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PNGチャイニーズ今昔 -- 南太平洋の都市の肖像 (特集 チャイニーズ・オン・ザ・グローブ)

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PNGチャイニーズ今昔 -- 南太平洋の都市の肖像 (

特集 チャイニーズ・オン・ザ・グローブ)

著者

塩田 光喜

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジ研ワールド・トレンド

202

ページ

19-22

発行年

2012-07

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00003926

(2)

白人巨大スーパーの消滅と

漢方抗マラリア剤

  異変に気がついたのは一九九四 年の乾季八月のことである。シド ニーを発ったポートモレスビー行 きエア・ニューギニーのジェット は年間降水量三〇〇〇から五〇〇 〇 ミ リ の パ プ ア ニ ュ ー ギ ニ ア ︵PNG︶ で、 そ こ だ け 年 間 降 雨 量一〇〇〇ミリのポートモレス ビー周辺の茶褐色の大地を見降ろ しながら、滑空していった。   ポートモレスビー郊外のジャク ソンズ・エアポートで入国審査を 受けると、私はトランクを転がし て、空港の外へ出て、タクシーを つかまえる。   ﹁ボロコのドヴ・ホテル﹂   行き先を告げると、タクシーは 発進する。   ドヴ・ホテルは、カトリック教 団が経営する自炊式のアパート型 ホテルで 、国中に散らばるミッ ション・ステーションからファー ザー達がモレスビーに出てくる時 のための宿泊所として建てられ た。したがって、宿代がきわめて 安い。 一泊二〇キナ ︵八〇〇円︶ で、 広いリヴィングとキッチン、その 奥にベッドルームというデザイン がとても快適だ。しかも、商業セ ンターのボロコのショッピング ・ アーケードまで五分という至近の 距離。難を言えば、セキュリティ ︵治安︶に若干問題があることだ。 一二棟ほどのアパートメントを 囲ってブロック塀と鉄柵が張り巡 らされているが、当地ではラスカ ル︵悪漢︶と呼ばれているギャン グ達に何度も襲撃されている。   私は旧知のジュリアンに鍵をも らうと、荷物をリヴィングにおい て、ボロコのショッピング・アー ケードへと向かう。   ボロコの中心にデンと大きな スーパーを構えるオーストラリア の海運・流通・プランテーション の大手、バーンズ・フィルプ︵以 下、BP︶に海員毛布と料理のた めの食料を買いに行くのが、ドヴ にチェックインして最初に行うお 決まりのルーティンだ。   BPは一九世紀、南西太平洋の 島々︵フィジーやパプアやソロモ ン諸島など︶がイギリスやオース トラリアの植民地になり、統治官 吏やプランター︵入植者︶や黄金 のプロスペクター︵探鉱者、 山師︶ が入ってくると、彼らの生活用品 や商売道具をオーストラリアから 供給することから始めて、大企業 となった南太平洋交易の草分け だ。   ポートモレスビー近 傍 は気候的 にオーストラリア北部と同様、乾 燥サバンナ気候で、良い港である ことに加えて乾燥していることが 白人に選好されて、パプア統治の 拠点とされた。乾季には夜の気温 は二〇度以下になる。というわけ で、海員毛布となるわけだ。   いつもの通り、BPに出かけた 私は、アッと驚いた。   ﹁無い!﹂   あのBPのでっかいスーパーが 無い!   代わりに鎮座していたの は、平べったい、ブロック建ての 白い建物だった。   中へ入ると、ファーマシー︵薬 屋︶だった。シティー・ファーマ シーといい、チャイニーズ︵と現 地では呼ばれるので、基本的には この語を使う︶が経営し、中国本 土から薬を仕入れているのだとい う。売りは漢方の抗マラリア剤だ そうだが、漢方の抗マラリア剤な んて生まれて初めて聞いた。それ を一袋買い、念のため、白人経営 のジョンストンズ・ファーマシー で、いつものクロロキンも買って おく。   そしてBPに次ぐ海運 ・流通 ・ プランテーション大手の白人企業 のスティームシップスで食料を 買って帰る 。海員毛布は買えな かった。

PN

ャイ

南太平洋

肖像

特 集

チャイニーズ・

オン・ザ・グローブ

(3)

一九八五年ポートモレスビー   私がニューギニア高地で人類学 のフィールドワークを行うため 、 P N Gを訪ねた一九八五年一月 は、独立からまだ一〇年も経って いなかった。まだ一〇年足らずと いうべきか 、もう一〇年近くが 経ったというべきか、難しいとこ ろだが、経済は植民地時代からの 白人達 ︵オーストラリア人資本︶ が握っていた 。前出のBPやス ティームシップスのような大企業 から始まって、ファーマシー︵薬 局︶ やステーショナリー ︵文具店︶ に至るまで、白人企業や白人営業 の店が、大動脈から毛細血管に至 るまで押さえていた。

古参チャイニーズのビジネス   ポートモレスビーはまだ、コロ ニアル・タウン︵植民地の町︶の 風貌を色濃く残していた。   当時の人口は一〇万強。 その内、 P N G人一〇万、白人一万、チャ イニーズが一〇〇〇、日本人が一 〇〇人だと言われていた。   その頃のチャイニーズは、太平 洋戦争前に広東や福建から、最初 は白人経営のプランテーションの 苦 力 として渡ってきた移民の子孫 達だったが、苦力はとっくに卒業 して、都市でビジネスを営むビジ ネス階層にのし上がっていた。   彼らの特権的ニッチは、今も昔 もレストランだ。 最高級はマルコ ・ ポーロ・レストランに代表される ゴージャスなレストランで、白人 やチャイニーズのビジネスマンや PNG人政治家や高級官吏を顧客 としていた。私がここに入るのは 日本大使館の人や大手商社の駐在 員の方に奢ってもらう時で、パプ ア湾で採れた白身で肉の締まった バラムンディのあんかけ︵これは とびきり旨い︶や時には一匹のカ ニをゆでたのをボールに張った水 で手をすすぎ、身をせせりながら 喰うという特上のぜいたくもさせ てもらった︵一食五〇キナはした と思う︶ 。   私がフィールドからポートモレ スビーに帰ってきた時、友人の西 沢君を誘って行くのが、 イースト ・ ボロコのカントン ・ ヴィレッジ ︵廣 東村︶で、ここは豆腐一丁の上に 小さなエビをのせ、ショウユをか けて 、鉄板で炒めた ﹁鉄板豆腐﹂ が名物だ。ジュウジュウ音を立て る鉄板豆腐にはしをつけると、 ﹁あ あ、モレスビーに帰ってきたんだ な﹂と実感する。一皿数キナほど の料理で、ここには白人もチャイ ニーズも来るが、中から上級のP NG官吏やビジネスマンがワント ク ︵同族︶を一〇人ほど連れて 、 散財する場でもあった 。言わば 、 中級のレストランと言えるだろ う。ここは二〇キナで満腹にして くれた。   モレスビーの昼飯はタウラマの 安飯屋で、ロング・スープという 名のラーメンのビーフン版だ。二 ∼三キナ、サイドディッシュに肉 や野菜を炒めたのをつけても四∼ 五キナだ。ただし、 油が悪いので、 時々胸が悪くなる。ここのオヤジ は鶴のような痩 身 の老人で、店先 の椅子に座って、ゆっくりキセル を吸っていた。   タウラマはまた、チャイニーズ 経 営 の ス ー パ ー が 二 軒 あ っ た 。 ﹁スーパーセーブ︵超お安い︶ ﹂と ﹁スーパーバリュー︵超お得︶ ﹂ と いう名の、BPやスティームシッ プスより安い食品をモレスビーの PNG人サラリーマン向けに売っ ていて、夕刻には、帰宅途中のP NG人でごった返した。こことB Pやスティームシップスの違い は、ベーカリーがないことで、焼 き立ての旨いパンが食べたけれ ば、BPやスティームシップスへ 行かねばならない。逆にBPやス ティームシップスにはない、森永 の真空パックの豆腐やインド製の カレー ・ パウダーが揃えてあった。 そして、最大の違いは、BPやス ティームシップスのフロア半分を 占める家電製品のコーナーがない ことだった。

●古参チャイニーズと日本人

  ポートモレスビーのチャイニー ズは皆、ビジネス階級であったか ら 、身なりもリュウとしていた 。 顔立ちも日本人と変わらない。だ が、しばらくすると、向こうから 歩いてくるのが日本人かチャイ ニーズか、私には一目でわかるよ うになった。顔付きが全く違うの だ。   私の判別法はこうだ。顔に一分 の隙もなければ 、チャイニーズ 。 彼らに比べると、日本人は顔の真 ん中にドカーンと穴が空いてい る 。私もそうだったに違いない 。 思うに、この違いは、我々日本人 は国があるのは空気が存在するの と同様に自明 、と無意識の内に 思っているのに対し、チャイニー ズは国などというのは一個のフィ クションで、いつ失くなるかわか らない代物だとこれも無意識のう ちに思っている所から来るのでは

(4)

ないだろうか。   彼らチャイニーズのほとんどが オーストラリア︵主としてクイー ンズランド州のブリスベーン︶に 親族と不動産をもち、自らもオー ストラリア国籍を持ち、いざとな ればいつでもオーストラリアに移 れる態勢を整えていた 。そして 、 インターナショナルスクールや ミッション・スクールで英語で初 等教育を受け、中等教育はオース トラリアのボーディング・スクー ル ︵寄宿学校︶ で、 高等教育はオー ストラリアの大学で受けていた 。 そして、彼らはマンダリン︵北京 官話︶はもとより、広東語も福建 語も話せない。   西のヨハネスバーグ、東のポー トモレスビーと並び称されるよう に、失業率七〇%とも八〇%とも 言われるポートモレスビーはきわ めて治安が悪い。エクスパトリエ イトと呼ばれる外国出自の白人や チャイニーズや日本人などPNG 人とは明らかに顔立ちが異なる居 住者は、夜は外を歩けない。強盗 に遭う危険性がきわめて高いから だ。昼でも危ない。海外青年協力 隊︵ちなみに、PNGに女性隊員 はいなかった 。︶ の隊員が 、協力 隊のオフィスを訪ねてバディリの バス停で降り五分の間にラスカ ル・ギャングに遭い、文字通り身 ぐるみはがされて全裸でオフィス に駆け込んだこともあった。   私の知人のチャイニーズ・ビジ ネスマン︵彼は高級レストランを 経営し、貿易業を営み、ナマコの 買付を行っていた 。︶ に 、 なぜこ んな危ないところでビジネスを やっているのか質ねたことがあ る。彼は眉ひとつ動かさず、言下 に﹁ハイ・リスク、ハイ・リター ン﹂と言ってのけた。   危ない所だけに、逆にオースト ラリアなどでは稼げないようなリ ターンをもたらしてくれるビジネ ス上のニッチが存在するのであ る。そして、 チャイニーズ達には、 ニッチを探り当てる独特のビジネ ス嗅覚が発達し、リスクを冒して 大胆にチャンスを取りに行く逞し さが備わっていた。 天性のリスク ・ テーカーなのである。東京の指示 ばかり待っている日本人ビジネス マンが束になっても敵わない。

﹁西部の街﹂マウント・ハー ゲンと PNG ナショナリズム   私のフィールドであるニューギ ニア高地のインボング族の最寄り の町マウント・ハーゲン︵一九八 五年時点で人口一万人強︶の西の 入り口ワギ・パレードのバス停に は、 ハーゲンより西の南高地州 ︵人 口二〇万人︶ 、エンガ州 ︵人口一 五万人︶ 、西高地州西半分 ︵人口 一〇万人︶からコーヒー豆を積ん だトラック ︵トヨタ ・ダイナー だ!︶ やハーゲン ・ タウンにショッ ピングに来る人々を載せたマイク ロ・バスや幌付きトラックが午前 中に続々と横付けし 、午後には 人々を載せて散って行く。   バス停の反対側には、PNG屈 指の豪商シートー家の経営する シートー・クイの巨大な木造の卸 の店︵ここで、村々の万 屋は店で 売る米、缶詰、コンビーフ、コー ラ 、灯油 、冷凍肉を買っていく︶ を初めとするチャイニーズの大き な卸屋がズラリと並んでいる。   周りに後 背 地 を持たない政治都 市ポートモレスビーとは異なり 、 四五万の後背地とそこで産出され るコーヒーによって支えられてい るマウント・ハーゲンは、ビジネ ス ・バイブレーションの脈打つ 荒々しい﹁西部の町﹂だ。人口一 万強の町なのに、オーストラリア の大銀行、ウエストパックと AN Zが支店を構えているのは、その 旺盛なビジネス活動の証である。   一九八五年六月、私が初めてマ ウント・ハーゲンのカガムガ空港 に足を踏みおろす前日、そのウエ ストパックが銀行強盗に遭ってい た!   ポートモレスビーがのんび りした南太平洋のポート・タウン に見える程、ハーゲンの町は荒々 しいダイナミズムにあふれた町 だった。   だから、そこにおける人種間関 係も荒々しかった 。PNGでは 、 どこでもそうだが、スーパーのレ ジの出口には回転式の鉄のバー ︵遮断棒︶が付いていて 、棍棒を 持って立っているガードマンが出 てくる客をチェックする。私のよ うなエクスパトリエイトはノー ・ チェックだが、村々から出てきた 女達︵網袋を肩にかけたり、ひた いに掛けたりしている︶や若い衆 は 網 袋 や ポ ケ ッ ト を 入 念 に ボ ディー・チェックされる。まるで 泥棒扱いである。レジ奥に座って い る 、 チ ャ イ ニ ー ズ の マ ネ ー ジャーが鋭い視線を飛ばす。ハー ゲンで仲良くなったロッジの主人 であった私の友人は、ハーゲンの ビジネスマンの息子達は 、イン ターナショナルスクールから帰っ てくると帳場に座らされるのだと 言った 。﹁そこで 、ビジネスを一

PNGチャイニーズ今昔

―南太平洋の都市の肖像―

(5)

から学ぶんだ。白人もPNG人も 我々の敵ではないのは、小さい頃 からみっちりビジネスのイロハを 学んでいるからなんだ 。﹂と打ち 明けた。そう、ハーゲンのチャイ ニーズには、独特のビジネス文化 があった。   だが 、そのビジネス文化には ニューギニア高地人のプライドを 傷つけるものがあった。ニューギ ニア高地人は戦士民族である。彼 らのプライドは ﹁素朴な石器人﹂ という言葉で表象されるイメージ と裏腹に、きわめて高い。武力で 自分たちを打ち負かした白人や自 動車や電器製品などきわめてモダ ンな製品を作っている日本人には 一目置くが、チャイニーズにはビ ジネスでは敵わないが商業の民よ り、俺達、戦士の子孫の方が高貴 なのだという感情が渦巻く。イン ボング族の間では、商売は上手い が吝 嗇 な男は 、陰で ﹁チャイナ﹂ と呼ばれていた。語尾を上げる独 特の発音だ。怨恨と軽蔑と羨望の 混じったアンビヴァレントな感情 を酵母にして、きわめて酒精分の 高いナショナリズムが、PNGの 特に初等・中等教育を受けた人々 の間でゆっくりと醸成されていっ たのである。

新参チャイニーズと

PNG

ビジネスマンの勃興

  BPが撤退した後に空いたニッ チを埋めたのは、東南アジア華僑 の大資本だった。TSTとかパピ ンド︵パプア+インドネシアでパ ピンドだ 。︶といった大スーパー がBPの顧客だった白人やPNG 人政治家・高級官僚・ビジネスマ ン層を奪い取った。   TSTやパピンドはBPやス ティームシップスと違って、タウ ン︵ビジネスセンター︶やボロコ ︵商業センター︶ には出店しなかっ た。ハイウェイ沿いに鉄のフェン スを張り巡らし、広大なパーキン グを設定し、その奥にスーパーを 建てるのだ。こうして車を持って いる上流層︵ポートモレスビーで は人口のごく一握りだ︶のみが入 店できるという仕組みである。街 をぶらつく失業者の冷やかし客を 排除できるメリットがある。ポー トモレスビーは二一世紀には人口 三〇万に増えていたから、そうし た選別を行っても客は十分確保で きたのだ。   同じ頃、再び広東や福建から小 金を持った大陸チャイニーズが どっと押し寄せてきた。鄧小平の 南巡講話の後のことだ。   彼らは賄賂を使って不法入国し てきたと噂された。彼らは道路沿 いのレンガ建ての倉庫の一角にレ ストランを構えた。顧客は成長し てきたPNG人ビジネスマンだ 。 彼らは昼時 、倉庫脇に車を止め 、 レ ス ト ラ ン に 入 っ て い く 。 メ ニューは二〇種くらいあり、白御 飯かチャーハンの上にどっさりと 牛や豚や鶏をショーユと大量のグ ルタミン酸ナトリウム ︵味の素︶ でローストやグリルやブレーズし た肉を載せて供される。一〇キナ から一二キナというのが相場だ 。 味の素恐るべし!   その旨味は急 速にPNG人の舌を征服しつつあ る。その尖兵は、即席ラーメンと 大陸チャイニーズのレストラン だ。   客はガツガツと飯をかっこみ 、 ゴクゴクと喉を鳴らして水を飲 む。腹をマンタンにすると午後の ビジネスに跳び出していく。 だが、 知り合いをみつけるとテーブルを 共にしてビジネス・トークが始ま る 。こうしたレストランはイン フォーマルなビジネスの場なの だ。大陸から一攫千金を目指して PNGに乗り込んできた新参チャ イニーズと勃興しつつあるPNG 人のビジネス階級が相乗して、レ ストランに古参のチャイニーズ ・ レストランにはなかった慌ただし さと活気と熱気を与えている。 ︵私 は新興のPNG人ビジネスマンの モデルは、チャイニーズではない かとにらんでいる。 ︶   もはや一九八五年のコロニア ル・タウンの面影はない。二〇〇 六年のポートモレスビーは今や 、 金・銅・石油・ガス・熱帯材・マ グロといった豊かな資源の開発に 沸騰する新興国のビジネス ・シ ティーだ。それと共に、格差は急 激に広がる。   二〇〇九年、パプアニューギニ アの主要都市で、 燎 原 の火の如く、 反チャイニーズ暴動が広がった 。 タイム誌の記者にドライバーはこ う言った﹁もし、PNGにチャイ ニーズを一掃する一団ができた ら、オレは真っ先に加わるぜ。俺 のブッシュ・ナイフを磨いて、一 〇も二〇も首を刎 ねるのさ︵TI ME誌 、二〇〇九年一二月七日 、 二七ページ︶ ﹂。 ︵しおた   みつき/アジア経済研究 所  貧困削減 ・社会開発研究グルー プ︶

参照

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1 Library, Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization (3-2-2 Wakaba Mihama-ku Chiba-shi, Chiba 261-8545). 情報管理 56(1), 043-048,

第4部 アジア太平洋地域協力への取組み 第19章 民 間レベルの協力.