理念の重要性について考え た。京セラが創業以来現在まで発展し続けているのは、大企業病にならない努力が絶えず、
継続的になされてきたからだということが理解できた。また、京セラのアメーバ経営のシス テムは、リーダーが自然に育つような仕掛けがなされているということが理解できた。
「ドキュメントアメーバ経営」の中では、基本的なひと月の流れが紹介されていたが、生 産予定組みが上意下達ではなく、アメーバのメンバー全員が意見をいえるというのは重要な 部分であると考える。このことによって、メンバー全員が計画段階から経営に参加している という実感をもつことができるのであろう。
DVD にはある工場の実際のアメーバの活動が紹介されていた。その中で、予定組みをす る時期の社員に密着していた部分があった。製造現場の社員がメーカーを訪問し、京セラの 側から新しい製品の提案をすることも多くあるようであった。この部分も初めて知った部分 であった。
京セラは基本的に受注生産の企業だと思っていたが、メーカーから受注する過程の中に、
新製品をメーカーに提案している部分があった。リーダーは、市場動向を読みながら、自分 の部署が製造している製品が後、どのくらい必要とされつづけるのか、市場に出回るのか、
つまり、自分の部署が製造する製品が利益を出し続けるものなのかということを考えていな ければならないということである。
つまり、受注生産といっても必ずしも受動的なものではないということである。絶えずリー ダーは自分が生産している製品がこの先、どうなっていくのか、途中で利益を生まなくなる
危険はないか、どのくらい必要とされ続けるのかということまで考えて仕事をしている。受 動的どころか極めて能動的に仕事をしている。全ての京セラ社員にこの能動的な仕事への姿 勢が求められるなら、リーダーは自然に仕事の中から生まれてくることになるのであろうと 考えられた。
朝礼の場面もあったが、この場面では、京セラの中には自然にリーダーが育っていく仕組 みが構築されているということを強く感じた。また、どの場面を見ても社員同士のコミュ ニケーションを円滑にする仕組みがあることが分かった。この円滑なコミュニケーションと いうことも重要である。いくらリーダーが育つ風土と仕組みがあっても、従業員同士に円滑 なコミュニケーションを心がける空気がなければ、すぐに社内はより積極的で能動的なリー ダーと、上意下達で命令されたことをそのまま実行するだけの受動的な社員に分かれるだろ う。しかし、実際にはそうなっておらず、どの職階の従業員も経営者マインドをもっている。
少なくとも経営者マインドを全員が持つことが望まれていることは、全ての従業員に浸透し ている。このことと社員間の円滑なコミュニケーションとの関係は大きなものがあると思っ た。
伊藤顧問が京セラの経営理念・企業文化の継承に危機感をもっておられることも、様々な ことを感じさせた。伊藤顧問は京セラ(当時は京都セラミック株式会社)の創業以来の会社 の全ての時期を見てこられたからこそ、一貫して京セラは一般的な意味での大企業、安定志 向にあぐらをかくということがなかったことが発展の源泉だったと考えておられるのであろ う。経営理念の重要性についての話しもあったが、これこそが最も重要なものであると感じ た。
経営理念による企業文化は一朝一夕にはできない。理念を紙に書いただけでも文化はでき ない。理念を幹部が口先だけではなく率先して実行し、全従業員にまで浸透して受容されて こそ、企業文化ともいうべきものが醸成されるのであろう。京セラの企業としての強さの秘 密はまさに、この長年かかって大事に育てられてきた企業文化にこそあるとの認識を改めて もった。
そして、これは「文化」とも関係があるのだが、組織のあり方も重要である。さきに確認 したように京セラといえども、会社全体を見ると緩やかにはピラミッド構造を形成してい る。完全なフラット型組織ではない。事業部はあっても事業部が独立した会社のようになっ ているわけではなく、大きくみれば京セラは全体としてはピラミッドになっている。だが一 般の会社組織との違いは、それぞれのアメーバが独立採算になっていること、月ごとの仕事 の計画をアメーバごとにリーダーが中心になって立てていることである。
先ほど、京セラではあらゆるところに、リーダーが勝手に生まれてくる仕掛けがなされて いると感じたということを述べたが、このアメーバ組織こそ、リーダーが育成される仕組み である。アメーバ経営について重要なのは、ただ組織が切り刻まれて小さくなっているとい うことではない。どのアメーバも採算意識をもっていて、自分たちがいくらの利益を出して いるのかいつも意識をしている、意識せざるを得ない仕組みになっているということである。
だが、京セラという組織を考える上で筆者が最も重視しなければならないことは、組織の 切り刻み方でも、リーダーが出てこざるを得ないものの考え方を日ごろからするという企業 文化でもないと筆者は考えるに至った。勿論、それらは極めて重要な要素なのだが、果たし てフィロソフィとアメーバ経営のみで、従業員から自然にリーダーが輩出されるのであろう か。筆者はそうは考えない。最も、京セラの強みを考える時に重視しなければならないのは、
不況時でも人を解雇しないという会社の考え方ではないかと筆者は考える。このことは、実 は今回、筆者が本稿の中で一番重視することである。この点についてはここではこれ以上の 言及はせず、全体の考察部分で改めて検討したい。
2-3:月末の朝礼見学
最終日、9 月 30 日は、朝、8:00 からのサーマル事業部の朝礼を見学させていただいた。
月末なので緊張感がただよっていた。既に各課ごとの達成率が放送で発表されているところ だった。朝礼では、毎日、前日までの各課ごとに達成率が発表されるとのことであった。
この日は午前中で帰ることになっていた。朝礼の後、川村相談役も出席されていたコンパ の DVD を視聴した。部責の挨拶から始まっていた。S 氏によれば、自分で研修するよりも、
事業部のコンパなども見る方が、実際の現場の様子が分かるとのことであった。コンパにも いろいろな仕掛けがありながら、自然な感じで全体が進んでいると感じた。川村相談役は創 業 8 年目に入社され、入ってしばらくして係責になったとのことだった。若手社員への話し ぶりから、非常に製造現場に精通しておられる方だということが分かった。
その後、S 氏に全体的な話を最後に伺った。S 氏の話では、フィロソフィ教育推進部だけ では、全社員の教育はできない、一番ベーシックな部分はフィロソフィ教育推進部が知識の 部分を教えるが、その他の細かい部分は事業部の研修に任せているとのことであった。これ は前日の部分でも記述した通りである。S 氏自身、4 から 5 つの事業部をみたが、少しずつ 事業部によって違うという感想を持たれたとのことであった。
また、「技術は見て盗む」という考えは京セラにはないということも伺った。何事も社員 間でオープンに共有するという企業文化があるということである。生産に関しては、前月、
多く作った時に、次の月が楽なわけではないとのことであった。筆者は、前の月に予定以上 に頑張れば、次の月は、少し余裕をもって始められるのかと思ったが、そのようなことはな いとのことであった。月の計画は全く新しく始まるからである。
前日の工場見学の時にも聞いたことであったが、京セラではまず、班でおぎない、それが 無理な場合、より上位の部署でおぎなえるようになっているとのことであった。必ず一つ上 の階層で補えるようになっているということが理解できた。だが、たまには工場全体でも、
追いつかない時は、事業部ごとに別工場の同じ事業部と相談することもあるとのことであっ た。サーマルの例でいえば、隼人工場と岡谷工場が相談して、最後、必要な個数を作ること もあるというようなこともあり得るとのことであった。この日の午前中で研修は終えたが短 期間であったが、様々なことを教えて頂いた。
3.フィロソフィ教育の持つ意味
さて、前節までは筆者が研修した内容を再現して紹介するとともに、重要な事柄について 個々に考察をしてきた。本節では前節までに述べたことを全体として考察したい。
筆者の持つ問題意識は以下の通りである。まず 1 つ目は京セラ社員にとってフィロソフィ 教育の持つ意味は何かということである。そして次に、それに付随することであるが、フィ ロソフィ教育が京セラの企業文化、経営理念の継承にどのように役立っているのか(役立っ てきたのか)である。そして、アメーバ経営とフィロソフィ教育との関係について考察した い。便宜上、3 つの関心事として挙げたが、これは同じことを、角度を変えて検討するとい うことでもある。
まず、京セラ社員にとってフィロソフィ教育とは何かという問いからから検討したい。筆 者が実際に見学したのは、数あるフィロソフィ教育のうちの一つだけであったが、教育担当 の S 氏の話しや、視聴させて頂いた DVD の内容から様々なことを考えた。一言でいえば、
京セラ社員にとってのフィロソフィ教育とは、京セラ社員になっていく過程で絶対的に必要 なものであり、そして絶えず京セラ社員であることを確認するためのものではないかと思わ れた。
このことは研修の種類が無数といって良いほどに多く、研修は新入社員向けのものから経 営幹部向けのものまであり、さらには、どの階層の社員も何度も何度も教育を受けることか ら、そう考えることができよう。通常の企業の社員教育、または社員研修と京セラのフィロ ソフィ教育との質的な違いは、京セラの場合、仕事に関する知識や技能についての研修だけ ではなく―勿論、京セラにも事業部での研修など仕事に必要な知識や技能に重きを置いたも のも当然あるのだが―人間としての生き方や人生に対する態度に関する研修が多いというこ とであろう。
例えば新入社員向けのフィロソフィ教育では、京セラという会社のものの考え方を学ぶ。
また中堅向けや幹部向けであれば、それぞれの職階に応じての人間としての総合力・指導力 をどう身につけるかという観点からの研修がなされている。特にフィロソフィ教育推進部が 中身をつくる研修は、仕事に必要な知識より、人間としてのものの考え方に焦点が当てられ た研修が多い。知識や技能の伝承のための教育のみであれば、自己開示や他人の話しに耳を 傾ける研修は不要かもしれない。また、感謝について考え、感謝を表すというような研修も 不要かもしれない。筆者が見学した研修がそうであったように、京セラのフィロソフィ教育 では、社員同士が職階や性別、専門を超えて自己を開示し、生き方について語り合うという 内容のものもある。
これはまさに、フィロソフィ教育が京セラ社員になっていくための過程に必要なものであ ることを示している。そして、京セラにおいては「これで終わり」という段階は、社員であ る限りはない。いくら職階が上がったとしても、絶えず京セラ社員であることを確認するた めに、フィロソフィ教育が大きな役割を果たしている。最高幹部でも研修を受けるというこ とは、完全に教える側にまわれる社員はおらず、全社員は常に学び続けることによって、京 セラ社員であり続けるということである。
次にフィロソフィ教育が京セラの企業文化、経営理念の継承にどのように役立っているの かについて検討する。これはある意味ではいうまでもないことであるが、フィロソフィ教育 なくして京セラの企業文化の継承はあり得ないということを確認した。意識的に教育がなさ れているという部分が重要である。京セラの場合、長く組織にいる人間が、その組織の文化、
暗黙の行動規範、価値観を、時間をかけて何となく体得していくというものではない。京セ ラにおいては意識的に京セラの企業文化を継承させるためにフィロソフィ教育が行われてい る。
技術に関して、京セラでは「見て盗む」ということがないという話を聞いたことは既に紹 介した。これは、職人技を年配者から教えてもらえず、後輩、若年者は自分で努力して時間 をかけて身につけていくというのではなく、全てがオープンに公開されているということで ある。どちらかといえば、日本の企業社会―特に製造業や職人技に関するもの―では「目で 見て盗む」ことが重視されているなかで、京セラはそういう考え方を採っていない。この考 え方は、フィロソフィについても同じではないかと思われる。
これは、つまり熱心な人はよく学び、そうでない人は全く学ばないというように、フィロ ソフィの習得及び仕事の価値や人生について考えることが個々の社員の自主性に任せられて いるのではないということである。勿論、より細かい部分、空いた時間に自分たちで勉強会 を始めるなどということは、個々に任されているとしても、京セラではフィロソフィ教育に 関しては、どの職階の人は何時間以上受けるようにと時間も内容も決められている。京セラ は自主的にリーダーが育ってくる企業ではあるが、そのための仕掛け、そのための仕込みと いうものは、幾重にもなされているということである。ここに大きな特徴がある。
伊藤顧問の講話の中に経営理念・企業文化の重要性についての話しがあった。本稿で紹介 したものである。数字(実績)が氷山でいえば、水面に出ている部分に例えられており、氷 山の水面下に沈んでいる部分が経営理念であるとの話しがなされていた。つまり、京セラ社 員は数字(実績)の重要性のみを先に、頭から叩き込まれるのではなく、氷山の水面下の部 分(京セラの経営理念・企業文化)の重要性を繰り返し学ぶからこそ、採算意識をもったリー ダーがあたかも自然に生まれてくるように輩出してくるということになっているのであろ う。
勿論、これは、実際には一体のものであろう。氷山は水面下の部分も水面の上の部分も一 つで同じ氷である。だから、日常の仕事を進める上での意識としては、ここからは経営理念・
企業文化の話し、ここからは現実の採算勘定の話しというのではないだろう。だが、水面下 の部分を絶えず重要視しているからこそ、結果としてどの職階においても経営者マインドを もったリーダーが、次々と輩出されてくるのであろう。
最後にアメーバ経営とフィロソフィ教育との関係について検討する。巷間、よくいわれる ようにアメーバ経営と京セラフォロソフィは車の両輪である。ということは、フィロソフィ 教育がなければアメーバ経営は機能しないといっても過言ではないということである。フィ ロソフィ教育がなされずとも、勝手に京セラ社員にフィロソフィが浸透していれば別だが、
膨大な数の従業員に教育なくして勝手にフィロソフィが浸透するとは考えられない。という ことは、フィロソフィ教育がなければ、京セラの独特の経営管理手法であるアメーバ経営は 機能しないということである。
勿論、形だけ組織を細かく刻むことは可能かもしれない。また、その小さく切り刻んだア メーバのリーダーに独立採算の意識を持たせるということも可能かもしれない。だが、実際 には組織を小さく切り刻んでお互いに競争をさせれば、普通はお互いがお互いを敵視して、
企業内で足の引っ張り合い、大げさにいえば「万人の万人に対する闘争」となりかねない。
事実、社長の突然の思いつきで、形式的にアメーバ経営を導入する企業の多くが失敗に終わ るのは、「アメーバ経営とフィロソフィは車の両輪」という大原則を理解していないからで あろう。
京セラではアメーバは独立採算組織ではあっても、一方においては会社の一部分でもある ということが充分に認識されている。したがって、アメーバ間では熾烈な競争がなされてい ても、同じレベルのアメーバで時間当り採算の競争に敗れたアメーバのメンバーが半年単位 で解雇されたり、そのアメーバのリーダーがずっと出世の途を閉ざされたりするということ はない。ここがフィロソフィとの関係で重要なところである。一人一人が経営者意識を持ち つつも、部分は全体のためにという考え方が浸透しているからこそ、京セラではアメーバ経 営が機能している。部分と部分が対立して全体が疲弊するということがないように様々な工 夫がなされている。その意味でもフィロソフィを絶えず社員に浸透させ、確認させる教育担
当部門の存在の意味は非常に大きなものがあるといえよう。
これまでの考察を総合すると筆者は、京セラにおけるフィロソフィ教育の持つ意味は、京 セラ社員が京セラ社員になっていく過程で絶対的に必要なものであること、経営理念及びそ こから派生する企業文化の伝承を考える上でも欠かせない重要なものであること、そして、
アメーバ経営を日々の仕事の現場で機能させるために欠かせない役割を果たしていることで あるとの結論に至った。これが一般の企業の社員研修、社員教育と京セラにおけるフィロソ フィ教育との決定的な違いである。
4.なぜ、従業員にフィロソフィ教育が受容されるのか
前節で、京セラ社員にとってのフィロソフィ教育の持つ意味合いについて考察した。本稿 の結論めいたことを前節で述べたが、前節での筆者の考えが本稿の結論ではない。この節で は筆者が根本的に抱いている疑問について考察したい。
それは、何故、京セラの社員にフィロソフィ教育が広く受容されているのかということで ある。実際のところ、教育を受けることが社員の多数派に本当に受容されているのかどうか は、不明といえば不明である。社員の意識調査を行っていないからである。
だが、ここでは広く受容されているという前提で、それは何故なのかということについて 考察したい。実際には京セラ社員の多数もしくは一定の割合にフィロソフィ教育は全く受容 されていないということになれば、話しは根底から崩れてくる。だが、筆者は京セラにおい ては、フィロソフィ教育を受けることが社員に広く受け入れられているという前提で議論を 進めていく。京セラが創業以来 50 年以上も一度も赤字を出さずに、常に黒字を出し続けて 発展しているという事実から、フィロソフィ教育が京セラの企業文化の伝承を考える上で欠 かせない重要なものであること、そして、アメーバ経営を機能させるために欠かせない役割 を果たしているとの見解は、そうは間違ってはいないであろうからだ。
筆者は、京セラ社員にフィロソフィ教育が受容されている理由はいくつかあると考える。
一つにはフィロソフィそのものが持つ力である。創業者稲盛和夫氏の考え方が、働いていて 会社の中で直面すると考えられる事態について、どの局面でどのようにものを考えるべきで あるかということが『京セラフィロソフィ』にまとめられている。さらに、それを稲盛氏自 身が解説した『京セラフィロソフィを語る』も出版されている。社員はこれらを繰り返し学ぶ。
直接、稲盛氏の考え方を学ぶものだけがフィロソフィ教育ではなく、事業部ごとの実務的 なもの、また筆者が見学したような自己開示と他者理解に関わるものなどもある。全ての教 育のテキストが稲盛氏の著作と講話ということではない。だが、それらの教育も究極的には 京セラという企業で仕事をしていくにあたって必要なものの考え方を身につけるためのもの である。
だが、いくらフィロソフィそのものが魅力的なものであっても、人はそれが自身の人生と 関連性がないものであれば、積極的に学ぶだろうか。筆者は京セラ社員がフィロソフィ教育 を受けることを積極的に受け入れ、フィロソフィを身につけ、京セラ社員としての自覚を常 に高めて行っている理由はもう一つ別に極めて重要なものがあると考えている。それは、京 セラにおいては雇用が、常に守られており、安心して働ける基盤があるということである。
また、京セラでは、一部の主婦のパートを除き、殆どが正社員であり、あらゆる職種を外注 せずに、全て「京セラの一員」が京セラの仕事をしている。このことの持つ重要性を充分に 考慮せずに、京セラのフィロソフィ教育の意味を考えることはできないと筆者は考える。
先に少しふれたが、不思議なことに、このことはあまり稲盛氏や京セラについて書かれた ものでも言及されていない。稲盛氏について書かれたものは、稲盛氏の特殊なフィロソフィ やカリスマ性ということばかりが強調され過ぎているきらいがある。雑誌の記事なども殆ど がそうである。書籍も「人間稲盛和夫」に焦点を当てたものばかりである。また、アメーバ 経営について書かれたものは、その仕組みを説明しているものが多い。雇用を守っているこ との重要性については、どこでも、あまり言及されていない。これは、大企業だから当然、
雇用が守られていると考えられており、敢えて言及されないのかも知れない。だが、今や大 企業でもリストラの嵐である。有名な電機メーカーや自動車メーカーが、突如として人員整 理を平気でやる時勢である。本来であれば、京セラの雇用政策については、もっと積極的か つ肯定的に論じられても良いはずである。
筆者は京セラの特徴について論じる際、雇用を非常に重視していることを抜きにしては何 も論じることはできないと考えている。今回の研修でも、そのことをとても強く意識した。
つまり、京セラフィロソフィが社員に受容されるのは、安心して働けるという大前提がある からだという見方である。裏を返せば、雇用が不安定になれば、フィロソフィは充分に浸透 しないか、従業員(の一部分)は、教育を受けても、面従腹背になる恐れが常にあると筆者 は考えている。
京セラではフィロソフィ教育によって、ある意味においては個々人を「正しい考え方」に 導くことを行っている。一方的な刷りこみではなく、考える過程、自己開示の過程、他者と のコミュニケーションの過程を踏みつつも、一定の方向に全体が導かれていることまでは否 定できないだろう。しかし、大筋ではこれらは社員に受け入れられている。フィロソフィ教 育が一種の洗脳や上からの一方的な権力によるものでなく、社員が積極的に受容しているも のであるならば、受け入れる側にもそれなりの理由があると考えられる。
なぜ、このように考えるのか。筆者は日本の組織について、また働き方について、雇用不 安のある組織(働き方)か否かという対立軸を縦軸、何かしらの明確なフィロソフィ(理念)
があって、それが絶えず従業員に教育されているか否かということを横軸にして、この問題 を考えてみた。
抽象的に表に示すと以下のようになる。以下はその説明である。
←(ある)フィロソフィ(的なるもの)があり、絶えず確認されている(ない)→
上:雇用が守られている・安心して働ける 下:雇用が守られていない・雇用不安がある
この図では、左上が京セラである。雇用が守られ安心して働ける組織であり、フィロソフィ 的なるものがあり、絶えず日常的に確認がなされている。そして、京セラ以外にはなかなか
京セラ 戦後の大企業(終身雇用、年功序列)、公務 員、教員など
ブラック企業、不法な行いを洗 脳して従業員に強いる企業・組 織、ネットワークビジネス
中小・零細企業、個人経営、非正規労働者、
任期制の専門職、独立事業主
このような組織は見当たらない。右上が一般的な日本の安定した組織のイメージである。日 本型経営が崩壊して久しいといわれるが、戦後の基幹産業の男子正社員や公務員、教員など がこのカテゴリーに入る。定年まで働ける組織の正社員といえばイメージがつかめよう。つ まりは、雇用が安定しており比較的、安心して働ける組織である。
だからといって、このカテゴリー(右上)は特に理念の教育が繰り返しなされるわけでは ない。勿論、歴史の古い大企業には企業文化があり、それらの文化や理念的なものは研修を 通じて継承されてきてはいるのだろうが、京セラほどの頻度で、どの職階もそこの組織の所 属であることを確認する教育を実施している企業はないだろう。むしろ、この右上のカテゴ リーに属する組織は、自由な気風などをもって組織文化とするところが多かったように思わ れる。リベラルな気風を誇りとする官庁、役所など現に今もそうであろう。
そして次に右下のカテゴリーである。これは戦後でも決して雇用が安定していなかった中 小・零細企業で働く人々や今日の派遣社員、任期制で雇用されている専門職、独立事業主な どのカテゴリーである。ここは広く組織で働いている人と、そうでない人を含ませたが、要 するに個人の内面の自由度が比較的高い代わりに、雇用不安があるグループである。雇用不 安を絶えず抱えて生きざるを得ない人々に果たして内面の自由がどれほど担保されているの かは難しいところではある。だが、属する組織の考え方をあまり身に付けなくても良いとい う意味で括った。
そして、最後が左下のカテゴリーである。これの代表的なものは昨今、社会問題になって いるブラック企業である。メディアでプラスイメージのあるカリスマ経営者が精神論を若手 社員に吹き込むが、実際には社員を切り捨てにする組織などがその典型例である。会社以外 でも詐欺集団などがここに含まれる。理念をもった反社会的団体(暴力団)や不法行為をあ たかも社会的な意味があるように組織の構成員に思わせて働かせる組織もここに入る。ネッ トワークビジネスなどもこのカテゴリーに入れておく。つまりは自分たちのやっていること を日ごろから「正しい」と従業員、構成員などに教育している団体、企業をこのカテゴリー に分類した。
このカテゴリーは最も社会から批判されるべきカテゴリーだが、新自由主義の嵐が未だに 吹きやまない中で、今の日本では無視できないほどの勢力になっていると筆者はみている。
ここは実際には、その組織の構成員が組織のリーダーの考えに従っているように見えて、面 従腹背であることも多く、そうでない時は洗脳されていることも多いと思われるカテゴリー である。
縦軸と横軸の特徴について考えてみよう。縦軸は雇用が安定している(守られている)-
安定していない(守られていない)軸である。戦後社会では、高度経済成長期以降、長きに わたり、いわゆる日本的経営8続いてきたとされる。だが、実際には終身雇用、年功序列、
企業内組合などを特徴とする要素によって守られてきた労働者は基幹産業の正規男子労働者 のみである。全ての労働者が、この日本的経営の恩恵に浴してきたわけではないことは、多 くの論者によって指摘されている。この軸で見れば、現在の京セラは戦後の大企業(終身雇 用、年功序列)、公務員、教員などが同じ上の側に入る。安心して働けるというのが、一番 の特徴である。
8 アメリカの経済学者・経営学者ジェイムズ・アグレベン(1926-2007)が『日本の経営』(1958 年、日本版 はダイヤモンド社刊)の中で終身雇用、年功序列、企業内組合の 3 点を日本的経営の特徴としてあげた。
京セラも大企業であるから当然ではないかとの見方もあろうが、京セラは最初から大企業 だったわけではない。零細企業、中小企業を経て大企業になったのであり、創業当初は、従 業員の雇用を先々まで守る確約までは稲盛氏もできなかった。有名な話だが、創業 3 年目の 1961 年(昭和 36 年)4 月末、11 人の高卒新入社員の反乱を契機にして、京セラの経営理 念がつくられた9。当然といえば当然であるが、最初から今のように安心して働ける会社だっ たわけではない。成長の過程で従業員の待遇は徐々に良くなってきたのである。さらに、大 企業だからといって今では中長期的な雇用が全社員に確実に保証されているわけではない。
契約社員や派遣社員などの全労働人口に占める割合は年々上がる一方である。
したがって、この雇用が安定している(守られている)-安定していない(守られていな い)軸においては、戦後のある時期までの大企業(終身雇用、年功序列)と今では公務員、
教員などしか、完全には右上のカテゴリーに入れられないかもしれない。この軸においては、
京セラは創業直後の数年目以降は、不況時にも整理解雇をしないという基本的な方針ができ ているので、安定雇用側に分類することには問題はないだろう。仮に毎年、成績の悪い社員 を下位 15%は確実に解雇する、または不況時に現場の労働者を一斉に解雇するということ をしていれば、この軸で上の側に入れることはできない。
この軸で下の側に入るのは、象徴的にいえば、雇用が不安定な組織やそこで働く人々の全 部が入る。実のところ、多くの日本人の労働者がこのカテゴリーに入っていると考えられる。
現在、問題になっているブラック企業、不法な行いを洗脳して従業員に強いる企業・組織の みならず、戦後から今日までの中小・零細企業、個人経営、非正規労働者、任期制の専門職、
独立事業主など全部、同じ側である。端的にいえば、先を見通すことが困難な状況の中で働 き(働かされ)、絶えず生き残っていくために強烈なストレスとの闘いを強いられるカテゴ リーである。
実際、日本人の労働者(及び中小企業経営者を含む)の大半は、このカテゴリーに含まれ ていても、経済成長時は、全体のパイが大きくなったので、中小・零細企業の従業員でも、
そこまでは深刻に考えなくても良かった。だが、今、このカテゴリーに入っている労働者は、
先に希望を見いだすことが困難である。稲盛氏が創業してから数年間のかつての京セラはこ ちら側だった。今の京セラは基本的な雇用が守られているので、当然、このカテゴリーには 入らない。
筆者はもう一つ、社会全体の組織を、フィロソフィ(的なるもの)があり、絶えず確認さ れているかどうかということで「ある」-「ない」軸を設定した。これは本稿を執筆してい る途中で筆者が独自に考えた軸である。この軸で分ければ、左上の京セラと左下のブラック 企業、不法な行いを洗脳して従業員に強いる企業・組織、ネットワークビジネスなどは同じ カテゴリーに入る。
このようなことを述べると、京セラのような真面目な生き方やものの考え方を追求してい る企業組織と左下の反社会的集団をも含む組織を同じ側に入れることに対して、ただちに強 烈で激しい批判が予想される。だが、筆者は何も京セラを昨今、問題になっている理念をもっ たブラック企業と同一視しているのではない。組織の構成員の気持ちを統一する努力がなさ れているという部分には共通点を見出すことができるという意味である。
何よりも、この問題―組織が構成員に考え方を教えることの是非―を考えるにあたって
9 稲盛和夫『稲盛和夫のガキの自叙伝』(文庫版、日本経済新聞社、2004 年)p.79 参照。
は、共有する価値観が「良い」ものか「悪い」ものかが最も大事な部分である。京セラは何 よりも「人間としての正しさ」を基準として行動することを従業員に対し教育し、卑怯な振 る舞いを許さないということを厳しく教えている。したがって、価値観の共有の努力がなさ れているグループを一括りにすることへの反論もあるかもしれない。だが、社会に存在する 組織で、自ら「我々は悪の哲学を信奉する」ということを公に掲げる組織などはない。どの 組織の「価値観」も少なくとも、その創業者や主催者、または構成員にとっては、主観的に は「正しいもの」である。その意味で、京セラと左下の組織群に全くの共通項が見いだせな いとはいえない。つまり左側のカテゴリーで上(京セラ)と下を分けるのは、現実に従業員、
構成員、メンバーの大半が幸福になれているかという点である。
この軸で見れば、戦後の大企業(終身雇用、年功序列)、公務員、教員などの側と中小・
零細企業、個人経営、非正規労働者、任期制の専門職、独立事業主などは同じ側に入る。雇 用や所得が安定しているかどうかという違いがあっても、所属組織から構成員が価値観を、
それほどまでには教育されない、集団で同じようなものの考え方をしないで良いという意味 において共通項がある。勿論、創業を江戸時代に遡ることのできる老舗企業や旧財閥系の大 企業などには、脈々と引き継がれてきた企業理念があり、それらが継承されてきたというこ とは、ある種の「教育」が長きにわたってなされてきたからだとも言えよう。社是といった ものや家訓といったシンプルなものも広義においては「フィロソフィ」といえるだろう。
だが、筆者が述べたいのは、ここでは、組織の構成員が日常的に教育を受けたり、個人よ りも全体を優先させたりするような考え方、内面の価値観に属する部分を統制されていたか どうかという部分で分けているということである。そう考えれば、右の側に入る上下のカテ ゴリーは、仕事さえ人並みにしておけば、それほどの組織全体の価値観の体現までを日常的 に望まれなかったグループという意味で共通項がある。大学の教員なども典型的にここに入 る。雇用が安定していた時は右上、今の任期制教員は右下という感じであるが、―少なくと も、思想弾圧のあった戦前ではなく、戦後においてという意味であるが―内面の自由を組織 に強要される頻度が少なかった職業ということはいえよう。個人事業主、職人、芸術家(アー ティスト)、学者などは雇用や収入不安があり、それにともなう悩みは多くとも、内面の自 由は保証されていたカテゴリーということもできるだろう。
まとめに入りたい。京セラにおいてフィロソフィ教育が従業員に積極的に受容されている のかという問いへの筆者なりの回答(仮説)は、フィロソフィの内容が魅力的であると同時 に、雇用が守られているからこそ安心してフィロソフィが学べるということである。少し補 足すると、そもそも、京セラフィロソフィの中には、大家族主義的な経営の考え方が入って いる10。したがって、ことさら雇用問題にこだわる必要がないという反論があるかもしれな い。つまり、フィロソフィ自体の中に最初から、社員を大事にする会社だということが含ま れているがゆえに社員は、こぞって自ら安心してこのフィロソフィを学び、自身も体現しよ うと考え、リーダーとなっていくのだと簡単に説明できるかもしれない。
だが、今や雇用の安定と安心した会社員生活が保証されている組織は少数派である。数年
10 『京セラフィロソフィ』手帳のⅡ「京セラフィロソフィ」の 1.「経営のこころの」5 つ目に「大家族主義で 経営する」という項目がある。この中には「私たちは、人の喜びを自分の喜びと感じ、苦楽を共にできる家 族のような信頼関係を大切にしてきました。(中略)これが信じあえる仲間をつくり、仕事をしていく基盤 となりました。家族のような関係ですから、仲間が仕事で困っているときには、理屈抜きで助けあえますし、
プライベートなことでも親身になって話しあえます」とある。
前まで安定していると見なされていた企業でも一斉に大量解雇を行うことは珍しくない。そ して、少しこの節でふれたが、表向き良い理念を掲げ、実際には若年層の従業員を使い捨て にする企業の多さに政府(厚労省)もようやく重い腰を上げて調査に乗り出したほどの社会 問題になりつつある。このような現今の日本社会において、まずは雇用を死守するというこ とを経営者と経営幹部が明確に意識しており、従業員にそのことが充分に伝わっていること は、特筆されるべきことであろう。
反論、批判を承知で、もう少し踏み込んでこの問題に言及すると、筆者は京セラといえど も、雇用を死守しなくなった瞬間に、雇用不安を抱える従業員はフィロソフィ教育を受容し なくなるのではないかとの仮説を持っている。つまり、京セラにおいては、フィロソフィと アメーバ経営は車の両輪といわれるが、アメーバ経営を機能させるフィロソフィ教育も、そ の裏側に社員の会社への信頼があるからこそ受け入れられているという側面があるというこ とである。京セラが伸びて来たのは、ハングリー精神と戦闘的なまでの仕事ぶりと、社員の 結束である。事実、本稿で紹介したように創業メンバーの伊藤顧問は、京セラの大企業病を 危惧している。アメーバ経営はそもそも、いつまでも京セラを中小企業の集合体のようにし ておくために編み出された側面が強い。経営への全社員の参加がうたい文句だが、それは民 主的な職場を作るためというよりも、社員全員が責任意識を持つために導入された側面が強 い。勿論、全員が責任意識を持つということと、民主的な組織であることが矛盾するわけで はない。
筆者は、本稿の執筆過程で様々に思考したが、今の京セラはある意味において、非常に難 しい問題を抱えているとも考えられる。大企業でありながら、大企業病にならず、大企業で ありながら、中小企業の集合体であり続け、その一方で本当の創業初期の中小企業のような 雇用不安を従業員に与えないということを両立させなければならないからだ。大企業病を阻 止するだけであれば、いつも従業員に究極の緊張感―降格や出世の途を閉ざすのみならず、
解雇の危機感をいつも持たせる―を与え、本当に明日は食って行けないかもしれないという 危機感を与えることが有効かもしれない。外資系金融企業のような人間の使い方で全体の底 上げを絶えず追求し、水準を保つ方法もある。しかし、京セラにおいてはそのような方法を 採ることは、今までもなかったし、今後もないであろう。
また、本当に中小企業だった時のような厳しい状況に人為的に戻せば、大企業病は止めら れるだろう。だが、京セラでは、現実には大企業でありながら大企業病にならない方法が模 索され続けている。仮の話だが、今後、京セラ内部で大企業病が生産性の低下につながった という論が力を持ち、社員の殆どを契約社員にしたり、4 割程度を任期制の社員にしたりす れば、フィロソフィ自体が力を失い、フィロソフィ教育自体が社員に受容されなくなるであ ろう。京セラにおいては、経営理念の中に「全従業員の物心両面の幸福を追求」が謳われて おり、フィロソフィの中には「大家族主義で経営する」が入っているので、今のところそれ はあり得ないと筆者は考えてはいる。
かつて稲盛氏は、学生からの「…社員の方が、『いろいろな質問に対して困ったときは、
稲盛名誉会長のフィロソフィが書かれている冊子に戻って、そこから答えを導き出そう』と いうことを、何度もおっしゃっていました。それを聞いて、社員の皆さんにも稲盛名誉会長 のフィロソフィがとても浸透しているなと感じました。しかし、社員の方が稲盛名誉会長を 崇拝しすぎて、50 年後や 100 年後に京セラが変われない体質の象徴にもなりうる危険性も 含んでいるなとは感じました」という問いに対して「…物事を判断する時に、京セラフィロ